TRUST 6
その日の午前中、珍しいことに蓮二は私室での待機を命じられた。
傍付きの神官となって初めてのことである。
王である弦一郎は朝から重臣を集め会議を行っていた。
終われば自室に戻ってくるはずだが、午後を回っても弦一郎はなかなか姿を現さなかった。
ここ数日、以前にも増して様子のおかしかった弦一郎に蓮二は危惧を抱いていた。
何か深く考え込み、時折独り言のように意味のわからないことを呟く。
声をかけても反応せず、目の前にいても存在すら見えていないような振る舞いをすることも多々あった。
求める形で還されることのない神の愛に、飢えきった弦一郎の狂気は日毎色濃くなっていく。
蓮二はそんな弦一郎のすぐ傍にいながら、その飢えを満たすことも、和らげることも、まして他へ目を向けさせることもできないことに打ちのめされる。
いくら手を差し伸べても、声を枯らすほどに呼んでも、弦一郎は振り向かない。
・・・この手では、この声では駄目なのだ。
暗い淵に向かう、その歩みを止めたい。
止めなくてはならないのに、その方法が無い。
蓮二は弦一郎の私室にも設けられている、礼拝用の小さな聖人像の前に跪く。
深く頭を垂れ、懇願するように祈る。
あの人を救えるのはもはや神である貴方だけなのです。
一度きりでいい、目に見える形で彼に確かな奇跡を。
**
昼過ぎに戻るはずだった弦一郎が自室に戻ったのは、すでに陽も落ちた頃だった。
最近では見ないほど機嫌が良く、熱に浮かされてでもいるような高揚した顔に、得体の知れない不安が蓮二の胸に湧き上がる。
そもそも今回の会議のについては議題すら聞かされていない。
今まで常に傍に付き従い、あらゆる国の政務に形ばかりとはいえ関わってきたのに、何故今回に限って参加を許されなかったのか。
―自分がその場にいれば、間違いなく異議を唱えるような内容だったからではないか。
浮かぶ悪い予感を蓮二は振り切る。
行き過ぎることはあっても、それは全て神の寵愛を得たいが為にすることだ。
それならば、神の意に背くことなどするはずがない。
考えすぎだと自身を諌め、わからなくて不安なら確かめればいいと気持ちを切り替える。
着替えの為に入室してきた王付きの小間使いを自分がやるからと退室させ、蓮二は弦一郎に歩み寄る。
上着に手をかけ脱がせるのを手伝いながら、蓮二は胸の内を隠して何気なく問いかけた。
「ずいぶん時間がかかったな。
会議で揉めたのか?」
「まぁな。だが已むを得ん、そうそう納得できる話でもないだろうからな」
応えながら弦一郎が薄らと浮かべた笑みは、蓮二の背筋を凍りつかせる。
邪悪とすらいえる気配を纏う、暗く歪んだ笑み。
こんなふうに笑う顔は初めて見る。
「・・・何を、決めてきたんだ?」
恐ろしさに竦みそうな心を叱咤して蓮二が問う。
「考え方をな、少し変えてみたのだ」
「それは、どう・・・変えたんだ?」
声が震えそうになるのを押し殺し、重ねて蓮二は尋ねる。
だが、明日になればわかると笑うだけで、いくら聞いても弦一郎は答えようとしなかった。
**
翌早朝、身支度を整えた蓮二は、迎えの兵士に誘導され王の間へと入った。
昨夜から体中に渦巻いている黒い不安は、一夜明けても消えることがない。
それどころか、ますます強くなっていくばかりだ。
城内の様子が明らかにおかしい。
迎えに来た兵士も、そして王の間の入口に平素と同様に整列している重臣たちも、誰もが暗い表情で目を伏せる。
重い空気が支配する王の間の中で、開け放たれたバルコニーに立つ弦一郎だけが、金色に輝く朝陽を浴びて神々しいほどの威厳を放っていた。
「来たか、蓮二」
手招かれて蓮二もバルコニーに出る。
石畳が整然と敷き詰められている広い中庭は、国で行う行事や祭礼に使われる場所だ。
普段は使用人や兵士が時々行き来するだけの場所で、そして今日は何の祭事も無いはずだった。
それなのに高い木の柵が設置され、その中に男女取り混ぜておよそ30人ほどが入れられている。
「・・・弦一郎、あれはなんだ・・・」
「神への供物だ」
「!!」
予想もしていなかった答えに蓮二は驚愕で目を見開く。
柵を取り囲むのは槍と弓で武装した兵士、柵の中には縄をかけられ蹲るように石畳の上に座り込む人々。
声も出せず、ただ庭を凝視する蓮二の横で、弦一郎が庭の兵士に合図を送る。
一斉に兵士たちが柵の中の人々を槍で、弓で攻撃し始める。
矢が風を切る鈍い音、槍同士がぶつかり合う金属の音、そして断末魔の悲鳴。
瞬く間に石畳を染める血が、細い流れとなってバルコニーの側に迫る。
悪い夢を見ているようだと、どこか麻痺した頭で蓮二は思う。
あまりの残虐さにこれが現実だと受け止められない。
目を背けたいのに、視線は凍りついたように行われている殺戮から離すことができない。
声を上げたいのに声が出ない。
渇いた喉には空気すら入ってこず、呼吸もできない。
これが神への供物だと言うのか。
これが。
地獄の光景が暗転する。
蓮二は意識を失ってその場に崩れ落ちた。
**
瞼の裏に無数の赤い花が咲いている。
振り解けないほど、辺り一面に赤い花が咲き乱れている。
漂うのは血臭、花だと思ったのは人の亡骸だ。
恐怖で一瞬にして目が覚めた。
窓から差し込む夕陽が赤く部屋を染めている。
夢の正体はこれかと安堵しかけ、寝台のすぐ脇で自分を見つめていた弦一郎の瞳に、全てのことが蘇った。
あれは夢ではない。現実だ。
全身が悲痛に打ちひしがれる。
それでもここで立ち止まることはできない。
亡くなってしまった人たちは気の毒だったと思う。
だが、蓮二には生きながら業火に焼かれ、未だにもがき苦しむ傍らの男の痛ましさの方が勝る。
蓮二は暗い淵に足を囚われた弦一郎の手を取る。
「弦一郎、」
「・・・教会を打ち壊した時に雷が落ちただろう。神は怒りでしかその姿を現さないのだ」
「それであんな惨い真似をしたのか」
「今朝集めた者たちは全て罪人だった。いずれ処刑されることが決まっていた者だ。・・・罪人は神に愛される資格が無いということか?」
「そうじゃない、弦一郎。神は罪人であろうとなかろうと、平等に愛を注ぐ。・・・もうこんな形で奇跡を望むのは止めるんだ」
少しでもその心に届くように、蓮二は想いを込めて弦一郎を諭す。
「・・・罪人では駄目なのだ・・・もっと、神の愛を受けるに相応しい者でなければ・・・」
ひとり物思いに耽るように弦一郎が呟く。
蓮二の声は届かない。
寝台から体を起こし、腕を伸ばして抱き寄せた。
独り闇に沈んでいこうとする弦一郎を蓮二は必死の思いで引き留める。
「弦一郎、もう止めるんだ。例え誰を生贄にしても、お前の望む形で神が姿を現すことなどない」
「もっと、清い者を・・・敬虔深く、慈愛深い、母のような・・・」
「聞こえているのか!?弦一郎!!」
蓮二は抱き締めた腕に、さらに力を込める。
だがその声も願いも、虚しく部屋に響くだけだった。
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