1世紀キリスト教の源流を探り、21世紀のキリスト教を拓く旗手、N.T.ライト

N. T. ライト紹介(連載)

(質問者)「ライトの紹介に入る前に、ご自身がどのようにN. T. ライトを知るようになったか少し教えていただけませんか。」

(小嶋)「ではお言葉に甘えて。前置きですが、少し長くなるかもしれませんがご勘弁を。」

(質問者)「(牧師の話と言うのは放っておくとどうしても長くなるからなー。やはり言っとくか・・・。)えーと、できればなるべく手短にお願いします。三分くらいでいかがでしょう・・・。」

(小嶋)「(しぶしぶ)分かりました。では・・・。初めてN. T. ライトの名前を耳にしたのは1999年でした。確か英国留学中の私の友人がメールをくれル度に、何回もライトの名前を出していたので、記憶に残りました。その友人に大分影響を与えている人なのだなーと。面白いことに後から気が付いたのですが、その前年私の在米時からの知人で、某キリスト教系大学の教授をしていた方から、G. B. Caird, New Testament Theology (Clarendon, 1994) と言う本を頂いたのです。
私は神学校での学びは長かったのですが「新約聖書学」の領域は大変浅い学びしかしていませんでした。それで新約聖書の終末論や黙示文学的表現等の部分など特に解釈的に難解なことにはあまり首を突っ込まない、余り突き詰めない、というスタンスでした。
たとえばよく「再臨が近い・・・」とか教会の集会の中で話題にされたり、米国留学最初の(超保守的な神学の)学校では「空中携挙」を文字通りに受け取って、それを色々ジョークにまでしていました。一応彼らの話に合わせてはいましたが内心はとてもじゃないがそんな理解にはとてもついて行けない、と感じていました。それで今の自分には終末論や黙示表現は解釈不可能、とても手が出せない、とあきらめていたのです。
ところがケアードのこの本を読んでいるうち『目からウロコ』の思いを何度もしました。どう解釈して良いか見当もつかないような難解な箇所を見事に紐解いてくれるのです。これで俄然「新約聖書学」の学びに火がつきました。先ずはケアードの次の本もと言うことで手にしたのがThe Language And The Imagery Of The Bibleというタイトルの本ですが、何と序文を書いていたのがN. T. ライトです。ケアードはライトの博士論文指導教授だったのです。しかもその序文の中に、ケアードの本によって私が悩んでいたような解釈問題から『救われる』経験をした人がいたことも知りました。えーと何分くらい経ちましたか・・・。」

(質問者)「まだほんの少し大丈夫です。」

(小嶋)「それで、その友人がライト、ライト、と盛んに言っていたのを思い出し、それからライトの本を読み始めたのです。一番最初に読んだのはThe Christian OriginシリーズのThe New Testament and the People of God(注:ライト読者はこの本を通称・略称でNTPGと表記する。)でした。なかなか読み通すのは大変でしたが、それ以上に先ほどのような『目からウロコ』が何回もあるので、全然苦になりませんでした。少なくとも2回は通して読みましたし、その後も何回も戻って来るライトに関するレファレンスのような本ですね。
その後は片っ端から・・・というと大げさですがライトの本を買っては読みました。The Christian Originシリーズは三巻まで出ていますがもちろん全部読みましたよ。それから非公式サイトのNTWrightPage.Comを見つけ新しい論文・説教・音声ファイル・動画ファイルがアップされる度にわくわくしながらダウンロードしました。まっ、先ずはこのくらいにしておきましょうかね。」

(質問者)「あのー時間が過ぎてしまうのですが、良かったらその『空中携挙』のジョークってどんなものかお話くださいますか。面白そうなので・・・。」

(小嶋)「例えば、みんなまだ若いですから異性のことや将来の結婚のことなど興味があるわけですよね。『空中携挙』は英語でラプチャー(rapture)と言うのですが、「俺たちゃずっと独身守るぞ」ってモテなそうな男子生徒たちが「バチェラー・ティル・ラプチャー(bachelor till rapture)」を略したBTRクラブを作っているような会話をしていました。
もっと本格的なジョークとしては、実際にはやりませんでしたが、寮の部屋に誰か一人が残って周りには誰一人いないような状況を作り、「もしや空中携挙が起こってしまったか」と思わせるような悪戯を考えたり。そんな他愛もないことですが・・・。

(質問者)「ありがとうございました。今後のライト紹介も余りアカデミックな話題ばかりにはまり込まないよう面白くお願いします。」

(小嶋)「(やれやれ難しい注文言ってくるなー)分かりました。まー努力はしてみますが・・・。お手柔らかにお願いします。」

(連載A)

(質問者)「今日は最初にN. T. ライトがどんな人物なのか。その辺から入りたいと思いますのでよろしく。どんな印象の方ですか。」

(小嶋)「プロファイル的なことはこのサイトの最初に書いてあるので重複を避けて言いますと、一番最初の印象は『学者』ですかね。実際社会に出て最初は大学で教えていたわけです。学風は私の印象では非常に綿密でソリッドという感じです。1991年にThe Climax of the Covenantというパウロ研究論文集を出していますが、それが良い例だと思います。しかしこの頃はまだライトは学者間で注目される存在ではあっても一般にはまだそんなに有名ではなかったと思います。1992年にThe Christian Originシリーズの一巻目であるThe New Testament and the People of Godが出され、その研究スケールの壮大さに多くの人がかなりインパクトを受けたと思います。その後学術的なものだけでなくより一般読者を対象にした本も出版され始めました。例えば手持ちの本の中ではFollowing Jesus (1994)なんかは教会会衆に向かって書かれたもので、非常に平易な英語と言うか、後から段々知るようになったのですが、とにかく言い回しやたとえや普通の英語を使っているのですが非常に話術が巧みなんです。だからかなり濃い内容のことを書いて(しゃべって)いても読者(聴衆)を圧倒しないで、むしろ引き込むように話す方だと思います。」

(質問者)『のらくらものの日記』のブロッガーさんがライト主教のジョークをリンクしていましたが、良くジョークもなさるのですか。」

(小嶋)「まあ英国国教会の主教ともあろうお方がしゃべるにしては砕けた感じの人といえるでしょうね。私がアメリカの神学校で学んでいた時の主教授でハーバードPH.Dの方がいましたが、さすがにその頃は自分の英語も十分ではなかったのですが、結構授業中にジョークを言ってくれるのですが、洗練され過ぎていて、数秒置いてから何人かの生徒がクスクスっと笑うのがやっとのジョークが殆どでした。しかしライト主教のジョークはもっと分かりやすいあったかい感じのものが多いですよ。その面でやはりアカデミックな世界から牧会に戻ったように、人の中にいるのが好きなんですね。」

(質問者)「(注:自分に「先生」を付けるのは変な感じですが自作自演ですのでご容赦ください。)先生が今まで一番面白い笑えたライト主教のジョークはどんなものですか。」

(小嶋)「NTWrightPage.Comの音声ファイルの中に入っていたと思うのですが、うる憶えですがこんな感じです。場面はダーラム大聖堂だったか別の大聖堂だったか、ライト主教本人ではないのですが、ちょうど主教かそんな立場の人が会堂から出てきた時、たまたま観光客の一団が近寄ってきたわけです。その時観光客のちょうど背後にニール(Niel)さんと言う立場は忘れましたが庭の管理人だったかがやってきたわけですね。さてジョークの落ちを予め説明しておくと、英語でひざまずくことをニール(Kneel)と言うわけですが、この立派ないでたちの主教さんが手を挙げて「ニール、ニール」とニールさんを呼んだのです。挨拶と言うかそんな感じでですね。ところが間に挟まった観光客の一団はこの立派ないでたちの主教さんが手を挙げて「ニール、ニール」と言うものだから、水戸黄門の『この紋所が眼に入らぬか』じゃないですが、それが儀礼なのかと思って思わずひざまずいてしまった、と言う笑い話です。」

(質問者)「なるほどそれは笑ってしまいますよね。さきほど学者が第一印象とおっしゃられていましたが、学者にしては砕けた感じの人、むしろ主教として人を相手にしているのが好きな方ということですね。ライトさんはみんなからどんな呼ばれ方をしているのですか。」

(小嶋)「色んな呼ばれ方をしていますが、私も英語圏に長く遊学していましたが、こんな呼び方もあるのかと言うのを幾つか紹介しましょう。先ずその前にライト主教は今や聖書学の分野で圧倒的な人気と言うか評判の方でして、4月16、17日とアメリカ、イリノイ州のホィートン大学を会場にライト主教の業績をテーマにした「ホィートン神学会議」が持たれるのですが、1100名の学者やその他の人々が集まります。予約チケット販売で参加するわけですが、チケットが手に入らなかった人たちが数百人もいたようです。余談ですが彼の業績を評価するために呼ばれている学者たちもまた凄いです。私が特に注目しているリチャード・ヘイズを始め、ジェレミー・ベグビー、ケビン・ヴァンフーザーとか、とにかくよくもこれだけの人たちを集めたなと言う感じです。さて、話を戻して、友人の学者などは彼を「トム(ミドルネームがトマスなので)」と呼びます。信徒の方はビショップ・トムと呼んだりします。普通はビショップ・ライトですがね。それから、これなんかちょっと面白いと思いますがthe good bishopなんて言い方する人もいます。

(連載B)

(質問者)「ではそろそろアカデミックな話題の方にも移って行きたいと思いますが、このサイトの最初のページに書いてあったことを少し説明していただきたいんです。先ず最初にライト主教は「特に『史的イエスの研究』第三波の旗手の一人」とありますが一体これってどういうことですか。」

(小嶋)「いやー、この紹介文は実は欧米でライト主教が紹介される時によく言われることでそれを借りて来てるので、どう言う意味かと問われると、ちょっと冷や汗が出そう・・・。最初にこんなこと言って申し訳ないんだけど、私は長年に渡って北米で遊学してきたのだけれど専門領域はと言うと宗教社会学や社会倫理の方なんですよ。だから新約聖書学については素人です。と言っても神学校も行っているし牧師もしているわけだから丸っきりの素人と言う意味ではありませんが・・・。あくまでアカデミックな「新約聖書学」の素人、と言うことで説明させてください。」

(質問者)「あーそうですか、「新約聖書学」の素人であるのに『N.T.ライト読書会』を始められたと言うことは、失礼な言い方ですが少し無謀と言うか・・・。いやすいません、そうではなくてきっと専門の方から紹介されるより丸っきりの素人である私たちに余計親切に紹介してくれる、と取った方が良いですね。変なこと言って申し訳ありません。じゃっ早速「史的イエス」と言うのは何か簡単に説明してくださいますか。」

(小嶋)「先ず混同しないように言うと、「史的イエス」と言うのは「イエスが歴史上の人物である」と言うことを指摘する用語ではないです。と言っても後からの説明のヒントになるかも知れないので一つ挿話を。 これは聞いた話ですけど実話のようです。ある牧師さんの息子が長年教会学校でお話を聞いてきた「イエス様」と言う方は何か教会の中だけの話だと思って聞いていたようです。それが中学校でしたか、高校になってからでしょうか、『世界史』の授業で「イエス・キリスト」なる人物が登場し、初めて「イエス様」が歴史上の人物であることを知った、というお話です。これって実は他にもありそうな話しでしょ。つまり「教会の中で話されているイエス様」が歴史上の人物としての「ナザレのイエス」と大分距離感を感じるような存在になってしまっていることを物語っていると思いませんか。」

(質問者)「私自身はイエス・キリストが歴史上の人物であることを疑って見たこともありませんが、確かに教会内で「イエスは・・・」と呼び捨てにしたり、「ナザレのイエス」と言うよりも圧倒的に「イエス様」ですね。もちろんイエス様は神様ですから、余り歴史上のどうのこうの・・・と言った話にはなりにくい感じがします。」

(小嶋)「実は「イエス」なるお方は、そのように歴史から切り離された「神様、イエス様」と言う信仰の対象として長く教会内で培われてきたのですね。ところが欧米でこのような「イエス像」に疑問を抱くような時代がやってきました。啓蒙主義の時代ですね。福音書が提示する奇跡を起こす「神の子イエス」が果たして本当だろうか・・・。学問の世界で先ずこのような疑問が醸成されていったわけです。もちろん文化的にはキリスト教の覇権はまだ崩壊していませんから、こんな疑問や研究はなかなか大っぴらにはできない時代でした。しかし啓蒙主義が覇権を握るようになり、「批評的(クリティカル)」な聖書研究が深まるにつれて、このような教会が受け継いできた信仰を根柢から崩すような研究が継承されて行くようになったのです。もちろんその過程では様々な葛藤や軋轢が研究者たちの中にもあったと思いますよ。この「史的イエス」あるいはイエス像の資料である福音書の批評的研究の歴史、約百年余ですが、をまとめたのがかの有名なアルバート・シュヴァイツァー博士の「史的イエスの探求」なわけです。

(質問者)「シュヴァイツァー博士って、あのアフリカで献身的に医療をした、ノーベル賞を受賞したお医者さんのシュヴァイツァー博士のことですか。」

(小嶋)「そうですよ。あのシュヴァイツァー博士です。とにかく彼の史的イエス研究の業績、特に「アポカリプティックなイエス像」の影響は今でも残っています。」

(質問者)「先生、突然カタカナで「ア・ポ・カ・リ・プ・テ・ィ・ッ・ク」と言われても何のことやらさっぱり見当もつきません。」

(小嶋)「いやー、そうでしょ。でもその訳語である「黙示」「黙示文学(的表現)」と言っても余り説明にはならないよね。連載の最初でちょっと書いたけど私も良く意味が分からないで悩んだ「再臨」とか「空中携挙」とか、つまり「世の終わりに起こる事柄」についての黙示(啓示)のことを指すのだけど、たとえば有名な聖書箇所としては「マルコ福音書13章」に書いてあるようなことですよ。」

(質問者)「そうすると『史的イエス』とは、批評的な新約聖書学で使われてきた学問用語で、『史的イエス研究』とは啓蒙主義以降に発展してきた学問なのですね。」

(小嶋)「おや、そんな簡潔にまとめられると何だかスッキリ聞こえてしまうけど。大体いいんじゃないかな・・・。それじゃ次はライト主教が『第三波』の旗手の一人と言うことだけれど、第一波とか第二波とかも含めて、どんな学者たちがいたのか、含まれるのか、どんな議論がなされてきたのかについてはライト主教自身の文章で読んでもらえるかな。『イエス』論文の最初にある「I. 「イエスとは誰か」・・・現代の問いかけ」に短いけどまとめてあるから・・・。

(連載C)

(質問者)「ちょっと読んでみたのですが、やはり私の知っている名前はシュヴァイツァー博士だけでした。後の名前はちんぷんかんぷんです。」

(小嶋)「そうだろうね。でもブルトマンやバルトの名前くらいは知っておいてもいいと思うよ。ところで『史的イエス』に関して、ブルトマンと言う人が非常に懐疑的だと言うような文章があったでしょ。憶えてる。」

(質問者)「(あれ、何か立場が逆になってこっちが質問される方になってきたぞ・・・)えーっと、ちょっとメモしておいた言葉があるのですが『信仰のキリスト』です。ブルトマンは『信仰のキリスト』が大事で、『史的イエス』は余り大事じゃない、と言っていたらしいですね。ところで『史的イエス』と『信仰のキリスト』は何がどう違うのですか。イエス・キリストが二つに分裂してしまうのですか。」

(小嶋)「さっき私はブルトマンの名前くらいは知っておいたほうがいいよ、なんて偉そうなこと言ったけど、ブルトマンが書いたものは殆ど読んだことはないのです。せいぜいあの有名な「非神話化論」くらいかな・・・。ちょっと道草になるけど、私が神学校で新約学入門を学んだ頃はブルトマンや批評的学者たちの著作を実際に読むのではなく、いかに彼らの手法が正統主義の信仰に対して破壊的であるか、いかにしてその影響を防ぐかを学んだような気がします。もうあれから30年くらい経つけど大分事情は変わってきましたね。今では私が学んだいわゆる福音派の神学校でも批評的研究を特別危険視したり、批評的研究の成果を頭から否定することはなくなったのではないかと思いますね。むしろリベラルと言われていた批評的学者たちと学問的土俵で堂々と渡り合う福音派の学者がどんどん出てきています。ライト主教はその最右翼と言っても良いでしょうね。」

(質問者)「先生、昔話の道草はそのくらいにして『史的イエス』と『信仰のキリスト』の違いについて簡単にお願いします

(小嶋)「あっ、申し訳ない。僕も年だね話があっち行ったりこっち行ったりして・・・。ブルトマンは、少なくとも私が間接的に読んで理解している限りでは、偉大な新約学者で、特に「共観福音書」の「様式批評」研究や、「新約聖書神学」を著した学者です。彼にとっての『史的イエス』の問題とは、『史的イエス』を描く福音書の表現形式と言うか世界観が「神話的」であるということ、つまり一世紀ユダヤ教と言う時代と文化に縛られていて、それを最早近代科学の時代に生きる人がそのままでは受け入れられない、と言う点にあったようです。また福音書の記述はブルトマンにとっては『史的イエス』に接近する資料ではなく、福音書記者が宣べ伝えた(ケーリュグマティックな)『キリスト』のメッセージに接近する資料なのです。だから問題はいかに「神話的な装いで記述されている福音書、新約聖書」から現代人でも受け入れられる、つまり時代や文化に縛られない普遍的(注:ライト主教のよく使う表現では「タイムレスな」)メッセージ・福音を提示できるか、だったのですね。それが『史的イエス』よりも『信仰のキリスト』が大事と言う主張になったわけです。このようなブルトマン的『史的イエス』と『信仰のキリスト』の分裂の意味が少しは説明できたかな。(やれやれこの文章を書くために大分あれこれ読む羽目になってしまった。少しはこっちの苦労も分かってもらいたいものだ・・・)。」

(質問者)「ブルトマンの問題意識はけっこう理解できます。現代人が処女降誕や奇跡物語りに躓くのは当然だと思います。私自身は余りクリティカルに考えられないし、信じない人を説得しろと言ってもちょっと尻込みしてしまいますね。ところで少し素朴な感想なのですが、ブルトマンのその「非神話化」と言う手法ですか、何か玉ねぎの皮むきみたいじゃありませんか。福音書が描くナザレのイエスから現代人に都合悪い様々な「線」や「色」や「背景」を剥ぎ取った後に残る『キリスト』って何か観念的というか、幻影のようなものになってしまわないかと感ずるのですが・・・。」

(小嶋)「そう言う印象はきっと避けられないだろうね。それがつまりライト主教の言うブルトマンやその弟子たちに付きまとう「仮現主義の弱点」と言うことではないかな。読んでもらった「イエス」論文に少しそのことが書いてあったでしょ。」

(質問者)「先生、今日の話は少し難しかったです。やや頭が痛くなりました。だから「仮現主義」とは何なのか今日は突っ込まないでおきます。」

(小嶋)「そうそれは残念だね、またの機会と言うことにしておこうね。(やれやれ助かった。突っ込まれたらまた苦労するところだった。)」

(連載D)

(質問者)「先生、『のらくら者の日記』のブロッガーさんが、ライト主教が辞めるというサプライズ・ニュースを載せていましたよ。ご存知でしたか。」

(小嶋)「びっくりしましたね。たまたまあるブログに「ブレーキング・ニューズ」の見出しで出ていたのを見たのですが、最初は誰かの冗談かと思いましたよ。早速あちこちチェックしてみたらもう色んなブログやウェッブで取り上げられていましたね。とにかく最初に見たブログでは、セント・アンドリュース大学の教授になる、と書いてあったので私の頭の中では主教をしながら大学でも教えるのかなと思ったほどです。本当に辞めるのですね・・・。残念と言う感じが今は半分以上かな。」

(質問者)「ちょっとこのインタヴューの趣旨からそれるのですが、何しろホットなニュースなのでなぜライト主教が辞められるのか、ちょっとその理由を推理してみてくださいますか。」

(小嶋)「本人の言だったか忘れましたが、同じ立場に七年以上留まらない、というパターンがあるのだとか。ダーラムの主教になったのが2003年だから、その分析で言うとそろそろ潮時だったのかもね・・・。言っておくけどこれはまじめな答えではないよ。そんな理由で主教をやめるほど簡単な事情でないことは確かだね。私が考える理由は少なくとも二つある。一つはニュース・リリースにあるように、ライト主教が著作やラジオやテレビのメディアを通してキリスト教界全体、さらには一般社会において「21世紀キリスト教」のスポークスマンになってきたと言うことがあるね。この役割が大きくなればなるほど、ダーラム司教区の牧会の仕事との時間調整・両立が難しくなったと言うことだね。一例を挙げると、このサイトの最初のページに紹介したようにライト主教の学術研究著作の一大プロジェクトである「キリスト教起源と『神』の問題」シリーズ四巻目となる「パウロ研究」が予告より遅れていて、今では出版は2012年にまでずれ込むのではないかと言われている。一巻目のNTPGが1992年、二巻目のJesus and the Victory of God(注:通称・略称JVGと表記)が1997年、 The Resurrection and the Son of God(注:通称・略称RSGと表記)が2003年と刊行されてきたわけだから、四巻目が難産している大きな理由の一端は主教の仕事の多忙さにあるのは明らかだろうね。」

(質問者)「主教の仕事がそれ程大変なのに、ライト主教はあちこちで(主に北米)よく講演していますね。ところで二つ目の理由の方はどんなものですか。

(小嶋)「これはかなり主観的な推理で余り価値はないと思うけど、敢えて「ライト紹介」にかこつけてご披露させてもらうよ。『のらくら者の日記』ブロガーさんがよくフォローしているマイケル・バード氏の「ユーアンゲリオン」の『正典のイエスvs史的イエス』記事で分析しているように、現在新約聖書学者の間でオープンエンドな『史的イエス研究』に対して「正典」や「歴史信条」の枠組みで「イエス研究」をしようというアプローチが大分盛り上がってきている様子だね。読書会メンバーの島先氏がバード氏も指摘している「2008年北米聖書学会」でリチャード・ヘイズ教授(デューク神学校)とガヴェンタ教授(プリンストン神学校)がリードした「イエスのアイデンティティー」部会に居合わせたのだけれど、このようなアプローチに対してライト主教は友人であるヘイズ教授が真っ青になるくらいかなり強い反論を展開したと言うことだ。ライト主教の反論は、このようなアプローチは「歴史からの撤退」であり、「正典や信条のような正統的神学と言う安全な領域にイエス研究を退避させる」ことではないか、というような批判だったらしい。」

(質問者)「(ありゃまた『史的イエス』が出てきてしまったぞ。あー頭痛が始まりそう・・・。)そうすると先生はライト主教が専門にする学問分野で盛り上がってきている「正典イエス研究」「歴史信条を基盤にしたイエス研究」に対して懸念を感じての学術世界への復帰、と見ているのですか。」

(小嶋)「あくまで伏線としてね。セント・アンドリュース大学での教授職も曰くありげだよ。何しろタイトルが『新約聖書と初期キリスト教』だからね。」

(質問者)「その意味では「正典イエス研究」や「歴史信条を基盤にしたイエス研究」も同じ範疇ではないでしょうか。先生はライト主教が学術世界へ復帰する動機として、現在の動向に対してどんな方向転換というか、どんなリードをしようとしていると思いますか。」

(小嶋)「かなり大胆な言い方をすれば、「イエス研究」そのものを「公的」なものに、つまり教会の神学や伝統の囲いに閉じ込めない、歴史と言う公な研究対象として開放しておきたい、と言うことではないかな。それは歴史学にとどまらず、「公に神学する」ことと表裏しているだろうね。「キリスト教起源と『神』の問題」でライト主教が神をgodと表記したり、クォーテーションマークで囲んで読者の注意を喚起しているように「歴史と言う公けの世界、被造世界」に「受肉された神」はあらゆる面で開かれた研究対象でなければならない、と言う確信があるのだと思うよ。だからその公けの世界から少しでも小さな囲いに撤退したり退避したりする「イエス研究」は「受肉された神」に栄光を帰すことにはならない、と言う主張だと私には思えるね。」

(質問者)「先生が話してくださった、ある牧師さんの息子のエピソードを思い出したのですが、教会の中だけで話されている「イエス様」が歴史から浮遊した存在に感じられる危険があるというのは今おっしゃったことにも繋がっていますよね。それからあのブルトマンの『信仰のキリスト』もやはり「仮現主義の弱点」ですか、似たような危険のことを指しているのでしょうね。ライト主教にとって「受肉されたイエス・キリスト」は徹底的な歴史的・神学的検証によってこそ「神の何たるか」を啓示する、と言うことなのでしょうね・・・。」

(小嶋)「あれ、最後のまとめの言葉は私の台詞ではないかい。後で編集し直してくださいね・・・。」

(連載E)

(質問者)「先生、ライト紹介の連載も大分回が進んできました。最近は『史的イエス』に関してアカデミックで大分ディープなところに入ってきたように感じます。本当のこと言うと実は『史的イエス』と言う語を聞くと軽ーく頭痛を覚えるようなのです。まっ気のせいだと思いますけど。それで読者の人たちにも少し負担の軽い話題にシフトしたいのですけれど構いませんか。」

(小嶋)「いやー実はね、私も返答するのに少々苦労していたところなのですよ。でも負担の軽い話題と言うとどんなものですか。」

(質問者)「先生はライト主教の日本での知名度が非常に低いことを嘆いておられるそうですが、欧米ではどの程度、どんな風に有名なのですか。」

(小嶋)「欧米での知名度のことを話す前に、日本での知名度のことをもう少し具体的にお話しておこうと思うのだけれどいいかな。」

(質問者)「どうぞお願いします。私もこのインタヴューを担当するようになってインターネットで『N.T.ライト』で検索してみましたが確かに余りヒットしませんね。」

(小嶋)「私がN.T.ライトを読み始めた時、今でも忘れないけど、この人は宗教改革者マルチン・ルターのような大変革を起こす人物だと思いました。現在のキリスト教界にたとえて言えば地殻変動のようなことを起こすだろう、とね。そこまで大げさではないにしても、欧米でのライト主教の影響は世代を越えて非常に広範です。制度的キリスト教会に批判的な『イマージェント』と呼ばれる20〜30代のクリスチャンたちにもかなり支持されています。さて日本ではどうかと言うと少なくとも新約聖書学者や聖公会関係者くらいであれば名前くらいは知っているだろうと思われるのだけれど、ライト主教の発信している考えや強調点が紹介されているウェッブサイトは数年前くらいまでは皆無に等しかったと思われます。そこで私ははたと思ったね。ライト主教(当時はライト博士)に関し私が「大人物だと」思ったのは大きな勘違いなのか、それともライト博士を紹介すべき人が意図的に沈黙しているのではないかとね・・・。」

(質問者)「でっ、その答えはどちらなのでしょう。」

(小嶋)「私の勘では後者ではないかと・・・。これに関しても大体二つの理由が考えられる。一つはライト主教が良い例だけど、欧米ではキリスト教研究書に関し、学者世界と一般読者の溝がそれ程大きくないと言うこと。勿論純然たる学術書は100ドルを超えるような値段に設定されていて専門の領域の人や図書館でなければ購入しないようなものもある。しかし一定のアカデミックなレベルの研究書が一般読者も対象にしてペーパーバックで売られている。翻って日本はと言うと、一般読者は一定のアカデミックなレベルに達した本をしかもリーズナブルな値段で購入できない不利があるように思う。もう一つの理由は少々穿った見方だけど、ライト主教の発信している考えや強調点を大衆的なレベルで紹介するとショッキングなと言うか、スキャンダラスな反響を引き起こすことになるからではないか・・・とね。」

(質問者)「例えばどんなことですか。」

(小嶋)「おやおや、自分で言っておきながら別の話題に入りそうになった。それは後のお楽しみに取って置いて、先ずは日本でのライト主教の知名度の話に戻ろう。少なくともネットで検索する限り翻訳されているのはただ一冊。『ティンデル聖書注解、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙』(岩上真歩子訳、いのちのことば社、2008年6月刊)元本は1987年だから、ライト主教の主要著作の最初のものと言えるThe Climax of the Covenantより4年も前のものだ。つまり主要著作はまだ一冊も翻訳されていないと言うことだね。またNTWrightPage.Comにあれだけ論文・説教・インタヴュー記事が掲載されているのに邦訳されたものが全然見つからない。もちろんこのサイトにあるもの以外はね。ライト主教の著作の5分の1とか1割程度しか訳されていない、と言うなら話は別だけれど、これだけないと何をか言わんや・・・だね。」

(質問者)「ライト主教に関心あるような方は皆さん英語が達者で翻訳は必要ない・・・と言うことでもないですよね。」

(小嶋)「それでやはり戻ってくるのだけれど、ライト主教が一般メディアで取り上げられる時やはりセンセーショナルな話題性という事で、『英国国教会主教、伝統的天国観を否定する』(TIME,2008年2月7日)みたいになってしまうんだよ。」

(質問者)「何か異端っぽく聞こえなくもないですけど・・・。」

(小嶋)「ライト主教が主張しているのは西洋キリスト教で伝統的に考えられてきた「(クリスチャンの希望は)死んだら天国へ行く」「天国が最終ゴール」であるという考えが聖書的根拠がないばかりか、初代キリスト教の教えを大きく歪曲したものである、ということなんだ。」

(質問者)「これは少しじっくり解説してもらう必要がありそうですね。それでは次回この点についてお話してくださいますか。」

(小嶋)「そうだね。これは単なるアカデミックな議論では済まないだろうからね。」

(連載F)

(質問者)「今日は天国についてのライト主教のショッキングな主張についてお伺いします。先ず単刀直入にお聞きしますと、ライト主教は天国の存在自体を否定しているのでしょうか。」

(小嶋)「答えはイエスとノーの両方と言うべきかな。まずショックが少ない方から始めようね。少しニュアンスに気をつけて欲しいのだけど、多分こういう区別をしたら後からの説明がしやすくなるだろう。ライト主教は『天』の存在については大いに肯定しているよ。しかし『天国』の考え方には否定的だね。『天』と『天国』はおなじではない。先ずこの言葉の違いを気をつけて欲しいんだ。ついでに言っておくと『天』と『天国』は英語では区別がない。両方ともヘブンです。だから英語の場合はニュアンスの違いと言うことになるわけだ。もっともマタイ福音書で「天の御国」とあるのを殆ど『天国』と同義と考える人が多いみたいだけど、これは違いますよ。全然関係ないと言うわけではありませんが。」

(質問者)「私には言葉の違いだけを言われてもピンと来ないのですが・・・。特に最近は天国ってクリスチャンに限らず、誰でも死んだらすぐ行くところみたいになっているじゃないですか。家族の者や知人友人が亡くなっても、天国で見守っています・・・なんていう風に。それから最近はペットの方が下手をすると人間より親しい存在になって、だからでしょうかペットも死んだら天国にいるようですよ。」

(小嶋)「おっしゃる通り。『天国』は今や宗教の如何を問わず一般的に『死後(のいのち)』」の代名詞に拡大使用されて来ているね。これほど『天国』が通俗的なものになってしまうと、ライト主教の主張を『天』と『天国』と言うニュアンスの違いに基づいて説明してもなかなか説得的に聞こえるかどうか心もとないけど、とにかく重要な『世界観的問題』を孕んでいるのでベストを尽くしてみよう。」

(質問者)「世界観とおっしゃいましたが単なる言葉の定義の問題ではなく、死生観、ひいてはもっと広い物の見方の問題が背景にあると言うことですね。」

(小嶋)「そうです。直接には死生観の問題ですが、実際には全宇宙を含めた『世界』、特にその『世界の終末』に関する問題なのです。」

(質問者)「先ず死生観的に言うと『天』と『天国』の違いはどんなところにあるのですか。英語のヘブンで言うとニュアンスの違いと言うことらしいですが・・・。」

(小嶋)「まあ死後にいのちがあると信じない方々もいるわけだけど、一般に多くの宗教は死後になんらかのいのちがあると言う信仰を持っているわけだね。だから「死後のいのち」と言う概念で一まとめにできる。もちろん「死後のいのち」に関しては宗教によって様々に異なった考えがある。キリスト教はと言うと、一応「中世以降の西洋キリスト教」と言う文脈で話をすれば一番普遍的な考え方はGoing to heaven when you dieと言うことなんだ。洋画などで埋葬のシーンなどで牧師が話している中身は大抵こんなものだよ。つまり死者は体から解き放たれて霊となってなんか雲の上の方にある日本語で言うと『天国』と言うふわふわした感じの場所に移されるわけだ。ライト主教のまあかなり皮肉っぽい表現で言うと、白い衣を着て天使と一緒にハープを奏でて・・・と言うようなイメージだね。」

(質問者)「つまりライト主教はそのような死後のいのち、そのような天国観を否定しているわけですか。」

(小嶋)「そういうこと。つまりそれは『死後のいのち』についてキリスト教が信ずる半分にも満たないと言うか、如何にも去勢された死生観だ、と言うわけ。一体使徒信条の『体のよみがえり』は何のためにあるのか。「死後のいのち」がそのようなものなら『体のよみがえり』なんて必要ないではないか、ということになる。」

(質問者)「私も実は使徒信条を告白しながら『体のよみがえり』のところにきて何かピンと来ない感じがしていました。そのあとの『永遠の命』は『死後のいのち』が永遠に続く、と言う風に理解してきましたが、それはどうなんでしょうライト主教的に言うと。」

(小嶋)「先ほどの世界観の問題と言う視点から言うと、「中世以降の西洋キリスト教」で支配的だった死生観、永遠の考えはかなりギリシャ思想にある『霊肉二元論』に影響された見方であり、使徒的キリスト教の信仰の世界観とは程遠い、と言うことになる。それでライト主教は使徒的キリスト教の死生観の背景となるユダヤ教世界観を専門的な用語で説明する代わりにこう言うんだ。Life AFTER life after deathとね。訳すと面倒くさい言葉になってしまうけど『死後のいのちの後のいのち』、つまりクリスチャンの本来の希望は死後直ちに移される天国での霊的(体を持たない)いのちではなく、『死者の復活』の時に与えられる新しい体を持ったいのち、ということなんだ。」

(質問者)「それが多分使徒信条の『体のよみがえり』と言うことなんですね。」

(小嶋)「そう。だけどそれだけではないよ。もう一つの『天』と言うことだけど、ライト主教は現在の天も、それから『死者の復活』の時によみがえって住むことになる天も、両方とも強く主張する。」

(質問者)「現在の天と将来の天、ということですか。」

(小嶋)「現在の天に関して言えば、もちろん多義的言葉であるけれど、空間的に何か遠くに離れてある場所、そこに超越者である神がご臨在する、と言うような考え方は多分に先ほど出てきた二元論とも通じる考え方だ、とライト主教は分析しているよ。(専門的な角度からは、啓蒙主義の理神論における『天』及び『神』がそういう考え方。)そうではなくて創造において『天と地』が造られたわけだけれど、神がいます天と人の住む地は実はリアリティーとして二つにすっぱりと切り離された存在ではなく、むしろ背中合わせのようなものなのだ。『主の祈り』で祈る『御心が天になるごとく地にもなさせたまえ』はまさにそのような実感を持って祈る時本当に切実な祈りとなる。また『死者の復活』の時の天は旧約聖書でも(例えばイザヤ書)新約聖書でも(例えばヨハネ黙示録)が言っている『新天新地』のことなのだ。」

(質問者)「うーん。何か大切な違いのことを説明されているのは分かるのですが、とても今すんなりと飲み込むには余りに話が大きく深い感じがします。よーく考えてみる必要がありそうですね。」

(小嶋)「一言で言えば今言ったようなことが腑に落ちるようになると言うことは『世界観的変革』が起こることとも言えるよ。小手先のことではないから問題意識を持って掘り下げていって欲しいな。参考までに、『霊肉二元論』的影響とか、『世界観』の問題等については左にある『キリスト教世界観ネットワーク』サイトにあるものを読んでいただけると助けになると思うよ。」

(連載G)

(質問者)「お久し振りです。前回から大分間が空いてしまいました。新緑の季節楽しんでおられますか。それとも書斎に閉じこもっておられるのですか。」

(小嶋)「まっどちらかと言うと後者かな。『ライト主教紹介』連載も回を重ねきたので、そろそろ着地点を意識し始めていたところなんだよ。この連載はあくまで入門だから細かい、深いところには入り込みたくない。だけれどある程度ライト主教の主な主張や考え方を紹介したいと言うことで残る回数、多分全体で十数回になるだろうと思うけど、それまでにどれだけ網羅できるか色々算段していたところなんだ。」

(質問者)「十数回と言うと今回も含めあと5〜6回と言うことですか。結構先は長いですね。それだけあれば十分カバーできるのではないですか。もちろん質問者である私と先生が余り寄り道しなければの話ですが・・・。それでお聞きしますが、先生が連載の残りで是非カバーしておきたいポイントとしてはどんなものがありますか。」

(小嶋)「一つはライト主教の著作は、専門の新約学と言うジャンル、あるいは広くキリスト教界で支配的な様々な『二項対立』の壁を打ち破ろうとしたものであると言うこと。それはポストモダンと言う大きな文化的変革状況を見据えた上での、様々なモダニズムの殻を打破する試みであると言うこと。この点を紹介したいと思っている。次にNTPGで紹介している『キリスト教起源と『神』の問題』」シリーズのための解釈的枠組みがどんな意義を持っているか少しヒントになるようなことを書いてみたい。ヒントの内容としては@ライトの解釈論のスコープ、その中でのA『クリティカル・リアリズム』、B『ストーリー』と『世界観』の役割、と言った点について。最後に六巻になるだろうと言われている「キリスト教起源と『神』の問題』」シリーズの残る二巻の予想と、ライト主教にとって突き詰めて言うと「ドゥーイング・ヒストリー(doing history)」とはどう言うことか、そしてそれは「21世紀キリスト教を拓く」ことにどう関連しているか。まっ、このくらい紹介できれば連載終了してもいいかなと思っている。」

(質問者)「何かタイトルだけ聞くと大変長い話しになりそうに聞こえますが大丈夫ですか。くどいようですがなるべく手短にお願いしたいのですが・・・。それでは早速ライト主教がターゲットにしている『二項対立』を幾つか紹介してもらえますか。」

(小嶋)「では前回からの流れを受けて最初に「天」と「地」の近代的二項対立から行こうか。福音書解釈の問題としてよく挙げられるのが『奇跡』だよね。科学的世界観からは『奇跡』は自由主義神学からも、保守主義神学からも、両方の立場とも天と地が二つにすっぱりと切り離された(split-apart)リアリティーとして理解されるのです。自由主義神学は自然法に基づく解釈から『奇跡』を何らかの自然現象に結び付けて理解するか、それができない場合は『事実』ではないものとして受け止めるわけですね。これが近代主義のストレートな表現です。ところがこれに対して『奇跡』をまるで信仰箇条として受け入れることを正統主義キリスト教の踏み絵のようにしている保守主義神学も実は反動的な意味で近代主義の表現なのです。」

(質問者)「よく意味が分かりません。自由主義神学は科学的世界観に合わせて伝統的キリスト教内容を修正したり廃棄したりしてきた・・・と言うのは分かります。しかし保守主義神学はそれに対して歴史的キリスト教信仰を時代の思想に迎合せず固守してきたのではありませんか。」

(小嶋)「表面的にはそう言えるね。少なくとも意図としてはそうなのだけれど、自由主義神学に対抗する過程で実は思想的に同じ土俵で戦う羽目になってしまったわけです。一つ簡単にポイントを挙げるにとどめましょう。保守主義神学は『奇跡』を神の自然的介入と理解したことです。ここには『自然(地)』と『神(天)』が切り離されたリアリティーとして意識されています。これはさっき言った、思想的に同じ土俵である理神論的世界観を使った表現と言って良いでしょう。自然法が支配する『地』に時折神が『天』から超自然的に介入する構図は、天と地のあらゆるものの主である創造神信仰を表現するユダヤ・キリスト教世界観とは異質のものです。本来の世界観をストレートに表現できたらよかったのですが、近代的知的武装をするうちにモダニズムに取り込まれてしまった、と言えなくもありませんね。」

(質問者)「うーむ。一応そうだと言うことにして、他の二項対立点にはどんなものがありますか。」

(小嶋)「ライト主教の『イエス』論文に言及されている啓蒙主義から出てきた批評的『史的イエス』研究で立てられてきた二項対立、あるいは壁、研究の個室化(コンパートメンタリゼーション)の例としては少なくとも三つある。一つは近代科学がつい最近まで不文律と考えていた『事実』と『解釈』の厳密な分離。価値中立な科学的歴史研究の対象はあくまで『事実』に限られるから、神学は脇に押しやられることになるわけだ。と言ってもこれは世俗大学での宗教学や聖書学での話だけどね。つまりキリスト教にしても聖書学にしても、このような前提では真にキリスト教の統合的理解は妨げられてしまうわけだね。」

(質問者)「つい最近まで・・・、と言うと最近は少し事情が変わってきたのですか。」

(小嶋)「そうだね。私の遊学中も社会学の分野でも『事実』と『解釈』の問題、『価値中立』の問題は最早批判される前提となってきていたね。」

(質問者)「二つ目は何だっでしょう。私は『イエス』論文に一回は目を通しているのですが思い出せません。」

(小嶋)「ライト主教が挙げている二つ目の二項対立は『歴史』と『神学』あるいは『歴史』と『信仰』ですね。最初の点と同じもののように聞こえるけど。対象が違うと言ったらいいかな・・・。」

(質問者)「一応違いを聞いてもいいのですが、恐らく話しはさらにややこしくなりそうなので簡単に一言でお願いします。」

(小嶋)「『事実』と『解釈』の問題はどんな科学的分野にも共通する課題で、客観的事実を樹立するためには研究者の主観を差し控えよ、と言う方法論上のことだね。それに対して『歴史』と『神学』の問題は、キリスト教学や聖書学に関わることだ。私なりの理解では、ライト主教の「キリスト教起源と『神』の問題』」シリーズを例に取って言えば、一方で『キリスト教起源』と言う歴史的学問があり、もう一方で『パウロ神学』のように(新約)聖書個々の『神学(思想)』研究があって、研究分野が分かれ専門が分かれている現状があるわけだ。ライト主教は『ドゥーイング・ヒストリー(doing histroy)』と『ドゥーイング・セオロジー(doing theology)』を別々にではなく統合した形でやろうよ、と提案しているようだね。」

(質問者)「『ドゥーイング・ヒストリー(doing history)』と『ドゥーイング・セオロジー(doing theology)』を一緒にと言うことですね。何か英語の響きの方がピンときますね。では最後に三つ目の二項対立は何でしょう。」

(小嶋)「これは『イエス』論文では簡単に言及されているだけで分かりにくいけど、その後の著作ではっきりまた強い主張になってきている点です。それは『政治』と『宗教』の分離と言う啓蒙主義が作り上げた壁が少なからず聖書学の視野を狭めていると言う主張なんだ。イエス研究で言えばイエスは単なる『宗教家』ではなく、『言葉と行いとシンボル』による神の国宣教は政治的なものを含んでいた。だからヘロデやピラトとその背後にあるローマ帝国を視野に入れた神の国宣教の意義が探索されねばならない、と言うことになる。パウロ研究ではライト主教はこの点をさらに先鋭化させ、『福音』とは『人はどうやったら救われるか』と言う救済論ではなく、簡単に言えば『ナザレのイエスがユダヤ人のメシヤでありすべての民族の王であり主である事を宣言すること』なのだと言う。それはシーザーは主ではないという『反皇帝主義(カウンター・インペリアル)』な意味を含むというわけだ。ライト主教がよく使う表現ではJesus is Lord, Caesar is not!と言うことだね。 ThePaulPageを見るとこの数年のパウロ研究を反映してか『パウロの新解釈』と並列して『パウロとローマ帝国』が一大研究分野として段々裾野が拡大してきているらしく見える。この分野でもライト主教は論客の一人だね。」

(連載H)

(質問者)「前回の紹介は新しい事柄が多く素人の私としては未消化のものが大分残ってしまいました。私のようなレベルの読者の方々のためには『もっと噛み砕いて言ってくださいよ』というツッコミが足りなかったような感じがします。反省しております。今後先生が紹介される予定の項目を見ると、何か一方的な授業で終わりそうな予感がします。と言うわけで先ずは先制のジャブを入れさせていただきました。あしからず。」

(小嶋)「いやー、終わりが見えてきたので残ってるものを何とかごり押しでも良いから入れちゃおうと言う不届きな思いも少しありまして・・・。説教をやっている時もついそんな感じになってしまう時があるのですよ。聴衆を無視して用意したものをとにかく出してしまおうと言う誘惑がね・・・。」

(質問者)「で、今日は『キリスト教起源と「神」の問題』」シリーズの解釈的枠組みについて、特にライトの解釈論のスコープに関して聞こうというわけですが、そもそも『解釈論』はアカデミックな用語でしょう。普通の人は使いませんよそんな言葉。と言うわけでごく簡単に説明してください。『解釈論』とは何か。」

(小嶋)「では先ずアカデミックな意味での『解釈論』を簡単に説明して脇へ押しやってしまおうね。『解釈論』とは「何か(主に書かれた文書=テキスト)の意味を理解しようとする時どういう事柄が絡んでいるのか、その条件や・方法などについて整理まとめる学問と言って良いでしょう。文字の意味・文法・話法・修辞論・歴史文化的背景・著者の意図・読者への配慮、などなどですね。こういう風に二人が会話している時は意思疎通は質疑応答の繰り返しで「相手が何を言っているのか」その意味を確認することができますが、書かれた文書はその意味を理解しようとすると、自分から様々な条件や・方法に照らした上で何を言っていて、何を意味しているのかを探って『あーこういう意図で、こういう意味で言っているのだな』と納得するまでがんばるのが『解釈』の実際です。大体は文字の上っ面を読んだだけでは分からない『意味が自明でないテキスト』を問題にしている学問ですね。」

(質問者)「では私なりに簡単にまとめさせていただくと、物事特にテキストを理解しようとする時生じる種々の問題を整理して納得できる解釈を導き出す学問、でいいですか。それではライト主教が『解釈』の対象としているものは何ですか、そしてそれに対してライト主教はどんな『解釈論のスコープ』を用意して接近しようとしているのでしょうか。」

(小嶋)「対象となるのは大枠で言えば『キリスト教の起源』、これを質問の形に言い換えれば『なぜキリスト教はそもそも発生できたのか』ということになります。私たちの視点からは『キリスト教』は厳然たる歴史的事実で誰もその存在を疑う人はいないから、『どのようにキリスト教は始まったのか』と言うのが通常の問いかけとなるだろうけどそれは違います。ちょうど訳出した『キリスト教起源とイエスの復活:歴史問題としてのイエスの復活』を読めば気が付くと思うけど、事情は私たちの想像を遥かに超えるほどキリスト教がそもそも発生するにはとてつもないハードルがいくつもあったらしいのです。だから歴史学的に意義のある設問は『なぜそもそも発生できたのか』と言うことになるわけです。」

(質問者)「その中心に『イエスの復活』の問題があるわけですね。」

(小嶋)「そうです。なかなか察しがいいですね。でも『イエスの復活』と言う一つの歴史的瞬間が切り離されて問題なのではなく、それまでのイエスの生涯、特に神の国宣教運動での様々な《教え》《シンボル》《行動》、そしてさらに突き詰めるとイエスの公生涯の最後の一週間におけるメシヤ的《教え》《シンボル》《行動》がどのように『十字架の死』に至ったのか、を理解することが必要になります。その神の国運動の終着(挫折)点と見えた『十字架の死』からの『復活』がどのような経路を辿ってイエスの弟子たちに後のキリスト教の主張となる『ナザレのイエスこそ、ユダヤ人のメシヤであり、またすべての人の主です』と言う信仰に至らせたか、これらの連関全体が『解釈』すべき対象と言うことができるでしょう。かなり大雑把なまとめ方ですが・・・。」

(質問者)「《教え》《シンボル》《行動》とカッコ付きでなっている事柄は確か『イエス』論文でも目にしました。何か曰くありげだなと思っていたのですが、ライト主教独自のそのいわゆる『解釈論』的ツールなのですか。」

(小嶋)「一般論として『解釈論』が主に取り扱うのはテキストだ、と言いました。しかしテキストは新約聖書を例に挙げるまでもなくただ『テキスト内で意味が完結している世界』ではありません。まっこれは現代の『解釈論』で議論されている事柄ですが・・・。新約聖書テキストはイエスという人物や彼が生きた一世紀ユダヤ世界で起こった様々な歴史的出来事に言及しているわけです。特に『史的イエス』を対象にした場合、ある『史的イエス』研究」は歴史上の人物としてのイエスについては殆ど知り得ることはわずかだと言う理由で、例えば福音書に書き残された『イエス語録』や『たとえ話』など、いわゆる『イエスの教え』の伝承史研究に絞られてしまい、歴史的出来事に関しては福音書は信憑性が低いと研究対象から外しまうものがあります。ライト主教の場合はそのような懐疑主義的『史的イエス研究』に対し、『なぜキリスト教はそもそも発生できたのか』と言う大きな問いに対して回答するために『史的イエス』に関しても(共観)福音書を歴史的事実を知り得る資料として最大限に用いようとします。その時単に『教え』や『行い』を分野別に網羅するのではなく、『なぜキリスト教はそもそも発生できたのか』に答える鍵として福音書が語るイエス像全体を歴史的に再構成するための『意味の次元』として異なる面を切り取ろうとして《教え》《シンボル》《行動》と言う設定になったわけです。但し『イエス』論文ではごく簡単に提示されているだけですから、ライト主教の『解釈的手法』の全体を知りたければどうしてもNTPG、『史的イエス』に関して言えばJVGを参照しなければなりません。かなり分厚く洗練された『解釈的手法』が提示されていますよ。」

(質問者)「先生、専門の研究者間では今の説明でツーカーと行くかもしれませんが、私には『多分こういうことかなー』と類推できても、何かぼんやりとした理解しかできません。先生ご自身の言葉で何か別な表現を使ってライト主教がやろうとしていることはこうだー、と少し的外れになっても良いですからストレートに語ってくれませんか。」

(小嶋)「やはりアカデミックな事柄はいくら噛み砕いて説明しても理解と言うには無理なのかなー。紙面も限られているしね。じゃこんな説明を試みてみよう。私の周りにいる“敬虔”なクリスチャンの中には聖書があたかも自分が今住んでいる世界のように聖書のテキストにすーっと入っていける人がいます。そういう人にとって聖書の世界は異言語・異文化・そして二千年の時を隔てた世界には感じられないわけでしょうね。このような聖書の世界への入り方は『解釈論』的には一つの方法と言えるかもしれないけれども、少なくとも『歴史的文書』としての聖書の性格は余り自覚できていないのではないかな。このような一つの極端な見方に対して、『なぜキリスト教はそもそも発生できたのか』『イエスは何を目指してガリラヤで宣教を開始し、十二弟子を集め、最後はエルサレムで死ぬ気で行ったのか』と言う歴史的疑問を設定して聖書の世界に入ることは、基本的にドラマの筋書きの謎解きに似ていますね。謎解きをするライト主教は、そのドラマの主要人物であるナザレのイエスのマインドセット(心理学的な意味ではなく)、彼の発言と行動の背景となる『意図』について全体のドラマの方向と個々の場面での振る舞いに合致するよういくつも仮説を作っては試すわけだ。しかもナザレのイエスはれっきとした一世紀に生きたユダヤ人だ。つまりその時代と文化と諸問題と不可分の関係にある。だから学者用語で言う『第二神殿期ユダヤ教』と言う背景をできるだけ分厚く調査し再構成した上でイエスの発言・行動・(預言者的)象徴行為の特異性、異質性も含めて理解しなければならない。だからこのような探求はある意味で文化人類学者が自分とは異なる文化の中に入り込み彼らの言語・習慣・世界観等を丹念に調べた上で、その文化の中のある歴史的重要人物に焦点を当て彼と彼が発端となった運動の発展を歴史的事実に沿った筋書きのドラマとして再構成する作業に似ている。しかし実際ナザレのイエスと言う人物、またキリスト教の発展は単純な人物、単純なドラマとはとても言えない。非常に不可解な謎めいた部分を沢山持っている。それらの部分を排除せず、どれだけドラマ全体の筋書きの中で理解可能に提示できるかが問われているわけだね。」

(質問者)「そうするとライト主教の解釈論のスコープとは『ナザレのイエスが開始したキリスト教』という入組んだ筋書きのドラマを理解可能にする様々なツールや方法論と言っていいでしょうか。」

(小嶋)「多分そんなに的外れではないと思うよ。但しライト主教を文化人類学者兼歴史ドラマの探偵と見立てるだけでは不十分だ。何しろライト主教の『キリスト教起源と「神」の問題』シリーズ読者は推理小説の愛読者だけではなく、同じ歴史ドラマを解明しようとしている同業他者もいるわけだからね。そこはやはりエンターテイメントの世界と異なり、ライト主教と言う学者の立てる仮説に対する反論や異論を想定しながらできるだけ説得力のある謎解きを提示しようとしているわけだ。」

(連載I)

(質問者)「今日は『キリスト教起源と『神』の問題』」シリーズでライト主教が用意している『解釈的枠組み』についてさらに紹介していただくわけです。前回はライト主教を文化人類学者兼歴史ドラマの探偵になぞらえて解説していただきました。そうするとシリーズ一巻目のNTPGで探偵の謎解きツールを予めご披露しているわけですね。今回はその謎解きツールの二番目、『クリティカル・リアリズム』について紹介していただくわけですが、何か今までの中で一番歯がたたないというか、えらい難しそうな話題ですね。」

(小嶋)「そう言う事になりそうですね。ライト主教自身もこの分野は自分の専門外、とにかくツールの説明自体の是非だけでなく、実際にそれを使ってどれだけ謎解きの成果を挙げられたかを見て欲しい、と言っていますね。これは『クリティカル・リアリズム』についてだけでなく『解釈的枠組み』全体についてのことだけれど・・・。しかしなぜNTPGの冒頭であれだけページ数を割いて『解釈的枠組み』を説明しているかと言うと、『キリスト教起源と『神』の問題』」シリーズで扱われる各論『(史的)イエス』『パウロ』『福音書』を解明して行くに当たり、他の探偵(研究者)たちとの議論で噴出する様々な《解釈の違い》をどうするかと言う問題を意識しているようです。現在の新約学の現状ではこれらの《解釈の違い》は単なる議論の応酬では解決不可能だとライト主教は見ているようだね。それで先ず対象となるテキストをどう解釈して行くかと言う『立場』『前提』を自ら明らかにし、謎解きツールの手の内を見せていきたいと言う狙いのようです。それであの難解な方法論部分が書かれたわけですね。専門用語では『エピステモロジー(知識論)』と呼ばれる分野ですが、その中でライト主教が取っている立場が『クリティカル・リアリズム』と呼ばれるものです。」

(質問者)「なるほど《解釈の違い》が出てくる『エピステモロジー(知識論)』的立場の違いを交通整理しているわけですね。『クリティカル・リアリズム』とは『エピステモロジー(知識論)』的にどういう立場になるわけですか。」

(小嶋)「『ポジティピズム(楽観的リアリズム)』と『フェノメナリズム(悲観的主観主義)』の中間に来る立場であると説明しているようですよ。」

(質問者)「『ポジティピズム』と『フェノメナリズム』は簡単に言うとどう違うのですか。」

(小嶋)「例えばAさんが新聞である事件が起こったことを報道しているのを読んだとします。そしてBさんに教えてあげます、『これこれこう言うことがあったんだよ。』するとBさんは、『そのことについては私も読んだけど別の報道を読むと、先の新聞報道の根拠は定かではない、だからその事実があったのかどうかも含めて怪しいものだ』。そんなAさんとBさんの会話の中に『ポジティピズム』と『フェノメナリズム』の立場の違いが見て取れると思います。Aさんは新聞で読んだこと報道されたことをそのまま事実として(疑いもせず)受け入れたわけですね。これが楽観的リアリズムとも言われる立場です。それに対しBさんは新聞記事に書かれていることは実際の事実と即繋げないで他の報道との摺り合わせを行うようなクリティカルな立場、距離を取っているわけです。結果的に報道されている事実に対してはあくまで記者の主観に左右されるもので事実(リアリティー)を知れるわけではない、と悲観主義の立場になるわけです。」

(質問者)「つまり福音書の解釈ケースで言うと、ある同じ出来事についての記述が福音書記者間で異なっていたりすると、Bさんの立場からはその事実の信憑性は低い、その記述は福音書記者の主観によるものである・・・と言ったような解釈になる、ということですか。」

(小嶋)「まあ非常に単純化して言えばそんな感じかな。つまり話をかなり大雑把にまとめると、Aさんのような聖書の読み方は『プリ・クリティカル(前・批評的)』な時代のもの、Bさんのような聖書の読み方は『クリティカル(批評的)』な時代のものを代表していると言えなくもないね。」

(質問者)「つまり聖書解釈が時代とともにより批評的に移ってきた、と言うことであれば『クリティカル・リアリズム』は時代的にその中間と言うことですか。」

(小嶋)「いやそうではなく、時代から言うと『クリティカル(批評的)』の後に『ポストモダン』時代の『デコンストラクション』と言う解釈方法が登場します。この立場はテキストの向こうに『著者』の存在も、それからテキストが言及しようとする『出来事』の存在にも余り関心を示しません。もっと懐疑主義的な立場です。」

(質問者)「そうすると解釈と言うことを《読者》《テキスト》《著者》《出来事》の方向で捉えると、『プリ・クリティカル(前・批評的)』な読者はテキストを介して出来事をストレートに事実と解釈する時代から、『ポストモダン』のようにテキストの向こうには最早何もリアリティーはない、テキスト自体がいわば閉じた意味世界、と言う風に懐疑主義が深まってきたわけですね。」

(小嶋)「そう言う事になるね。そこに待ったをかけるのが『クリティカル・リアリズム』と言うわけですね。つまり《テキスト》解釈に伴う様々な読者の前提、テキストの《著者》の前提も含めて、しかし仮説を立て、より《出来事》に近づく解釈の積み重ねができるのではないか。そしてその仮説と解釈を公けに討議しながらテキスト解釈の妥当性を検証し、著者が言及するリアリティーの全体像に近づいていくことができるのではないか・・・、と言うのが凡そライト主教が『クリティカル・リアリズム』で取ろうとしている立場と言えるのではないかな・・・。」

(連載J)

(質問者)「今日は『キリスト教起源と『神』の問題』シリーズでライト主教が用意している『解釈的枠組み』について、NTPGで紹介されている謎解きツールの三番目、『ストーリー』と『世界観』についてお聞きします。この連載の読者の方々の多くは恐らくNTPGをまだ読んでいないのではないでしょうか。ですから先生に大雑把に説明していただいたとしても『そんなもんか・・・』で終わってしまうのではないかと思います。今回はNTPGの目次で該当する部分を紹介していただくとともに、『ストーリー』と『世界観』の関係を言っている部分でなるべくそのものズバリを言っている部分をどこかで引用していただきたいのですが・・・。」

(小嶋)「それもそうですね。全体が長くなってしまうことになると思いますが努めてそのようにしてみたいと思います。それではさっそくNTPGの目次でこれまで『解釈的枠組み』に関し説明してきた部分をハイライトしながら紹介してみましょう。
PART I Introduction
 1 Christian Origins and the New Testament
PART II Tools for the Task
 2 Knowledge: Problems and Varieties
  2. Towards Critical Realism
  3. Stories, Worldviews and Knowledge
 3 Literature, Story and the Articulation of Worldviews
 4 History and the First Century
 5 Theology, Authority and the New Testament
PART III First-Century Judaism within the Greco-Roman World
PART IV The First Christian Century
PART V Conclusion
こんな具合になります。パートU全体が私が言っている『解釈的枠組み』です。また『謎解きツール』としてこの連載で紹介しているのは全部ではなく、ハイライトしたい部分として選び出しているものです。パートU全体で100ページ以上ですから、なかなか読み通すのに骨が折れます。それでこの連載では思い切って単純化して紹介しているわけです。 」

(質問者)「なかなか目次だけ読んで内容が想像つくと言うことは難しいと思いますが、先生のこれまでの説明で何となくライト主教が目指している方向がおぼろげながら目に浮かんでくるような気がします。それでも私たちが今まで目にしてきた『新約聖書入門』や『新約聖書神学』とは入り口の部分、つまり『解釈的枠組み』と言う面では大分斬新なことをしようとしているのだな、と改めて感じました。しかし『ストーリー』と言うのは単純な英語で中学一年生でも知っている単語を敢えて訳さずに『ストーリー』としているのは何かやはり意味深なのですか・・・。」

(小嶋)「もちろん簡単な意味で『お話し』と言うこともあるけど、ライト主教がここで用いている『ストーリー』は人々が物事を理解する最も根本的な枠組みとしてのものだよ。ではちょっと引用してみよう。長くなるので肝心な部分を抜き取る形で・・・。
《引用開始》
ストーリー(複数)は人間生活の基本的構成要素である。実際、全体的世界観構成の鍵となるものである。・・・後に見るようになるが、人間がそれを通してリアリティーを実感するグリッドである世界観は人間の信念(beliefs)や目的(aims)としてはっきり意識されて立ち現れてくる。また信念や目的は世界観の討論的表現機能である。世界観を性格づけるストーリーは、それ故、『人間の知』の地図上では、明確に組織された信念(神学的信仰を含む)よりも根本的な次元に位置づけられる。
《引用終わり》
と、まーこういうことなんだけれど分かるかな。」

(質問者)「何か大分意味の凝縮した文章の感じですね。でも『ストーリー』が専門的な議論を通してよりも日常世界の言葉が行き交う中で表現されており、実は自分ではそれ程意識しなくても、その言葉の行き交いの中で互いの『ストーリー』が複雑に交差している・・・と言う風な感じは掴めますね。でもこれは日本人の会話で幾らか特徴的だと思うのですけれど、日本人同士の会話だとすぐ『そうそう』と相槌を打つと言うか、『ストーリー』が調和するように相手に合わせてしまう傾向があるのではないでしょうか。ですからライト主教の定義は少し議論好きな西洋世界にピッタリ来るような印象を受けました。」

(小嶋)「少し卑近な例になるけど、『アメリカン・ドリーム』とか、最近はサッカーのワールドカップが開かれるのでか『アフリカン・ドリーム』とか言う言葉をよく聴きますよね。日本で言えばよい学校に入って、良い会社に入って、・・・と言った感じのものが標準的よい人生として日本社会の一つの『ストーリー』として機能してきたのだと思うけれど、リストラや二極化、ワーキング・プアーの問題なので正統な日本版『ストーリー』を疑問視するような『ストーリー』も影響が広まっている感じがするね。そんなわけでたとえ日本人同士であっても会話の中で違う『ストーリー』が交錯し討論し合っていることは十分あるのではないかな。」

(質問者)「なるほど。つまり同じ社会であっても、そして世界観を多分に共有する者同士であっても水面下では『異なるストーリー』をぶつけ合っていることがあるわけですね。多分私たちがよく使う表現だと『価値観の違い』がそういう状況を説明しているかもしれませんね。」

(小嶋)「さて話を一世紀ユダヤ教(上の目次で言えばギリシャ・ローマ文化圏も含めた)世界に戻そう。ライト主教が『ストーリー』と『世界観』をキリスト教の起源の問題に持ち込む場合、その役割がどこに典型的に見られるかと言うと、イエスの譬え話などがその好例と言えるね。意味の表層では日常世界のことが語られているのだが、実は聞く相手の『ストーリー』世界に入り込み、話の筋を変えることによって『異なるストーリー』に仕立て、相手の『ストーリー』を揺るがし、相手が今まで捉えてきたリアリティーを違う解釈に導いたり、時にはひっくり返したり、と言うことが『ストーリー』にはできるのだ。」

(質問者)「『神の国』の譬え話をそんな風に解釈すると大分教会学校で聞く話とは違ったスケールのものに聞こえてきそうですね・・・。」

(小嶋)「端的に言えば、『キリスト教起源と『神』の問題』」シリーズで焦点となる『世界観』要素はライト主教の著作の中で多少表現が異なるけど、『創造神・唯一神』『イスラエル契約』『終末』に関する事柄だね。イエスが『神の国』の譬え話で同時代のユダヤ人にチャレンジしているのは、つまり預言者が約束していたことが今到来している、ということなのだ。パリサイ人も含めて同時代のユダヤ人は『創造神・唯一神』『イスラエル契約の成就』と言う信仰は保持していても『時』は未だ来ていない、と言う『ストーリー』に生きていた。それに対してイエスは、そして弟子たち、初代キリスト者は『その時は既に来た』と言う『ストーリー』を語り、実践し、そのように生き方全体を再構成した、と言うわけだね。」

(質問者)「なるほど、ただ弟子たちがイエス・キリストの福音を全世界に宣教する根拠となったのは十字架と復活の事実と、その事実をユダヤ教世界観を根本的に再解釈することによったわけですね。」

(小嶋)「あれっ、そのまとめまた私の台詞に入るやつじゃなかったかな・・・。『質問者』さんも段々読みが深くなってきたからよしとするか・・・。」

(連載K)

(質問者)「今日はようやく軽い話題になりそうですね。確か『キリスト教起源と『神』の問題』」シリーズの今後の予想をする、と言うことになっていましたよね。全部で六巻になるとかお聞きしましたが・・・。」

(小嶋)「まあ今までの話題から比べれば確かに話題としては軽いわけだけど、読者にとってはそれ程どうってことない内容になってしまわないか、ちょっと心配。 」

(質問者)「それはちょっと違うと思います。この連載の読者が何人位いるのか分かりませんが、はたしてそのうち何人の方が既に出版された三巻を読み通しているでしょうか。全然手にとってもいない私が言うのも何ですが、案外少ないのではないでしょうか。その点先生はご立派です。何しろ読み通すだけでも大変そうですから・・・。」

(小嶋)「何か初めて褒めて頂いたみたいですね。まああくまで自己申告ですから、信用していただいて恐縮です。では少し今までの三巻の読後感から始めて、それから今後の予想に移ると言うことにいたしましょうか・・・。1992年にThe Christian Originシリーズの一巻目であるThe New Testament and the People of Godが出たわけですが、既にこの一巻目については大分書いてきたのでここではちょっと違った感想を書くにとどめたいと思います。既に書いたように私が最初に手に取ったライトの著作がこの本なわけですが、当時の私の関心としては自分の福音主義信仰自体にかなり疑問を持ち始めていたところでした。(後から段々整理がつくようになったのですが簡単に言えば、私の福音主義信仰、あるいは回心体験は、多分に個人主義的、また時代的制約の中で醸成された一種の文化的キリスト教の通過儀礼の産物であったのではないか、と言うこと。※その一端を巣鴨教会のウェッブサイト『説教』にアップした『使徒信仰の継承』で垣間見ることができます。関心のある方はどうぞ。)その頃、自分の受け継いできた福音主義信仰が十字架ばかりに集中して復活がおざなりになっていたのではないか、と反省していました。それでもう一度復活をどの程度使徒的信仰の中心に置いているかが、誰かの著作を読む時の関心になっていたようです。そう言う訳でNTPGの読後感として、ライトという方はどの程度復活を歴史的事実として信じているのだろうかと言う疑問が残ったのをおぼえています。

(質問者)「と言うことはライトという学者がこのシリーズで凄い研究を始めたぞ、と言うことを認めるとともに一信仰者としてはどんな人物なのだろうかと測りかねていたわけですか・・・。」

(小嶋)「そう。だから読後感としては何か未消化、未解決、と言う感じだったね。」

(質問者)「さて次にシリーズ二巻目のJesus and the Victory of Godになるわけですが、これはどんな位置づけの本になりますか。」

(小嶋)「これが『史的イエス』研究に対するこのシリーズでのライトの回答、と言う位置付けではないかな。JVGに関しては、私が最も衝撃を受けたことをお話しましょう。それは正統神学で言う聖三一の神の第二位格としてのイエスの神性を前提してから福音書解釈をせず、あくまで人としての、これまで用いた言葉で言えば『史的イエス』の角度からイエスの神性に迫っているな、と感じたことです。『下からのキリスト論』と言う表現がありますが、『イエスは神』とまるで当たり前のように思っていることをもう一度別の角度から考えるということは大変でもありまた刺激的でもあります。」

(質問者)「確か『イエス』論文でも『メシヤ』や『神の子』にイエスの神性を読み込む間違いに注意を喚起していたような記憶がありますが、そんな指摘とも関連していることでしょうか。」

(小嶋)「否定的な面ではね。むしろ私にとって衝撃的に読めたのは『イエス』論文で言えば、イエスがイスラエルの神にしかできないことをご自分の召命(vocation)として遂行されたこと。また、十字架がまさに神の愛を示す出来事であり、パウロの表現を借りれば『イエスにおいて神が世と和解した(God in Christ, reconciling with the world)』ことを啓示する、つまり正統神学における三位一体性を歴史的にデモントスレートする出来事である、そう言う風に私には読み取れました。」

(質問者)「シリーズ三巻目のThe Resurrection of the Son of Godはいかがですか。前に伺ったところでは800ページを越す大著とのことですが・・・。」

(小嶋)「これはNTPGを書いた時点では独立した本として出版するところまでは構想になかったようです。ただ「ホィートン神学会議」でのライト主教の説明によれば、シリーズが(復活を歴史的出来事とは認めない)リベラルな学者たちとの討論を前提にしているので彼らの土俵で相撲を取るためにJVGから独立させたのだろうと推測されます。最初は200〜300ページのモノグラフと思っていたようですが、読めば分かるように古代の他文化圏での『死後のいのち』に関する記述だけでも優にそのページ数を超える位まで膨れ上がってしまったわけです。私自身もこの部分をクリアするのに少し難儀しましたが、読み通して先に掲げた私のライト主教の復活に対する信仰への懸念は払拭されました。しかしこの大著はあくまで学術(歴史学)面からどこまで復活に迫れるかと言う一種のアカデミックな議論の枠を超えないようにまとめられています。最後の結論部分でどう『歴史』から『信仰』に飛躍するのか、と言う弁証学的な議論はまだ私のうちでは未消化です。」

(質問者)「さていよいよ今後のシリーズはどうなるのかについての予想ですが・・・。」

(小嶋)「一番最近のインタヴューでは『パウロ』研究の本は前にも書いたように出版は2012年になる予定だそうです。先に紹介したホィートン神学会議でのライト主教の幾つかのコメントから類推すると、『政治的な面(反皇帝宗教)』や『教会の一体性(エペソ人への手紙)』など今までパウロ理解の主流であったローマ書やガラテヤ書中心のパウロ理解から少し中心をずらした面が出てくる、そんな含みを持たせていましたね。」

(質問者)「第五巻目、そして最後となるのでしょうか第六巻目には何が来るのでしょうか。」

(小嶋)「第五巻目はNTPGの構想では『福音書』つまり『史的イエス』の歴史的資料(ソース)としてではなく『文学』としての『福音書』をどう理解するのか、が主題になるのだと思います。そして第六巻目はシリーズのまとめとして、どこまで問題設定に対して用意した方法論が有効であったかその成果を吟味する本になるようですね。」

(連載L)

(質問者)「大分間が空いてしまいました。読者の方は連載途中で終わってしまったかな、と思われた方もあるかも知れませんよ。どうなさっていたのですか。」

(小嶋)「前回アップしたのが6月19日ですから2週間以上経ってしまいましたね。『復活』論文2本目訳出を終わらせようと少しそちらに時間を取られていました。 」

(質問者)「それで訳出は終わったのですか。」

(小嶋)「ええ。一応。後は少し訳文の編集をしてからアップする予定です。」

(質問者)「さて連載Gの紹介では、今回は『ライト主教にとって突き詰めて言うと「ドゥーイング・ヒストリー(doing history)」とはどう言うことか、そしてそれは「21世紀キリスト教を拓く」ことにどう関連しているか。』ということですが、この回で言い尽くせるのでしょうか。大丈夫ですか。」

(小嶋)「振り返ってみるとこの連載は『ライト紹介・入門』とあるけど内容的には『キリスト教起源と『神』の問題』シリーズ中心で来ましたね。結局のところやはりアカデミックな話題が内容の大半を占めてきました。次回が最終回の予定ですが、そのまとめのところで今まで紹介し切れなかったアカデミックではないことを取り上げたいと思います。それを前置きにしておいて先ず『ライト主教にとって突き詰めて言うと「ドゥーイング・ヒストリー(doing history)」とは』に入ることにいたしましょう。」

(質問者)「では先ず『ドゥーイング・ヒストリー(doing history)』についてお願いします。」

(小嶋)「ライト主教がこのポイントを強調する時はキリスト教保守主義者たちの(批評的)聖書研究への否定的態度が念頭にあります。啓蒙主義から発達した批評的研究が例えば『史的イエス』の探求で正統的キリスト教に対し破壊的結果をもたらしたために『歴史アレルギー』になってしまい、歴史的研究に対しある種の臆病さ・恐れを持つようになってしまった。その状況が今日まで続いている、と言う現状認識ですね。そのような状況に対し、ライト主教はそのような否定的・消極的態度は、本来キリスト教信仰が持つ歴史的性格に釣り合わないものである。批評的研究は、その破壊的結果は別にして、自分たちの信仰が持つ歴史的性格に無頓着になっていたキリスト教保守主義者たちへの警鐘であり、覚醒させるために必要であったと言う意味で摂理的であったとさえライト主教は認識しているようです。」

(質問者)「先生のアメリカでの神学校時代もまだそんな状況であったと伺いましたが、そうでしたか。」

(小嶋)「歴史的・批評的研究を全然やらなかったわけではないと思います。ただ正統的信仰を守るため護教的な関心が強かったと言えるでしょうね。“中立性”と言うアカデミックな立場にかこつけて批評的研究者たちはともすると自分たちの研究結果が教会や信仰者へもたらす影響に対し無関心・無責任なところがあったのではないかな。それは批評的聖書研究が世俗の大学機関などで行われる専門的研究となり、教会とは離れたところで発展してきたことの裏返しでもあると思うのだけれど・・・。だから私が学んだ神学校の先生方は彼らの信仰への影響に対する無関心・無責任な態度に敏感に反応していたのだと思います。それで批評的研究を信仰を守ると言う範囲内で行った。その結果教理的な縛りからなかなか離れられなかった面はあったと思います。」

(質問者)「それはある意味、聖書を学術的な角度から自由かつ知的忠実さもって研究するのにブレーキをかけてしまったと言えるのですね。」

(小嶋)「神学校や福音主義神学会などは一定の教理的立場に対する忠誠を要求します。だからかなり学術的に批評的研究を取り入れても、その結果(釈義的、神学的解釈)がその立場に抵触すると見られると教理的立場に対する忠誠の方が優先してしまうのです。ライト主教が関わっている『義認論』などもその例に入ります。」

(質問者)「つまり聖書の歴史的研究が一定の教理的枠にはめられてしまい、聖書そのものの解釈が導く結果より優先させられてしまう。ライト主教はそれを乗り越える、聖書の解釈そのものを優先させる、と言う意味で『ドゥーイング・ヒストリー(doing history)』を主張していると言えますか。」

(小嶋)「実際にはNTPGでは『ドゥーイング・ヒストリー(doing history)』『ドゥーイング・セオロジー(doing theology)』『ドゥーイング・リタラチャー(doing literature)』。」の三つを融合させるような研究として全体を構想しているけれどもね。ただ私は一番のポイントはいかに歴史的であるか、と言うことだと思います。その上での神学研究、文学研究と言えるのではないでしょうか。」

(質問者)「さて『21世紀のキリスト教を切り拓く』という点に関してですが・・・。」

(小嶋)「先ほどの説明にもあったように、正統的キリスト教信仰を保持してきた者たちでも啓蒙主義というモダニズムの洗礼を潜り抜け、ポストモダンの文化状況とどう対峙するか、という課題を認識する必要がある、とライト主教は絶えず強調しています。それが『21世紀のキリスト教を切り拓く』と言う課題の一面です。変革する文化的な状況の中でどういうポジションを取っていくのか。最早キリスト教保守主義者たちがあまり自覚せずに内包しているモダニズム的福音や神学ではこの文化的状況に切り込むには役者不足だ。キリスト教の原点である使徒的福音の世界観的立場(意味の地平)から、キリストの福音を、教会の宣教を再構成しなければならない。と言うのがライト主教の著作が私たちに語りかけているメッセージだと思います。」

(質問者)「ありがとうございました。それでは次回の最終回、そんなに遅くならないようよろしくお願いします。」

(連載M完)

(質問者)「ついに迎えた最終回。しかし前回から何と二ヶ月も経っています。もう九月ですよ。先生。この酷暑で夏バテしていたのですか・・・。」

(小嶋)「いやね、気にはしていたのだけど、七月に入って、ツイッターとブログをいっぺんに始めてしまったのだよ。しかもブログはほぼ毎日更新している、と言うわけで『ライト紹介・入門』の方までなかなか手が回らなかった、というところだね。 」

(質問者)「最終回には、ライト主教について今まで紹介できなかった面について語ってくださると言うことでしたが・・・。どんな話題になるか楽しみです。ではよろしくお願いします。」

(小嶋)「話題を一つだけに絞ろうと思います。ライト主教は数多くの著作、テレビやラジオのインタヴュー、英国国教会内外の、主にキリスト教や宗教に関する話題に関して、多くの発言をしてきたのですが、その中に一つ繰り返し発言してきたテーマがあります。それは債務超過国、特にアフリカ最貧国の国際債務を帳消しにしよう、と言う主張と呼びかけです。」

(質問者)「ライト主教がそんな政治的発言を、しかも長年に渡ってなされていたのですか。宗教と政治はお互い干渉しない、と言うのが近代のルールだと思っていました。」

(小嶋)「確かに国際債務超過問題は政治的、国際政治上のものですが、ライト主教のアッピールは単に政治的な発言ではありません。また慈善的なものでもありません。一貫して、債権国、富める国の道義的責任問題として発言されて来られたのです。」

(質問者)「と言うことは、可哀相だから、と言うような話ではなく、債権国側が債務を帳消しにする責任がある、と言うことですか。」

(小嶋)「その通り。しかも単に道義的なと言うより、ライト主教の場合は、福音を基礎においた、福音に生きる者として、債務帳消しのアッピールをしてきたのです。もちろんこのようなアッピールは、ライト主教個人の単独発言・行動ではなく、Jubilee 2000 Campaign(日本語サイトジュビリー・キャンペーン)と言う運動母体と連動して、と言うことですが・・・。」

(質問者)「ジュビリーって旧約聖書のあの「ヨベルの年」のことではありませんか。50年目にそれまでの債務を帳消しにする制度。実際にイスラエル社会において実施されていたかどうかは疑問のようですが・・・。」

(小嶋)「そう、しかし、ルカの福音書によれば、イエスの「ガリラヤ宣教マニフェスト」(ルカ4:21)では、このヨベルの年の解放が暗示されているでしょう。ライト主教はこの福音的な視点から国際政治問題に対して発言しているわけです。最初のうちはこれがなかなか理解されなくて、新約聖書学者がなんか場違いなこと言っている、と受け取られてきたようです。それは今も続いていると思いますが・・・。」

(質問者)「NTライト・ページ・コムには何かこの問題に関する読み物がありますか。」

(小嶋)「それが主題として書かれているのは一つだけのようだけど、別の新約学の論文や説教にも何回か発言している、と記憶していますよ。今はそのものずばりだけをここに紹介します。On Dropping the Debt(負債を免除するについて)

(質問者)「ライト主教は教会における枢要な立場を用いて、このジュビリーキャンペーンの賛同者として支援しているわけですか。」

(小嶋)「いや、そんな簡単なものじゃありませんよ。国際政治や、国際金融のど素人に何が言える、と言う予想される反論にも対応するため、かなりの読書を積み重ねたと本人は言っています。だから尻馬に乗ってとか、名前貸しとか、そんな程度のものじゃない。少し誇張して言えば、19世紀初頭の英国奴隷解放運動に勝るとも劣らないほどに重要な問題として位置づけているようです。ライト主教は何度かウィリアム・ウィルバーフォースの例を挙げて、キリスト者が時の問題に宗教的使命感を持って立ち向かうよう鼓舞するスピーチを何度かしていますね。」

(質問者)「つまり、ライト主教はかなり本気だということですね。」

(小嶋)「そう。だから英国において比較的貧しいダーラム教区でもコミュニティーの牧会では経済問題、雇用や経済支援等について、キリスト者として、そして教区主教として取り組んできましたね。」

(質問者)「キリスト者の場合は、聖書的に言うと、福音に相応しく生きると言う点で、余計に社会問題に携わると言うことになるのでしょうか。」

(小嶋)「隣人愛の問題としてね。また債務については、主の祈りに、「我らに負い目ある者を我らが赦す如く、我らの負い目をも赦したまえ。」とありますが、信仰と生活の結節点の一つとして、国際債務問題は巨大ですが、私たちにも担うべき責任の一端はあると思いますよ。」

(完)