湖の妖魔 7
北の山間にある湖はかなり気温が低かった。
水も冷たいが、妖魔である蓮二にとってそれはあまり問題ではなかった。
森の木々の向こうにはすでに雪化粧をほどこした山の頂が見えた。
真田は湖とその周辺を見渡すように眺める。
「前の所より少し小さな湖だな。確かにここならあまり人は来そうにないが」
「水は前に住んでいた湖よりも澄んで気持ちがいい」
湖に着くなり、蓮二は幸村に着せられた服を脱いですぐに湖に足を踏み入れた。
あまり人目につかないよう夜に移動して、2日かけてこの湖まで来た。
途中の道は水といえば膝丈くらいの小川しかなく、人通りは多くないとはいえ近隣に村もあり、さすがに冬も近いこの時期に成人の姿の男が全裸で川に浸かる真似はさせられなかった。
蓮二は10日くらいなら水が無くても大丈夫だと言っていたが、やはり辛かったのだろうかと真田は思う。
暫く泳いだり潜ったりして一息つけたのだろう、岸に戻ってくる。
水が滴る髪を掻き上げながら真田の居るところまで歩いてきた蓮二が、いい所だ、と微笑んだ。
綺麗な笑みに思わず魅入ってしまった真田は誤魔化すように咳払いをして視線を逸らす。
「気に入ったのならいい。前の所に戻るには少し時間がいるだろうからな」
「すまない。弦一郎や精市には迷惑をかけてしまった」
「・・・お前が悪いのではないと言ったはずだ。それに迷惑だとも思っておらん」
「そうか」
小さく、ありがとう、と言った蓮二に視線を戻すと白い裸身が目に入った。
浅い傷はもうほとんど消えかけている。
人間より治りは早いのかもしれない。
傷の目立たなくなった蓮二の肌は、内側から淡い光を放っているかのような白さだ。
その肌と細身だが均整のとれた体つきをいつだか幸村が芸術品のようだと称した。
芸術には疎い真田でも確かに蓮二は美しいと思う。
だがそれ故、眩しすぎて直視できない。
「寒くはないか?」
蓮二から視線を外して山の方を見ながら問うと、蓮二が笑った気配がした。
「いや、寒いとは思わない。・・・弦一郎はまだ俺の姿に慣れないのか?」
「・・・慣れることなど一生ないという気がする」
「そうやって目を逸らしているからだ。見て、そして触れていれば、そのうち慣れる」
歩み寄り、目の前に立った蓮二が真田の手を取る。
外気と同化したようなひんやりと冷たい蓮二の手に触れた真田は泳がせていた視線を止めた。
「ずいぶん冷えているではないか」
寒くはないと言われたことも忘れ、真田は蓮二を暖めるように腕に抱く。
心地よい暖かさに包まれて蓮二は気持ち良さそうに目を閉じた。
幸村が山間の湖にやってきたのは、真田達が到着してからさらに3日経った後だった。騎士としての仕事を終えて駆け付けた幸村は珍しいことに顔に疲れを浮かべていた。
「王は徹底的に湖の妖魔を探すつもりだね。お前がいないから俺がこき使われたんだぞ」
乗ってきた馬から降りるなり真田の尻に蹴りを入れた幸村は、前のめりになった真田の抗議には耳をかさず、蓮二に駆け寄った。
「蓮二、残念だけど暫くは元の湖に帰れないよ。湖の側に兵が常駐する見張り小屋が立ったんだ」
「心配はいらない。ここは静かで水もいい。当分はここで暮らそうと思う」
「一昨年の夏に山向こうに避暑に来ててさ、遠乗りした時に偶然ここを見つけたんだ。蓮二ならきっと気に入ると思った」
明日は休暇だという幸村はここに泊まるつもりで毛織物を持参していた。
夜は湖の側で火を焚き、それを囲むようにして夜明けまで話に興じた。
明け方、毛織物に包まるようにして眠った幸村は昼前には目を覚まし、残念だけど、と蓮二の手を取った。
「俺はもう帰るよ。前の湖と比べてここは少し遠いから」
「ありがとう、精市。また来るか?」
「もちろん!」
名残惜しげに蓮二を抱きしめた幸村は、その肩越しにそういえば、と真田を見遣る。
「お前は3ヶ月の謹慎だってさ」
王の招集も城での仕事もすっぽかしたんだから当然だよな、と幸村が笑う。
「謹慎か。降格だろうと思っていたんだが」
「ばーか。お前が降格したらまた俺がこき使われるだろ」
蓮二を放した幸村が再び真田に蹴りを入れる。
憮然とした顔をしたものの、真田は文句を言うことはしなかった。
王の命に背けば良くて降格、悪くすれば騎士の称号を剥奪されることもありえた。
謹慎で済んだのは幸村がとりなしたからだとわかる。
それじゃ、と幸村が騎乗し、小声で真田を呼んだ。
「せっかく3ヶ月の休暇をもらったんだから、その間ちゃんと蓮二を守れよ」
「・・・休暇ではない、謹慎だ」
「似たようなもんだろ。じゃあね、蓮二。また来るよ」
馬上で手を振った幸村がそのまま馬を駆けさせる。
その姿はあっという間に見えなくなった。
**
山間の湖を初夏の新緑が覆う。
蓮二が湖に移り住み2度目の夏が来ようとしていた。
すっかりこの地に馴染んでしまうと、もう元の湖には帰る気がなくなった。
妖魔の噂が立ち消えた湖には自然と人が出入りするようになり、どのみち帰りたくても帰れない状況になっていた。
木漏れ日の光がちらちらと真田の顔の上で踊るのを蓮二はぼんやりと目で追っていた。
真田は木陰に横になり静かな寝息を立てている。
こうして昼に寝入ってしまうのは珍しい。
やはり水の中での交合は疲れるのかもしれないと蓮二は思う。
夕べは満月だった。
月に誘われるように水に入り、それを真田が追ってきた。
月灯りの下、そうすることが当然のようにどちらからともなく手を伸ばし、水の中で抱き合う。
水に溶け、大気に溶け、空に溶ける。
喜びに我を忘れ心が震える、あんな感覚は初めてだった。
いつまでもこの時が続けばいい、そう思う。
「どうした?」
眠っていたはずの真田が蓮二の顔を見上げていた。
答える言葉に迷い、ただ笑みを返す。
「そんな顔をするな」
伸びてきた真田の手が蓮二の髪を梳き、頬を撫でた。
その手に自分の手を重ねるようにして蓮二は目を閉じる。
「お前を水に引き込んでずっと傍に置いておきたい、と言ったらどうする?」
「お前の望みなら叶えてやりたいが・・・水の中でなくては駄目なのか?」
目を開けると生真面目な顔をした真田が見えて蓮二は笑う。
水の中に連れて行けばずっと一緒にはいられるだろう。
だが人間である真田は水の中では生きられない。
物も言わず、こうして触れてくることもなくなる、それは真田であって真田ではないのだろう。
「いや、今のままでいい。・・・このままで」
「それなら叶えてやれるな」
安堵したように真田が笑いまた目を閉じる。
いくらもしないうちに再び静かな寝息が聞こえ始めた。
蓮二もその隣に横になり目を閉じる。
初夏の風が軽やかに木々の葉を鳴らし蓮二の肌を撫でていった。
→end (2008・06・20)