ぬるくて少し重みのある液体に浸かっているみたいな、そんな気だるさを身にまとったまま菊丸は目を閉じている。
キッチンの方から聞こえるかすかな物音。
冷蔵庫を開けた音。何かを取り出す音。冷蔵庫を閉める音。ゆっくりと歩く、足音。

そのまま目を閉じていると、部屋のドアが開いて、静かな足音がすぐ傍までやってくる。

「英二」

だるかったのもあるけれど、なにより、今にも眠りに落ちそうな心地よさを手放したくなくて、菊丸は目を閉じたまま、口元の笑みだけで答えた。

「大丈夫か?」

肯定の印にまた笑う。
それに答えるように大石も微笑んで、菊丸が体を投げ出すように横になっているベッドに腰掛けた。
スプリングの軋む、鈍い音。

「水、持ってきたけど、いるか?」

菊丸が抱えている心地よさを妨げないように、小さな優しい声で大石が聞く。
喉は乾いているけれど、もう少しだけこのままでいたくて、菊丸はかすかに首を振った。
そんな仕草でさえも愛おしくてたまらないというように大石は目を細めて、その長い指で菊丸の髪を梳いた。

先程までの狂おしいような熱を2人で昇華して、今はこの静けさの中に満ち足りた時を感じていられる。
それがどれほど幸せなことなのか、最近になってやっとわかってきた気がする。
大石と菊丸が出会って、ちょうど10年目の11月28日。



*** 優しい時間 ***



今年の菊丸の誕生日は月曜日。
本当は1日早く、日曜日に誕生日を祝うはずだった。
日曜なら2人とも仕事が休みで、朝から一緒にいられるから、という約束だったのだけれど。
思わぬアクシデントで大石が休日出勤を余儀なくされ、同じ社会人である菊丸もそれを責める訳にいかなかった。
仕事さえ片付けば夕飯くらいは一緒にというささやかな望みすら、深夜にまで及んだ仕事のせいで叶わない。
結局は忙しさの合間をぬってかけてきた、大石からの短い電話だけとなってしまった。

気落ちしたまま迎えた月曜日。
朝からローテンション全開でいた菊丸を浮上させたのは、大石から来た一通のメール。
『仕事が終わったら連絡してくれ。迎えに行くから。英二の誕生日を祝いたい』


上半身が隠れてしまいそうな薔薇の花束を抱えて迎えに来た大石に、菊丸は腹がよじれそうになるほど笑う。
大石としては笑いをとるつもりはさらさら無く、どちらかといえばロマンチックな夜を演出してみたつもりだったが、涙まで流して笑い転げてる菊丸に、まぁこれはこれでいいかと満足する。
昨日、日付が変わった直後に、どうしても誕生日おめでとうの一言がいいたくて、会社から電話を入れた。
少しだけ話した時の菊丸の、言葉にはしない淋しさが受話器越しに伝わってきて、どうしてこんな時に傍にいられないのだろうと大石を切なくさせた。
大人になった自分達は子供の頃のように自由に時間は使えない。
でも、だからこそ、本当に大事な時だけは、なにをおいても傍にいたいと願っているのに。

「おーいしってホント面白いよなー。こんなの持って歩いて恥ずかしかったろー?」
「面白いとはなんだ。・・・そりゃ恥ずかしかったけど」
「やっぱりー?」

一度は笑いを収めた菊丸が、情けなく眉を下げた大石にまた笑い出す。
おかしくて、そして嬉しくて、照れくさくて。
両手で抱えた花束に顔を埋めるようにして笑いながら、はしゃぐ気持ちをどうにも抑えられない。
スキップしながらくるくると踊りたい気分だと言ったら、大石はどうするだろうか。

「ほら、いつまでも笑ってないで、食事に行くぞ」
「え、どこ連れてってくれんの?」
「着いてからのお楽しみ」


大石が用意した菊丸誕生日用のサプライズは花束だけでは終わらなかった。
先月オープンしたばかりのイタリアン・レストランは、評判のよさが話題を呼んで、いつ行っても長蛇の列ができている。
菊丸の同僚が先週していた話だと、予約席は2ヶ月先まで埋まっているらしい。
そんな店に連れて行かれた菊丸の頭にとっさに浮かんだ、この行列に今から並んだらいったいいつメシが食えるんだろう?という悲しい予想を裏切って、大石は店の入り口へと足を進める。
そしてそのまま店の中、予約席へとすんなり通されてしまった。

「ちょ、大石!これ、どーいうこと?なんで入れんの?」
「なんでって、予約してたから」
「だからー!いつの間に予約なんかしてたんだよ」
「今日の朝」
「今日ー!?んなわけないだろーっ?っていうか無理、そんなの絶対無理だって」
「無理もなにも、実際こうして座ってるじゃないか」

いったいどんな手を使ったんだと凄む菊丸に、大石は笑いながら、実は、と真相を打ち明けた。
大石の会社の先輩がこの店の料理長と知り合いで、つまりはコネを使ったんだと聞かされて、菊丸は大きな目をさらに見開く。

「英二、イタリアン好きだろ?この店、美味いって評判だったから」

世間の風評に疎い男が、どこか美味いイタリアンレストランはないかと同僚に聞いてる姿が目に浮かぶ。
あまつさえ、この堅物が、コネまで駆使してその店に予約を入れたなんて。
・・・ああ、まったく、こいつは。
菊丸は心の中で感嘆の溜息をつく。
普段あんなに鈍くって、そのくらいわかれよ!って頭にくることもしばしばなのに、どうして時々こう、心の中核をダイレクトに突いてくるようなことをしでかすんだろう。

「うん。好き。大好きだよ」

イタリアンも大石も、と心の中でだけ付け加えて、菊丸は溢れ出そうな気持ちをぐっと堪えた。
本当は今すぐ大石に飛びついてキスしたい。何十回でも何百回でも。
菊丸の心の声が聞こえたかのように大石が嬉しそうに笑う。
おかげで菊丸は自制心を保つために、テーブルの下で震えるほど拳を強く握り締めなければならなかった。

評判どおりの料理に舌鼓を打ち、赤ワインでさらにいい気分になって店を出る。
もう少し飲むか?という大石の問いに限界の近い菊丸が否と返す。
駅へ向かう道の途中で、シャンパンとケーキを買いこんで、あとはまっすぐ大石のマンションへと向かった。

マンションのエレベーターで我慢が切れた菊丸が大石に襲い掛かる。
互いをもみくちゃにするような激しい接吻の応酬で、エレベーターが部屋のある階に到着した頃には2人とも完全に火がついてしまっていた。
もつれるように部屋に転がり込む。せっかく買ったケーキも何もリビングの床に投げ出して、ベッドへ直行した。
ひっかき、噛み付き、声を上げて狂態をさらす菊丸に、大石も全力で挑む。
いつもなら頭の隅で考える菊丸の体のことや明日のことも、完全に吹き飛んでしまっていた。
もっとだ、もっと欲しいと全身で訴える菊丸に、全て与えて、全て奪い尽くして。



そして訪れた、穏やかで優しい時間。



菊丸がゆっくりと目を開けると、幸せそうな笑みを浮かべたまま自分を見下ろす大石と目が合った。
たぶん今、自分も同じような顔をしてるんだろうな、と菊丸が笑う。

「英二」
「ん?」
「生まれてきてくれてありがとう」
「気障」
「はは。でも、本当にそう思ってるよ。1年の中で英二の誕生日が、俺にとって1番大切な日だから」
「うん。オレもね、生まれてきて良かったなーって思う。大石に会えたから」
「もう何回も言ったけど改めて。英二、誕生日おめでとう」
「・・・ありがと」

髪を梳く手を止めて、大石は菊丸の隣に横になる。
どちらからともなく手を伸ばして柔らかく抱き合えば、心地よさが眠気となって2人を包んだ。
軽く触れるだけのキスをして目を閉じる。
明日になればまた会うことすらままならない慌しい日常が待っているのを知っている。
でも、できることならこのまま、夢のような夜が終わらないで欲しいと、祈るような気持ちで眠りに落ちた。




-end                                                                                                                               (05・11・28)