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以下は、私が急な病で昨年( 2004 年)の 1 月末から 2 月末まで入院した折の顛末記である。正確には、退院してすぐ、親戚・友人・知人にあてて送った報告の手紙であるが、「面白かった」「わるいと思いつつ笑ってしまった」「もっと読みたいと思った」など、おおむね好評であったのと、入院から
1 年半を経過した現在、それもすでに過去のことと思えるようになってきたので、「習作」として発表する次第。
発表にあたっては、固有名詞を一部イニシャル表記にした以外は、ほぼ原文のままとした。読者にとってどんな意味があるのか分からないが、面白がっていただければ幸いである。
( 2005 年 7 月 30 日)

拝啓
早春の候、皆様にはお変わりなくお過ごしのことと存じます。
さっそく私事からで恐縮ですが、わたくし、 1 月 24 日から 2 月 24 日までの 1 か月間、大阪府下の H 病院に入院しておりました。病名は「左鼠径(そけい)ヘルニア嵌頓(かんとん)」といいますが、いわゆる「脱腸」です。以下は、その顛末記であります。
1 月 24 日、朝の洗顔時、煙草吸いにとって、ゲーゲーと痰を切るのは日課のようなもので、この日も盛大にやっておりましたところ、突然、左下腹部にキュンと違和感をおぼえました。表現が難しいのですが、俗にいう「金玉が上にあがったような感じ」とでも申しますか。その後も鈍痛があり、引っ張られるような感じも残りました。
しかしこの日は、午前中に電器屋さんが来たり、宅急便の配達があったりで、 11 時ごろまでは不快感をおぼえつつも気がまぎれておりましたが、それらの用が済むと、鈍痛は増してきているように思われ、寒気もしてきて、午後人に会う予定だったのを電話でお断りし、横になってみました。布団に入り、恐る恐る睾丸に触れてみると、その左側がソフトボール大ぐらいに腫れていて、硬くなっています。これはマズイと思い、風呂に入ってみることにしました。湯に浸かって温まり、睾丸に触れてみると、先ほどよりは軟らかくなっているように思えます。これは後になってから医師に言われたことですが、このとき、とび出していた腸を、だましだまし元に戻すことができていれば、手術の必要はなかったかもしれないとのことです。でも、五十数年生きてきて、脱腸になったのは初めてですし(この時点では、脱腸であることも理解していません)、ともかく触ると痛いので、それをこらえて押し戻すことなど、考えることもできませんでした。
風呂からあがって、また布団に入りましたが、いっこうに好転しません。これはいよいよ尋常ではないと判断し、いつも診てもらっている診療所に電話してみることにしました。しかし、この日は土曜日で、時間もすでに午後
2 時を過ぎており、休診の時間帯です。ただ、診察券に「但し急患はこれにあらず」とあるのを頼りにダイヤルしました。あいにく先生は往診中で、午後
6 時に来てくれとの事務員の返事です。また布団に戻り、少し眠って、午後 6 時、電車で一駅の診療所にたどり着きました。先生はすぐに診てくださって、その第一声は「おっ、これは脱腸や」でした。たぶん緊急手術になると思うが、連絡しておくから、すぐに
H 病院へ行くように、との御託宣です。実はこの病院、 5 年前に母がS状結腸癌で入院し、そこで亡くなった所でもあるので、不吉な予感もしたのですが、この際、そんなことは言っていられません。
診療所で紹介状をもらい、駅前でタクシーを拾い、後部座席でうめきながら H 病院にたどり着いたのが午後
7 時。すぐにでも手術をしてほしいのに、 1 時間近くストレッチャーに寝かされたままです。今から考えれば、土曜日は大病院も休みみたいなものですから、その間に外科医・麻酔医・看護師(現在は看護
師 と表記するようです。いわゆる看護婦のこと)などのスタッフを集めていたのだと思いますが、救急外来の受付近くで寝かされたままというのは、なんとも心細いものでした。
ようやく、採血、レントゲン、CTスキャンなどの検査が始まり、執刀してくださる若い医師も現れて病状説明がなされました。そこで初めて「左鼠径ヘルニア嵌頓」という病名を知ったのです。「嵌頓」とは聞き慣れない言葉ですが、辞書によれば《腸や子宮などの内臓諸器官が、組織の間隙からとび出し、そのまま腫れて、もとに戻らなくなった状態》とあります。まさにそのとおりで、私の場合は左鼠径部の筋肉がまばらで、その《間隙》から小腸がとび出していたのです。ただ、この時点での医師の説明によれば、「おなかを開けてみなければ本当のことは分からない。とび出した腸が壊死(えし)していなければ元に戻すだけで済むが、壊死していれば、そこを切除して腸をつなぐ。最悪の場合は、腸閉塞から敗血症となり、命にもかかわる。また、左鼠径部のまばらな筋肉の上には人工膜を縫い付け、再び腸がとび出さないように処置する」とのことです。
午後 10 時、ようやく手術開始です。ストレッチャーに乗せられたまま、手術室に向かいます。私の目に見える像は、まさに往年の人気テレビ番組『ベン・ケーシー』のタイトルバックそのもので、私はそのことを口にしましたが、若い看護師さんたちには何のことか分からなかったでしょう。執刀する医師たち、担当の麻酔医、看護師さんたちが、それぞれに自己紹介し、「頑張りましょうね」と声をかけてくれます。大いに勇気づけられるのですが、皆さん大きなマスクをしておられるので、お顔がよく分かりません。
ストレッチャーから手術台に移され、手足を固定されたのまでは覚えているのですが、その後の記憶はまったくありません。全身麻酔というのは、麻酔で意識を失う時点よりも、さらに遡って記憶をなくさせるもののようです。
2 時間半ほどの手術だったそうです。気がつくと、ナースステーション隣の病室です。そのとき、私は少し泣いたようです。看護師さんが、「どうしました!」と声をかけてくれたのを覚えています。多くの人たちのおかげで手術が済み、「ありがたい」という気持と、手術前に医師から「最悪の場合は命にもかかわる」と言われていたので、生きていることが単純に嬉しかったのです。常日頃、べつにいつ死んだっていいや、とニヒルに構えていたつもりなのに、この涙はちょっとショックでした。人間は、根本的に「生きたい」存在のようです。
真夜中を過ぎているのに、息子夫婦が顔を見せてくれました。私は麻酔から醒めきらぬまま、「人間、一寸先は闇やな」などと口走ったそうです。
さて、手術の内容ですが、まず左鼠径部を開けてみたところ、とび出した小腸はすでに壊死しており(嵌頓になってから
13 時間が経過していましたから)、しかも左鼠径部の筋肉が、とび出した小腸の根元を固く締め付けており、どうにもならなかったそうです。そこで、さらにおなかの中央部を縦に開き、腸全体をゆっくりと動かして、とび出した小腸を引っ張り出し、壊死している部分を
15 センチほど切除して縫い合わせ、先述した人工膜も縫い付けて再発を防いでいるとのこと。この際、右の鼠径部も見てみたけれど、こちらは心配なさそうだったとか。
手術後の数日間は、痛みとのたたかいです。しかも、点滴の管(くだ)をはじめ、何本もの管につながれていますから、いきなり重病人になったような気分です。驚いたのは、手術後
3 日目ぐらいから「歩け、歩け」と言われたことです。さすがに 3 日目は、立ち上がるだけで勘弁してもらいましたが、 4 日目には病棟の廊下を一周していました。寝てばかりいると、内臓の機能が回復しないということなのでしょう。言われるままに、なんとか歩ける自分にもびっくりしました。
そんなふうに過ごすうちに、ガスも出て、便も少し出、順調に回復しているなと思っていたのですが、私の受難はまだ続くのでした。
手術から 6 日後の 1 月 30 日、朝から少し腹が張るなと思っていたものの、見舞いに来てくださった人たちとも談話室で楽しく語らい、「あと
1 週間か 10 日ぐらいで退院できるんじゃないかなあ」などと言っていたのに、午後の部長回診(まるで『白い巨塔』の一場面みたいに、部長先生が外科医を
5 、 6 人引き連れて各患者のベッドを回り、それぞれの担当医師から病状の説明を受けるのです)のとき、いつもは黙って担当医師の説明を聞いているだけの部長先生が、腕を組んで深刻な顔つきです。そして、それまで一度も触れたことがなかったのに、私のおなかを触診するのです。小声で担当医師と話していますが、「再手術」という言葉が聞こえてきました。
すぐにレントゲンを撮ってみると、腸にガスが溜まり、パンパンに膨張しているとのこと。原因は不明だが、どこかで「腸閉塞」を起こしていると思われ、緊急に再手術が必要だとの説明です。一瞬、「医療ミスでは」との疑念が頭をよぎりましたが、医師がそんなことを言うはずもなく、「こうなったら俎板の鯉だ。再手術、やってもらおうじゃないの」と、このときは案外すんなりと腹をくくることができました。
午後 4 時から再手術が始まり、 6 時に終わりました。すでに一度経験済みですから、ストレッチャーから手術台、意識がフッとなくなり、気がついたらナースステーションの隣というのも、「こんなもんだな」という感じです。
今回の手術も、「開けてみなければ、どこがどうなっているのか分からない」と言われていましたが、開けてみると、腸がボコボコに腫れており、最初に切開した部分だけでは処置ができず、そこからさらに上に切り広げ、腫れた腸を引き出して調べていったのだそうです。すると、最初に小腸を切ってつなげた部分の近くの腸が、ぐにゃっと折れ曲がっていたのだとか。幸い、当初心配された癒着は、ほとんどなかったとのこと。折れ曲がった部分をまっすぐにし、おなかに戻したということです。
「どうしてそんなことになったのですか」と後で訊くと、最初の手術後、腸が動きだす過程で起きたことで、百人に一人ぐらいはそういうことがあるのだとか。くじ運の悪い私が、百人に一人の確率を引いてしまうとは、なんとも皮肉な話です。
1 週間のうちに 2 度の手術で、さすがに我が腸もびっくりしたのでしょう。その後の回復は蝸牛の歩みのごとくでしたが、入院から
3 週間は点滴だけで生き、その後は重湯、三分粥、五分粥、七分粥、全粥、普通食と進み、 2 月 24 日に退院の運びとなりました。
2 度目の手術時からは、東京の叔母(母の妹)が駆け付けてくれて、日常の不自由はまったくなくなりました。この叔母には、わたくし、足を向けて寝られません。
退院の許可が出るまでは、焦っても始まりませんから、自他を観察するぐらいしか、することがありません。まず印象的だったのは、看護師さんたちの素晴らしさです。彼女たちの笑顔に癒され、その言葉に励まされた、といっても過言ではありません。それだけ病院の教育システムが行き届いていた、ともいえるのでしょうが、どんな患者にも笑顔で接し、その髪を洗ったり、体を拭いたり、時には下の世話までするのですから、頭が下がります。勤務時間も休日も不規則なのに、
20 〜 30 代の若い女性が、不満な顔も見せずに溌剌と働く姿には感動をおぼえました。本当に尊い仕事だと思え、いまどき、こんな女の子たちもいるんだなあと、目からウロコの心境でした。
私が最も多くの時間を過ごしたのは、 4 人部屋の病室でしたが、私以外は癌の患者さんでした。Yさんは胃癌で、胃の三分の二を切除。Tさんは手術のできない癌らしく、抗癌剤での長期治療です。Oさんは、いきなり「僕は末期癌なんや」とおっしゃるのでびっくりしましたが、この方も手術の甲斐なく抗癌剤治療に切り替えられたのだとか。いずれの方たちも、私と比べれば大変な思いをされているはずなのに、冗談を言い合い、さりげなく助け合い、ご自分の病と闘っておられるのです。「大人だなあ」と、感激してしまいました。Yさんなど、私が
2 度目の手術の後、ナースステーションの隣で寝ていると、覗きに来てくれて、「早く(私たちの病室へ)帰っていらっしゃい」と声をかけてくださるのです。なかなか出来ないことだと思いました。
つまり、看護師さんたちを見、同室の患者さんたちを見るなかで、世の中まだまだ捨てたもんじゃないな、という思いが湧き上がってきたのです。
さて、私自身はどうだったのかというと、今回の入院で、人間の肉体はいかに脆く、また反面、いかに凄い回復力を秘めているものかということを実感しました。嵌頓という病気と手術は、事故みたいなものだったと理解していますが、
50 歳を過ぎ、これからは少し体をいたわって生きていけよというサインなのかもしれないと感じています。
担当医師と話すなかで、「手術がもう半日遅れていたら危なかった」と言われましたし、再手術となった腸閉塞にしても、病院にいたからこそ迅速に対処してもらえたと言えるでしょう。その意味では、命拾いをしたのかなと思います。
ですが、正直に申し上げると、目下の関心事は、左鼠径部に斜めに残る 8 センチの、さらに臍の上
5 センチのあたりから下腹部に向かってのびる約 20 センチの、いずれも大きなムカデが張り付いたような傷跡と、精神的・肉体的にどのように折り合いをつけていけばいいのか、ということなのです。なんとも現金で、心弱いことですが、現状報告という意図から、隠さずに記す次第です。
なんとも長い報告になってしまいました。こんなものを読んでいただいて、いったい何になるんだとも思いますが、何かの参考にしていただいて、皆さんがお元気にお過ごしいただければ幸いに存じます。
なお、この手紙は、私が読んでいただきたいと思う方々に、勝手に送りつけるものですので、お返事・お見舞、その他のお心遣いは一切無用に願います。失礼いたしました。
敬具
2004 年 3 月吉日
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