英二 in ワンダーランド 前編




退屈な授業も終わり、後は待ちかねた部活の時間だった。
英二は手早く荷物をまとめてロッカーに放り込むと部室へ行こうと教室を出る。
廊下に目を向けると少し先を大石が小走りに行くのが見えた。
英二は口元に笑みを浮かべ、大石を追いかけるように走り出す。
だが、不思議なことになかなか大石との距離は縮まらない。
「おっかしーなぁ、そんなに早く走ってるようには見えないのに」
首を傾げつつも英二は走る速度を上げていく。
ほぼ全速力に近い勢いで走っているのに、大石に追いつくどころかその差はどんどん広がっているように感じる。
「ああ、忙しい、忙しい」
大石の声が聞こえた気がした。
大石の背中は遥か前方にある。
それなのに大石の声だけがまるで近くにいるように聞こえた。
「困ったぞ、これじゃ完全に遅刻だ」
また聞こえた。
部活の時間にはまだ余裕がある。
こんな全力疾走しなくても遅刻にはならないはずだ。
なんか変だと思いつつ、英二は必死に足を動かす。
どこまでも一直線に続く、誰もいない廊下。
いつもなら放課後のこの時間に他の生徒たちがいないはずがない。
それにこの廊下の長さ。
大石の背中を超えて前を見据えるが、廊下は果てがないように真っ直ぐ続き、行き止まりが見えない。
「おーいしー!」
英二はついに声を上げる。
だが聞こえていないのか大石は振り向かない。
「おーいしってばー!こらーっ、止まれーっっ!!」
風のように走りながら英二は叫ぶ。
だが大石は止まらない。
「くっそー。それにしても、大石ってこんなに足速かったっけ?オレが手加減無しで全速力してるってのに?」
何かが変だ、そう思いつつも走る足は坂道を走り落ちているように止まらない。
不意に前を走っている大石が脇の教室に入った。
これでやっと捕まえられる、そう思いながら英二も続けて同じ教室に飛びこんだ。
だが。
「あ、れ?え、ええええええ−−−−−−−っ!!!」
その教室には床が無かったのだ。


*


それほど怖いと思わなかったのは落ちる速度がゆっくりなのと、辺りが明るくて色々なものが見えるせいかもしれない。
まるで窓があるみたいに公園やコンビニ、道を走るバスが見える。
かと思えばどこかの家の茶の間だったり冷蔵庫の中身だったりした。
最初は不思議に思いつつも景色を楽しんでいた英二だったが、あまりに長く落ち続けているからだんだんと不安になってくる。
ゆっくりとはいえ、ゆうにビルの10階分くらいは落下している気分だ。
青学の屋上から飛び降りたってそんなに高さはないというのに。
「もしかして秘密の地下室があったとか?いざという時のシェルター?」
落ちながら英二は腕を組んで考え込む。
なんせどこまでも落ち続けるから考える時間なんていくらでもあるのだ。
「うん、シェルターならすっごい深くに作るかも」
なんとなく納得して英二はひとり頷く。
「階段とかエレベーターはこれから作るんじゃん?まだ工事途中なんだよ、きっと」
辺りにはまだ風景が映る。
桜が咲く春と真夏の海と、紅葉の綺麗な山と、雪だるまの並ぶ道端と。
「それにしてもどこまで落ちるんだろ。オレ、ちょっと飽きてきた・・・」
そう思った矢先、英二はぼすんと柔らかい物の上に背中から着地した。
びっくりして辺りを見回すが、落ち続けて辿りついた先もやっぱりどこかの教室だった。
「あー、地面だ!やったー!それになんかやらかい物の上で助かったし!」
よいしょと掛け声をかけて英二は立ち上がる。
クッション代わりになったのはなんだろうと振り向くと、そこには大量の雑巾が山になっていた。
「げ。雑巾・・・それも、うわっ!牛乳の腐った匂いが・・・」
自分の手のひらを嗅いで英二は思いっきり顔をしかめた。
怪我をしないで済んだのはありがたいが、この匂いだけは勘弁してほしい。
「どっかで手洗わなきゃ。水道ないかな・・・」
英二は手を制服のズボンに擦りつけると雑巾の山に埋もれている教室を後にした。


*


「ところで大石はどこ行っちゃったんだろ。オレと同じであの教室に飛びこんだってことは、おんなじように落ちてここに来てるはずだよなぁ」
英二はきょろきょろと見回しながら廊下を進む。
幸いなことに途中で水道を見つけ、雑巾臭い手を石鹸で洗う事ができた。
近くの教室のドアを開け、中に大石がいないか確認しながら歩くが、大石どころかどの教室にも誰もいない。
「えーっと、ここはシェルターで、だから誰もいないってこと?でも、机には誰かの鞄とかあるし。どうなってんだろ?」
首を傾げながら次々と教室を見て回る英二はだんだん心細くなる。
いくら探しても大石は見つからず、人の気配すらない。
もしもこのまま歩き続けても誰にも会わなかったら。
帰り道の登り階段でも見つかればまだいいが、それすら無ければどうやってここから戻ればいいのか。
英二は足をぴたりと止めた。
「うー、やばいぞ。なんか怖い気分になってきた」
何か物音でもしないかとしんと静まり返った空間に耳を澄ませる。
「・・・くっくっく」
ふいに背後で聞こえた笑いを噛み殺すような声に英二は驚いて振り返った。
そこは今覗いたばかりの教室だった。
確かに誰もいなかったはずなのに、今は開いた窓に頬杖をついて笑っている生徒がいる。
それも、英二の知った顔だ。
「に、仁王!?」
「久しぶりじゃのう。元気にしとる?」
「なんで、ここにいんの!?っていうか、どっから入ったの?」
驚き目を丸くする英二に、仁王は喉の奥で笑うだけで答えない。
その後も色々質問をぶつけたが、仁王は英二の顔をじっと見ながら笑うだけだ。
「・・・わかった。そんじゃ、どっから来たかなんてこの際いいとして!ね、ここで他の誰か見た?大石とか見なかった?それだけでもいいから教えてよ」
「もう少し先に行くと科学室がある。そこに千石がいたぜよ」
「千石!?なんで千石がここにいんの?だいたいおかしいよ。ここって青学の地下だよ?なんで立海の仁王や山吹の千石が・・・」
英二は喋っていた口を開けて茫然と目の前の仁王を見つめた。
今まで頬杖をついてた腕が無い。
腕どころか、仁王の首から下が全部うっすらと透き通って消えていく。
笑ったままの顔はふわふわと窓の桟に浮くようにして、それもだんだんと透明になっていった。
「千石と芥川。科学室じゃ」
口だけ残った仁王はそう言うとまた笑い、そして完全に消えてしまった。
「・・・ウソ、なんで?どーなってんの?」
英二はよろよろと後ずさると廊下の壁を背にずるずると座り込んだ。
今になってやっと、怖い、と本気で思った。
自分はいったい、どこに迷い込んでしまったのだろう。


*


英二は廊下に座り込んだまましばらくぼんやりと考え込んだ。
だが考えてみたところでどうなるものでもない。
英二はふるふると頭を振ると、パン!と自分の頬を両手で叩いた。
「怖い、怖いけど!このまんまここにいたらもっと怖いし。大石探してさっさとここから脱出しよう!」
えいやっと気合を入れて英二は立ち上がる。
まだ竦む足をどうにか動かして、まずは千石と芥川がいるという科学室を目指すことにした。

科学室は先ほどの場所から6つ目の教室だった。
英二は細くドアを開けて中を窺う。
細長い実験用のテーブルにはフラスコやビーカー、試験管にシャーレ等の実験器具が山と積まれている。
そしてそのテーブルに突っ伏して寝ている芥川と、ビーカーを手に何やら鼻歌らしきものを歌っている千石がいた。
「・・・だいじょぶそう、かな?」
英二はおそるおそる科学室のドアを開ける。
途端にこちらを向いた千石が、やあ!と明るい声をあげた。
「いらっしゃーい、菊丸くん!さぁ、こっちへおいでよ!遠慮なんていらないから!」
満面の笑みで手招かれて英二は少し安心した。
なんだか変な帽子を被ってはいるものの、この千石ならさっきの仁王と違ってちゃんと話しができるかもしれない。
なぜここに千石や芥川がという疑問は置いといて、まずは大石を見かけなかったかを聞かなくては。
「あのさ、千石。大石を、」
「さ、こっちへ座って!菊丸くんの為の特等席を用意してたんだよ。ほら、お茶も入ってる。ラッキー♪」
「へ?特等席?お茶?」
千石の指し示したのは寝ている芥川の向かいの席だった。
特等席というわりには、洗ってもいないような汚れた実験器具が山積みされている。
「粗茶ですが」
仕方なく座った英二に千石が恭しく差し出してきたのは、得体の知れない液体が入った三角フラスコだ。
覗きこむと表面には黒い膜ができ、下の方は沈殿した怪しげな藻のようなものが揺らめいている。
これならまだ乾汁の方がマシ、・・・かもしれない。
「えーっと・・・」
受け取ったものの、とても飲む気になれず英二はフラスコの処置に困る。
こんなものをお茶だと振舞うなんて、千石もさっきの仁王と同じで、どこか変なのかもしれない。
「あれ?飲まないの?そうかー、冷めちゃってるよね。でも温めなおしはできないんだよ、アルコールランプが切れたから。かれこれ3ヵ月もここでお茶会をしてればランプも無くなるよねぇ」
「さ、3ヵ月!?ここでずっと!?」
「そうなんだよ。なかなか招待客が来なくてねー」
千石はそう言うと手にしたビーカーの中身をごくごくと飲み干す。
得体の知れない液体を自分が飲んだ気分になってしまった英二は、思わずうえっ、と口を押さえたが、全く気にしてない千石は新しいお茶を探し出そうと積まれた実験器具を無造作にかきまわした。
雪崩たビーカーやアルコールランプが寝ている芥川の頭や体にぶつかって床に落ちる。
「ぐーっ・・・」
ひときわ大きないびきを上げた芥川は起きる気配もなく、ガラス器具たちは床におちて派手に割れた。
・・・ここもあんまり長居しない方がいいかもしれない。
英二は野生の勘に従ってさっさと用件を済ませることにする。
「あのさ、千石。大石を見なかった?」
「うーん、もうお茶は無いのかなぁ。いや、どっかにまだ残ってるはずだよ」
「・・・やっぱダメか」
英二はそっと席を立つ。
テーブルの上の実験器具を掻き回し続けている千石に気づかれないように、そーっと実験室を後にした。


*


科学室を出た英二はとぼとぼと歩く。
果てなく続く長い廊下には人影も無く、おかしなことばかり続いて妙に疲れてしまった。
大石はどこに行ったんだろう。
ここから元の場所へ帰れるんだろうか。
お腹が空いた。
散漫な思考は同じところをぐるぐると回る。
並ぶ教室のドアを律儀に1つずつ開けてはいるものの、やっぱりというくらい誰もいない。
空の教室を見て回るうちに、かなり変だった千石や仁王ですら恋しくなってきてしまった。
「あー、もう!大石が全部悪いんだぞ!ったく、どこ行っちゃったんだよぉ・・・」
はぁ、と大きく溜息をついて英二はしゃがみこむ。
いったい、いくつの教室を回れば大石に会えるのだろう。

「あー忙しい、忙しい」
静まり返った廊下でふいに声がした。
と同時に遠くでパタパタと走る足音が聞こえる。
「おーいし!?」
英二は慌てて立ち上がり駆け出す。
遥か目の前を大石が走っている。
1本道の廊下でいったいどこから湧いて出たのかという疑問すら浮かばず、英二は大石の背中を目指して走った。
ここで見失えばまた次はいつ見つけられるかわからない。
「待てーっ!おーいしーっ!!」
気づいて立ち止ってくれないだろうかと思いつつ、大声で呼び止めながら英二は必死で走る。
だが全く聞こえていない様子の大石は止まらずに走り続け、ガラガラと近くの教室のドアを開けると中に入って行ってしまった。
「くそーっ、今度こそ捕まえる!」
走って走って大石が消えていった教室のドアを英二も開ける。
先ほどはこの展開で飛びこんでいって、床の無い教室から落下したので突然飛びこむ愚は犯さない。
しっかり中を確かめて、床があるのを確認してから教室へ入った。

そこは家庭科室だった。
大きなテーブルが並ぶ広い部屋には人ひとりいない。
「うー、また消えた・・・」
肩で息をしながら英二は傍にあった椅子にがっくりと腰掛けた。
家庭科室には窓があるが、どの窓もきちんと施錠されて閉まっている。
念の為に続き部屋の準備室の中や掃除用具の入ったロッカーも開けてみたが大石の姿は無かった。
「どーして消えるんだ。おかしーよ、人間が消えるなんて」
そういえば仁王も透明になって消えたっけ、と英二は思い出す。
もしかして大石もあんなふうに消えたんだろうか。
ぼんやりと考え込んでいると、ふと足元に小さなドアがあることに気がついた。
猫でも通れないくらいの小さなドアだ。
「なんだろ、これ?ネズミ用?・・・な訳ないか」
不思議に思った英二は床に膝をつき、小さなドアのノブを回してみる。
とたんに小さいけれどはっきりと大石の声が聞こえた。
「大変だ、遅刻だ」
「え?大石?まさか、このドアの向こう?」
英二は這いつくばるようにしてドアの向こうを覗きこむ。
中は明るい陽の射す緑の庭園が広がっていた。
「なにこれ?なんで?」
英二は顔を上げてドアの上の壁を見る。
この壁の向こうはさっき中を確認したばかりの家庭科準備室だ。
英二はもう一度、小さなドアの中を覗き込んだ。
遠くに、もうすでに蟻のように小さな姿ではあったけれど、大石のものだと思える後ろ姿が走って消えていった。
「・・・どーやって追いかけろって?このちっさいドアの向こうへ?」
ドアの前で英二は途方に暮れる。
その時、背後でことん、と小さな音がした。
なんだろうと思って振り返ると、家庭科室のテーブルの上に先ほどは無かったはずの小さな籠が乗っている。
立ち上がり籠を見れば、そこには数枚のクッキーが入っていた。
『私を食べて』というメッセージカードと共に。


*


いかにも怪しげなクッキーだった。
英二は籠から1つ取り出して穴が空きそうなほどクッキーを凝視する。
「食べてって言われても」
いきなり湧いて出たクッキーなんて怪しすぎると思いつつ、正直なお腹がグーと鳴る。
とりあえず匂いだけ、とクッキーを鼻に寄せた。
悪臭でもすれば空腹を訴えている胃袋も大人しくなるだろうと思ったのに、予想外に芳醇なバターと香ばしいナッツの香りがしてさらにお腹はググーと鳴る。
ちょっと舐めてみるだけ、と口に運んだが最後、ほどよい甘さのクッキーはあっという間に胃袋に収まってしまった。
「んまい・・・」
1個食べてしまえば2個食べるも一緒。
英二は2個目のクッキーを摘まみ上げ、さらに次へと手を伸ばし、気づけば籠のクッキーを全て平らげてしまった。
「食べちゃった。でも変な味はしなかったし、だいじょぶ、だよね?」
空になった籠を指先で弄びながら英二は大きなあくびをする。
お腹もちょっとだけ満足したら今度は眠くなってきた。
走り回って疲れたし、また大石を見つけたら追いかけっこになるだろうし、ここでひと休みして体力充電しておいた方がいいかもしれない。
英二は眠気に逆らわず家庭科室の机に突っ伏する。
いくらもしないうちに英二はすやすやと眠りこんでしまった。


目が覚めた時、まだ辺りは明るかった。
時間にしていくらも寝てないんだろうと英二は目覚めたばかりの頭を緩く振る。
伸びをしようと腕を上げたところで、自分がいる場所が寝る前と違っていることに気がついた。
「あ、あれ?オレ、確か家庭科室で寝てたんだよね?」
英二は驚き、目の前にそびえる木製の屋根を見上げた。
続いて自分が木の床に寝転がっていたことを知る。
いったい、ここはどこなんだろう。
屋根を見ると和風に見えなくもない建築物だが、床は途中で唐突に途切れるという摩訶不思議さだ。
それも柵などもなく、そのまま歩いていけば間違いなく落下するだろう。
英二はそろそろと床の端まで移動してみる。
下にもさらに木の床があるのが見えたが高さはかなりあった。
「うそ、どーすんの、これ。どうやって降りれば・・・」
困惑したまま見回せば下の床へと続く丸い鉄の柱が2本あることに気づいた。
この太さなら腕を回せば辿って下まで降りられるかもしれない。
英二はすぐさま鉄の柱へと歩み寄る。
身軽さには自信がある。
英二は鉄の柱に腕を回すと、まるで消防士のようにくるくると回りながら滑り降りた。
「やったー!楽勝ーブィっ!」
誰もいないはずの空間にVサインを突きだした英二の背後でパチパチと拍手が鳴る。
はっとして振り返ればドア脇の壁にもたれるようにして仁王が立っていた。
「さすがじゃのう」
「げ、仁王・・・」
英二は一歩後ずさる。
だんだんと透明になって消えるなどという荒技を繰り出す相手に自然と体が警戒した。
だが、仁王はそんな英二の態度も気にならない様子で、すぐ脇のドアを指さす。
「お前さんの探し物はこん中におるぜよ」
「探し物って、もしかして大石!?」
勢い込んで尋ねた英二には応えず、仁王はドアの取っ手を引く。
目の前に広がるドアの向こうの景色に英二は既視感を覚えた。
いや、既視感ではない。
居眠りする前に実際に見た光景だ。
「え、でも、これって、」
ネズミ用かと思ったほどの小さなドア。
床に頭を擦りつけるようにしてやっと覗くことができたほどの小さな。
英二は慌てて辺りを見回す。
変な建築物だと思った物はよくよく見れば家庭科室の机や椅子だ。
「・・・オレが縮んだってこと?まさか、だって、」
混乱する英二に仁王が笑みを浮かべる。
「だって、そんな、クッキー食べて体が縮むなんて、それで小さなドアを通れるようになったなんて、それじゃまるで、」
英二が結論を出すのを待つかのように仁王の笑みが深くなる。
まるで童話の、と言いかけて英二は言葉を飲み込んだ。
そんなことあるはずないし信じたくもない。
だけど口に出してしまえば真実になりそうで怖い。
「不思議の国のアリス」
仁王が笑いながら英二の飲み込んだ言葉を口にした。
英二はがっくりと肩を落とした。
信じたくはないけれど、やっぱりここは不思議の国だったのだ。




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