霧の中
迷っていた。
目の前の道は二股に分かれていて、歩いて行くには当然どちらか片方を選ばなくてはならない。
片方を選べば、選ばなかった片方の道が消失する。
選べなくて、迷って、俺は分岐点で立ち尽くす。
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スポーツドクターという職業を目指したいと思ったのは、きっかけこそ手塚の怪我だったけれど、最終的に揺るぎない決意になったのは俺自身の怪我だった。
出られなかった試合、完治しないまま出て負けた試合。
俺は副部長として部をまとめていくという役目を持っていたから努めて冷静に振舞っていたけれど、本当は焦りも不安もあった。
試合のあった日は悔しくて眠れなかった。
広いコート、英二の隣に桃城が、不二が立っている。
そこは俺の場所だ、そこに立つのは俺なんだ、と何度も心の中で叫んだ。
医者にはまだ完治していないと言われても、もしかしたらとラケットを握った。
誰もいない所でボールを打って、痛みを感じなかった時の喜び。
微かに残る不安を押し殺して試合に挑み、そして負けた時の辛さ、後悔。
俺の怪我だけが試合を左右したなんて傲慢なことは思ってない。
ただ、万全な状態で戦えなかったことが悔いになった。
スポーツドクターになって、怪我をした選手のケアをしたい。
適切な治療と、トレーニングやリハビリ、1日でも早く、元の居場所へ選手を帰してやることができたら。
あの苦しみの中にいる選手たちに、ほんの少しでも俺が力になれたら。
それが俺の夢になった。
夢を夢のまま終わらせるつもりはなかった。
スポーツドクターについて学び、医師免許が必要だとわかった。
そして、逆算していくと、医師免許を取るには、外部の高校へ行く必要があるということもわかった。
青学の高等部へ進学できない。
それは俺にとって衝撃的なことだった。
中学3年間で培ってきた友人や仲間たち、どこにいるより充実して気持ちのいい場所。
ずっとここにいられるとは思わなかったけれど、みんながそれぞれの道を歩みだすのは少なくとももう少し先の話だと思っていた。
大学進学、就職、そのくらいまでは一緒にいられるだろうと、漠然と考えていた。
それなのに俺が真っ先にここから離れなくてはならないなんて。
そして、英二。
高等部でもまたテニスをしよう、ダブルスを組もうと言ってくれた英二。
俺にとっては誰よりも大切な相手だ。
その英二の隣というポジションを手放すなんてできるわけないじゃないか。
・・・青学は学力的にもそんなに低くはない、高等部までは青学で、大学を外部受験にすれば。
いっそ医師免許の不要なトレーナーなら。
いつの間にかそんなことを考えていた自分に愕然とした。
そうやって、妥協を続けていって、辿りつくのはどこだ。
最後には俺は、何にもなれていないんじゃないのか。
答えは見つからないまま夏の大会が終わった。
全国優勝を掴んだ中学最後の夏は、感慨や余韻にふけっている暇もなく慌ただしいものだった。
次々に舞い込んでくる練習試合の申し込み、後輩たちへの引き継ぎ。
雑事に朝から晩まで明け暮れて、悩む暇も考える余裕もなく、気付けば四天宝寺との練習試合で大阪に来ていた。
俺も英二も直接戦うことはなかった相手だが、試合の時のインパクトは強く、今でも思い出すと笑ってしまう。
そんな彼らも後輩に来年からの部を託していくことを考えていて胸を打たれた。
そうだ、きっとみんな同じなんだ。
卒業していくもの、それを継ぐもの。
例えその場所からいなくなったとしても、それは後輩たちによって永遠に引き継がれ生き続ける。
その場にいなくなったからといって、それまでの全てが無くなることはないんだ。
「おーいしー、オレ、行きたいたこ焼き屋があんだよねー」
「いいよ、行こうか」
大阪滞在中、たった1日だけ許された自由行動。
英二はまるで当たり前とでもいうように俺と行動を共にしてくれている。
英二の隣のポジション、それは、俺が実際にそこに立っていなければ無くなってしまうものなのか?
「ここ、ここ!この公園のたこ焼きが超絶ウマいんだって!」
「四天宝寺のメンバーから聞いたのか?」
「うんにゃ、乾が大阪行く前に氷帝の忍足からリサーチした情報を乾から聞いた」
「・・・なんかややこしいな」
「とにかく!たこ焼き推奨委員会の忍足が言うんだから間違いないって!早く食べよー!」
たこ焼き推奨委員会が本当にあるかどうかはおいといて。
確かにたこ焼きは美味かった。
英二も俺も一皿では足りなくて、結局英二が4皿、俺は3皿食べて満足した。
隣で膨れた腹をさすっている英二の、満腹な猫のような顔が可愛くて俺は思わず微笑む。
大丈夫だよな?
そこにいなくても、無くなることはないよな?
俺たちが育んできた絆は、そんな柔なものじゃないよな?英二。
「なぁ、英二。俺、高校は外部受験をしようと思ってる」
「はぁ!?なにそれ、なに急に!どーいうこと?」
「スポーツドクターになりたいんだ。それには医師免許が必要で、医師免許を取るには高校から準備が必要なんだ」
一息に言ってしまうとすっと気持ちが楽になった。
霧が晴れて進むべき道が見えた、そんな気分だ。
だけど唐突過ぎて英二は目を丸くしたまま俺を見る。
そして、ふっと眉を顰めた。
「ずいぶん急じゃん。いつ決めたんだよ」
「たった今だよ。正直いって、ずっと迷ってたんだ」
迷ってた。
夢と英二と、どちらか片方を選ばなければならないと思ってたから。
でも違うって気付いた。
だから英二、お前も気付いてくれ。
虫のいい頼みかもしれないけど、気付いて、わかって欲しい。
俺は英二を失いたくない。
「大変だぞー、医者なんて。すっごい勉強しなくちゃじゃん。オレには絶対無理だにゃー」
英二が笑う。
「ま、大石なら大丈夫か。頑張れよ、応援しちゃる」
「・・・英二」
嬉しさで胸が熱くなる。
こんな人通りの多い所でなければ英二を思いっきり抱きしめたいくらいだ。
英二はやっぱりちゃんと俺のことをわかってくれる。
誰よりも大切な俺の。
「将来の夢かぁ。俺はアクロバティックを生かしてスタントマンでもやろうかなー」
「そしたら俺が専属のトレーナーになるよ」
「ぷくく。専属のトレーナーって、おーいし、それってちょっとプロポーズっぽいぞ」
英二が笑う。
プロポーズ、いいじゃないか。
英二の隣のポジションをずっと俺のものにしておけるなら。
「ごめんな、英二。その、高等部でもダブルス組もうって言ってくれたのに」
「いーよ。今度はちゃんと大石がオレに話してくれたからさ、それは許してやる。でも、絶対にスポーツドクターになるんだぞ!でもって、オレの専属トレーナーになること!・・・それまで黄金ペアは休業、だね」
「頑張るよ。必ず英二と黄金ペアを復活してみせる」
「うん!」
英二が手を高く挙げる。
その手にたくさんの想いを込めて力一杯ハイタッチした。
乾いた小気味良い音が真夏の空の下に響き渡る。
真夏の太陽より眩しい英二の笑顔に背中を押されて、俺は道を歩み出す。
迷いの霧が晴れた二股の道は、よく見ればずっと先で繋がってまた1つの道になっていた。
→end