1度きりの恋 1




彼を初めて見たのは跡部伯爵の夜会だった。

俺はあまり夜会というのが好きじゃない。
名のある華族たちが集う社交の場というのについ腰が引けてしまう。
俺の家は言ってみれば名ばかりの華族で、跡部伯爵のような金持ちでもなく、ただ家柄が古いといったものだ。
こういう席で愛想笑いを浮かべ、社交辞令ばかりの会話を冷や汗浮かべてするくらいなら、家で本でも読んでいた方が気が楽だと思ってしまう。

脂紛と香水の匂い、華やかに着飾った紳士淑女、室内を真昼のように照らし出すシャンデリア。
華麗な一夜の夢を描いた夜会が彼の出現と共に呆気なく虚飾へと色を変えた。
広間に続く階段を2階から降りて来た彼は大きな瞳に強い意志を宿し、凛と顔を上げて歩く。
襟や袖にフリルを多用した白いシャツや深い紅の燕尾服を着ていても少しも甘さが無い。
彼の立つその場所だけがまるで違う空間のようだった。
知らず見惚れたのは俺だけではない。
注がれる数多の視線を断ち切って、真っ直ぐ前を向き風のように歩く。
彼がすぐ脇を通り過ぎても、俺は金縛りにあったように身動きできなかった。
目だけが捕らわれたように彼を追う。
その姿が人波に呑まれて見えなくなってから俺はようやく詰めた息を吐いた。
「どうだ、大石。たまには夜会もいいだろう?」
声をかけられて、飲み物を取りに行っていた乾がすぐ隣に立っていることに気づいた。
渡されたグラスを受け取ると、観察するようにじっと俺を見ていた乾が口元に意味ありげな笑みを浮かべる。
「菊丸英二」
「え?」
「お前が見惚れていた相手だよ」
菊丸英二。
声には出さずに胸の内で呟く。
菊丸、英二。
「大石のような堅物を一目惚れさせるとはさすがだな。だが、あれは駄目だ」
人波の合間に見え隠れする姿を見つめる。
「お前はこういう場にあまり来ないから知らないだろうが、菊丸は」
彼がこちらを向く。
一瞬視線が交わった気がした。
「跡部が囲っている高級娼夫だ」
「・・・え?」

人の話し声や音楽が騒々しいほど耳に入ってくる。
隣に立つ乾の声すら満足に聞こえないほどだ。
夜会は苦手だ。
聞こえるのは近くに立っている噂好きの婦人達。
誰がどうしたと、ろくでも無いことばかり話している。
そんな雑音が耳に入るから聞き間違えたんだ。
そんなはずないじゃないか。
彼が高級娼夫だなんて、そんな馬鹿な。

先ほど通り過ぎた彼の姿が脳裏に蘇る。
ごてごてと飾り立てた虚飾の中を通った、一筋の清涼な風のようだった彼の姿を。



**



部屋に戻り1人になって、着替えもせぬまま寝台にごろりと横になった。
跡部から贈られた紅の燕尾服は生地も仕立ても良く、こうして寝転がっても動きを制限することがない。
柔らかな羽根布団に埋もれ、目を閉じて大きく息をつく。
それでやっと体の端々から緊張が抜けていった。
夜会に出ることは仕事のひとつだが、いつまで経っても慣れることはない。
酔狂な金持ちに拾われて礼儀作法や教養を学んだが、そんなものは付け焼刃だ。
いい家に生まれついた者との差は埋めることなんてできない。

初めて夜会に出た時は、そのあまりの眩しさに我が目を疑った。
薄汚れた裏町で腹を空かせていた時には夢にも想像できない光景がそこにあった。
端まで見渡せないような広い部屋、大人数の楽団、キラキラと輝く無数の部屋の灯り。
たくさんの布を使った鮮やかな色のドレスに光る綺麗な石を身に纏った女たち、皺も汚れもどこにも見当たらない、裾がツバメの尻尾のような上着を着た男たち。
立ち居振る舞いのひとつひとつがゆったりと優雅で美しく、華やかな人々。
こんな世界があるのだと初めて知り、その夢の世界に入れたことに胸が躍った。
だが、夢心地でいられたのはものの数分だった。
自分を取り巻く好奇な視線、そして囲われの身と知れた時の蔑み、嘲り。
夢の世界はオレを住人として認めなかった。

今では夢のようだと思った社交界の優雅さや気品はうわべだけなのだと知っている。
一皮剥げば人は人だ。
美しい仮面で全ての汚さを隠している分性質が悪いとさえ思える。
それでもオレに選択の余地なんか無かった。
ここから逃げれば、待っているのは元の薄汚い裏町での生活だ。
道に立ち、パンひとつの為に誰彼かまわず体を売る日々しかない。
あの場所に戻るくらいならどんなことでも耐えられる。
オレは猛勉強をし、教養にも作法にも、そして己にも磨きをかけた。
今では蔑みなど笑って受け流せる。
そしていつの間にか得た称号は『高級娼夫』だった。

今の主である跡部は若くして爵位をついだやり手の実業家だ。
夜会に来る客も名ばかり華族といった品性下劣な連中はいない。
だからこそオレも一瞬たりとも気が抜けなかった。
跡部の所有する芸術品のひとつとして完璧な所作を要求される。
オレは優雅に笑い、気品のある立ち居振る舞いをし、教養溢れる受け答えをする。
演技でしかなくても完璧にこなせば跡部は満足してくれる。
跡部邸は執事をはじめ、使用人たちの教育もしっかりとされていて、金で囲われているオレを蔑ろにする者は1人もいない。
その意味では暮らしやすい場所だ。
跡部自身も今までオレを囲ってきたどの金持ちより、人として認めることができる男であることは間違いなかった。




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