どこにいても、きっと 1




乾助教授から久しぶりに連絡が来たのは、最後に会ってからもう3年半も経った夏だった。
向こうの英二を元の世界に戻す手助けをしてくれた助教授とは、その後何度か電話でやり取りをしていたが、こちらの英二を連れて会いに行ったのが最後で、それからはピタリと音信不通になっていた。
俺も就職したりして何かと忙しかったし、英二と暮らして毎日が充実していたから、連絡が来なくなったことを別段どうとも思っていなかった。
ちょっと変わったところはあるけれど一応大学の助教授なんだし、趣味でやっているという研究や学会もあると聞いていたから、やっぱり暇な時間なんてないんだろうな、と。
それに現金なようで気が引けるけど、一時期は向こうに帰ってしまった英二に会いたくて、その望みを叶えられそうな人が乾助教授しかいなかったから、俺から積極的に連絡を取っていたというのもある。
早い話、今の俺には乾助教授の手助けが不要になったと、まぁ、そういうことなんだ。

電話の向こうで少し特徴のある喋り方をする助教授の声が聞こえる。
「・・・と言う訳で、よければ君の協力を願いたいんだが」
「その、実験というのは、成功する見込みのあるものなんでしょうか?」
「さぁ、今の段階ではなんとも言えないな。それを知るために実験をしたいんだ」
「・・・はぁ」

突然の電話はまさに唐突な提案だった。
乾助教授が長年研究してきた『神隠し』、つまり別の世界への行き来、それにある一定の法則が見つかったらしい。
そして、その法則が正しいかどうかの実験をしたいとの申し出。被検者は俺。

「向こう側の世界へ行きたいという君の強い気持ちが今回の実験には必要だ。承諾してもらえないか」
「申し訳ないんですが、今の俺は以前のように向こう側の世界に執着はないんです。今はこちらでなんというかその、・・・幸せにやっているので」

幸せなんて言葉はなにやら気恥ずかしいものだ。
だけど、現在の俺の心境を表すのに1番ふさわしい言葉には違いない。
英二と一緒に暮らし、日常の些細な会話や、いつでも顔が見れる、そんな生活に俺はとても満足している。

「・・・そうか。残念だが、それじゃ仕方がないかな」
「お力になれなくてすみません」
「気にすることはないよ。ところで、ずいぶん久しぶりな気がするな。どうだい、たまには顔を見せに来ないか」
「ええ、そうですね。すっかりご無沙汰してしまってますし、近いうちに」
「それなら今度の土曜はどうかな。俺も何かと予定が入ってしまっていて、空いてるのがそのくらいしかないんだ」
「土曜ですか・・・いいですよ。仕事も休みですし、特に予定も入れてませんから」
「それじゃ土曜に大学へ来てくれ。・・・楽しみにしているよ」

受話器を置いてひとつ溜息をつく。
本当は土曜に英二と映画を見に行く予定だったけれど、実験を断った手前これ以上断るのは申し訳ない気がした。
仕方がない、英二にはちゃんと話して謝ろう。
どうしても映画が見たいようなら日曜に行くことにして。



夜に家へ帰ってきた英二に、乾助教授から電話がきた話をすると、とたんに嫌な顔をした。
実は英二を連れて助教授に会いに行ったとき、俺がうっかり注意をするのを忘れたせいで、英二はあの健康ドリンクとやらを口にしてしまったのだ。
たったひと口で真っ青になって悶絶した英二は、それ以来、乾助教授を毛虫のように嫌っている。

「英二、土曜は一緒に大学へ行かないか?」
「ぜーったい、ヤダ!」
「アレさえ飲まなきゃ済む話だろ?」
「あんなもん人に飲まして喜んでる変態教授なんか、顔見んのもゴメンだね!」

プイっと顔を背けてしまった英二は取り付く島もない。
やれやれ。しょうがない、俺1人で行くか。

「変態助教授なんかと付き合ってると、大石も変態がうつっちゃうんだかんな!大石が変態になったら絶交だぞ!」

・・・変態が伝染するものかどうかは置いといて。
どうにか英二をなだめて映画の予定をずらすことを納得させた俺は、土曜に1人で大学へと出向いた。



***



「やぁ、いらっしゃい」

最後に会った時と変わらぬ白衣姿と度のきつそうな眼鏡。
にこやかな笑顔さえ、どこか不気味な雰囲気を漂わせているところも相変わらずだ。

「色々お世話になったのに、ご無沙汰してしまってすみません」
「ああ、気にすることはないよ。社会人になるとなにかと忙しいだろうからね」

簡単な近況報告を挨拶代わりに話しながら、薄暗い研究室に足を踏み入れた。
家を出る直前まで英二に、しつこいくらいに気をつけろと注意されてきたけれど、こうして話をしている分にはそんなに変な人でもない。
むしろ大学の助教授だけあって知識は豊富だし、こうして話していても勉強になることが多い。

助教授の研究成果を聞きながら、どこかでかすかにセミが鳴くのを耳にした。
半分だけ開けてある暗幕から入り込んだ夏の日差しが、俺の足元でちらちらと揺れる。
壁にかけてある年代物らしい木の時計が静かに時を刻む音。
低く抑揚のない声で淡々と話す乾助教授の声と相まって、意識がふわふわと浮遊するような奇妙な感覚に陥る。

「ところで大石君」
「・・・・・・え、あ、はい」
「どうした?少し話し疲れたかな」
「あ、いえ、そういうわけでは」

いつの間にかぼうっとしていたみたいだ。おかしいな。
・・・いま、助教授はなんの話をしていたんだったかな?

「せっかくだからもう少し君と話をしたいんだが、休憩を入れたほうがよさそうだ。どうだろう、気分転換におつかいを頼まれてくれないか」
「おつかい、ですか?」
「ああ。駅のすぐ傍にコンビニエンスストアがある。そこで炭酸水を買ってきてもらえないかな」
「ええ、いいですよ」

新作の健康ドリンクを炭酸で割って飲みやすくするんだという助教授に、愛想笑いを返して俺は大学を出る。
人智を超える不味さに危うく気絶しかけた英二のことを思い出せば、炭酸で割るよりもまず味の研究をした方がなどと考えているうちに、目的のコンビニに着いた。
わざわざ買い物メモをくれたけど、500mlの炭酸水を3本というのを覚えていたから、棚から3本手にとってそのままレジへ進んだ。
会計を済ませて領収書をもらい店を出る。
ビニール袋の中でやけにカチャカチャ音がする炭酸水のガラス瓶を割れないように気にしながら歩いていたせいで、俺は店を出てしばらくするまでその違和感に気がつかなかった。

なんだろう?なにかが、とても、変だ。

足を止めて商店街を見回す。
買い物をしたコンビニの看板が遠く小さく見える。
ここへ来たのは3年以上前だから、景色になじみがないのは当たり前だ。でも。

なんだ?この、ひどく落ち着かない気分は。

止めていた足をまた動かす。
いつの間にか急かされるように足は走り出し、8月の暑さに全身から汗が吹き出す。

おかしい。大学からコンビニまで、こんなに距離は無かったはずだ。
道を間違えたかと考え、一本道だったと思い出す。
迷うはずがない。迷うはずがないんだ。

それじゃ、ここはどこなんだ。なぜ大学が無い。

30分近く走った。もうとっくに商店街を抜けて、あたりは家が建ち並ぶ。
肩で息を切らしながら、空っぽになっていた頭に、かすかに『実験』という乾助教授の言葉が浮かび上がった。




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