気持ちよくうたた寝をしていると、耳にアナウンスが聞こえてきた。「まもなく、東京に到着いたします…」日本語の後に英語のアナウンスが流れる。
「もう、東京か。意外と近いなぁ」
山本薫はつぶやいて背伸びをする。伸ばした腕が隣の人に当たりそうになり頭を下げて謝った。席を立って上に置いてあった荷物を降ろす。それほど荷物は大きくなかった。引越しの為の大きな荷物はすでに引越し先に送ってあったからだ。
東京に来るのは人生で3回目ぐらいだった。前に来たのは住む場所を見に来た時だが、その前となると中学生の時修学旅行に来た時まで遡る。久しぶりに降りた東京駅はやはりずいぶん大きく見えた。
駅構内にある案内看板を見ながら中央線を探す。看板が多すぎて迷いそうだったがいざとなれば駅員に聞けばいいやと思っていたので気楽に歩いた。
今回、東京に来たのは夫の祐二の転勤がきっかけだった。地元を離れるのは不安があったがそれでも新しい生活に楽しみもあった。幸か不幸か子供もいなかったのでその辺りの心配はしなくても良かった。
オレンジ色の電車を見つけて乗り込む。地元とは違って平日の昼間でも電車の中に人はたくさんいた。人ごみの中に一人でいるのは不安だったが、そこは我慢することにする。夕方になれば仕事で一緒に来れなかった祐二も東京の家に来ることになっている。先に家について片づけを済ませて置こうと思っていた。
祐二は仕事は確かにできる方の様だったが、家事はまったくもって駄目だった。一生懸命家事を手伝おうとしてくれるのは嬉しいがどれもお世辞にも満足にできているとは言えなかった。
「家事ができなくてへこむ所はちょっと可愛いけどね…」
くすりと笑いながら独り言を言ってしまって周囲をキョロキョロと見回す。誰も薫の方を見ていないようだったのでほっとする。
そんな事を考えていると三鷹駅に到着したアナウンスが流れた。電車を降りて改札を抜ける。改札を切符なしでも通れるからと祐二からスイカを渡されていたが結局切符を買っていた。どうにもスイカを使ったら何かエラーが出て扉が閉まってしまうような気がしていて使うのをためらってしまっていたのだ。
駅を出た道路には桜が咲き誇っていた。
「綺麗…。よし、家まで歩くか!」
三鷹駅から住む家まではバスで10分ほどのところだったが歩いて行けない距離ではないはずだった。地図を広げて大通りを歩く。春風が気持ちよかった。
桜を見ながら横断歩道を渡ろうとした時、突然くらっと景色が歪んだ。思わず、その場に座り込む。立ちくらみだろうか、ここ数日引越しの準備のために寝不足なのが良くなかったのかもしれない。
朦朧とした意識のまま立ち上がりふらふらと歩く。なんとか自分が住むアパートにたどり着いた。部屋の中に入り込んでばたりと倒れこんだ。意識が遠くなるのを感じる。薫はそのまま眠りこけてしまった。
はっと目を覚ますと目の前に祐二が座っていた。驚いて飛び起きる。
「あれ? もう着いたの?」
窓のカーテン開けると外は雨が降っていた。
「天気予報では一日晴れてるって言ってたのに、当てにならないね」
そう言って振り返ると祐二がぼーっと薫を眺めていた。
「どうしたの? ぼーっとして」
「あ、ああ。疲れてるから夜まで起きないと思ってたからさ」
「失礼ね。いくら私でもそんなに寝ませんーっ」
ベーっと舌を出して反論する。直後に祐二が突然抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと」
突き放そうとするが、凄い力で抱きついているのか、離す事ができなかった。
「な、なんなのよ…もう」
そんな事を言いながらも腕をそっと背中に回す。しばらくそうしていると、祐二がそっと離れた。薫もそっと離れる。その時になってようやく、部屋の中が片付いていることに気が付いた。
「あれ? 部屋片付けてくれたの?」
「ああ。うん。なんとかね」
ばつが悪そうに言う。自分で勝手に色んなものを片付けてしまったことにちょっと罪悪感でもあるのだろう。
「ありがとう」
薫は素直にお礼を言った。時計を見るともう10時を過ぎてしまっている。
「祐二君はもう寝たほうがいいよ。明日も仕事でしょ?」
「あ、ああ」
名残惜しそうに布団に潜り込む。しばらくすると寝息が聞こえてきた。
翌朝、目が覚めるといつも以上に体が軽い気がした。昨日ゆっくりと寝たおかげなのか体調はすっかり元に戻っているようだ。朝ごはんを作って祐二を起こす。
「ほら、朝ごはんできたわよ」
眠そうに目をこすりながら起きてくる祐二を椅子に座らせて目の前にコーヒーを置いてやる。ご飯を食べさせて、スーツに着替えさせて玄関まで送る。
「はい、行ってらっしゃい」
「…行ってきます」
少し、心許なさそうな顔をして返事をする。
「どうしたの?」
「薫。あんまり外に出ないほうがいいよ」
「なんで?」
「ほら、昨日倒れるように寝てたし」
「もう、大丈夫よ」
「それでも!!」
「え、う、うん」
いきなり強く言われたのでたじろぎながら頷く。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関から出て行く祐二を見送ると腕まくりをする。
「今日は、家の中を掃除するかな!」
掃除は思ったよりも時間がかかった。前に入っていた人が出て行ってから時間が経っているのか部屋の隅々に小さな埃が溜まっていた。
家具をどけながらそれらを取り除いていく。台所にも油汚れなどが残っていたのでそれも取り除いていく。
「業者の人ちゃんと部屋のクリーニングしてないのかしら?」
不思議に思いながらも掃除を一度始めると徹底してやる性質なので、掃除が終わる頃には夕方になっていた。
「そろそろ、晩御飯の準備しなきゃ」
冷蔵庫の中身を覗く。冷蔵庫の中身はほとんど空っぽだった。
「引っ越してきてから、買い物行ってなかったっけ?」
祐二は出かけるなと言っていたけれど、夕飯の買出しぐらいは問題ないだろうと思ったので財布を捜す。
「あれ? どこに置いたっけ?」
棚や引き出しを捜すものの見つからない。
「祐二の奴、私の財布まで片付けたのかな?」
そんな事をつぶやきながら探していると棚の上に一枚の写真が飾ってある事に気が付いた。その写真は新婚旅行で北海道に行ったときに写真だ。新婚旅行に行ったのは冬だというのに祐二の「冬の北海道がみたい」の一言で北海道に決まった。
「私も賛成したとは言え、悲惨だったなー。そこらじゅう雪に埋まってるし、寒いし」
写真を見て、思わず顔がほころんでしまう。
「でも、なんで今更こんな写真飾ってるのかしら? …そうだ、財布」
財布は押入れの中に入っていた私の鞄の中に入っていた。押入れの奥に押し込まれていたので取り出すのが大変だったがなんとか取り出して中身を確認する。財布の中には数千円のお金が入っていた。
「これぐらいあれば充分かな。祐二は外に出るなって言ったけど、買い物ぐらいはいいよね」
自分にそう言い聞かせて外に出た。外は春というにはあったかすぎるぐらいの気候だった。前に家を見に来た時によったスーパーに記憶を頼りに歩く。しかし、思った以上に記憶はあいまいになっているらしく、20分ほど歩いてもスーパーにたどり着けなかった。
「困ったなぁ。……誰かに聞いてみようかな。あのすいません…」
近くを通りかかった人、何人かに声をかけてみたけれど皆立ち止まることすらせずに通り過ぎてしまった。
「都会の人が冷たいっていうのは本当なのかしら?」
思わずため息が出た。仕方なしに人通りの多そうな通りを進んでいくことにした。しばらく歩いていると見覚えのあるスーパーが見えてきた。カゴを持って夕食の材料を集めて行く。
買い物を終えて、家に帰る。もう時間は6時を回っていた。急がないと祐二が帰ってきてしまう。
「急がなきゃ」
調理道具をいちいち探しながらも料理を作って行く。今日の料理はハンバーグとポテトサラダにすることにした。少し、子供っぽいかもしれないが祐二はこのメニューが好きなのだ。
料理がちょうど出来た頃に玄関が開く音がした。机の上に料理を並べるのを中止して玄関に向かう。
「お帰りなさい」
玄関には祐二が驚いた顔をして立ち尽くしていた。その両手には食材の入っている袋が握られていた。その袋を床に落として部屋に上がりこんできて薫の腕を乱暴に掴んだ。
「ちょっと、痛い。何よ」
「外に出たな!!」
その剣幕に思わずたじろぐ。
「な、それがどうしたのよ」
「外に出るなって言っただろう!!」
「痛い! 離してよ!」
腕を振り払うようにして祐二から離れる。祐二が驚いた顔をしたかと思うと頭を下げる。
「悪かった。心配だったんだよ」
「やめてよ。何をそんなに心配してるの? 私はそんなに体弱くないよ」
「ああ、そうだった。すまない。高校生になっても男と殴りあいの喧嘩をするぐらい元気だっけ薫は」
意地悪そうに笑う。
「うるさい! 反省しろ!」
自分が作った料理も食べずに寝室の扉を思いっきり閉めた。祐二が「ごめん」と謝って来たが無視してやる。一時間ぐらいするとぼそぼそと夕食を食べる音が聞こえてきた。「やっぱり、美味いなぁ」と小さく聞こえてきたのが少し面白かった。
翌朝も祐二を仕事に送り出した。その日は「外に出るな」とは言われなかったが昨日の事もあったので、一日家でおとなしくしている事にした。
それから、数日間は部屋の模様替えや片付けに追われることになった。思ったより時間がかかったのはすぐ疲れてしまうからだった。薫は自分では体力があるほうだと思っていたのだが東京に出てきてからすぐに疲れてしまうようになっていた。
「疲れが溜まってるのかしら?」
そんな数日間を過ごしたある日、薫は立ちくらみに襲われてそのまま床に倒れこんでしまった。倒れたときに頭をぶつけたのかズキズキと痛んだ。動こうとしても指先一本動かすことが出来なかった。視界がぼんやりとしてくる。
「あれ?」
自分がどうなっているのかが理解できなかった。疲れているだけで、どこも痛くも無いのに体が動かない。ただただ、動くの気だるかった。
「薫! 薫!」
はっと目を覚ます。いつの間にか意識を失っていたらしい。祐二が心配そうに顔を覗き込んでいる。
「大丈夫、大丈夫」
そう言って、立ち上がろうとして膝を着いてしまう。祐二に手を取ってもらってようやく寝室のベットに寝ることが出来た。
「ゆっくり休んで」
祐二に言葉を素直に聞いて掛け布団の中に潜り込む。
「明日、病院に行って来るから心配しないで」
それを聞いた祐二はなぜか悲しそうな顔をして頷いた。
翌朝は布団から出ることも出来なかった。祐二はすでに仕事に行ったのか姿が見えなかった。テーブルの上にはおかゆと置手紙が置いてあった。もそもそと起き上がりおかゆを口に運ぶ。思ったより美味しかった。いつの間に料理なんて出来るようになったのだろう?
なんとか、起き上がり服を着替えた。病院へ行こうとして玄関を開けようとしてノブを回して異変に気が付いた。鍵は開いているのに扉が開かないのだ。扉を無理矢理押し開けようとしてみるが、何かが引っかかっているのか、多少開きはするものの数センチ開いた所以上には開かなかった。
隣の部屋の窓を開ける。この窓には鉄格子がはまっている為、ここから出ることは出来ないが玄関の様子を見ることは出来るはずだった。
窓から見えた景色は異様の一言だった。玄関の扉にあらゆる方向から「KEEP OUT」の黄色いテープが張り巡らされ、鉄のチェーンが窓枠から扉の蝶番をまでを何重も何重も何重も何重も何重も何重も何重も何重も何重も張り巡らされていた。
「ひっ!?」
薫はその場に座り込んでしまった。数日前外出した時はこんな事にはなっていなかったはずである。あのスーパーに出かけた後、玄関を通行したのは祐二一人だけのはずだ。その祐二は一言もこんな事は言っていなかったはずだ。とするとこれをやったのは…?
そう考えただけで体ががくがくと震えてくるのが分かった。ここ数日、祐二は何を言っていた? 薫は思い出す。祐二が特に繰り返して言っていたのは「外に出るな」。
「…っ」
胸の奥から先ほど食べたおかゆがせり上がってくるのを感じた。トイレに走りこんで吐き出す。何度も何度も、吐き出した。その内胃液しか出なくなったがそれでも吐き気を抑えることが出来なかった。
祐二の事が分からなくなっていた。いつからこんな事になってしまったんだろう。こっちに引っ越してくるまではこんな事は無かったはずなのに。…こっちに着てから何日が経ったんだっけ?
カレンダーを探す。しかし、いくら探してもカレンダーが見つからなかった。テレビをつける。ニュースが流れていた。テレビの中のアナウンサーが「6月1日の天気をお知らせします」としゃべっていた。
ガチャリと音がして、玄関の扉が開いた。祐二が部屋の中に入ってくる。
「ただいま。体は大丈夫かい?」
薫はリビングのテーブルに座っていた。祐二の言葉に反応すらしない。
「薫?」
何度呼びかけても薫は返事をしなかった。祐二は背中に冷たい風を感じた。振り返ると部屋の窓が開いているらしく、そこから外の風が入ってきたようだった。
「見たのかい?」
薫は何も答えない。
「仕方なかったんだよ」
薫は何も答えない。
「薫を失いたくなかったんだ」
薫は何も答えない。
「薫がいない生活なんてもう考えられないんだよ」
薫は何も答えない。
「仕事から帰って来た時、薫がいる。それがどんなに幸せな事か、考えた事あるかい」
薫は何も答えない。
「確かに、僕はおかしくなったのかもしれない」
薫は何も答えない。
「でも、例え薫が僕の事を嫌いになろうと、軽蔑しようとも。君をここから出すわけには行かないんだ。薫は僕のものだから」
「…もう、いいよ」
薫が小さく呟いた。祐二がぐっと息を呑む。
「今日は何日?」
「さぁ、仕事で忙しくてはっきり覚えてないけど」
祐二がとぼけたように答える。
「じゃあ、質問を変えるわね。…今日は何年?」
「……。」
祐二は何も答えられない。
「祐二が東京に転勤になったのは2009年の春だよね」
祐二は何も答えられない。
「もう一度聞くよ? 今日は何年の何月何日?」
祐二は何も答えられない。薫はテーブルの上に祐二の部屋の机の奥に投げ込まれていたカレンダーを置いた。そのカレンダーには2010年と表記されていた。
「なんで、私は2009年の記憶がまったくないの!!」
薫は気が付くと声を荒げていた。記憶がフラッシュバックする。あの日。引越しの日。駅を出て、家に向かって歩いていた。横断歩道を渡って。そこで記憶が途切れる。その後は長い間道に迷っていたような気がする。
「私はいつ、この家に来たの!!」
そう叫んだ時にまた脳がぐらりと揺れる感覚がする。立っていられず床に座り込んだ。
「薫っ!!」
祐二が駆け寄ってきて体を支えてくれる。その腕は暖かかった。
「行かないでくれ! 俺をもう一人にしないでくれ!」
祐二はぼろぼろと泣きながら叫んでいた。薫は自分の体の存在感が希薄になっていくのを感じた。体がゆっくりと透け始めていた。
「なんだかね、ものすごく長い間道に迷っていた気がするの」
祐二に抱えられながらゆっくりとしゃべる。
「でもね、どこに行きたかったのか、ようやく分かったの」
祐二の顔は涙で濡れていた。
(きっと、私はこの手の中に帰ってきたかったんだ…)
祐二に抱えられている感覚も段々無くなってきた。
(我侭だけど、本当に自己中心的だけど。祐二がこの先誰も好きにならなければいいな…。最後ぐらい祐二の事を考えてあげればいいのに)
「ごめんね…」
頬に手をそっと添えようとしたがその手が祐二に届くことは無かった。薫の体はそのままふっと消えてしまった。
祐二はその場に座り込んでいた。最後に泣き笑いの表情を浮かべていた薫の事を思いながらいつまでもそこに座り込んでいた。