1度きりの恋 11
跡部の指示で寄越されたという仏蘭西語の家庭教師に1日5時間もしごかれた。
今までにも英語や独逸語を習わされたけど、仏蘭西語はその中でも一番難しい気がする。
読み書きはなんとかなっても、上手く喋ることができない。
でも、その日の課題をちゃんと終わらせないと自由時間がもらえないから、大石子爵に会いたい一心でオレは必死に頑張る。
週末になって久しぶりに跡部が屋敷に帰ってきた。
「どうだ、仏蘭西語は。ちゃんとやってるか?」
「はい。難しいけれど少しは話もできるようになりました」
「しっかり勉強しておけよ。困るのはお前なんだからな」
どういうこことだろう?
仏蘭西から客でも来て、オレが接待するんだろうか?
オレが不思議そうな顔をしているのを見た跡部が唇の端を釣り上げて笑う。
「水曜には日本を出るぞ。それまでに会話の初歩クラスくらいはこなせるようにしておけ」
「・・・仏蘭西へ行くんですか?」
「そうだ。まぁ、向こうで暮らせば嫌でも言葉は覚えるがな」
暮らす?旅行じゃない?
・・・いつまで?
「5年は向こうにいるぞ。新しい事業を始める」
オレの心の声が聞こえたように跡部が言う。
5年。そんなに長く。
目の前が暗くなる。
跡部が続けてなにか言っていたけれど、もうオレの耳にはなにも聞こえなかった。
**
「あ、秀一郎さん」
出かけようとして玄関に向かうところで母に呼び止められた。
またお小言かと身構えた俺に母が呆れた顔ように笑う。
「今日はお出かけしてもかまわないけど、日曜はおうちにいてちょうだいね」
「日曜、ですか?」
「そうよ。それと新しいお洋服が届くから、帰ったら袖を通してみてね。お直しが必要なら急ぎで出さないと日曜日に間に合わないわ」
服まで新着して何をする気なんだ。
誰か偉い人でもうちに来るんだろうか。
「日曜に何があるんですか?」
「あなたの婚約祝いよ。今回はあちら様のご親族と顔合わせだけだから、うちでこじんまりすることにしたの。ちゃんとしたお披露目パーティはまた日を改めてするから」
「・・・え?」
「それじゃ、いってらっしゃい。先方のご迷惑になるから、あまり長居しては駄目よ」
茫然とする俺に、ついでのような注意をして母が背を向ける。
そのまま何事もなかったかのように2階への階段を登って行ってしまった。
待ってくれ、誰の婚約だって?
俺の?いったい誰と。
俺は手にしていたヴァイオリンケースを玄関の脇に置いて、母の後を走るように追いかける。
冗談じゃない、勝手にそんな話を進められてたまるものか。
**
土曜と日曜は跡部が屋敷にいたからオレは庭に出られなかった。
2日も大石子爵に会えなくて、オレは何度目かわからない溜息をつく。
たった2日でもこんなに気持ちが落ち込む。
だけど、これからは2日なんてもんじゃなく、5年も会えなくなるんだ。
今日と、明日と。
会えるのはあと2回だけ。
庭の小さな森の中でオレは膝を抱える。
撫でてくれとポチが擦りよって来たけれど、遊んでやれる余裕は今のオレにはない。
木漏れ日がチラチラして目を射る。
眩しくて目が痛い。
悲しくて胸が痛い。
「英二」
愛しい声に顔を上げるとそのまま抱きすくめられた。
何も言わずにその広い背に腕を回す。
このまま時が止まればいい。
抱きしめる腕の中でオレの体が溶けて、2度と離れられないようにくっついてしまえばいい。
仏蘭西へなんて行きたくない。
オレを抱きしめていた大石子爵の腕が緩む。
離さないでほしいと思ったけれど、その手はオレから離れて力なく芝生の上に落ちた。
無言でいる大石子爵の様子がおかしいことに気付く。
いつもは柔らかに微笑みながらオレを見ているその顔が、今日は暗く沈んでいる。
「何か、あったの?」
「英二も何かあった?・・・泣きそうな顔をしてるよ」
「オレは、」
言いかけて口を噤む。
仏蘭西行きのことを口に出せば、今すぐ全てが終わってしまいそうで怖かった。
オレは金で買われた跡部の所有物だ。
跡部の決定に逆らうことはできない。
仏蘭西は遠い。
オレには一緒に来てほしいとも、5年の間待っていてほしいとも言えない。
口を閉ざしたままでいる間、大石子爵も何も言わなかった。
大石子爵の手がオレの頬に伸びて、優しく撫でるように動いた。
自分でも頬に触れてみて、オレは初めて自分が泣いてることに気付いた。
「水曜に仏蘭西へ行くことになった」
ようやくそれだけ言うことができた。
「仏蘭西か・・・遠いな」
「行きたく、ない」
視界が滲む。
芝生の上にオレの涙がぽたぽたと落ちた。
溢れる涙を大石子爵の指が拭う。
そしてまた、今度は優しく抱きしめられた。
「逃げようか、2人で。誰もいないところへ」
耳元で囁くような大石子爵の声がする。
オレは何度も頷いた。
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