往時を想いながら歴史街道を歩く
インストラクター : 目須田 修・大久保政英・土倉武幸・曽根周治・加藤容子> 
◆四百年前にできた宿場町
 「今は道になっている所に江戸の昔、本陣宿がありました。」
2005年11月3日 8時30分 役場前に集合し、大久保インストラクターのリードでストレッチングをし、牟礼宿の概要を解説。今日は町田清司さん(郷土歴史研究家、「牟礼村街道歩こう会」代表)が春に続いて「紅葉の碓氷峠越え」ツアーのガイドで、留守。指導に沿って宿場町の通りを参勤交代の道中を想像してもらいながら、ゆっくり歩調で北へ向かう。

 江戸幕府の力が弱ってきてからの日本各地に起きる参勤交代の諸々の面白いお話は今後のツアーでする予定。牟礼宿は1635年から227年の間行なわれた参勤交代、最盛期には2千人のご一行様(加賀藩主前田公、お殿様から付添人まで)の面倒を見たとある。お米、味噌、醤油、お酢、塩、砂糖、油、お酒、野菜、豆腐、魚、果物、お茶等々。もし、日本海側の富山辺りで大雨でも降ろうものなら川は渡れないから、日程変更。電話もファクシミリもない時代。その日程のズレで使えなくなった食材の補てんはなかったと。また、掃除に洗濯、ふとんの上げ下ろし、風呂の用意。ガスもない、電気はもちろん冷蔵庫もオーブンもレンジもない頃のお話し。当然トラックでやって来る宅配なんてない。だから、その手配と保管は大変な騒ぎだったであろう。水も燃料も馬も人足も必要、また、特に火事については、普段より注意を払ったことでしょう。
 164戸と伝えられているが本陣・脇本陣、旅籠や木賃宿約50軒の他は、軒下で寝泊まりしたであろうとも伝えられていて、問屋、造り酒屋、お茶屋、お土産店、小間物屋や魚屋、豆腐屋、菓子屋、差物商、鍬職人、大工、馬の蹄鉄などのメンテナンスをするところもあっただろうか。この通りだけでは2千人の対応は無理があると考えられる。
もっと詳しいことは再度、町田清司さんに学んだり、古文書を持ち牟礼宿を研究されている「さどや」の高野永篤さんにお聞きし、今後の解説に加えたいと思います。
 役場から出て、宿場の旅籠であった家々を過ぎ10軒程で街道の突き当たり正面と右側には揃ってお寺さんがある、その石段に腰を下ろして町並みを眺める。細い道を右へ行くと町の中を流れる川の取り入れ口の水上へ。街道を道なりに左へ、急な坂「十王坂」である。

◆十王坂と十王堂
 子どもの頃は何故そう呼ぶかは考えなかったが「ぞうざか」と呼んでいて、雪が積もると「危ない」と言われながらもみんなソリ遊びをした。墓地への入口近く、道の左側に十王堂がある。 仏教では、人が死ぬと地獄や極楽などの世界に行くと信じられているが、その行き先を決定するのは閻魔(えんま)大王を筆頭とする10人の王たちが勤める裁判官である。この十王をおまつりして自分たちも極楽へ行きたいと願うのが十王思想である。中国で作られた経典で、仏教伝来時に伝えられ、鎌倉時代には大流行したといわれています。 
 ちなみに、裁判は毎週裁判官が交代しながら行われ、7週目(四十九日)に、9人の陪審員の意見を聞いた上で裁判長である閻魔王(えんまおう)から判決が言い渡される。
 判決は、6段階の刑になっており、下から見て最悪は「地獄」、次は「餓鬼」、「畜生」、「阿修羅」の順で、人間世界の「人道」と天人の住む「天道」が善人の行く世界である。この世で言う『地獄の沙汰も金次第』ではないのかな?。
 また、この法廷には再審制度が完備しており地獄や餓鬼道に落ちたものは、100日目、1年目(一周忌)、3年目(三回忌)に救われる道が開けている。この3回の裁判官を合わせると10人の王となる。その上、七回忌、十三回忌、三十三回忌にも再審が用意されている。(七宗神渕下八日市の十王堂資料より)
◆金附場と武州加州道中境
 十王坂を登りきり旧バイパスを「せいのッ」で揃って渡り曹洞宗の観音寺さんに寄ってから街道に戻り「金附場」跡へ。日時を内密にして佐渡からの金をひと晩、蔵に保管し、翌日、次の馬の背に付け替えたとある。警備も大変だった?
 長い時間の中で繰り返された鳥居川の氾濫で削り取られた旧跡地。川の反対側は田んぼが増えている、損得も自然の力を受け入れた形。
 参勤交代の行列は小玉を通過するとき江戸の屋敷にも、加賀の屋敷にも旅の無事と、いつ頃の到着になるか等の報告のために飛脚を飛ばしたそうな。石碑は道路整備のためにか少し移動したが、その碑がこの「道中境」である。
◆収穫が済んだ田園の道
 小高い鎮守の森を正面に見て信越本線の踏み切りを速足で渡る。ちょっとドキドキした。
温かい日が続き、「ことしゃ、きのこの出が遅えやなぇ」とコースの下見の時に出会った人の応え。
稲の収穫も済んだ田んぼはのどかさが増してこちらものんびりする。小玉の神社下の鳥居で何気なく手を合わせる。マユミもツリバナも赤い実をぶら下げ、桜の紅葉もちょうど。田んぼの中の広い道をノンビラ歩き、黒川の大宮神社で「大の字」になってひと休み。3代揃って農作業をする家族に会い、よりほのぼの気分になる。
 その後、リンゴ園の縁を歩き匂いだけいただき、北国街道に戻る。 (そうそう、下見の時に王林をくださった方、「ごちそうさまでした」山の中でひとついただき、残りは東京に!)
◆木漏れ日の明治天皇の道
 暗くて静かな杉林の道を歩く。約130年前、天皇巡幸(明治天皇の北陸視察)の際、迂回路を整備。その名残りのひとつ、切り通しに石垣があるが、これもまた大変な作業だったろうと想像する。牟礼側は急な道だから、柏原の方で
石を用意し大八車と「もっこ」で運び、ノミと鎚で形を作る。人力で積み重ねる。その道を天皇は鳳輦(ほうれん=「屋形の上に金色の鳳凰を取り付けたみこし、天皇の乗り物」とある)に乗って通れるように準備したと記されている。
 杉林は植樹。カラマツやヒノキ、モミの木もあり木材生産のために針葉樹をメインに考えた国策で、食べられるきのこもヤマブドウもアケビもサルナシもグミもなく、楽しみが少ない林であるがせっかくのチャンス。思いっきり深呼吸。「先に吐いてから吸いましょう」何をやっても笑いが出て、今日のツアー参加者はいろんな楽しみ方を知っているようだ。
◆落葉踏み踏み古道を歩く
 田中義兼さん等「小玉こどう会」の皆さんが倒木の処理や下草刈りをして復活させた旧道は「一茶と歩く北国街道・野尻湖のみち」として『美しい日本の歩きたくなるみち五百選」のひとつに選ばれた。この紅葉の北国街道コースの気分を、より一層高めるに充分な道となっている。快く承諾いただき協力してもらっているこの土地の地主さんにも感謝。「皆さんありがとう!」こころして歩きますよ。 
 一里塚の先から古道に降りると、タヌキのモノと思われるたっぷり糞があった。またこの道が軽く曲がって下るところで、アケビをたくさん食べた動物の食痕に出会う。下見の時には野ウサギが前をピョンピョン。初心者はこのきのこが入門編と言われる可愛い”じこぼ“もあった。
道端の「馬頭観音」にご挨拶。ガマズミを口にすると、酸っぱさが山道を歩いた身体に爽やかだ。道の左右にリンゴの木が出てくると、のどかな集落が眼下に見えてくる、眺めながら坂を下る。旧道はより急な坂だ。
 一時は鍛冶屋の集落として元気だった小玉の家並み、たくさん使う各戸への水の取入れ口はふさがれたが今も道の両側には川が流れている。
赤や黄色のピラカンサがエラサマイ実っている。
 左へ折れて鳥居川を渡り、寺坂経由、坂を下りてまた川を渡り。水上に出て役場に戻る。
「お疲れさまでした」。自然学校の意図はご理解いただき、楽しんで貰えましたでしょうか?ぜひまた、お付き合いください。他の方も次回はいかがでしょうか「ありがとうございました。」
午後2時半散会。汗を流しにお風呂に直行。
Copyright 2005 gozan nature school. All rights reserved.