1度きりの恋 5
部屋に戻ってもまだ頭の中にさっきのモーツアルトが流れていた。
大石子爵がオレの為に練習してきたというモーツアルト。
寝台に腰掛け目を閉じる。
そうすれば、今もすぐ傍で大石子爵がヴァイオリンを弾く姿が見える。
ピンと姿勢良く伸びた背筋、ヴァイオリンを操る長い指。
音は弾むように遊ぶように周囲に飛び散り、窓から差す光と一体になって弾けて消える。
指定した訳でもないのに、オレの好きな曲ばかりを弾いてくれたのも嬉しかった。
寝台に横になり耳に残っているメロディを口ずさむ。
本当はクラシックというのはあまり好きじゃない。
やけに荘厳でなんだか偉そうだから。
でもモーツアルトは別だ。
まるで子供が庭で子犬とじゃれて遊んでるみたいな曲とか、キラキラと光が舞い踊るような曲があって楽しい。
そういえば大石子爵も子供の頃犬を飼ってたって言ってたっけ。
子爵様なんだから、きっと跡部の家みたいに広い庭があるんだろう。
その広い庭で子供の大石子爵が子犬と転げ回って遊んでる。
想像したら楽しくなった。
モーツアルトの曲に合わせて気分も躍る。
こんなふうに楽しい気持ちになるのは初めてかもしれない。
大石子爵は不思議な人だ。
オレは最近、あの人のことばかり考えている気がする。
深い緑の瞳がとても優しい人。
明日もサロンに来るだろうか。
来てくれるといいな。
**
彼が毎日サロンに出てくるようになった。
そして俺を見て微笑んでくれる。
それだけで毎日が夢見心地だ。
昼前からサロンが閉まる夕刻まで跡部邸に入り浸る。
ヴァイオリンを弾けば決まって彼はすぐ傍で聞いてくれるようになった。
以前より話をすることも増えた。
彼に聞かれるまま、子供の頃に飼ってた犬の話や庭にある大きな桜の木の話、手を絆創膏だらけにしながら作った鳥の巣箱の話をする。
他愛のない話ばかりだけど彼は楽しそうに聞いてくれて、それを見ているだけで俺は幸せになった。
こんな日がずっと続けばいい。
多くは望まない、ただ彼が、1日のうちの数分でもいい、俺の傍で笑ってくれさえすれば。
**
独逸での商談は思ったよりも日数がかかった。
だが、気難しい公爵を攻略し、意のままに商談を進め大きな成果を得た。
港から車でまっすぐ家に戻り一息つく。
3日くらいは休息を取ってもいいだろう。
久しぶりにサロンに顔を出して、悪友共と過ごせば疲れも取れる。
ふと思い立ち、土産代わりに購入した品の中からアンティークのブローチとカフスボタンを取り出した。
そのまま菊丸の部屋へ向かう。
ドアの前に立った時、部屋の中からモーツアルトが漏れ聞こえた。
「お前が部屋でレコードをかけるなんて珍しいな」
「お帰りなさいませ、伯爵」
ソファにしどけなく横になりレコードを聴いていたらしい菊丸が立ち上がって俺を出迎えた。
そのソファに腰を下ろし、レコードの針を止めようとしていた菊丸の腕を取る。
引き寄せて隣に座らせた。
「止めなくていい。俺はワーグナーの方が好きだが、たまにはモーツアルトもいいだろう」
持ってきた土産を渡してやると菊丸は目の前で箱を開けた。
ブローチよりもどうやらエメラルドのカフスが気に入ったようで、手にとってじっと眺めている。
エメラルドは色が明るいほうが高価だが、このカフスの石は緑が深い暗めの色合いをしている。
「気に入ったようだな」
「はい。とても優しい色ですね」
そう言って微笑んだ菊丸に俺は微かな疑問を感じた。
暗いとすら思える石をなぜ優しいと感じるのか。
レコードの件にしてもそうだ。
どうやら俺がいない間に菊丸になにかあったらしい。
「ずいぶん家を空けちまったが、なにか変わったことはないか?」
「いえ、特には」
「そうか。お前は何をして過ごしてた?」
「サロンに出たり、庭で犬と遊んだり」
指先で髪を梳きながら眼を見れば、じっと見つめ返してくる。
その眼のどこにも疚しさは見えない。
「俺も明日はサロンに出る。お前も出ろよ」
「わかりました」
ソファから腰を上げる。
ドアまで送ってきた菊丸に、それから、と付け加えて振り返った。
「あとで俺の部屋へ来い」
「はい」
夜伽に来いと言われても菊丸に躊躇は見えなかった。
菊丸の変化には男が絡んでいると思ったが見当外れだったか。
だが、菊丸の纏う、どこか浮かれているような華やいだ雰囲気を説明するには、他の理由が思いつかなかった。
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