<ベッドサイド・ライブラリー>

イワン・イリッチの死」 トルストイ 岩波文庫

 イワン・イリッチは世間的には成功したと思われる人物として描かれています。この世的な栄達と快適な生活を求めて生きた生涯は、今日のわれわれの姿と重なります。そのイリッチが死に臨んで到達した境地は、そのようにあくせくと求めた幸せも、死の前では何の意味も無かったというものでした。

 死と向き合っていく過程で彼の心に唯一の平安をもたらしたものが、下男 ゲラーシムとの時間であったことは、意外な様ではありますが、私には「さもありなん」と思われました。それまでの業績や到達した生活の質は、慰めの材料になり得なかったことを、われわれは深く考えなければなりません。

ゲラーシムは椅子を持って来て、大きな音のしないように、きっかりちょうど床の面までおろし、そっと置くと、イワン・イリッチの足をその上へのせた。ゲラーシムが高々と足をもち上げた時、イワン・イリッチはずっと楽になったような気がした。

それ以来イワン・イリッチは、時々ゲラーシムを呼ぶようになった。そして、自分の足を肩に担がせながら、好んで彼を相手に話をした。ゲラーシムは気軽に、喜んで、造作なしにその役目を勤めた。そのうえ、彼の示す善良さが、イワン・イリッチを感動させるのであった。健康、力、活気、生命、こうしたものはすべて他人から見せつけられる時、イワン・イリッチに侮辱感を与えずにおかなかったが、ただゲラーシムの力や活気や生命となると、イワン・イリッチにいやな気を起こさせないばかりか、かえってその心を落ち着けるのであった。

 死の臨床の現場にいるわれわれは、このゲラーシムを見習うべきでしょう。彼は善良さだけが取り柄なのですが、俗人のわれわれがゲラーシムになろうと意識するとき、そのような善良さを持ち続けることは実はかなり難しいことに気づくはずです。彼の中に、文明社会に毒されていない健全な人間のあり方を見るような気がします。善良さというものは、世俗の幸せを追求するためには、多くの場合、犠牲にされてしまいます。しかし、死の床にあるイリッチは、人間にとってほんとうに重要なものである善良さを、ゲラーシムの存在を通して体感したに違いありません。

「いったいお前は何が必要なんだ?何がほしいというのだ?」と彼は自分で自分に言った。「何が?−苦しまないことだ。生きることだ。」と彼は答えた。

 この言葉に触れたとき、私は今日の緩和ケア医療の姿は、すでにトルストイによって予言されていたと感じました。そして、これまで私が学んできた医学は延命中心のものであり、かつて、イリッチが誤って求めてきた世俗的な成功と同じであると思えてなりませんでした。患者さんにとっても、医療人にとっても、本当に重要なことは何であるのかを、今こそ真剣に考えなければならないと思いました。


過去に遡れば遡るほど生命が多い。善行が多ければ多いほど、生命が多かった。


『ところで死は?どこにいるのだ?』
古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ?死とはなんだ?恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。
死の代わりに光があった。
「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!」

『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ。』


 それにしても、イリッチの肉体的、精神的苦痛を通して織り成される感情描写はリアリティに溢れていました。トルストイという文豪の天才を感じずにはいられません。
深く噛みしめて読みたい良書です。(2004/10/15)


<書評より>
一官吏が不治の病にかかって肉体的にも精神的にも恐ろしい苦痛をなめ、死の恐怖と孤独にさいなまれながらやがて諦観に達するまでの経過を描く。題材は何の変哲もないが、トルストイ(1828‐1910)の透徹した人間観察と生きて鼓動するような感覚描写は、非凡な英雄偉人の生涯にもましてこの一凡人の小さな生活にずしりとした存在感をあたえている。