1度きりの恋 12




一緒に逃げよう、そう言ったものの、しばらくは実感がわかなかった。
まるで叶わないと知っている夢でも語っているような、そんな現実味の無さ。
家に戻り、普段通りを装っても足はふわふわとして地についていない。
自室に入り、寝台に仰向けになって天井を眺めた。
英二を連れて逃げる。
誰もいないところで2人きりで暮らす。
誰にも邪魔されることなく、ずっと2人で、楽しく笑いあって、寄り添って。

空想しているのは容易い。
だけど、それを現実にすることが本当に可能なんだろうか。

寝台から起き上がる。
浮ついた気分を振り払うように頭を振った。
できるかどうかなんて迷っている時間は無い。
愚図愚図していたら英二は海の向こうへ連れていかれてしまう。
そうしたらもう二度と会えないかもしれないんだ。

俺は必死で頭を働かせる。
英二を連れて逃げる、それに必要な物はなにか。
どこへ逃げればいいのか。
どうすれば捕まらずに2人で遠くへ行けるのか。

寝台から立ちあがり机の灯りをつけた。
引き出しから紙とペンを取り出し、思いつくままに書き散らす。
夢を現実にする、その為に必要な最低限の物を明日までに準備するんだ。



**



夕方も近くなって、俺はやっとサロンへ行くことができた。
昨日の夜に考えたことを実行に移す為に朝から走りまわった。
馬車を雇い、遠くの町で電車の切符を買う。
実際に電車に乗って終点の町へ行き、泊まれそうな宿があることも確認した。
あとは英二が無事に跡部伯爵の屋敷を出られるかどうかだ。
見張りが厳しいようならなにか考えなくてはならない。

「夜中なら大丈夫だと思う。みんな寝てるし。表玄関は無理だけど、勝手口からだったら出られるよ」
「それじゃ明日の夜。俺は屋敷の裏門の近くで待ってる」
「わかった」

英二が頷く。
不安そうな顔をしていないのが救いだった。
色々考えてはみたけれど、結局出来上がった策は少しも捻った所の無い、誰でも考え付くような綱渡りの脱走劇だ。
何かに阻まれて英二が屋敷を出られなかったら、雇った馬車が約束の場所にいなかったら。
どれかひとつでも予定外のことが起きれば逃げるのは困難になる。
でも他に考えつかなかった。

「荷物は最低限に纏めて。あまり大きなものは持って行けないから」
「なにもないから大丈夫」
「何も?」
「うん。オレの持ち物って1つもないから」
そう言って笑った英二に驚いて、俺は思わず凝視してしまった。
何も持ち物がないなんてことがあるんだろうか。
初めて会った時も、サロンに出てくる時も、同じ服を着ている英二を見たことがない。
いつも上品で洒落た絹のシャツを着て、高価な宝石を身につけていた。
見たことはないけれど、英二のクロゼットは服で溢れてるんじゃないのか。
そんな疑問が顔に出ていたのか、英二が少し気まずそうに笑う。
「伯爵が買ってくれたものなら部屋にたくさんあるけど、でもあれはオレのじゃないから」
「・・・ああ、そうか。そうだな。・・・ごめん」
「オレは何も持ってない。身ひとつだけだよ。それでもいい?」
英二の瞳が揺れる。
いつも強い光を放つ英二の瞳に微かな不安が映る。
俺は馬鹿だ。英二にこんな顔をさせるなんて。
「俺も何もないんだ。家を出てしまえば俺は子爵でもない。綺麗な服も宝石も、一生買ってあげることはできないかもしれない。それでもいいか?」
「そんなのいらない。一緒にいてくれればそれだけで」

互いに手を伸ばし抱きしめ合う。
逃げる準備をしながらも昨夜からずっと揺れ動いてた覚悟がやっとついた。
英二と離れることなんてできはしない。
それならなんとしても逃げ切るしかないんだ。



**



部屋の灯りを消して寝台に入り、じっと時間が経つのを待った。
枕元に置いた懐中時計を窓から入る月明かりにかざして何度も確かめる。
夜着には着替えず、その代わりにクロゼットの中にあった服で一番暗い色の服を着込んだ。
その方が夜に紛れやすいと思った。

時間が経つのが遅い。
闇に慣れた目で部屋を見回す。
この部屋で暮らしてから、もう4年経ったんだ。
その前は別の金持ちの所で1年、その前はまた別の所で半年。
前にオレを囲ってた金持ちは酷い奴で大嫌いだった。
毎日が屈辱と我慢の連続で、いい加減耐えきれず、逃げ出そうかと思ってた時に跡部に会った。
跡部に何が気に入られたのかは今でもわからない。
でも、跡部はそいつに融資する代償としてオレを引き取ってくれた。
跡部のことは嫌いじゃない。
もし大石子爵に会っていなかったら、オレは言われるまま仏蘭西へ行ってたと思う。
でもオレは大石子爵に会ってしまった。
そして恋をした。
こんな気持ちになったのは生まれて初めてで、そしてこの先二度とないだろうってことがわかる。
オレは生涯一度きりの恋をしてる。


時間だ。



**



春とはいえ夜はまだ冷える。
廊下の窓から差し込む月の光を眺めながら、俺は壁に背を預けるようにして待っていた。
明後日には日本を立つ。
ここ2、3日は留守中の仕事の委託やら処理で食事すら満足に取れない。
本当ならこんなことは誰かにやらせればいいことだとわかっている。
だが俺は、自分の目で、耳で、確かめたかった。

忍ばせた足音が廊下に微かな物音を立てる。
そして俺の予想通り菊丸は現れた。
廊下に立っていた俺を見て菊丸の足が止まる。
お互いに睨みあうように対峙すること数秒。
「こんな時間にどこへ行く気だ?」
凍りついたように動きを止めている菊丸からの答えはない。
俺の方から歩み寄る。
逃げるかと思ったが、菊丸はじっとその場から動かなかった。
目の前に立ち真正面から見据える。
見つめ返してくる瞳は、相変わらず強い意志を宿していた。
この瞳に、惹かれた。
「考え直せ。今なら見なかったことにしてやる」
「・・・何を」
「俺様の目を欺けると思ってるのか?」
気丈な菊丸の瞳は揺るがない。
だが隠しきれない動揺が唇を噛む仕草に現れた。
大石のどこがいい。
どこにでもいる平凡な男だ。
ただ真面目なだけの面白味もない奴を何故こうまでして追う。
「駆け落ちなんて真似をすれば大石は当然勘当だ。一文無しになった奴と逃げてどうする。お前はまた貧しい生活に逆戻りだぞ」
「・・・オレは、」
「愛があれば貧しくても、なんてのは嘘っぱちだ。俺は仲睦まじいと評判だった夫婦が没落と同時に仲違いして別れるのを見た。貧しさに心が荒めば大石だってお前を捨てるぞ?」
「例えそうなっても・・・それでもオレは、あの人と行きたい」
菊丸の瞳が月の光を弾く。
その光が一筋、頬を伝って流れ落ちた。

よくしてやっただろうが。
なんでも買い与えたし、優しく扱って無理をさせたこともないはずだ。
なんの不自由もない生活をさせてやったのに、何が足りない。
菊丸の肩を掴んでそう叫びたい衝動に駆られる。
だが深く息を吸って押し殺した。
全てを捨ててでも大石と行きたいと菊丸の瞳が訴えている。
俺の負けだ。

「そこまで覚悟ができてるならもう何も言わねぇよ」
菊丸に手を伸ばして乱れたままの髪をかきあげる。
思ったとおり、こいつはピアスの1つも付けていない。
馬鹿な奴だ。
部屋にあるありったけの宝石でも持っていけば、しばらくは食うのにも困らないだろうに。

ポケットから出したサファイアのピアスを菊丸の耳に付けてやる。
菊丸の瞳の色に合わせて探させた石だ。
「これは餞別だ。今まで働いた給金代わりにくれてやる。持って行け」
「伯爵、」
何か言おうとした菊丸に背を向けて俺は自分の部屋へ戻る。
未練がましくみっともない真似をするのは御免だ。
俺にもプライドがある。



**



勝手口のドアを開けて裏門まで走った。
すぐそこに見える門がやけに遠く感じて足を必死に動かす。
大石。大石。大石。
早く、会いたい。今すぐ会いたい。
やっとのことで裏門に辿りつき閂を外した。
門から出て辺りを見回すけど、どこにも大石の姿は無い。
オレは走って門の近くを探す。
いないかもしれないとは一度も考えなかった。
大石は必ず来てくれる。
信じてオレは走る。

門を出て角を曲がった時、向こうから同じように走ってくる人影が見えた。
「大石!」
「英二!」
オレは走る、大石に向かって。
顔が見えた。
そして広げた腕が、オレを包む。
ここがオレの居場所、大石の腕の中。
他には何もいらないんだ。







→end

(09・01・25−09・04・13)