湖の妖魔 1




森の中の湖に妖魔が出没するという噂は前からあった。
滅多に人が踏み入ることのない森は珍しい動物も多く住み、嘘か真かさだかではないが妖精なども住んでいるという。
人でないものが、ただそこに現れるというだけであれば何も問題はない。
だが、最近になって妖魔が人を湖に引き込み、溺れさせるという噂が広まった。
危険な妖魔なら放置しておくわけにはいかないと、王国きっての剣士が2人、妖魔退治を任命された。


緑深い森を真田と幸村が進む。
聞いたことのない鳥の声が響き、見たことのない小動物が駆け回る森を抜け、ようやく湖の畔へと辿り着いた。
森の中の湖とは言っても広く、木々が途切れたそこは眩しい程の光が湖面を覆う。
だが妖魔どころか、風が水面を撫でて陽の光をきらめかせる他は、なんの気配も感じられなかった。
「かなり広いな。妖魔が出るのはどの辺りだ?」
「さぁね。俺だって初めて来たのに知るはずないだろ」
真田と幸村は湖面を睨んだまま数時間を過ごし、なんの変化も見られないとわかると肩の力を抜いた。
「出ないな」
「噂は噂、か。ぬかるんだ淵を歩いて足を滑らせたとかだったりしてな」
「そんなことでいちいち駆り出されてはたまらん」
「まぁそう言うなって。それが宮仕えの辛いとこさ」
不機嫌そうに口を噤む真田に苦笑いした幸村が、生き物の気配を感じとって咄嗟に腰の剣に手をかけた。
真田はすでに剣を抜いた状態で湖を睨む。
静かだった湖面の一部が尾を引くように淵に向かって流れ、近づくにつれ流れの先頭に浮かんでいる頭らしきものが見えてきた。
やがて湖の浅いところに差し掛かかると、浮かんでいた頭がゆっくりと持ち上がり、水を掻き分けるようにして白い体が現れた。
真田と幸村が立つところからわずかに20m程先だ。
剣を構えたままの真田は唖然とし、幸村は感嘆の溜息を漏らした。
湖から岸へと上がってきた妖魔は人と変わらぬ姿をしてはいるが、一糸も纏わず陽に白い裸身を晒している。
水の滴る黒髪を手で掻き上げ、真田と幸村を一瞥したが、さして気にしたふうでもなくそのまま森の中へと入って行った。
「行くぞ、真田」
「・・・あれが妖魔なのか」
信じられないと言外に語る真田の背を押して、幸村は妖魔の歩いていった後を追う。
木に生っていた赤い実を摘み取っていた妖魔をすぐに見つけ、幸村はそっと近づいて声をかけてみた。
「湖に住んでる妖魔って君の事?」
人語を解するかどうかと幸村が見守る中、裸身の妖魔はゆっくりと振り返る。
「俺のことだろうな。他の妖魔には会った事が無い」
やや低めの声は澄んだ響きを持ち、細身の体と整った顔立ちによく合っていた。
人の言葉を操れるのならそれだけの知能も持っていることになる。
「いいな、彼。連れて帰ろうかな」
一目で妖魔が気に入ってしまったらしい幸村がうっとりと呟くのに、我慢の限界を超えた真田が一喝した。
「馬鹿を言うな!こいつは妖魔なのだぞ!連れて帰れる訳がなかろう!!それになんだ、貴様のその破廉恥な恰好は!服を着ろ、服を!」
赤い顔をして妖魔に指を突きつけ、唾を飛ばして喚く真田を幸村が呆れたように見遣る。
破廉恥と罵られた妖魔は不思議そうに、激昂する真田に目を向けた。
「俺は妖魔だから人の常識は通用しない。お前はいつも魚や鹿に服を着ろと言って回っているのか?」
「・・・なっ!・・・鹿や魚が服を着るか!馬鹿者!!」
「そうだろう?俺はどちらかと言えば人より魚に近い。だから服など必要ない。わかったか?」
「・・・こ、こんな魚がいるかっ!!」
ほとんど屁理屈に近い理屈を並べ立てられているのに、まともに反論できないでいる真田に幸村が堪えきれずに笑い出す。
「君、最高だよ!ねぇ、俺の屋敷に来ない?水が無いと住めないなら庭に湖を作るからさ」
「幸村!」
「すまないが今のところ移住する予定はない」
あっさりと拒否されたがそれで引き下がる幸村ではない。
「それじゃこの森に俺の別荘を建てるよ」
「おい、いい加減にしろ、幸村!」
「人が住むと森が騒がしくなる」
「真田、うるさいからちょっと黙ってて。なら、俺がここへ遊びに来るのは?」
抜いた剣を真田の喉元に当てて強制的に黙らせた幸村がじっと妖魔を見つめる。
妖魔は根負けしたように渋々頷いた。
「・・・水を汚さないのなら」
「ありがとう。俺は精市、この煩いのは真田っていうんだ。君に名前はある?」
「蓮二」
「蓮二か、綺麗な名前だね。とてもよく似合ってるよ」
やっと喉元から剣を外された真田は、退治しにきたはずの妖魔と馴れ合っている幸村を苦々しい思いで見、続けて妖魔に視線を向けドキリとした。
それまで無表情でいた蓮二が、幸村と話をしながら微かに笑ったのだった。





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