1度きりの恋 / 番外編 大石・英二
馬車で遠く離れた街まで逃げ、着いた時にはもう白々と夜が明け初めていた。
予約を入れていた宿に行くまでの道すがら、早起きな街の住人たちが英二に好奇な視線を向ける。
特に派手な服を着ているわけでもないのに、英二は目立ってしまう。
不思議そうな顔の英二の腕を引き、足早に宿に入った。
高級な宿では俺や英二の顔を知ってる者に会うかもしれない、そう考えてできるだけ粗末な安宿を選んだ。
だが、部屋へ一歩足を踏み入れて俺はすぐにこの宿を選んだことを後悔した。
染みの付いた薄汚い壁や、陽に干しているのかもわからない毛布が置かれた寝台に気分が暗くなる。
俺の後から部屋に入り中を見回している英二を見たら、暗い気分の上に罪悪感まで加わった。
跡部伯爵の大きな屋敷、使用人が隅々まで磨き上げている清潔な部屋で、品の良い調度や家具に囲まれて何不自由なく暮らしていた英二。
その英二を俺がこんな薄汚い部屋に引き込んだのだ。
一緒に生きて行きたくて、跡部伯爵の元から英二を連れて逃げた。
跡部伯爵のように、何不自由なくというのは無理でも、それでも俺なりに英二を幸せにできる自信はあった。
それなのに。
今すぐにでもここを引き払おう。
そして高級ではないにしても、もう少しまともな宿を借りよう。
そう思った時、英二がくるりと振り返った。
「いい部屋だね」
「・・・え?」
「窓ガラスもちゃんと入ってるし、毛布もあるし。それに結構広い部屋だし」
にこりと笑った英二が薄汚れた寝台に頓着することなく腰を下ろす。
俺は言葉の意味を図りかねたが、英二が嫌味を言うとは思えない。
なら、いい部屋だというのは真実そう思っているということなのか。
「あまり綺麗じゃないけどな」
「一文無しで、それも逃げて来たんだから、もっとすごいとこに泊まるんだろうなって思ってた。まだちょっと寒いけど、最悪、野宿もアリかなって」
「・・・野宿」
考えてもみなかった選択肢に驚く俺に英二が笑う。
「あのさ、大石。俺が最初に住んでた家は、窓ガラスも割れたりして半分無くてさ、拾ってきた新聞とかで補修してあったんだよ。でもガラスと違って隙間風は入ってくるし、冬は火もないから寒くて凍えて。1枚しかないボロボロの毛布に包まっても寒くて寝てらんないの」
「・・・、・・・ごめん、想像がつかない」
だよね、と英二が笑う。
その笑みを消して英二が俯いた。
「ね、大石。もしも、窓ガラスも無いようなとこに住むことになって、二人でくっついてても寒さを我慢できなくなったら」
英二が顔を上げる。
「大石は元のおうちに帰っていいからね」
英二は初めて会った時と同じ、意思の強い瞳で俺をまっすぐに見つめる。
あまりに思いがけない台詞に、俺はすぐには英二が何を言っているのかわからず、無言でただ英二を見ていた。
「それだけ最初に言っておこうと思ってた」
**
最初に、1回だけ言っておきたかった。
大石は優しいし、真面目でとても努力をする人だと知ってるから。
2人で一生懸命働いて、食べるのには困らないくらいの暮らしができればいい。
でもそれが無理だったら。
いいおうちで育った大石には、1日に1つのパンを半分に分け合って食べたり、隙間風の入る部屋で汚れたボロボロの毛布に包まって過ごすなんてできはしない。
大石は決してそんな生活を辛いとは言わないだろうけど、でもきっと体を壊して病気になってしまう。
「・・・英二、俺は、」
「あのね、大石。オレ、すっごい幸せなんだよ。オレは大石に会って、生まれて初めて、楽しいとか、嬉しいとかって知ったんだ。こんなに誰かを好きになったのも初めてで、その人がオレを好きだって言ってくれて」
じっとオレを見ていた大石の手が、痛い程にオレの肩を掴み、そのまま強く抱きしめられた。
加減の無い腕に骨が軋みそうでも、この痛みすらオレを夢心地にさせる。
オレはすごく幸せだよ。
この先、なにがあっても、例え何年かして一緒にいられなくなっても、それでもオレはずっと幸せでいられる。
大石に出会って、大石がオレを好きになってくれたから。
それを大石に知ってほしい。
「大石がこうして今、オレと一緒にいてくれる。本当にすごく嬉しくて、幸せで、これだけで充分だから」
「無理だ、英二」
「え?」
腕の力を緩めた大石が、額を付けるようにしてオレの眼を覗き込む。
「俺は今だけでいいなんて思えない。この先もずっと、何があっても英二を離すことなんてできない。英二が俺を嫌いになって、逃げだそうとしても」
絶対に離さない、そう言った大石の、燃えるような瞳がオレを捕らえる。
胸がいっぱいになって、もう言葉が出てこなかった。
いいのかな、このままずっと大石と一緒にいたいと思っても。
このままずっと幸せなままでいても。
ただ頷くしかできないオレの頬に大石が触れて、そしてゆっくりと唇が重なる。
触れる指先から、唇から、大石の心が伝わってくる。
一緒にいたい、離さない、好き、愛してる。
それは言葉よりも真摯に、強くオレの心に響いて。
そしてオレを幸せな未来の予感で包んだ。
→end