1度きりの恋 10
片手にヴァイオリンケースを持ち部屋を出る。
玄関に向かおうとしたところで、ちょうど母が年配の婦人を居間へ案内するところに出くわした。
「あら、秀一郎さん、またお出かけなの?こちら竜崎伯爵の大奥様よ、ちゃんとご挨拶なさい」
「初めまして、秀一郎です」
「咲乃の祖母です。これからよろしくね」
お互いに挨拶を交わし、俺はそそくさと玄関へ向かった。
幸い、今日の母は俺を引き止めるつもりはないようだ。
あまり遅くならないようにとだけ言われ、俺は無事に家を出ることができた。
居間に通した竜崎に茶を勧めて自分も向かいに座った。
「噂に違わぬ好青年だねぇ。咲乃もなかなか見る目があるじゃないか」
「ふらふらと出歩いてばかりいて困ってますの。お嫁さんを貰えば少しは落ち着くと思って」
「そのことなんだけどね、話を進めてしまって構わないというのは本当かい?うちの咲乃は喜ぶだろうけど、秀一郎くんの気持ちは」
「それなら心配いりませんわ。あんなに可愛らしいお嬢さんなんだもの、秀一郎が嫌というはずないじゃありませんか」
「そうかい?それならいいんだけどね」
「結納の日取りはいつがいいかしら。早いほうがいいわね。大安は明後日だから・・・」
暦に目をやりながら結納と婚約式の日取りを考える。
少し強引だがこうでもしないと秀一郎は嫁取りを考えないだろう。
いずれ正式に大石子爵家を継がせなくてはならないし、それには伯爵家の令嬢は願ってもない良縁だ。
納得しないようなら主人にも言い含めてもらえばいい。
大丈夫、あの子は今まで親に逆らったことなどないのだから。
**
「それで?」
書類から顔を上げて訪問者をちらりと見遣った。
「毎日ですよ?いそいそとサロンにやってきては庭に出て行って」
得意満面で手に入れた情報を話す頭の悪さにうんざりした。
仕事中にやってきて、急用だというからわざわざ時間を割いて会ってみればただの告げ口だ。
くだらない。
菊丸が大石と密会してることなんてすでに俺の耳には入っている。
そうまでして俺に取り入りたいのかと、馬鹿馬鹿しさを通り超えて哀れにすらなってくる。
「もしよければ、俺が見張って会わせないようにしましょうか?」
「その必要はないから放っておけ」
「いいんですか?」
まだ何か話したそうにしてる男を手振りで追いやり、俺はまた書類に目を落とした。
俺は忙しい。くだらない用件に付き合ってる時間など1秒足りとも無い。
秘書に送られて渋々男が帰っていく。
ドアが閉まり、しばらく経ってから秘書を手招いた。
「仏蘭西語の家庭教師はどうなった?」
「すでに手配済です。明日からお屋敷へ通うことになっております」
「それならいい」
一礼して秘書が下がる。
大石に会いたければ会えばいい。
どうせ今のうちだけだ。
来週から俺はしばらく拠点を仏蘭西へ移す。
すでに向こうには屋敷も買い、当分暮らせる準備は整ってる。
予定通りいけば期間は5年、当然菊丸は連れて行く。
せいぜい束の間の逢瀬を楽しんでいればいい。
**
庭の中の小さな森で大石子爵と過ごす。
オレたちが座ってるすぐ傍にはポチとクロが寝そべって寛いでいる。
木漏れ日が差す中で寄り添って話をしたり、ヴァイオリンを弾いてもらったり。
お茶もお菓子もなくて、芝生の上に座り込んで。
オレは普段着で髪も梳かしただけ、宝石の1つもつけていないけど、夜会に出るより、サロンに出るより、ずっと今が楽しくて幸せな気分だ。
ずっと昔、まだ金持ちに拾われる前は、綺麗な服や宝石や山のようなご馳走があれば幸せなんだと思っていた。
でも本当は違う。
服は寒くないだけあればよくて、ひもじくならないくらいのご飯があればいい。
宝石なんて必要ない。
必要なのは、大好きな人が傍にいてくれること。
「英二、寒くないか?」
この人に英二って呼ばれるだけでオレは幸せになれる。
「大丈夫、寒くないよ。ほら、こうしてくっついてれば」
オレは甘えるように大石子爵の肩に頭を乗せる。
そうすると大石子爵はオレの髪を撫でるようにしてくれる。
余計なものなんて何もいらない。
ただずっとこうしていられたらそれだけで。
→11