fish 1




ピチャン、と水が跳ねる音がした。
ほの暗い部屋、時刻は0時。
寝ようとベッドに入りかけた体を起こして、水槽に歩み寄る。
水槽の照明も落としてあるけれど、ガラス越しに鮮やかな赤いヒレが見えた。

「どうした、エージ」

声をかけるとガラスの向こうからエージの大きな瞳が俺を見つめる。
その場でクルリと泳いで、また俺を見つめた。

「寂しくなっちゃったのか?」

またクルリ。

「それじゃ眠くなるまでここにいるから」

水槽に顔を寄せると、クルリ、クルリと泳いでいたエージが寄ってくる。
ガラス越しに、まるで頬ずりするみたいにしてから目を閉じた。

寂しがり屋のエージは俺が側にいることで安心する。
しばらくすると、綺麗な赤いヒレを水に揺らめかせて眠りについた。
俺は物音を立ててエージを起こしてしまうことがないように、そっと水槽を離れる。
できるだけ静かにベッドに入り、心の中で「おやすみ」とエージに声をかけた。




最初エージは普通の魚だった。
魚の餌を買いにショップへ行った時にみつけた。一目惚れと言ってもいいかもしれない。
エージのいた水槽には他にも同種の魚がたくさんいたけれど、エージが1番綺麗な赤色で、なにより1番元気だった。
他の魚達はゆっくりのんびり泳いでいるのに、エージだけは楽しそうに縦横無尽に、それも物凄いスピードで泳ぐ。
そして時折疲れたのかじっと動かなくなって、少しするとまた活発に泳ぎだす。
そんな姿が面白く、可愛くてしかたがなくなって買ってしまった。

うちに連れ帰って水槽に入れた時も、先住者である他の魚をじっと見てみたり、好奇心いっぱいといった感じで泳ぎ回ってるのが見ていて楽しかった。
なんだか他の魚とは違う気がして、初めて名前をつけて、時々声をかけたりした。
エージが自分の名前を認識したのか、呼ぶと寄って来るようになって、そしてエージの外観に変化が起こった。
今のエージは大きさはそのままで人の姿をしている。
といっても、完全に人と同じわけではなくて、背骨にそって赤いヒレがあるし、手や足の先の指にあたる部分もヒレだ。
魚だった時は全身が赤だったけれど、人の形になってからは髪とヒレ以外は白い肌のようになった。
童話に出てくる人魚とも違って、足はちゃんと2本に分かれている。
でも泳ぎ方は魚の時とあまり変わらない。体をゆらゆらと揺らしてヒレを使って泳ぐ。
エージの白い肌に付いているアクセサリーのような虹色の鱗は、泳ぐと水槽の明かりにキラキラと光ってとても綺麗だ。

エージの姿が変わった時はもちろん驚いたし、自分の目がおかしくなったんじゃないかと疑いもした。
けれど何日経ってもエージは元の魚の姿になることはなくて、不思議だけどそれを現実として受け入れるようになった。
他の人に今のエージの姿を見られたら騒ぎになるんじゃないかと心配したけれど、どうやらそう見えるのは俺だけらしいということもわかった。
家族がエージを見ても驚いた様子がなく、試しに口の堅い友人を家に招いてみて確信した。
どうして俺にだけそう見えるのかはわからないけれど、魚でいた時よりもずっと綺麗で愛らしい姿が懐いてくれるのは嬉しい。
エージは顔も人のようになっていて、小さな口を喋りたそうにパクパクと動かすけれど、残念ながら言葉を聞いたことはない。
喋れない代わりに、エージの大きな瞳が感情を映し出す。
俺が朝に学校へ行こうとすると寂しそうな目で見つめてきて、帰ってくれば嬉しそうにはしゃぎだす。
俺は学校で委員なんかをやっていて、そのうえ部活動でも副部長をやっているから、帰宅はどうしても遅くなる。
それでも少しでも早く帰れるよう努力して、帰宅してからはほとんどの時間をエージの側で過ごした。

まるで俺は水槽の中の小さなエージに恋をしているみたいだ。




帰宅して夕食をとった後、部屋のテーブルで勉強をし、ひととおり終えてからノートを閉じた。
水槽の前に移動するとガラスに張り付くようにしていたエージがくるくると泳いだ。

「エージ、お待たせ」

くるりと泳いでまたガラスに張り付くようにする。
水槽のガラスを指で軽く突くと、エージが指に向かって先端がヒレになっている手を伸ばした。
別の場所へ指を移動させると、それを追いかけるようにして泳いでくる。
ふと思い立って、水槽の中に指先だけ浸けてみた。
するとエージは物凄い速さで追いかけてきて、俺の指を2本の腕でしっかりと捕まえた。
どうするのかなと思って見ていると、捕まえた指を今度は抱きしめるようにして、瞳を閉じてじっとしている。
まいったな。そんな姿を見せられたら、愛おしくてたまらなくなる。

「エージ」

声をかけると閉じていた目を開けて俺を見る。俺の指は離さないまま。
エージに抱えられてる指を動かして、頬を撫でてやると嬉しそうに尾ヒレを揺らした。
水槽に顔を寄せると指を離したエージが寄ってくる。
大きな瞳がガラスの向こうからまっすぐに見つめてくる。
エージは人みたいに表情は作れないけれど、そのぶん情感豊かな瞳に魅了される。

「エージ」

もう1度声をかけると、エージがガラスに張り付くようにした。
ガラス越しのエージにキスをする。
もし俺が魚だったら、こんなガラスに隔てられずにエージといられるのに。




その夜、俺は夢を見た。
どこだかわからない青い水の中、エージと2人で手を繋いで泳いでる夢だ。
俺の手足には青いヒレが付いていて、水の中を翔けるように泳ぐことができた。
エージは終始楽しそうに笑っていて、その笑顔がとても可愛いい、そんな幸せな夢だった。