1度きりの恋 9




庭に出たのが久しぶりだったせいか、クロもポチもなかなか言うことを聞かずにじゃれついてきた。
遊んでやりたいけど場所が悪い。
遠いとはいえ、ここじゃサロンの窓からまる見えだ。
「いい子だから吠えんなって。あーもう、引っ張ったらダメだよー」
元気に吠えるポチの傍らではクロがオレの服の裾をくわえて引っ張る。
いくらなんでもこんなに騒いでいたら誰か来てしまう。
とりあえず吠えるポチを宥めようと、木陰から出たそこに大石子爵が立っていた。
驚く暇もなく、大石子爵の腕がオレを捕らえる。
なぜここに、とか、どうして、とか、一瞬頭を過った言葉はたくさんあったけれど、温かな胸と力強い腕の前に溶けて消えた。
体温が一気に上昇する。
ここが庭だということも忘れた。
クロやポチの鳴く声も、風が木を揺らす葉擦れの音も聞こえない。
何も無い世界にたった2人だけでいる。
オレを抱きしめる大石子爵の腕の感触だけが全て。
沸騰しそうな血に心臓は暴れだす。
体中が、髪の1本1本までが喜びに震える。
そうか、そうだったんだ。
どうしてあんなに大石子爵に会いたかったのか、あの笑顔を、声を、どうして切ないほど欲しいと思ったのか、それがようやくわかった。

オレはこの人が好きなんだ。


**



彼の顔を見たとたんに抗い難い衝動に駆られた。
行き場を失いくすぶるしかなかった想いが、やっと行く先を見つけたと激流のように溢れ出す。
驚き目を瞠った彼を逃げられないようにこの腕に閉じ込める。
会いたかった。
会いたかったんだ。
腕の中に、彼の華奢だけどしなやかな体を感じて眩暈がした。
こうして抱きしめたいと夢にまで見た彼が俺の腕の中にいる。
もしこれが夢ならば俺は二度と目覚めなくてもいい。
微かに匂う彼の甘やかな香りに苦しいほど胸が高鳴る。
もう二度と彼を離したくない。
このまま彼を連れて、誰もいない世界へ行ってしまいたい。



風の鳴る音が耳元で聞こえた。
狂おしい嵐のような激情が収まると、急に俺は現実に引き戻された。
これは夢じゃない。
その証拠とでも言うように風に揺られた彼の赤い髪が俺の頬を撫でる。
いったいどれだけの間こうして彼を抱きしめていたんだろう。
冷静になってみれば腕の中の体は強張り、緊張しているのがわかる。
なにも言わず突然抱きしめるなんてとんでもなく不躾な真似をしてしまった。
謝らなくてはと思うのに、離したくない気持ちが強過ぎて腕を緩めることができない。
そうしているうちに、腕の中の彼が力を抜いたのがわかった。
信じられないことに、彼の腕がそっと俺の背中に回される。

・・・ああ、俺は今ここでたとえ死んでも悔いは無い。
彼が俺を受け入れてくれた。
嬉しさに加減も忘れて力一杯彼を抱きしめる。
彼の腕も同じくらいの力で応えてくる。
それだけで彼も俺と会いたいと思っていてくれたことが伝わってきて、何よりも嬉しかった。


**



風が冷たくなってきたのを感じて目線を上げれば、綺麗なオレンジ色の夕陽が辺りを照らしていた。
温かな腕に包まれているオレは少しも寒くなんかなかったけど、大石子爵の背は冷えてしまっている。
ずいぶん長い時間こうして抱き合っていた。
離れるのは辛かったけど、このままでは大石子爵が風邪をひいてしまうかもしれない。
腕を緩めて大石子爵の顔を覗き込む。
まっすぐで燃えるように熱い瞳がオレを見つめ返してきた。
「もうサロンも閉まります。戻らないと」
「ずっとサロン出てこなかったのはなぜ?」
「伯爵から出入りを禁じられました」
「そうだったのか・・・」
瞳を翳らせた大石子爵にオレは笑って見せた。
「でも、こうすれば会えるってわかりました。オレは毎日ここで貴方を待ちます」
「俺も必ずここに来る。1日も欠かさずここへ来るから」
大石子爵の腕が再びオレを抱きしめる。
胸が痛いほど切なくて、そして苦しいほど幸せだった。





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