おとなりさん

 そこには見るからに古ぼけたアパートが建っていた。アパートの前で高木健介は呆然と立ち尽くしていた。家賃が安いからと部屋を見ずに決めたのを少し後悔していた。
「どう見てもここだよな」
 住所の書かれたメモ書きと地図を見比べる。間違いはなさそうだ。「よし」と決意を固めてゆっくりと鉄製の階段を踏み出した。一歩、歩くごとにギシギシと不安にさせる音がする。
 二階の廊下に上がり自分の部屋を探す。カンカンカンと軽快な音が後ろから聞こえてきた。さっき上ってきた階段をまた誰かが上ってきたらしい。後ろを振り返ると20代半ば頃の女の人が階段を上がってきた。
「あ、こんにちわ」
 自分が通り道をふさいでいることに気が付き、一歩後ろに下がりながら言った。女の人はぺこりと頭を下げて通り過ぎようとして、立ち止まった。
「あれ? もしかして引っ越してきた人ですか?」
「あ、はい。今日202号室に引っ越してきた高木です」
「あら、お隣さん? 私は203号室に住んでる来栖と言います。これからよろしくお願いしますね」
 そう言って来栖はペコリと頭を下げた。慌ててこちらも頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「よろしく」
 もう一度頭を下げると203号室の中に入っていった。
 高木も自分の部屋、202号室と書かれた扉の前に立って鍵を差し込んだ。ガチャリと古びた音がして鍵が開く。
 中は外の外見から創造していた通りのものだった。壁のところどころに染みはあるし、壁は隣の部屋からの音が今にも聞こえてきそうなぐらい薄かった。
 とりあえず、自分で持ってきた小さな荷物を部屋の隅に投げ捨てて部屋のど真ん中に寝転ぶ。これから始まる大学生活と一人暮らしに期待と多少の不安がいりまじって落ち着かない感じがした。
 ゴトリと物音がした。部屋の左の方からのようだ。高木はなんとなく気になって耳をすませた。またゴトリと音がする。音の出所を探そうと部屋の左にじわじわとにじり寄る。どうやら音はふすまの中から聞こえているらしい。
   そっとふすまを開ける。中はがらんとしていた。光の差さない中は昼間でも暗く不気味だった。視界の隅に明るい光が映った。そちらに目を向ける。ふすまの壁から光が漏れているようだった。
 どうやら、ふすまに穴が開いているらしく隣の部屋の明かりが押入れの中に漏れているらしい。好奇心が足を動かしていた。
 光が漏れている場所には小さな穴が開いていて、そこにそっと目を近づけると隣の部屋の様子がうかがい知れた。部屋の中には先ほど廊下ですれちがった来栖さんが着替えている所が見えた。
「うわっ」
 小さく声を上げてしりもちをついた。慌てて口を押さえる。しばらくじっとした後、もう一度その穴を覗いてみると服はすでに着替え終わっているようだったが、こちらに気が付いていることもない様子だった。
 がちゃりと音がして男が部屋に入ってきた。会話の内容はよく聞き取れなかったがどうやら親しい間柄のようだった。

 それから、高木は時折、隣の部屋を覗き見ることを繰り返すようになった。特に悪いことをしているつもりはなかった。着替えている時や、他の誰かが来た時は覗くのをやめていたし、プライベートな事は見ないように気をつけていたからだ。ただ彼女の日常が見れればそれで満足だった。
 彼女かコーヒーを飲むしぐさ、好きなクラッシックを聞きながら本を読む姿。意外にもお笑いが好きで、お笑い番組を見ていて大笑いしてしまい、周囲を気にしたりする姿を見るだけで高木は幸せな気分に慣れるのだった。
 ある日、チャイムが鳴った。高木が扉を開けると見覚えのある男がそこに立っていた。入居したその日、来栖の部屋に入ってきた男性だった。
「どちらさまですか?」
「僕の事知ってるでしょ?」
「…いえ、どなたかと間違えてませんか?」
「覗いてるでしょ」
 心臓がドクンと震えた。
「何を言ってるんですか?」
 怪訝な顔をして答えた。
「隣の部屋、覗いてるでしょ」
「………」
「大丈夫ですよ。来栖さんには言いませんから」
「………」
「僕とあなたは同類ですから。僕も隣の部屋を覗いているんですよ。ほら、このアパートおんぼろでしょ? 壁のあちこちに穴が空いてるんですよ」
「………」
「僕は、このアパートの201号室に住んでるんです。お互い、相手にばれないようにしましょうね。大丈夫です。来栖さんは気が付いてないみたいですよ。まだ」
 そう、言い残すと男は扉をバタンと閉めて立ち去っていった。しばらくすると、隣の部屋の扉が閉まる音が聞こえた。
 どさりとその場に座り込んだ。心臓の動悸が激しくなっていた。

 高木はそれから毎日怯えるようになった。いつか、あの男が自分が隣の部屋を覗いていたことを来栖に伝えるかもしれない。それは今日かもしれないし、いまこうして部屋の隅に座っている間にも伝えているかもしれないと思うと身動きが取れなくなってしまうのだ。
 しかし、数日たっても、2週間が過ぎてもあの男は来栖に告げ口をしていないようだった。朝、ごみ捨ての時に鉢合わせしても来栖は笑顔で挨拶をしてくるのだった。声をかけられるたびにバレたのではないかと怯えてしまう為、返事が小さくなってしまうのだったがそれすらも、「元気ないですね? 体調には気をつけてくださいね」と心配されてしまうのだった。
「いったい、どうなってるんだ!」
 思わず、部屋の中になった椅子を壁に投げつけた。
「本当に、言うつもりがないって言うのか? それとも、本当は来栖さんはすでに知っていて、俺の行動を見ているのか? 分からない、分からない!!」
 どれだけ、考えても分からなかった。でも、最終的にはあの男は、自分と同じだと言っていた。だから、言わないでいてくれているんだ。と結論付けるしかなかった。そうしないと立ち上がることもできなくなりそうだったからだ。
 そんな事を毎日考えているうちにふと、疑問に思ったことがあった。あいつは本当に同類なのか? 本当にこの部屋のようにあちこちの壁に穴があいているというのか? いくらオンボロのアパートとはいえ、そんな事があるのだろうか? 一度考えた疑問は染みのようにゆっくりと高木の心を侵食していった。
 気が付くと201号室の前に立っていた。
「確かめなきゃ…確かめなきゃ」
 ぶつぶつと呟きながら扉のノブを回す。がちゃりとなんの抵抗もなく扉は開いていった。中を覗きこむと部屋の中は暗くなっていてあの男は留守のようだった。
「本当に同類なのか確かめなきゃ…」
 靴も脱がずに部屋に上がりこむ。床の上に色んなものが散乱していてそれらを足蹴にしながら部屋の中央に向かって歩いていく。部屋の中央に行くと壁の方からうっすらと光が漏れている事に気が付いた。その光の方を振り返った所で動きが止まった。
「あれ、勝手に入っちゃ駄目ですよ。高木さん」
 玄関の方からあの男の声が聞こえてきた。男は床の空いている隙間を縫うように近づいてくる。
「…これ…」
「ね、僕とあなたは同類だって言ったでしょ?」
 男が楽しそうに笑う。 「201号室…。2階の一番端の部屋…?」
 高木の視線の先には202号室の全ての場所が映ったモニターがあった。リビング、キッチン、トイレ、押入れのなか。その全てがそのモニターに映されていた。
「だから、言ったじゃないですか。お・と・な・りさん」

 男が子供のように笑った。