1度きりの恋 8
朝食のあと自室に戻りヴァイオリンを手に取った。
彼とはずっと会えないでいるが、ヴァイオリンを弾くのは俺の日課になっている。
こうして毎日弾くことで彼と繋がっていられる。
そうでも思わないと気持ちが負けてしまいそうだった。
会えなくなって一月以上経つ。
もしかしたらと夜会にも足を運んだが、彼は現れなかった。
もっとも、跡部伯爵も来ていないのだから当然なのかもしれないが。
部屋でヴァイオリンを弾いていると、ドアをノックする音が聞こえて俺は手を止めた。
「坊ちゃま、奥様が居間でお呼びですよ」
そう笑みを浮かべて使用人が立っている。
ついさっき朝食で顔を合わせたばかりだ。
何か用事でも思いついたんだろうか。
不思議に思いつつ俺はバイオリンをケースにしまう。
サロンに行くまではまだ時間がある。
何かはわからないが、そんなに長引く用でもないだろうと高を括って部屋を出た。
居間のソファには母と見知らぬ少女が並んで座っていた。
女性というよりはまだ少女と呼んだ方がふさわしい、どこか幼い雰囲気だ。
だが、母の顔に浮かぶ笑みにはよからぬ企みが透けて見える。
・・・まったく、こんな子供みたいな娘まで連れてきて、そんなに俺に結婚させたいんだろうか。
胸の中で溜息をつきながら入っていくと、少女が立上がり、ぎこちない仕草で会釈した。
それに軽く頭を下げて返しながら母に用件を尋ねる。
「秀一郎さん、こちらは竜崎伯爵のお嬢さんで咲乃さんよ。今日はわざわざお紅茶を届けてくださったの。本場英国の茶葉よ、あなたも飲んでらして」
母が満面の笑みで少女を紹介する。
わかりやすいにも程があるが、ここは気付かない振りをするしかない。
「ありがとうございます。母は紅茶が好きなので」
「あ、いえ、これは、この前従兄弟がお土産だって言って、すごくたくさん置いていったので…」
慌てたように答える少女の頬が微かに染まる。
それを母が嬉しそうに見ていた。
「それじゃ母様はお茶の支度をしてくるわね。秀一郎さんは咲乃さんのお相手をお願い」
「すみません、俺は今から出かけなくてはならないので、」
早々に申し出た退散を母は「そんな用事はやめてしまいなさいな」と一刀両断の元に切り捨てた。
「乾さんに聞いたわよ、あなたよそ様のサロンで暇潰しをしているんですって?毎日行ったら先様もご迷惑でしょ?今日は1日母様と咲乃さんのお相手をしてちょうだい」
微笑んだまま軽く俺を睨んだ母は、そのまま居間を出ていってしまった。
「あ、あの・・・ごめんなさい!私が急に来せいで・・・」
「いえ、母はいつも強引なので気にしなくていいですよ」
そう言って笑いかけると少女の頬が赤味を増した。
これはちょっとまずいかもしれない。
さすがに彼女のような顕著な反応を示されれば、いくら鈍いと言われる俺でもわかってしまう。
母は元よりそのつもりのようだし、彼女がこの有様では長居は禁物だ。
あまり格好はよくないが、途中で小用とでも言って席を外そう。
**
サロンに出ることを禁じられて一月が経った。
オレの部屋に流れるのはモーツアルトのレコードばかりだ。
記憶の中で何度も繰り返し辿ったヴァイオリンの音色はだんだんと曖昧になっていく。
それがただ悲しかった。
1人で部屋にいると思い出すのはサロンで一緒に過ごした大石子爵のことばかりだった。
いろんな話を聞かせてくれるのが楽しくて、オレのリクエストに応えて次々とヴァイオリンを弾いてくれるのが嬉しくて。
本当に毎日サロンに行ける時間が待ち遠しかった。
このまま二度と大石子爵に会えず、姿や声すら記憶から消えていくんだろうか。
そう考えるだけで胸が張り裂けそうに痛む。
跡部は一度仕事から戻ってきたけれど、山のような土産を部屋に届けてくれただけでまたすぐに行ってしまった。
絹のシャツや宝石なんかよりもオレはサロンの出入りの許可が欲しい。
大石子爵に会いたい。
遠くからでもいい、その姿を見たい。
あのヴァイオリンを聞きたい。
サロンに出入りしてはいけないと言うなら、どこか、他の所で聞くことができないだろうか。
隣の部屋とか、・・・そうだ、庭。
サロンの窓からは庭の中の木立が見えていた。
あの木の所なら、サロンからも他の部屋からも見えない。
考えつくと同時に体が動いていた。
部屋着の上に上着だけ羽織って庭に走り出る。
温かな日差しが降り注ぐ庭を走り、ぐるりと遠回りしてサロンの向かいにある森を模した木立の所まで行った。
姿が見えないように注意深く木の裏側を歩き、サロンの窓がある場所まで移動する。
思った通りサロンの窓は開いていたけれどヴァイオリンは聞こえなかった。
大石子爵は来ているんだろうか。
遠いサロンの中に目を凝らしていたオレは、いつの間にか近寄って来ていた奴らに気付かなかった。
**
どうにか自宅から逃げ出し跡部邸へやって来た。
だが、彼は今日もいない。
苦しい言い訳をしてまで通い詰めて、俺はいつか彼に会えるんだろうか。
諦めたくはないが、他に彼に会えそうな手段が思いつかない。
夜会にもサロンにも出てこないなら、俺は彼に会う術すらないのだ。
窓際のソファに座り、ぼんやりと窓の外を眺める。
母はこれからも年頃の娘を家に招くだろう。
いずれ逃げ切れず、どこかの娘を娶ることになるんだろうか。
・・・それも悪くはないのかもしれない。
真面目で優しい人なら穏やかな家庭が築けるだろう。
父の仕事を継いで働き、妻を貰って子を成し、年を取り死んでいく。
平凡だがそれもひとつの幸せだと思う。
このまま彼に会えなければ俺はきっとそうやって生きていくしかない。
そしていつの日にか彼のことは若き日の思い出となって。
取りとめのない思考に陥っていた俺の目の端を何かが過った。
何かと思い目で追えば、2匹の犬が走っていくところだった。
・・・あの犬は、こないだ彼が庭で遊んでいた犬だ。
ポチとクロと呼んでいた犬に間違いない。
2匹はサロンの向かいにある木に向かって駆けているようだった。
やがて木の傍で一声吠えて、何かに飛びついた。
ここからは見えないが、誰かいるのかもしれない。
そう思った矢先、2匹にじゃれつかれるようにしながら現れた人影に、俺は思わずサロンから庭に走り出ていた。
間違いない、彼だ。
→9