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オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞講演

原文 Remarks by the President at the Acceptance of the Nobel Peace Prize


両陛下、殿下並びに妃殿下、ノルウェーノーベル委員会委員の名高き方々、アメリカ国民、そして全世界の皆さん。

私はこの名誉を深甚なる感謝をもって拝受いたします。この賞は私たちの至高の目標、すなわちこの世界のあらゆる残虐、あらゆる苦難に対して、私たちが運命の奴隷に甘んじてはいないことを表しています。私たちの行動には意味があり、それによって歴史を正義へと向かわせることができるのだと。

この雅量ある決定を下すにあたって少なからざる議論がありました。私は、それに気づかぬほど無頓着な人間ではありません(笑)。原因の一つは、世界に対して行うべき私の仕事が始まったばかりであり、まだ終わっていないということでしょう。過去この賞を受けた歴史上の偉人たち、シュバイツァー、キング、マーシャル、マンデラ各氏と比べれば、私の成し遂げたことはほんの僅かでしかありません。世界には正義を求めたがゆえに投獄され打ち据えられている人々がいます。他人の苦難を和らげるために人道団体で努力を続けている人々がいます。団体に属さなくても、どのような冷笑家の心をも動かしてしまう勇気と思いやりある行動を当然の如くする人々が数多くいます。この名誉を受けるのは私ではなくそうした人々、世に知られている人も当事者にしか知られていない人も、そうした人々こそ遥かに相応しいという意見に、私も異論はありません。

しかし、私の平和章受賞を巡る最大の問題はおそらく、私が今まさに2つの戦争をしている国の軍最高司令官であるという事実でしょう。その一つは収束に向かっています。もう一つはアメリカが望んだ戦いではありません。ノルウェーを含む42か国も参加しており、我が国を含むすべての国の人々をさらなる攻撃から守るための戦いです。

我が国は今も戦争の最中にあり、私の責任で何千人ものアメリカの若者たちを遠い国の戦闘に派遣しています。その中には誰かを殺す者もいるでしょう。誰かに殺される者もいるでしょう。武力衝突に伴うそうした負の側面を痛切に感じながら,私はここに参りました。その間、私の心を占めていたのは戦争と平和の関係、戦争を平和に換える活動についての困難な問題でした。

しかし、こうした問題は今始まったことではありません。形はどうあれ戦争は人と伴に現れました。そして、歴史の黎明期においては、その倫理性が問題になることはありませんでした。戦争は干魃や病気のように一つの現実に過ぎず、部族,後には文明が力を追求し相違を解消するための手段だったのです。

やがてそれぞれの集団内では法による暴力の制御が求められるようになり、それにつれ戦争という破壊的な力についても哲学者・聖職者・政治家が規制を求めるようになりました。そして「正しい戦争」という考え方が生まれました。戦争は一定の条件を満たすときのみ正当化されるという考え方です。それが最後の手段あるいは自己防衛であり、投入される武力が応分のものであり、できうる限り民間人に暴力が及ばないようにするとき、戦争は正当化されると考えたのです。

もちろん、この「正しい戦争」という考え方が歴史の大部分において滅多に見られないことはご存知のとおりです。殺し合いの手段を考えだすことにおいてヒトという動物の能力が果てしないことは実証済みですし、自分たちと外見の異なる人々や異なる神に祈る人々は慈悲の外という点でも同様です。かつて戦争は軍隊と軍隊の戦いでしたが、今では国民と国民の戦い、総力戦になりました。総力戦では戦闘員と民間人の区別は曖昧です。この欧州大陸は30年間にそうした殺戮に2度巻き込まれました。第二次世界大戦には第三帝国と枢軸国を破るというこれ以上は思いつかないほどの大義がありましたが、兵士の戦死者を上回る民間人が死亡するという戦いになりました。

そうした破壊の結果、そして核時代の到来により、勝利者の目にも、敗北者の目にも、世界には次の世界大戦を避けるための仕組みが必要であることが明白になりました。それゆえに、ウッドロー・ウィルソンが提唱しそれによってこの平和賞を授与された国際連盟への参加を合衆国上院が拒否した四半世紀後、アメリカは平和を維持するための組織の創設へと世界を導いたのです。マーシャルプランと国際連合、戦争行為を統御するためのさまざまな機構、人権を保護し大量虐殺を阻止し最も危険な兵器を制限するためのさまざまな条約。

こうした努力はさまざまな形で実を結んでいます。確かに、悲惨な戦争は今もあり、残虐行為も続いています。しかし、第三次世界大戦は起きていません。冷戦は、人々が歓声をあげながら壁を壊し、終わりました。世界の多くの地域が貿易によって結ばれ、何十億もの人々が貧困から救い出されました。自由と自己決定、平等、法の支配という理想は、たどたどしくではありますが前進しているのです。それは、これまでの世代が不撓不屈の精神と未来への希望をもって努力した結果であり、我が国が正当にも誇りとする伝統でもあります。

しかしながら、新世紀最初の10年の間も、この歴史ある組織には新たな脅威が重くのし掛かっています。2つの核超大国が戦争を始める可能性に世界が打ち震えることは最早ないでしょうが、核が拡散すれば大惨事の危険性は高まるでしょう。テロリズムは長い間戦術レベルに留まっていましたが、現代技術により今では怒りに駆られた狭量な人物が数名いれば罪のない人々を恐るべき規模で殺害することが可能になっています。

さらに、国家間の戦争に代わって内戦が増えつつあります。民族や宗派間の争いの再燃、分離主義運動の拡大、暴動、国家の破綻。こうした諸々のことにより、人々は終わりなき混沌に捕らわれつつあります。今日の戦争では兵士よりも多くの民間人が殺されます。争いの種が蒔かれ、経済は破壊され、市民社会は引き裂かれ、難民が増え、子どもたちは傷つけられています。

今日この場に立つ私にも、こうした戦争の問題に対する確たる解決策はありません。しかし、こうした課題に取り組むには数十年前にかくも果敢に行動した人々と同じ構想、同じ努力、同じ忍耐が必要だということ。そして、正しい戦争という概念と正しい平和という要請について新たな見方で考える必要がある、ということはわかります。

私たちはつらい現実を認めることから始めなければなりません。すなわち、私たちが生きている間に暴力的な争いを根絶させることはできないだろうという現実です。これからも、武力の行使が必要でありそれは道徳的に正しいと国家が、単独であれ協調行動としてであれ、考えるときがあるでしょう。

私はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの言葉を胸にこの講演をしています。数十年前、キング博士はこの同じ平和賞受賞式で次のように述べました。「暴力が恒久平和をもたらすことは決してない。暴力で社会問題を解決することはできず、以前にも増して錯綜した暴力を生むだけだ」。キング博士が生涯をかけて取り組んだ運動のまさにその成果としてここに立つ私は、非暴力に道徳的な力があることを示す生ける証拠です。ガンジーとキングの信念と生き様に弱々しいところはなく、受動的なところもなく、非現実的なところもないことを私は知っています。

しかし、我が国を保護し防衛すると他国の元首が誓ったとしても、私はそれのみに頼るわけにはいきません。私は現実の世界に直面しており、アメリカ国民に対する脅威の前に無為でいることはできない。過ちを犯さないために。この世界には邪悪なものが現に存在するのです。非暴力運動はヒットラーの軍を止めることができませんでした。交渉によってアルカイダのリーダーに武器を置くよう説得することもできません。武力はときに必要なことがあるというのは皮肉ではなく、歴史認識です。人間は不完全であり、理性には限界があるのです。

私はこの点を提起し、ここから出発したいと思います。なぜなら今日多くの国において、その理由はともあれ、軍事行動に深いためらいがあるからです。そして、時々ですが、それには反射的に世界で唯一の軍事超大国であるアメリカに対する疑念が伴います。

しかし、第二次世界大戦後の世界に安定をもたらしたのは国際的な仕組み、すなわち条約や宣言だけではないということを世界は思い起こさなければなりません。我が国は誤りを犯してきたかもしれませんが、一つの明白な事実があります。すなわち、アメリカ合衆国は自国民の血と武器の力によって全世界の安全を60年以上にわたって支えてきたという事実です。我が国軍人の働きと犠牲が、ドイツから朝鮮に至る地域の平和と繁栄を促し、バルカンなどの地域で民主主義を掴み取ることを可能にしました。我が国がこの負担を引き受けてきたのは、我が国の意向を押しつけるためではありません。啓発された自己利益からそうしたのです。すなわち、自国の子どもや孫たちによりよい未来を残したい、他国の子どもや孫たちが自由にそして繁栄の中で生きることができれば、我が国の子どもや孫たちもよりよい生活ができるだろうと考えるからです。

そう、戦争という道具は平和の維持に役立っているのです。そして、この事実にはもう一つの事実が伴っています。戦争は、どれほど正当化されるものであろうとも、人間に悲劇をもたらすという事実です。兵士の勇気と犠牲は栄誉溢れるものであり、国、大義、戦友への献身を表しています。しかし、戦争それ自体は決して栄誉あるものではなく、決してそのようなものとして称揚してはなりません。

ですから、私たちが取り組むべき課題の一つは、こうした一見したところでは相容れない2つの事実をどのように調和させるかということです。戦争はときに必要だが、人間の愚かさの表れでもある。具体的に言えば、私たちが努力を傾けるべきはケネディー大統領が遠い昔に求めた行動です。ケネディーは呼びかけました。「より現実的でより達成可能な平和に向かって取り組もう。人間の特性が突然善良になることを期待するのではなく、人間の作る仕組みを少しずつ改革することによって」。人間が作る仕組みを少しずつ改革する。

この改革とはどのようなものでしょうか。現実的な対策とはどのような対策でしょうか。 まずはじめに、私はすべての国が、強国も弱国も、武力の行使を統御する規範を守らねばならないと考えます。私は、他の国の元首同様、我が国民を守るために必要とあらば一方的に行動する権利を留保します。しかし、規範、国際的規範を守ればそれだけ優位に立て、守らなければ孤立化し不利になると確信しています。

9月11日の攻撃の後、世界はアメリカに結集し、アフガニスタンでの我が国の活動を支援してきました。それはこうした無分別な攻撃に対する恐れからであり自衛の原則が認められているからです。同じように、サダム・フセインがクエートに侵攻したとき、世界はフセインに立ち向かう必要性を認めました。侵略すればどういう代償を払うことになるのか、明確なメッセージを全世界に知らしめるということで合意したのです。

さらに言えば、アメリカ自身はそうした規範に従わず、しかし他国には従わせるということもできるでしょう。実際にはそんな国はありません。もし我が国が規範に従わなければ、我が国の行動は恣意的と見られ、今後介入する際にそれがどれほど正当なものであったとしても、その正当性が弱められてしまうでしょう。

そして、この点は、軍事行動の目的が自衛、あるいは攻撃にさらされている他国の防衛を越える場合にとりわけ重要になります。私たちが直面する問題はますます困難になっています。市民が自国政府によって虐殺されるのを防ぐには、あるいは、一つの地域が暴力と苦難に丸ごと飲み込まれてしまう内戦を止めるにはどうすればいいのでしょうか。

私は、武力は人道に基づいて正当化できると考えます。たとえば、バルカンのように戦争に痛めつけられてきた地域では正当です。何もしなければ私たちの良心が引き裂かれますし、介入が遅れればそれだけ負担が重くなるでしょう。ですから、すべての責任ある国々は、平和を維持するために、任務を明確にした上で軍の有用性を受け入れねばならないのです。

全世界の安全に責任を持つというアメリカの意志が揺らぐことは決してありません。しかし、世界では脅威が拡散し任務は複雑化しています。そうした世界では、アメリカが単独で行動することはできません。アメリカだけでは平和を守ることができないのです。アフガニスタンしかり。ソマリアのような破綻国家しかり。そこでは、テロと海賊行為に飢餓と人間の苦難が伴っています。そして、残念なことですが、これからも不安定な地域ではそうした状態が続くでしょう。

NATO諸国の指導者と兵士、友好国と同盟国がアフガニスタンで示したその能力と勇気は、これが事実であることを示しています。しかし、多くの国では、軍務についた人々の努力と一般の人々のためらいの間には乖離があります。戦争が不人気な理由は理解できますが、その一方で平和が望ましいと思うだけでは平和は滅多に訪れないということも私は知っています。平和には責任が必要です。平和には犠牲が伴います。だからこそ、NATOはこれからも存続しなければならないのです。国連と地域的な平和維持を強化しなければならないのです。一部の国に任せておくのではなく。だからこそ、外国での平和維持や訓練に従事し、オスロやローマに、オタワやシドニーに、ダッカやキガリに帰国した人々を讃えるのです。戦争をした者としてではなく、平和を守った者として讃えるのです。

武力の使用について、もう一つ指摘しておきたいと思います。戦争するか否かは難しい判断ですが、さらに戦い方についても明確に考えておかなければなりません。ノーベル委員会は最初の平和賞を赤十字の創立者でありジュネーブ条約の陰の立役者であるアンリ・デュナンに授与しましたが、そのときこの事実を認識していました。

武力が必要な場合、我が国は道徳的および戦略的観点から交戦規定を定め、自身を規制します。そして、ルールなき悪徳の敵に対するときでさえ、アメリカ合衆国は戦争の遂行において規範を守らなければならないと私は考えます。この点において、我が国は我が国が戦っている相手とは異なります。それが我が国の力の源泉です。だからこそ、私は拷問を禁じたのです。だからこそ、グアンタナモ湾の収容所を閉鎖するよう命じたのです。だからこそ、ジュネーブ条約を遵守するというアメリカの意志を再確認したのです。自衛のために戦うというこの理想を曲げれば、私たちは己を見失ってします。(拍手)。そして、我が国はこの理想を高く掲げ、この理想を讃えます。この理想を守るのが容易なときだけでなく困難なときも。

ここまで、私たちが戦争を選んだときに心に重くのしかかる問題についてお話ししてきました。ここからは、そうした悲劇的な選択を避ける努力についてお話ししたいと思います。正しくそして永続する平和を構築するための3つの方策についてです。

まず第1に、規範や法を守らない国に対するに、暴力に代わって、実際に行動を変えさせるに十分な力を持つ代替手段を作り出さなければならないと私は考えます。永続する平和を望むなら、国際社会という言葉に何らかの意味がなければなりません。規範を破る政治体制は責任を取らなければなりません。制裁は実効あるものでなければなりません。応じなければ、圧力の強化をもって対応しなければなりません。そして、そのような圧力は世界が一致団結したときにのみ可能となります。

緊急を要する例に、核兵器の拡散を防ぎ、核兵器のない世界を希求する努力があります。前世紀の中頃、国々は条約により核兵器を制限することに合意しました。その内容は明瞭です。すなわち、すべての国は原子力を平和利用することができ、核兵器を持たない国は将来にわたって持たず、核兵器を持つ国は削減を目指すというものです。私はこの条約を支持すると断言します。私の外交政策の中心であり、私はアメリカとロシアが保有する核兵器を削減すべくメドベージェフ大統領とともに努力しています。

しかし、私たちすべてに課された義務もあります。イランや北朝鮮などの国が不拡散体制を弄ばないよう強く求めることです。国際法の尊重を唱える国は国際法が無視される事態から目を逸らすことはできないはずです。自国の安全に腐心する国は中東や東アジアにある軍拡競争の危険性を無視することはできないはずです。平和を希求する国は核戦争のために武装しようとしている国があるとき手をこまぬいていることはできないはずです。

国際法に反して自国民を残忍に扱う国についても同様です。ダルフールの大量虐殺、コンゴの組織的強姦、ビルマの弾圧に対して、その責任を取らせなければなりません。確かに交渉という手段があります。外交という手段もあります。しかし、そうした試みが失敗に終わったら、責任を取らせなければなりません。そして、私たちが団結すればするほど、武力介入するか迫害に荷担するかという選択を迫られる可能性は少なくなります。

2点めは、私たちが希求する平和とはどういうものか、です。平和は単に目に見える争いのないことを意味するのではありません。平和は一人ひとりの固有の権利と尊厳に基づいたものでなければならず、そうした正しい平和だけが真に永続可能です。

第二次世界大戦後、世界人権宣言の起草者たちを駆り立てたのはこうした考え方です。人権が蹂躙されるのを見て、人権が守られない平和は空虚な約束だということを悟ったのです。

しかし、この言葉は今もあまりにもしばしば無視されます。一部の国では、人権が擁護されていません。そうした国は、人権は西欧の論理だから、地域文化と相容れないから、発展途上だからと言い訳します。そして、アメリカの中にも昔から現実家あるいは理想家と自称する人々の間に対立があります。限られた範囲での利益追求か、アメリカの価値を世界に広めるための終わりなき活動かという両極端の選択です。

私はいずれの選択肢も拒否します。人々が自由に発言し、己の信ずる神を崇め、自分たちの指導者を自ら選び、恐れることなく集会を開く、そうした権利が否定されたところに安定した平和はないと私は考えます。鬱積した不満は膿となり、部族的、宗教的アイデンティティーの抑圧は暴力につながります。事実はその逆であることを私たちは知っています。実際、欧州は自由になって初めて今の平和を見いだしました。アメリカは民主主義国を敵として戦争をしたことはなく、我が国の最も親しい友人は自国民の権利を擁護する政府です。どれほど酷薄に考えたとしても、アメリカの利益、そして世界の利益が、人間の願望を否定することによって購われることはありません。

ですから、それぞれの国が持つ固有の文化と伝統を尊重する一方で、アメリカはいつでもそうした普遍的願望の声となります。静かなる高潔の改革派アウン・サン・スー・チー、暴力に屈せずに投票したジンバブエの勇気ある人々、粛々と街頭を行進した数十万のイランの人々の証言者となります。それは、こうした政府の指導者たちが外国の武力以上に自国民の願望を恐れていることを示しています。そして、すべての自由な人々と自由な国々には、こうした動き、希望と歴史の動きを私たちが支持していることを明確に示す責任があります。

また、こうも言いたい。人権の普及は勧告すればそれでよしというものではない、ときには痛みを伴う外交が必要になることもあると。もちろん、圧制との交渉によって憤懣そのものを解消することはできません。しかし、効果なき制裁、議論なき非難が傾きかけた現体制を持続させてしまうこともあるのです。門戸を開くという選択肢を持たない限り、圧政に新たな道はありません。

文化大革命の悲惨さを思うと、ニクソンが毛と会談したことには釈明の余地がないように見えました。しかし、中国が数百万の自国民を貧困から救い社会を開く道に歩み出す一助になったことは確かです。ヨハネ・パウロ教皇のポーランド訪問はカトリック教会だけでなく、レック・ワレサのような労働運動指導者にとっても活動の余地を生み出しました。ロナルド・レーガンによる軍備管理の努力とペレストロイカの支持はソビエト連邦との関係を改善しただけでなく、全東欧の反体制派を力づけました。ここには、単純な公式はありません。孤立化と交渉、圧力と誘導をできる限りうまく組み合わせ、人権と尊厳を少しずつ前進させなければなりません。

第3に、正しい平和には市民権や公民権だけでなく、経済的な安全と機会も含まれていなければなりません。真の平和は恐怖からの自由というだけでなく、貧困からの自由でもあるからです。

疑いない事実があります。すなわち、安全のないところに発展は根付かず、ヒトという動物が生きて行く上で十分な食料と安全な水、医療と避難所のないところに安全はありません。子どもたちが適切な教育を望みえないところ、あるいは、家族を養う仕事のないところに安全はありません。希望がなければ、社会は内側から蝕まれていきます。

それゆえにこそ、農民が自国民のために食糧を生産し国が子どもたちを教育し医療を提供することを支援するのは単なる慈善ではないのです。それゆえにこそ、世界は協力して気候変動に対処しなければならないのです。このまま手をこまぬいていれば干魃・飢饉が深刻化し人々の大移動が始まるであろうことに、科学的な論争は殆どありません。そうなれば今後数十年間にわたって争いは深刻化するしょう。そのため、科学者や環境活動家が迅速かつ強力な行動を求める一方、我が国を含む各国の軍事指導者たちも共通の安全は危ういと考えているのです。

国家間の合意。強力な仕組み。人権の擁護。途上国への投資。ケネディー大統領が語った改革を実現するためには、このどれもが必須です。しかし、私たちの意志と決断と持久力だけでこの仕事を完遂することはできないでしょう。この仕事を成し遂げるには、私たちの道徳的想像力の絶えざる拡大、私たちには誰もが持つ共通の核があるという信念が必要です。

世界が小さくなるにつれ、ヒトという動物が自分たちの類似性を認識することが容易になり基本的に同じことを求めていることに気づきやすくなる、家族がそこそこの幸福と満足のある暮らしを送る機会を誰もが望んでいることに気づきやすくなるとお考えかもしれません。

その一方、目まぐるしく進展するグローバリゼーション、現代化という文化の平準化が進む中で、自分たちに固有のアイデンティティーで最も大切なもの、すなわち人種や部族の喪失、おそらくは宗教の喪失を最も強く恐れたとしても驚くには当たらないでしょう。いくつかの地域ではこの恐れが争いを生んでおり、私たちは後戻りしているのではと感じることさえあります。アラブとユダヤの争いが激化していると思われる中東で、部族の違いで分断された国家で、それを見ることができます。

そして、最も危険な例は、宗教によって罪のない人々の殺害を正当化する人々です。彼らはイスラムという偉大なる宗教を歪め汚しアフガニスタンから我が国を攻撃しました。神の名の下に殺人を犯した例は、こうした過激派が初めてではありません。十字軍の残虐な行為はあまた記録されています。しかし、こうした例を見れば、いかなる聖戦も正しい戦争ではありえないということが改めてわかります。神の意志を実行していると信じ込んでしまえば、遠慮する必要などないからです。妊婦であろうと、医者であろうと、赤十字関係者であろうと、自分と同じ信仰を持つ人々でさえも容赦する必要はありません。こうした歪んだ宗教観は平和という考えと相容れないばかりか、宗教の目的そのものとも相容れないと私は考えます。主要な宗教にはずべて、その核心に一つの規則があります。すなわち、「人にしてもらいたく思うそのとおりに人にせよ」(ルカ福音書6-31前田護郎訳)。

この愛の法に従うことは、人間の特性にとって、いつでも中心的な難題でした。私たちは誤りを犯しがちだからです。私たちは誤り、傲慢や力、ときには邪悪なものの誘惑に負けます。優れた心延えの人でさえ、私たちの眼前にある誤りを正すことができないことがあります。

しかし、人間が理想的な特性を持たないかぎり理想的な状況は得られないと考える必要はありません。世界をよりよい場所にするという理想を目指すために、私たちがいま理想の世界に住んでいる必要はないのです。ガンジーやキングのような人々が実践した非暴力はどのような状況においても有用というわけではなく可能というわけでもないでしょう。しかし、彼らが説いた愛、人間の進歩に対する基本的な信念は、いつも、私たちの旅を導く北極星となるに違いありません。

私たちがその信念を捨てたとすれば、それを愚かなこと非現実的な考えとして退けたとすれば、それを無視して戦争か平和かを判断したとすれば、私たちは人間性の最も素晴らしい部分を捨てることになるからです。可能性を信ずる心を捨てる、道徳上の羅針盤を捨てることになるでしょう。

これまでの世代の人々のように、私たちもそんな未来を拒否しなければなりません。キング博士は何年も前にこの場でこう語りました。「歴史が動かなくとも、私は決して絶望しない。人間の『現在の姿』からは『在るべき姿』に到達することは道徳的に不可能であり手が届くことは永遠にないなどと、私は断じて思わない」

在るべき世界、私たち一人ひとりの魂の中に今もある神性の輝きを目指しましょう。(拍手)

今日もどこかで、この瞬間に、この世界のどこかで、兵士は火力の勝る敵に対峙しつつ、平和を守るためにしっかりと立っています。今日もどこかで、この世界のどこかで、抗議する若者が自国政府の蛮行が予想される中、勇気を持って行進しています。今日もどこかで、母親が、厳しい貧困の中にあっても時間を作って子どもに教え、子どもを学校に通わせるために必要な数枚の硬貨をかき集めています。なぜなら、無慈悲な世界にも子どもが夢を見られる場所があると信じているからです。

私たちも、彼らのように生きましょう。迫害はなくならないとしても、私たちは正義のために努力することができます。腐敗はなくならないとしても、私たちは尊厳のために努力することはできます。目を見開けば見えてきます。戦争はこれからもあるとしても、平和のために努力することはできると。私たちにはできます。それが人間の進歩の歴史だからです。それが全世界の希望だからです。課題を前にして、それがこの地上にいる私たちの取り組むべきことのはずだからです。

ご静聴ありがとうございました。(拍手)