プロフィール

作家 中村勝雄(なかむら かつお)

1960年、長崎生まれ。81年、平塚養護学校・高等部卒業。81年、木下恵介監督に師事(随筆)。84年、ATG映画脚本賞・佳作受賞。91年、まだ言葉さえ知られていなかった『バリアフリー』の必要性を映像化する企画が『24時間テレビ』に採用され自ら出演する。94年、日本テレビ編成局考査部の2年間契約社員となる。99年、デビュー作『涼子Hello my love』を発表。

2001年、小学館ノンフィクション大賞・優秀賞。猪瀬直樹氏らに高く評価される。週刊ポストに掲載された受賞の言葉

2002年、受賞作『パラダイス ウォーカー』は出版され、小学館の障害者を知るための10冊に選出される。NHK『福祉ネットワーク』に出演。

2003年、東京(中日)新聞にエッセイを33回が連載され好評を博す。東京都『総合の時間』副教材としても採用される。

2011年、ダウン症のため肺が成長せず1歳2ヶ月で逝いた長男の物語を『もう一度、抱きしめたい』として出版。
同年、秋『パラダイスウォーカー』が増刷される。

現在、作家として異色のバリアフリー論を新聞・雑誌などに発表している。ユニークな講演も評判である。

車イスの重度脳性マヒ、障害者手帳1級。

妻と二男の四人暮らし。横浜在住。

主な著書

『パラダイス ウォーカー』(小学館)

『もう一度、抱きしめたい』(東京新聞出版部)

『涼子 Hello my love』(プラルト出版)

主なテレビ出演

24時間テレビ』

『ルックルックこんにちは』

『福祉ネットワーク』

中村勝雄の講演

聖マリアンナ西部病院・コアラキッズにて 2007/11/18

                                                                文責・望月和美

どうもこんにちは、中村です。いま『作家』って紹介されたのですけども。実際には売れてない作家なので誰にも知られていません。でも、これから売れちゃうので覚えておいていただけたら幸いです。

いま高い所にいて、いつもは車イスの高さなので。あ、もし自分が歩けたらこういう高さなんだなと、ちょっとびっくりしています。

うちの子は2004年2月5日、この病院で生まれて、ダウン症でした。

あの700人とか1000人に一人しか生れてこないと言われるダウン症で、すっげぇ驚いて、あっという間に一年二ヵ月後に亡くなってしまいました。

だからこの病院の、NICUにつながる廊下に来ると、まだ賢ちゃんいるんじゃないかと思ってしまい、まぁ、今日もピンポンして「中村賢治の父ですけど」って言いたい衝動にかられながら、ここに来ました

今日は、こうして呼んでいただいて45分もいただいたんですけど、やっぱりスピーチとスカートは短めにって基本ですから、40分くらいで終わって、あとなんか中村君さあ、ちょっといろんな、手がないように見えるし、なんかどうなってんの? っていうことがあったら聞いてもらって結構ですし、この会場には笹本先生とか石井先生もいるから、何だったらぼくのレントゲン撮って研究に使っていただいてもいいので、よければ服も脱いでもいいんで、あとでここを降りたら聞きに来てください。何でもどうぞ。

さて、ぼくは昭和35年生まれで45歳です。結構じじいなんですよ。

当時、脳性マヒでうちの親はいろんな病院に連れてっていろんなこと言われて、脳性すいとう症だとか、たぶん3才まで生きないだろうとか、絶対だめですねって長崎で言われていたそうです。

ところが今じゃ、45歳まで生きている上に、二人の子の父親までやっちゃってるんで、人生なにが起こるかわからないですよね。そして最初に申し上げたいのは医学とか、そういうのって日進月歩どころか『分進秒歩』で、いつなにが起こるかわからない。

どんなにいい薬が出来るか分からないし、何がおこるかわからない。で、こんな自分が作家やってみなさんの前でしゃべってる自分って、とっても不思議で、自分の事は自分がいちばんあんまりこう好きじゃなくて、顔だってせめてヨン様くらいにカッコよければ、みなさんの前にも出やすいんですけれど、ぼくの顔って時代劇の斬られ役っていうか、そんな感じなので、あまり苦手なんですが・・・・・・

今日はこうやって呼んでいただいたので、やっぱり長男が生まれて一年二ヶ月過ごした病院ですから、そこでしゃべれると言うのは、なにか縁みたいなものがあるように思って来させていただきました。

とりあえず自己紹介させてもらうと、昭和35年に生まれて重症でした。重度脳性マヒでした。今はずいぶん医学が進んで「中村君くらいなんでもない」と言われてしまいますが、当時はぼくぐらい重症だと学校も行くところがなければ何もない。

そんな時にうちのオカンが、ちょっと面白い人なんですが、勝ち気で勝ち気で障害児を持つとお母さんて強くなっちゃうのか、強いお母さんだから障害児を育てられるのか、それは結果が出ないのですがとにかく強気なお母さんです。ちょっと僕が一才くらいの時喋ったんで、「この子学校に入れよう」と。

なんで学校に入れようと考えたかというと、「自分の死んだあとにたぶんこの子は施設で暮らす。施設で暮らした時に新聞が読めれば人と話ができるだろう」、ということで親は学校に入れたかった。ただ、当時40年代初頭長崎とかそういう場所には養護学校はありませんでした。

いわゆる施設はあったんですが、なかなか僕ぐらい障害が重い人は入れてもらえなくて、親はお父ちゃんと離婚する覚悟で東京へ行く、東京へ行ってちょうど神奈川県に親戚がいたので、横須賀というところに引っ越して。おやじは、母ちゃんのことが好きだったんでしょうね、長崎の会社やめて、まだ昭和40年代だったので転職とかぜんぜんオッケーだった。

そういう時代でした。それで神奈川県横須賀に移ってきた。

そして僕は、ゆうかり園、今でいう三ツ境養護学校に小学校から入って、その時初めて出たごはんがマカロニグラタン、今でもよく憶えているんですよ。それまで和風しか食べてなかったですから、なんでスパゲッティに穴があいているんだろうと思い、そして障害児っていうか同じような障害の子がいっぱいいて、ああ俺だけじゃねえんだって思ったのをようく憶えています。

だからある詩人が「人は人の中でしか育たない」って言ってますけど、僕はそうやって親が、母親が、おカンが、学校に入れたいと思った。何の大きなのぞみもなくて、ただ新聞が読めればいいと。

ただたぶんその時のお母さんの中では何十年先とか何年先とか、今できることをやっていたんじゃないかと。

いま自分ができることはこの子が学歴に達したから学校に入れる。学校を出たらリハビリに入れる、リハビリ出たあとは自宅に戻っていくような形で、それが新聞読めるどころか26の時に初めて新聞記事を書いてみせたら、うちのおカンが、「書かなくもていい、読めればいい」。

どういう理解? 読めるってことと掲載されることの差がよくお母さんには分かってないらしい。ただ読めれば良かったらしいのです。でも初めての本が出た時は「そんな売れるわけがない」と言いながら本屋さんでいっぱい買い込んじゃって近所に配っておりました。

それからどうなったかというと自分は障害が重たいんでとにかく人に手を借りる、借りなければいけない。そんな現実がよく分かりました。


中学校を出て、高校は養護学校(*解説*)受け入れがなかったもんで厚木にあるリハビリテーションセンターに行って、そこでまたいろんな障害者の方と会っちゃったんで、中途障害の方で、いわゆる頸椎損傷の方、脊髄損傷の方、片マヒの方達が、いっぱいいて、なあんだ俺だけじゃないんだとまた思って、だからどうしても障害のある子ども抱えたりすると、自分だけじゃないか?とか自分だけが何で?って思っちゃうんですが、ほんと広い世界でいっぱいいて、いろんな多種多様な方がいてそういうことが自分は15、6歳で見ちゃって。

その後高校を出て作家を目指すのですが、そんな売れるわけないじゃないですか、何のコネもなければ。

ここでちょっと時間があるので5分くらい作家になるための、もしこの中で作家になりたい方がいらしたら参考にしていただきたいのですが、まずシナリオライター、僕はドラマを目指しました。

なんでドラマかっていうと、当時、1980年代は月9トレンディドラマが流行っていて、あれをやりたくてとりあえずまずは、いろんなところで調べてみて、サスペンスが書けないとだめなんですね。

そこでまずプロデューサーと知り合うことなんで簡単でした。テレビ局に訪ねて行って、入って行って会いたいですと言ったら合えました。「君、どっから来たの?」というのを教えてもらって、とにかく簡単でした。

2時間ドラマってありますよね、月曜日から火曜日から、水曜日、金曜日、土曜日とほとんどサスペンス。これもう決まっているんですよね、パターンが。まず、5分以内にひとり死ぬ。で、美人なお姉さん、女優さんが温泉に入る。それからもうひとり殺される。

それから船越栄一郎が10時40分くらいに崖の上で「君が犯人だね」って、パターンが決まってます。それで何本か何十本か書いたんですが、プロデューサーが「中村君のはさぁ、殺し方がヘタなんだよ」。殺し方がヘタなんだよと言われても、人殺したことないし、死体もお父さん死んだ時しか見たことないし、それでシナリオライターも芽が出なかったんですが。

それでそうこうしているうちに乙武さんブームがやってきて、乙武さんカッコいいじゃないですか。顔がジャニーズ系で。それでその影響で自分の本が出ちゃったりして、そこからちょっと儲かっちゃったんで、あの香港とハワイにひとりで繰り出して行っちゃおうと思って、ひとりで行っちゃって、行っちゃったら簡単に行けちゃったのよ。

けっこう笑っちゃったんですけれども。その事をさらさらっと書いたら小学館に応募したら、なんか佳作もらっちゃって。ちょうど9・11の前だったんで、ちょっと内容があまりにもこう笑っちゃう内容なんで出せないっていうことになって、翌年本が出て、本が出たらなんか副賞で嫁が付いてきちゃって。

まぁ、ちょっと変わった嫁なんで、今日は熱出して、来たいと言いながら、来れなかったんですが、すごく変わった嫁で、「かっちゃん」と自分は中村勝雄なんで、かっちゃんと呼ばれているんですけれども、「かっちゃんといると楽だから〜」て言って、うちのお母さんとお茶していて、「この子な、なんでも・・・してもらえると思って」と理解不能でした。いや今でもそうですね。車イスの「男」を選ぶなんて、やはり妻は違う意味でビョーキですよ。

俺がですね自分の親に、嫁のお父さんとお母さんにたぶん車イスと付き合ってるって、お父さんお母さんなんか脳震盪おこしちゃって急に合うことになって、自分はどっちでもよかったんで、お父さんとお母さんが泣きながら「うちの子を返してください」って言うから、別に僕誘拐してないし、何もしてないのでお嬢さんにやめるよう言ったらどうですか、祈ったらどうですかと、すごく強気で言ったら、お父さんが負けたなと思ったんだか、そこまでへらへら来ちゃったんですが。

第一子を妊娠したと聞いて、僕は赤ちゃんのしくみとかぜんぜんわかんなかったんで、妊娠28週くらいで横須賀の病院に張りが強いとかで入院していて、ひとり暮らしを楽しんでいて、急に電話かかってきて、「今度入院するから」。「だってお前入院しているじゃん」。「でも入院だから」。「だってお前入院しているじゃん」って。

そういう会話で救急車でこちらの聖マリに運ばれてきて、オギャっと生まれる前にいろんな先生からいろんなこと言われて、車イスなのに早く来てくれ、って言われて俺が救急車乗りてーって思って。

どういうわけかわかんないけど早く来てくれって。横須賀から車イスでどうやって夜中に早く来いって言うのかって、かりや先生って産婦人科の先生ありがとうございました。で呼ばれて、お子さんおかしいと言われ、「えっ!?」自然分娩だけど、たぶんダメだし、足がないみたいだし、わかんないし、嫁は泣くばっかりでこっちはわけわかんないし。

で、これに署名捺印してくださいって同意書を出されて。代わりに友達に代筆してもらって。

そのあと覚えてるのは、たぶん笹本先生だと思うけど、すっとこう「男の子ですよ」って通り過ぎて行って、ああ男の子なんだと思い。
  どうも自分は障害者ですからちょっと詳しかったんで、三日目くらいからう〜ん、なんか違うかもって思って。この病院は二週間後に確定診断といって先生に呼ばれる。お宅のお子さんはダウン症ですって言われて、「え〜、お〜、やっちゃったよ。」と思って、わが子だからかわいいんだけど、自分が障害者ですから、なんかその瞬間、歩いたこと自分はないんですが、膝から落ちていく感覚っていうか、いや〜悪い、あの子に悪いことしちゃったなって思って。

ですからすぐに名前はつけて、宮沢賢治からいただいた「賢治」と名前をつけて、お腹の中にいる頃から男の子だって言われていたので。

じゃあ、雨ニモマケズ、風ニモマケズ、障害者のお父さんでも大丈夫をキャッチフレーズで育てようと思ったところが。当の本人も障害があったみたいと確定診断されて、なんとなく察してはいたんだけれども、何か質問はありますか?

と聞かれて、嫁も福祉関係だったので、よく分かっていたんで質問はありません。それから悪いことしちゃったな、賢ちゃんごめんねって、思ったんだけれどもだんだん病院に通っているうちにかわいくなっちゃって、僕思ったんですけど、ダウンの子ってきっとダウンていう星から、そこから来ているんだって時々思いました。1,000人にひとり、700人にひとり、人種、宗教選ばずに生まれてくるって、ネットでみて「そうなんだー」。
 ちょうど嫁は横須賀の病院で、横須賀の病院では年間に700人くらい赤ちゃんをとり上げるそうなんですが、他のお母さんたちと、「ダウンの子ってこの病院では年間ひとりなんだって。」って言ってたら自分の子だったって。あとで大笑いしてましたけども。

横須賀から通って、さっき誰かがおっしゃってましたけど、ない乳をしぼって冷凍してカチコチに固めて運んで、自分も病院通って。でも病院のみなさんも困ったと思うんですよね。お父さんまで車イスに乗ってね。

先生方にもいっぱいご迷惑かけて、看護婦さんにもいっぱいご迷惑かけちゃったんですけれども。障害を持ってる自分のことだったら何でもかんでもできるんですよね。賢治が点滴を3本、4本点々と、これさあ、半分くらい俺に分けてくんね〜?て、俺だったら100本でも200本でもうってもらっていいといつか思ってました。

なかなか呼吸器もとれなくて、肺が弱く、動脈管開存症という事でいっぱい言われて。その時若い先生だったんですが、T4っていうのを飲みました、と言われて思わず「先生それはターミネーターみたいな薬ですか?」て聞いたら、その先生は「まあそのようなもんです」と言ってよくわかんないですが。

一部ウケてくれればありがたいですが、そのくらい賢ちゃんが元気になって人形つかんで投げてみたり、すごいちっちゃいのに一番ちっちゃいおむつがブカブカで、なんかなあと、悪いことしたなあと思って。けどいつも笑ってる子で、点滴いっぱいして、鼻からミルクしか飲めなくて呼吸器はよくなっても鼻からしか飲めなくてまあ、痛くないのかなと。

 そうしてどんどん考えが変わっていって、いいじゃねえかって、うちを選んできた賢ちゃんなんだから。

こんな自分を、わざわざ選んで、お金があるわけでもないし、かわいい父ちゃんでもない親に来てくれたんで、精いっぱい生きようねって、心でつぶやいていました。

大和へ引っ越してきて、いつでも退院できるように準備しました。おかげで嫁がいないから言いますけど、嫁しゅうとめ問題もなくなって、賢ちゃんのおかげで横須賀と大和で離れたんで、まったく問題がなくなりとってもいい子だと思いました。

いまだに思ってます。週に何回かしか自分は来れなかったんですけれども、先生や看護婦さんにいっぱいかわいがってもらえて、それでも毎回通ってなんとか細いベッドの柵から手をねじこんでちょっと触って、すごいあったかくてぷよんぷよんでやわらかくて、すごく一生懸命生きているんでたまにこの何十年健康だったらいいな、と。

健康ってことはようは普通の地球人どおり歩けたらいいねって思ったりしたんだけれども。賢ちゃん見ていると、いいじゃないか、別に人生ふたつ楽しめるんだから。障害持ってる自分が、障害のある賢ちゃんの親になってすっごく、いろんなことが分かりました。同じNICUの中でいろんな子たちがいて、お母さん達がいてみんな一生懸命よく頑張っていてほんと女性ってすごいですね。

男はダメですね。点滴しますと言われると、あ〜またか・・・。また点滴・・・。ほんとに女性は強いですね。妻に引きづられて賢治のべっとから離されました。

確かに障害がなければ便利に決まってますよね。世界の、どこの国でも障害とか不自由がないほうが便利なんですが、あったらあったで、あっても別にやっていこうよって思います。別に何十年先じゃなくて、うちのオカンじゃないけど今日と明日とあさってくらい良ければいいんじゃないの? ってそういう感覚で。

もし自分だって何十年か先の賢治のこと考えたら、自分が味わった屈辱とか侮辱とかいろんな思いを賢治も受けるのが、形は違っても受けるのかと思うと、気が狂いそうでしたけれども、でもそれもそれはで、賢治が自分で幸・不幸を考えればいいと思うようになりました。

ただこのたびNICUの中をみていて、どんなちっちゃな赤ちゃんを産んでも入ってきてもすぐに退院して、すごい医療技術だなと思いました。

でも治らないものは治らなくて、その時にほんと人生、いまどき自分は障害が重い割にはへらへらへらへら生きてきたんで、なんだろう、なんかな馬鹿にしてるなってんだ、どうせ人生こんなもんだろうみたいな、だから宗教戦争みたいなってしまうんでしょうが、賢治を通して、自分では障害者とかそうことにどうなのか、人間としてどうなのか、人としてどうなのか、ということを長男が教えてくれたなと思います。     

いま次男が生まれてきていて今日もうるさいくらい元気で、病気の子もたいへんなんですが、健康な通常に地球人やってる子もものすごい。

パソコンに向かってくるあの速さ、どうやったらあのエイリアンのようなよだれからパソコンのキーを守るか、毎回泣き叫ぶは、わめくは、ミルクは吐くは、バナナは食うは、わけわかんない。賢ちゃんのほうがよっぽどいい子だったんじゃないかと。だけど両方の子どもを経験してどっちでもいいんじゃないって最近思うようになりました。

確かに賢ちゃん病院から出ることがなく、かわいそうだなと思います。だけどいろんな先生や看護婦さん、他の方がかかわってくれて、短かったから不幸なのかとか、じゃ長いから幸せなのかというとそうとは限らなくて、自分だって明日分かりません。

車イスで交通事故で、小田急線で踏み切り事故があったら明日自分が轢かれてるかもしれません。だけど今日元気だったらそれでいいんじゃないかと。それを支えてくださっている先生や看護婦さん、僕は一生、特に聖マリには感謝しているんで何らかの形で聖マリにバッシングされることがあったら僕が矢の先に立って真っ先に反対運動起こします。そんなことありえないんですが、それほど感謝しています。

ぼくは賢治を抱っこさせていただいていろんな方にご迷惑かけながら先生に手間かけて、たぶんメスより重たいもの持ったことがない先生が、車椅子を押してくれて。うちの嫁が冗談で「あの若い先生、2千万くらいかかってますよね」って言ったら、看護婦さんが「賢治くんもそれくらいかかってますよ」おおー、それくらいの医療費使ったんだなーと、息子の財政を圧迫したんだなと思ってます。

とりあえずうちは長男の賢治を通して最近、街でダウンの子をみかけると気になっちゃって、おっかけて大丈夫?って。なんでって?よくあります。ですから今後みなさんはなんらかの形でお子さんが小さく生まれたり、障害があったり思うんですよ。じゃ、死にたいって言ったら何か解決するかと言うと、そうでもなくてもう今日と明日とあさってくらいまで、うまくいけばいいっていうか、そういってほしいと思います。もう流れにまかせてやっていったらどうかなと思います。

自分はこれから先、作家としてまったく才能ないんですよ。あるわけない。20代からはワープロってのを手に入れてやり始めたんで、あの才能なんかまったくないんですが、長男賢治のことはNICUの方々しか知らないんで、僕が本にして書かないともしくはドラマにして愛してあげないと誰も知らない子になっちゃうんで、早く、やっと原稿2年たって書けるようになったんで、書いて本にしてドラマにしてとしたら今、嫁ともめてます。嫁の役は誰が演じるんだって。

僕はできればアメリカのハリウッド映画にしてスピルバーグに頼んで特撮で賢ちゃんをよみがえらせていただきたい。NICUはビデオカメラが入れなかったので動いている賢ちゃんが一個もありません。

今はいいカメラもいっぱいあるんで、そのへんはNICUとか病院の方にも検討していただいて、医療機器にも問題ないビデオカメラをメーカー指定で、ソニーならソニー、ビクターならビクターと指定して入れていただけたらと思います。

その時の赤ちゃんはその時にしか撮れないので、ぜひ入院が長引いたりしたら写真で、賢治は写真しかありませんが、500枚くらい撮りました。もっとあるかもしれません。

けど動いている画がいっこもないんでハリウッド映画にして、そうだなあ、ブラピに僕をやってもらって、じゃあ笹本先生は誰が演じるんだって、石井先生は誰が演じるって思うんですが、看護婦さんたちは一体誰が演じるんだって。

たとえばとりあえず日本のドラマになった場合の夢ですね、松嶋奈々子でいいからって言って、おまえそれは犯罪だろうと、お前を松嶋奈々子が嫁を演じる世の中だったらヨン様に俺をやってもらう、そうしたら韓国ドラマになっちゃうじゃないかって。看護婦さんの磯貝さんからも、「お父さん、ドラマまだ?私の役は誰?」って会うたびに聞かれるし、一体磯貝さんあたりの女優さんは誰がやるのか悩んじゃう。メグミさんあたりにやっていただくだと磯貝さん怒っちゃうかなとか思うんですが、そういう感じで頑張って自分もこれから、今は売れない無名の作家ですが、これから先、2〜3年後にはあの時の聖マリで講演してた「中村」だ、なんか売れてきちゃったな、お子さんの事で儲けてるらしいよって、いうことでやっぱり元気にやっていかないと亡くなった子どもも残らないんじゃないかと思います。

この中でさっき話を聞いていると、ふたごの片方のお子さんが亡くなったとかいろんな話を聞いていたら、あ〜それも辛いなあって、思ったんですが、人は亡くなった方のことを忘れるとか言いますけど、親は絶対忘れないんで親が元気でいないとその子のことを覚えてる人がいなくなっちゃうんで、たとえ何週間かの命、お腹の中だけでの命であったとしても、お母さんとお父さんは一生忘れないと思います。

だからお父さんお母さんが元気でいること、健康に気をつけること、子どもにとって若干障害があるというお話もありましたけれども、わかんないじゃないですか。明日になったら特効薬が出て、ピッって治っちゃうかもしれないし、たとえば50年前、60年前は肺結核だって死んじゃう病気でした。

今では簡単に治っちゃう。僕くらい障害が重くてもこうやって作家ってわけわかんない話して、これでも今度来週、四国に呼ばれていて、なんで四国へ呼ばれる?一時間喋って14万。14万いただけちゃうんで。

今日の講演料は、のちほど笹本先生が点滴をうって下さるというんで講演料はそれで十分だと思っています。

だから時代がどう変わるかわからないんで、現状がどんなにたいへんとか、お子さんの成長が遅いとか早いとかいずれいいので、たとえ通常の地球人で産んだ子がいたとしても、20才、25才で家の中引きこもってしまったり、働かない人がいたり、そんな子に比べれば小さい頃は一生懸命頑張っている子ども達はよっぽど偉いと思うんですよ。

NICUってあの中で一生懸命頑張って、あの僕はN入った最初のことを覚えているんです。赤ちゃんなのに赤ちゃんの泣き声がしないですよね。夜中の2時くらいでした。呼ばれて入って、わぁ、ここはウルトラマンの部屋かなって思いました。あっちでピコンピコン、こっちでピコンピコン、ウルトラマンがいっぱいいるとこだなって。

そんなふうに思いました。障害を持つ子のたいへんさとかは僕はすごくよくわかってます。わかっているけどそれを嘆いても何か始まるかと言うと何も始まらなくて、じゃ明日、あさって、今までどうであれ急によくなるかもしれない。すごいいい薬ができるかもしれない。いい対処療法が見つかるかもしれない。ってなにか信じて明るい形でやっていくことが楽な人生になるんじゃないかなと思います。

これから先、自分も精一杯いい原稿を書いて、障害を持ってる父親が障害者の親になったのは、とってもめずらしいケースだと思うんで、両方の立場がわかるまたみなさんのお役に立てたらいいなと思うんで、これから先スタッフで役立てて、影の役ならなんでもやりますんで、といっても何もできないんですけど、何かお役に立てたら幸いです。

もしこの聖マリがなかったら賢ちゃんとのこんな時間もなかったし短い時間だったかもしれないけど、やつとは親子でした。

今でも親子だと思ってます。だからこの病院があることに感謝して、これからもやっていきたいと思うし、自分も筋肉の薬をもらいにこの病院に来るのですが、来るたび2階に賢ちゃんいるかなって思い出しながら、なかなかNに近づけないで、今でも帰りがけで、今度ピンポンってチャイム押して中村賢治の父ですけどって言って開けてくれるのかな?

って思うんですけど、このインターホンが高い位置にあって、よくあれを押していたなと、今日見てきました。

えぇ最後に、ぜひこれからもみなさんに覚えておいていただいて、中村ってのがメディアに出てきたら、あ、あの時のあいつだっーと思い出していただければなと思います。今日は長い時間ありがとうございました。以上です。