ジャーナリスト
柴山 哲也の論説コラム
ニュースの点と線
 
現代メディアフォーラム通信
 
 このコラムは、現代メディア・フォーラム公式ページとリンクしています。 http://weblog.media-forum.jp/ 
 
 
2014年12月2日付け(第159号)
パールハーバーのスパイ
日米双方に蘇るトラウマ 「トラ・トラ・トラ」
 1946年12月8日未明、ハワイ真珠湾で日本軍の奇襲攻撃が成功し、「トラトラトラ」の暗号電報が送られたとき、大日本帝国海軍のスパイが作成した「軍極秘」の戦果資料がある。当時、ホノルルには日本海軍のスパイが潜入しており、真珠湾を見下ろす丘陵の上にある民家に宿泊して真珠湾の戦況を監視していた。資料は写真ではなく、自筆の絵で真珠湾の戦闘の模様を日本の大本営へ知らせたものである。
 
 あれから70余年が経過した。奇襲はハワイ住民にとっては直接の悪夢であり、米国民にとっても許しがたい悪夢だった。日本軍の奇襲によって米国は第二次世界大戦に参戦し、多数の米国民の犠牲を強いられたからだ。
 真珠湾に停泊していた米戦艦アリゾナをはじめ多くの軍艦が撃沈され、暁の眠りの中にいた米海軍の千数百人の海軍兵士たち が死んだ。アリゾナ記念館には今でも戦死者の遺影と追党の献花が置かれている。また1999年には、日本が敗戦の降伏のサインをした戦艦ミズーリが本土から真珠湾に移されて、海底にあるアリゾナを守護するようにして海上に浮かんでいる。
 
 軍人だけでなく民間人の犠牲者も数多く、ハワイ在住の日系人は途端の辛酸をなめさせらた。日系人はスパイ視され逮捕されたりFBIの監視下におかれた。しかし日系人たちは祖国の暴挙を怒りながらも、ひるむことなく米国市民としての義務を忠実に果たすことを誓い、第二次世界大戦の危険な戦闘に赴いて米軍最強といわれた歩兵部隊を編成して汚名挽回に励んだ。
 ハワイ出身の民主党のダニエル井上議員はイタリア戦線で視線をさまよいつつも武勲を立て、日系人初の陸軍将校になり、戦後はハワイ州選出の上院議員になった。彼の死去にさいしてハワイ出身のバマ大統領は篤い追悼の辞を述べた。
 
 真珠湾が米国に与えた傷は日本人が考えているより遥かに深い。今でも忍者のような奇襲攻撃をした日本人への警戒感は消えてはいない。
 1.11同時テロのとき現場からライブ中継するテレビキャスターは、「アメリカが攻撃を受けています。これは第二のパールハーバーです!」と叫んでいた。こういう緊急事態のとき、パールハーバーのトラウマがマスコミに顔をのぞかせるのである。
 
 ところが、ハワイ大好きな日本人ではあるが、ホノルルマラソンには参加するのに、真珠湾を訪ねる日本人はなぜかほとんどいない。関心がないこともあるが、真珠湾に行くと否応なく、日本の過去の見たくはない歴史に付き合わされるからであろう。
 取材に行った私が日本人だと知ると、「日本人が来てくれて嬉しい」と、担当の海軍士官がわざわざ握手を求めてきた。
 
 真珠湾奇襲はルーズベルト大統領の陰謀で大統領は知りながらわざと奇襲を許したという陰謀説が日本ではまことしやかにいわれている。
 しかしこの背景には真珠湾を守るべき任務にあった太平洋艦隊のキンメル将軍の近親者たちが将軍の名誉回復をはかるキャンペーンを行い、マッカーサー将軍にキンメルが追い落とされたというストーリーを展開したことがあり、こうした米国の動きに同調した陰謀説と考えられている。ところが近年における米国右派の歴史の見直し、歴史修正主義の一環とみなされ、クリントン大統領もブッシュ・Jr大統領もキンメル将軍の名誉回復措置承認のサインをしなかった。
 実際、ルーズベルト陰謀説の実証できる根拠はないのである。第一、米軍兵士をはじめハワイ住民に多大の犠牲を出すような日本軍の奇襲を、大統領が黙ってみているはずはない。
 民主主義がわからない日本人が戦争勝利のためには、同胞の犠牲を平気で受け入れるという仮説を立てるのだろうが、ルーズベルトがそんなインチキをやれば大統領の犯罪として後世から糾弾されることは必至なのだ。大統領陰謀説が成立する余地はないことを知るべきなのである。
 
 近年、安倍政権発足以降の日本の極端な右傾化のなかで、真珠湾の見直しを含む歴史修正主義が盛んになっている。こうした日本側の歴史修正主義は米国の悪夢とトラウマを蘇らせる。単なる保守化、右傾化というだけでなく、ナチスを手本とせよ、などど政権幹部が気軽に口にするようになり、ネオナチ疑惑まで持たれると、日本は国際社会の中で何をやってもうまくいかない、評価されないというドツボの循環にはまる。
 大東亜戦争は日本の聖戦だったと肯定して靖国を参拝し、従軍慰安婦や南京虐殺は存在しなかったなどの戦争犯罪の隠蔽をはかることと、特定秘密保護法とか集団的自衛権の発動が日本国民や近隣諸国への説明不足のまま実施される動きと連動している点に、国際社会の懸念が強まっているのだ。
 
 アベノミクスとは、大企業が潤えば下にもおこぼれが落ちてくるというわけのわからない資本主義経済と、3年先には景気は必ず回復してみせるなどという社会主義計画経済みたいな理屈が混在するように見えて、ムーディズは日本国債の格付けを落とし、日本はアジアでもシンガポール、香港、中国、韓国の後塵を拝することとなった。
 経済の劣化だけでなく、日本政治の貧困劣化と右翼化は国際社会の批判を浴び、欧米の一流メディアは繰り返し日本の右傾化を批判し警戒感を強めている。
 
 亡くなった菅原文太さんが、「いまの日本は、真珠湾を奇襲したときと同じだ」という言葉を遺したが、まさに心すべき時代になった。
 真珠湾の記憶がいまほど鮮明に蘇る12月はないだろう。 
 
2014年11月27日付(第158号)
見るに見かねたか、朝日叩きのニッポン・マスコミを叱る外国特派員
 
 30年以上も前の従軍慰安婦の記事で自国のメディアの袋叩きにあい、意気消沈の朝日新聞に予想外の強力な助っ人が現れた。見るに見かねてか?欧米の自由の国のジャーナリストたちの怒りが爆発したのかもしれない。
 日本外国特派員協会が発行する雑誌『SHIMBUN』11月号である。月刊のこの英語雑誌は毎月20過ぎに会員各社、世界各国へと配布される。日本外国特派員協会は欧米各国の特派員を中心に世界中の有力メディアの記者が加入している。一か月の日本の大ニュースが詰まっている。
  今度送られてきた11月号の表紙を見て驚いた。
 「朝日を撃沈せよ!」という過激なタイトルで、例の8月5日付けの記事取り消し・訂正紙面が紙の舟のような折り紙状で、水面に浮かんでいる。紙舟は空爆されて船体の半分は炎上し黒煙が噴き出ている。空から3つの爆弾が落とされているのがわかるが、その爆弾には「読売」、「産経」の文字が書いてあり、もうひとつの爆弾には安倍氏に見える顔がある。
 記事の中身はさらに激しい。ロス郊外に建てられた従軍慰安婦像の撤去を執拗に求める日本の外交運動を紹介しながら、これが日本の右翼による朝日攻撃に転化した日本ナショナリズムが台頭する背景をレポートしている。問題は従軍慰安婦の強制性にのみあるのではない、ということだ。
 朝日攻撃の先には「河野談話の取り消し」「国連人権委のクワラスワミ報告」の撤回を日本の右翼は画策していると記事は主張。要するに、狙いは来年の第二次世界大戦70周年で、戦勝国の米英仏ロ諸国をはじめ、中国、韓国、北朝鮮などのアジア諸国からの戦争犯罪を蒸し返されることを怖れた歴史修正主義の右翼勢力が、手始めに朝日を叩いている構図と、いうわけである。なるほど、敵は「本能寺にあり」の解説なのだ。
 外国特派員協会の特派員たちは、朝日が30年以上も前に書いたというこの過去の記事のことを全くしらなかったという。一連の従軍慰安婦記事を朝日が書いたことを知っていた記者もいないようだ。
 しかし従軍慰安婦と性奴隷の差異を明確に意識していない外国のジャーナリストたちは、独自の取材によって韓国、中国、旧オランダ領インドネシア、フィリッピンなどを調査してきた。従軍慰安婦は日本のマスコミの”専売特許”ではなく、国際戦争犯罪の問題として世界中のジャーナリストの取材対象であることを日本人は忘れているのか、といわんばかりの内容である。なめるな、外国ジャーナリストもちゃんとこの問題を取材してきたんだぞ、というのだ。
 朝日を叩いて「強制性の有無」にこだわる日本の立場はコップの中の嵐にしか見えていないようだ。この歴史修正主義の嵐に読売、産経のほかに政権党までが参加していることに、外国人ジャーナリストは驚きを隠さない。
 かつて『ニューヨーク・タイムズ』がペンタゴン機密文書をスクープし、『ワシントン・ポスト』がウォーターゲート事件をスクープして、ベトナム戦争終結させるきっかけを作り、ニクソン政権を崩壊させたとき、他のライバル紙やテレビ、有力週刊誌などの全米のマスコミは仲間を擁護し、政権からの攻撃から新聞を守った。彼らはジャーナリストの自負を共有しているということか。
 それにより米国の新聞も週刊誌も発行部数が伸び、全米のテレビ局の視聴率は上がり、全マスコミがハッピーな日々を手に入れたのである。仲間を叩き、仲間を売らなくても発行部数は増え、視聴率は伸び、CMもたくさん入ってきた。
 マスコミはプロとしての自己の使命に忠実になり、読者、視聴者にまっすぐ向き合えば、おのずとマーケットも拡大する。
 この簡潔なマスコミ論を知らないか無自覚な日本のマスコミは、マーケットは権力側の手中にある者と勘違いして、仲間を叩き、いずれまた自分も叩かれることに怯えているのではないか。
 ジャーナリストの自負を失いサラリーマン化しているから、当然ながら背後から朝日を擁護する大新聞もテレビ局も出て来ない。みなわが身を守ることに戦々恐々なのである。
 ジャーナリストの使命やグローバル・スタンダードの何たるかも理解していない日本のマスコミは、いつまでたってもハッピーにはなれるわけはない。集団の朝日叩き、児童達のクラスの苛めに似たニッポン・マスコミの退化現象に対して、「肝に銘じたらどうか」という外国特派員からの警告と受け止めたい。
 
2014年10月7日付(第157号)
朝日叩きの世相を斬る!
 
 
新聞のゼロサムゲームの果て
 
 朝日誤報事件は日本国内では新聞社間の部数競争のゼロサムゲ
ームの果てに、不況の業界の足元を見た政権によって政治利用
され、東京裁判否定を真の狙いとする戦後否定ナショナリズム
高揚のために使われています。
 私は約20年前に『日本型メディア・システムの崩壊』という本
を書いて、日本の新聞への警告をしたが、20年後のいま、「崩壊」
という言葉がそのまま現実になったことを、この業界と共に生き
てきた者として悲しむものです。ジャーナリズムは国民の知る権
利を代行するもので、これはメディアと国民が一緒になって守る
べきものだからです。それなのに守るべきメディアが率先してこ
れを壊している現実を見せ付けています。
 ネットやブログが確立されたジャーナリズムの代替をするという
楽観論にはまだ与しにくいのです。ネットは不安定で信頼性がなく、
日本ではまだネットジャーナリズムの市場は存在していません。
ネット情報はタダだから、“安かろう悪かろう”に落ち着きますが、
タダほど怖いものはないのです。現状では確立されたジャーナリ
ズムの崩壊は、そのまま日本のジャーナリズムの崩壊につながり
ます。
 日本社会は朝日叩きによって、自由と民主主義の守護神である
ジャーナズムの根本を失うことになるのです。
 
 『東京新聞』『週刊金曜日』『週刊現代』などごく僅かな良心的
メディアを除けば、日本のメディアは深く考えることもなく、安
易に右へ倣って朝日叩きに邁進しています。公共放送NHKも同じ
で、英国の公共放送BBCとのあまりのスタンスの違いに茫然と
します。NHKは権力に屈服しながら、知る権利を国民から奪い、
しかも国民から料金を取っている矛盾したメディアになりました。
 救いといえば、冷やかに日本の安倍政権と日本メディアの狂乱
ぶりを観察する欧米のメディアが的確に事態を分析し、真意をと
らえていることです。欧米の主要な一流メディア群は、安倍政権の
歴史修正主義を危険視し、閣僚のネオナチ疑惑を半信半疑で見て
おり、政権の後押しを受けて朝日叩きに邁進していることを見抜
いています。彼らはいずれもジャーナリズムの根本精神を忘却する
ことはなく、ジャーナリストは日本ほど堕落してはいません。
「武士は食わねど高楊枝」のプロとしての心意気は持っています。
欧米先進国の政府やホワイトハウスもこれらのメディアの論調と
足並みを揃えて、朝日叩きの異様さを見ているようです。
 
 結局、朝日問題の帰結とは、日本のマスメディアが言論の自由を自らの手で権力に差し出し、自己否定し、国際世論からの全面的な孤立を鮮明にした事件として、後世に記憶されることになるでしょう。
 
 戦時の「悪の枢軸」だった日独伊のうち、戦後ドイツはナチスを
葬り、イタリアはムソリーニを葬り自らの力で国際社会に復帰した。
しかしながらGHQとマッカーサーに助けられて国際社会に復帰し
した日本だが、70年後に従軍慰安婦など存在しない、と言い出し、
東京裁判は間違いで大東亜戦争は正義の聖戦だったと開き直った
のです。
 
 昨年の秋、久しぶりに古巣のハワイの東西センターを訪ねたとき、
知人の政治学者らと旧交を温めたが、日本のナショナリズムを危
険視する人たちに会いました。GHQで仕事をしていたある学者は、
「マッカーサーは敗戦日本を甘やかしすぎだ。我々の失敗だ」と
いいました。東京裁判を否定し憲法を明治憲法に戻そうとする人々
を許さない、というわけです。日本政府や東電の原発事故汚染隠し
についても気にしており、日本が作ったデータは信用できないので、
東西センターでは自前の汚染地図を作り、私にも一部くれました。
ハワイ大学には独自の海洋汚染調査チームが出来ていました。
ハワイの日本料理店で出てくるマグロや寿司、タイ、ウニなどの
海鮮食品は日本からの輸入を止めてハワイ近海産に代えていて、
アヒと地元では呼ばれるマグロ釣りのネイティブのハワイアンの人
々の姿を海岸ではたくさん見ました。
 
 32年も前の朝日新聞誤報がタイムスリップ状態で現代に蘇り、
滅多打ち状態で叩かれています。安倍政権とマスコミ、読売、産経、
毎日各社が叩き、テレビがこれに乗り、週刊誌が加勢しています。
立法府の場でも公的に堂々と朝日攻撃をやっている風景を見ると、
この国の政治家たちは憲法21条言論の自由の条文を読んだこと
もなく、これが憲法によって禁止されている「検閲」にあたるこ
とも自覚していないように見えます。
 
 大衆の面前で謝罪した木村社長にも言論の自由の自覚
が緩いのではないかと思いました。
 誤報は正す必要があるが、それは朝日購読者に対する義務です。
しかし購読者でもない人々に頭を下げる必要はありません。紙上
で訂正すればそれで充分だし、先進国の一流新聞の社長が刑事事
件で訴追されているわけでもないに、記者会見して謝罪する風景
など、見たことも聞いたこともありません。。世界のどんな新聞の
記録にも出てこないでしょう。
 大正時代に米騒動の事件報道で朝日が筆禍事件に問われ、天皇
への不敬罪で刑事訴追された白虹事件があったが、そのときも
社主は世間に謝罪はしていません。軍事色の強い寺内内閣時代で、
社主の村山は「寺内ごときに謝る気はないが、天皇には申し訳ない」
と語り、紙面で出直しを誓いました。失礼ですが、木村社長は自
社のこの白虹事件の歴史を調べたことがあるのでしょうか。。
 誤報以上の中傷や謝罪をもとめられるいわれもありません。
従軍慰安婦の強制性の有無よりも、こういう10代の少女たちが
多数、慰安婦として旧日本軍の管理下で使われていた事実は消せ
ないのです。水木しげる『姑娘』という漫画でも慰安婦狩りの話
が描かれています。こういう漫画だと子供たちも読むでしょうね。
 大阪本社で執筆されたあの「吉田証言」なる記事の記憶は、今
の朝日記者たちも定かではないと思います。自分が感知していない
昔の亡霊の責任を取れ、といわれているようなものです。
 新聞社のくせに誤報をしたものを糺すのを忘れたとは何事か。
32年もほうかむりした理由は何か。この誤報のおかがで日本の
名誉が大きく傷つけられ、国際社会における日本の立場が失われた。
朝日は責任をとって「廃刊にせよ」という声があちこちから聞
こえてきます。
この記事をめぐって俄かに沸き上がった外部からの朝日非難だが、
謝罪を迫られた木村社長でも、記事掲載当時はせいぜい30歳そ
こそこの記者としてはまだ若造だったはずだし、政治部にいたと
しても政治部のない大阪にはいなかったでしょう。
 当時大阪朝日本社文化部にいた私でもはっきり記事のことは覚
えていません。誰が書いたのかも知らなかったが、朝日を辞めて2
0年になった今、初めてあの記事の執筆者の名を知りましした。
当時の私は海外取材に頻繁に出ていて社内の事情に疎かったせい
もあります。
 しかしあの時代は司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の時代で、
日本は高度成長の坂をまっしぐらに駆け上り、自信を取り戻し、
アメリカを抜かす経済大国にのし上がった黄金時代だったのです。
 一億総中流化時代といわれ、貯金が10年で2倍になった時代で
国民はマイホームを手に入れる夢に邁進していました。
 
 そういう良き時代だったから、あの記事はそれほど注目もされず、
間違いがなかなか発見できなかったのだと思います。
 今日、声高に首相もいうが、あの記事が世界の日本イメージを
直接傷つけた、日韓関係を大きく棄損したという話が事実である
かどうか、第三者委員会にはしっかり検証してもらいたいものです。
こうした事実が確認されないとなれば、針小膨大に朝日記事を言い
募っているにすぎないことになり、大きな反証になります。
 さらにあの誤報を契機に従軍慰安婦は存在しなかったという言
説も数多く見られるようになり、国連や韓国、中国、北朝鮮、フ
ィリッピン、インドネシア、オランダ、にも記者を派遣して、慰
安婦にされたという当事国の記録を調べ、生存する人の証言を取り、
各国政府見解を聴き、各国で世論調査を行う必要があります。米
国の公文書館には日本軍から押収した関連書類の一部があり、特に、
メリーランド大学のプランゲ文庫には膨大な戦時資料が眠ってい
るので、そこを綿密に調査すれば、まだ未発掘の従軍慰安婦資料
が発掘できるのではないかと考えます。
 
 最近、御池とうりにある朝日京都支局の前を歩いていたら、音
量をフルにしたマイクで「朝日わあ、謝れー、出てこーい」と叫
んでビラを配っている輩がいてびっくりしましたが、そういわれて
も支局の若い記者が生まれるよりはるかに前の記事だろうし、支局
長でもまだ子供のころの話だろうと、気の毒に思いました。
 そういえば右翼の野村秀介氏が東京朝日の社長室に入りこんで
短銃自殺した事件があったころ、朝日は右翼のターゲットになっ
ていて、連日、築地の本社前に街宣車が何台も来て怒鳴っていた。
阪神支局で記者が殺害された事件もそうだが、そういう風景を私
らの世代は見慣れているのですが、平和と豊かさの中で育った若い
記者には気の毒な体験ではあろうと思います。ここは委縮せずに
頑張ってほしいと願います。
 
 恐怖心で筆を曲げるのが最も良くないのです。新聞社も鷹揚な
態度でこうした威嚇行為を放置せず、もっと法的な対策を強化し
たほうがよいと思います。。黙っていれば相手は付け上がるので
はないですか。
 
 最後にもうひとつ。木村社長の公衆の面前での謝罪が、朝日叩き
をすることで利益を得る勢力によって利用されたため、なぜこの
タイミングで謝罪したのかと、いう疑問の声が内外のメディア
から上がっている点です。
 私もそう思います。今の時代は朝日に逆風が吹いています。
安倍政権が単独過半数を取り、日本の右傾化が加速する中で、池
上氏の原稿掲載拒否を巻き込んだ記事訂正の不手際を見せて、
世論の信頼を失ったのも逆風の強さが影響しています。
 朝日は政治的バランス感覚を失っていました。そんな中の土壇
場での社長謝罪劇は失敗だった、といわざるをえません。
朝日は戦略を失ったまま無条件降伏をしてしまったのです。
 政治部出身の木村氏はまさか政治音痴ではないかと、私などは疑
った謝罪会見だったです。検証の第三者委員会では社長が記者会
見で謝罪するに至った経緯も調査し、読者に経緯を報告して欲しい
ものです。
*   *   *
 なお朝日謝罪事件と米国のニューヨーク・タイムズ、ワシントン
・ポストなどの新聞が政府の圧力を跳ね返し、大統領を辞任に追
い込んだ物語や英国公共放送BBCがイラク戦争の大量破壊兵器
はなかったというスクープで、イラク戦争の評価を書き変えて欧
米ジャーナリズムの金字塔の物語を日本と比較してみようと思っ
ています。いずれまたの機会に。
               
 
以下は過去の2013年版です。
 
今年はアルジェリアで日本人人質のビジネスマンが、多数、テロの犠牲になってなくなりました。
 かつてアルジェリアなど、北アフリカのルぷルタージュをやってきたジャーナリストとして、深い哀悼の意を表します。
 
 資源もない小国の日本が欧米のようなテロもなく治安もよく、豊かな国で、国民はそれなりの幸せ感を享受しながら、生きて来れたのは、「ここは地の果て」といわれるサハラ砂漠をいただくアフリカの辺境のような場所で、危険を冒しながら資源獲得のために働いている多くのビジネスマンの方々の犠牲の上に成り立っていることを、改めて認識させた事件でした。
  3.11と原発大事故の後遺症を引きずる日本の明日を予感させる不幸な事件でした。
 
  その後、消費税が上がり、安全性を犠牲にしても経済効率と金儲けが大事といわんばかりの原発再稼働論が幅をきかせるようになり、多数派を獲得した自民党政権の奢りとしか見えない政治家の言動も目立ちました。
 
 被災地は3年目を迎えるのに、未だに復興をどうするかという議論が続いています。阪神大震災のとき3年後の阪神地方は、すでに目覚ましい復興を遂げていたと思います。驚くべき政治の停滞です。ロシアの保守系の方々から、日本の被災者、難民を受け入れよ、という要求が出て来たという話まで聞きます。原発事故と被災地への海外の関心がいぜんとして高いのです。
 
 しかし政治の動きは異質な方向へ向かっています。中韓との領土問題をめぐる紛争解決のために軍事的備えを重視し、日米同盟を強化して米国の後ろ盾で戦争準備に入る動きではないかという疑念が広範に芽生えています。
 
 平成の治安維持法とまでいわれる秘密保護法が国会をあっさりと通過し、国民はいつ嫌疑を受けるかもしれない脅威を感じているとき、安倍首相は靖国神社に参拝しました。私の身うちにも戦争犠牲者がいて、靖国には何度か参拝しています。しかし違和感のある神社です。あの神社には遊就館というところがあって、大東亜戦争は正義の戦争であったとし、アジアへの侵略ではなく、欧米列強の植民地から解放のための聖戦だったという主張がなされています。
 
 いま靖国にいる身内は、娘が生まれて間もなく南方戦線へ配属され、戦死しました。補給が断たれた南太平洋の孤島の苛烈な戦闘で斃れたようですが、一枚の死亡通知が届いただけで、詳細は知れず遺品も遺骨も何もありません。
 
 戦後を生きて、辛い思いをした娘のほうは父親の顔も覚えてはいませんが、8月15日には戦死した父を追悼して黙とうしています。しかし靖国には参拝しないといっています。もう国に騙されたくない、騙されたのは父親だけで十分、という理由です。
 
 太平洋戦争で亡くなった方々、靖国の日本人兵士に対する尊崇の念を首相が示すなら、ぜひアルジェリアで犠牲になった方々へも尊崇の念も示してほしいと心から思います。アルジェリア事件は、まだ一年前の出来ごとですが、最近はマスコミの話題にも上らず、すでに忘却の淵に沈んでいるような気がします。
 
 安倍首相が今の政治姿勢を続けるなら、オバマ大統領の広島、長崎訪問も実現はしないのではないかと危惧します。このままでは世界平和への貢献もできないでしょう。
 
 あんなこと、そんなことを思い出すにつけ、2013年は心がくじける出来事が多すぎたので、このブログの更新もしませんでした。いまやっと2013年が終る、という思いです。この悪夢のような年が終わる今振り返ってみると、今年は、主としてアルジェリアでテロの犠牲になった方々を追悼する1年でした。  
 
2013年2月2日付(第155号)
1月16日に起こったアルジェリア人質事件の内外の報道をウオッチしてツイートした回数が、29日までに43回になりました。
 
 私は80年代にアルジェリア、チュニジアの北アフリカから西アフリカのセネガルを回るアフリカのルポルタージュをしたことがあり、今回の事件で蘇り、こみ上げてくる記憶の中に、事件の背景を解くカギがあると感じています。
 このときのアフリカ・ルポは拙著『キリマンジャロの豹が目覚める』(情報センター出版局刊)で詳細に書きましたが、この本はすでに絶版になっており、読んでいただけないのは残念です。このツイートのまとめ等の文章から、何らかのアルジェリアに関する情報の手がかりを今発信することができれば幸いです。
 私の近著『日本はなぜ世界で認められないのか』(平凡社新書)でアルジェリアの情報とアラブの春のことを若干、書いていますのでご参照ください。
 
 日本のマスコミのアルジェリア関連の情報を見ていると、『キリマンジャロの豹が目覚める』で書いた情報に及ばないと思うからです。この本はそのうち新しい情報をつけて電子出版するつもりです。
 日本人の人質の方が無残にも10人もなくなり、残念の極みです。哀悼の意を表するとともに、アルジェリアとはどんな国で、なぜあのような事件が起こったのか、真相を解明する必要があると心から思っています。
 
 1月17日
 アルジェリア軍が強行突破したようだが、人質の生命はどうなったのだろうか。情報が錯綜するというか、正反対の情報が行き交う。情報を発信する場が違うと、ニュースも正反対になる。人質解放?人質の死亡?ニュースは一つではないことを、この事件は教えている。考えないとニュースはわからない。
 
 アルジェリアというと2つのフランス映画を思い出す。「ペペルモコ」と「シェルブールの雨傘」。ジャン・ギャバンとカトリーヌ・ドヌーブ。人生の陰影、深さと悲しさが溢れていた。そのアルジェリアは、フランス植民地から激烈な解放戦争をして独立した。戦時、地中海は血に染まったといわれている。
 「シェルブールの雨傘」は可憐なカトリーヌ・ドヌーブと雨傘のカラフルな色彩が美しかった。若い恋人たちはアルジェリア戦争で引き裂かれる。
 ならず者のジャン・ギャバンは地の果てアルジェリアの貧民窟カスバで死ぬ。「ここは地の果てアルジェリア」「あなたもわたしも買われた命」と歌う「カスバの女」の歌を彷彿とさせる映画だった。
 
 元セネガル大統領サンゴール氏にインタビューしたとき、「世界の中心は地中海で地中海文明が世界を作ってきた」といった。アフリカも世界史の一角を担っているといいたかったのだ。辺境のアルジェリアだが、石油、天然ガスの国というだけでなく、世界を混乱と動揺に直面させている。
 アフリカにおけるイスラムの影響力は、1960年代のアフリカ独立の時代に大陸全体へと広がった。西欧植民地がキリスト教を拡大させた反動としてイスラム原理主義が拡大。 昨年出した拙著『日本はなぜ世界で認められないのか』(平凡社新書)で、こうした北アフリカ・マグレブのルポをまとめた。
 
 アルジェリア取材の強烈な経験から、この国は硬い唯我独尊のイスラム国だ。植民地の過去から反西欧、反米感情は強い。外国プレスの監視は北朝鮮より厳しい印象だった。人質事件で欧米の介入をよしとせず、自国軍が強行突破、多大の犠牲を出した背景に、この国の歴史が深く関わる。世界は難問に直面している。
 
 アルジェリアは石油、天然ガスしか目立った生産物はなく、政府は石油や瓦斯を外国に売って国を維持している。石油の金は上層部の間で回り、若者は役人になるかホテルに勤めるしか職はない。失業中の若者たちは町をぶらぶらし、役所の前の石畳に座っている。首都アルジェではそんな風景ばかり見た。
 
 1月18日
 アルジェリア取材でアルジェリア外務省と報道許可をめぐる交渉を何度かしたが、返ってくる答えは、フランス語で「アプソリューマン・パ」(絶対にダメだ)という言葉だった。仕方なく目につかないように写真を隠し撮りしたものだ。写真を撮るとき、後ろの人影に気が付いた。北朝鮮のほうが取材はしやすかったのを覚えている。
 
 西アフリカのセネガルの首都ダカール沖に奴隷島という島がある。昔、捕えられた奴隷が”出荷”された場所だ。ダカールから隣国のマリをつなぐ鉄道があるが、これは宗主国フランスが敷いたもので、マリから奴隷島の海岸まで一直線に伸びている。資源と奴隷を港へ運ぶための鉄道だったといわれる。
 人質事件収束後、英国キャメロン首相がアルジェリアを訪問したが、その目的はBPの権益の擁護とマリの仏軍支援だといわれる。マリにはウランとレアメタルがある。この争奪が背景にある。
 
 私が北アフリカのマグレブから西アフリカを取材したとき、朝日新聞文化欄に「噴出する反西欧」というシリーズを書いたが、当時、アフリ諸国は植民地から独立して20年余、南アではアパルトヘイト廃止のうねりがあった。後の大統領ネルソン・マンデラはまだ獄中にあった。
 
 西アフリカのセネガルの首都ダカール沖に奴隷島という島がある。昔、捕えられた奴隷が”出荷”された場所だ。ダカールから隣国のマリをつなぐ鉄道があるが、これは宗主国フランスが敷いたもので、マリから奴隷島の海岸まで一直線に伸びている。資源と奴隷を港へ運ぶための鉄道だったといわれる。
 
 アルジェリア取材でアルジェリア外務省と報道許可をめぐる交渉を何度かしたが、返ってくる答えは、フランス語で「アプソリューマン・パ」(絶対にダメだ)という言葉だった。仕方なく目につかないように写真を隠し撮りしたものだ。写真を撮ると後ろについてくる人影が動いた。北朝鮮のほうが取材はしやすかったのを覚えている。
 
 アルジェリアは自主管理社会主義を標榜、ユーゴのチトー主義の影響を受けてソ連とも距離を置いていた。
 しかし経済は悪く、物がなく、スーパーには食品はなく、サンダルだけが並ぶ風景や、野菜には草が混じっていた。
 
 1月19日
 フランス大統領はアルジェリア政府の強硬策支持を言明している。人質の命よりテロリストを壊滅させ、国益を守ったことを評価している。フランスがアルジェリア独立戦争時、地中海を血に染めた特殊部隊の強硬なアルジェの戦いを指導したのは、保守のドゴール政権ではなく、左翼政権だった。左翼必ずしも平和主義にあらず。今、マリを攻撃しているフランスのオランド大統領も左翼政権だ。アルジェリア独立戦争時と、どこか類似性を感じる。
 
 予想したことだが、日本では人質事件で中東へのエネ依存を下げるべきというTVコメンテーターが出て来た。だが問題の本質をずらしてはいけない。エネだけの話ではない。これからの日本人は海外で仕事しないと生きてゆけない。日本人のリスク感覚は甘すぎる。正確な情報網と救援システム構築が最重要課題だ。
 
 アフリカでは人質事件や思わぬゲリラとの遭遇がある。欧米系の企業などは、退役軍人を雇い突然の軍事作戦に備えているところもある。フォーサイスの世界ではあるが、小国の場合は傭兵によるクーデター事件まで起こる。海外の日本企業は頼りにならない政府に依存せず独自のリスク管理を行う必要がある。
 
 1月20日
 NYタイムズによれば、アルジェリア軍の最終作戦で、少なくとも23人のテロリストと人質が死んだと当局者が語ったという。敵味方の判別はつかないようだ。http://www.nytimes.com/2013/01/20/world/africa/algeria-militants-hostages.html?nl=todaysheadlines&emc=edit_th_20130120&_r=0 …
 
 情報の錯綜といって誤魔化していたが、結局、最悪の結果になりつつあるようだ。事件が起こったときに、英国首相が話していた懸念が正確な状況を掴んでいた。さすが諜報機関の国、といっては失礼だが、伝統ある情報大国だ。一体、日本政府は右往左往するだけで会社任せで、何をしていたんだ。
 
 日本人の犠牲は最悪の結果になり、危機管理能力が問われる。18日の初期段階で米国は現地イナメナスに、英国やノルウェーも近郊まで医療救援機を飛ばした。日本にもガルフストリームはあるが機能しなかった、と小川和久氏のメルマガ「ニュースを疑え」(1月29日号)が指摘。専門家欠如が原因だ。
 
 イナメナスに飛んだ米国救援チームは、現地で解放された人質をのせてドイツまで運んだという。アルジェリアの医療は信頼性が低く、手術を必要とする手当はフランス、ドイツが良い。危険地域で仕事をする邦人がいる場合、負傷者の手当の場所も危機管理の重要要素。日本には何のマニュアルもないようだ。
 
 アルジェリア事件で、日本が現地から撤退する話をするTVコメンテーターがいるが、いくらご都合主義とはいえ考えてものをいえ。石油、天然資源の宝庫のアルジェリアから一時的な避難はあっても、撤退すれば日本の後を狙う国や企業は山ほどある。現地の治安維持と危機管理能力を高めるしかない。
 
 1月21日
 アルジリアの報道ビザが降りないと朝日新聞が書いていた。TVリポーターが事件をパリやロンドンで中継コメントしているのはそのせいだろう。かつて私は、東京のアルジェリア大使館で報道ビザを取得し入国。アルジェリア外務省に行くと東京取得ビザは認知できないといわれてやむなく出国、パリのアルジェリア大使館で再取得した。この間の悪戦苦闘の事情は拙著『日本はなぜ世界で認められないのか』で書いた。
 
 アルジェリア政府は人質犠牲者の国別数を公表していないが、日本人が最も多いのではないかと推定できる。反欧米の思想が強烈なこの国で、かつての日本は原爆を浴びながら欧米と並ぶ経済大国になり、尊敬の対象だった。無愛想だが親日の国なのに、なぜ日本人犠牲者が最多だったか、背景分析を急ぎたい。
 
 日本政府は救援にも行けないので自衛隊法を改正するとかいうが、法改正すれば事がうまく運ぶのか。軍事作戦ではなく、自国民救済のために関係国は飛行機を飛ばしている。何もできない日本はアルジェリア政府に要請したり米仏に依頼するのみだった。法改正より能力の問題ではないか。
 
 1月22日
 アルジェリアの犠牲者の中に、東北の被災地出身の方がおり、残された老母が仮設住宅で泣き崩れる映像を見た。なんていう残酷な現実なんだろう。言葉もない。公表された数字を見ても、犠牲者の7割以上を日本人が占めている。なぜ悲劇が量産されたのか。放置はできない。責任を追及しないといけない。
 
 大戦時、中国戦線を取材していた米国記者エドガー・スノーは、日本軍の戦闘能力は高いが大局の視点に欠けてバラバラな戦になっていると、『極東戦線』という本で書いている。兵士個人の能力は優れているが自分の部隊と上官しか見ていない。自分の一階級の昇進にしか関心がないようだ、と。なるほど。
 
 1月23日
 アルジェリアの状況が日を追うごとに苛酷な現実を突き付けてくる。情報が錯綜するのではなく事実が確認できないことだ。しかし事実の確認の前に想像力が働かなければならない。事実は想像力の中に存在し得る。苛酷な事実に追い回されて想像力を失う愚かさが繰り返される。原発事故のときもそうだった。
 
 今回の事件では、人質の犠牲を出したにもかかわらず、テロリストをほぼせん滅させたアルジェリアの軍事行動に対して、米英仏などの関係国は概ね支持をしているが、平和憲法を持つ日本は、軍事に走って人質救済の努力を軽視したアルジェリアに対する批判と抗議を継続的に行う必要がある。
 
 日本のマスコミ各社はアルジェリアに入国できないので、フランス軍が介入を続けるマリへ入ってルポをしている。山本美香さんがシリアのアレッポに入って殺害されたことを思い出す。記者クラブ記者にとっては、仏軍管理下の地域だから、従軍取材ならアレンジメントもやってくれるので、安全で取材がしやすいのかもしれない。本当は戦時下マリは相当な惨状呈しているがここは外国プレスに頼るほかはない。山本美香さんのジャーナリスト魂をいま改めて思う。
 
 自由の国フランスだが、アルジェリア独立戦争で解放戦線に激しい弾圧を加えたのは、左翼政権だった。マリの軍事作戦をやっているのはオランド左翼政権だ。仏左翼政権の限界なのか。
 
 1月24日
 アルジェリアの新聞がゲリラの標的は英仏と日本だったと犯人が自供、と報じた。親日のイスラム圏で日本がテロの明確な標的になったのは初めてではないか。戦闘に巻き込まれた犠牲者はあったが。私の取材体験からもアフリカのイスラム圏の反欧米に対し、大統領からゲリラまで親日ぶりは確固としていた。
 
 しかし日本人も人質の標的だったとアルジェリアの新聞報道。かつてアフリカの戦場を取材していた先輩記者は、戦場でゲリラに遭遇しても日本のプレスだと名乗り、日本のパスポートを見せれば釈放してくれると話していた。いつからその親日が逆転し、狙われる欧米の仲間入りしたのだろうか。無念というほかない。
 
 1月25日
 中東アフリカのイスラム圏の取材は商社、水産業、航空会社、NGOなどの世話になりながら、細部の情報を得ていた。安全情報は外務省より遥かに的確だった。大使館、領事館はビザ確認で行く程度だったが、大局のリスク情報は国家機関の役割のはず。アルジェリア事件で外務省は何を掴んでいたんだろうか。
 
 欧米諸国では日本は敗戦国で、軍事的には対等なパワーとはみなされていない。しかし非西欧地域ではそれがプラスとなり、植民地経験もない中東アフリカで親日の経済圏を作ってきた。しかし日本の経済力衰退に代わりアフリカには中国が進出し、親日の度合いがまるで薄れている。そこに落とし穴があった。
 
 人質事件現場では襲撃の翌朝、37人の外国人人質が集められ、車で移動させられたさい、日本人だけ名乗り出るよう命令されて車列の先頭に乗せられたという。その車列をアルジェリア国軍が空爆したのだが、車列の先頭に日本人が乗っていることを、アルジェリア軍は知っていたんだろか。ここは疑問点だ。
 
 隔世の感。かつてホメイニ革命のイランで米国大使館で長期にわたる人質事件が起こり、イランの友好国のアルジェリアが事件解決の仲介をして人質をアルジェリアに移送、米国に送還したことがある。そのとき、私はアルジェにいた。拙著『日本はなぜ世界で認められないのか』(平凡社新書)でこの間の経緯を書いたが、今では考えられないことだ。
 
 「カスバの女」という流行歌があるが、あれはアルジェリアを舞台にしている。植民地戦争下のアルジェリアの外人傭兵と酒場の女の物語。日揮の方々は酔うとこの歌を口ずさんでいたとう。ここは地の果てアルジェリア、と。カスバは貧民窟だがいまでもある。独立戦争の英雄アリはカスバから生まれ若者の憧れだった。アリをたたえる英雄記念碑がカスバの真ん中にあり、アルジェリア国旗が立っていた。
 
 アルジェリアの報道ビザを東京のアルジェリア大使館で取得して、取材に出かけたがアルジェリア外務省は東京の同国大使館発行の報道ビザを認めなかった。日本の大使館に出向き、交渉したが、結局、出国してパリのアルジェリア大使館でビザを再取得した。日本大使館や日本外務省の無力を見せつけられた。
 
 以下はツイッターでの会話。
 内藤さんのことは知らないが、学のあるなしでなく、かつては概ね親日だった。しかし現地の親日事情が変化した認識こそ必要だろう。@reservologic同志社大学の内藤正典氏は、アルジェリア武装勢力のメンバーは、学がないのではないかと。学のあるイスラム教徒なら、日本人は絶対標的にしない。
 
 そのとうり。@shimazu_norie 「ここは地の果てアルジェリア」に行くなんて、生きて帰ってきてね。テロが悪いのは当たり前だけど、なぜ、テロが起きるのか、その原因を究明しないとね。
 
 1月26日
 人命最優先の日本に対して空爆したアルジェリア国軍。人命への思想が根本で異なっている。その理由は植民地独立戦争の時代にさかのぼるだろう。人命優先思想は西欧ヒューマニズに基づくが、反西欧のアルジェリアではそれが通用しない。独立戦争で100万が殺された国でヒューマニズムは育ちにくい。
 
 1月27日
 原発がなければ日本経済は成り立たないという原発至上主義者たちは、アルジェリアのような辺境で命を賭けて石油やエネルギー資源を日本へもたらした人々の努力を軽視していたのだろう。日揮という会社の存在を今回の事件で初めて知ったという人が多いのに驚く。日本人は日本のことを知らなさすぎる。
 
 シリア内戦が同胞間の殺戮と報復になっているとNHK深夜の番組が伝えていた。シリア市民が撮影した動画は子供が殺されてゆく惨状を報告。アサド側から寝返って自由シリアのゲリラになる軍人も多数いる。独裁者に反抗したゲリラ部隊が行き場を失うとアルジェリア事件のようなテロを起こす。負の連鎖。再び山本美香さんを思い出した。
 
 アルジェリアがどこにあるかも知らなかったマスコミ人が、急遽、取材するのはいいが、報道ビザはほとんど降りないから、とりあえずパリやロンドンに行く記者がいるようだが、パリに住むアルジェリア移民を取材しても、おそらく本国の事情はわからないだろう。パリ観光で帰国の羽目になりかねない。
 
 1月29日
 日本のプレスといえば、どこの国へ行ってもいわばフリーハンドを持っていた。中国、北朝鮮の取材でも、他の欧米諸国に比べればはるかに自由な取材ができた。アルジェリアでは報道ビザで揉めたが、ビザを整えたあとは自由に取材した。今、欧米並みの風当たりに日本のプレスも直面している。なぜか。
 
 茹で蛙といいますよ@FIFI_Egypt 平和ボケとはまともな情報が流れてこなくて、娯楽ばっか与えられて、いつしかモラルすらこだわらなくなって、それを平和と思い込まされてて。水面下でうごめく危機に気づか無くて、いや気づか無いように教育されて。気が付けば時すでに遅しの状態のこと。
 
 
以下は第154号(2012年10月19日付)からです。
第154号(2012年10月19日号)
現代メディア・フォーラム出版からのお知らせ
 
電子書籍 柴山哲也著『報道ウオッチ 3.11』を刊行しました。
APPストアに出品してあります。
 以下のURLからサンプルをご覧ください。
https://itunes.apple.com/us/app/bao-daou-otchi3-11-ri-benno/id554967757?l=ja&ls=1&mt=8 
 
 スマートフォン、iPAD から購入できます。料金は現在、1.99ドル、
170円で設定してあります。APPストアへの支払いのため、将来的には値上げする可能性がありますので、ご了承ください。
 
 内容は、柴山哲也が2011年3月11日に起こった東日本大震災と福島第一原発の過酷事故の報道を一年以上にわたってウオッチした記録です。日本の巨大メディアの報道内容、記者クラブ発表等の中身を海外報道などと比較し、独自の取材による見解を加えました。なぜ日本のマスメディアの信頼度が3.11以降、急速に失墜したのかを追求しました。
 
 ニューヨークタイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏は、3.11後の被災地や福島を取材して、世界にニュースを届けましたが、そのファクラー氏が日本の新聞記者の能力の欠如に驚いています。3.11前と同様に東電や保安院や省庁のプレスリリースを横流ししていたと指摘しています。
 
 ファクラー氏は、『本当のことを伝えない日本の新聞』という本を書いて、警告を発しています。読者・国民を見くびり、当局の側に立ってニュースを書いていたというわけです。
 
 私のこの電子書籍はファクラー氏の疑問に対する日本人ジャーナリストとして、「本当のことを伝えようとする」答えの一部です。
 
 さらには、先に柴山が刊行した『日本はなぜ世界で認められないのか』(平凡社新書)を補完する内容になっています。
 
 電子化にあたって、電子書籍『荘子の言葉』を書いた経験のある
20代前半の若手IT起業家の堀川遼介氏の尽力を得ました。本書をAPPストアで販売するにあたり、APP米国担当者とタフな交渉を、約一カ月にわたり、電話と文書を通じて英語で行ってくれました。
 
 本の電子化には困難な状況が多くありますが、これが可能になれば、安価で本を読者に提供できるメリット、出版社編集部との煩わしい企画交渉を省略でき、ほぼ自分の思う形で自由に良質の本を作ることができます。
 読者、著者にとって共通の利益にかなうシステムだと考えます。
 
現代メディア・フォーラムでは、今後も電子化の試みを続けてゆく所存です
 読者の皆様の賛同を得ることができれば幸いです。
 
 
以下は第153号(2012年8月30日)付からです。
 現代メディアフォーラム緊急声明
   山本美香さんの死と自己責任論
  フリージャーナリストの山本美香さんがシリアの戦場取材中に、シリア政府軍の民兵によって銃撃され死亡したニュースが、オリンピック凱旋ムードに沸く日本列島に、衝撃をもたらした。
  シリアのアレッポという町で、彼女が銃撃されるに至った過程は、マスコミでも詳細に報道されたが、その映像はほかならぬ彼女が自分自身で撮影していたものだった。
  カメラを回す山本さんは、戦場で取材するジャーナリストのイメージにはにつかわしくない、しなやかで奇麗な普通のお姉さんのような姿だった。こんな人がなぜ生死を賭けたハードな戦場に身を置くのだろうか、そんな思いがした。
 女性や子供を見境もなく殺すアサド政権の残虐性は稀に見るものだった。ジャスミン革命やエジプト革命に端を発した北アフリカ革命が最後に飛び火した場所で、アサドはシリアの国民を人質にして虐殺を繰り返し、自分の政権を死守している。
 
 彼女が銃撃された経過はよくわからないが、同行した佐藤記者の談話や各種の残された映像からだいたいの見当はつく。銃撃場所の近辺で死亡したのは、どうやら山本さんだけではないかと考えられる。一緒にいたというパレスチナの記者がシリア政府軍に拘束されたというが、この真偽は不明だ。銃撃したのはシリア政府軍民兵というから、山本さんはシリア政府から単独で狙われて殺害されたことになる。山本さんが撮影したビデオには銃を持った男が、「日本のジャーナリストはどこにいる」とつぶやく不気味な姿が映っている。
 
 自分の手が届かないジャーナリズムを極度に警戒する独裁者がジャーナリストを殺害することはよくある。しかしこれまで、日本人のジャーナリストは、欧米のジャーナリストに比べ、殺害される危険性は少なかった。
 というのも、平和憲法を持つ日本は平和主義国家で、中東の戦争には中立の立場を保っていると、欧米に反感を持つ中東やアフリカ諸国のゲリラたちは、日本人には比較的良い印象を持っていたからだ。
 日本が経済大国で金持ちであること、何十年か前には米英を敵に回した大戦争をやったことに対しても、畏敬の念を持っている。
 
 しかしアサド政権にはこれが通じなかった。アサドがそれほどジャーナリストを嫌っ
 ていたのか、あるいは3.11震災と原発事故で日本という国の立場が弱くなり、
もはや尊敬されない国になったという足元を見たからかもしれない。
 
 山本さんは独立のフリーのジャーナリストだが、海外に出れば日本を背負ったジャー
ナリストである。日本の評価はそのままジャーナリストの扱いにもつながる。日本では
巨大メディアと威張っていても、海外でその名を知る人はいない。
社員であろうとフリーであろうと日本のジャーナリストなのだ。
 
 山本さんが自分の判断でシリア取材をしたのは自由な意思だろうが、国家として山本
さんの取材の安全と保護を要求するのは日本政府の役割だ。
従って山本さんの死の責任はシリア政府と日本政府にもあるので、彼女だけの自己責任
ではない。
この点、日本政府のいう自己責任の考えは間違っている。
 山本さん銃撃死でフランス外務省はいち早くアサド政権非難の声明を出したし、
アメリカのホワイトハウスも弔意を表した。
しかし私的政争に明け暮れる日本の政府は、山本さんの死には何の関心も払っていない
 官房長官がおざなりのお悔やみを述べただけとだと記憶する。日本政府はシリア政府
に文句のひとつもいっていない。
北朝鮮に拉致された女性ジャーナリストをクリントン元大統領が救出に出かけたのと
大違いだ。
 
山本さんがシリア政府軍民兵に狙い撃ちされた疑惑があるのだから、戦闘に巻き込まれ
て死んだという言いわけでなく、真相を調査究明する義務が日本政府にはある。
 もし日本人ジャーナリストと知りながら狙い撃ちしたのであれば、アサドは国際法に
違反する戦争犯罪人になる。
 
山本さんの死は自己責任とする自己責任論が、ジャーナリズムの側からも出ている。
これは同業者としては許し難いことである。
しかしシリアという辺境の国の戦争の真実を日本人の目でレポートすることは重要だ。
シリア戦争を伝える日本人ジャーナリストは必要だ。戦場は恐ろしい。誰でも行きたくは
ない。しかしかつて、橋田信介、澤田教一、一之瀬泰造という、いずれもフリーのジャー
ナリストや写真家が戦死した。彼らは命を犠牲にして日本人の目で見た遠い国の戦場を伝
えてくれた。
 
とかく日本人は欧米の目で中東やアフリカやアジアを見てきた悪癖がある。日本独自の自
立的な視点が希薄だった。欧米のジャーナリズムが伝えるシリア戦争と日本人ジャーナリ
ストが見たシリア戦争の見方は根底から異なるのである。
 
われわれが飼いならされてきた欧米の世界観から抜け出して、自らの自立した世界観を作
るためにも、中東やアフリカや発展途上国の事実のレポートは、戦争に限らず必要だ。
 
山本さんは戦争で破壊され命を奪われる女性や子供たちのレポートをかさねてきた。銃弾
が行き交う戦場の真っ只中の取材は怖かったことだろう。しかしその恐怖に耐え、戦場を
伝え続けた日本で稀有な戦場ジャーナリストだった。
 
 今になっては致し方ないことだが、山本さんには銃弾の飛び交う戦場のど真ん中から少
し距離を置き、戦場で暮らす人々の生活の様子、戦争でいかに生活が破壊されたかを克明
にレポートして欲しかった思う。
 
 その山本さんの最後の映像には自らの遺体が映っている。山本さんが撃たれて投げ出
したカメラを拾って、反政府軍兵士が映した映像とおもわれるが、遺体の映像と共に画面
に出てきて、日本のマスコミは遺体を映さない、日本の報道の自由を守れといっている。
 これがシリアのために命をおとした彼女に報いる言葉だろうか。反政府軍にしてはあま
りにも人の命を軽視し愚弄しすぎている。怒りを覚える。
 
反政府軍の諸君、君たちは山本さんを守ることができなかった。その程度の能力で残虐 
なアサドを斃せるとでも思っているのか、といいたくなる。
 
確かに日本のマスコミは伝統的に遺体を映さない。それにしてもゲリラたちはなぜそんな
事情を知っているのだろうか。それは東日本大震災の報道でも問題になったことだった。
議論はあるが、事件のむごたらしさを知るには必要なことでかもしれない。
 
しかし反政府軍を名乗る諸君にそれをいわれる筋合いはない。日本の報道の自由はわれら
が守る。
 
さらに日本の新聞、テレビはこぞって「山本さんの遺志をつごう」といっている。しかし
彼女の本当の「遺志」が何かわかっていっているのだろうか。一時しのぎの社交辞令なら
言わない方が人間的で誠実である。
 
シリアの戦場に自社の記者を派遣して危険な戦場を報道しようとでもいうのか。そんなこ
とは、規制と自己保身と自粛だらけの今の大手マスコミにできる相談ではない。戦場で命
を捨てるかもしれない記者を派遣するなどは論外なのだ。
第一次湾岸戦争時、CNNのピーター・アーネット記者と共にバクダッドに残った経験の
ある大手テレビ局の知人は、残りたければ会社には一切、迷惑をかけない、という念書を
書けといわれ、念書を書いて戦場に残ったと話していた。
 
大手マスコミはフリーの命を金で買って、お茶を濁し報道した気分でいるという巷の風聞
は間違ってはいない。
 
重要なのは取材上の「自己責任」という言葉だ。この言葉は、何か現地で事故を起こした
り、死亡したりしても本社は一切、責任を負わない。取材の成果は買うが、あとは知らな
い、というメディア側が言う「自己責任論」である。
フリー記者に自社の記者を出せない危険な取材を依頼し、その成果はコストカットで買い
たたく。 
こういうメディア界の風潮が無理な取材行動を生み、結果として事故や生命の危険につな
がる。山本さんの名誉のために、そうだったとはいわないが、シリア取材はあるTV局の
委託を受けた仕事だったという。この場合、山本さんの死の責任はTV局にもある。
 
こう考えれば、記者本人だけでなくメディア側も責任を相互に分散して負う、という取材
のルールの構築とフリーの独立性と安全性を高めるシステムを作る必要があろう。
 
山本さんは非常に責任感の強い人だった。大学院で彼女の真摯な講義を聴いた大学院生の
女性はツイッターで、「一言一句聞き洩らすまいと必死でノートを取った」という。自己責
任論について、山本さんは「仮に記者が死んだ時、社長に責任をとれ」というのは違う。 
 こういう主張をすることで「規制が委縮につながってはならない」と話していたという。
山本さんは自由に取材ができる環境を何より望んでいたはずだ。自己責任で行け、という
ならそうする。そうでないと、自己保身の規制ばかりが拡大し、何も取材できなくなるこ
とを怖れていた。
 
実際、福島原発事故では30キロ圏内の立ち入り禁止が法的に実行されたとき、日本の大
手メディアはすべてこれにならって、30キロ圏内の取材はできなかった。このため、事
故の全貌は分からず、戦時下の大本営さながらの安全神話と虚偽の情報を国民は受け取っ
た。
 
 外国メディアでは、リビア内戦取材中のジャーナリストらが急遽、フクシマに駆けつけ、
法の規制の網をかいくぐって事故の真実のデータを取材して世界に発信した。
 
戦場取材に慣れた外人ジャーナリストは、「フクシマ取材は戦場と同じ、現場に記者が行か
ないでどうする」と語っていた。
 
確かに、30キロ圏内立ち入り禁止の法的な根拠は、放射能汚染の危険と住民が避難した
後の無人地帯の治安維持のためであり、メディアを規制する目的ではない。
 
日本のマスコミは30キロ圏内立ち入り禁止の規制を自分たちにも適用することで、真実
の取材をさぼったのだ。

 
無用な規制をなくし、ジャーナリズムの環境を少しでも良くし、正しいものにする。それ
によってジャーナリズムのあるべき価値観を、マスコミもフリーも共有し価値のある報道
を作り上げてゆく。それが日本の国を良くする道だ。
自由なジャーナリズムが作る世論が国の根幹を担う社会こそが健全な民主主義の国だ。
 
その意味でいえば、真実から逃避するための「自己責任論」が横行し、かつ大手企業とフ 
リーの間の非人間的な格差を生む日本のジャーナリズムの仕組みは、不自由で抑圧的で歪
んでいる。
 
こんな現実を改革もできない日本のメディア界からマトモなジャーナリストが生まれるはずもない。
 日本のジャーナリズムにある「自己責任論」という名の規制の解体こそ、山本さんの遺
志を継ぐ究極の道だと考える。
 
 ジャーナリズムは私物や娯楽本意の情報ではなく、成熟を目指す民主主義社会にとって、
「公共の知」を提供する唯一無二の知的機関である。今こそ、こういう理論的原点に立ち
戻らなければならない。
 
 
以下は第152号(2012年7月8日付)からです。
紫陽花革命、京都に震災瓦礫は捨てないほうがいい理由
 安全確認も何のその、危険な急発進をした大飯原発再稼働に全国各地で抗
議行動が起こっている。官邸前のデモは20万人と主宰者は発表し、デモ
に騒乱こそないものの、エジプトのタハリール広場で起こった反ムバラク
デモを思わせる光景だ
この原発騒乱はついに世界の文化都市、京都をも巻き込み始めた。
千年の古都で天皇の御所がそのまま残り、洛中洛外に神社仏閣、多くの文
化財、数々の景勝地を目当てに大勢の観光客が四季を問わず訪ねてくる。
祇園祭、時代祭、葵祭などの祭りには世界の観光客が京都に来る。
文字どうり京都は世界のシンボリックな文化都市なのある。伝統文化が詰
まって自然も守られていて、日本の癒しの空間が京都、ということだ。
 
鴨川には海からの天然アユが遡上して、四条大橋近くの鴨川の料亭の床か
らアユの釣り人の姿が見える。安藤広重の版画を見るような懐かしい風景だ。
京都は水の都であり、琵琶湖に匹敵するほど豊富な地下水が巨大な固い岩
盤の上に蓄積されている。友禅染や茶の湯で使う上質の水や湯豆腐、白い
タケノコ、京野菜などの繊細な食物も京都ならではの上質の水がもたらす
名産だ。 
しかし最近、住んでいる人間には、釈然としない点が多々出てきた。
京都の自然と命の水は守られるのか、ということだ。 
 
大飯原発再稼働だけでなく、大阪、北九州や島田市のように震災瓦礫焼却
の話が持ちあがっている点だ。放射能検査は実施するとの当局の説明はあ
るが何らかの放射能は含まれていることは間違いない。ほかにクロムやヒ
素も混入していると細野環境大臣はテレ朝の玉川総研の番組で認めている。
 そんな瓦礫処理を京都でも受け入れよ、というわけであるが、これは京
都の歴史も伝統も知らない滅茶苦茶な話だ。
京都の瓦礫処理場は市中を流れる鴨川上流に集中している。
 鴨川の上流の北山には雲が畑という渓流の村落があり、ここはイワナ、
アマゴがいる秘境山里で渓流釣りのメッカだが、近年、渓谷沿い空き地に
産廃業者の処理場や焼却工場があちこちに建設されている。
恐らくこの産廃焼却炉のどこかで焼却などの瓦礫処理をすることになろうが
、そうなれば鴨川や京都の地下水の汚染は必至だ。当然ながら、京都市民
から反発の声が上がっているが、予断を許さない。
世にいう産廃利権で財政難の市に金が転がり込んでくるので、為政者には
おいしい話だろう。大阪の橋下市長も積極的な受け入れ姿勢を表明し、
市民ともめている。
 
それはさておき、京都御所の天皇の飲み水を提供したのが鴨川水系の地下
水だ。葵祭は御所を出た天皇の勅使が下鴨神社に来て水の神に感謝する祀
りである。千年の都の存続にあたって、いかに水の品質に気を遣ってきた
かがわかる。千年来、都の水を守ってきた鴨氏の子孫は現存し、今でも
京都の水を守っている。
 
全国各地の協力で震災瓦礫を受け入れ被災地を支える絆の義務を細野環境
相は国民に押し付けているが、京都までが横並びで同じことをしてもいい
のだろうか。千年の伝統に支えられた鴨川の水をわざわざ放射能の危険に
さらす必要があるのだろうか。放射能は微量だと抗弁しているが、クロム
やヒ素が混入した瓦礫をばら撒くのは違法行為ではないのか。政府の強弁
からは理性の声が聞こえてこない。
 細野氏は京大出身ということで、私も京都の大学出身なので京都の価値
がわかっていて、ここは汚染させてはならないという気持ちは強いが、
細野氏の心にはそういう郷土愛はないのであろうか。
 
平等意識の強そうな役所の環境省は、京都を特別視せず、全国展開する
方針らしいが、そんな役所の平等意識だけで物事は解決しない。みんなも
被曝してるのだからお前も被曝しろ、なんて悪平等の見本である。
瓦礫で放射能汚染が起こらないという学問的な確証はどこにもないのである。
 
さらに細野氏も関与して再稼働させた大飯原発から京都の御所までの距離
は70キロ程度、福島第一原発で考えると結構な近場になる。最近直下に
は活断層が発見されているという学者の報告があるが、環境省も保安院も
関電も調査はしていない。
安全管理に不安がある大飯原発でもしもの福島第一クラスの事故が起こると
京都と鴨川の汚染は必至だ。
 歴史をひもとくと、大戦中、米国は原爆投下第一目標を京都に定めていた
。日本人の心の故郷である京都を消滅させれば、日本は戦う意思をなくす
だろうという思惑だった。
しかし京都原爆投下計画に大反対し、古都を爆撃するな、とトルーマン大
統領に手紙を書いて直訴したのは、陸軍長官のスティムソンだった。
大統領は陸軍長官の反対に折れて、京都への原爆投下は取りやめになった
といわれる。軍人スティムソンは京都の文化価値を知っていて、京都に
原爆を落とすと世界の非難を浴びると考えたのだ。これについては、
拙著『日本はなぜ世界で認められないか』(平凡社新書)で触れている。
 
 おかげで京都は大戦中も、他の全国各都市が米軍の空爆で壊滅的打撃を
受けたのに対し、ほとんど戦災を受けることがなかった。
 
原爆投下や戦災からも守られた京都なのに、日本人自身が京都を守ろうと
する意志が欠如しているのではないか。今、そんなことを思う。日本の
シンボルである千年の都といい、「日本に京都があって良かった」と癒しの
旅を求める日本人は、気が向いたときに利用するだけでなく、ともに
京都を守る決意が必要ではないか。
被災地に役に立つ行動は一緒に震災瓦礫を燃やすことや、最も隣接する
原発をあえて再稼働させることではなかろう。
 
日本に京都があって良かった、と日本人が本気で考えているのなら、
こうしたリスクを京都にあえて負わせるべきではない。
 
米軍の戦災や原爆からも守られた都市だからこそ、古い街並みと自然と
文化が残った京都の存在価値がある。
日本人が京都は心の故郷と本気で思うなら、観光と癒しのために遊びに
来るだけでなく、こういう歴史的側面にも心を配る必要がある。
 
以下は第151号(2011年12月16日付)からです
負の世界遺産としてのビキニ環礁、日本の立場と核廃棄物
 
 日本は福島第一原発由来の放射能汚染瓦礫、焼却灰、除染土砂などを捨てる場所がなくて困り果てている。
 
 仕方なく、非汚染地帯の西日本を含め全国各地に汚染瓦礫の焼却を平等に配分してことを、まるく収めようとしている。
 しかし税の負担とは違い、放射能は人体へどんな影響を与えるか未知数だ。日本政府は軽濃度といっても測定方法やサンプリングの仕方で多様な数値が出るし、年齢や個人差で体内被曝の仕方も変化する。
 
 いくら被災地支援といっても、命を投げ打ってまで引き受けてやろうと考える人は少ない。このため、全国のあちこちで放射能瓦礫の自治体への押し付けに反対する住民運動が高まっている。
 
 狭い日本列島のどこに行こうと、過疎地の離島であっても人が住んでいる。無人島のような島は尖閣諸島くらいのものだろう。
 そこで尖閣に自衛隊を派遣して領土防衛するよりも、いっそ放射能汚染瓦礫や焼却灰を尖閣諸島に捨てることで、おのずと中国は自国領土だというのをあきらめて、日本は尖閣の領有権を永久に保守できるというものだ。
 
 それはさておき、南太平洋にはかつて戦勝国の米英仏が繰り返した核実験の遺跡がたくさんある。
 1945年の広島、長崎原爆以降、世界で行われた核実験回数は2379回といわれ、その中の多くが日本から遠くない南太平洋で行われている。
 
 ビキニ環礁では米国が67回、ムルロア環礁ではフランスが160回以上、クリスマス島やオーストラリアの砂漠でイギリスが45回の核実験を南太平洋で行ってきた。
 ビキニ環礁の核実験では日本の漁船が被曝して久保山愛吉さんが死亡するなど日本世論に大きなショックを与えた。
 
 そのビキニ環礁のあるマーシャル諸島を取材したことがあるが、現在でもここの放射線量は高くて人が住めるレベルにはない。恐らく半永久的に人が定住して農業や漁業で生活できる島には戻ることはなかろう。
 
 しかし約半世紀以上を経た現在、限られた日数なら人が滞在できる程度にまで線量は下がっている。滞在用の観光ホテルも出来ていて、ダイビングなども可能になっている。
 
 ビキニ環礁は人類の負の遺産として、近年、ユネスコの世界遺産に指定された。核実験という愚行によって破壊された海洋環境汚染のシンボルになっている。
 
 いま日本は世界が注視する原発大事故の処理で困窮している。
 汚染瓦礫を人が大勢住む地域に捨てるしか方法がないところへ追い詰められている。
 瓦礫や食品汚染の拡大で、多かれ少なかれ、日本国民は何らかの被曝をすることを迫られており、広島、長崎から66年目に二度目の悲惨な原子力災害に直面してしまった。日本国民は、自らが仕出かした事態とはいえ、この原子力災害からの救済を世界に求めるしかない。
 いくら頑張ってみても自力救済には限度があるだろう。
 
 そこで核の負の世界遺産に今の日本が貢献できることは、日本がここへ積極的に関与し負の遺産を保全する役割を果たすことだ。
 実際のところ、汚染瓦礫はすでに汚染された場所にすてるしかない。汚染処理のために新たな汚染地を作ることは道理に反している。
 
 多額の援助金を餌にモンゴルに放射性廃棄物を廃棄する案が出されたことがあったが、モンゴルの反対でとん挫したのは当たり前のことなのだ。
 命より金が欲しいと本気でいう人はまずいない。
 
 ビキニ環礁あるいは南太平洋の核実験汚染で人が定住できなくなった場所に、低濃度の汚染物質に限って、福島原発由来の汚染物質処理を依頼する道を探すことを考えたらどうかと思っている。
 
 戦後、日本の平和主義と日本経済の発展は世界に大きな貢献をしてきた。ドイツがナチズムを克服したのと同じように、日本は世界平和に寄与したはずだ。
 これまでいくぶん自虐気味に生きてきた日本人が、困窮した現在、サバイバルのための若干の要求を世界に行っても良いのではないか。
 
 米国は日本へ原爆を投下し、原発を日本へ持ちこんだという責任がある。このさい米国との交渉力が第一のカギになろう。外交交渉とは、何を守って何を譲るかである。得るものが大きいときは、失うものもある。その優先順位をどこに求めるかだ。
 
 これには他国や現地とのパワフルな外交能力、説得能力が必要となるので、それほどたやすい道ではない。
 第一に、世界世論は日本が明確な脱原発宣言をすることを要求するだろう。
 
 
以下は第150号(2011年9月11日付)からです。
鉢呂氏の記者会見に日本の末路見た
  半年経つのに、原発収束は見えず、船はビルの上に登ったまま
 
 3.11から半年になる。政治の混乱で被災地は放置され、原発事故は悪化しているのか、収束に向かっているのかすら分からなくなってきた。
 外国の大使館が家族を遠隔地に移動させたとか、チャーター機を飛ばしてきている等の情報があると、すわ!水蒸気爆発か何かあるのか、と不安を募らせて勘繰るのだ。
 テレビは特集を組んで相変わらずの大津波映像を繰り返し流し続けている。米国の9.11の時は、ツインタワーが崩壊する映像は被災者のトラウマを助長するので、すぐにテレビ局は使うのを中止した。
 日本のテレビはそういう点は全くの無神経だ。
 
 半年後、どれだけ被災地が変わったかというと、仮説のスーパーができたとか、瓦礫の量が減ってきたとか、道路が通行できるようになったとか、震災後10日目というならわかるが、半年後の成果というにしては、復興どころか被災者の日常生活すら正常に営まれてはいないことがわかる。 
 
 復興には金がいる、というので政治家も政府も財源の話ばかり議論し、復興税だ、消費税だと騒ぎ、会議や委員会が林立し、マスコミも増税世論を駆り立てている。地方は地方で国のカネが回らないと何もできない、と悲鳴をあげる。会議と企画、プロジェクトで仕事をした気分になっている。そういう官僚文化が横行しているが、実は何もしていない。
 原発事故は手の施しようもなく、外国政府は息をのんで見守っているようだ。もしもの事態が起こって、福島の4号機あたりが水蒸気爆発でも起こせば、チエルノブイリをはるかに上回る大量の放射能が地球上に放出される。
 そうなれば3000万首都圏の人々もどこかに逃げなければならない。
 現状でも広島原爆の168発分にあたる放射能が外に出ている。大気汚染、海洋汚染、土地汚染はそんなに軽度なレベルではない。住民の被曝は避けられない。
 
 にもかかわらず、脱原発、自然エネルギーを主張して浜岡原発を止めた菅総理が、与野党連合、官僚、マスコミの総意で引きづり降ろされた。
 菅さんの最初の政策には問題があった。原発事故に際して放射能の飛び散る方向予測のSPEEDIの公開をしなかったこと、メルトダウンの予想がありながら、国民に知らせなかった等は、大きな失政だ。
 片腕の枝野官房長官は「ただちに健康に影響はない」を繰り返し続けた。
 
 それはおいても菅さんが脱原発、再生エネルギーを主張し始めたとたん、上記のような失脚の羽目に陥ったのだ。
 
 失脚した菅首相の後を襲った野田首相は、一見、原発推進派に見えたが、経産相に鉢呂氏を起用した。その鉢呂氏は、就任早々に脱原発を明言した。
 
 その鉢呂氏は就任9日にして、わけのわからない新聞記者との私的記者会見のやり取りで、子供の喧嘩のような内容のない失言とかで、大臣を辞任した。というより首になった。
 
 辞任の記者会見の様子をUストリームで見たが、ヤクザもどきの言葉遣いで鉢呂氏に詰め寄る記者の言葉は驚くべきものだった。
 「説明しろ、てんだよお」と怒鳴っているのだ。何を説明していいのか、怒鳴られたほうはわからないだろう。
 
 この手の記者に脅されて失言の言質を取られ、新聞に書かれて、むざむざ生首を取られたのであろう。
 
 長年、新聞記者をしていたが、あれほど酷い記者会見は見たことはない。荒れる記者会見はあったが、だいたいは会見する側が声を荒げたものだ。
 
 あれは件の記者が一人でやったものだろうか、と考えるともっと裏があると感じる。
 鉢呂氏辞任の記事は大新聞もNHKも民放テレビも、ほぼ同じこと書いていたからだ。伝言ゲームのように少しづつ失言内容は違っていたが、口合わせは出来ている。
 
 やはり菅さんのときと同様に、鉢呂氏は原子力村に追い落とされたのだろう。そう考えるほうが自然だ。その先兵になったのが経産省記者クラブの面々だと、多くの脱原発派の識者が分析している。記者も原子力村に居れば利権にもかかわる。
 
 それで鉢呂降ろしの筋書きは理解したが、いくら原子力村の利権がからんでいても、政権交代したばかりの内閣の足を、こんな瑣末な「言葉狩り」で引っ張ってもいいのだろうか。
 
 早速、ワシントンポスト紙は、「こうした繰り返しで日本の政治はますます弱体化し日本の国益を損なうだろう」と書いている。
 
 原子力村の政財官学マスコミ連合軍のメンバーは、日本国内では敵なし、総理も大臣も首に出来る権力を握っているかもしれにが、その力の遣い方を間違えて、肝心の国益を損なっていることには、気がつかないようだ。
 内にしか目が付いてない輩には、外が見えない。外メクラなのだ。
 
 円高は止まらず、株安も止まらない。経済は大ピンチである。
 折から、中国の軍艦が尖閣諸島に接近し、ロシアが日本列島を取り囲むようにして空中演習をしている。韓国も様々な対日戦略を仕掛けている。
 
 要するに周辺国から嘗められているのも国益を損なっている証拠だ。
 
 内輪の愚にもつかない争いを繰り返し、被災地を放置し、原発事故も収束できない、その目途も立てられない日本の政治の貧困は救い難いレベルにまで達している。
 
 日本の破たんと衰亡への旗を振り、扇動しているのがほかならぬマスコミなのだ。
 
 鉢呂氏の辞任記者会見に、日本の哀れな末路を見た。
 
以下は第149号(2011年7月24日)からです。)
テレビの死と日本の新しい希望
「失われた100年」にしないため
 アナログテレビが終わった。
 天皇・皇后両陛下の婚約、ご結婚のころ、当時の皇太子妃のミッチーブームが起こり、この社会現象の報道のなかで、アナログテレビが始まった。
 やがてアナログテレビは報道の中枢にいた新聞の役割と権威を奪い去り、大衆化社会の深化とポピュリズム政治の波にのって、マスコミの覇権を握った。これは80年代以降の現象だ。
 
 1960年代末から70年代はじめにかけて、マスコミを目指す学生で、NHK以外の民放を希望者はほとんどいなかった。就職を目指す全国大企業の人気第一位に全国紙が選ばれたこともあった。当時は、それほど新聞の人気は高く、国民の信頼度も抜群だったのだ。
 米国の新聞記者たちは、そうした日本の新聞社の姿を羨望の目で見ていた。記者の給料も米国の2倍はあり、実際、日本の全国紙はニューヨークタイムズより素晴らしい、という米国人はたくさんいた。
 
 日本の新聞記者たちも、さまざまな内部矛盾に直面しながらも、良きジャーナリストであろうとする一抹の矜持と心意気は、誰しも持っていた。仕事にはやりがいと張りがあった。
 
 80年代に入って日本は「坂の上の雲」を駆け上り、雲の上の虹を掴み、米国を抜き去って世界一のGNPを達成し、世界一の経済大国になった。
 米国のロックフェラーセンターやハリウッド映画を買収、ハワイのリゾート、フランスのワイン畑など世界各地にジャパン・マネーが浸透していった。やがて日米経済摩擦などの海外経済摩擦が起こり、バブル経済に突入する。
 
 バブルの時代の東京は土地が未曾有に高騰し、米国6個分が買えるというほどの土地バブル景気に沸いていた。ちょっとした隣の2DKマンションが軽く一億円の価格がついていた。夜の東京はギンギンギラギラの電気が灯り、六本木は不夜城と言われた。半裸の娘たちがディスコ・ジュリアナのお立ち台で踊り狂っていた。
 
 日本国憲法を起草したGHQ民政局のケーディス大佐が訪日したとき、同行のゴーソン・ベアタ・シロタさんが特にケーディス氏をジュリアナに連れて行った。
 シロタさんは日系二世の女性でGHQ時代にケーディス氏の秘書を務め、日本国憲法草案の女性の参政権の条項を書いた人だ。
 彼女は半裸で踊り狂う日本娘たちを見て、「戦後日本女性はここまで解放されたのか」と嬉しくなったといった。ケーディス氏は黙って眩しそうに見ていた、という。
 ちなみにこの超バブル時代の日本の電気消費量は、2009年の総発電量から原発発電量を差し引いた数字とほぼ同じ、という名大教授の統計がある。原発がなくても80年代バブル期程度の生活はできる。電気が足りないというのは嘘だ。
 
 米ソ冷戦が終焉し、バブルが終わり、日本は不動産不良債権時代に入り、90年代不況に突入した。グローバリゼーションとIT革命に乗り遅れた日本は「失われた10年」に入った。その失われた10年はさらに10年延期され「失われた20年」になり、「失われた30年」に突入かと思ったとたん、3.11大震災と世界最大の福島原発事故が起こり、現在に至る。
 「失われた30年」どころか、原発事故の放射能を引きずったままの日本は「失われた100年」になるかもしれない。
 
 被災地の惨状や避難民を放置して、福島原発事故の収束の目途はまったくないまま、原発推進VS脱原発が激しく争って、政治も経済も大混乱しているのが今の日本である。
 原発がないと日本経済は沈没するという無理筋理屈を政府、財界、御用学者、マスコミが煽りたてている。
 世界の理性ある国家の人々は、原発事故の収束も出来ない癖に原発推進だ、原発輸出だと騒ぎ立てている理不尽に、唖然としている。
 震災直後、日本人をあれほど称賛した海外世論も今は呆れかえっている。
 
 その原発を日本に導入するにあたって、「野獣も飼いならせば家畜となる」と新聞が水先案内を務め、無知蒙昧の大衆に原発がいかに安全なエネルギーであるかを、大いに宣伝したのが電力会社をスポンサーにつけた民放テレビだった。
 
 「安全神話」を御用学者を総動員してPRし、日本国民を洗脳したのはテレビである。テレビが出来た時、大宅壮一が「一億総白痴化」と喝破したのは、まことに正しかった。
 アナログテレビは、戦後日本の一番良い時期と最悪の時期の証言者として歴史に残っている。そしてその役割は終わった。
 
 地デジ化が新時代のテレビとしてアナログ時代のような成果を生み出せるかというと、ネガティブな反応しか、今はない。
 
 テレビを見るのは高齢者だとすれば、彼らはみなNHKしか見ない。NHKもデジタル化しているので、仕方なくテレビ買い替えや変換装置を付けているかもしれないが、民放テレビにはあまり縁がない。
 
 民放のオチャラカ、爆笑、クイズ、バラエティ、タレントもの等は若者が見るが、最近の若者はテレビは見ず、ネットや携帯を見ている。Uストリームやツイッターやフェースブックに入れ込んでいる若者も大勢いる。
 
 震災報道や原発報道にしても、NHKのほうが信憑性の高い情報を送り、民放はおおむね東電や保安院や政府の大本営情報から一歩も出ることはできなかった。
 
 要するに民放テレビはいくら地デジ化しても、従来の路線からの進化は期待できず、たかだか画面の鮮度が良いというメリットしか提示できないでいる。
 
 テレビが死ぬ日、という主張が米国には約20年以上も前からあった。ネットの進化でテレビは情報革命から取り残される。新聞以上に時代遅れのメディアになるのがテレビ、ということだ。
 
 米国のテレビは多チャンネル化、専門チャネル化、ケーブルテレビの普及で危機を回避してきた。
 しかし日本のテレビからはそのようなアイディアも知恵も生まれてはない。ひたすら国の免許事業に甘え、政府の規制に甘え、視聴者に甘えたなれの果てのテレビが、地デジ化でどうなるか。
 
 テレビが死んで、日本人の洗脳装置が破壊された時、日本には新しい希望が生まれる。戦後の良き時代の日本を伝え続けてきたアナログテレビとしても、さぞかし本望であろう。
 
以下は第149号(2011年6月18日付)からです。
最大不幸社会が大津波のように押し寄せてきた
 イタリアの国民投票は原発にノーを突きつけた。ベルルスコーニ首相は「イタリアは原発にさよならをいわなければならない」と敗北を認めた。
 
 日本は3.11から3カ月を経たが、原発事故はいまだに収束していない。放射能はいぜん垂れ流されている。にもかかわらず原発各社や海江田経産相は、地方の原発稼働しないと都会が困ると地方に圧力をかけている。橋下大阪府知事は一人で原発会社の再稼働に反発している。まるで日本の救世主のようだ。
 
 被災地の復興だって、原発事故が大きく足を引っ張っている。原発さえなければ、地震も津波もなんとかなったのだ。古来、地震列島に住んできた日本人は地震・津波には慣れている。
 江戸時代の瓦版を見ていると、載っている出来ごと(ニュース)のほとんどが全国各地で起こった地震と津波の絵入り書き込みだ。
 
 日本史上、広島・長崎の原爆を除けば、これほど大規模な原発事故は初めてだった。チェルノブイリよりはマシだと強がってはいるが、IAEAの専門家の中にはチェルノを超えるレベル8を福島に与えるべきだという意見もある。
 
 東電、保安院のデータ隠しの数々がどんどん露見してきたが、これもIAEAや国際社会の心証を悪くしている。天野事務局長の立場は相当に芳しくない。
 それはそうだろう。スリーマイルは数日、チェルノだって10日で収束している。放射能は微量という東電の言葉を信じたとしても、塵も積もれば山となる算数積算を知らないわけではないだろう。
 
 3ヶ月後の6月11日、日本全国で「原発はいらない」デモが盛り上がった。約10万人が参加したという。新宿アルタ前広場は約2万人の群衆が終結して原発止めろ、と訴え警官隊と睨みあった。
 昔のデモは左翼活動家学生中心の荒れたデモが多かったが、この日のデモは子連れのお母さんが多く、それぞれのスタイルで、老若男女を問わずデモに参加していた。もし警官隊とデモ隊が衝突でもすれば危険な事態になっただろう。
 
 それでも危険な核にノーを言わなければ命にかかわる、とだれもが思ってデモに参加したのだろう。日本にはエジプトやリビアやシリアと違い、表現の自由が憲法で保障されている。いま日本人が言論の自由を使うことができなければ、これを使うべき日は永遠になくなるだろう。
 親たちは子供たちの未来が奪われるんではないかという、やむにやまれぬ危機感が広がっている。
 
 汚染は予想外の広がりを見せて、野菜や海産物にも黄信号が灯ってきた。
 おいしかった日本食、刺身文化、四季の食べ物、自然の景観、そういうものが一挙に失われるのが、いわゆる核の攻撃という奴だ。核攻撃の中身は原爆も原発も同じことだ。
 
 村上春樹氏がカタロニア文学賞の受賞のとき語った言葉は強烈だった。原発は平和利用だと日本人は信じ込んできたが、それは洗脳の結果で、実は核兵器と同じなのだ。世界の人々は原発だから平和だと思ってはいない。
 なぜなら世界の超大国は核兵器と原発を両方とも所有している。核の怖さは原発カルト教では払拭出来ないのである。
 
 使う物質はウランという核物質で、がんらい軍事と平和の区別がつくような平和な代物ではない。
 日本人は広島、長崎の原爆を浴びながら、核に対して無防備だった。広島、長崎から平和のメッセージを発しながら、同じウランで動く原発は平和だと信じ切っていた。そのカルト的神話が見事に粉砕されたのが、今回の福島第一原発の事故だった。
 
 日本が原発を導入した経緯は、戦後直後のことである。米国は日本人の核アレルギーと反米感情に警戒心を募らせていた。
 これを中和する戦略として原発が導入されたのだが、その輸入方法は正規の外交ルートからはずれた秘密裏で行われ、日本の原発はいわば正嫡子ではなかったのである。原子力の平和利用はマスコミによって大々的に宣伝され、日本社会に浸透していった。
 日本の原発の出自の秘密が、原発をタブー視する傾向と仮想の安全神話カルトを増幅する結果を生んだ。
 
 いま福島の事故をどのように世界に発信して行くかを考えた時、常識的に考えれば、54の原発を全部止めるという未来へのメッセージしか、日本国に選択肢はない。
 もしそれが嫌なら、核兵器をもつことでリスク管理のバランスを、国際社会に対してあえてとるほかはない。原発のうま味や利権だけで原発を継続することは許されない。核兵器を持たない国が原発を操ったリスク感覚の甘さが、今回の大事故を招いた本質である。
 日本人は60余年前に核兵器の洗礼を受けはしたが、核兵器の本当の怖さを知ることがなかった。
 こういう日本人の甘さについて、フランスの哲学者ボードリヤールは、「核の洗礼を受けてしまった日本人は冥界の人である。われわれは日本人に対して寛容にならなければならない」という大真面目なメッセージを、ずっと以前に発したのだ。日本を祖国として愛する者ならば絶句する言説だが、核をいい加減に扱うな、という神学的警告である。
 
 自然再生エネルギー革命によって、日本は今回の失敗を乗り越えることでしか、本当の技術大国として世界に認知されることはないだろう。
 
 小出祐章氏によれば、地震大国の狭い国土に54基もの原発を作った隠れた動機の中に、核兵器を持ちたいという願望があったのではないか、と見る。
 核兵器の原料になる濃縮ウランは日本の原発から廃棄された放射性廃棄物からかなり豊富にとりだすことが可能といわれる。
 保守系の有力政治家が集まって東京に地下原発を作る計画があるとの報道がある。日本の一部に原発へのこだわりを捨てきれない人々がいるのは、核兵器を持ちたいという願望の反映かもしれない。もしそうであれば、ボードリヤールのいうように、世界は日本を寛大に扱わないであろう。核保有を密かに目指す国として、超大国から北朝鮮並みの制裁を受けることになる。
 
 菅首相の不信任決議が否決された後、政界は菅降ろし一色だが、6月11日、官邸主宰不思議な討論会があった。脱原発と再生エネルギーの未来について語るものだった。
 討論会には菅総理と福山官房副長官が出席したが、マスコミ報道は一切なかったのも異例といえば異例だった。
 パネラーは、孫正義、坂本龍一、岡田武史、枝広淳子、小林武史の各氏。
 官邸という政治の生々しい現場とは思えないほどの清涼感があり、パネラーの机上には飲料水のボトルが一本。中身は学者たちの討論を思わすアカデミックなものだった。
 
 菅さんは不信任案の前、発送電の分離、太陽光発電と再生エネルギーの推進、浜岡原発の停止を矢継ぎ早に打ち出していた。菅さんのこの意図はわからない。
 
 しかしにわかに菅降ろしが強まった理由は、原発推進派の巻き返しが背景になっているとの見方が有力になってはいる。
 
 そうした政治的な駆け引きが、再び原発推進のエネルギーを引き出しているとすれば、福島の被災者は救われない思いだろう。
 
 戦後史をもう一度、ひもときながら検証し、なぜ日本人は原発の罠に落ちたか、この原発アリ地獄から抜け出すにはどうしたらいいか、答えを求め続ける必要がある。
 日本の今は原発推進VS反原発・脱原発の激しい駆け引きの力学の中にしかない。そうした中で、被災地が忘却され、福島が捨てられようとしている。
 最大不幸社会と不条理があのときの大津波のようにして押し寄せてきている。
 
以下は第148号(2011年4月23日付け)からです。
原発導入の道筋をつけた大新聞と
マスコミの責任
 いまから約60年以上も前、サンフランシスコ平和条約で日本が独立した直後のことである。
 「野獣も飼いならせば家畜となる」。これは原子力の平和利用の先陣を切った読売新聞記事の見出しだ。
 正力松太郎率いる読売新聞と傘下の日本テレビ幹部は、秘密裏に米国CIA関係者らと接触して、日本に原発を導入する画策を行っていた。
 
 当時、ビキニ環礁の米国水爆実験で被曝した焼津のマグロ船第五福竜丸の久保山愛吉が死亡したことで、日本には反米感情が渦巻いていた。広島・長崎の後遺症も大きかった。
 
 米ソ冷戦下で米国は日本の反米感情を沈めるための「心理作戦」の一環として、原子力の平和利用、つまり日本へ原発を導入しようとしていた。
 その水先案何人になったのが正力松太郎であり、読売新聞だったのである。
 
 原発の燃料になる濃縮ウランは米国から輸入された。当時、原爆の材料である濃縮ウランを供給できる国は、米国とソ連だった。
 
 福島原発事故が起こらなければ、東日本大震災の被害は甚大ではあったにせよ、日本人は大いに奮起し、世界中の共感と支援を得ながら被災地の再興に全力を傾注できたはずだ。あのような悲劇の後でも勤勉日本人は明るい和の精神を持って、生き抜いたことだろう。
 
 しかし震災に直結した福島第一原発事故は、そういう日本人の意思を挫き、世界の共感を疑惑へと変換してしまった。原発事故は徹頭徹尾、日本と日本人の足を引っ張ったのだ。
 
 原発がなぜあのような大事故を起こしたかについては、東電や政府の安全対策の甘さ、「想定外」という言葉で逃げようとする既得権益者や権力維持をはかる人間たちの魂胆の卑しさがあるが、これについては前回ブログでも書いた。
 
 今回は東電や政府の原発政策の甘さを監視することなく、原発推進を先導した日本マスコミの役割を見逃すわけにはゆかない。
 
 当時のCIA関係者は、政府間交渉以上に、マスコミの宣伝が果たす役割を重要視しており、とりわけ日本社会では大新聞の影響力が強いことを知っていた。
 米国人がなぜそう考えたかというと、戦中に新聞が果たした洗脳効果に注目していたからだ。
 
 濃縮ウラン日本輸入のときには、賛成の読売、反対の朝日と新聞界、マスコミ界を二分する大騒ぎになり、学会でも賛成・反対が分かれ世論も二分された。
 
 しかし日本が高度成長し、経済大国になるにつれ原発への批判意見は少なくなっていった。資源のない経済大国日本は原発に頼ることなく、いまの豊かで利便性の高い生活水準を保つことはできない、という世論が多数派を占めるようになる。
 
 原発に批判的だった朝日でも推進派の論説委員が活躍するなどして、紙面から反対論の学者、理論家たちが姿を消していった。
 
 マスコミは原発の安全性強調へと論調を転換し、日本が生きてゆくために、原発は絶対に必要なものだという論陣を張って世論を誘導していった。
 
 新聞の後から出て来た民放テレビにとっては、CMスポンサーとしての電力会社の金は巨大な力を持つようになる。毎日放送が深夜番組で反原発派の京大の研究者を登場させただけで、CMの引き上げが行われたといわれる。
 
 確かに新聞社でも原発取材をする記者たちは当局や電力会社の監視の目から逃れられなかった。
 
 新聞社にはいくつものタブーがあった。菊・鶴・刀とか、関西には松竹梅などというタブーがあった。
 
 部落、朝鮮、共産圏、ヤクザ、宗教団体などの取材もタブー視されていたが、表向きでは語られない隠れたタブーこそが原発だった。原発と原発利権、原発人脈の隠された事実に触れることは、タブー中のタブーだったといえる。
 
 そういうタブー視と言論監視は逆効果になって、記者たちの間では原発はやはり危ないものだという認識を深める結果になった。
 
 マスコミと同様、大学でも研究費を潤沢にもつ推進派が権力を握って研究室を牛耳るようになり、マスコミとタイアップして原発安全性の神話を広めていった。
 
 放射能漏れが報じられた原発の海で泳いで見せた新聞記者もいた。
 
 このたびの福島原発事故報道で、一番驚いたことは、各局のコメンテーターで出てくる学者たちが、ほとんど同じことをいい、いくら放射能が漏れようと、建屋が水蒸気爆発を起こそうと、海に放射線汚染水を垂れ流そうと、オウム返しに安全を繰り返す学者の多さだった。
 
 御用学者という言葉も生まれたが、マスコミは御用学者の説明の尻にくっついて安全神話を垂れ流した。
 
 東電がばら撒いたとされる宣伝資金の分け前にあずかったマスコミ人、文化人も数多いようだ。『週刊金曜日』には東電金脈の文化人リストが載っているという。
 
 幸い、海外メディアや海外の専門家の中には正確な情報を語る良心的なジャーナリストや学者がいたから、あえてそういうところから情報を得ることで、日本で安全バイアスのかかった情報を修正することはできた。
 
 レベル7の原発事故だから、世界に影響を与えないはずはないのだが、日本政府も東電も世界のメディアが事態を注視して、刻一刻と報道していたことに無頓着だった。
 
 BBCもCNNもリビア内戦と日本原発事故を交互にヘッドラインにして報じていた。その報道の仕方はいまでも変わらない。
 
 国内ではマスコミはマスゴミ、という論調が生まれ、マスコミは信用できないという多数の国民がツイッターで発信するようになった。その様子は、独裁者に立ち向かったエジプトかチュニジアかリビア民衆と同じに見えた。
 
 原発事故は社会に革命をもたらす、とフランスの元大統領補佐官で経済学者のジャック・アタリはいっている。
 
 今、マイクロシーベルトからベクレルへと数字が兆単位で発表され、チエルノブイリとは事故の規模が違うといいながら、レベル7を認め、政府は原発施設地域への厳重な立ち入り禁止区域を設けるに至っている。
 
 家と故郷をなくし、農産物や魚介類が売れなくなった避難民や漁民、農民の苦悩はいかばかりなものかと思う。
 
 地元漁業関係者の方からメールをいただいたが、魚の数字が出るたびにびくびくしている様子が伝わってくる。数字の発表の仕方じだい、当事者の苦悩を全く考えていない。
 一言でいえば、政府関係者やリーダーたちの想像力の欠如だ。体面を繕って権力の座に居直ることが最重要課題なのだろう。
 
 風評被害、というがこれはれっきとした政治被害いがいの何物でもない。
 
 菅首相が福島の避難所を訪問した際、被災者から罵倒に近い抗議をされたが、大人しくて従順な日本人の精一杯のプロテストと、政府や保安院、東電は深刻に受け止めなければならない。
 
 しかし現地を訪ねる菅首相、東電社長の言動には事の重みを受け止める姿勢が感じられない。
 
 天皇・皇后の被災地慰問のさいの、優しく謙虚な姿勢を見習うべきだろう。
 
 保安院や東電の記者会見にしても、緊張感がなくだらだらした日常の延長みたいに見える。こうしてお茶を濁していれば給料が入ってくるから、おれたちは生活には困らない的な官僚意識が透けて見える。
 所詮彼らは当事者ではない。当事者は被災住民であり、農漁民だ。
 
 1950年代に始まった原発導入の歴史を振り返り、海洋国家の日本人なのに、海を失うことを覚悟しなければなるまい。聖域ですらあった日本人の海は、原発によって滅ぼされている。
 
 「野獣も飼いならせば家畜になる」という新聞見出しでスタートした日本の原発だったが、飼いならすことに失敗して、野獣が牙をむき出して暴走している。
 
 その暴走を完全に止める手立てはいまのところない、というのは何という空しいことか。
 
                  (記事中、敬称略)
 
以下は第147号(2011年4月8日付)からです。
 不都合な真実を見ず  
 ネット規制たくらむ政権の愚挙
 世界が震災と津波と自然の残酷さに打ちひしがれていたとき、もうひとつの人工物の未曾有の災害の連鎖に驚愕した。
 
 福島電発事故は電源の喪失による冷却の機能不全のために炉心冷却ができず、原子炉の温度があがり建屋に水蒸気が溜まって水素爆発を起こし、照射能がわずかに外部に漏れている可能性があると、東電は説明、政府も東電説明に従った。炉心圧力を減らすために、ベントという放出を行うが、安全だから心配ない、と官房長官は言明した。
 
 放射線漏れはわずかな量で、人体にも食物にも影響ない低レベルという説明に、データを持たない国民はそれを信じるしかなかった。
 
 しかしその後の無残な展開は、いまや全世界と国民の前に明らかである。マスコミに動員された御用学者たちの無理やり安全宣言もむなしく潰え去り、ついでに技術大国・日本の技術神話も崩壊した。
 
  新幹線や原発技術を世界に売り込んで不況からの脱却を目指していた日本の打撃は大きいが、自己過信と実力のギャップに、いまようやく気がつかされたというところだろう。 
 
 東電(および政府)は想定外の津波だったと補償逃れの弁明を行ってきた。テレビではあまり見ない歴史の学者が急に出てきて、今回の地震は平安朝に起こった大地震と同等の規模で1000年の一度の規模だと説明し、東電の「想定外」を支援していた。
 しかしちょっと調べるだけでも、明治29年に起こった明治三陸地震では、M8.2−8.5、38.2メートルの大津波の記録がある。1000年に一度、というのは嘘だろう。
 昭和にも三陸大地震は起こっている。
 
 日本の記者クラブメディアは、たまにはスクープもあるが、おおむね東電や保安院、官房長官の発表を垂れ流しており、放射能は漏れているが安全だ、という主張を繰り返していた。
 
 欧米諸国は日本政府や東電に頼らずに独自のデータを持っていた。米国のクリントン国務長官は日本側が公表するデータに信頼性がない、と不信感を表明した。
 ロシアも同様の見解で極東地域に隣接する国土の放射能汚染の監視を強めた。北欧諸国は独自の放射線データをインターネットに公表した。
 
 にもかかわらずデータを持たない国民は騙され続けていた。そんな国民の蒙を破ってくれたのは、海外のメディアである。
 米国のニューヨークタイムズ,ワシントン・ポスト、ABC,CNN,英国のBBC、ロイター通信、フランスのル・モンド、ドイツのシュピーゲルといった欧米の一流メディアである。
 
 中でも衝撃だったのは、ロイター通信の以下のスクープ記事だ。やや長いが以下に引用する。 
 (取材協力:Kevin Krolicki, Scott DiSavino 編集:北松克朗)(敬称略)
 「津波の影響を検討するうえで、施設と地震の想定を超える現象を評価することには大きな意味がある」。
 こんな書き出しで始まる一通の報告書がある。東京電力の原発専門家チームが、同社の福島原発施設をモデルにして日本における津波発生と原発への影響を分析、2007年7月、米フロリダ州マイアミの国際会議で発表した英文のリポートだ。
 この調査の契機になったのは、2004年のスマトラ沖地震。インドネシアとタイを襲った地震津波の被害は、日本の原発関係者の間に大きな警鐘となって広がった。
 
 とりわけ、大きな懸念があったのは東電の福島第1原発だ。40年前に建設された同施設は太平洋に面した地震地帯に立地しており、その地域は過去400年に4回(1896年、1793年、1677年、1611年)、マグニチュード8あるいはそれ以上と思われる巨大地震にさらされている。
 
 こうした歴史的なデータも踏まえて、東電の専門家チームが今後50年以内に起こりうる事象を分析。その報告には次のような可能性を示すグラフが含まれている。
 ―福島原発は1―2メートルの津波に見舞われる可能性が高い。
 ―9メートル以上の高い波がおよそ1パーセントかそれ以下の確率で押し寄せる可能性がある。
  ―13メートル以上の大津波、つまり3月11日の東日本大震災で発生した津波と同じ規模の大災害は0.1パーセントかそれ以下の確率で起こりうる。
 そして、同グラフは高さ15メートルを超す大津波が発生する可能性も示唆。リポートでは「津波の高さが設計の想定を超える可能性が依然としてありうる(we still have the possibilities that the tsunami height exceeds the determined design)」と指摘している。
 
 今回の大震災の発生を「想定外」としてきた東電の公式見解。同リポートの内容は、少なくとも2007年の時点で、同社の原発専門家チームが、福島原発に災害想定を超えた大津波が押し寄せる事態を長期的な可能性として認識していたことを示している。
 
 原発推進という利害のもとで、密接な関係を築いてきた経産省・保安院と電力会社。ともに原発の危険シナリオを厭(いと)い、「安全神話」に共存する形で、その関係は続いてきた。だが、監督官庁と業界の密接な関係は、ともすれば緊張感なき「もたれ合い」となり、相互のチェック機能は失われていく。その構図は1990年代の「金融危機」と二重写しのようでもある。
 
 
 このロイター記事を読んで衝撃を受けた。この記事は、東電内部で作られたレポートが米国で発表されたのに、東京の本社で握りつぶされていたとする詳細な調査報道である。
 
 日本のマスコミが毎日、東電、保安院、官房長官の記者会見を繰り返しながら、何一つ焦点の定まらない記事を垂れ流し続けたのと比較して、読者はどう思うだろうか。
 
 東電、政府はついに放射性物質の汚染水の海洋投棄を始めた。全世界が仰天し、国際法に違反するのではないかと、韓国から日本政府は無能、と怒りの抗議が来た。
 
 米国CNNは日本政府はよほど追いつめられている、と専門家のコメントを流した。
 
 東電と日本政府だけでは解決できないと考えたフランスからはサルコジ大統領が、急きょ、来日、フランスの核燃料公社のトップが助っ人にやってきた。
 
 トモダチ作戦で地震の被災者を救援し続けたいた米軍も原発との戦いに参戦した。米軍からも核の専門家チームが来た。
 
 しかしいまだに解決のメドはない。史上最悪の事故といわれるチエルノブイリでも10日で放射能漏れが止まった。
 
 サルコジ大統領の知恵袋といわれる元大統領補佐官のジャック・アタリ氏が、仮に日本の主権を侵害したとしても、福島原発の事故を止めるために、国際社会は介入すべきである。あらゆる”武器”を使うべきだ、と提言している。それが日本と人類を救う道だ、と。
 
 このままの状態が継続し日本が自立解決できずに放射能物質を流出し続ければ、福島原発は国際管理下の状態に移行させられるかもしれない。
 
 北朝鮮核疑惑、イラン核疑惑でわかるように、国際社会は核物質の流出にはきわめて敏感なのである。
 
 こうして国民の騙されていると感じた不安はどんどん増大し、マスコミが報道しない事実を求めて、ソーシャルメディアやツイッター、ネットに集まってきた。
 
 自分たちの健康と命が関わっているのである。  ネット上では様々なデータが交換され、ツイッターで国民の不安が書き込まれ、被災地の困窮が書き込まれた。それにより、政府、東電に対する不信感が飽和的に蓄積されていった。
 
 その挙句、政府はネットを検閲し、不都合な書き込みを削除するように、警察を通じて関係業者に要請した模様だ。ちょっと考えればわかることだが、この政府の行為はあからさまな憲法違反だ。
 
 ツイッターやフェースブックで起こされたエジプト、チュニジア、リビアの民衆革命を菅政権は恐れたのだろうか。自ら情報を閉ざし、マスコミで情報を操作したが失敗し、世界と国民を敵としたカダフィと同じ失敗を犯すのではないか。
 
 国民は神経衰弱になるほど心配している。 早く原発事故を収束させて、被災地の本格支援をしたいと国民は心から願っている。
 
 ネットやブログやツイターを規制すれば、ものごとがうまくゆくと考えている菅政権は何という狭量で浅はかな政権なのだろうか。 
 
雨にも負けズ、風にも負けズ、原発にも負けズ、、
第146号(2011年3月17日付)
 
 
3月11日昼下がり、パソコンで仕事していたとき眩暈を感じた。窓のカーテンを見ると揺れていた。テレビをつけると、地震速報テロップが流れ、東京のスタジオが大揺れの映像が出て、東北地方で大地震があった模様、との情報が伝わったあと、津波警戒情報が流れた。
 
 最初は震度7の大地震ということだった。仙台の地元放送局では大きくカメラが揺れた。現地の様子が伝わるにつれ、これは大きな地震だと感じたが、体験したとがある阪神淡路大震災ほどではあるまい。そう思っていた。
 
 これまでも津波警戒は地震のたびに流れるし、これまで警報がいうような大津波が来たこともないので、今度もそれほど大したことはないだろう、とタカをくくっていた。
 
 その津波映像を取材ヘリのテレビライブで見たとき、驚愕のあまり言葉が出なかった。
 仙台の名取川に津波のさざ波が立って川をさかのぼっている。川の水かさがどんどん増してあふれそうになるころ、土手わきから流れ込む泥を含んだ海水が、一面に広がった。
 
 綺麗に整地された川沿いの農地が流され、図面を引いたように整然と並んでいた花作りのビニールハウスが、一瞬にして泥水の中に消えた。
 泥水はインベーダーのような不気味な動きで前え前えと進んでゆく。向こう側に高台を走る道路が見えた。あの高台の道の前で津波は止まる、と思ったが勢いは衰えない。
 
 人が歩いており、車が走っている。思わずアツと叫び声あげたが、その道を泥の水はなんなく乗り上げて前へと流れてしまった。人も車も流れた。
 
 その日の夕方、自衛隊学校の卒業式で福岡に講演で来たという軍事アナリストの小川和久氏と電話で話した。津波で多数の犠牲が出ているに違いない。津波で押し流された人たちは海の方面を捜索しないと、いけない、捜索能力があるのは日本では自衛隊しかない、という話をした。
 
 この地震は阪神大震災を超える大規模な被害を出すと思ったが、その通りになった。今では一万人を超える死者・行方不明者が出ている。
 
 悲劇がまた生み出されてしまった。洪水が引いた川辺に戻り、流された家の跡で息子の名を呼び続ける若い母親の姿が、記憶に焼き付いている。
 
 被災地には食糧、水が届かない。電話も携帯も使えない。電気がなく暖もとれない。薬もない。テレビも新聞も見られない。情報が届かない。
 こんな避難所の生活の支援はマスコミは役にたたなかった。現地の市役所、警察、消防も被災している。マスコミとはそういう役所がないと報道できないメディアである。外国メディアと違い、集団で動く日本マスコミには、自力で現地に入って取材する能力はない。
 
 マスコミのかわりにツイッターやブログ、フェースブックが大いに活躍した。安否情報や救援情報では、ツイターの情報が直接、政府や自治体の救援に結びついた事例が多い。 チュニジアやエジプト、リビア革命はツイターやフェースブックから起こったが、この震災で日本でも同じことが起きた。
 
 阪神大震災でもそうだったが、黎明期のパソコンや駅や避難所に貼り出された安否情報、救援情報の書き込みが大いに役にたった。
 マスコミ取材の問題点は今回の大震災でも、16年前の阪神大震災と同じことが起きた。神戸の震災の中心はマスコミの取材車で渋滞し、緊急の車の通行を妨げていた。
 マスコミは無遠慮に被災地にヘリを飛ばして騒音をまき散らし、大きな避難所の取材で被災地を荒らしている。この苦情も阪神大震災のときと変わっていない。
 マスコミ取材は阪神大震災の教訓から何も学んでいなかったことがはっきりした。
 
 あれから16年、日本は変わらなかったが、明るさを装った個人主義、虚構にすぎない豊かな社会演出してきた。しかしこれらの生き方が心貧しい虚偽であったことにきずく。中国に経済大国2位に地位を奪われたのは当然の帰結で、何も落ち込む必要はない。
 
 悲しむべきことは、もっとほかにある。夥しい被災者、犠牲者の方々の悲しみと辛苦を共有しながら生きてゆこう。日本人はこれまでの生活レベルに固執せず、その決意をしなければならない。
 
 3.11。日本が変わった日である。
 
 福島原発事故の顛末
 
 地震・洪水だけで甚大すぎるダメージを受けていたところに、福島原発の事故が起こった。事故の経緯と顛末はテレビや新聞が詳しく報道したので、ここでは省略する。
 
 このブログを書いている段階では、自衛隊が上空から水を蒔いて原子炉の冷却を試みている。警察機動隊が放水で陸上から冷却を試みる。
 米軍無人探査機が原発上空を飛んで、火災で破壊された原子炉内部の写真を撮影している。
 
 自衛隊、警察の関係者は被曝の危険を冒しての仕事でさぞ大変な心労だと思う。彼らにとって本来の仕事ではないはずのに。
 
 では本来、この事故に対応し終息させるべき責任はどこにあるのか。地震や洪水は人為を超えた自然災害だ。しかし人為で出来た原発の事故は人為の当事者に解決責任がある。
 東電および政府が直接の当事者だ。ところが政府も東電も解決できない事故に発展したので、自衛隊、警察、米軍などのアチコチにSOSを要請しているのである。
 
 チエルノブイリ事故が起こったとき、原発関係者は日本ではあり得ない事故、と笑っていた。新聞記者でありながら原発の安全性を疑う奴は非国民というレッテルを貼られたりした。
 石油資源の乏しい日本では原発こそが救世主で、原子力の平和利用という世界平和の理念にも合致している、という理屈だ。
 原爆という核兵器へのアレルギー反応が強い日本人だが、原子力の平和利用という名の原発事業には抵抗感が弱く、外国以上に、日本には原発安全神話を受け入れる土壌が作られてきた。
 
 今回の事故を見ていると、この原発安全神話が事故に大きく影響している。炉心容器が破損したり、燃料棒がむき出しになって放射線が外に漏れているのに、テレビに出てきて、安全、安全と連呼するコメンテーターたちは、この原発神話信仰の哀れな犠牲者であろう。
 
 神話が崩壊した腹いせに、「想定外」の地震・津波だったというが、想定外という言葉を使わざるをえないほど、論理が破綻している。事故は想定外に起こるものだから、原発設計者は想定外に対する創造力が貧弱だった証拠にほかならない。
 甘いリスク管理を認可した政府、事業主体の東電は重い事故責任がある。
 
 地震のマグニチュードが7台から一気に9に変更されたことも、原発リスク管理の「想定外」を補強する数字のようだが、この数字変更だけで想定外を免責する根拠にはならないだろう。
 今度の津波クラスの津波は昭和の初期にも来ている。リアス式海岸に三陸沖は津波の名所でもある。100年に一度の十分な備えがあってしかるべきだった。
 
 事故関連の数字や事故のプロセスの情報開示が遅れたことも、政府・東電の情報隠しの疑惑を国内、海外に拡大させている。
 
 原発反対論に火が付くのを恐れてぐずぐすしているとか、米軍の協力を拒んだのは原子炉が廃炉になることを恐れたとか、いろんな理由がつけられている。
 
 チエルノブイリには絶対にならない、と豪語していた日本の原発安全神話の作り手の人たちは、「日本は利益を優先させ安全を犠牲にした」とのロシア高官のコメントをどう受け止めるのか?聞いてあげるから言ってみたらどう?
 
 進行中の原発事故がうまく終息するか、最悪の事態を招いて日本の半分がダメージを受けるのか、その瀬戸際に居る。 無事であることを祈るしかない。
 
 さらに原発事故で思うにまかせられない被災者救援を、日本政府は決して手抜きすることなくやってほしい。
 
 橋下大阪府知事は「震災疎開」を提案して、被災者の受け入れを表明している。すでに府議会の議決も経て、2000戸の住宅を用意し、着の身、着のままで来てください、と呼びかけている。子供の学校の転入も可能だそうだ。
 
 被災地は宮沢賢治の故郷である。被災地の皆さん、雨にも負けず、風にも負けず、原発にも負けず、人を助けて生き抜いてください。
 
 
以下は第145号(2011年3月4日付)からです。
マスコミの餌食になった京大 
 新手カンニングに狼狽し、大学の自治は地に落ちた
 
 京大入試の携帯カンニングで予備校生が仙台で逮捕され、飛行機で京都府警に身柄を移送される引きまわしの姿が、マスコミで中継された。未成年の受験生を晒しものにして、大学はその将来を奪った。もし試験の公正のため、というなら、今後起こり得る学内期末試験も含め、すべてのカンニング行為の刑事罰を警察の手に委ねるべきだ。もはや大学は能力を引き出す教育機関でなくなり、警察と一体化した市民監視装置になりつつある。
 
 カンニングで受験生が逮捕されるのは前代未聞だし、世界的にも類例がない事件だ。中国でもカンニングは横行しているというが、さすがに逮捕されたという話は聞かない。
 偽計業務妨害という意味不明な罪名より、世界に先駆けてカンニング罪という新しい刑事罰を京大と警察が作り上げた結果は、大学への今後の評価に確実に跳ね返るだろう。
 
 京大とマスコミなどの既成の旧体制が何に怯えてこういう血迷った挙に出たかというと、リビアやエジプト、チュニジアの革命に怯えたのではないかという推測が成り立つ。新しい情報ツールの進化によって、旧体制が汲々として維持してきた権力基盤が浸食され崩壊することを恐れたのだ。
 
 リビアのカダフイは市民が駆使するツイターやフェースブックに敗北し、外人傭兵部隊の力を借りて戦闘機による空爆を敢行し、リビア国民の殲滅をはかって一族の利権を守ろうとしている。
 
 こうしたカダフイのメンタリティは、携帯カンニングに狼狽して少年を殺人犯並みの重大犯罪人に仕立てて、マスコミを使って全国の晒し者にした日本の旧体制の精神構造と、ヒステリックで気違い染みた点で似ている。
 日本ではリビアのような武器は使えないが、マスコミは旧体制の最大の武器になっている。おそらく日本の旧体制はカダフイに同情し、反社会的なデモを殲滅して政権に復帰してくれることを望んでいるのであろう。
 そうなればいままでのリビアの石油利権も維持できる。
 
 もしも受験生が携帯を使わないでカンニングしていたら、これが発覚しても京大の受験資格がなくなるだけで終わっていただろう。彼は警察に逮捕されることもなく、他大学への入学すら出来ていたのではないか。
 
 カンニングは不正行為であることは当然だ。しかしカンニングはやらせる側にも責任がある。それほど入試が重大な行事なら、当然、携帯への注意も怠りなくすべきだった。京大にはITやネットの研究者がいるはずだから、そういう専門家の知見を仰いで万全のカンニング対策を実行しておけば、このような事件が起こるはずもなかった。
 
 京大のトップを預かる大学人たちの怠慢の結果でもある。その責任を逃れ、傷ついた権威を守るために警察の力を借りた行為は、大学人として恥ずかしくないのか。同じことを易々とやられた他の大学の責任も同様だ。
 
 京大は誇り高い大学だった。権力のバシリになったり、政府に追従することをよしとしない伝統があった。戦前は、滝川事件で軍国翼賛政府と対決し、西田幾多郎、内藤湖南、川上肇など反権力の学者を輩出した。
 戦後は、日本初のノーベル賞学者・湯川秀樹、桑原武夫、吉川幸次郎、今西錦司など世界に誇る学者を輩出した。彼らは東大ではあり得ない不世出の学者と言われた。世界に誇る傑出した学者が育ったのは、京大の型にはまらない自由奔放な学風であった。新聞記者出身の司馬遼太郎も京都学派が育てた作家だった。
 
 全共闘時代、学生たちを擁護して病に倒れた高橋和己もいた。警察に追われた全共闘の学生に対して京大は寛容だった。世間の批判を浴びながらも、むしろ大学の自治を唱えて、警察を学内に入れるのをよしとしなかった。
 当時の京大はしゃっきとしていたし、素晴らしい教授陣がいて、学問は純粋に学生に生きる勇気と希望を与えていた。難しい入試を突破して、京大で学ぶ意義もあった。しかし今はその値打ちがあるだろうか?
 
 携帯入試カンニング生をろくな学内調査や監督責任の自覚もなしに、いきなり警察の手に引き渡した京大当局関係者の研究・教育に関わる人間としての誇りはどこに消えたのだろうか。思えば大学がこのような様変わりの姿を見せ始めたのは、国立大学が独立行政法人という名前に変わったころからだろうか。金と微細な規則に汲々とする官僚主導大学へと落ちぶれたのだ。
 そのころから、昔の京大とは変質した。京大は伝統の京大とは似て非なる大学に変わった。
 
 さらにまた、このたびの事件で、京大はいたずらにマスコミの餌食になり、その権威を失墜させたことを、猛省すべきである。京大は泣いているぞ!
 
 
以下は第144号(2011年2月23日付)からです。
サラリーマンが犠牲に、ぼったくられる厚生年金
  地域主権のとんだ中身、国と地方はグルになっている
 厚生年金がぼったくられている。自民党の河野太郎さんがブログで訴えている。主張の骨子はこうだ。
 
 国民年金の納付率は下がり続ける一方だ。こうして、「財政に開いた穴は大きくなりつづける。そして、サラリーマンの厚生年金から国民年金の保険料の未納分を埋めるための拠出金がどんどんと流れ続けていく。」(河野太郎公式サイト「ぼったくられる厚生年金」2020年2月20日、参照)
 
 厚生年金ぼったくりは、給料から税金、社会保険、健康保険のすべてが天引きされるサラリーマンの危機だ。せっせと給料から天引きされている年金積み立てがぐちゃぐちゃにされているのだ。このままゆくと、年金額の建前の数字は元のままだが、実際に手元に入ってくる金がゼロになる、という時代を迎える。
 
 ぼったくる側の国はなんのかんのと屁理屈をつけて、サラリーマンの金をむしりとる手練手管に長けている。霞が関の役人たちは文章一筋の錬金術に長けており、そのための研鑽を専らとしてきた人種である。
 霞が関文法に虚飾された特殊な文章を法律と称して布告すれば、無知な国民大衆はたやすく騙されて従うからだ。
 それによって、河野さんがいうように、国民年金の未納分へと厚生年金が流れ込む仕組みが作られた。
 
 国によるぼったくりに加え、もうひとつ、地方の役所が国とグルになって厚生年金をぼったくっていることは、まったく知られていない。
 
 以下は知人から直接聞いた話である。
 知人は大阪府吹田市に住む年金暮らしの住人だ。昨年の10月から厚生年金の受取額が激減した。調べてみると、年金から住民税がごっそり引かれていた。
 
 会社を退職後、自営業になった知人は青色申告をしている。昨年度の住民税は、税務署で決まった税額通りにすでに全額支払い済みなのに、何の説明もなく年金から住民税が天引きされていた。
 びっくりして吹田市に聞くと、年金からも住民税を天引きすることが法律で決まった、という返事。決められた年金という人の財産に断りもなく手を付けるのは犯罪だ。
 
 これは税金の二重取りではないか、と怒った知人は何度か市に電話で確かめたが、その都度、相手はわけのわからない法律の文章を電話口で読むだけだった。読む本人もわかっていない。役人は気が狂ってるんじゃないか、と知人は思ったそうだ。
 
 調べると、小泉政権時代に改正年金法という悪法が誰も知らない間に国会をスルリと通過したらしい。
 
 地域主権の税源委譲とやらで、年金が人身御供になったのだ。人様の年金から好きに住民税を天引きできるようになったらしい。辞任する小泉政権の地方への嬉しいプレゼントだった、というわけである。
 
 知人によれば、10月から毎回天引きされる金額は半端な額ではない。2か月分の年金約30万円に対して、毎度課せられる住民税は約5万円。なんと年金の2割が住民税になって消えているのである。
 
 さらに驚いたことに、来年度の税額までも推定額が割り出されており、割り出された税額に基づいて、来年度の年金からも同額が自動天引きされる仕組みになっている。厚生年金住民税自動支払い機械、国と地方がグルになったATMの誕生。
 まだ今年の税金申告が済んでいないのに、来年度の住民税額が決まっている。摩訶不思議!お釈迦様でもわらないはずだが。
 
 所得の税額が決まらないのに、住民税だけが決まる。なんという人権侵害! これは住民税ではなく、奴隷制度があった古代社会の人頭税に相当すると、知人の怒りが収まらない。人頭税というのは、人間一匹生きている間中課せられる税金のことだ。
 
 そうだったのか。地域主権とは、財政に貧窮した行政が管轄下の住民から一重頭いくらに人頭税を取って、住民を搾取することだったのか。地域主権という甘い言葉に騙されたのは、不覚だった。
 
 そんな圧政による地域主権は願い下げにしたい。大阪府の橋下知事は、減税を公約した名古屋の河村市長とも意思疎通して、役所行政の無駄の削減、役人の給料カット、議員報酬の引き下げなどに取り組んでいる。
 
 おそらく橋下知事は、このような吹田市の行政の破綻ぶり、非人間性をご存知ないのだろうが、足元で起こっていることをよく見てもらいたい。
 
 行政の無駄を削れるだけ削って、一方で市民に減税を約束するのが、公僕として、志ある政治家の姿ではないか。
 
 来年の住民税をアバウトに推測して、ためらうことなく高齢者の年金に手をつける行政の血迷った浅ましい姿を、これ以上見たくはない。
 
 来年まで生きているかどうかわからない高齢者に、まだ生きている間に、前倒しして来年分の住民税も取ってしまえ、という発想はどこからきているのか。
 
 行政による住民の生存権の否定。これこそ行政の行う究極の恐怖支配、というものだろう。
 
 
以下は第143号(2011年2月14日付)からです。
和の精神とは八百長の意味でもある
 大相撲の八百長がマスコミを騒然とさせている。相撲の生中継を看板番組にしているNHKも、どうしていいかわからないという報道ぶりだ。
 元NHK相撲中継アナの杉山さんは、民放のコメンテーターの常連だが、朝青竜事件や野球賭博問題のときは、関係力士の追放で角界の立て直しを主張をしていたが、今回の八百長問題ではヒステリックに八百長力士を批判するだけだ。おそらく、解決不能なほど根が深い問題であることを自覚しているのだろう。
 
 問題がここへ至った責任は、大相撲に関与して甘い汁を吸ってきたマスコミの責任でもある。マスコミ会社のドンたちが関与してきた横綱審議会は何をしていたのか。
 
 80年代に相撲界を揺るがした、年寄株を担保にして金を借りて角界を追放された輪島のことも、マスコミはほとんど触れていない。年寄株事件は親方の座を金で買う類のスキャンダルで、大相撲の存亡にかかわる八百長の最たる問題だった。しかしこのときも『週刊文春』など週刊誌が騒いだだけで、大新聞やテレビは沈黙していた。
 
 いま起こっている八百長問題は、溜まり溜まった積年の膿が噴出しているように見える。
 
 もともと大相撲は1500年前に誕生した神事で、出演する力士は異形の人だった。神に捧げる祭事だったのだ。江戸時代に発展したが歌舞伎などと並ぶ興行だった。
 
 明治の文明開化でスポーツ文化が欧米から流入し、相撲はスポーツの要素を取り入れながらも、国技としての神事を本質とし、技の格式、品格が重視された。力士は強ければ良い、というものではなかった。
 相撲は日本の近代化に随伴して日本を象徴する国技となり、国際社会でも認められるスポーツになった。外国人力士も大勢、日本の大相撲を目指すようになった。
 
 大相撲が巨大化し、国際化するにつれ、国技の本質に存在する日本精神が邪魔になり、大きな矛盾をはらむようになったが、日本相撲協会も所轄の文部科学省もマスコミも、大相撲を内包する矛盾を覆い隠し続けた。
 
 国技であり、神事でもある大相撲の勝負にも型がある。立ち合いからの勝ち方、負け方も神事の要素なのである。勝負は儀式であり、技は様式である。
 
 神のみが知る。そういう勝負の在り方は、力技とは異なる神秘の世界に属する。そこに人知を超えた八百長が生まれる素地がある。
 
 聖徳太子が唱えた「和の精神」は日本精神の神髄だが、これは相撲の在り方や様式に似ている。相撲の勝負は争うものでなく、和の心の内に存在しなければならないのだ。
 
 八百長が悪、というなら和の精神も悪、ということになる。同じことを表から見るか、裏から見るかでとらえ方は違う。
 阿吽の呼吸で勝負が一瞬のうちに決まる相撲だから、八百長があっても素人には見抜けない。
 
 今回の八百長事件のキーワードは携帯という新しいツールが使われたことだ。どうして携帯メールで八百長がバレたかというと、野球賭博事件で警察が押収した力士の携帯電話のメールに、そういうやりとりがあったことを、警察がマスコミにリークしたからだ。
 
 力士の八百長勝負そのものは賭博ではなく、犯罪ではないので、携帯メールの本人同意なしの暴露は、個人情報保護や通信の秘密に対する侵害で法令違反になるはずだが、メールをリークされたマスコミはこの問題には一切、触れることはなく、報道している。
 
 がんらい原則を無視した報道は成り立たないのだが、これが成り立っているいまの日本そのものが原則なき八百長社会ということになる。警察のリークを勝手に垂れ流し、それを大目に見ている者たちや国民多数も、もっと大きな野合と八百長を支持している。
 
 話は飛ぶが、米国の一連のトヨタ欠陥車バッシングで、世界第3位だったトヨタが今では400位以下に落ちた。しかし米国政府はトヨタの電子制御に欠陥はなかった、という報告書を今ごろになって公表した。
 
 時すでに遅し。90年代不況下の日本はトヨタで持つ、と言われたそのトヨタがこけた。トヨタの町名古屋は、今では火の消えたようになっているという。おそらく、河村・大村氏の首長選挙勝利も、トヨタ叩きによって、名古屋が沈んだ」からではないか。
 
 トヨタに限らず、日米、日欧ではしばしば経済摩擦が起こり、その都度、日本の有力企業や日本政府やマスコミがバッシングされてきた。
 
 そのバッシングの中身は、いろいろ細かい話や尾ひれはついているが、要するに日本は八百長社会であり、すべての事柄が八百長参加のメンバーで決定されるので、あずからない部外者は蚊帳の外に置かれている、というものだった。
 八百長精神こそ、日本の不公正のシンボルである、ということだったのだ。
 
 大相撲が暴露した八百長事件は、マスコミが騒ぐ以上に、根が深い。本当に大相撲を国技というなら、なぜ外人力士に依存しているのだ。日本人の新弟子入門者はほとんどいないではないか。
 材供給源がなくて、どうして国技なんだ。いろんな疑問がある。
 国技を廃止し、相撲レスリングとして、格闘技のスポーツとしてさらに外国人に広く門戸を開いてサバイバルする手はあろう。現代のグローバル時代に相撲が生き残るにはそれしかないかもしれない。
 
 それが嫌なら、育った文化が違う外国人力士は締め出し、新弟子には携帯電話もパソコンも禁止して相撲道教育を徹底させ、古来、相撲が伝えて来た様式や技を後世に伝承する純粋な国技としての相撲に戻るしかない。
 
 この両方を同時に望むのは、身の程知らずの欲張りというほかない。
 
読まれた方は以下のブログランキングをクリックしてください。
http://blog.with2.net/link.php?1160984 
 
 
以下は第142号(2011年2月5日付)からです。
ツイッター革命が広がる中東
日本人は可哀そうなほどバカと悪口いわれてるようだけど
 チュニジアに端を発した北アフリカの動乱は、エジプトからイエメン、サウジアラビアなど中東各国に広がっている。
 独裁者を追放したチュニジア革命に火をつけたのは、ツイッターという新しいメディアだった。
 
 社会の変革の時にはいつも新しいメディアが同伴している。18世紀ヨーロッパの市民革命のときは、イギリスのパブから出て来た活字の新聞が活躍し、フランス革命、アメリカ独立革命のツールになった。
 パブ(PUB)は、公共性(Pubilic)の語源になった。
 
 20世紀、テレビが台頭した時期、米国が苦しんだマッカーシズムや悪徳政治が追放され、テレビは情報開示を広めて大衆民主主義のためのツールになった。
 
 時代は進み、誰でも世界に発信できるツイッターは、米国初の黒人大統領のオバマ氏を生む原動力となり、閉塞する米国社会のチエンジをもたらした。
 
 そして今、ツイッターやフェースブックが、独裁政治と貧困にあえぐ北アフリカの民衆の蜂起のツールとなった。
 
 世の中の変化は新しいメディア・ツールと共にもたらされるというのは、歴史の真実だ。
 
 われわれはこれに敏感でないと、世界から取り残される。エジプトなんて遠い国、と日本人は考え、そんなところの政変なんてどうでもいい、と思っているだろうが、いざ中東戦争が勃発すれば、石油の一滴も入ってこなくなる。そうなると日本経済は、明日から立ち行かなくなる。日本人も飢える。
 
 政治家や政府はこの目前のリスクを管理する義務があるが、自覚はなく、相変わらずの政治と金とか小沢氏の追放や内輪もめに血道をあげている。官僚たちは既得権益にしがみつき、小沢氏を追放し、消費税を上げれば財政難は何とかなる、という馬鹿馬鹿しい妄想に取りつかれている。
 いままで国民から絞りとってきた税金の使途はどうなってるのだ?
 
 ところが、これに見合う国民意識はどうかというと、たまにエジプト観光に出かけた中年のおばちゃんが、動乱に会い、空港に足止めされて「お土産も買えなかった」と嘆く姿が国際報道される。せっかく現地で大ニュースを目撃したというのに、それを観察しようともせず、お土産のことしか目に入らないのだ。すべて人任せ。おいしいものを食べ、みやげを買えばそれでいい。
 
 こんな日本人の姿をまじかに見ている外国人は、日本人のことを、可愛そうなほどバカ、と陰口をたたいているそうだ。日本人は自分たちの過去や歴史を知らず、国際社会のことも知らない。関心もない。
 
 日本人と議論しようとしても、あまりに知識がなさすぎて、議論のベースができず、議論すらできない、ということだ。
 
 国家とは、その国民のレベルに見合う政治や文化のレベルしか得られない、というのは真実で、いまの日本ではこの現実がふさわしいのかもしれない。
 人材のいない日本はどんどん貧乏になり、やがて破産するのを心待ちにして、円のフェッジファンド作りに余念のないウオールストリートやシティの金融マンが手ぐすねひいているが、これもいた仕方ないだろう。
 
 心配なのは、若者の元気もなくなっている点だ。ハーバード大学の人気授業のサンデル教授の1000人授業の日本人受講生はたった一人、という現実も、いまの日本の若者のチャレンジ精神のなさ、の現われだ。
 
 韓国、中国の留学生はゴマンといて、積極的に参加しているというのに。しかし日本の若者たちは一方で就職氷河期にあえでいる。海外留学などしていれば、金を使うだけでなく、将来に響く。
 なぜなら、日本では海外留学経験のキャリアは評価されないだけでなく、なまじ生意気になって帰国するので、マイナス要因にもなりかねない。
 
 若者の閉塞と元気のなさ、内向き精神を作ったのは、大人社会である。
 大人も若者も自分のことだけを考えている。そしていま手にしている小さな現実を失うまいと、必死になってしがみついているのである。
 
 「外はどんなに嵐でも、頭の上はいつも青空」というフレーズは、新井満さんの小説に出て来る、知恵遅れの少女がつぶやく言葉だ。
 この言葉はいまの日本人の精神と立ち位置をうまく表していると思う。
 
以下は第141号(2011年1月24日付)からです。
松下政経塾出身の政治家にいいたい
若者の就職難を解決し、世の中に活力を与えよ
 
 現代日本から、ビル・ゲーツ氏やフェースブックのマーク・ザッカーバー氏のようなダイナミックな発明家・経営の”神様”は、なぜ出てこないのだろうか?  
 
 90年代のバブル崩壊後には、ホリエモンや村上ファンドのような金融商売に長けた人物は出たが、当局に目を付けられてあえなく御用となり世の中から葬り去られてしまった。以降、外食産業とか量販店、質屋、パチンコ店の類からは、富を蓄えた人物は出たものの、日本経済を救うような若者の”神様”は出ていない。
 
 そのせいかどうか、日本では普通の人よりカネを稼ぐ人物はいかがわしい奴、という社会通念もできつつある。 テレビに出る芸能人やコメンテーターたちが、善人ぶっていくら発言しても、不当に高いギャラを取っているのが世間に知れ渡っているので、視聴者はいかがわしい輩、と思うのである。
 
 それはさておき、テレビが大好きな日本の経営の神様の筆頭、といえば松下幸之助氏であろう。今朝のテレ朝スーパーモーニングでも、昭和からのメッセージとして、取り上げていた。
 松下さんが偉いのはわかるし、その功績も半端なものではない。世界の電化に貢献した偉人だが、その影響力が現代もあまりにも大きすぎて、何かあれば、松下さんを引き合いに出して神格化することで、納得してしまうようなところがある。  
 
 民主党政権の中枢を担う政治家を輩出している松下政経塾の創始者でもあるが、それなのに、松下政経塾がどんな教育システムを持ち、どのような教授が教え、どのようにして人材育成をしてきたか、当事者ではない私たちにはよくわからない。
 私たちが理解しているのは、彼らが松下政経塾出身、という肩書だけである。それだけで日本中が納得するのだから、松下幸之助さんがいかに優れた経営者だったかがわかる、といもいえるが、権威化と神格化の賜物、ともいえるだろう。実際、個々の政治家がどれほどの政治的能力を持っているかは、まだまだ未知数なのである。
 
 松下幸之助さんは、米国でいえば、エジソンのような人物だろう。エジソンは発明家だっただけでなく、GEという巨大企業を作った経営の神様でもある。  エジソンは優れた経営者だが、米国のテレビがやたらにエジソンを神格化する番組を作る話など、聞いたことはない。エジソン後にも、フォードがいたし、ライト兄弟もいたし、発明家や人材はいくらでも輩出している。 
 
 90年代の米国の神様は、ビル・ゲーツ氏だったし、現代の神様は4兆円市場を作ったフェースブックの若者である。 
 
 米国だけでなく、中国、インド、そして世界中に現代の松下幸之助はいっぱい輩出している。  テレビ番組が松下さんを回顧して神格化するのは自由だが、それしかネタがないところが引っかかる。にしても、いくら捜しても見つからないので、やはり松下幸之助さんへ戻らざるを得ないのだろう。  
 しかし、いくら何でも松下さん個人の人格、哲学に頼り過ぎているのではないか?経済だけでなく、政治まで松下さん任せ、という感じになってきている。これは世の中にとって正しいことだろうか?
 
 NHKニュースでも特集していたが、衰退する日本、「ジャパンシンドローム」を回避するには、若者を励まし、若者の活力とエネルギーをどう引き出すか、が喫緊の課題だ。
 
 元気がない若者を襲っている就職難ひとつ、解決の目途はない。大企業だけが企業ではない、と大人は説教するが、そういう大人が、一方ではいい大学に入れ、一流企業に就職しろ、とけしかけている。
 
 しかし名も知らぬ中小企業に入って、騙されたと感じて辞める若者も後を絶たない。 
 
 乱世だから、信用ができない企業も増えている。下手をすれば潰れたり、社員を犯罪に巻き込む企業だってある。若者が大事をとって大企業を選ぶ気持ちはよくわかる。
 
 松下政経塾出身の偉い方々にいいたい。松下さんの最も偉いところは、会社がいくら苦しくても従業員を解雇せず、会社は人である、という哲学を守り抜いた点だ。
 従業員の信頼が篤かったので、GHQ占領下に公職追放された時には、松下電器の労働組合に助けられて、追放は解除さた。
 
 人を助ければ、助けられる。 これが世の中の道理だ。
 
 松下政経塾の偉い方々は、松下精神を生かして、高校生、大学生の就職難をまず解決して欲しい。
 さらには職を奪われた派遣社員等の復帰に全力を挙げてもらいたい。
 増税とか財政再建にうつつを抜かすのは、その後にやればいいことではないか。
 
 経済学の神様、福沢諭吉は、経済学は人を救う学問だ(経世済民)、といっている。政治も同じことではないか。国民を苦しめるために政治を為しているのではないはずだ。                        
 
以下は第140号(2011年1月14日)からです。
これは政党政治の終焉ではないか
菅内閣の改造人事と憲政上の危機
 菅内閣の改造人事を見て、驚きを通り越した憲政上の危機を感じた。仮にも日本は二大政党政治の時代に入り、政権交代も実現した。やっとこれで先進民主主義国家の仲間入りしたという甘い気分はとっくに粉砕されてはいたものの、正月明けの頃には一抹の期待はあった。
 ところが総理就任で有頂天になった菅さんは、取り巻きの財務官僚に踊らされたのか、唐突に消費税アップだのTTP加盟だのと思いつき発言の山を作り始めた。
 昨年の参院選や地方選挙では敗者の屍累々になったが、しかしそのうちに政権交代の意味や国民と契約したマニフェストの重みを理解するようになるのだろうと考えていた。民主党が政権交代できたのは、国民の付託を受けたからだということを、市民運動家だった菅さんがわからないはずはない。官僚に恩返しするのでなく、まずもって一票を投じた国民に恩返しするのだろうと、固く信じていた。
 ところが違った。筋金入りの財政再建派で市場原理主義に近い与謝野氏を財務大臣に起用したからだ。小泉時代の自民党なら適当な人選ではあろうが、民主党の理念とはおよそかけ離れた人物ではないか。
 しかしどうやら菅さんは、民主党とは真逆の与謝野さんの経済政策を採用しようとしているらしい。
 政党政治のイロハに戻れば、同じ政策理念や政治思想・哲学を持った人間が集まって党派を作り、選挙で立法府の議員に選ばれた多数派が政府を構成して政治活動を行うことをいう。
 政策や理念を同じくすることが、政党政治を担う政治家の第一条件だということは、中学生でも理解できる政治論だ。
 ところが菅さんは、政策・思想が真逆とも見える与謝野さんを政権内に招き入れたということは、自ら政党政治の根拠を否定したことになる、と国民の誰もが思うことだ。そう思っていないのは、菅さん自身と少数の取り巻きの方々だけだろう。権力基盤さえ維持できれば、なんでもあり、というわけにはゆかないのだ。世の中とはそういうものである。それでは権力の亡者になってしまう。
 
 日本の憲政を考える上で、この問題はさらに重大だ。明治時代に立憲政治が日本でも曲がりなりにもスタートし、大正デモクラシーの曲折を経て、政友会、民政党という二大政党政治が生まれた。
 しかし戦前の政党政治は、昭和に入ってから2.26事件、5.15事件などの軍部青年将校によるクーデターで消滅した。浜口雄幸が暗殺され、このときほど日本の憲政がテロに怯えて空虚な存在になったことはない。
 敗戦後、軍国主義やテロはなくなり、民主主義政治が実現したものの、自民党一党支配が半世紀以上も続き、二大政党政治が機能したわけではない。日本の憲政は片肺飛行の閉そく状態が続いた。同じアジアでも韓国、台湾などが日本より一足先に、民主主義の政権交代を果たした。
 欧米の外国人ジャーナリストたちは、日本に政権交代がないのは、正常な民主主義国家ではからだ、と内心、馬鹿にしていた。
 今回の民主党の政権交代はやっとの思いで実現したものだ。それなのに小沢氏の政治とカネ、小沢派追放などの内紛に明け暮れて、マトモな政策のひとつも実現してはいない。
 子供手当という名のバラマキ政治が行われたり、事業仕分という名の財政緊縮パフォーマンスがマスコミを賑わせただけのことだった。
 
 打つ手をなくした菅さんは与謝野氏を招き入れて民主党の政策とは真逆の増税路線を突っ走ろうとしている。自由化、規制緩和は必ずしも悪いことではないが、現状では、日本の農業を壊滅させかねないTPPをごり押ししようとしている。
 
 つまるところ、政党政治家だった菅さんは、与謝野氏と組むことで政党政治を否定している。戦前は軍部青年将校が行ったと同じような政党政治の圧殺に政治家自身が手を貸し始めている。
 
 日本の憲政上の危機、というゆえんである。
 
以下は第139号(2011年1月1日付)からです。
希望なき新年の幕開け
 一年前にはまだ希望があった。鳩山首相の国連演説でCO2削減案を発表した時は、国内からは批判が出たが、国際的な喝采を浴びた。問題は山積するものの政権交代は成功し、日本は自民党時代よりは良くなるだろうと国民は大きな期待を持った。
 
 しかし蜜月期間はほんのわずかでしかなかった。「政治とカネ」のマスコミ報道である。小沢氏の陸山会事件をめぐり国会議員や秘書が逮捕され、鳩山氏も母親からの高額資金提供が問題になり、その都度、マスコミと検察庁が前に出てきて政治を仕切り始めた。
 
 マニフェストを破って、普天間移設を辺野古案に戻した鳩山首相はマスコミと国民の糾弾を浴びて退陣した。
 
 代わった菅政権は失言と迷走を繰り返している。国民本位の実のある政治を実行しているとはだれも思ってはいない。我慾優先政治がはびこっている。官僚政治は自民党時代より悪化している。菅内閣の支持率は最低レベルに落ちているが、低迷の理由は小沢氏の政治とカネにある、と責任を小沢氏になすりつけている。
 
 予算がやっと通ったかと思えば、その影で、国民総背番号制度、老人年金の減額、ネット規制の法案、などの悪法が着々と進行している。
 
 国際的には尖閣をめぐる中国との関係悪化、ロシアによる北方領土の占領固定化、北朝鮮拉致問題の無策化など。
 
 大学生の就職氷河期、景気の悪化、円高進行は止まらず、中小企業の倒産は続く。大学4年生のゼミが今のじきになっても、就職内定者はチラホラ、というところが多い。かつては完全雇用を誇った日本システムはどうなってしまったのか?
 
 政治が混迷していてもせめてジャーナリズムが堅固なら、救いはある。かつてのベトナム戦争で疲弊していた米国では、新聞報道がベトナム戦争を止める契機を作り、米国の国益を守った。
 日本の新聞記者も西側記者が入れなかった北ベトナムのハノイに入り、さまざまな政治的圧力と闘いながら、「この戦争は不正義な戦争だ」とする報道を続けた。
 
 しかしいまの既成マスコミにはその気迫はない。フリーの戦場カメラマンが持て囃され、テレビタレント化している時代である。
 
 記者クラブにへばりついて発表ネタに頼り、官庁発表をそのまま垂れ流す日本のジャーナリズムは死んだ、と言わざるを得ない。
 
 とはいえ、厚労省の村木さんの冤罪事件を地道な調査報道で検証し、検事の証拠改竄だったことを突き止め、スクープした朝日新聞大阪社会部の板橋記者のような若手がいることが、いまの日本の唯一の救いではある。
 
以下は第136号(2010年12月17日付)からです。
 いつまでやるのか、政治とカネ
 マスコミも狂っている?
 尖閣や朝鮮半島危機で少し鳴りを静めていたが、またゾロ始まった小沢氏の政治とカネ。政界もマスコミもネタがなくなり、閑になると出て来る問題のようだ。
 小沢氏の政治資金疑惑は何かあるのだろうが、どこにどのような巨大疑惑が潜んでいるのか、素人にはわかりにくい。その気になって新聞を読んでわかったつもりになっても、いざ他人に説明するとなるとうまくいえない。
 新聞記者をしていた私も、政治記者の友人からこの種の問題は耳にタコのできるほど聞かされていた。
 古くは戦後直後のインドネシア賠償金、韓国への戦争賠償金支払いなどにまつわる政治家の汚職、賄賂、経済界との癒着、田中角栄の金脈事件、金丸事件、さらに田中・金丸の金権政治を引き継ぐ竹下派、そして田中・金丸の直弟子の小沢氏へと疑惑の本流が続いているという説明だ。
 なるほど、戦後保守政治の政治資金疑惑の灰色の流れは図式的には理解できるが、昔のように目前で札束が乱れ飛ぶ時代ではない。
 今回の民主・自民大連立の仕掛け人である読売グループ最高幹部・渡辺恒雄氏の自伝的著書には、自民党総裁選などで札束が乱れ飛ぶ様子が生々しく描かれている。
 ところが、当の小沢氏は自身は潔白を主張し、疑惑は政治資金規正法上の帳簿の問題になっている。その帳簿のつじつま合わせ、整合性が細部で争われている。それが小沢問題の本質である。
 会計帳簿の問題点が素人にはわかりにくいのはいうまでもないが、それ以上に、カネのかかる政治家にはつきもののことだ。多かれ少なかれ、なにがしかの政治資金問題を。与野党を問わず、どの政治家も密かにかかえているはずだ。全政治家の資金問題が白日のもとにさらされたら、日本政治はマヒするだろう。
 小沢氏が本当に巨悪を隠ぺいしている政治家だというのなら、彼を非難する与野党政治家はその明白な証拠を出すべきだし、小沢氏を口汚くののしるテレビ局や新聞記者もその証拠をしっかり調査報道すべきである。
 残念ながら、検察審査会の強制起訴にしても説得力のある起訴にはなっていない。第一、検察審査会の議決の決定プロセスすらベールに包まれて、国民にはよくわからないのだ。新聞が「市民の勝利」といくら感情的にエキサイティングした報道をしても、国民は冷めて見ている。
 
 国民が望んでいるのは政治とカネの追及ではない。
 景気をどうする?「太った敗者」などと蔑まれた日本を国際的にどう浮上させる?極東の安全保障は大丈夫なのか?就職氷河期の学生をどう救う?年金不正はどうなっている?消費税を上げて何に使うのだ?官僚に握られた政治をどう矯正するのだ?
 などなど。近代国家の政府の役割は「主権者たる国民の生命と財産、安全を守るためにある」といったアダム・スミスの原点に戻ることではないか。
 格差が広がる世の中に対して、「天は人の上に人を作らず、人の下にも人を作らず」といった明治維新の福沢諭吉の精神に戻るべきなのではないか。
  政治もマスコミも国民の現実からあまりにかけ離れた「政治とカネと小沢問題」に税金とエネルギーを費やし過ぎている。それをすることにどんな利害関係があるのか、そこをこそ知りたいものだ。
 
以下は第135号(2010年11月28日付)からです。
平和ボケ・ニッポン考
休戦ラインも国連軍基地も知らず
尖閣紛争とビデオ流出で大騒ぎしたマスコミだが、今昔の感がある。
 いまは北朝鮮の延坪島砲撃で朝鮮戦争の危機がにわかに浮上している。テレビレポーターたちがしきりに延坪島へ取材旅行して戦場気分を味わっているが、この島が「朝鮮半島の尖閣」になっているとの分析報道はない。
 かつてのベトナム、カンボジアのように東アジアが世界で最も危険な火薬庫になりつつある現実分析が欠如している。
 
 金日成政権の時代に北朝鮮を取材したことがあるが、米韓合同軍事演習のさなかだった。軍事境界線に案内され北側から板門店の「自由の家」を見たときも、砲撃の音があたりに轟いて地響きが鳴っていた。
 
 南北境界線の38度線は「休戦ライン」にすぎず、いつでも戦闘が再開される危険なラインであることを実感したものだ。
 
 とはいうものの軍事的衝突はあったが民間人を巻き込む実戦が勃発したのは、朝鮮戦争後半世紀以上も経て初めてのことだ。
 
 長い時間経過もあり、日本人は「休戦ライン」の存在を忘れただけでなく、国連軍の基地が日本にもあることをも忘れていた。いざ、戦争再開となれば、国連軍の基地から空爆機が飛び立ち、日本の港湾から戦場へ向けて米軍の空母が出港し、近海にイージス艦が展開する。
 
 好む好まざるにかかわらず、日本は朝鮮戦争に巻き込まれる仕組みになっている。
 
 マスコミ報道はそういう日本の現実をほとんど伝えることはなく、いたずらに北朝鮮脅威を煽りたて、許しがたい暴挙だと、非難している。日本人拉致をはじめ許しがたい暴挙の数々を繰り返してきた北朝鮮をいまさら感情的に非難罵倒しても、何の役にも立たないことがわかっていない。
 相手が反省してやめるとでも思っているのだろうか。日本のマスコミを恐れているのは弱者の日本国民だけだ。北朝鮮にも中国にもアメリカにさえ、足元を見透かされた日本のマスコミの遠吠え論調が届くことはない。
 
 この事件に対する中国の影響力の大きさに気付いたマスコミは、あれほど非難していた尖閣問題をまったく報じなくなった。お祭り騒ぎだった海保職員のビデオ流出もなかったかのようになっている。犯人の職員がCNNに持ち込んで廃棄されたという”屈辱”の物語もほとんど報道されることはない。
 
 それはさておき、平和ボケ日本としていま何をすべきか。
 韓国には徴兵制があり、戦争が始まれば戦地にゆかなくてはならない、という韓国若者の苦悩の声が聞こえてくる。
 一方、平和な日本では大学生の就活の苦労や就職氷河期の悲惨が伝えられる。しかしいくら氷河期でも戦地で生死を賭けなけらばならない韓国の若者に比べれば、天地の差がある。
 
 しかしそろそろ考えておかなければならない重大な問題が、平和ボケ日本にも出て来るだろう。
 
 沖縄基地移設などの世論で、日本の米国離れに伴う自主防衛の問題だ。長らく米国の軍事力に依存してきた戦後日本だが、こうした形の依存型軍事同盟は早晩、行き詰まるだろうし、げんに行き詰まっている。
 この行き詰まりが虚構の「平和ボケ」を生んでいる。
 
 日本に何ができるか、が問われてくる。米国に「思いやり予算」とか「基地提供」とか、金とモノだけ出しておけばいいという話でもなくなる。
 しかし米国も日本の基地がなくなると、世界展開の軍事戦略が成り立たなくなるので、一方的な関係ではないが、防衛力の兵員問題は最重要になる。
 
 かりに日本が米国から離れて完璧な自主防衛するとすれば、100万人兵力が必要とされる。現在の自衛隊数は約20万。残りの80万をどう補てんするか、大きな課題が残るのだ。
 
 韓国で徴兵制があるように、日本でも徴兵制が議論される日が遠くはないのではないか。そうなれば平和ボケの虚構も一挙に吹っ飛ぶだろう。
 
 大学生の就職氷河期がこれ以上続くと、隠れていた徴兵制の論議が頭をもたげて出て来る可能性が高い。企業が4年の新卒以外は採用しなくなるような制度を作れば、徴兵がやりやすくなる。
 
 日米同盟の再構築の仕方によっては、徴兵制を回避する方法があると思うが、現状の日本政府・官僚の危機管理能力の低さを見ていると、とても難問を解決できる力量はないだろう。
 
 無責任な政治家、政府、官僚がみな自分本位の「平和ボケ」の虚構をエンジョイしてしまっている。日本国民はそのツケを回されて、早晩、苦しむ羽目になろう。基地移設問題でで苦しむ沖縄民衆がその良い見本だ。
 
 とりあえず、徴兵制の足音が日本にも迫りつつあると若者たちに警告し、自分たちの未来は自分たちで開け、といっておきたい
 
以下は第134号(2010年11月12日付)からです。
尖閣ビデオ流出と2.26事件
シビリアンコントロールが崩壊する
 神戸海保の中堅職員が尖閣ビデオを無断でネットに投稿し、全世界に向けて発信した。テレビコメンテーターの中には「よくやった」と擁護する声があり、職員をバックアップする世論も少なくない。
 また立花隆氏がNHKテレビで、「情報化時代の産物でさけられない事態だ。国民は皆、自分で放送局ができる時代になった」と発言したが、この見かたも一面的でしかなく、シビリアンコントロールの危機の問題を見過ごしている。
 
 立花氏だけでなく、この問題の処理に関して菅内閣・政府もマスコミも世論も見当違いの論議が多すぎるので、ここで一言しておく。
 この事件はそう軽い事件ではなく、上述したように軍事組織に対するシビリアンコントロールの深刻な危機を内包している。
 「国民の知る権利」に名を借りた、民主主義の危機とでもいえよう。一歩間違うと戦前の2・26事件の青年将校の決起のような、反乱に至る危険がある。
 
 民主的な手続きを経て生まれた菅内閣の正当性を否定し、自らの正義感でネット反乱を起こした海保職員の義憤は、2・26事件の下級青年将校の感情に通底するものがあるからだ。
 
 尖閣ビデオをネットに流した神戸海保職員は事前(出頭前かネット投稿前かは不明)に読売テレビ(大阪)の社員にコンタクトしているが、海保職員がなぜ読売テレビに接触したのか、両者の関係がわからない。マスコミ関係者の間でも様々な憶測が流れているので、読売テレビは説明責任を果たすべきだ。
 
 いまのところマスコミの最大の論点は、流出ビデオが「秘密」情報なのか、「秘密」の解釈をめぐる問題になっている。最高裁判例などを持ち出して、「秘密にあたる」「当たらない」などと騒いでいる。しかしこれは全く方向性を見失った見当違いの論議でしかない。
 
 「海保」というとイメージがつかみにくいが、警察と違って国内治安を司る以上に、外国船、不審船、外国密輸組織などと対峙し、武器を携行して戦闘能力を持つ準軍事組織だ。北朝鮮不審船を撃沈するなど、敵と銃撃戦をする場合もある。
 「海保」を英語で言うとJAPAN COAST GUARD「沿岸警備艇」となる。米国では、沿岸警備隊を陸・海・空・海兵隊に次ぐ第5の軍隊としている。どの国でも「沿岸警備隊」は軍隊に準じる組織なのだ。
 したがって海保は自衛隊に準ずる軍事組織なのに、この認識が政府にもマスコミにも世論にもない。
 
 尖閣ビデオは国際的・対外的には、軍事機密・外交機密にあたるという認識が国内には全くなく、平和ボケそのものの議論が平和な日本列島を覆いつくす羽目になってしまった。無残な事態である。
 
 マスコミも世論も、海保職員は準軍事組織に属している以上、上官の命令に反する行動をとれば処罰されるのは当然、という当たり前の論理を導きだすことができない。代わりに幼稚すぎる感情論が大手を振ってまかり通っている。
 読売テレビが伝えるように、海保職員は義憤に駆られてやったとか、国民の知る権利のために独断でビデオを流したとすれば、準軍事組織に属する神戸海保職員は「利敵行為」という重大な軍法違反を犯したことになるのだ。
 
 菅総理を支持する、支持しないの論議とは無関係に、現実の自衛隊の最高司令官は菅総理であり、シビリアンコントロールを旨とする民主主義国家の建前でいえば、尖閣ビデオが国家機密・軍事機密かどうかを決めるのは、菅総理の専権事項である。
 
 この点をわきまえず、法曹、警察、司法のあちこちの人物がテレビにしゃしゃり出てきて、ビデオを非公開にした政府が悪い、ビデオ流出は良かった、と海保職員の決起に同情する床屋談義を繰り返している。国民世論もテレビに引きずられて、約80%が海保職員を処罰すべきでない、という意見に落ち着いているそうだ。
 しかしこれは間違った感情論に流れている。
 
 大恐慌と不況に見舞われていた2・26事件のときも、政党政治を否定し、軍部独裁政治を歓迎する世論が、2・26の青年将校の決起を後押ししていた。以降、シビリアンコントロールを失った軍が台頭、ファシズムと戦争への道を歩んだことは、歴史が証明している。
 
 準軍事組織である海保職員の尖閣ビデオ流出事件は、ネットとユーチューブという現代情報戦争の先端ツールを使ったという点で社会に与える影響は大きい。
 
 ”ア菅内閣”と揶揄され政府の能力に対する期待感は低いが、現代日本で唯一の正当性のある政権なのである。
 シビリアンコントロールを失って、海保職員の行動を是認するだけでなく、英雄視する世論の風潮が出てこないように、尖閣ビデオ流出に対しては厳正な判断をせよ、といいたい。
 
 2・26事件は昭和天皇の言葉で鎮圧されたが、菅内閣はどのようにしてシビリアンコントロールを保持するつもりか。
 このままマスコミ世論とともに日本が流れてゆけば、戦前よりももっと酷く拙劣な形態の日中戦争、日露戦争への道を歩むことになりかねない。
 
以下は第133号(2010年10月25日付)からです。
尖閣と満洲事変
人生よりは長い歴史のスパンを忘却するな
 
 立入禁止区域を密偵していた陸軍参謀一行が張学良配下の関玉衛の指揮する屯墾軍で拘束殺害される中村大尉事件が起こった。中国側は日本の陰謀と主張、日本内地の世論は中国の非道を糾弾し日中衝突の危機が高まった。
 この事件は、タイムトンネルを約100年前に戻ったかのようで、尖閣事件の後の日本の会社員3人がスパイ容疑で中国当局に拘束された事件に類似している。
 人の人生のスパンよりは歴史のスパンのほうが遥かに長い。しかも歴史は繰り返す。100年前の歴史はそれほど昔の出来事とはいえない。
 
 張作霖爆殺事件を契機に日本は満州国建国へと突き進み、今から92年前の1918年9月18日、満州事変の発端になった柳条湖事件が起こった。奉天近郊の鉄道爆破の柳条湖事件を仕掛けたのは、日本の関東軍だった。これを機に関東軍は一気に満州国建国へと動く。
 柳条湖事件から4日後、日本は国際世論の非難をかわすために、満州を領土化せず、清朝のラストエンペラー・溥儀を満州国皇帝に擁立し、傀儡政権を樹立した。これが満州事変である。
 清朝が倒れたあと、天津の寓居にこもっていた溥儀が、関東軍の甘粕大尉の誘導で深夜密かに天津を出たのは、1918年11月10日のことだった。華麗な女スパイ・川島芳子が活躍したのはこのころだ。
 
 奉天は現在の中国内陸部、遼寧省にある。尖閣事件のあと、しきりに反日デモが繰り返されているエリアに近い。
 一連の反日デモについて、日本のメディアは中国当局や軍強硬派が背後でデモを操っているとか、反日を演出することで中国政府への批判をかわす狙いがある、などの報道を行っている。
 そういう憶測がまったく見当はずれではないにしても、反日デモ仕掛け説、陰謀説は事態の本質を見ていない。
 
 中国内陸部には、経済発展だけで生きる沿海部の上海などと異なる大きな歴史的要因があることを忘れてはならない。中国内陸部はいまだに関東軍の100年前の歴史を引きずっている。
 
 一昨年、天津を旅したとき、周恩来が卒業した南開大学を訪ねた。近代的な校舎が並ぶ立派な大学構内に、周恩来記念館があった。周恩来は日中国交回復の立役者であり、戦前には京大などに留学していた親日家である。
 田中角栄首相(当時)に対して、戦争賠償金を払わせると日本が困るだろうといったことでも知られる。
 いま吹き出している尖閣問題を、国交回復交渉では棚上げしようと言い出した人物でもある。
 しかし周恩来記念館の展示の一部を見てびっくりした。周恩来の指示で展示したのかどうかは不明だが、日本帝国主義下の中国というコーナーがあり、日本軍が行った残虐行為の数々が、モノクロ写真が展示されていた。日本人の私も知らない光景が写っていた。
 周恩来は中国の偉人だから、全土からバスを連ねて小中高の子供たちが遠足でここへやってくる。
 記念館ではしゃぎ、大声で話していた子供たちの声がこれらの写真の前でピタリと止まる。固唾を呑んで写真に見いっている。
 日本人として恥ずかしい、との思いでいたたまれなくなったが、これが歴史の事実であったとしても、これでは日本を知らない子供たちに反日感情を植え付けることになる。
 思わず、展示責任者に文句をいいたくなったが、教育で反日を煽っているというより、この種の映像の展示物の視覚的影響力は大きい。
 
 そこで日本側の文化外交の怠慢、を思った。本当に日中友好を促進するなら、こういう展示をする場合には、見学の子供たちへの影響を考えて抑制を促すとか、写真の一部を撤去してもらうなどの教育上の配慮があってもいい。
 
 そういう外交交渉を日本側が怠っていて、野放しにしているとの印象は免れない。細部の努力をせずに、マスコミは反日の盛り上がりをバッシングし、尖閣で反中国を盛り上げるならば、日中のどっちが仕掛けるかは別として、柳条湖事件の類が起こる。
 100年前と同じ日中戦争を繰り返すことは簡単にできる。
 
 満州国建国の立役者で関東軍参謀の石原莞爾は、実は中国への侵略を非難するなど軍部の腐敗に対する徹底的な批判者だった。彼は満州に民族協和の王道楽土を建設すると本気で考えていたようだ。
 東京裁判では東条より自分が戦犯だ、だから自分を裁けと主張してGHQに食い下がったが、GHQは彼の正論を恐れて起訴しなかったといわれる。
 
 その石原は、日清戦争以降の日本軍人は悪くなった、日露戦争で勝ったことで自信を付け、自分中心主義に陥り他国を慮ることなく堕落していった、と書いている。もとより彼は日米戦争には大反対だった。
 
以下は第132号(2010年8月26日付)からです。
小沢氏の出馬とメディアの敗北
メディアはなぜ驚天動地したのか
小沢一郎氏が民主党代表選への出馬を、突然、正式表明した。メディア各社は驚天動地の大慌て。テレビワイドショーは、小沢氏の出馬の可能性をコメンテーターがあれこれ憶測し、おおむね否定的なコメントをしているさなかに、小沢出馬のテロップが流れた。
 あまりに突然だったので、番組を急きょ、組み替えることもできず、なんとも間が抜けた番組展開が続いていた。戦争が始まったのに、戦争は起こるか、という類の”真珠湾奇襲”を思わせる出来事であった。
 
 小沢氏を叩き続けてきたメディアの敗北、というべきだ。なぜなら、小沢氏を叩くマスコミの手法は、およそ政治報道のレベルにはなく、芸能人の不祥事並みの質の悪いポピュリズム(大衆迎合)にすぎなかったからだ。
 
 これまで新聞もテレビも小沢氏の出馬には否定的で、仮に出馬したとしても世論が許さない、という横並びの論調ばかり目立った。いつもそうだが、政治コメンテーターほど当てにならない、間違った判断を繰り返す人種は世の中にいない。いったい、毎日、何を取材して歩いているんだろうか。あるいは、取材もせずに自分の小さなアタマの中の思い込みだけで話を組み立て、間違ったコメントを垂れ流しているんだろうか。報じるテレビは間違っていることを知りながら、あえて視聴者を欺く確信犯のメディアなのか。
 いずれにせよ、小沢氏を叩くメディアの図式はポピュリズム以下の貧弱極まりないものだったし、もう少しましな調査報道はできないのか。疑問はつきなかった。
 
 小沢出馬にメディアが否定的だった理由は、日本国民ならだれでも知っている「政治と金のスキャンダル」と「検察審議会の強制起訴」の可能性の問題だ。さらに、これにまつわるマスコミの世論調査で、世論のほとんどが小沢出馬に否定的、という図式的根拠である。
 
 こうして繰り返されてきた小沢氏へのネガティブキャンペーンは、そもそもメディアの報道から始まっている。秘書まで逮捕された政治と金の話は、実は多くの国民に事実関係はよくわからない。しかし連日繰り返され単純な図式的ニュースの刷り込み効果で、国民は小沢氏がダーティであるとイメージを受け入れ、そう思い込んだ。
 
 筆者は小沢氏を弁護するつもりは全くないが、それでも小沢氏がどのような政治犯罪を行ったのか、明確には理解していない。新聞記事で読めば読むほどわからなくなる。その繰り返しだった。
 
 また検察審議会という組織の実態がつかめない。誰がどのようにして検事を選び裁判を実行するのか、イメージがさらにつかめない。国民代表だというが、どんな選任手続きが行われているか、不明だ。しかも審議を素人が担当するというので、ポピュリズム的判断に陥ると、ファッシズムに変質する恐れがあり、国家の運命を左右しかねない。市民目線ではそう考える。
 
 メディア学の賢者マクルーハンもいうように、テレビは新聞のように事実関係を正確に踏査できるメディアではない。新聞の尻馬に乗って小沢氏極悪人のイメージを作って思い切りバッシングしてきた。
 そういうテレビの洗脳効果をベースに小沢氏をどう思うか、と世論調査をすれば、ほとんどの人がネガティブな回答をすることは当然なのである。
 
 以上のように分析すると、マスコミが使った「政治と金」「世論調査」という伝家の宝刀は、実は錆びついた宝刀にすぎない。
 
 小沢氏はメディアのポピュリズムを熟知してマスコミを避け、慎重に行動していたものと思われる。
 
 政治と力、金と権謀術策の問題については、マキアヴェリの『君主論』などの古典的名著に詳しい。いくら文明が進歩し、新しい技術が起ころうとも、人間の精神は進歩しない。せいぜい、よりよく生きるという心構えが、人間精神の進歩なのであろう。
 
 政治も同様である。民主主義や二大政党制が本当に私たちの国にかなった政治システムかどうかはわからないが、とりあえずこれを選択しているだけである。
 
 その意味で言えば、「政治は力である」というマキアヴェリの政治思想の本質は現代でもさほど変化してはいない。
 
 読売新聞主筆の渡辺恒雄氏の『君命も受けざる所あり――私の履歴書』の中に、55年体制下の永田町で、現ナマが飛び交う風景が出て来る。日本の政治風土の原点を思わせる描写である。
 この政治風土から日本の現代政治は本当に決別しているかどうかの詳細な検証抜きに、小沢氏だけを叩くのは、メディアの党派的な運動にすぎす、当を得てはいない。
 第一、メディアの膝元の官房機密費がどの記者に流れたかの検証すら行われていないことを、メディアは肝に銘じるべきだ。
 
以下は第131号(2010年8月19日付)からです。
森の中のビートルズ
ダブルファンタジーとフリージアの花
 八ヶ岳高原の八ヶ岳倶楽部で開かれたサマーコンサートに出かけた。
 八ヶ岳倶楽部は日本野鳥の会会長で俳優の柳生博さんが経営しているが、このアコースティク・コンサートは、NHK番組でおなじみの息子さんの園芸家・柳生真吾さんが企画して、毎年、この時期に開かれている。
 バンドリーダーとボーカルは下田秀明さん、日本有数のトルン奏者・小栗久美子さん、ギターとボーカルの鹿内芳貴さん、ボーカルの鹿内悠子さん夫妻、今年からメンバーに加わったバイオリンの森川拓也さん、パーカッションの岡山晃久さんたち。
 
 森の精を招くかのような小栗さんの優雅なトルンの響きからスタートしたコンサートだが、これにバイオリンの森川さんが加わると、一挙にテンポがジャス調に変化した。パーカッションの岡山さんのパフォーマンスで会場が盛り上がってくると、やおら下田さんがビートルを熱唱し始めた。
 
 私は毎年、京都からはるばるこのコンサートを聴きに八ヶ岳まで来ている。東京で朝日新聞記者をしていたころから、柳生家のご家族の皆さんと知り合い、以来、約20年間、八ヶ岳倶楽部を訪ねている。
 
 私にとって、サマーコンサートの目的の一つは、下田秀明さんのビートルズを聴くことだ。下田さんは理系の大学出身ということで、本職は学校の先生である。
 下田さんは私より年下だが、私にとっても学生時代の思い出のビートルズだが、年をとるにつれ、”封印”していたところがある。グレイな現実に身を沈めて記者の仕事をしていると、自分の現実から遠ざかっていくように見えたビートルズのラブ&ピースが面映ゆかった。
 
 しかし年に一度、八ヶ岳で下田さんのビートルズを聴くと、初めてビートルズを聴いたときの感動がよみがえってくるのだ。八ヶ岳の森では心おきなくビートルズを聴くことができた。
 
 真吾さんと下田さんは先生と生徒の仲だが、ビートルズ好きを通じた師弟の友情の絆は長年、続いているわけだ。
 
 黄色の花、って何だろう? ジョン・レノンはバミューダ島の植物園で「ダブルファンタジー」の花に出会って感動し、このアルバムを作ったといわれる。
 
 最近、園芸家の柳生真吾さんは、この花がフリージアであることを突き止めた。
 そしてバミューダの植物園に、フリージアの花いっぱい運動、を始めた。すでに400人ほどの賛同者が集まっているという。凶弾に倒れたジョンの平和への意思をバミューダで再現したいのだという。バミューダだけでなく、日本でも種子島の植物園にフリージアの花いっぱい運動を広げるつもりだという。
 
 種子島といえば、日本に初めて鉄砲が伝来したところ。その種子島からジョンの「ダブルファンタジー」を通じて、彼の平和への意思を世界に発信し、バミューダ島とともに、世界平和をイマジンする発信基地を作りたい、という。
 
 コンサートでは沖縄の島唄のリクエストも出て、それに応えたボーカルの鹿内夫妻が熱唱してくれたが、ラストはジョンの「イマジン」で締めくくりになった。
 
 私は大学紛争世代の一人だ。ビートルズは青春のシンボルだったし、「ウイシャル・オーバーカム・サムディ」のジョーン・バエズの歌声は身近にあった。
 
 あっという間だったように感じているが、あれから、ずいぶん遠いところへ来てしまった。
 
 八ヶ岳森の中で聴いた「イマジン」のファンタジーが、世界中に鳴り響けばいい、と思う。
 ビートルズを聴くと、青春の愛読書だったヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』を思い出す。失ったピュアなものを森の中で探す自分を発見している。
 
 
以下は第130号(2010年8月15日付)からです。
終戦記念日特集ーー命運を分けたミッドウエー海戦の敗北直後に大本営極秘調査チームが結成されていた
 前号で少し紹介したが、海軍士官だった私の亡き伯父・宮田栄造は太平洋戦争時、山本五十六長官の率いる連合艦隊でミッドウエー海戦にかかわった。最近、伯父の戦時中の日記、手記らしきものが出てきたと従姉から連絡があり、夏休みを利用して手記の全巻を読んでいる。
 
 われわれが知っているミッドウエー海戦の伝説や神話は嘘と脚色で粉飾されていることがわかった。
 戦後65年のいま、太平洋戦争の現場の知られざる一断面を見る思いで、感慨深い。
 鹿児島出身の伯父は海軍兵学校を出たので出世も早く、若くして海軍大佐に昇進しており、南雲忠一中将や久邇宮の直属の部下として、戦艦・八雲(写真=ウィキペディア)の副長や給油艦・針生の艦長などを務めていた。伯父の専門は給油・補給であり、連合艦隊の後衛を任務としたので、前線のような派手な戦闘の経験は少ないほうだ。
 
 戦時下とはいえ、暇な時間もあったらしく、釣りを楽しみ、大漁のときは山本長官に”戦果”を届けて、喜ばれたなどのエピソードも書いてある。
 
 戦場から内地に戻って海軍兵学校の教員をしたり、戦艦大和の設計や鋳造などにも極秘でかかわったりしていて、戦場と内地を行ったり来たりの多忙な軍人生活だったらしい。
 
 日記のなかで最も面白いのは、ミッドウエー海戦とガダルカナル島攻防での敗北をめぐる記述である。この海戦は南雲中将が直接指揮した戦で、日本軍は戦艦を大量に投入して物量作戦を展開したが、米軍はレーダー網や暗号解読技術を持って日本軍の作戦を解読していたため、日本は大敗北を喫した。その後に続く、陸軍のガダルカナル島の戦で日本軍は壊滅の打撃を受けた、とされている。
 
 このミッドウエー海戦の敗北は大本営にも知らされなかったとの説がある。山本五十六長官は連合艦隊や南雲中将の失敗を隠ぺいしたとされた。
 しかし伯父の手記によれば、大本営はミッドウエー海戦の敗北を熟知しており、なぜ日本が敗北したのか、生存者に当たって緊急の聞き取り調査をせよ、との命令を受けたとある。極秘調査チームには海軍の3人の幹部が選ばれ、伯父はその中の一人だった。
 
 この極秘チームの存在は初めて知ったニュースであり、日本ではまだ知られてはいない。 
 
 ミッドウエー海戦で生き残り、負傷した将兵が千葉などに極秘で分散収容されており、その秘密の館に赴いて、聞き取り調査を行ったという。
 
 しかしその内容は極秘で、「死ぬまで墓場まで持っていかばければならない」といって、詳しい内容は日記にも書いていない。
 
 しかし日本海軍の欠点は、レーダー網が弱いとか敵に作戦暗号を解読されていたなどの俗説以上に、戦艦には余計なものや装備が過剰にあり、戦闘には不向きな図体をしていること、もっと軽量で機能本位の設計に改めれば、敵の空爆を受けても戦艦が火災で炎上沈没する可能性が低くなる、などの指摘がある。
 
 艦長室などには有名画家の日本画が飾ってあるし、舶来の豪華インテリアやソファも設置されているが、いざ戦闘というときには、これらは邪魔で火災には弱いものだ、といっている。
 
 要するに邪魔で余計なものが多すぎる海軍組織を合理化しないと、米国との戦にはとても勝てないということだ。
 
 またミッドウエー海戦の敗北とガダルカナル戦の敗北を機に、山本長官は大本営に対して、犠牲を最小限にとどめるために、この辺で戦争を一服させたらどうか、との伺いを立てたとの記述がある。停戦と和平の模索である。
 山本五十六連合艦隊司令長官の停戦・和平の上申書の件も初めて知ることだ。
 大本営はこの山本提案を一蹴した。大本営は戦闘の現場を知らず、いたづらに精神主義を鼓舞して戦争継続の消耗戦にのめり込んでゆく。それが3年後の敗戦まで続いた
 
 ミッドウエー海戦は、1942年6月、真珠湾の奇襲から半年ほど後の戦だ。山本提案に触れながら、叔父はこのまま戦争を継続すれば敗北することを、日記で暗示している。しかし「誰にもいえないことだが」と書いている。
 
 思うに、海軍の前線には合理主義精神と現実主義があった。若かった伯父は当時の山本長官の提案には疑問を持ったようだが、よく考えればそれが妥当だったと思う、としている。
 
 少なくとも、山本長官がミッドウエー海戦の敗北を隠ぺいしていたというのは誤りだ。このことは伯父の手記を読めば一目瞭然だ。
 
 山本長官は翌年、米軍の攻撃で戦死し、南雲中将はサイパンの戦闘で敗北して自決した。叔父は尊敬する上司や同僚を失って、敗戦を迎えた。忸怩たる気持だったようだ。
 
 海軍幹部でありながら、真珠湾奇襲の開戦も終戦の決定も、事前には何も知らされておらず、釈然としない気持ちで戦争に臨んだようだ。
 
 戦後、公職を追放となり、亡くなるまで小中学校の子供たちに教科書を販売する仕事をしながら生計をたてていた。
 
 伯父の手記が語るように、もしミッドウエー海戦の後、停戦・和平が実現していたら、当時の大本営は解体したかもしれないが、本土空襲も玉砕の島も最小限にとどまり、後の原爆投下も沖縄戦もなく、数百万に及ぶ国民の命が守られたことだろう。ソ連も参戦ができず、北方領土も占領されることはなかっただろう。
 
 そう考えると、大本営が好戦派で固まり、徹底抗戦で突っ走り、戦争末期には少年兵の特攻隊を作り、沖縄を犠牲にし原爆を招いた罪は重い。
 
 思うに、ミッドウエー海戦の調査で叔父が指摘した軍組織の非合理性と無駄の横行はいまの日本の中央集権政治にも当てはまっている。また前線の幹部にすら情報を明かさないで、ことに及ぶことも共通している。
 こんなことが継続すれば、国民はいつでも国家の破たんや失敗のつけを、自らの命と財産で埋め合わせなければない羽目に追い込まれるのだ。
 
 太平洋戦争の失敗の教訓を現代の日本国家は学んでいない。国家のリーダーシップの崩壊と国民の犠牲は、いまだに続いている。
 
 以下は第129号(2010年8月10日付)です。
海軍の連合艦隊にいた伯父の戦時の手記発見ーー山本五十六司令長官は停戦を上申していた?
 広島には来たのに、長崎にはなぜ来ないか。米国代表の原爆記念日式典への出席をめぐる感情論をマスコミは伝える。
 駐日米国大使が広島に来た国際的な意味を、感情論に終始する日本のマスコミはほとんど分析していない。唯一、原爆を実験的に投下された日本国民が感情的に米国を非難する理由はあるが、ジャーナリズムの役割はそれだけで事足りるわけではない。
 核兵器をめぐる世界の国々の思惑やしたたかなパワー・ポリティクスを冷静に分析する必要がある。
 オバマ大統領がプラハで核兵器廃絶の演説を行ったのは、単なるセンチメンタリズムではない。テロリストが核を手にしたらどうなるか。現代における核兵器の拡散によって、核戦争の脅威が身近になってきたからだ。
 
 広島、長崎で核廃絶の式典が行われているさなか、キューバのカストロ議長は、北朝鮮、イランと欧米諸国との間で核戦争の足音がする、と不気味な演説をしている。
 実際、北朝鮮の核武装をめぐって米韓の軍事演習が目立ち、日本海にはいつになく荒波が立っている。
 
 65年前の今日にさかのぼると、日本は天皇の御前会議でポツダム宣言を受諾した。国体の護持、戦犯の処罰法などをめぐり、9日から行われた御前会議は収拾がつかず、長崎に2つ目の原爆が落とされた。
 その結果、10日の未明、日本はポツダム宣下の受諾を決定した。
 もう少し早く受諾を決定していたら、少なくとも二度目の長崎原爆は回避できたかもしれない。
 
 いつでも決断が遅すぎるのである。
 
 日本海軍の連合艦隊で山本五十六司令長官のもとで太平洋戦争を戦っていた私の伯父が書き残した日記風の手記を読むと、ミッドウェイ海戦敗北後、ガダルカナル島攻防の失敗で日本敗戦は確実になった状況が読み取れる。誰にも言えないことだが、と叔父はそう記している。
 
 手記によれば、山本長官もそのように考えて、傷を最小限にとどめる停戦の模索を大本営に進言していたというが、戦争遂行派が占める政府指導部の了解を得ることができなかった。
 伯父の手記を読む限り、前線で戦う日本海軍には常識的な国際感覚があり、リアリズムに徹した合理主義精神もあった。
 
 しかし残念ながら、太平洋の主戦場を知らない大本営にはリアリズムの喪失があり、いたずらに精神主義を鼓舞して泥沼の負け戦にあえて突入した。
 手記の全編に、前線で戦う兵士には、真珠湾奇襲から終戦の聖断にいたる政府や大本営の意図がわからない、という苦渋がにじんでいる。そして自分が率いる軍艦が撃沈され、戦争敗北の重圧任に打ちひしがれている。
 楽しい思い出も記されているが、その思い出とは、海軍兵学校に合格した青春時代のことか、卒業記念の世界一周遠洋航海で、パリやロンドンやニューヨークに旅したことだ。
 
 戦争がぐずぐずと長引いている間に、多くの軍人が戦死し、国土は焦土と化し、ついに広島、長崎に原爆が投下され、日ソ不可侵条約を結んでいたにもかかわらず、ソ連の予想外の参戦で、数万の日本軍人のシベリア連行と長期の抑留が起こり、北方領土はむざむざと占領された。
 
 ミッドウェイ海戦は昭和17年6月5日から7日にかけての海戦で、この戦の敗北を契機に日本は敗戦の坂を転げ落ちたのである。
 
 その後、昭和20年8月10日のポツダム宣言の受諾を決めるまでの3年以上の歳月は無駄な消耗戦に明け暮れたというわけだ。
 いま流にいえば、「失われた3年」、ということになる。この3年の間に、竹槍部隊や国民総動員体制など作らずに、停戦交渉を必死で行っていれば、本土空襲や原爆を投下されることもなく、戦死者数も圧倒的に少なく、北方領土をソ連に占領されることもなかっただろう。
 停戦の条件としては、中国からの軍隊の引き揚げ、満州国解体、太平洋の諸島の日本領の返還などの条件は付いたかもしれないが、独立国家としての尊厳は守られたはずだ。
 
 たぶん、ミッドウェイ海戦の時に、坂本龍馬が生きていたら、停戦和平を画策して世界を動き回っていたことだろう。薩摩と長州の和平ではなく、日米の和平に龍馬は動いたに違いない。
 
 いまの失われた20年の研究も重要だが、太平洋戦争の「失われた3年」を調べるために、日米の歴史資料を読み直している。
 いま浮かび上がってくる仮説は、決定の空洞化だ。日本の指導部中枢で責任回避が横行し、決断を避けて現状をずるずると引き延ばしたこと、それによって事態はどんどん悪化したこと、だ。
 しかもその責任はすべて前線で戦う軍人や民間人の自己責任として負わされてきたのではないか。戦争には何の責任もない被爆者の救済がいまだに不十分なことを見ても、日本国家の指導者たちが、いかに自己責任を回避して国民に犠牲を強いてきたかが、わかる
 
 
以下は第128号(2010年8月6日付)からです。
被爆者に自己責任の苦しみを負わせてきた国家の不条理
 広島の原爆記念日式典に、原爆を投下した米国の代表をはじめ、国連事務総長や第二次世界大戦の戦勝国の英仏の代表など全世界の要人たちが参列した。二度と核兵器を使わないこと、核兵器廃絶にむけての思いを新たにしたことは貴重で、人類の進歩だ。
 
 おりしも、米国が二度目の核兵器使用を検討したことがあった朝鮮戦争時の休戦ラインを挟んで、南北の緊張が高まり、北朝鮮が戦時使用可能な小型核兵器を開発していると伝えられる。
 
 日本国内では、65年後のいまだに原爆症や後遺症のガンに悩む人々が多数いるが、原爆症の認定をめぐって国との訴訟が続いている。NHKが5日夕刻のニュースでも報道したが、8千数百メートルの原爆キノコ雲の高さや形状をコンピューター解析して、被爆地を限定し、被爆時にそのエリアにいた人々を被爆者として認定しているという。その範囲は広島市内を流れる太田川を挟んでいて、川の片方の流域にいた住民は被爆していないと認定されたという。
 空から落とされて爆風で拡散した原爆なのに、地上を流れる川の片方の流域地区の住民だけを被爆者とした合理的根拠はどういうものなのか、理解に苦しむ。いくら精密にコンピュータ解析しても、出された結論が非合理なものなら科学の意味はない。科学が非合理を正当化している好例だ。
 年金記録喪失、高齢者行方不明、冤罪事件の多発など、日本という国には科学が非合理を正当化するために使われている事例が多すぎる。何のための科学なのか?
 
 駆け出しの記者のころ、もう30年以上も前のことだが、広島大学の原爆放射線医療研究所(原医研)という研究所の助手のYさんにインタビューしたことがある。原医研はGHQが原爆の後遺症や効果などを調査するために、戦後すぐ作ったABCCという研究機関で、占領終結後に広島大学に移管されたものだ。
 ABCCは極秘裏に作られた機関でこれを報道しようとした新聞がGHQの検閲を受けて睨まれ、記事を削除されたことがある。
 
 取材に応じてくれた研究者Yさんは、医学の専門家ではなく、社会学の専門家だった。ABCCがどのような機関であったかを詳細に話してくれた。被爆者を集めて人体の被爆調査はしたが、治療は行わなかったという。被爆者の調査データは膨大なもので、被爆地域の全域のデータが集められた。そのデータのほとんどが米国の研究機関に送られた、という。
 
 Yさんは自らの聞き書きや社会調査によって、破壊された被爆地域の復元を行い、住居や住民データが細かく書き込まれた手書きの地図を見せてくれた。想像以上の広いエリアで爆風と熱による破壊、放射線による被害が出たことがわかるデータだった。
 当時、広島、長崎の原爆記念日の式典は政治的なイデオロギーの色彩に彩られ、政府、社会党、共産党などが別々に式典を実施するようなありさまで、どの式典に出席するかで、どの党派に属するかがわかってしまった。
 
 劇作家・別役実氏の『像』という作品が学生演劇などで上演されたりしたが、被爆者とその家族の行き場のない苦悩と不条理を表現していた。
 「なぜ被爆したのか、被爆したからである」などという同義反復の台詞が塗りこめられた前衛劇、シュールリアリズム劇だった。
 被爆の責任を被爆者のみが負って生きるしかない無残で不条理な自己責任社会が描かれていた。自己責任を言い出したのは、小泉純一郎元首相が元祖ではない。
 
 もう一度、その後の話を聞きたかったが、残念ながらYさんは若くして亡くなってしまった。あのとき見せてもらった手書きの資料はいまどうなっているのだろうか?
 あの資料を見れば、キノコ雲の高さとか、太田川の片方だけを被爆認定するという愚策はあり得ないはずだ。
 
 もし日本側に原爆投下時の正確な資料がないのなら、日本政府が米国に問い合わせて資料の提供を求めれば、米国は応じるはずだ。そういうこともせずに、原爆投下写真だけを頼りにしたコンピューターでキノコ雲を解析して、被爆エリアを推定することは、科学性の希薄な徒労というべきだ。社会学や社会科学の知見がまったく存在していない。
 
 ところで、亡くなったYさんがポツリと漏らした言葉がずっと忘れられないでいる。GHQにはたくさんの英語のできる日本人が雇用されており、ABCCには日本人医師もいた。彼らはGHQの指令どうりに動き、被爆者の医学的データを集収したが、治療は一切しなかったし死んでゆく人々の命を助けることもできなかった。のちに進歩的な医学者として社会的な名声を得た方もいるが、ABCCにいたという経歴は表には出ていない、とYさんはいった。ここにも世の中の不条理がある。
 
 被爆65周年の今日、広島大学医学部の狭い木造研究室で会ったYさんのインタビューのことを思い出している。
 
 
以下は第127号(2010年8月1日付)からです。
日本のギリシャ化の主張はオオカミ少年? そうなれば米国に吸収合併されるだけだ
 日本財政の破たんとギリシャ化が魔法の呪文のように唱えられ、消費税アップが既成事実のように進行している。とはいえ、ギリシャという国はいまだに消滅はしていない。
 なぜかというに、ギリシャという民族国家は、その上位概念であるEUという国家の共同体に守られているからである。
 金と人、モノが民族国家の壁を越えて狭い国境をせわしく行きかうグローバリゼーションの時代。EUは共同通貨ユーロを創出し、EU間の往来にはパスポート・コントロールも廃止している。
 EUは民族国家ではなく、人工の国家共同体であるが、21世紀のグローバリゼーションに対応して構想された政治、経済の国家連合体だ。
 もともとの民族国家は残したまま、それより上位の共同体を創出した理由は、経済の安定と政治的安定のためだ。つまり一国が破たんしても、より大きなレベルで相互互助システムが作動し、国家間の戦争もなくなる。少なくとも、EUの国の間では、経済破綻も戦争も起こらないシステムである。
 
 しかるに単独国家日本がギリシャ化することを最も恐れているのは、有力政治家や霞が関官僚、経済界、マスコミ界の連中だ。これに対して普通の国民はギリシャ化して破たんする前に、なんとかなるだろうと思っている。口車に乗せられてこれ以上の税負担や消費税値上げには反対なのだ。
 民主党が参院選で大敗北を喫した最大の原因は、選挙直前の菅首相の消費税値上げ発言にあることは誰の目にも明瞭だ。政治と金のスキャンダルは道義的には問題だが、庶民は自分の懐が痛むことではないので、テレビのワイドショーで騒ぐほどには問題視していない。
 
 日本がギリシャ化するというなら、まずは税金を湯水のように使ってきた日本型の支配構造の革命を断行したらどうか、と普通の国民は考えている。
 いまのところ、日本人が自分の金で自国の国債を買って政府の負債を支えているのだから、国の借金といっても自国内で金は回っていることになる。福祉の破たんと喧伝されているが、結局、勤勉なる国民が税金を払い、貯蓄で国債を買って福祉を支えているのだ。
 年金危機にしても、国民の預かり知らないところで、旧社会保険庁のずさんな不正処理を許してきた歴代政府の責任だ。悪徳代官がいた封建時代でもあるまいし、そんなつけを消費税で国民が払う理由はない。
 
 それはさておき、もし本当に日本が外国の借金に依存するようになり、ギリシャ化したらどうなるか。
 日本破たんで最も困るのはアメリカだ。アメリカは日本経済に大きく依存しているだけでなく、日本の破たんで日米同盟を基軸とする世界の軍事戦略の一翼を失うだけでなく、米国の安全保障そのものが成り立たなくなる。
 かつて日本の銀行にビッグバンと情報開示を要求したのは、隠されていた不良債権の山を発見したペンタゴンであった、といわれる。経済危機と軍事安全保障は直結している。以降、日本の銀行の吸収合併の大規模なドラマが始まった。
 
 残念ながら、日本はギリシャ化したくてもできない、という本当の事情はアメリカの都合による。いま、米国議会には普天間移設への慎重論だけでなく、日本の軍事費増や在日米軍への予算を増やせという要求が出てきている。辺野古移設がこじれて、普天間の海兵隊の一部をグアム移転する米国予算も凍結されるかもしれない。
 米国が日本の財政破たんを真剣に考量すればあり得ない要求に見えるが、おそらく、米国は日本の国民同様に問題を楽観視しているのだろう。
 
 もし日本が本当にギリシャ化したら、米国が手を差し伸べるはずだ。おそらくギリシャにおけるEUの役割を米国が果たすだろう。
 その場合、戦後の日米関係の従属性を考えると、EU下のギリシャのような平等の救済でなく、米連邦への吸収合併という構図が最も考えられることだ。
 つまりハワイ州に次ぐ第51番目の米州になるということだ。ハワイ州庁舎には星条旗とハワイ旗が並び立っているから、そうなれば霞が関の政府庁舎には星条旗と日の丸が並んでたつことになる。それがどんな風景なのか、一度は見てみたい気もする。
 
 戦後、天皇は象徴としての天皇になり、政治的な権力は失っているから、日本の民族国家の象徴としての天皇制は残る。
 
 米国に吸収合併されて権力を失うのは、与党政治家、霞が関官僚、経済界の実力者、マスコミの鉄の四角形の恩恵と利権を享受してきた人々だ。
 普通の国民は日本民族であることを否定はされないし、居住の自由や伝統文化も守られるからさほどのダメージはうけないだろう。税金を米連邦と州に収めるだけの違いだ。
 問題は日本人が米国型格差競争社会に順応できるかどうかだが、むしろ米国民としての法的権利を保障されることになるから、教育の機会平等、市民的自由の拡大など日本よりも優れた福祉の恩恵をうけることもできる。
 
 例をあげれば、ハワイの90%くらいの人々が米国に併合されたことを悔んではいない。シンクタンク東西センターなどが行った世論調査結果でそれがわかる。王朝は倒れたものの、普通の庶民にとっての併合は緩やかなもので、ハワイの伝統文化はそのまま残り、ハワイ州から有力な政治家も輩出して米国に貢献しているので、ほとんどのハワイ人は良かった、と考えている。何よりも経済的に豊かになったということだ。
 オバマ大統領もハワイ出身である。普天間移設問題に限らず、日米同盟にまつわる安全保障を米国に依存している日本としては、国民の頭越しの政府間交渉でなく、直接、米国議会に代表を送って日本人の思いやメッセージを伝えるほうがはるかに効果がある。
 
 ギリシャ化と消費税アップの繰り返しの呪文はオオカミ少年のようなものだ。本当に来るかどうかわからない日本財政の破たんの暗い論議ばかり続けていると、国民の目にはもう一つの選択肢が見えてくるだけだ。国民はそれほど馬鹿ではないので、そろそろオオカミ少年の脅しを止めて、普通の国民を交えた全国レベルの公聴会を開き、本気で平場の議論しなければならない。
 政治家とコメンテーターだけの論争は、八百長のようにしか見えないのだ。いずれにせよ、日本が単一島国民族国家に固執する政治、経済、安全保障の枠組みから離脱する道を考えるしか、われわれの未来は開けないだろう。
 
 
以下は第126号(2010年7月22日付)からです。
北朝鮮取材のさい招待所で見た横田めぐみさんに似た少女のこと
 金賢姫元北朝鮮工作員が来日、鳩山元首相の軽井沢の別荘に滞在する、というビッグニュースが流れた。
 行き詰まった拉致問題をどう進展させ、解決させるか。韓国の哨戒艇爆破事件に対する国際的制裁の行方が注目される中、拉致問題解決の突破口が開けるかどうか。
 大韓航空機爆破金事件の主犯である元工作員の来日は、日韓両国にとって、超法規的措置であるだけに、金元工作員の新証言が何らかの鍵を握っているはずだ。
 横田めぐみさんのご両親も急きょ、鳩山邸を訪問して金元工作員と面会し、めぐみさんの消息について話を聞くという。
 1981年4月に日朝文化交流団の訪朝時に同行して、新聞記者として初めて北朝鮮を取材したことがある。故金日成主席の時代で、盛大な誕生パーティが行われていた。
 当時は日本人の北朝鮮旅行は少なく、新聞記者でも北朝鮮取材の経験者はあまりいなかった。滅多に行けない珍しい国、という取材感覚だったことを覚えている。当時の北朝鮮はベールに包まれた閉鎖的な貧しい独裁的な社会主義国というイメージはあったが、拉致問題は顕在化しておらず、国内の人権抑圧や政治犯収容所の問題などもあまり知られていなかった。
 
 日本とは国交がないため、中国の北京を経由してピョンヤン入りしたが、当時の印象でいえば、北京はまだ貧しく、ピョンヤンのほうが豊かで華美に見えた。少なくとも、出された食事は豪華だった。
 
 板門店の軍事境界線(北緯38度線)の見学にゆく途中、招待所に寄って昼食をとった。美味な朝鮮ラーメンが出たことを覚えている。
 食事を終えてふと、売店を見ると一人の小柄な少女が立っていた。15,6歳の可愛いおかっぱの髪の少女だった。売店にはみやげものほかにタバコが置いてあった。北朝鮮製のタバコにまじって、日本のハイライトが目に付いたので、売店のほうへ歩いて行った。
 あつ、ハイライトがあるね、と日本語で話しかけると少女はクスと笑った。どうして日本語がわかるの?と聞くと黙って顔を伏せてしまった。少し話しかけると日本語を理解している反応だった。日本人と話してはいけないんだろうと思い、ハイライトを買い食卓に戻った。
 席に座ってもう一度、売店を見ると少女の姿は消えていた。
 ガイド役の北朝鮮の人に、「あの娘は日本人みたいに日本語がよくわかりますね」、というと、「ええ、帰国子女がいますから」といった。怪訝だった。当時の北朝鮮と日本はほとんど往来がなくなっていたし、まだ学齢期の若い少女が日本からわざわざ行くだろうか。
 
 この少女のことは頭の片隅にひっかかっていたが、1997年に横田めぐみさん拉致が新聞報道で明らかになった時、明確なイメージを結んだ。
 めぐみさんが拉致されたのは、1977年11月、13歳のときだ。1981年4月に招待所で会った少女は、15、6歳に見えたから、めぐみさんと年恰好は重なる。
 しかも横田めぐみさんの小学生時代の写真を見るにつけ、招待所の少女ととてもよく似ていることに気がついた。
 
 しかし拉致が発覚した1997年には、私は新聞記者を辞めていた。その後、米国のシンクタンクに在籍して、北東アジアや北朝鮮問題などを研究したが、拉致問題をジャーナリストとして調査報道する機会はなく、招待所の少女の記憶を封印していた。
 
 一度、知人のテレビ・プロデユーサー日下雄一さんにこの話をしたことがある。彼は「拉致問題が日本で知られているかどうか、横田めぐみさんを日本から来た新聞記者の前に出して、あなたの反応をみたのかもしれませんね」と彼は分析した。売り子の少女が一瞬で視界から消えたのは、おかしい。鋭いニュース感覚をもっていた彼は、その後、惜しくも亡くなってしまった。「めぐみさんの消息をもっと調べてわかれば、朝鮮半島の冷戦崩壊や南北統一の可能性などを探る調査報道番組を作りませんか」との約束は、そのままになっている。しかし日下さんが亡くなって問題が反故になったとは思っていない。
 横田めぐみさんは、いまや朝鮮半島の平和の国際的シンボルのような存在になった。めぐみさん奪還には朝鮮半島の平和が不可欠の条件だ。
 
 1981年にそういう怪訝な体験をしながら、横田めぐみさんの拉致が発覚する1997年まで、噂はありながら、事態を放置していた日本の大マスコミの責任を痛感するし、忸怩たる思いが消えない。
 招待所で見た少女が横田めぐみさんだったかどうか、真偽を確認したいと私は思っている。
 
 今回の金元工作員の来日で、横田めぐみさんの消息がはっきりすることを願う。生存しているのであれば、断固たる奪還交渉を鳩山元首相に期待したい。米国、中国、韓国の力をフルに借りて、拉致問題解決を実現すべきだ。 与野党、政権内の政治的党派争いをしている場合ではない。
 すぐに仲間割れする日本人の了見の狭さ、島国根性は相手に見透かされている。統一世論にならず、こっちが先に自滅したのでは話にならない。
 ここは、普天間で米国に譲歩した鳩山元首相の失地回復の好機でもある。
 
以下は第125号(2010年7月17日付)からです。
祇園祭りのスピード感は東京にはない清涼剤だ
京都の夏の祭典、祇園祭りの中心行事の山鉾巡行が終った。
 日本列島を豪雨と洪水のニュースが覆うなか、不思議と今年の祇園祭の天候は穏やかで、宵山も山鉾巡行もたくさんの人出でにぎわった。
 今年目立ったのは、外人観光客の多さだ。欧米や中国からだけでなく、世界中のいろんな国の人たちが見物に来ている。
 町に囃子の音が流れ、祇園祭モードが始まると、鉾の建設が始まる。京都の街中を引き歩く先端の高さが20メートル、重量20トンほどもある車だから、組み立て作業は大変だ。
 しかしあっという間に鉾の組み立てが終り提灯に明かりが灯り、京都の夜の町を明るく照らす。鉾が置かれた狭い路地には、屋台店が出て、飲み物、たこ焼き、金魚すくいの店が軒を並べる。
 こうした鉾が全部で9基、鉾より小ぶりの山が23基あり、全部で32基の山鉾が京都の狭い道を巡行する。路地には数十万人にも及ぶ見物客があふれる。警察の交通整理も大変だが、祇園祭期間中に大きな事故は起きない。伝統の祭りだけに、町衆の安全管理も行き届いているのだ。
 山鉾巡行が終ると、すぐに鉾の解体が始まる。まだ巡行している鉾があるのに、役目が終わった鉾は解体されて車庫に安置され、来年の出番を待つ。
 組み立てから解体までの作業のスピードの速さにびっくりする。
 京ことばの印象もあるのだろうが、京都人の気質は悠長、のろいなどの評判はあるが、こと祇園祭りの開始から終了の手際の良さ、スピード感、安全管理の蓄積されたノウハウは、さすが日本を代表する伝統の祭りというべきだ。
 山鉾を管理し、毎年祭りを可能にする京都の町衆の労力と費用の負担は大変なものだ。金銭的な負担だけでなく、少子化で若者が少なくなり、鉾の建設や解体をする労力にも限りがある。
 そういう中で、京都の大学生たちも祭りを支える重要な脇役になっている。山鉾を引っ張る若い衆がいなくなり、代わりに京都の各大学が、ボランティアで山鉾を引く若い衆の役割を引き受けているのだ。
 かつての大学生は京都の頭脳を支えたが、大衆化したいまの大学生は力仕事で祭りを支えている。
 山鉾引っ張り役のボランティの若者の中には外国人もいるし、若い女性もまじっている。
 
 祇園祭は平安時代に始まった古い祭りで、疫病から人々を守るための厄払いの祭りだった。どの山鉾にもタピストリーや絵画が貼り付けられている。タピストリーの絵や図柄は、インド、中国、ペルシャなどからシルクロードを経たりして日本に伝来したものや、中国、西欧の神話、日本の神話に基づく物語などを表した宗教絵画など様々なものがある。
 山鉾全体に統一的なコンセプトがあるのではなく、それぞれの山鉾が自由な好みで装飾品を選んで自己表現している。そのあたりがいかにも個人主義的で京都らしい。
 京都は外から来るものをやわらかく受け入れるのだ。えり好みはしない。
 かつては御所と幕府の城(二条城)が至近距離に存在していたし、幕末には龍馬など維新の志士や敵方の新撰組が入り乱れて京都を拠点とした。京都人は敵味方の双方を受け入れたのである。
 人間として生きるなら、何をしてもいい自由が京都にはある。
 東京とは違う自由な学問や産業、流行も京都から生まれ、日本のあり方を変えてきた。ノーベル賞、世界の京セラ、ニンテンドー、などなど。
 東京の官僚主義は自由を嫌い、何事も規則や規格に人間を押し込もうとする。官僚組織を維持し守るためには人間性の否定も辞さない。
 しかし祇園祭の精神はこれと真逆である。住民の自由なボランティア精神は1000年の祭りを支えてきた。
 これに対し、東京の官僚主義の文化などたかが100年余しか生き延びてはいない。しかもすでに没落が始っている。
 なぜ東京の中央集権文化が行き詰っているかといえば、地位優先の上意下達、スピードがのろく、やる気がない。しかも謙虚さを失って国民をないがしろにし、国民の自由を軽視して、官僚組織に国民を隷属させようとしてきたからだ。
 
 祇園祭りのスピード感と達成感、これを支えるボランティアの人たち、学生、外国人の輪を見るにつけ、いまの東京一極集中の政治と文化の重大な欠陥を思う。権力が集中しているのに、東京はすべてがバラバラなのだ。政治しかり、官僚しかり、経済しかり、マスコミしかり。
 祇園祭はW杯サッカーと同じで、やればできる精神の宝庫だ。京都に災害が少ないのは、連綿と続く平和な祇園祭のおかげなのかもしれない。 
 
以下は第124号(2010年7月13日付)からです。
ごっこの政治が終わるとき
 やはり思ったとおりのことが起こった。
 昨年8月におこった「政権交代」は幻だったのだ。
 政権交代の直後から、マスコミは鳩山政権バッシングを始め、辺野古問題で日米同盟に傷をつけたと、退陣を求めた。最初、マスコミは政権交代を煽っていたが、民主党も鳩山政権も本音では招かれざる客だったのだ。
 今回の参院選で民主党はオウンゴールのような敗北を喫した。民主党には政権交代を守る力量も政治力も思想もなかったことが判明した。政権党でありながら、菅・小沢の二勢力に内部分裂した選挙をやって勝てるはずはない。その上、菅首相はいわずもがな、の消費税アップを選挙直前に発言して自ら負け戦を演出してしまった。何をカン違いしてたんだろう。
 
 龍馬気どりの化けの皮は見事にはがれたのだ。勝つ気もやる気もない民主党を国民が支持し続けるはずはない。自民党がいいかどうかわからないが、いまよりはマシという国民の思いが、今回の国民の選択だった。結果、消極的な自民党勝利に結びついたゆえんである。
 
 テレビの怪しげな政治コメンテーターたちは、選挙後の衆参のねじれで民主・自民の大連立がどうのとか、消費税は早急にやるべきだ、などと呑気なことをいっている。余計なお世話をいわず、もっと事態の本質を考えろ、といいたい。でないと、不況のテレビ局からギャラももらえなくなるぞ。
 
 江藤淳氏が、その昔、喝破したように、戦後日本では何事も本物にはならない。あるのは「ごっこの世界」。子供の遊びの世界と同じなのだ。ままごと、鬼ごっこ。いっしょに遊ぼうよ。
 子供の遊びの世界が大人の政治世界に広がったのが、政治ごっこ、政権交代ごっこ、龍馬ごっこ。恋愛ごっこ、家族ごっこ、子育てごっこ、なんてのもある。
 
 日本は米国の経済と軍事に守られて長すぎる戦後を歩んできた。ここ一番、という豪雨時には米国の大きな傘が日本を守るが、傘をさしてもらう日本は米国のいうことをなんでも聞かなければならない。
 
 普天間問題のねじれはこれを意味していたが、事態の本質を語る政治家もジャーナリズムも日本には存在せず、鳩山首相だけが詰め腹を切った。
 米国のジャーナリズムを仔細に調べることで、ようやく普天間問題で鳩山さんが米国から切られたことの本質を知ったものだ。実は、鳩山退陣に最も大きな影響を与えたのは、沖縄の民意や日本のマスコミや世論ではないのである。
 
 二大政党制とはもともと英米のようなアングロサクソンに適した仕組みだ。そのイギリスですら、さきの選挙で、二大政党政治の機能不全が起こっている。
 二大政党制が日本の文化風土に適しているかどうか、議論はないまま、政治家もマスコミもなんとなく、いいと思い込んでいるだけだ。
 戦前にあった政友会、民政党のように、官僚依存政党(薩長同盟派)か政党政治政党(反藩閥政治派)かという色分けならわかるが、いまの民主党はアイデンティティ不在の官僚依存と脱官僚というわけのわからない矛盾が混在している。
 
 ところで、今回の選挙の唯一の収穫といえば、みんなの党の躍進にある。脱官僚、小さな政府、消費税反対という旗印を明確にして大躍進した。みんなの党の躍進は今回だけの風なのか、永続性があるのか、口だけ政党なのか、見極めないといけない。
 
 いずれにせよ、昨年の日本の政権交代は”真夏の夜の夢”として潰え去った。またぞろ大連立とか、消費税引き上げ、日本のギリシャ化などの大合唱がマスコミからわきあがり、霞が関文法を駆使しする官僚がリードする世の中が広がり、国民の本心の思いはかき消されてゆくのだろう。
 
 本当の民主政治が機能しなければ、いくら制度があっても意味はない。二院制で衆参国会がねじれ、法案がねじれて国民に迷惑をかけるなら、参院のあり方を議論して、廃止論が出てきてもいいはずだ。
 日本のような政治小国、官僚大国で二院制は不必要だ。
 参院のもとは旧貴族院(枢密院)で皇室や旧華族が議員になり、議事録も機密・非公開で会議は行われていた。
 貴族院は封建制度廃止のマッカーサー指令で廃止されたが、新憲法制定時、日本側の強い要求で参院に名を変えて残ったものだ。マッカーサーは日本に二院制は不要と考えていた。
 
 某テレビ局の政治討論番組で、参院はマカーサーが押し付けた憲法と同じだから、そろそろ廃止してもいい、などとデタラメをいっていた。こんな嘘八百を並べる政治コメンテーターの言葉を、テレビが調べもせずに報道するのだから、何をかいわんや、だ。
 
 デタラメ報道に洗脳されて、なんでも信じ込む視聴者・国民も悪いが、「本当はこうなんだ!」と嘘を並べて視聴率を取ろうとするテレビの確信犯ぶりを国民は見抜く必要がある。誰でも少し勉強すれば、声だけは大きいが何も知らないコメンテーターの嘘は見破れる。
 嘘による洗脳からの最大の防衛策は、見ない、読まないことだ。来年の地デジ化切り替えにあたり、新しいテレビを買わなければ、自動的にテレビは見れなくなる。国民が地デジ化の負担を負う必要がどこにあるのだ。
 
 それにしても、ままごと政治、ごっこ政治から日本が脱するのはいつの日か? 政治ごっこに疲れた大人たちも、そろそろ童心に帰って、テレビを見るのをやめ、「鬼ごっこ」「桃太郎ごっこ」でもして遊ぼう。
 政治家たちがごっこの遊びを楽しんでいるんだから、普通の人間は税金だけ取られるのも悔しいから、せいぜい「鬼ごっこ」でも楽しむとするか。
 
 
以下は第123号(2010年6月23日付)からです。
 白昼堂々、衆院を通過したネット規制を目論む憲法違反の悪法
 鳩山政権があえなく崩壊して、菅政権が誕生した。しかし発足時の高い支持率はまた下がっている。ジェットコースター並のマスコミ世論調査のアップダウンは信用でききないが、今回は下がった原因が推測できる。
 唐突な消費税アップの表明とネット規制を盛り込んだ放送法改正が衆院で強行採決されたことだろう。
 消費税アップは慎重な扱いを要するアジェンダなのに、菅首相は自民党のマニフェストに乗じて、軽々に同調発言したと国民は思っている。
 国民に痛みを強いる前にやるべきことがある、という野党各党の非難が正統性を帯びている。足もとの国会議員の数や歳費にメスを入れなくてもいいのか。天下り官僚の高すぎる退職金と高給に批判が集まっている折でもある。まずはそういう問題を片づけてからものを言って欲しい、と国民は考えている。
 そのうえ、郵政法や消費税の陰に隠れた放送法改正があっという間に衆院を通過したことにも国民は呆れている。マスコミやテレビの報道内容には多くの問題点があり、マスコミのシステム改革は必要だが、だからといって、ネットを規制するとは何事だ、と国民は思っている。マスコミの暴走を規制する法案がなぜネット検閲にすり替わったのか。この法案が成立すると日本は中国並のネット検閲大国になる、との予測が生まれている。
 ブログやツイッターは、マスコミでは取り上げてもらえない、無名で普通の国民の声なき声が寄せ集まっている言論空間である。
 そういう貴重な市民の言論空間を根絶やしにしかねないネット規制の目論見が今回衆院で強行採決された放送法改正に盛り込まれているのだ。
 この法案が参院で再審議されないよう、廃案を求める意見が、ネット上では日を追って盛んになりつつある。霞が関文法に長けた官僚が忍び込ませた毒の実を、市民が見破ってそれを食べるな、毒の実だぞ、と警告している。
 支持率が急降下した菅政権は、速やかに今回のネット規制法を取り下げるべきだ。民主党が政策としてうたいながら、今回の放送法改正法案には盛り込まれていない「メディア企業寡占の禁止」「日本版FCC創出」の原点に立ち戻ってもらいたい。
 今回の放送法改正は、民主党のマニフェストとは真逆の言論抑圧、憲法違反の言論検閲という負のベクトルに向かっている。
 
以下は第122号(2010年6月6日付)からです。
鳩山首相の「腹案」はなぜ消された?
 鳩山首相の普天間移設案の「腹案」は、徳之島だったと日本国民は思いこんでいる。マスコミがそう伝えてきたからだ。
 しかしそれは誤報である。当現代メディア・フォーラムの調査では、鳩山氏の「腹案」は別にあった。
 小川和久著『普天間問題』を読むとその真相が浮かび上がってくる。鳩山さんの「腹案」とは、この本に書かれた小川氏の案だったことがわかる。
  小川案は、県外でも国外でも自民党政権が作った辺野古回帰でもない。沖縄の米軍基地内を駆使して、普天間の危険を除去するための移設突貫工事について記述したものだ。さらに周辺の島嶼の一部を有事の際に利用可能にする。
  若干の週刊誌と新聞がこの「腹案」をわずかに伝えた模様だが、多くの国民の知るところではない。腹案は沖縄の社民党関係者らと十分な議論を尽くし、これなら沖縄県民の同意を得られる中身だったという。この「腹案」を持って小川氏は、5月の連休中に、鳩山首相の要請で米国に行き、米国の安全保障担当の実務家や関係者と協議してこの案の同意を得たという。
 ところがこの実現可能な「腹案」は、日本側の辺野古回帰を唯一の選択肢と考える官僚の厚い壁に阻まれたという。さらに辺野古の埋め立て工事の既得利権を持つ本土のゼネコン業者、砂利採取業者や族議員の巨大利権もあり、辺野古回帰が政府の唯一の選択肢になってしまった。
 辺野古埋め立ては環境破壊につながるだけでなく、零細な地元・沖縄の土木業者らに税金が流れる経済効果の可能性はほとんどない。本土政府に頭越しにやられた。これが沖縄民意の反発の最大の理由である。
 
 小川氏は米国の同意を首相に伝えると、首相は「腹案」実現に向けて決意を新たにしたように見えた。しかし最終的には辺野古回帰で米国と合意してしまった。おそらく、日本側の官僚の厚い壁を孤独な首相が突破することができなかったのではないか。
 3月20日に小川氏は首相補佐官の就任要請を、首相から直接受けて米国や沖縄との交渉に当たったというが、官邸を監視する官僚に邪魔されたらしい。
 こうした事実を大マスコミは知らないのか、知っていても無視したのかわからない。しかしいまの日本マスコミの取材力欠如と不勉強から推測するに、知らなかったというほうが正しい見方だろう。
 なんせ、鳩山さんの辞任の朝まで、続投報道にうつつを抜かし、総理の辞任という今年最大の事件をスクープしたメディアはなかった。
 鳩山政権VSマスコミ・官僚大連合軍の戦いは、結局、マスコミ側の敗北に終わったというべきだ。
 日本のマスコミが、腹案を徳之島だと報道し、結局、辺野古へ戻した鳩山首相は沖縄と国民を裏切った、という報道の仕方は完全に間違っている。だいたい事前に徳之島の名が出て、人口を超える住民反対運動が盛り上がったのは、おかしい。小学生でもわかる数字のおかしさをマスコミは全然疑問視していない。
 国民をミスリードしながら、反省することなく面白おかしく政局を伝え、鳩山退陣を娯楽にしてきたのがマスコミだ。
 とりわけテレビはひどい。ワイドショーとニュースの差もない。嘘と事実の境界もボケている。首相のバッシングと芸能人スキャンダルは同レベルの扱いだ。
 こんな低レベルで誤報ばかりするテレビの地デジ化がいま必要なのか?こんなテレビを見るために国民は負担を負うべきではないのではないか。
 鳩山首相は退陣してしまったが、沖縄も米国も納得できる「腹案」が消された理由を、あくまでも追及していくのが、本当のジャーナリストの役目だ。それは国民の「知る権利」のためだ。
 
以下は第121号(2010年5月16日付)からです。
琉球独立論の再燃
「反国家の凶区」としての沖縄
 朝日新聞の「ひとごと怒る沖縄」の記事(5月13日朝刊)は、米軍基地問題は沖縄の移設問題だけにすり替えられている、という沖縄民意の怒りを伝えている。
 日本政府も国民も沖縄の基地負担を他人事のように考えている。「いったい誰に言えば変えられるのか。沖縄が独立して、アメリカに直接訴えるしかないのか」という沖縄女性の言葉に、「琉球独立論」を思い出した。
 米国から返還された直後の沖縄を何度も取材したことがある。
 「反国家の凶区」という本を書いて、日本への復帰を拒否し、琉球独立論を唱えていた沖縄タイムズ記者・新川明氏に話を聞いたことがあった。
 新川氏は、米国の施政権から解放されたいまこそ、琉球は日本からも米国からも独立して沖縄独自の道を歩むべきだ、と主張していた。
 沖縄は日本ではなく独立した言語・文化圏を持っている。しかし日本本土によって侵略を繰りかえされ、属国として扱われてきた。とりわけ薩摩の琉球支配は人頭税などを課す過酷なものだった。沖縄は人間扱いされなかった。
 ペリーの来航の目的のひとつに沖縄占領があり、その名目は薩摩の圧政から琉球を開放するというものだった。ペリー艦隊は沖縄に上陸して半占領状態におき、黒船の停泊地として使っていたが、折しも政権交替した民主党ピアス大統領の命令を受けて占領を解き、帰国した。
 明治維新になり薩摩の支配からのがれたものの、薩長藩閥政府は琉球処分を行って、新たな沖縄差別の歴史を開いた。
 太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で行われ、ひめゆりの塔の女学生をはじめとする多数の民間人が戦闘の犠牲になった。旧日本軍は民間人を盾に使って米軍との戦闘を行っていたという。
 こう見てくると、沖縄を踏みにじって恥じない日本本土の負の歴史がいくつも蘇ってくる。
 戦後は戦後で米軍基地が集中展開し、基地負担が軽減されないまま、今日に及んでいる。 しかも抑止力、抑止力と騒いで沖縄の基地負担を正当化し、沖縄の方々にはいましばらく我慢していただくほかはない、と木で鼻をくくったことをいうのは、安全地帯でうまい飯を食っている本土の偉いひとたちだ。
 
 沖縄の目と鼻の先にある徳之島の民意は、徳之島の名が政府から正式発表される前から、反米軍基地で盛り上がった。これを沖縄から見ると、かつての薩摩の琉球支配に重なる。基地負担を徳之島に負わせるのはとんでもない、従来通り沖縄が負うべきだ、といっているように見える。
 沖縄の負担を軽減すべきと口では唱える本土の国民にも、新たに米軍基地移設を本気で受け入れる考えはない。富士山麓の自衛隊基地に米軍基地が併設される案が浮上したときは、地元の大反対が起こって実現しなかった。
 こうした中で、橋下大阪府知事は再び米軍基地を関空で受け入れる趣旨の発言をしているが、もしも実現可能性が出てくると大阪府民の反対の大合唱が起こるのではないか。あるいは大阪府民が先鞭を切って米軍基地を受け入れるのだろうか。
 そうなれば日本は少し変わる。大阪が本気で受け入れるなら、沖縄の人々の心も少しは癒されるだろう。
 琉球独立論を書いた新川氏のホンネは、日本本土の国民がもう少し沖縄を顧慮したらどうか、という点にあった。
 ヤマトンチューは米国以上に信用できない、という思いが深い。沖縄はヤマトンチューに裏切られ続けた。この思いが払拭されない限り、普天間移設問題にまつわる傷が沖縄の人々の心から消えることはないだろう。
 基地という物理的な問題ではなく、まずもって癒されるべきは沖縄の心の傷なのである。
 琉球独立論は、沖縄人のやり場のない怒りの表明だ。ヤマトンチューがその心を汲むことができるとすれば、沖縄の基地負担以上の負担を国民全体で分かち合うことにほかならない。
 これができなければ、沖縄は日本に対する「反国家の凶区」として存在し続けるだろう。 
 
 
以下は第120号(2010年5月5日付)からです
「愚かな敗者」か「世界のリーダー」か ーーどっちが本当なんだ 
 鳩山首相足蹴りネタ求めて米紙を神棚に祭る日本マスコミの自虐
 戦後65年、日本マスコミの米紙追従ぶりがますますひどくなった。自国首相を足蹴りにするネタがなくなると、米紙の酷評に頼るのである。
 しかしTIME誌の今回の記事は趣が違った。なんと世界のリーダー100人中、第6位に鳩山首相を選んだのだ。オバマ大統領、胡錦涛首席と並んで堂々のベストテン入りだし、戦後の日本の政治家でここまで評価された人物はいない。
  TIMEは鳩山氏を革命家といっている。古く停滞する日本を変革する革命家であり、日本の政治家には珍しく国際感覚を持ち、環境問題や核兵器廃絶の思想でオバマ大統領と共通項がある。
 「愚かな首相」、「世界最大の敗者」と酷評したワシントンポストとは正反対の評価だが、こきおろすにしても賛美するにしても最大級の形容詞を冠せられるあたり鳩山氏の宇宙人ぶり、大物ぶりを物語っている。
 それにしても、ワシントンポストを鳴り物入りで報道し、国会質問でも話題になったので、さすがに気まずいのか、TIME記事の紹介はずいぶん控え目だ。
 鳩山首相の株が国際的に上がるのは、日本のマスコミにとって不都合なことのようである。日本の大手マスコミは旧政権下で築きあげてきた既得権益の膨大な蓄積があり、世間に暴露されたら困る不都合な真実がいくつも隠されている。闇の権力と似たところがあるのだ。
 鳩山政権はマスコミの既得権益の仕分けもひそかに狙っているので、ここが鳩山政権vs巨大マスコミ利権の主戦場になっているのだ。この主戦場は、当然ながら政治もまきこんでいる。
 それにしても、なぜこうも米国メディアの評価が180度違うのだろうか? ワシントンポストもTIMEも米国の保守系のメディアである。同じ保守系メディアの評価が正反対なのだ。
 異なる点は、ワシントンポストが日本の読売新聞と提携しており、ワシントンポストの鳩山評価は読売論調と類似していることだ。
 読売は鳩山政権と民主党に最も批判的メディアであり、自民党政権時代にシンパシーと郷愁を持っていることが、読売社説から分析できる。
 この点で日本通の米紙を引用して鳩山政権をこきおろす手法は、日本マスコミにとっては手慣れた常套手段である。
 しかし今回のTIME記事には、裏切られた、裏を書かれたという思いが、日本の守旧マスコミには強い。
 それにしても自国の首相がこき下ろされると喜び、褒められると困ってしまう日本のマスコミとは、何者なのだろうか? 度し難い自虐の世界の住人のようだ。
 本当に「愚かな敗者」とは日本の既得権益守旧のマスコミをおいてほかにない。
 
以下は第119号(2010年4月20日付)からです。
龍馬ブームの中、幕末維新の散策
西南戦争に参加していたわが先祖
 NHKドラマの影響で、龍馬人気がすごい。司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」で脚光を浴びた龍馬だが、司馬さんの本では龍馬暗殺の謎を深く追求していなかった点、物足りなさがあった。龍馬暗殺は新撰組の見回り隊の仕業という定説はあるが、近年、この謎を解く本がいくつか出版されている。
 薩摩の西郷隆盛、大久保利通が影の仕掛け人だとか、長州藩の桂小五郎が指令したとか、公家の岩倉具視がかかわっているとか、諸説が入り乱れている。龍馬は現代でも謎解きのネタに事欠かない大人物だから、与野党を問わず政治家たちが憧れる理想像のようだ。
 京都四条の電車の駅や売店には、「龍馬と歩く京のまち」という案内パンフレットが置いてあり、これを手にして龍馬ゆかりの旅を楽しむ老若男女が、狭い京都の町にあふれている。京都の史跡は”歴女”たちの心をつかむだけではなさそうだ。
 高瀬川界隈から木屋町周辺は、藩邸跡や志士たちの住居跡が密集している。三条大橋のたもとにある龍馬ゆかりの池田屋は観光スポットの居酒屋になっている。海援隊の本部があった材木商の酢屋は、当時の面影を伝えて「ギャラリー龍馬」と名を変えていた。
 龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋の屋敷はなくなっていて、石碑だけが立っていた。
 少し足を伸ばして、壬生寺や新撰組屯所跡まで歩くと、そこには幕末の別の顔がある。壬生寺には龍馬の敵として戦った近藤勇、土方歳三らの墓があり、屯所屋敷には刀傷が鮮やかに残っている。「加茂の河原に千鳥が騒ぐ、またも血の雨、涙雨、、」の歌が流れている。屯所の瀟洒な庭は、150年前の血のドラマの様子をじっと見ていたのだろう。
 誰が敵で誰が味方かわからない、何が正義で何が不正義かもわからない。それを決めるのは自分だけ、というすさまじい時代を生きていた志士たちに思いをはせた。
 
 私の先祖は西郷方の志士として西南戦争に参加した。子供のころ、亡父から数回、この話を聞いたが、私は関心を持たなかったばかりか、変な先祖がいるな、と思ってその記憶を封印した。父は川柳を詠んでおり、号を南州と称していた。南州とは西郷隆盛の号と同じである。父は大の西郷びいきだった。
 しかし西南戦争は西郷の負けで、負ければ賊軍だからな、あまり誉めた話じゃない、と父はつぶやいていた。
 祖母はよく篤姫の話をしていた。篤姫の幼馴染みで、島津家の家老の家に養子に入った肝付尚五郎の実家と祖母宅は交流があり、その話もよく聞いていたが、それが小松帯刀のことだとは、ずっと後で知った。実は、昨年のNHKドラマ「篤姫」を見て、初めて篤姫の存在に目を奪われたものだ。祖母の話が蘇り、子供のころの記憶というものは本当に危うく、儚いものだと知った。
 自分の先祖がどういう人で何をしていたかもよく知らないのだ。若者が歴史を知らないと嘆く大人になったいまでも、自分の家族の歴史には疎い。
 直系の先祖が幕末維新のひとつの強烈な動きに関与したことは面映ゆい。そう思って人にも話さなかった。ジャーナリストとして、歴史が客観的に見れなくなるのを何よりも恐れたからだ。
 しかし年をとって、封印していた記憶を解くようになった。龍馬ゆかりの地を散策しながら祖先をしのぶと、自分が歴史の小さな一齣の中で生かされていることを感じる。
 義を持って生きた人間の死は対等のはずだと思うようになった。龍馬の死にも土方歳三の死にも同等の義があるのだときずく。龍馬を好む人、西郷を好む人、近藤・土方を好む人、それぞれである。
 もっと名もないが、自らの義に殉じた志士たちがたくさんいる。さらに誰にも顧みられることもなく死んでいったおびただしい人間が歴史の闇の中に呑まれている。
 これに気がついた人が、歴史の闇に呑まれてしまった無名の人たちを救い出すしかない。
 龍馬だけが英雄ではないのだ。いつまでも龍馬を偏愛していると日本人の精神はいびつになる。
 海音寺潮五郎の『西郷と大久保』を読んでいたら、薩摩藩士同士が凄絶な内ゲバをやった伏見の寺田屋事件のとき、私と同じ柴山姓の薩摩藩士が複数加わり、一人が死んでいることがわかった。ひょっとするとこの人物はゆかりの人かもしれない。
 寺田屋は坂本龍馬の定宿だった。著名な政治家が龍馬の親戚の親戚のそのまた親戚の遠縁にあたるといっていたが、そんなことをいえば日本中はみな親戚になるかもしれない。まだ調べてはいないが、そのうちに調べようを思っている。
 
以下は第116号(2010年4月15日付)からです。
アカデミー賞映画上映を妨害する日本人の情けない「恥の文化」
テロの危険まで感じている米国の映画関係者たち
 先のコラムで太地町のイルカ漁を描いたドキュメンタリー映画「ザ・コーブ」のアカデミー賞受賞について書いた。本コラムの立場は、捕鯨、イルカ漁は日本の古来からの伝統の食文化に基づいたもので、今回のアカデミー賞受賞は間違っていると、歴史の事例や文献に基づいて正面から反論した。
 しかし受賞報道をめぐるマスコミ報道は、映画の手法が隠し撮りだとか、トヨタ問題と連動する反日勢力が仕掛けたなどの脇道にそれた批評ばかりが目立ち、マトモに問題を扱う姿勢を見せなかった。
 そのつけが今、あらわれている。
 「ザ・コーブ」を日本で上映するにあたり、映画の制作関係者や上映関係者に様々な圧力や嫌がらせが行われているというのだ。
 米国在住の日本人ジャーナリストが、なんて日本は悲しい国なのか、とメールを送ってきた。日本上映の運動をしている関係者はテロにあうかもしれないと、身の危険まで感じているという。
 映画の内容が気にいらないと、陰に陽に妨害した揚句、上映に圧力をかける。映画が日の目を見ないように実力行使をする。
 これは言論の自由に対する明らさまな挑戦なのだが、日本の世論もマスコミをこれを止めようともしない。
 中国が作った南京大虐殺の映画上映時にも似たようなことがあり、映画館が上映を取りやめたことがあった。
 自分の国にとって不利な歴史だったり、間違った内容であっても、そういう映画や作品が作られたことは事実であり、消しようのないことだ。
 米国と核密約をした外務省の機密文書がどこかへ消えてなくなって、権力の力で日本の歴史からは証拠隠滅できても、証拠が米国から出て来たのだから、世界の歴史にかかわった日本歴史の事実は隠蔽できない。知らぬ、存ぜぬというのは矮小な権力意識のマスターベーションにすぎない。
 映画を見ないであれこれ批評していても始まらない。とりあえず見てさらに深くこの考えようと思っていた矢先、上映妨害の一報がアメリカの知人からもたらされた。
 映画を制作したアメリカの関係者たちは、「ザ・コーブは日本では上映不可能だろう」と見ているようだ。
 日本に言論の自由があると思っていたのは、単なる錯覚だったのだろうか。白昼堂々の、映画上映の妨害行為を日本人として許すべきではない。
 日本人は鯨やイルカやマグロを食うことを恥じる必要はない。しかし他者の表現の自由を奪い、陰湿な手法で妨害する野蛮な行為が、現代日本に存在していること、深く恥じるべきである。
 
以下は第115号(2010年4月9日付)からです。
桜への偏愛が国を滅ぼした
ソメイヨシノ一色、若者たちが潔く散った過去を思う
ようやく満開の桜も散り始めた。今春は寒暖の温度差の激しいなか、とりわけ花見の宴が隆盛だった。世の中を不況や雇用不安が覆うなか、古い日本を軽蔑していたはずの若者たちが、桜の下にビニールシートを敷き、酒を飲んで気勢をあげる風景がたくさん見られた。一気飲みを皆ではやす風景は、はた目には自暴自棄、ヤケッパチ行動に見える。外人観光客たちの違和感をかきたてる光景でもある。
 ワシントンのポトマック河周辺には、戦前に日本から贈られた関山(かんざん)という桜があり、満開の春には多くの観光客が訪れる。この桜は濃いピンク色で花も大きい。家族づれの遠足、フットボール、ジョギング、ゲームなどをして人々は楽しんでいるが、酒を飲む人はいない。米国では屋外での飲酒は禁止されてるいるのだが、明るく楽しい桜の下で、あえて酒を飲んで気を紛らす必要もないのだろう。
 いったい花見の宴と深酒がいっしょになったいまの日本文化はどうして生まれたのか?古くから花見の宴はあったが、これは宮中や将軍等の貴族や御殿の遊びだった。
 満開の桜で覆われた「哲学の道」を歩きながら考えた。
 桜の種類は300種近くもあるが、日本の花見で幅を利かせる桜は、おおむねソメイヨシノである。花が小さくて白ぽく、遠くから見ると薄紅の雲の塊のように見える。ソメイヨシノは花が咲くだけで、生殖はなく子孫は残さず、実もつけない。
 ソメイヨシノがはびこったのは、明治維新以降である。幕末に江戸の染井村の植木屋から売り出された「吉野桜」がもとで、これが東京の公園、神社仏閣などに大量に植林された。上野公園、明治神宮、靖国神社、千鳥が淵などの花見の名所の桜はソメイヨシノである。
 薄ピンクでぼうと雲海のように見える点が好まれる。
 もうひとつの特徴は、一斉に咲いて一週間ほどで散ってしまう。この桜の命の短さ、散り際の良さが、潔さの象徴になったのは明治以降だ。いつしか日本の武士道の美学を表すシンボルとなり、「花は桜木、人は武士」といわれるようになった。
 海軍兵学校で歌われた「同期の桜」もそうだ。国のために潔く死のう、と若者たちの美意識をかきたてたシンボルは、ソメイヨシノだった。さらには、追い詰められた日本が若者を犠牲にした「特攻隊」イメージに桜は重なっていった。
 宮中文化が根付いていた京都ではソメイヨシノへの抵抗感があり、東京のように一挙に植林とはならなかった。しかし古くからあった桜はだんだんソメイヨシノに変わっていった。
 哲学の道のソメイヨシノは、日本画家の橋本関雪が植林したという。現在、哲学の細い道と疎水は、ソメイヨシノに覆われて絶好の花見の場になっている。疏水の流れは散った花びらで埋まっている。
 哲学の道の創始者の西田幾太郎は「絶対矛盾の自己撞着」という日本哲学の真髄を説いた哲学者だが、ソメイヨシノに覆われたいまの散歩道を見たらなんというだろうか?
 京都でソメイヨシノがほとんどないのが、二条城である。最後の将軍徳川慶喜が大政奉還を決めた二の丸御殿の入口には、御所から贈られた「御所御車返し」という大粒の桜が植えてあり、ワシントンにある関山もたくさんある。
 武士の牙城だった二条城にはソメイヨシノはほとんど無い。武士が愛好したのは桜ではなく、松であった。松は常緑で枯れない。武士の命が長く続くことを松に託したのである。二条城の壁や襖絵には太い枝ぶりを誇る松の絵が描かれている。
 明治維新にソメイヨシノ一色文化が始まり、これが戦争で若者の命を粗末にする「同期の桜」につながっていった。
 武士道精神のシンボルには、桜より松が合理的である。無謀な太平洋戦争に突進し、退路もなく敗北して何百万人の若者や国民が死に追いやられたときのシンボルがソメイヨシノだった。
 戦後の焼け跡、闇市派の作家、坂口安吾や梶井基次郎の作品に描かれた桜は暗く不気味なイメージだ。桜は死を連想させ、桜の木の下には死体が埋まっていると、彼らは表現した。
 戦後65年、就職難の厚い壁を突破して入社した新入社員たちは「同期」と呼び合う。同期という言葉には、仲間でない者への排他的意識が混在する。仲間は血の結束を強要され、「同期の桜」となる。
 一斉にぱっと咲いて、ぱっと散るソメイヨシノをいつまでも愛で、シンボル化している間は、「坂の上の雲」から転落途上にあるいまの日本には勝機はない。かつての無残な敗北をまたしても繰り返すかもしれない。
 桜は鑑賞する花としては美しい。その儚さが日本人の心をくすぐることもわかる。
 しかし日本の花、としてシンボル化するのはそろそろやめたほうがいいだろう。桜にはセンチメンタリズムがあるが、松にはそれはない。ソメイヨシノへの偏愛を捨てて、枯れない武士道の松を思い起こすべき時代だ。現代日本人には桜離れが必要だ。
 
 
以下は第114号(2010年3月25日付)からです。
アメリカの戦争、現代を物語る恐怖と戦慄の映像
ハート・ロッカー
 ハート・ロッカー。まさに心を閉ざして人殺しをプロフェッショナルとするのが戦争だ。
 この映画が今年のアカデミー賞最優秀賞に選ばれたことは、アメリカ人の今の真情を物語っている。同時に、日本のイルカ漁の残酷さを告発した「ザ・コーブ」がドキュメンタリー部門で受賞したこともアメリカの今の一面を物語っている。
 ふたつの映画に共通するのは、人間がここまで残酷になれる「ハートロック」の極限に迫ろうとしている点だ。
 バグダッドの爆弾処理班の兵士の日常の仕事を描いているが、いったん戦場に人間が投げ込まれると、別の生き物に化けることがわかる。その証拠に、兵士たちは殺戮と恐怖のただなかで、麻薬のような陶酔感に浸るのだ。彼らは自分の死に直面しながら敵を殺す戦闘のなかで、恐怖と隣り合わせになりながら、激しい精神の高揚を感じている。敵を殺してヤッターと快哉の叫びをあげる。
 いつしか死と殺戮の快感が心身にへばりつき、抜けられなくなり、戦場にいることが大好き人間になってしまうのだ。やがて戦場でしか暮せない人間になる。
 味方の誤射で負傷して、やっとの思いで故郷へ帰り、愛する妻子と平穏な日常に戻る。スーパーで買い物をし、家の屋根を修理し、子供と公園で遊び、妻の料理を手伝う生活は、辛い戦場で毎日夢見た生活だった。しかし自宅へ戻ったとき、そこでは満足できない自分を発見する。
 彼は妻子を捨てて、再び志願してバグダッドの戦場へ戻るのだ。
 恐ろしい映画である。ここまで戦争の現実を無機的に描いた映画は見たことがない。どんな戦争映画でも、どこかにヒロイズムやロマンが忍び込んでいるものだ。
 しかしこの映画にはヒロイズムはない。もちろん男のロマンもない。戦争を悪ともいっていない。あるのはただ戦争の現実だけだ。
 アーネスト・ヘミングウェイは戦争作家といわれたが、この映画の映像はヘミングウェイのハードボイルドを思わせる戦争描写だ。世界中の戦場を渡り歩いたヘミングウェイは、戦争は人間の属性であり、最大の友だといっている。人間の本性を知りたければ戦場へ行け。作家は戦場で鍛えられると彼はいう。
 自爆テロで死んだ少年の腹に埋まった爆弾を、内臓とともに兵士が取り出す様はまさにハードボイルドの極地だ。見る側は吐き気を覚えるが、爆弾処理は淡々と進行する。
 戦争に対する思い入れや正義感やヒロイズムのなさは、女性のキャスリン・ビグロー監督ならではの戦争映画といえるだろう。
 平和な日常生活を淡々と描くのと同じリズムで、バグダッドの戦場を描くとこうなる。
 この地球上には二つの眞逆の生活世界が存在している。ビグロー監督はそういいたかったのか? どちらの世界も人間が作ったものだ。
 その眞逆な世界を行き来している平凡なアメリカの若者が、いつしか平和な生活を捨て、戦場にしか住めない人間に改造されてゆく。
 それが悪い、ともいっていないのがこの映画の特徴だ。無機的なニヒリズムの匂いがする。
 アメリカはここまで来たのか、という思いがする。同時に、内向きの平和ボケが進行する日本の現実に思いを致さざるを得なくなる。
 戦後日本は米国の軍事力と平和憲法に守られて、人間の属性である戦争から遠い世界に住んできた。まさに映画とは眞逆の対極にいる。
 世界の出来事に心を閉ざし、今の生活レベルの維持を至上命令とし、エゴに徹した飽食を喜びとする日本人の比類なき清潔好きとは、どういう精神状態なのだろう?人を陰から後ろから虐めるのが快感になってしまった日本人の精神はどこが傷んでいるのだろう。
 あるいは日本は平和の仮面をかむってはいるが、これも形を変えた内なる戦場なのではないか?
 心の価値観を失った日本人の生活は、戦場に暮らす人々と同じような無機的なニヒリズムにとらわれている。あの兵士のように、我々にも帰ってゆく場はない。この映画を見て、そんな寂寞たる思いにとらわれた
 
以下は第113号(2010年3月16日付)からです。
クロマグロへ飛び火した「反捕鯨」
背景にちらつく反日世論と黄禍論
 たかが映画、されど映画である。捕鯨の町・太地のイルカ漁を隠し撮りした「ザ・コーブ」というドキュメンタリーがアカデミー賞を受賞した。
 まだ映画は見ていないが、報道によれば徹頭徹尾日本文化を誤解した反日映画で、地球エコロジーのシンボルである知能の高い鯨を殺し、クジラの仲間のイルカを殺して食べる残虐な日本マフィア、と描かれているそうだ。
 映画のメッセージは侮れない。一過性の報道とは違い、蓄積されたイメージは深く静かに世の中に浸透する。
 おりしも、大西洋や地中海のクロマグロ取引が禁止されようとしている。世界のマグロ漁獲量の約80%は日本に輸出されているのだ。
 また日本の捕鯨船に侵入したシー・シェパードの幹部が逮捕された。日本の裁判を通じて反捕鯨を世界に訴えるという。まるで正義の使徒、国際的な殉教者の構えだ。この男の扱いを間違えると、さらに国際世論の反日を煽ることになるかもしれない。
 シーシェパードの次の狙いはクロマグロ漁禁止運動だ。このままではクジラ、イルカ、マグロと日本人が親しんできた食文化が次々と消滅する。食糧自給率が40%そこそこの日本の食には大打撃だ。
 日本人の鯨食は縄文時代に始まり、『古事記』には勇魚(いさな)として登場する。室町時代の京料理の本には、魚の王は鯨、次いで鯉、とある。日本人にとって古代から鯨は魚だった。鯨は、宗教的理由で肉食を忌避した日本人の重要なタンパク源だった。
 また戦後の食糧難の時代に鯨で栄養をつないだ世代にとっては懐かしい食べ物で、学校給食にも鯨肉が出された。日本人の食文化にとって、鯨は切っても切れない存在だ。
 欧米人は牛豚などの四足動物を食うが鯨は食わない。しかし石油が出る以前の欧米では、ランプ等のエネルギー源に鯨油を利用していた。近年でもミサイルの先端に使う潤滑用グリスに鯨油が使われていた。しかし鯨油以上にすべりの優れたグリスが開発されて鯨油は不要になった。
 大西洋の鯨を取りつくして太平洋に進出した米国捕鯨産業は、捕鯨船の補給地として日本の開国を求め、ペリーの黒船がやってきたのだ。
 英国は捕鯨基地としてアルゼンチンのフォークランド島を占領した。
 シーシェパードの男も「ザ・コーブ」を作った監督も自国の捕鯨にまつわる歴史を知らないのだろう。知っていれば恥ずかしくてできない行為だが、その無知が彼らの反捕鯨運動を支えているのだろう。世の中に無知ほど強いものはないのだ。
 実は反捕鯨のイデオロギーの根っこにあるのは、第二次世界大戦下の戦争体験だ。英国王室のマウントバッテン卿はビルマ戦線の総司令官として1万の英国部隊を指揮していたが、日本軍の攻撃で敗退し大量の捕虜を出した。この屈辱の戦争体験がマウントバッテン卿を徹底的な反日に追い込んだ。
 昭和天皇が訪英したとき、エリザベス国王主宰の晩餐会に出席を拒否したことで知られている。日本の天皇に会いたくない、という理由だった。
 インド洋の島国の小国にセーシィエルという国がある。かつての英領で宗主国の影響が強いところだ。そのセーシィエルが反捕鯨国家として、新興のアフリカやインド洋諸国をオルグして、反捕鯨国家に仕立てIWC(国際捕鯨委員会)に続々加入していた時期がある。新興加盟国は捕鯨とは何の関係もないが、IWCの過半数を得る評決のためだ。
 日本の農水省からも役人が出席していたが、孤立して無力で、アフリカ諸国の多数に押されて発言を封じられていた。日本代表は「おれは松岡洋祐にはならない」と意味不明なことをいっていた。
 官僚の無能のせいか、外交力で日本は歯が立たない。捕鯨に関する日本の主張は無視され続けてきた。
 IWC総会で1982年に日本の商業捕鯨が停止(モラトリアム)され、わずかに調査捕鯨という名の捕鯨が残されたころ、セーシィエルを訪ね、反捕鯨の事実を取材したことがある。
 大統領や首相、外務大臣にも会って反捕鯨のホンネを聞き出したが、セーシィエルの首脳も国民も日本に対する敵意はみじんもなかった。むしろ経済大国日本への親近感が強く、日本との交流を促進したいということだった。
 実はこの国は反捕鯨でも何でもなく、宗主国の指導に従って反捕鯨を訴えてIWCのリーダーシップを握っていただけということがわかった。
 鯨を食べない彼らは捕鯨禁止が海のエコロジーを守ると信じていた。
 チャーミングな首相が自宅の食事に招待してくれた。「日本人は鯨を食べるが、われわれはコウモリを食べるんだよ」と笑っていった。「そうか、日本人はコウミリは食べない。文化の違いですね」と答えたことを覚えている。
 「日本の捕鯨文化のために何かしたいと考えて調査捕鯨の道を残したことを理解してほしい」と彼はいった。
 さらに取材を続けているうちに、反捕鯨団体のスポンサーの中に英国の日本軍捕虜体験がある旧英国軍人がおり、これが米国の旧軍人とつながっているという話を聞いた。戦時下の遺恨が反捕鯨という形になっていまだに連続していたのだ。マウントバッテン卿も熱心な反捕鯨論者ということだった。
 反捕鯨の高まりは、中国や韓国などにある反日とは性格を異にする。中韓の反日は旧日本の植民地主義や侵略に対する歴史認識の側面が強いが、英国の場合はもと個々人の捕虜への残虐行為、というように具体的なのである。
 個人主義の国だから、国家間の関係ではなく、謝罪要求や補償要求は個人レベルで今日も続いている。
 中国経済の未曾有の発展、バンクーバ五輪の韓国の金メダル量産、北朝鮮の核兵器開発などの現実は、欧米の東アジアに対する警戒感を高めている。
 トヨタ問題もそうした文脈でとらえたほうがいいだろう。
  これは新しい黄禍論の再燃ではないか、鯨、イルカ、クロマグロをめぐる反日国際世論の高まりをじっくりと見据えて、真実の原因を突き止め、早急な国際世論への対応を考えないといけない。
 
 (C)このコラムの著作権はすべて現代メディア・フォーラムに帰属します。 
 
以下は第112号(2010年3月4日付)からです。
革命・反革命ごっこの歴史的考察
小沢氏は反革命のバッファーとして自民勢力を無力化している
民主党は今回の政権交代を「革命」と主張している。明治以来続いてきた官僚主導政治を終わらせるという革命だ。民主の革命に反対する自民党は健全な保守を掲げるが、内実はアンシャンレジーム(旧体制)の擁護者だ。  
  昨年夏の総選挙で国民は革命側を支持した。国民は、一部官僚エリートと既得権益受益者だけが得をする官僚主導政治の抑圧感、閉塞感から逃れ、真に国民のニーズを反映する政治主導の実現を願ったのだ。
 しかし現実は違った。かつて60年代の全共闘時代に江藤淳氏が喝破した世界、つまり戦後日本にはマトモな保守も革新も存在せず、すべては”ごっこの子供の遊び”世界に帰する、という政治論を超えることはできなかった。そういう失望の念が広がっている。
 参院の予算委員会に遅れて来た3閣僚があやまる風景は、遅刻した優等生が先生や級友に謝る軽い姿のようにしか見えなかった。その軽さは”ごっこの遊び”に似ていた。
 民主の革命には、何かが足りない。革命の本質的なもの、信念を貫く激しさや国民を救う思想や情熱が足りない。
 自民党も同様だ。健全な保守というが、保守の理念も愛国の情熱も見えない。保守の覚悟も美学もない。日本の保守の本質とは現世に執着せずに従容として武士道を守ることではないのか。西郷隆盛は賊軍といわれながらも、西南の役を起こして、盟友・大久保利通に刃を向け、救国の真情に命をかけたではないか。
 小沢氏、鳩山氏の金銭疑惑を追及する国会で、世界の非難を浴びるトヨタのトの字も出てこないのはなぜか? トヨタ問題は個人の金銭疑惑ではなく、政治が論じるべき国難である。
 自民党のアンシャンレジームを語るにしても、安物にすぎる思想しかないのが残念だ。
 安物にすぎる思想的根拠は、小沢氏に対する繰り返しの金銭疑惑の追及ぶりである。また母親の資金頼みだった鳩山首相に対する侮辱的ともいうべきマザコン批判である。
 米国のケネディ家は名門で、息子が大統領になるために資金を作った父親の愛情と配慮がのちの名大統領を生み、米国に多大の貢献をした。そんなケネディの女癖の悪さを語る人物はいても、彼の政治資金疑惑を語るアメリカ人に出会ったことはない。
 検察捜査にのみに頼って小沢氏を追及し、母親の金の贈与を国税がらみの脱税で誹謗する自民党は、取締当局という官僚組織に依存しすぎている。
 このやり方は、ミヤンマーなどの後進国軍事政権がスーチー女史の民主化運動を弾圧するときに軍や警察を使うのと似てはいないか。
 いぜれにせよ、革命の思想も覚悟も薄い民主党政権は、”革命ごっこ”をやっているに過ぎない。またアンシャンレジームのレベルにも達していない自民党は”反革命ごっこ”を楽しんでいる。
 もしも民主党が本気で革命をする気があるなら、衆参議会の過半数がある間にマニフェストに掲げた法律をどんどん通せばいいのだ。政治資金規正法改正、企業団体献金の全面禁止、派遣労働の禁止、大企業の内部蓄積規制、税法の優遇措置、ネット選挙運動の解放、メディアの寡占禁止、幼保一元化、記者クラブ解放、日本版FCC創設、ネット個人献金法、後期高齢者医療制度廃止、年金改正、天下り禁止、行政スリム化・役人のリストラ、高級官僚の給与見直し等々。支持率の落ちた参院選挙で負けるかもしれない民主党が、法律を通ることができるのは今のうちだけかもしれない。 
 民主党が本気で革命をするつもりなら、かつての自民党がやったような強行採決の山を築けばいいのだ。行き過ぎや修正は次の政権が行えばいい。
 自民党の数を背景にした小泉政権時代に、後期高齢者医療保険制度導入を始め、派遣労働の認可、福祉予算カット、医療補助カットなど格差社会を拡大させた悪法が国民の知らない間にたくさん通過しているではないか。
 自民党は健全な保守の理念を樹立し、天皇制をどうするか、米国、中国との関係、日本の安全保障、経済の再建など日本の未来に対する明確なビジョンと思想を打ち出せば、日本の二大政党政治のの受け皿として、政権復帰の芽が出てくるだろう。
 いまのように小沢氏の金銭問題をほじくっていては政権奪還の芽はない。
 なぜなら田中角栄の申し子で古い自民党体質そのものである小沢氏が民主党に存在することで、民主党内における反革命とアンシャンレジームの役割を、ほかならぬ小沢氏が一挙に引き受けているからだ。
 小沢氏は反革命エネルギーのバッファーだ。
 マスコミや自民党がいかに小沢批判を繰り返しても、小沢氏は傷つかないでいられる。小沢氏は自分の問題を棚上げして政治改革を主張できる。そうした矛盾した立場にいられるのは、ほかならぬ古き自民党の支えがあるからだ。
 小沢氏が民主党にいる以上、古い自民党は国民にとって無用の長物にすぎない。民主党の中に古い自民党が存在しているからだ。この現実を自民党は直視しなければならない。
 自民党はきっぱりと古い自民党から決別して、民主党の「リベラル革命」(大きな政府)に対抗して、「保守革命」(小さな政府)の旗を高く掲げることでしか、再生の道を歩むことはできないだろう。
 日本の政治文化にに二大政党政治がなじむかどうかはわからないが、少なくとも、政権交代が実現した今は、自民党が二大政党政治の受け皿になるしかない。
 大正デモクラシー時代に、原敬首相が追求した政友会と民政党の二大政党政治の萌芽は戦前の日本には存在した。
 しかし日本の二大政党政治の芽は、戦争翼賛の軍国主義と戦後のGHQ占領によって阻まれてしまったが、今回の政権交代によってやっと実現したのである。
 欧米先進国並みの政権交代がスムーズに行われる政治文化が日本に定着したとき初めて、われわれは”ごっこの世界”から足を洗うことができる。
 
以下は第111号(2010年2月17日付)からです。
"世論調査ごっこ”の不公正と落とし穴ー横並びで世論操作の道具になる
 現代の世論調査は、黄門様の印籠のようだ。これが見えぬのか、怖れいったか、とばかりに、多いときは日替わりランチのように内閣支持率の変化が示され、政党支持率の増減がマスコミ各店の店頭に並ぶ。
 しかしどの社の数字も変わり映えせず、食欲もそそられないのに、日本の総理大臣や政治家はマスコミ各社の出す世論調査の数字で一喜一憂している。国民も数字を真に受けて、態勢の流れに誘導されてしまう。
 当たり前のことだが、マスコミ各社は鳩山首相や小沢幹事長の金銭スキャンダルを垂れ流した直後に世論調査をするので、結果は報道内容をそのまま反映して民主党に逆風が吹いている。
 逆に昨年夏の総選挙で民主党が大勝したときは、自民党の麻生政権が叩かれ、民主党を囃すマスコミの流れが出来て、世論調査では民主党が圧倒的に強かった。
 しかしマスコミ1社が行う世論調査には大きな落とし穴がある。調査対象の選別法、サンプルの量、質問項目の作成、電話か面接か、によって結果は大きく異なってくる。しかもマスコミ各社は、調査予算カットのためにアルバイトの学生を使うことが多い。
 要するに世論調査の素人集団が調査をするのだから、結果は押して知るべしなのである。悪くいえば当たるも八卦、当たらぬも八卦、で世の中の実像とは大いに異なる数字が出ることがある。
 世論調査とは名ばかり、”世論調査ごっこ”というマスコミの遊びにすぎない。
 世の実像はどうあれ、マスコミ各社はいまこうあって欲しいとう数字を作り出すことができるのだ。調査内容は、日常の報道をベースにしているので、調査される側も報道と違う回答をしにくい。
 米国のある新聞に、「日本のマスコミで毎日叩かれている小沢氏や民主党の支持率が落ちるのは当然」という趣旨の記事があった。つまり日本の世論調査そのものが公正を欠く、ということだ。
 では米国の世論調査はどういうやり方をするのか?
 米国には、独立の専門調査機関やシンクタンクがたくさんあり、世論調査は大学や大学院で学問的なトレーニングを受けた専門家が行う。サンプル数も日本の10倍くらいは取って公正を期すのだ。
 たとえば「ビュー・リサーチ・センター」という調査専門機関は、支持率低下がいわれるオバマ大統領の政策に関する世論調査を行ったところ、政策への関心や期待感は、就任時とほとんど変化していない、という結果が出た。しかし医療保険制度改革に対する関心度だけが低下しており、これが大統領の支持率低下につながっている、と分析した。
 専門機関でなくマスコミが行う世論調査もあるが、その場合でも1社でなく、オピニオン・リサーチ社とCNNテレビ、ニューヨーク・タイムズとCBSテレビ、ウオール・ストリート・ジャーナルとNBCテレビの合同調査のように2社以上が合同で調査をして公正を保とうとしている。
 そしてほぼ専門の世論調査機関を介して調査を行っている。
 長引く米国経済の悪化がオバマ政権の支持率を落としていることは間違いないが、米国大衆の怒りを買ったウオールストリート救済や自動車産業を救済せざるを得なかったのは、ブッシュ政権時代のツケであり、責任はブッシュ政権にあり31%、オバマ政権の責任は7%という調査結果が出ている。
 オバマ大統領の支持率低下の根拠も世論調査結果の分析で合理的に理解できるのだ。
 ところが、日本の世論調査は民主党政権のどこに間違いがあり、その間違いのもとはどこにあるかが、さっぱりわからない。国会中継を聞いていても、自民党は民主党の金銭疑惑を追及するだけで、自民党政権の失敗を自己批判する気配も全くない。
 民主党の金銭疑惑によって自民党は総選挙に大敗し、政権を奪われたというのであろうか? 残念ながらマスコミ各社の世論調査も民主党政権を金銭スキャンダルによって追い詰める役割しか果たしていない。
 せめてマスコミの世論調査くらい"ごっこの遊び”をやめて、米国の公正さを見習ってもらいたい。 
 
以下は第110号(2010年1月31日付)からです。
西郷と大久保の維新VS南部藩
現代に蘇る戊辰戦争の政界地勢
 最近、西郷隆盛への関心が高い。NHKドラマ「篤姫」でも大久保利通より篤姫に好まれ、より人間的に描かれていた。理の大久保、情の西郷といわれる。大久保は冷徹かつ着実に維新の大事業を遂行した。盟友大久保と決裂した西郷は西南の役を起こして故郷・薩摩で反乱軍の総帥となり自決した。 勝てば官軍、負ければ賊軍なのだが、薩摩の西郷人気はいまでも圧倒的に高い。
  最近では郵政民営化の見直しで総務大臣を辞任した鳩山邦夫氏が、「政府に尋問の筋、之あり」と西郷の言葉を引用して辞任したのが印象的だった。
 朝日ニュースターの番組で西部邁氏と左高信氏の「学問のすすめ」という対論番組で西郷と大久保の維新を論じていたが、西部氏は年を経るにつて、西郷への共感が深くなったと告白していたのが印象的だった。
 大久保のように合理と知によって生きるのが人生の正道だと誰しも思うだろう。西郷は大久保の対局にあり、江戸城無血開城を果たした新政府への最大の貢献者なのに、国家への反逆者となったので、靖国神社にも祀られてはいない。
 「竜馬がゆく」の維新作家・司馬遼太郎氏も、西郷より大久保への評価が高い。しかし同氏の『歴史を紀行する』の「南部藩」(現在の岩手県)のなかで、大正デモクラシー末期の宰相・原敬が、薩長藩閥政府に強い怨念を抱いていたとの記述がある。
 原敬は大正デモクラシー末期に政友会総裁として日本初の政党内閣を樹立した人物で、大阪毎日新聞の社長も務めた新聞人でもあった。
 その原敬は戊辰戦争で薩長同盟に刃を向けた南部藩の家老の家系出身で、とりわけ薩長藩閥政府にたいして激しい敵意をもっていた。中でも大久保を大嫌いだった。南部藩主の楢山佐渡は賊軍の長の責任をとらされて切腹した。原敬は戊辰戦争で死んだ南部藩士の慰霊祭の祭主になって檄文を読んだことがあるが、その3年後に暗殺されてしまった。
 原敬は政府からの爵位を拒否し、「戊辰戦争には賊も官もない。あるのは政見の違いのみだった」と言い放っていた。
 たぶん原敬は、薩長同盟の指導者だった西郷を半分憎み、半分の共感をもって見ていたことだろう。
 ところで民主党がいう脱官僚政治の官僚制度をデザインしたのは維新の大久保である。これを原敬にいわせれば薩長同盟の芋侍が作った制度ということになる。
 いま民主党は明治維新から続いた官僚制度を変革しようとしているが、その変革の中心人物がいま検察の捜査を受けている小沢氏自身なのである。稀しくも小沢氏は南部藩の岩手出身で、原敬と同じ出自なのだ。
 一方の自民党時代の小泉元首相、麻生前首相、安部元首相はおおむね薩摩、長州の出自である。まるで薩長同盟VS東北・南部藩の権力闘争が現代に蘇っているようでもあり、不思議な因縁を感じさせる。
 ひょっとするとこの戦いは、維新以来の歴史の怨念を引きずって長引く戦になるかもしれない。 
 
以下は第109号(2010年1月15日付)からです。
スキャンダルで政権がつぶれる国家
アジア的後進性を暴露した三流政治
 降って湧いたような小沢氏の約5年前の土地購入疑惑で世の中が騒然としている。検察の強制捜査でついに民主党の石川議員が逮捕された。マスコミは連日疑惑を垂れ流し、野党自民党もチームを作って小沢金銭疑惑を追及する構えだ。極めて異常な政治空白であり、まさに戒厳令的事態が日本列島を取り囲んでいる。
 報道を読んで見ると、なにがしかの疑惑が存在するらしいことはわかる。しかし検察が鳴り物入りで強制捜査し、リーク情報らしきネタをマスコミが書きまくっているが、その重大犯罪性を裏付ける根拠は未だ判然としない。
 18日から国会が始まり、国民生活を大きく左右する重要法案の審議前に、こうしたスキャンダルの集中豪雨が起こった背景に何があるか。健全なメディアなら単にスキャンダルを垂れ流すのでなく、もっとマトモな分析を加える必要がある。小沢氏が古いタイプの政治家で自民党型の金権政治に手を染めた政治家であることくらい国民はだれでも知っている。だからこの事件はヤクザの出入りと同じ印象を国民は持つのだ。
 スキャンダルによって政権が崩壊した例は、古くは米国のニクソン政権のウオーターゲート事件がある。しかしこれは金銭疑惑ではなく、ベトナム戦争で追い詰められていたニクソン大統領が政敵の民主党に盗聴器を仕掛けたことがバレた事件だった。
 先進国で政権が崩壊するのはおおむね戦争責任を追及されることが多く、ブッシュ政権や英国ブレア政権などもイラク戦争の開戦責任を問われた。
 金銭スキャンダルだけで政権が追い詰められ崩壊する例は、民主主義が未熟なアジア諸国に多く、タイや韓国、日本で頻発する。
 韓国の場合は政権交代が起こると前の政権の大統領がやられる。韓国の前大統領は在任中の金銭疑惑がもとで自殺した。政治腐敗が起こるとタイでは軍部が出てクーデターを起こし、国王が割って入って裁量したりする。
 日本には正統的な軍部が存在しないので武力クーデターはない。しかし検察がその代りをはたしているように見える。さらに米国も日本の政治を操作する力を持っている。かつて日本の銀行に不良債権が積もっていることを極秘裏に指摘したのは、ペンタゴンだったといわれる。
 ロッキード事件で失脚した田中角栄の直系の政治家である小沢氏は、政治の金銭スキャンダルの構造を熟知しながら、自らこれを防げなかった。
 日本で初の政権交代が起こり、新しい政治が始まるという国民の期待が高まる矢先に、鳩山首相の金銭疑惑が起こり、さらには大規模な小沢氏のスキャンダルが起こって、国会どころではない騒ぎになっている。視聴率稼ぎのテレビワイドショーの絶好の餌食になりつつある。かつてのホリエモン騒動やノリピー騒動を彷彿とさせる。
 しかしことは政権交代後の立法府の問題である。検察ネタのスキャンダルをワイドショーの娯楽に転化している場合ではないのだ。
 議会は国民生活を向上させる立法に専念し、検察は自分の仕事をたんたんと遂行し、マスコミは国民の知る権利と民主主義の成熟に役立つニュースを書くことで、それぞれ課せられた役割を果たしたらどうか。
 個人のスキャンダルだけ追及するのでなく、政治と金の関係を律する方策を考えるのが国会の立場ではないか。野党自民党だって同じ問題を抱えている。しょせんは同じ穴の狢なのである。
 政治には金がかかる。日本の政党助成金は金食い虫の政治にとって焼石に水の様子である。
 オバマ大統領はボランティアネット献金と個人献金の浄財で600億円の選挙資金を集めた。このさい、米国のように企業からの政治資金は全面禁止し、代わりに個人献金の自由を拡大し、献金に対する税の優遇措置やインターネット献金もできるような抜本的な法律を作ればいいのだ。
 やればできることをやらないで、政治家が企業献金に頼っていれば、同じことがまた起こる。そのつど検察が前に出てきて、立法府は腐敗の度合いを深めてゆくだけだ。 
 
以下は第108号(2010年1月8日付)からです。
再び鳩山さんの「友愛」について
日本では笑い物、だが米国ジャーナリストの評価は高い
 鳩山首相の「友愛」について本欄で評価する論評をしたところ、自民党の某元議員がブログで鳩山首相に甘すぎるとボロクソにけなしていた。政治理念の評価は感情的な甘い、辛いの問題ではない。自民党は党の再生のために良い汗を流しているのか? 他人や政敵を誹謗することに血道をあげているのではないか? 自己正当化に窮々とするそんな体たらくだから野に下ったのだ。自民党の再生は二大政党政治の要だからこそ、もっと真面目にやれ、といいたい。
 そんなとき、『ニューズウイーク』誌で米国のジャーナリストのコラムを見つけた。鳩山首相の「友愛」はなぜ日本で”物笑いの種”になるのか、分析している。
 周知のとおり「友愛」はフランス革命の旗印になった考えだが、日本の有力紙は「ソフトクリームのように溶けやすい」とか「秘密結社」の合言葉だとか、冷やかしの論評しかしていない。
 日本のマスコミ人は不勉強でフランス革命の歴史など知らない無知なジャーナリストが多いので、無理からぬことではある。米国留学歴もある鳩山氏は日本の新聞記者の知的レベルより遙かに高い知性があるらしいので、こうした無知ゆえの誤解が生まれているのだろう。
 ニューズウイークのコラム子(テビン・スチュワード・カーネギー国際問題倫理評議会員)によれば、歴代の日本の首相や大物政治家の目標は、「雁行型経済発展」「普通の国」「美しい国」「実戦的先駆者」というように、他国に比べて優位に立つ日本の位置や立場を特殊化して語る人物が多かった。彼らには、国際社会のグローバルな枠組みの中で日本の果たすべき役割やリーダーシップへの言及がなかったので、ともすると日本のナショナリズムの強調だとみなされることが多かった。
 しかし鳩山首相の「友愛」は違う。日本を独立した主体とみなしながら、より大きなグローバルな世界の一員だと位置づけている。そこから日本が世界に果たすべき役割とリーダーシップが導き出されるのである。
 「地球温暖化」「金融危機への対応」「核拡散」「テロとの戦い」などの国境を超えるグローバルな問題解決に日本も積極的な役割を果たし、国際社会におけるリーダーシップを発揮することを、鳩山首相は世界に約束した。
 日本は「友愛」を通じて「東洋と西洋、先進国と途上国、南北格差」をつなぐ「架け橋」になろうと表明した。
 鳩山首相が国連演説で語った「CO2の25%削減」は、「友愛精神」の具体的な現れなのだが、これが現実化するかどうか今後の課題になる。
 いち早く日本の経済界からの反発があり、実現のためのロードマップも見えてこない。しかし困窮する世界は鳩山の日本を注視し日本に救いを求めている。この際、日本独自のエゴイズムは捨てなければなるまい。
 いま普天間基地移設問題で、日米関係の軋轢が生まれ、鳩山政権の屋台骨を揺るがしかねない問題になっている。しかし鳩山首相の「友愛」は、オバマ大統領の「核廃絶」と同様、グローバルな世界への呼びかけでありリーダーシップの表明だ。普天間問題だけで、オバマと鳩山が決定的な精神的離反をすることはないだろう。
 地球環境の保守と核兵器廃絶の世界平和の創出は人類の大目標なのだから、高い理想を掲げた鳩山首相が日本国内でそれほどボロクソに否定される理由はない。
 鳩山政権の問題点は、理想と現実のバランスが崩れているとことにある。このギャップをどう補修して埋めるかが課題なのだ。
 ”宇宙人”鳩山首相は噴出するリアルな党内問題、日米関係の現実問題にもう少し目覚めて、軋轢の元を果敢に断ち切る行動に出ることを期待する。
 今年、日本は「アジア太平洋経済協力会議」(APEC)の議長国になるが、「友愛精神」がアジア太平洋諸国をどう動かすか、注目したい。
 
以下は第107号(2010年1月4日付)からです。
新年の抱負
政権交代の愚痴は慎むことにする
 ジャーナリストの大先輩である松山幸雄氏から近著を賜った。『鳩山(一郎)から鳩山(由起夫)へ』というタイトルの本である。松山氏が駆け出しの政治部記者で官邸番になったころ、現首相の祖父の鳩山一郎が首相だったといい、以降、松山氏は歴代の首相をウオッチしてきた。
 戦後の政治史を熟知している数少ないジャーナリストの一人だが、その松山氏は今回の政権交代を評価し、これでやっと日本も先進国の仲間入りできたと率直に喜んでいる。
 松山氏によれば、民主主義の先進国の第一条件とは、「政権交代が行われること」であり、長年日本はこの条件を満たすことのできない欠陥国家だった。
 日本人がいくら先進民主主義国だといいつのってみても、政権交代がないのは独裁国家と同じ、という外部の評価がたえずつきまとってきたのだ。
 戦後初めて鳩山一郎の孫の由起夫氏が本格的な政権交代を果たしたことを素直に喜ぶ気持ちが、この本からよく伝わってくる。日本人はこの政権交代をもっと大事にしなければならない、というメッセージがこめられている。
 政権交代から100日が経ち、さまざまな政治軋轢とマスコミからのバッシングが鳩山新政権に襲いかかっている。世論の支持も急降下している。
 支持率が落ちた理由は、鳩山氏自身の政治資金疑惑や普天間基地移設問題の優柔不断があり、一方で小沢幹事長の影響力の大きさなどだが、こうしたマイナス面を伝えるのはマスコミである。
 世論はマスコミが誘導するままに、鳩山政権への支持を取り下げつつある。マスコミは意のままに、世論の方向を操作している。マスコミに見限られたらその政権が終わることを、前の自民党麻生政権が身をもって示した。 恐るべきはマスコミ。マスコミの渦中で長年仕事をしてきた松山氏は、その怖さも十分に知っている。
 日本人は性急に結果を求める民族だ。今日の結果を明日求めようとする。しかしマスコミが性急に下す結論に対して、世論は今少し寛容になって政権交代の行方を見守る必要がありそうだ。
 鳩山首相の交代説が一部のメディアでささやかれているが、本当にいま交代させる時期なのだろうか。金銭疑惑といっても、母親が息子に渡した金の問題であり、税金をかすめ取った類の話ではない。普天間基地移設にしても、連立を組んだ社民党や国民新党の自己主張が強すぎて、鳩山政権を脇で支える気概に欠けているように見える。
 みんなで支えられなければ、政権交代は崩壊するだろう。重箱の底をほじくるような批判やためにする足の引っ張り合いをやめて、政権交代の果実を国民全体のものにするよう努力すべきだ。
 クーデターでもない限り、少なくとも4年間は民主党政権は続く。「坂の上の雲」や「竜馬がゆく」など明治維新のドラマが人気を集めている。
 しかしいつまでも明治維新ではないだろう。明治維新のドラマばかり持てはやしていては、今の時代を盛り上げることができなくなる。
 政権交代で何を変えるべきか。これまでの自民党政権の根本的な欠陥は何だったのか。どうして税金が無駄に使われ、国民が生き甲斐を持てない政治だったのか。
 政権交代元年の新年を迎え、そういう素朴な疑問が解決できるような政治を目指そう。総理を代え、政党を代えることで問題が解決しないことをわれわれはすでに十分に学んできた。
 
以下は第106号(2009年12月26日付)からです。
日中同盟軍VS米連合軍の戦争で米軍は敗北する?
ハンチントン『文明の衝突』で描かれた「世界最終戦争論」の悪夢再び
小沢氏の訪中熱烈歓迎や中国副主席の天皇会見問題で、日中の急接近がいわれている。これに反対する反中国メディアや評論家たちとの怒鳴り合い、ののしり合いがテレビワイドショーを面白おかしく賑わせている。
 平和といえば平和な風景ではある。しかしそう面白がってばかりはいられないな、と考えているうちに、10数年前に米国にいたとき読んだハンチントン著『文明の衝突』の内容を思い出した。
 ハンチントンは文明は衝突を繰り返しながら、優位なものが劣位の文明を滅びしてサバイバルして行く、という進化論を絵に書いたような優勝劣敗の物語を展開している。現在のキリスト教え文明とイスラム文明の衝突は、21世紀半ばには決着がつくだろう。
 その後、キリスト教文明が永久に残るかというとそうではない。世界最終戦争は極東の経済優先、非宗教で結びついた日中同盟とキリスト教文明を代表する米国との間で起こる。この戦争で日中同盟軍が米軍を打ち負かし、世界の覇権を握るが、やがて日中で再衝突が起こって文明は滅びる、というものである。
 このハンチントン説はベストセラーになった本だが、米国の学者やジャーナリストたちに聞くと肩をすくめ、「悪い夢、というより気が狂ってるんじゃない」などと笑ってまともにコメントする人はいなかった。
 筆者もそう思ってこの本を本棚の奥にしまいこみ、そのうちに本も行方不明になってしまった。
 ところが、いまになってハンチントンの悪夢物語を思い出したのだ。鳩山政権は普天間基地移転問題で米国との軋轢を繰り返し、つい先日もクリントン国務長官は駐米大使を呼んで早期決着を依頼したが、当の日本政府はどこ吹く風、といった気配である。
 鳩山内閣はこの問題の顛末を国民にもアメリカにも説明してはいない。もしよほどの代案があるとすれば、「米軍基地の全面撤去」や「駐留なき安保」というものであろう。
 しかしアメリカにいざというときだけ来てくれ、と”セコム”を頼むのは、虫が良すぎるのである。
 クリントン政権時代に、北朝鮮危機が起こり、台湾海峡も緊迫したことがあった。米軍は第7艦隊を台湾沖に移動配備し、米軍普天間縄基地も日本の防衛のために戦時体制へとシフトしたのである。
 そのとき、共和党の保守派のパット・ブキャナン議員は、極東への軍事関与をやめるよう議会で演説し、「日本のためになぜ米国の若者が血を流さなければならないのか」と訴えた。
 ブキャナン氏のこの訴えは米国の若者をはじめ広範な支持を受けたことを平和ボケの日本人は知らないでいる。日本人は金で米国の若者の命を買おうとするのか、と。もし本気で日本が米国に”セコム”を要求したら米国世論は激怒するだろう。
 こうした米国との軋轢が深まる中で、日本が中国と急接近すると、ハンチントンの説がまんざら狂気だと片付けられないことに気がつく。
 日米同盟といいながら日本人は米国を知らない。手前勝手に憶測して、知ろうともしないように見える。ましてや中国のこともわかっていないだろう。こうした外交音痴の中で、安全保障や軍事が進行する怖さを知るべきだ。
 NHK大河ドラマの「坂の上の雲」で、日清・日露戦争を戦った東郷平八郎や秋山好古、真之兄弟などの名将が出てくるが、維新の日本を支えた人物たちの思慮深さと知力の高さを、鳩山政権の閣僚たちはもっと勉強したらどうか。
 
以下は第105号(2009年12月14日付)からです。
中国副主席の会見問題で揺れる象徴天皇の曖昧な地位
天皇は国家元首の顔も持っている
 
 中国副主席の天皇会見問題の縺れは、天皇の憲法上の規定が曖昧なところに根本原因がある。象徴規定は国内における天皇の地位を決めたもので、天皇は政治に関与しない、というのも国内の規定である。
 宮内庁やマスコミは、慣例を破る中国副主席の会見要求をルール違反の政治利用だと激しく非難しているが、天皇の地位に対する無関心がこうした結果を招いていることに対する反省がない。一ヶ月前に会見を申し込むというルールがあるなら、宮内庁はそれを海外にきちんと伝えていたのだろうか。
 海外では日本の国家元首は天皇だと認識している。外国の大統領やそれに準ずる国家元首が訪日したときに、天皇に会見を求めるのは当たり前のことである。その際、天皇が国家元首だとすれば、当然、国際政治に関与することになる。
 マッカーサーの指令で日本国憲法草案を書いたGHQのケーディス民政局次長に会い、日本の新憲法誕生前夜のエピソードを聞いたことがある。
 ケーディス氏は、マッカーサーは日本国憲法草案の三原則をメモで示したといった。主権在民、戦争放棄、封建制廃止、の3つだった。天皇の地位は、「Head of State」(国家元首の意味)とマッカーサーは書いたという。従ってGHQ側の天皇の認識は、象徴(シンボル)ではなく、国家元首なのである。GHQのこの認識は国際的に通用し、海外における日本の国家元首は天皇だったということになる。
 しかし日本国憲法では天皇は象徴と規定され、国内における天皇は国民統合のシンボルとなり、一切の政治行為をしない存在になった。
 天皇の国際的地位と国内の地位が矛盾したまま放置され、戦後連綿と続いてきたことになる。国内的には、日本の国家元首は内閣総理大臣、ということにしておいたのだ。戦後日本の国際的な発言力は増したが、日本政府は国家元首規定の矛盾を放置したまま今日に至った。
 天皇への会見を要求した外国のトップに、正当な理由なしに天皇を会わせないとなると、外交上の問題になる。宮内庁が一ヶ月ルールを作った背景には、すべての会見要求に応じたらきりがないという判断もあるのだろうが、それは内輪の論理ではないか。
 日本が閉鎖的で秘密のベールで隠蔽された国家だというイメージは、天皇の地位が曖昧な点に原因がある。
 自国の国家元首が誰なのか、説明もできない政府やマスコミが、中国副主席のルール違反を政治利用だと騒ぎ立てるのは、当を得ていない。
 誰もが納得する日本国天皇の地位を確立し、海外にも説得して理解されることが先決だ。内輪の者にだけんしかわからない一ヶ月ルールを盾に、天皇へのアクセスを排除する論理こそ、政治利用なのではないか。
 まずオープンにすべきは日本国天皇の地位である。国家元首かシンボルか。国民の大多数も象徴天皇の意味と定義を知らない。
 
 
以下は第104号(2009年12月7日付)からです。
社民党・福島党首は大臣ポスト目当てで連立したのか
米国世界戦略の中に日本の国益があることを知らない外交音痴
 
 橋下大阪府知事の普天間基地の関空移設案は、極めて重大なニュースと判断し本コラムで取り上げた。ところが大新聞もテレビもこれを黙殺したが、沖縄の新聞が書き、1週間後に朝日新聞が社会面トップで報じたことで、新聞に追従したテレビが報道するというニュースの流れを観察できて面白かった。まっ先に取り上げた本コラムの功績だった。
 ところが肝心な政府中枢がいまだに揺れているのはどういうことか。
 福島社民党党首は橋下知事のような代案もなく基地の県外移設にこだわり、辺野古沖にするなら政権を離脱すると表明したからだ。
 参院過半数に満たない民主党は大慌てで、鳩山首相も左右を見ながら揺れている。この事態に温厚なルース駐日米国大使が激怒したという。
 外交のイロハを政府要人が分かっていないからだが、早く収拾しないと対米外交を損ねるというだけでなく、近隣諸国からも軽視される。日本政府には意思決定能力がないとみなされるのだ。ことが安全保障と軍事に関する問題だからなおさらである。
 福島党首は国益を担う覚悟もなく大臣ポストに就いているのか、大いに疑問だ。大臣の椅子欲しさに政権入りしたのか。鳩山首相はもっと適任者に交代させたほうがいいのではないか。参院過半数の数合わせにのみこだわると、重大な国益を損ねることになる。
 盟友のオバマ大統領も議会では苦慮しているではないか。しかしオバマ氏はあらゆる説得を重ねながら辛抱強く自分の信念を貫こうとしているのではないか。鳩山さんにはもう少し盟友を見習ってほしい気がする。
 福島党首はないものねだりで駄々をこねる子供のように見える。米軍基地の全面撤退は理想論かもしれないが観念論にすぎない。現実には「月を取って欲しい」とねだる子供の欲望と似ている。
 福島さんには橋下知事の提案の真意、「痛みを本土でも分かち合う」精神とは何かを見習って欲しい。痛みを分かち合うとは、身を捨てることだ。
 米軍基地がなぜ日本に存在しているか、その歴史的経緯に無知な国民が多いが、無知なのは政治家も同じのようだ。
 日本の米軍基地の役割を分析するといろんなことがわかってくる。米軍基地は全国に135か所あり、在日米軍の兵員数は約3万3000人、これ以外に第7艦隊2万人が展開している。横須賀には原子力空母など11隻が母港にしており、佐世保にも揚陸艦など7隻がいる。
 日本からの米軍支援は5000億円、これに自衛隊約20万人が後方支援で控えている。(小川和久氏の立命館大学ジャーナリスト養成塾の講義資料参照)。
 これからわかるように、日本は米国ペンタゴンの最大の後方支援能力を持っている。その能力は同盟国の中でも群を抜き、イギリスの7倍ともいわれる。つまり米国の世界戦略は日本の米軍基地と日本政府の支援なしに成り立たないのだ。
 大使が激怒した背景には、オバマ大統領がアフガンへの兵士増員派遣を急きょ決意した矢先でもあるからだろう。
 現状では、アメリカが日本の米軍基地を放棄することはありえない話だ。普天間基地の移設は沖縄の住民感情に答えた政策であり、辺野古沖移設もその代替措置として日米が合意したものだ。
 県外移設案で橋下提案がもし実現すれば、沖縄の負担がさらに軽減されるが、現状ではリアリティがない。たぶん実現は無理だろう。
 となれば、やはり辺野古沖案しか現実的選択肢はなくなる。こうした分析をすることもなく感情的に幼稚な平和主義論をぶっても国際世論は耳を貸さない。外交能力がない国家とみなされるだけである。
 しかも身内のごたごたで政権に亀裂が入り、政府が弱体化するようなことがあれば、自民党時代の政治となんら変わることがなくなる。政権交代に賭けた国民の期待を裏切らないように、首相は毅然とした姿勢で決断すべき時期だ。
 
以下は第103号(2009年12月1日付)からです。
橋本知事の関空への米軍・普天間基地移設案を支持する
 本土も痛みを分かち合う覚悟
 米軍普天間基地移設で、辺野古沖移設の日米合意が現実感を持って語られ始めた。泰山鳴動して鼠一匹、といったところか。
 岡田外相の嘉手納統合論もリアリティがなく、県外移設も不可能となれば、結局は自民党政権時代に日米が合意した辺野古沖新設移転に日米の照準が合ってくるのは当然の帰結だ。
 民主党が選挙公約で沖縄県民に約束した県外移設公約は、現状では難しくなった。ほかに選択肢がないからだ。
 安全保障の専門家の大学教授は、「日米の安全のために沖縄県民には引き続き我慢していただくほかはない」とテレビ番組でいったが、おそらくこれが本土に住む日本国民の総意であろう。
 歴史をひもとくと、いつの時代にも沖縄は日本本土の防衛の最前線に立たされてきた。ペリー提督が日本に遠征したときも、沖縄は艦隊の兵員上陸と休息、補給基地として使われた。
 太平洋戦争では、本土は空襲や原爆投下、艦砲射撃などの空中戦はあったが米軍が上陸してきて地上戦が戦われたことはない。しかし沖縄では激しい地上戦が行われ、多数の沖縄県民が犠牲になっている。
 沖縄の人々は本土の人間が沖縄に対して無慈悲な感性を持っていることをを知っている。口先ではいろいろいうが、本心では自分たちを踏みにじって顧みない人種ではないかと思っている。長年、沖縄を取材した本土のジャーナリストとしては忸怩たる思がある。
 沖縄が米国から返還されるとき、復帰を喜ぶ人たちだけではなかった。日本に復帰せず、米国統治のままがよいという人もいた。
 米国もNO、日本復帰もNO、という立場の「反復帰・琉球独立論」を唱える沖縄の著名なジャーナリストにインタビューしたことがある。過激派と見られた彼の心中には、長きにわたる沖縄人の悲しみが蓄積し、その思いは本土から見捨てらてきたことに由来するというものだった。
 沖縄人の積年の思いは、日米双方から独立することでしか果たすことができない、という。
 あれから40年、沖縄の心情を日本国民は理解していない。
 今回、橋本大阪府知事から出された関空を米軍基地として利用する提案は、沖縄の負担を本土で主体的に分かち合うという精神的な意味があり、沖縄県民の思いに初めて答えた画期的な提案だ。
 橋本提案が、現実に陽の目を見るかどうかわからない。しかし「本土も痛みを分かち合う」勇気ある知事の提案という意味で、縺れ切った米軍基地移設の行方を明るくさせることは間違いない。
 普天間基地移転は沖縄、米国、日本政府間の交渉というだけではなく、まずもって本土の国民が責任を負わなければならない。
 
以下は第102号(2009年11月10日発行)からです。
岡田外相の米軍基地嘉手納統合案はなぜ実現しないか?
 真因は海兵隊VS空軍の不仲説、だが日本マスコミは米紙のコピー
 
 米国の有力紙、ワシントンポストやウオールストリート・ジャーナルは、民主党政権が唱える日米軍事同盟見直し論や米軍沖縄基地移設の政策変更案に対して、異論や牽制球を投げている。
 「日本は中国よりも厄介な存在」(ワシントンポスト)、「鳩山政権は歌舞伎のような大見えを切った」(ウオールストリート・ジャーナル)などの酷評は、日本の政権交代に対する米国の保守層を代弁する一部マスコミの苛立ちのあらわれだ。
 しかし米国には様々な意見がある。政権交替した日本が米国との関係を見直し新しい外交政策を立案するのは当然で、日本はもっと主体性をもつ外交をしたほうがいい、という意見もたくさんある。
 だが日本のマスコミは米国の多様な日本観を伝えることをせず、ワシントンポストなどの一部の論調だけしか紹介していない。このため、米国世論は一丸となって日本を攻撃しているように見えている。
 米国の保守層と日本の55年体制下で育った政治家、官僚たちは、20年以上も前の冷戦下の世界システムを好み、いまだに中国敵視、ロシア敵視政策を懐かしむあまり、日米関係が固定的であるほうが望ましいと考えている。観念だけでなく、長年の米国依存体質にまつわる巨大な人脈や既得権益があるし、実務的なマニュアルが出来上がっていて面倒がない。
 米軍基地移設も含めエスタブリッシュメントと化した日米関係の既定路線のスムーズな展開を阻害する要因を、民主党政権が作っているというのだ。しかし主権国家ならどの国でも国際政策の修正が行われるのは当然だ。
 軍事アナリストの小川和久氏は、「日本の米軍基地提供と資金がなければ米国の世界戦略は成り立たない。日本のマスコミも政治家も官僚も軍事問題の実像を知らず、空論でものを言っている」と指摘している。
 実は、日本は米国に対して対等以上の優位に立ってものをいうことができる。日本の安全保障が米国に依存する以上に、米国の軍事戦略は物心ともに日本に依存している現実がある。
 日本には米国に対する大きな事実の外交カードがあるのに、旧自民党政権も外交官僚たちもせっかくのカードの使い方を知らなかったようだ。日米軍事同盟の中身を知らないで外交交渉をしている、というわけだ。
 はたして岡田外相はカードの使い方を知って、嘉手納基地への統合論を唱えているのだろうか。
 米国側は岡田外相の統合案に反対しているし、既定路線で解決の意向を示す防衛大臣との意見の不一致もあって、野党自民党もマスコミも「閣内不一致」と鳩山政権を責め立てている。
 さらに日本のマスコミの論調も米国の有力紙と同じで、不思議なほど横並びになっている。米有力が書くと、取材もせずにオウム返しに翻訳して書く日本マスコミのアホさ加減と不誠実が、ここでも露呈している。
 ところで、岡田外相の嘉手納統合案だと一部の軍用機が使えなくなる、という反対理由を米軍関係者は語っている。これに対して日本外国特派員協会専務理事の飯沼良祐氏から面白い話を聞いた。外国特派員たちが語る米国の本音は、「海兵隊と空軍は仲が悪く、かりに統合されても一緒にやってゆけない」というものだ。
 神は細部に宿る、というが、嘉手納統合案の難しさの理由は、アンダーグラウンドで外国記者たちがささやく不仲説が、ことの真実を映しているように見える。そういえば戦時下の日本でも、海軍と陸軍の敵対関係が表面化し、これがハーバー奇襲の日米開戦を早めるのに大きな影響を与えた苦い歴史がある。
 
以下は前号101号からです。
マスコミ正常化の突破口になるか、日本版FCC設立へ
 民主党は放送電波の許認可権を総務省管轄から、独立法人組織に移すことを選挙公約にしている。この公約は、子供手当支給や高速道路無料化などに比べ、マスコミではほとんど報道されることはなかった。
 いち早く原口総務相は米国を訪問し、米国の独立行政法人FCC(連邦通信委員会)の組織モデルを日本に導入する検討を始めている。郵政民営化の見直しや財源の地方移譲の問題と共に、日本版FCCは最重要課題だ。
 米国のFCCは1934年に出来たが、その目的は放送を国家権力の恣意性から独立させることで、民主主義と言論の自由を守るためだった。
 以降、FCCの米国モデルはヨーロッパに普及し、現在、大多数の先進国が採用している。日本では、GHQ占領下に日本版FCCが存在したが、
占領終結後、旧郵政省(総務省)に吸収され国家管理に移った。
 日本のテレビは米国、英国などと違い、言論の自由が乏しくジャーナリズム性も希薄で、娯楽、CM、情報操作の宣伝機関にすぎないと見られるのは、電波許認可権が国家と与党自民党に握られてきたからだ。
 しかも大新聞の系列下にある大多数の民放テレビ局は、与党政府に”人質”に取られているようなもので、新聞の言論の自由とジャーナリズムの劣化にも多大な影響を及ぼしてきた。
 政府与党はことあるごとに、テレビ番組に介入し許認可権をちらつかせて圧力をかけてきた。テレビ局は圧力に怯えて政府のいうことを聞き、リークによる情報操作を行い、捜査当局の”国策捜査”にも全面協力してきた。
 国民視聴者のニーズは眼中にはなく、テレビ局は国と与党の顔色と視聴率だけしか見てこなかった。
 こうした日本のテレビ50年の歴史とは、簡単にいえば、国と与党自民党の付属機関でしかなく、欧米テレビのような独立した言論機関とはいえないかった。
 今回の政権交代で、民主党はテレビを国家の付属物から切り離すことで、テレビの正常化を図ろうとしている。
 これまでも専門家の間では、さんざん日本版FCC構想は語られてきたが、新聞もテレビも伝えないので、国民の知るところではなかった。
 民主党構想がどのようなものになるかは未知数だが、日本版FCC創設がテレビ局だけでなく、記者クラブに汚染された大新聞の言論の自由と独立の姿勢を向上させることは疑いない。
 テレビが国家の情報操作とスキャンダルの道具から、国民の知る権利に奉仕するメディアに変化する。
 日本版FCC創設でメディアの政権交代が実現すれば、今回の政権交代による大きな果実が国民のものになるということだ。
 原口総務相は民主党の大臣の中では最もテレビ出演が多かった議員なので、テレビ界に甘くならないよう厳正な電波政策のハンドリングを望みたい。 
 
以下は第100号(2009年9月22日)記念号です。
 
この論説コラムは開始から約10年、更新を怠った時期もありましたが、今回でやっと100号記念号を迎えました。引き続きのご愛読をお願い致します。
 
岡田外相の密約外交文書の公開命令
米国の核持ち込み密約を解明し、国民の信頼感を取り戻せ
 
 岡田外相が外務省に対して、米国の日本への核兵器持ち込みに関わる日米機密外交協定文書の公開を命令した。外交文書だけでなくあらゆる政府行政官庁が作った文書は、30年をめどに公開されるのが原則だ。米国では捜査機関FBIの機密文書でも原則30年で公開されている。外国人でも公開請求ができる。
 米国、英国、カナダ、フランス、ドイツなど先進民主主義国はよほどの国家軍事機密を除いて、あらゆる政府関連文書うを国民と世界に公開している。
 時の政権が行った行為は時間を置いて明らさまにされ、後世によって歴史的な評価を受ける仕組みになっているのだ。それによって国家・社会の民主主義は進化もし、国民の知的レベルも上がる。日本人の知的レベルの低さはアジアの他国と比較しても目立つが、これは戦後60余年にわたって国民の生殺与奪権を握った政官連合の国民蔑視主義に起因している。
 今回の岡田外相の密約文書公開命令は、自民党政権下では絶対に不可能なことだ。なぜ自民党では密約文書公開が不可能だったかというと、官僚に政治家が首根っこを押さえられ、官僚主導政治だったからである。
 岡田外相の英断と決意に期待する。
 
 戦後、天皇が国民主権の象徴になったあと、「お上」とは官僚を指す俗語になった。「お上」である官僚はたとえ100年後であっても、自己決定した政策の間違いを暴露されることを恐れるのである。
 官僚政治の打破をスローガンに掲げた民主党政権は、戦後極めていびつな形で連綿と続いた官僚による「お上政治」の息の根を止める決意を示している。この点で、民主党政権は歴史的な正当性を持ち、国民の70−80%が支持する根拠となっている。
 政府関連文書の公開すらできなかったことは、日本の政治が独裁国家並みの後進国レベルに止まっていた主たる原因でもあったのだ。
 沖縄が米国の占領から日本に返還されたとき、返還協定を調印した佐藤首相は日本国民に対して、「核抜き本土並み」の条件を示し、「非核3原則」の条件を確認した。日本国民は佐藤首相の言葉を信じていた。
 しかし毎日新聞の西山記者は外務省の機密文書を入手し、沖縄返還にまつわる佐藤首相と米側の間で秘密協定が存在したことを明らかにした。西山記者は外交文書の機密漏えい罪で逮捕され、有罪判決を受けた。このとき毎日新聞は西山記者個人に責任をなすりつけて国家の嘘と戦うことをしなかったために、毎日新聞のその後の部数減と凋落傾向を招いた。
 毎日新聞だけでなく、権力との戦いを放棄した当時の日本の大新聞ジャーナリズムも同じで、毎日の凋落を草刈り場に部数を伸ばす新聞各社の”仁義なき戦い”が繰り広げられた。
 ベトナム戦争をストップさせた米国大新聞の金字塔ジャーナリズムとは月とスッポンの違いがあった。
 ちなみに日本の大新聞の「朝毎体制」から「朝読体制」への変化を促したのも、沖縄密約文書と西山事件を契機にしている。
 しかるに、ノーベル平和賞まで受けた佐藤首相は「非核3原則」で国民に二枚舌を使っていたのだろうか。もし二枚舌だったとすれば、ノーベル平和賞の権威にかかわる問題に発展するのは必至だ。
 記者時代、沖縄返還直後の沖縄を何度も取材したことがあるが、沖縄の多くの住民もジャーナリストも、核兵器が沖縄に存在しないことを信じる人など誰もいなかった。あそこに核兵器がある、と米軍基地内の核兵器の核貯蔵庫のそばまで案内してくれた人もいた。
 以来、核抜き本土並みとか、非核三原則という言葉を信じたことはない。日本にも核兵器は持ち込まれていると、なぜ政治家は国民にいえなかったのだろか。なぜ佐藤首相は大嘘をついたのだろうか?
 米国では沖縄返還にあたり日本との密約機密協定があったことを示す文書は公開されており、密約文書作成に関係した人物の証言も出されているのに、なぜか政治家も外務省もいまだに認めない。麻生前総理もかたくなにこれを否定した。
 核兵器の持ち込み問題だけでなく、戦後沖縄の地位をめぐって昭和天皇とマッカーサーの会談も行われているが、こちらの会談記録もいまだ公開されていない。
 GHQ占領下で、吉田茂首相時代の北朝鮮政策や北朝鮮帰国運動に関連する極めて面白い内容の文書が米国で公開されたりしたとき、何度もワシントンの米国立公文書館をたづねて、日本関連の外交文書を漁ったものだ。
 日本の現代史家やジャーナリストの米国詣では有名な話だ。日本には公式資料が存在しないので、米国にある外交文書を踏査し、日本の戦後史を書くというわけだ。
 しかし米国で発見した資料を日本でコンファームしようとすると、たちまち外務省の壁にぶち当たる。そんな文書は日本には存在しない。米国が勝手にでっち上げて公開しているだけだ、というのである。
 ワシントンの公文書館の日本文書部門には、テーラーさんという名物の資料通がいた。どこに何があるか、何でも知っている人だった。
 こちらが要求する資料について、それが欲しいなら日本に戻って外務省と交渉しておいで、日本の外務省がOKするなら出してあげる、とすまなさそうにいう人懐こい表情を思い出す。そのテーラーさんもだいぶ前に亡くなった。
 岡田外相が積年の課題を解決し、米国詣をしなくても現代史が書ける透明な国になることを、切実に願う。
 
以下は第99号(2009年9月12日)発行からです。
鳩山氏の「友愛」は誤解されている
フランス革命に起源をもつ市民社会結合の崇高な理念でもあった
 
鳩山さんが唱える「友愛」の精神は、日本のマスコミはもとより米国ジャ―ナリズムでも誤解されている。友愛、同胞愛という言葉が文学的で政治家の言葉としてふさわしくない、と受け止められ、鳩山新政権が日米同盟から脱してアジア諸国との関係強化に動き出すのではないか、といったトンチンカンな”被害妄想”まで生み出している。
 日本のマスコミには無学な記者が多いので、「友愛」(Fraternite)という言葉は聞いたこともなく、フランス革命の最重要な理念だったことなど知らないで騒いでいるのだろう。
 しかし米国独立革命はフランス革命に誘導されたし、ニューヨーク・マンハッタンにある自由の女神像は革命フランスからプレゼントされたものである。米国憲法はフランス革命人権宣言をモデルに起草されている。
 フランス革命精神を米国ジャーナリストが知らないはずはない。
 フランス革命の理念とは、自由・平等・友愛(博愛)の3つだった。当初、経済活動の自由を求めたフランスの市民階級は、1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機に市民革命を全土に起こし、第三身分による国民議会(憲法制定国民議会)が発足し、王政と封建制度を打破した。
 市民の自由と平等をスローガンにした革命だったが、自由と平等の主張と行動だけでは社会はまとまらない。自由と平等をつなぐ思想としての「友愛」が、革命を成就させる理念として加えらたのだ。
 「友愛」とは、「同胞愛、隣人愛」のことであり、他者への共感と理解という意味だ。この理念は1848年11月4日に公布れたフランス共和国憲法の前文において採用され、同憲法に自由・平等・友愛(博愛)と書き込まれた。
 「友愛」とは市民革命を生んだフランスの卓見であった。過度な自由は無制限な人間本能の膨張につながり、戦争や争いのもとになる。
 「平等」は社会主義や共産主義を促進するが、人間の自由と欲望を殺し、殺伐とした社会を作り、官僚制度を無制限に膨張させる。
 自由・平等だけで作られる社会の欠陥を克服するための理念が「友愛」だったのである。
 しかし革命後進国の米国には「自由」の側面が過大に取りいれられ、ソ連社会主義圏には、平等の側面だけが採用されて自由と人権を著しく押さえつけた。
 従って、米国には「友愛」の精神はあまり導入されておらず、米国憲法にも「友愛」という言葉は書いていない。だから米国ジャーナリストでも、「友愛」がフランス革命の理念だということを、知らないのだろう。
 「友愛」という言葉を使ったのは、鳩山さんの祖父の鳩山一郎氏だったが、敗戦後の日本でいち早く、「友愛」を用いた卓見に敬意をもった。鳩山一郎氏が総選挙で勝利しながら首相就任前に占領軍GHQによって公職追放 いま孫の鳩山由紀夫氏が再び「友愛」をひっさげて首相になることを、日本人として率直に喜びたい。
 鳩山さんは、日本社会に対してだけでなく、いまの世界でいかに「友愛」の精神に基づく共感が大切かということを、米国にも中国にも韓国にも北朝鮮にもせつせつと説いて欲しい。
 「友愛」の哲学をベースにしてあらゆる政策を実行してほしいものだ。過度の自由や行き過ぎた平等主義は、社会のがんとなり、停滞につながる。これを是正するのが、「友愛」だ。
 国民の大きな怒りを買って自民党を下野させた官僚の腐敗、癒着、専横を改めさせるのも、「友愛」の精神の発露であろう。一部行政官僚の特権による国民への専制、圧迫をこれ以上許すべきでない。
 
 
以下は第98号(2009年9月1日)からです。
米紙、鳩山論文の波紋と情報操作
政権交代に反対する米国ロビーストの思惑に乗るマスコミ
 民主党政権誕生で早くも反民主のマスコミ情報操作が始まっている。民主党への不信感を広げるには、選挙で負けた内政を避けて、人目につかない外交、特に日米同盟や安全保障政策の弱点を指摘することで、新政権への不信感をあおっている。
 最近、急にニューヨーク・タイムズに掲載された鳩山論文がターゲットになっている。ざっと読んでみると、鳩山氏は日米関係の平等を主張しているだけで、日本が米国のいいなりになる従属国のような立場を改める、といっているだけだ。
 しかし経済、防衛、在日米軍の地位協定などに関して、鳩山氏流儀の論法が使われているので、言葉尻りを捉えられてバッシングされている印象だ。
 「友愛」を政治信条とする鳩山氏だから、軍事的に民主日本を警戒する国は少なくなくなるだろうから、過剰に日米軍事同盟にのめりこむことは、むしろ危険な行為になるだろう。鳩山論文にはそういう日米軍事同盟論への牽制が含まれている。
 真意を読みとらず、いたずらにバッシングをする意図は何か。
 政権交代とは単に政治を担う政党がかわるだけではない。霞が関の外務省はもとより全官僚機構も変化を余儀なくされる。自民党政権を取り巻いていたロビーストや文化人の人脈も変わる。
 当然、政権党にすり寄って米国の考えを代弁して生活の糧を得ていたロビーストも権益を失う。日本の米国ロビーストが信用できない点は、自分の考えが米国の考えだと主張し続けてきたことだ。それによって本当の米国の姿を日本人から隔離して見えなくしていた罪は深いのだ。
 オバマ政権誕生を最後まで認めようとしなかったのもロビーストたちだ。
 しかし米国という国の言論の自由さ、多様さを日本とくらべれば、まさに月とスッポンなのである。
 鳩山氏はスタンフォード大学で博士号を取得しているから、米国文化は熟知しているはずで、いかなる言論でも許容するのが米国文化だ。この程度の内容にクレームをつてけ日米関係が壊れるなどあげつらうのは、為にする意見だ。
 外務官僚や専門家のロビーストの意見も聞かず、かってに持論を展開したことへの怒りが鳩山バッシングにつながっているように見える。ケチな了見だ。
 鳩山氏の論文で米軍の地位協定に関して米軍の犯罪容疑者の身柄引き渡しの法的問題に触れている。日米地位協定をたてに、米軍が日本側に身柄を引き渡すのをしぶることが多々あるのは確かだ。
 米軍沖縄基地にある海兵隊の大学で教えていた友人が、「日米地位協定の不平等をいうのは日本側の被害妄想だよ。本当の理由は、日本で起訴されると有罪率99%だろ。米国は50%。いたづらに前科者を作るのはね。それに日本の取り調べは拷問みたいなのがあるっていうからな。日米地位協定は関係ない。問題は日本側にある」といった。
 つまり本音は、日本の警察の取り調べの在り方と裁判結果を信用できない、という意味だ。
 「なるほど」といいながら内心唖然としたが、こういう普通の米国人の日本認識があることをロビーストたちはどれほど知っていたのだろうか。
 外国に知れ渡っている日本の内部の腐敗や矛盾を放置して、建前だけの日米同盟論より、鳩山論文のほうが本音を表している。これが米国で問題視さということは有り得ない。
 
以下は第97号(2009年8月15日)からです。
 戦後64回目の終戦記念日である。私の肉親も南太平洋で戦死した。
戦後初の政権交代の期待がかかる衆院選挙は月末にあるが、米国でオバマ大統領が誕生したような盛り上がりも熱気もない。亡くなった300万同胞への心からの鎮魂の歌はいまだに聞こえては来ない。
 そんな中で以下のような芸能界のスキャンダルが起こった。
このコラムでスキャンダルを扱ったことはないが、日本にとって極めて重要な節目の時期に芸能界で起こった麻薬、覚せい剤事件は堕落し腐敗しきった日本の今を象徴する事件なのであえて論説の対象とした。
 
選挙告示目前!大新聞は関係政治家の名前を明らかにせよ
押尾事件で政界に激震、ヒルズの部屋に出入りしていた政官人脈とは誰だ 
 
 ノリピー逮捕の背景に、タレント・押尾事件隠しのスケープゴート説が有力になりつつある。押尾逮捕で政界に激震が走り、急遽、人身御供としてノリピーが差し出された、というものだ。
 ノリピー逮捕劇のあと、河村官房長官が芸能界の覚せい剤汚染には厳格な捜査を望むというコメントをわざわざした発表したとき、あれれ?と思った視聴者は多い。押尾でなくなぜノリピーなのかという疑問だ。
 民放テレビ各局は臨時ニュースの扱いで、逮捕されたノリピーの深夜の移送劇を生中継し、NHKには逮捕のテロップが流れ、翌朝の全国紙は一面でノリピー逮捕を伝えるという騒乱ぶりだった。
 新聞各社は選挙要員の社会部記者を急遽、ノリピー事件に張り付けたという。大忙しの新聞社にとっては降ってわいた迷惑ニュースだった。
 新聞社には迷惑でもテレビにとってはおいしいノリピーで、TBSのワイドショー・ニュースキャスターの時間帯に合わせるようにして、ノリピーが逮捕移送されたのも演出なのか。護送車の中のノリピーの屈辱と羞恥にうつむいた顔がしっかり見えるような手の込んだ演出もあって、視聴者は魅了され、視聴率は38%とWBC中継なみの高さだった。
 以降、テレビ各局のノリピー・フィーバーが続き、その直前に麻薬使用で逮捕された押尾学がテレビの画面から姿を消してしまった。
 これは押尾隠しではないか。ノリピーにマスコミの目をくぎ付けにして、押尾から目をそらそうとする”国策”が働いたという説が浮上した。
 押尾といっしょに麻薬をやって死んだ銀座ホステスの女は、国会議員の娘?という噂が流れて政界に激震が走り、押尾らヒルズ族のパーティには政治家や警察や官界の幹部が参加していたという情報も出てきたという。
 こうした情報は大マスコミは報道していないが、ネット新聞には詳しく出てくる。2ちゃんねるにも関連政治家の名前が具体的に出てくる。
 押尾が使った部屋は有名な女性経営者が提供したというが、六本木ヒルズにはこうした部屋がほかにもいくつかあり、そこは政治家や官僚幹部、IT長者たちの遊び部屋で有名だったと、ネット新聞は書いている。ネット新聞によれば、その大人の遊びの内容は危険物ばかりで、麻薬や少女売春の温床になっていたという。
 押尾事件を突破口にこれが発覚すれば、選挙前の政界は大きなダメージを受ける。ただでさえ野党・民主党に圧倒的な追い風が吹いているときに、危機感を強めた政界は、大慌てでノリピーを押尾の身代りにしてマスコミの前に差し出した、というのである。
 自白だけで物的証拠に乏しいノリピーが起訴か不起訴わからないが、拘置期間があと10日延長されれば、選挙前日に起訴、不起訴の結論が出ることになる。となれば、選挙ぎりぎりまでノリピーはマスコミで”活躍”し、使われるタマになり、政権交代の選挙結果に大きな影響を与える可能性がある。
 ヒルズの女性社長や押尾のパーティに参加していた政治家は誰か、その名を国民は知りたがっている。そういう人物は落選させなければならないからだ。ネット世界にはすでに名前が上がっているから、大マスコミが真偽を報道しなければ、かなりの数の選挙民はネット情報を信じ込むだろう。
 選挙権のある大学生レベルの80%の若者は、新聞もテレビも読まないが、ネットは毎日見ていて、自分で情報を集めてニュースを自己流に判断している。大人世代と違ってネットへの信頼感は強い。ネットに比べれば大新聞やテレビへの信頼度は非常に低い。マスコミは情報操作が多くて信用できなという理由だ。
 今回も情報操作の匂いがぷんぷんする。「頭隠して尻隠さず」の稚拙なノリピー”国策捜査”にも見えるが、この国策捜査説が間違いなら、そういうメッセージを与党は断固として発する必要がある。ジャーナりズムなど信じていない若者はネット情報が正しいと判断して、選挙に行くだろうから。
 いずれにせよ、ノリピー逮捕劇のテレビ報道のカラクリと化けの皮は剥がれているのだ。思えば、はじめから出来すぎたストーリーだった。夫(囮?)の逮捕現場にのこのこ出現させたあと、泣きじゃくって子ずれ失踪、深夜なのにTV証言する者の多さ、捜索願い、数々の追跡情報や買い物情報のリーク、携帯電話の電波、遺体発見説、一転の逮捕状、指名手配、逮捕から深夜の移送劇のテレビ中継のドラマは、子供まで使って落ちたヒロイン伝説を盛り上げた。しかし古くさいテレビ政治の手法である。
 NHKは別として、ノリピーという美味な餌に食らいつき視聴率しか目にない民放テレビなどは、若者にならって見ないにこしたことはない。証拠揃わなくても起訴すべしと滅茶苦茶なことを主張していた自称ジャーナリストのコメンテーターは、ジャーナリスト仲間の範疇から除外することにしよう。ジャーナリストは犯罪者を作るのが仕事でなく、真実を追求するのが仕事だ。
 ジャーナリズムを名乗る大新聞は選挙前の国民の期待に答える義務がある。押尾事件の背景にある腐敗した政治家のコネクションを勇気をもって明らかにして欲しい。
 ノリピーは子供さんのことも気になるだろうけど、こうなったら腹を据え、筋が通らないなら自ら起訴を望み、裁判の場ですべてを語って欲しい。拘置の苦痛や屈辱から逃れるために嘘の妥協はしないで欲しい。自分の身に何が起こったか、何をしたか、逮捕劇から取り調べ内容の逐一を詳細に裁判で語って全貌を明らかにして欲しい。
 ノリピーには裁判員PRビデオに主演した責任もある。裁判とは一方的に被告が裁かれるだけでなく、真実を明らかにするものだ。裁判を受ける権利は日本国民の重要な権利の一つだ。
 自らの真実を明らかにすることが、裁判員制度発足にかかわったノリピーの社会的義務でもある。不幸な出来事ではあったけど、その貴重な体験を素直に語ることで、もう一度、勇気を出して日本の国作りに参加してもらいたいと思う。そうすればジャーナリズムも含めノリピー大弁護団ができて、国民の支持と共感は必ず戻ってくる。これまでとは別の意味の社会的アイドルになるだろう。
 ネット新聞が言うように、ノリピー”国策捜査説”や薄汚れた押尾隠しのための意図的な捜査手法が使われていたのなら違法であり、民主主義国家日本の重大な危機である。
 選挙公示目前の政権交代選挙直前の時期だけに、事件が選挙に与える悪影響に強い危機感を覚える。
 さらには、起訴、不起訴も決まっていないのに、ノリピーはマスコミによって全国引き回しの刑をすでに代理執行されてしまった。他人の不幸を弄び視聴率と金に狂奔するマスコミの堕落と行き過ぎは誰の目にも明らかだ。
 テレビはもう終わったメディアかもしれないが、まだ終わっていない大新聞は、ネットにむざむざ”ジャーナリズム政権交代”されないように、奮起を望んでやまない。大新聞の記者の中には筋を通し、権力への妥協を良しとしない記者が少なからずいることはよく承知している。
 
 以下は第96号からです。
またテレビがやってくれた
公共の電波を私物化する懲りないテレビ局には免許停止を
 また民放テレビ局がやってくれた。テレビの不正や不祥事を嘆くばかりでは問題は解決しない。国民の共有財産である公共の電波を管理する国は、既成のテレビ局のライセンスの取り消しと交代を考えてゆく必要があるし、国民もそういう世論を高めるべきだ。
 政治腐敗を防ぐには政権交代が必要なのと同じで、テレビ局が既得権益にしがみつく一党独裁のままでは、民主主義を忘却したジャーナリズムの腐敗、堕落は止まることを知らなくなる。
 今度やってくれたのは日本テレビの「バンキシャ」という番組で虚偽証言による捏造番組事件だ。社長が責任をとって辞任するのは当然としても、辞任の弁がふるっている。「テレビ報道とはこの程度のものかと視聴者に評価されたのではないか。その点について心苦しく思っている」(朝日新聞、3月17日朝刊)。
 そんなことに今ごろ気が付いたのかと、その世間知らずぶりに失笑する。いまどきの民放テレビなんてその程度というか、それ以下の存在ではないか。吉本の下卑た笑いに電波ジャックされ、経費節減のために品格を欠いたコメンテーターをずらりと並べて、偏見と独断に満ちた目眉唾情報を垂れ流していると、大多数の国民は思っている。
 「バンキシャ」で小沢問題を取り上げたのを見ていたとき、検察出身らしきコメンテーターが「小沢がやられたのは金額が突出していたからではないか。検察が全部やっててはキリがないから金額の多寡は逮捕起訴の要因になりうる」などといっていた。要するに「金額が少ければ自民党に及ばないというのでは、法の下の平等はどうなるのか」と普通の視聴者は誰でも考える。さらに総選挙秒読みの段階で野党党首周辺に強制捜査が入ったことの意味を解読することもしない脇の甘いコメントを一言聞いただけでも、「バンキシャ」が与党擁護に偏った番組だということがわかるのに、社長はこれも見ていなかったのだろうか。
 今回の事件は、テレビには事実を取材する能力がなくても、嘘を捏造する能力は立派に持ち合わせていることを証明した。近くて遠い無慈悲な独裁国家のメディアと同様、事実追求に蓋をし、下らない捏造番組制作に走る暇と金はあるようだ。
 国民の最大の関心事である小沢事件を端緒とした西松建設疑惑の自民党への飛び火、検察の国策捜査疑惑、漆間官房副長官のオフレコ発言問題などの真相を正しく、わかりやすく調査報道できないのか。公共性のあるメディアとはそういうものじゃないのか。
 ところが大阪の日テレ系列局のある番組では、あるコメンテーターが「漆間オフ懇発言を書いた朝日はけしからん。ルール違反だ」と私憤を晴らすかのように朝日攻撃をしていた。オフコンん場にすら入れてもらえない外野のジャーナリストならば、たった20人くらいの大新聞のエリート記者しか入れない記者クラブの閉鎖的なオフレコ会見の秘密性をこそ問題にすべきなのに、ライバル局に出演してここぞとばかり朝日攻撃するコメンテーターの魂胆はさもしいに尽きる。ジャーナリストの矜持はないのか。
 もっともそのオフコンメンバーの若い官邸詰め女性新聞記者が書いていたブログを読むと、総理にバレンタインのチョコを贈って返しのホワイトデーに何をもらたったかとか、漆間さんは話のわかるおじいちゃんなのに、漆間発言のどこが問題なのかわからない、などと気楽なギャル語文体で書いている。麻生さんや漆間さんをあまりいじめたら可哀想じゃん、というこの娘記者にはまるで新聞記者のイロハがわかっておらず、政治記者のスタンスもできていないし、読者のことなどまるで考えたこともないようだ。お友達政治家と癒着する遊び感覚が丸出し、そうか、オフコンとは仲良し秘密クラブなんだね、政治家と若い娘が和気藹々で遊んでいるところなのか。
 だからそういう場の雰囲気を壊すオフコン話を書いた朝日記者はKYで怪しからん、ということなんだろう。そういえば、中川前財務大臣の酒気帯び会見事件の前に、一緒にワインを飲んでいたらしい女性記者がいたというから、やっぱこれもオフコン秘密クラブなのかね。
 私など古いジャーリストは、「自民党には及ばない」という官房副長官の発言は非情に重要だと思うので、オフレコでもあえて書いたライバル朝日記者の判断は正しかった、くらいのコメントがいえないのかね、と考えるし、民主主義国家におけるジャーナリズムの正論は論理的にはこれしかないことを証明して教えてあげたくなる。ジャーナリズムのイロハも知らずに、マトモな仕事をする記者の足を引っ張るだけのコメンテーターたちが口汚く政治を論じる図はブラックジャーナリズムであり、いくら威勢だけよくても、テレビの自滅と末路を思わせるだけなんだよ。
 
 政治とジャーナリズムが消滅しても日本人は生きて行ける
 それから、社長の辞任会見に際して、日本テレビが取材制限を加えたことも驚愕に値する。日頃、人様のプライバシーを土足で踏みにじる取材をしているテレビ局が、自分の不祥事を取材に来たカメラに取材制限を加えるというのはどういう神経なのか。社長自らもジャーナリズムが何かを知らずにいたようだ。
 こうしたテレビ界の腐敗を見せつけられるにつけ、日本にはジャーナリズムの民主主義もない恐ろしい国だという気がする。放送機関にジャーナリズムが不在となれば、民主主義も何もあったものではない。
 国民のものである公共の電波の許認可を扱う国は、この問題を軽視してはならない。同じテレビ局にライセンスを与え続ける義務も必要もないのだ。政治に政権交代があるように、テレビ局のライセンス取得も交代させ、有為のジャーナリズム創造にために別の資本と人材に経営権を明け渡す必要がある。これは言論の自由を損なうことではなく、逆に言論の自由と民主主義を深めることなのだ。いまこそ成熟を目指す国民世論も国にそういう要求をすべき時期に来ている。メディアが変わらなければ、世界は変わらないのだ。
 国際ジャーナリスト連盟の評価によると、いまや日本の言論ジャーナリズムの質のランクは世界で51位という低い地位にある。アジアの中でも韓国、台湾よりも低いという事実を知っておいたほうがいい。
 映画、芸術、物理学、先端技術、大衆文化など日本文化のランクは世界でもトップクラスで、日本はソフトな文化大国として世界をリードしつつあるが、こと政治やジャーナリズムとなると民主主義国の体をなさないほどひどい現状にあるのだ。
 むしろ政治とジャーナリズムがないほうが、日本人は繁栄し幸福に生きられるのかもしれない。極めて皮肉なことだが、国民の生命・安全を衛るという国家と政治の最大の要件は、日本が米国に米軍基地を提供している関係上、米国によって守られている。他国と違い、日本は軍事的には半国家という状況にあるので政治とジャーナリズムが不在でも日本人はやっていける条件はあるのだ。
 自民党の自滅と民主党の政治スキャンダルで政治混乱が極まり、ジャーナリズムもこの混乱を改善収拾できずに推移すれば、独立国家としての日本の政治主体が解体し、行政機構としてのアナーキーな霞ヶ関権力だけが残る。日本の安全を束ねて保障する国家主体がなくなるのだ。
 極東アジアにはNTOや通貨統合を果たしたEUのような国家間の相互安全保障の仕組みもないから、北朝鮮のミサイル発射危機だけでなく、友邦の韓国だってどういう対日戦略に転換するかわからないし、米国だけを見ている中国も同様だ。
 結局、日本は米国に守ってもらうしか生きてゆく術が本当になくなる。それはカメハメハ王朝が倒れたハワイ州に次いで星条旗に星がもう一つ増える日のことだ。米国にすべてを依存し続けた戦後日本の究極の選択肢のひとつだが、もしも民主党への政権交代が失敗すればその可能性は大きくなる。
 日本ではあまり大きな論題にはならないことだが、米国ではジョークではないテーマになることがある。かつて米国のシンクタンクにいたとき、そういう話をしたことがあった。「それも良い考えだが、日米統合になると米国人は日系人の大統領が誕生することを警戒するね」と米国人の友人が笑っていった。約10年ほど前の話だが、その当時はまだオバマ大統領のような黒人系大統領が選ばれることをアメリカ人の誰も想像していなかった。世の中、何が起こるかわからない。日本の政権交代より早い近未来に日系人の米国大統領誕生があり得るかもしれない、などと考える今日このごろである。
 
 
以下は第95号(2009年2月18日発行)からです。
クリントン国務長官の明治神宮公式訪問の意味ーーなぜ仏教寺院でなく神社だっかのか
  これは戦後の対日観のチェンジのシンボルだ
 
 
 クリントン国務長官が来日し、明治神宮を訪問したことの重要な意味をマスメディアは全く問うてはいない。中国訪問の前に来たとか、小沢民主党代表とも会談するとか、北朝鮮を見据えながら戦略を練っているーーとかメディアはいろいろ憶測しているが、いつものことながら、マスコミの憶測が当たったためしがない。今回の報道もどうでもいいことか、的はずれに見える。中国訪問前に来たから日本重視の表れなどという仰々しい解説は、親にすねた子供のような発想にすぎない。
 何事も聖書に手を置いて宣誓する米国は宗教を重視する国家である。そのオバマ大統領の就任演説で世界の宗教との融和を訴えながら、仏教が入っていなかったことで、仏教国日本は無視されたなどと、日本のマスコミが囃したてた。
 しかしクリントン氏の今回の明治神宮公式訪問で、その答えが見えている。つまり日本は仏教徒が多い国だが、日本人の宗教観の根本に神道があることをオバマ政権が初めて認知した証明なのだ。
 これは太平洋戦争後の米国の対日観の大きなチエンジなのだ。敗戦時、GHQの対日宗教政策を知る日本人はもうほとんどいないが、GHQは「神道指令」を発令して神道を宗教のカテゴリーからはずしてしまった。神道は禁止され宗教でもなくなったのだ。GHQは神道的なるものを目の敵にして抑圧した。
 神道が国家神道になり日本が大東亜戦争を始めた思想的、宗教的原動力だったとGHQは分析し、日本の風土から神道的な思想を一掃することを狙ったのである。
 故江藤淳氏は、GHQは神道を「邪悪かつ野蛮な異文化」として排斥し、神道禁止政策は「日本人の魂の改造計画」だったといっている。
 GHQは柳田国男の民間信仰の著作を発行禁止にし、南方で戦死した兵の魂が故郷の神社に帰る、という詩を検閲し、発禁にしたりしている。神道関連の記述で発禁になった著作物は膨大なものだ。
 以降、日本人は初詣で神社には行くが、宗教としての神道を信仰することはなくなった。しかし戦後の日本人がすべて仏教徒になったわけではないし、精神的な風土や習慣の中に、神道の影響はいまも大きく存在している。
 戦死者を祀る靖国神社首相参拝の問題がこじれている理由に、GHQの神道禁止政策が色濃く影響していることも知っておく必要があるのだ。  その点でクリントン長官の明治神宮公式訪問の意味は極めて大きい。神社つまり神道を公式に認知したことは、戦後初の米国の対日政策の中の根本的な部分のチエンジの表れだと考えることができる。
 戦後日本のあり方を決めたGHQ政策の見直しを、米国政府自身が始めていることがわかる。対等な関係というなら、まずもって相手の宗教や伝統文化を尊重しないといけない。神道を「邪悪かつ野蛮なる異文化」として否定し見下すのでは、対等な日米関係は構築できない。
 オバマ政権はこれを理解して、日本との対等な同盟関係を再構築しようとしている。
 マスコミはあまり低次元な利害関係だけで、クリントン訪日の意味を分析しないほうがいい。オバマ大統領の就任演説で仏教国日本に言及しなかったのは、その先に神道に支えられた日本文化の基底を見ていたからではないか。私はそう考えている。   
 
以下は第94号(2009年2月15日発行)からです。
谷人事院総裁強気発言の背景に巨大マスコミあり
マスコミは人事院の人事官ポストの「指定席」を放棄すべきだ
大新聞に官僚の天下りを批判する資格はない
 
 日本の政治家は官僚のコントロールができないばかりか、逆に使われている、というのが世界の常識である。外国の政治家たちは日本の政治家は官僚の手下であると思っている。
 これを実証し官僚の面目躍如を見せつけたのが、このたびの谷人事院総裁の振るまいだった。麻生総理の主宰する会合に出席もせず、世論の風当たりの強い「渡り」をいまだに正当化している。
 人事院総裁といえば霞ヶ関官僚の人事や給与を決定し、天皇の認証を受けて就任する官僚の最高ポストで、人事院に3人しかいない人事官のなかでも最高の地位にある。
 みのもんたの「朝ズバ」に出演した谷氏は、世論の逆風をものともしない言葉を吐き、「政権交代もあり得る」などといって麻生政権を見下す対決姿勢を示した。コケにされたかのような政治家甘利行革大臣は「内閣に指名された役人がテレビに出て政権交代に言及するなど、なんという傲岸不遜」と怒りを新たにしていたが、谷氏はどこ吹く風と飄々としているかに見えている。よほどの自信でもあるのだろうか?
 芸能人みのもんたの就け刃の舌鋒も、筋金入りの谷氏にはまったく威力がなかったようだ。
 谷氏がこうまで強気の背景について、政治評論家の矢野氏が、『週刊新潮』2月19日号に、巨大マスコミの援軍について書いている。天皇の認証官のほか最高裁の弾劾裁判によってしか罷免されない高度な身分保障があるから谷総裁は権力を傘に着て、こうまで強気発言を続けていられるのか、と国民は思っている。
 しかし矢野氏は、強気の背景にさらに別の理由を挙げている。
 実は、人事官3人のうちの1人は退職した大新聞社の幹部経験者に指定席として振り当てられるポスト、ということだ。
 調べて見ると現職の人事官は日経新聞出身者で、1953年以来、マスコミ出身者の「指定席」になっている。 内訳は、読売2、毎日1、朝日1、NHK1、日経1、という具合である。マスコミOBを人事官に採用したのは、自民党総裁や副総理を歴任した緒方竹虎が最初だったといわれるが、緒方は戦前、朝日新聞主筆を務めた人である。緒方は新聞人は官僚人事に使える、と見たのだろうが、いまやマスコミの弊害が多すぎる時代だ。
 谷総裁が強気でいられる背景には、マスコミ出身の人事官がいる以上、自分の振るまいが本気で世論の批判を浴びることはあるまい、という思惑が働いているように見える。
 新聞記者をしていた私でも、自分の出身社から人事官が出ていることは知らず、ただ驚くばかりだ。そんな華麗なる転職をしている先輩がいるなどと多くの新聞記者たちも知らないだろう。多くの新聞記者は、黙々と地道な取材に骨身を削っているはずだ。
 
 新聞は高級官僚の「天下り、渡り」を盛んに批判しているが、新聞記者が「天下り」のポストに官僚の最高位である「人事官」を「渡り」に利用していたことなど、まったく報道していない。
 大マスコミの政治部、社会部記者たちはまずもって足下の華麗なる「天下り、渡り」を追求して欲しい。こうした重大な問題を週刊誌報道だけに任せて置くべきではない。大新聞出身者の既得権益と化した「人事官への渡り指定席」を早急に放棄させるべきだ。日本新聞協会はまずもってこれを禁止するべきではないのか。大新聞が身内の襟を糺すことなく、官僚の不祥事や逸脱を批判する資格はない。
 
以下は第93号(2009年1月28日発行)からです
オバマ大統領は日本に無関心なのか
インドへの関心は示したが仏教は無視?の就任演説に
日本の被害妄想が広がっている
 オバマ大統領の就任演説は、米国民だけでなく世界各国首脳の好感度が高かった。イラン、ベネズエラの大統領、キューバのカストロ議長らこれまでのブッシュ政権の”天敵”といわれた人物までオバマ氏への期待感を示したのだ。
オバマ氏は世界の多様性と他宗教、多文化理解という理念の武器を手に、より広く世界各国を巻き込む新たな世界戦略に着手している。
 しかし就任演説で語った多様な宗教の中に、ヒンズー教や無宗教を入れながら仏教を入れなかったことで、日本への関心がないのではないか、インドや中国外交へシフトするのではないか、という被害妄想が日本では広がっている。
 「サンデープロジェクト」でも、佐藤優氏が同様の見解を述べていた。確かにオバマ氏の演説内容や著書の中には、日本への言及がほとんどない。 しかしオバマ政権が日本に無関心だということはあり得ない。 その証拠にヒラリー・クリントン国務長官は東アジア外交の要は日本との同盟関係の維持だといっているし、駐日大使に任命されたハーバード大学教授ジョセフ・ナイ氏は米国きっての知日派といわれ、ナイレポートといわれる「東アジア戦略報告」を書いて、冷戦後の米国の安全保障構想を提唱し、日米同盟の再定義を行った人物である。共和党の「アーミテージ・レポート」につながったナイレポートには極東に10万兵力を展開するという記述がある。
こうした布陣から見て、オバマ氏が日本や中国、北朝鮮を射程にいれた極東の安全保障を最重要課題に据えていることは確かだ。チベットなどの人権問題に神経をとがらせている中国では、オバマ政権への警戒感が強いようだ。
 日本も中国も北朝鮮も、恐らくブッシュ政権のほうが与しやすかったのではないか。ブッシュ氏は「対テロ戦争の敵か味方か」だけを峻別し、米国に恭順を示して敵対しない国を受け入れる姿勢を示したが、オバマ氏は思想的原則には忠実である。政治の透明性や人権抑圧には欺瞞を許さない厳格さを持っているからだ。
 
日系人が多いハワイ育ちのオバマ氏が日本に無関心なはずはない
 ハワイで青春期を過ごしたオバマ氏は、日本人に無関心だったはずはない。ハワイ人口の中で最も多いのは日系人で、ハワイには仏教寺院がたくさんあるし、仏教系の新興宗教の支部もある。米国で最大の仏教のメッカはハワイなのだ。従ってオバマ氏が仏教に無知なはずはない。
 私はハワイのイースト・ウエスト・センター(東西センター)でフェローをしていたことがあるが、英語を使わなくても日本語だけで生活ができるほど町には日本人があふれていたし、日本のスーパーもたくさんあった。当時の日本はバブル経済の余韻でハワイは日本人観光客があふれ、ゴルフ場は日本人が占拠し、一流ホテルや高級ブランド店は日本人観光客の落とす円で潤っており、余ったジャパンマネーが不動産や海岸のリゾート地を買いあさっていたものだ。
 日本のヤクザも進出していて、当然のように日本への反感や金で横面を張る日本人の悪いイメージがハワイ住民には浸透していた。若かったオバマ氏はそういう日本人の姿を見て育っていたはずである。
 さらに、ハワイの真珠湾はかつて日本軍が宣戦布告なき攻撃をして、ハワイの住民を脅かしたことがあった。
 私はハワイ大学の白人系の政治学者と友人になり、思いがけない話を聞いた。日本の真珠湾奇襲はハワイ住民に大きな打撃を与えたが、白人支配からの脱却を願うハワイ原住民や有色人種の期待感も混在していたというのだ。彼は「Nanyo」という本をくれたが、その本は1885年から1945年までの日本の「南洋」における興亡を描いたドキュメントだ。日露戦争から太平洋戦争に至るまでの近代日本の膨張展開のプロセスを詳細に客観的に描いている。
 オバマ氏はハワイでは知られるこうした真珠湾にかんする歴史の複雑さを知っているはずだ。「腐敗と陰謀、反対者の抑圧によって権力にしがみついている者たちは、歴史の誤った側にいることに気づくべきだ」と就任演説で話している。(朝日新聞、1月24日付)。 また第二次世界大戦で戦死した兵士を悼む中で、ノルマンディーのドイツ軍との戦闘には触れたが、日本の真珠湾奇襲にはあえて触れてはいない。
 
政府、外務省は歴史の事実を隠さず、公開すべきだ 
 1月12日付の本欄で、日本軍の真珠湾奇襲の隠された事実について書いた。真珠湾の宣戦布告の通告遅れの責任は日本政府や外務省にはなく、当時の駐米日本大使館の末端職員の職務怠慢にあった、と日本政府は公表している。しかしこの説明は嘘である。真珠湾奇襲を当時の日本政府首脳は承知しており、通告遅れも戦略の一部であった。大使館のバイト学生を含む末端職員の職務怠慢に責任を押しつけるのは、いまも連綿と続く汚い官僚の手口だ。高級官僚の天下り、渡り、消えた年金。いまも同じ手口が続いている。
 真珠湾への日本側の通説は、当時のルーズベルト大統領の陰謀にひっかかって日本は真珠湾奇襲を仕掛けられ、しぶしぶ戦争に引きずりこまれたというものだ。さして根拠はないが、日本人には優しい陰謀説を煙幕にせずに、歴史の冷厳な事実を精査する必要がある。
 日本政府や外務省は長年隠してきた秘密を世に明らかにして、その間違った歴史の事実を書き直す必要がある。日本はなぜ真珠湾を奇襲したのか、その理由と功罪の評価を日本人自身の手で行って、世界世論に問うことだ。 歴史認識の間違いを糺すには、具体的な史実を精査してとことん分析するしかない。そうした地道な検証作業を通じてしか、新しい歴史認識や歴史観を作ることはできないし、真珠湾に対する米国人の理解も得られない。いまだに米国民の多数は、戦争終結のためには日本への原爆投下はやむを得なかったと考えているのである。
 歴史の真実を記述して対等な日米関係を作り、正々堂々と新しい歴史を書くことで歴史認識の被害妄想を払うことこそ、日本国民の誇りと希望を作り出すエネルギーの源泉だと信じている。  
 
以下は第92号(2009年1月12日付)からです。
真珠湾と篤姫ーー偽の開戦神話、”維新ごっこ”の戦後だった
 元外交官の井口武夫氏の『開戦神話』は、日本の真珠湾奇襲をめぐる謎を追究した労作だ。井口氏の父は真珠湾奇襲時の駐米大使館の参事官として戦争回避のための対米交渉に腐心していたが、戦後は宣戦布告文書の対米通達遅れの責任を負わされた。井口氏は父の名誉回復をはかりたいとの思いから、この本を書いたのだという。
 旧日本軍の宣戦布告なき真珠湾奇襲により、日本は「汚い国家」「騙し討ち」と世界の非難を浴びたのだが、戦後60年余を経たいまだにその汚名は晴れてはいない。
卑劣、卑怯であることを最も恥とする日本人が、「真珠湾の汚名」をいまだに身にまとっているのだ。米国の9.11テロの時も「これは第2のパールハーバーだ」という論調が米国新聞で踊った。
 この本は父の名誉だけでなく、戦後貼られた日本の汚名を晴らしたいと考えた井口氏の古巣・外務省の戦後の怠慢を叱責する書でもあろう。 
 私は記者時代、宣戦布告文書の通達が遅れた理由と当時の外務省の外交責任の所在について深く取材し調べたことがある。実際、日本国民はいまだにその真相を知らない。時の米国大統領ルーズベルトの陰謀にひっかかって日本は真珠湾攻撃に引きづり出されたという陰謀史観がまかりとおっているのが現状だ。
 先に問題になった自衛隊幹部の田母神氏の論文もルーズベルト陰謀史観にどっぷりと染まっている。ルーズベルト陰謀説にはまっているのは、著名な政治学者、歴史学者も含まれているから始末に負えない。(私はルーズベルトにはさしたる陰謀の証拠はなく、ルーズベルトを戦争に誘い込んだのはチャーチル英国首相だったと信じるに足る根拠は持っている。)
 終戦直後、外務省は極秘で通告遅れの内部調査をして、調書を文書にして保存していたことを私は突き止め、文書公開を求めた。相当のやりとりを重ねたあと、外務省はしぶしぶ文書の存在を認め、やがてメディアに公開したのだが、その文書を読んで私は唖然とした。通告遅れの理由は、米国の日本大使館に勤務していた末端の電信課員や通訳のバイト学生の能力が低く、タイプラーターを打つスピードが遅かったためという内容だった。その末端職員を管理する立場だった井口参事官ら中堅幹部の責任を問うているのだ。要するに、当時の東郷外務大臣や野村駐米大使、外務省幹部には何らの責任はない、ひとえに末端職員の職務怠慢が、宣戦布告文書の通告を送らせたというものだ。 
 いまでもこれが通告遅れの定説で、東京裁判対策のために急遽、作成された内部調査報告書ではあるが、これ以外にことの真偽を突き止める資料は存在しなかった。しかし私はこの報告者には納得できず、外務省はほかに大きな秘密を隠していると考えた。日本が「汚い国家」として世界に喧伝された宣戦布告なき奇襲の原因が、このような些末な責任転嫁の文書で葬り去れてはたまらない、と思ったのだ。(これについて私は、雑誌「諸君!」(平成7年3月号)に「外務省としての秘密」を書いた)。 
 しかし井口氏の今回の著書はその疑問に答えている。対米通告遅れは、東郷外務大臣(当時)をはじめとする外務省と対米主戦派の陸軍幹部の関与・合作によって軍事作戦の一部として行われ、日本軍の真珠湾奇襲攻撃を成功させるためのトリックだったということを明らかにしている。
 そのトリックを仕掛けた最大の理由は、宣戦布告暗号文書を外務省から駐米大使館に送っている最中に外務省に飛び込んできた、ルーズベルトから昭和天皇に宛てられた電報の親書だった。 
 実はルーズベルトの天皇宛の親書に驚き、宣戦布告の通告遅れを仕組んだ立て役者こそ開戦主戦派で戦後は日本経済界の重鎮として活躍し、政界ブレーンとして大きな影響力を奮った故瀬島龍三氏だったことが、井口氏の著書で明示されている。瀬島氏は旧関東軍参謀として旧満州国解体時の戦後処理を行い、多数の日本軍人のソ連・シベリア抑留に関与したとされるなど、謎の多い人物である。 井口氏の真摯な労作を手がかりに、真珠湾奇襲の真相を日本人の手で自ら明らかにすることで、日本の過去の汚名を晴らす必要があるだろう。東京裁判でどんな判断が下されていても、これは日本国民が自らの自立のために解明すべき重大な仕事である。
 この正月は、井口氏の本を読みながら、通販で購入した「篤姫」のDVDを見て楽しく過ごした。幕末維新を作った篤姫、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、勝海舟ら志士たちの清新な姿と愛国の情を素直に感じる取ることができた。
 江戸城の無血開城が実現した背景に、薩摩の後ろ楯だった英国の利害がからんでいたという通説は知っていたが、篤姫が、小松帯刀、西郷、大久保らを強く説得して無血革命を実現させたということは、このドラマで初めて知った。
 素晴らしい日本人が幕末維新には存在したのだと再認識した。いまの堕落し切った日本のテレビ文化を元気にしてくれた心のドラマだった。
 日本のテレビとは、吉本のおちゃらけと出演料稼ぎのタレント・文化人のワイドショーと安物の青春ドラマに占領された下卑た電子箱と私は定義しているが、「篤姫」だけは思いがけないプレゼントだった。さすがNHKというべきか。いや、NHKがあれば民放はいらない時代が来ている。
 日本人は清廉を好み、卑劣を恥とし、戦乱を避けようとする平和の心根を持ち、他人を顧かる繊細な精神を持った民族なのだと思う。日本はもともと美しい国だったのだ。
 幕末の動乱の中で、江戸城の無血開城を果たした日本人が、米国に宣戦布告なき卑怯な奇襲を仕掛けるということは信じられないことだ。幕末の日本には、ペリーが大艦隊を連れて浦賀湾に来航し、薩摩沖の海上には英国軍艦が威嚇しながら現れて日本上陸の気をうかがって挑発していた。  当時の日本には軍艦も近代兵器もなく、幕末の志士たちは欧米列強に日本を植民地化され蹂躙されないために、欧米並みの富国強兵の近代国家を作って江戸幕府の封建制に終止符をうとうと、命を賭して働いたのだ。そんな篤姫たちの熱い愛国の想いと誇りを後世の日本人は、説明不能な「卑劣な奇襲作戦」というものによって、めちゃめちゃに打ち砕いてしまったのではないか。 われわれには打ち砕かれた誇りを回復させる歴史的な義務があるのだ。
偽りの”維新改革ごっこ”はもうやめておけ
 正月明け、麻生内閣の支持率が10%台に落ちたとメディアが伝えたが、何らの説明責任を果たせない”死に体内閣”なのだから当たり前のことだろう。国民に1万2000円?を支給することの是非を政治家が何ヶ月も議論しているような国家が、この地球上のどこにあるか。我々日本人はどこかの惑星にポツンと住むひとりよがりの民族集団でるあるかのような、非現実の錯覚に陥ってしまう。
 100年に一度の大恐慌の洪水に国民は足をすくわれ押し流されようとしているのに、政府高官や政治家たちは何の行動もしないでぐたぐたテレビの前で愚にもつかない弛緩したコメントを繰り返している。
 なのに、篤姫人気にあやかって、幕末維新の動乱期と同じだとコメントする政治家、評論家ばかりだが、中身のない言葉は空転して力を失うだけだ。結局、どこを探しても、篤姫も維新の志士たちも見当たらないことがはっきり見えてくる。 いやはや、オズの魔法使いが、平成維新の志士を探して来てくれるとでもいうのだろうか。
 ”幕末維新ごっこ”や”二大政党ごっこ”の遊びはいい加減にして、本当の政治革新と政権交代の決意を見せたらどうなのか。     
 
以下は第91号(2008年6月15日発行)からです
 
無責任な現場主義は「病理公共圏」を広げ、精神の病いを撒き散らす
 秋葉原無差別殺人のメディアはジャーナリズムを放棄したのか
秋葉原無差別殺人事件報道で、メディアは大混乱し、報道放棄ともいうべき現象を露呈している。そこには、日本列島総犯罪化の被害妄想が起こり、「病理的公共圏」(マーク・セルツァー)が出現している。公共の言論空間、メディア空間が病むと、日本人全体が心の病にかかる。過剰なメディアは時として、「病理的公共圏」を作り、全国津々浦々の国民に精神病の種を撒き散らしている。
 現場主義といいながら、野次馬が携帯電話で撮った写真をNHKをはじめとする巨大テレビ局は無反省に使っている。犯人が路上で捕まり、犠牲者が手当てを受けている姿を、大勢の見物人が手を貸そうともせずに、グルリと囲んで見物し、携帯カメラを構えて写真を撮っている。この写真を現場にいなかった大メディアが買う。カメラは正直だから、そんな弛緩した殺人現場の風景まで写している。
 日本のメディアの世界的に有名なことは、メディア・スクラムという報道洪水だが、このスクラムに野次馬の見物人が携帯を片手に参加してきたことが新しいメディア現象といえる。 見物人参加型メディアスクラムの実験場ともいうべきことが、秋葉原無差別殺人の現場だった。
 携帯で撮った現場写真は高値で売れる事情もある。現場にいなかった巨大メディアが競って写真を買うからだ。今後、大事件が起こると、現場は野次馬と俄かパパラッチの天国になってしまうはずだ。 被害者を助けにもゆかず、黙ってみていて、写真を撮る大勢の人々の姿はまったく薄気味悪い。犯人もそうだが、写真を撮る野次馬も生身の人間なのか、と思う。 メディアの客観主義というが、そうではなくこれは”観客客観主義”なのだ。自分たちは決して社会の出来事に参加せず、選挙にもいかず、社会の外で事件を観戦しながら、写真を撮る。サイトやブログで感想なんかを述べ、覆面で世の中を冷やかし、人の悪口をいい、手柄話を競い合う。 オタクの町秋葉原は、歩行者天国、ならぬ「パパラッチ天国」に化けたのだった。
 秋葉原のパパラッチが撮った現場写真は、ビルマ(ミャンマー)でフリーランス記者の長井さんが殺害されたときの現場写真とはまったく意味が違うのだ。あの現場写真はビルマの軍事政権が日本人ジャーナリストを殺害したという重大な意味を問いかけた。 ところが秋葉原事件の現場写真は、メディアの間違った現場主義の表れというほかはない。間違った現場主義は視聴者の恐怖感や感情を高ぶらせるだけで、事件の真実を報道すべき本来のメディアの役割放棄なのだ。 犯人が逮捕される写真、犠牲者が救助されている写真だけで事件の何がわかるのか? 写真はそのメディアのケチなスクープ、というだけの話だ。
 犯人の両親を強引に記者会見させて、謝罪の言葉を言わせたメディアの振る舞いも、ジャーナリズム放棄の延長線上にある。 テレビがこうした感情的報道を増幅させる非理性的なメディアであることは確かだが、テレビの害毒を解毒すべき活字の新聞も理性を失っている。 テレビ同様に間違った現場主義の中に足を突っ込んでいる。新聞まで理性を失い感情的になれば、事件を理性的に分析して報道するという新聞本来の役割を果たせなくなる。そうでなくても、いまの新聞は役所の発表ネタや既得権益や得体の知れない情報操作につかっているのだ。
  どうして犯人はこのような事件を起こしたのか。新聞のニュース取材要件の5W1Hのなかで、WHYを極めるのが腕利きの記者の条件である。
 いつ、どこで、誰が、何をしたか、の情報は素人でも集めることができる。しかし「なぜ事件は起こったか」の取材はプロでなければできないことだ。
 素人メディアが伝える断片的な情報をいくら集めてみても、事件は理解を超えたものにしか見えない。理解を超えたものに対して、人が抱く感情は憎悪、恐怖と関与への拒否である。 現状では、世の中には無差別殺人者がいることを前提にして、テロ対策と同様に、市民がむざむざ事件に巻き込まれないようなセキュリティ能力を高める必要があると結論せざるを得ない。この事件が提起した社会的な意味は、このことだ。世の中には矯正不可能な悪い奴がいるという人間性悪説に立つしかない。
 具体的には、禁止も含めて歩行者天国のあり方、人が大勢集まる夏祭りなどの行事のさいのセキュリティをどう高めるか、が議論になる。かつて私はスペインの歩行者天国で、武装した警官や軍の装甲車が歩行者天国を囲んでいた風景を見たことがある。
 日本も窮屈な時代になったといえばそれまでだが、自分の身を守るためには多少の自由を犠牲にしても仕方ないだろう。 
 さらに犯人がしきりに犯行予告で使ったネットの監視、規制の法的な具体策も検討する必要がある。できるだけ言論の自由を制限することのない、効果的な規制のアイディアを考えることだ。 
 アメリカの憲法学者ローレンス・レッシグの『CODE』という本が、大いに参考になる。 ネット監視、規制というとすぐに「取り締まりの発想」に短絡するのが、日本人の安易さだが、レッシグのこの本は、自由を擁護しながら、いかにして犯罪や害悪から市民が身を守るかの手法が描かれた労作だ。 頭脳を駆使しながら、世の中の希望を作り出そうとする知の結晶である。翻訳も出ているので、世の中を嘆いてばかりいないで、ご一読をすすめたい。 こんな事件の恐怖感に心を占領されるのでなく、被害意識を取り払い、もっと成熟した民主主義社会にするメディアの仕組み作りに市民が参加するしかない。
 同時に、メディアの安易な現場主義の報道を正し、メディアが作る「病理的公共圏」を一掃することが、健康な社会再建のための最重要の課題だ。
 
以下は第90号(2008年5月15日号発行)からです。
大麻汚染の大学教育の危機は深刻だ
国際化どころか、ものを考えない大学生の知的レベル
関西のマンモス私学K大で大麻を学内で販売して、学生たちに供給していた大学生が逮捕された。学外で学生がドラッグに手を出す例はこれまでもあったが、大学キャンパスを密売ルートにしていた例は初めてだ。
ドラッグ先進国の米国でも大学内で学生がドラッグを密売したという話は聞いた事がない。「大学には自治があるので、警察は手を出せないと思った」と逮捕学生は語っているが、聞きかじりにしても、「大学の自治」の中身をその程度にしか教えてこなかったのであろうか。大学の自治が聞いて呆れる。
 実は私はこの大学で、安価な非常勤講師として教えていた経験があるが、ともかく学生数が多く、大講堂授業では600人くらいの学生がおり、後ろの学生の顔は見えないばかりでなく、出入り自由、談笑自由、飲食自由という状況だった。こちらから授業放棄を考えたことが何度かある。
 そのうえ教室のコンピューター施設が不十分だったり、OA機器が故障しがちで、授業の継続にずいぶん苦労したものだ。何万といる学生から高い授業料を取り、国から相応の税金が投入されているにしては、授業や学生に対する扱いがぞんざいであり、どこに金が消えているのか不思議に思っていた。
 そのうえ最近では、学生による授業評価という制度が導入されていて、学生が教員をABCDランクで評価する仕組みがある。
授業中、新聞記者時代にカンヌ映画祭の取材をした経験を話したところ、学生のアンケートの中に、「これは映画論の授業ですか」という質問があり、「映画論を聴くためにあなたに金を払ったわけではない」という書き込みがあった。その学生は初めて授業に出てきたために映画論と勘違いしたのかもしれない。私は、「非常勤の給料を受講生600人で割って計算すると一回の料金約10円で、前期授業12回分で一人当たり120円を返還する」と伝えた。その学生は返還額120円を受け取りには来ず、その後の授業にも一度も出てこなかった。そういう”最後っ屁学生”の評価でも正式な教員評価につながるのである。哀しいことに筒井康隆の『文学部唯野教授』ほどのブラックユーモアもない。
 満足な教育環境もなく、ミソもクソもいっしょくたになった学生集団を相手にして、非常識なほどに低賃金の非常勤教員だから、金よりボランティアと考えて授業をしていたので、こんな学生の評価を受けることを私は拒否した。それに対して大学職員から執拗に評価実施を要求され、こちらの言い分も聞かないでこれを強要するなら、私は辞任すると答えたものだ。
 その結果かどうか、私が担当していた授業科目が今年から急になくなり、きちんとした説明もないまま、私はその職を辞任した経緯がある。どうして急に担当科目がなくなったのか、問い合わせると教授会が決定したということ。少し取材してみると、学生評価を拒否したことと私の思想傾向に問題があるという批判があったと仄聞した。確かに、最近、私は雑誌『諸君!』(文芸春秋)などに新聞批判を書いてはいる。だけど、教員の執筆した論文の思想傾向を云々して担当科目の継続を問題にすることこそ、真に、大学の自治や学問の自由の精神に反することではないのか。もっとも、この大学には新聞記者出身の教授がたくさんいるようだから、私の論文がそういう夜郎自大な連中の目に障ったのかもしれない。表で堂々と批判もできず、陰で団子になって人を後ろから刺すような輩が大学の自治を教えているのだろうか?
 こうした経験があるので、今回の大麻汚染にしても不思議な気持ちはしない。キャンパスにあふれる大量の学生たちの面倒をみきれず、放置しているのが現状で、教員評価と称して学生にオベンチャラを使う始末だから、学生が変に増長して世の中や大人を甘く見るようになるのも致し方ないだろう。要するに、大学の知的劣化、悪質化と共に、学生もどんどん悪質化するのである。
 授業内容や教授陣の厚さに関しては、関西では京大、立命館の二大学が抜きん出ているようだが、マンモス大学はもっと学生のニーズに対応したきめ細かなカリキュラムを組む必要があるだろう。大学の役目は、知識を詰め込むことでなく、考える人材の養成だ。国際化といいながらアジアからの留学生がどんどん減っているのが現状だし、日本の大学を卒業した人材の市場価値は世界では極めて低い。要するに時代に遅れ、使い物にならない”ものを考えない人材”を大量に作り出しているのが現状なのだ。
 それにしても大学に集まった大金はどこに消えているのか、税金の無駄遣いを糾すにしても、これは国家的な大問題でもある。
 私はいまは大教室の授業は極力遠慮して、少人数の大学院や名門の女子大や芸術大学で教えているので、学生の顔も名前も覚えて、ようやく人間らしい教育環境の中で過ごしている。授業が充実していれば給料が安くても気にはならない。若い学生と双方向のコミュニケーションをとりながら教え、学生たちの表情や心の奥まで見えてくると、「いまの若者は」などという紋切り型の批評精神は消えて、実はこちらのほうが学んでいることに気がつく。
 大麻に頼らざるを得なかった学生はちゃんとした大学教育を受けなかったという意味で犠牲者かもしれない。大学を舞台にした大麻汚染に、大学当局は深く反省する必要があるだろう。
 
満開の桜の木の下、哲学の道を散策しながら、日文研創立の時代と園田さんの死を思った
 
桜が満開になり、久しぶりに哲学の道を歩いた。大勢の観光客で歩くスペースもままならないほどだったが、今日の哲学の道の賑わいを、かつてこの道を、思索にふけりながら散策した京都学派の創始者西田幾太郎はどう思うだろうか。
 近郊には哲学者の梅原猛氏のお宅があり、その閑静な住居に若いころはしきりにお邪魔して、いわゆる梅原日本学の魅力に取り付かれた時代があった。
 梅原氏は京都学派の哲学の継承者で、国際日本文化研究センター創立者でもあるが、古い日本学に革命的な学説を持ち込む果敢な知的挑戦者であった。
 当時の梅原氏は、まだ若手であり、京都学派の重鎮には桑原武夫、今西錦司、貝塚茂樹、湯川秀樹、吉川幸次郎、梅竿忠男、上山春平、高橋和己といった錚々たるメンバーが並んでいた。司馬遼太郎氏も京都学派が育てた作家だった。
 私は新聞社に入社して学芸部記者になったので、学生時代にも知っていた諸先生がたから取材ができるという”恩恵”に浴し、北白川の京大人文科学研究所にゆけば、これらの先生がたにいつでも自由に会えて雑談することもできた。桑原先生には祇園の飲み屋によく連れて行ってもらい、若輩の私は、洒脱な談論風発、様々な耳学問を通じて生の知的な啓発を受けたものだ。
 桑原氏と京都学派の学者たちは、まさに知の巨人だった。こんな人たちはもう日本中どこを探しても絶対にいない。西田哲学の絶対矛盾の自己撞着、の概念を持ち出そうとも、絶対にいない。いまは”知の小人たち”がそれぞれの縄張りにすがりついて、食い扶持確保にしのぎを削っているだけだ。
 哲学の道を歩くと、様々な思い出が湧き上がってくる。
 京都に日文研を作って日本の知をもっと国際化させることの重要性を考えた梅原氏は、当時の中曽根首相に趣旨を訴えて賛同させ、国を動かした。
 やがて日文研設立調査費が予算化され、文部省の屋根裏部屋のような狭い部屋に設立準備室ができた。私は梅原氏の構想に賛同し記者としてその部屋を何度も訪ねて取材したが、梅原氏と彼をサポートする若手の京大助手だった園田英弘氏の二人と、もう一人文部省の役人が粗末な椅子に座っているだけだった。
 本当に日文研ができるのだろうか? 私はそこを訪ねるたびにいつもそう思った。梅原氏は高く志を掲げていたが、園田氏と私がふたりだけになって雑談すると、私と同様に懐疑的だった。
 学界世論は梅原構想に冷たく、特に東大などの左翼系の学者たちは京都に設立というだけで反感を持っており、梅原氏の思想が保守的で戦前型のナショナリズムを復活させるものだという悪宣伝も行われていた。
 私は梅原構想を実現すべきだという立場から、日文研設立は決して偏狭なナショナリズムを煽るものでなく、日本の国際化にとって貢献するものだという記事を書きまくったことを覚えている。
 やがて反対世論は沈静化し、日文研は京都の洛西に設立され、広大な敷地と立派な研究棟が完成し、梅原氏は初代の所長になった。梅原氏の鉄をも溶かす火の情熱の勝利であったろう。
 設立に奔走され、梅原氏の最大のパートナーでもあった園田氏は、そのご日文研教授になり副所長になって順調に出世していると思っていたが、昨年、自殺の訃報に接して、愕然としている。
 国立研究所の独立行政法人化の統廃合をめぐる心労があったと、お聞きしたが、なぜ園田氏が自殺されたのか真相はわからない。
 その後、彼とはあまり話す機会がなかったことを悔やんでいるが、数年前に、梅原氏の文化勲章授賞パーティで、園田氏と交わした会話が忘れられない。
 「梅原さんの文化勲章は、文部省のあの部屋から始まったんだよ。柴山さんが一生懸命に書いたあの記事がなければ今日の文化勲章もなかっただろうな」。
 私は言葉を返した。「いやいや園田さんの縁の下の雑務が日文研設立を支えたんだよ。園田さんの功績だよ」。
 その園田さんが亡くなったことはまことに悔しい。満開の桜の下を歩きながら、やはり最後には、園田氏のことを思い出していた。
 遺児がまだ学齢期にあるという。日文研の有志たちが園田氏の遺児の奨学資金の呼びかけをしているので、私もなにがしかの協力をしたいと思っている。
 
以下は第88号(2008年3月25日発行)からです。
 
ああ無情!命と戦争、平和時の殺人     
 
無差別殺人や青少年の殺人や自殺、家族や親族、友人などの近親者の殺人
行為が多発しコミは連日殺伐なニュースを伝えている。誰でもいいから人
を殺したかったとか、隣人や近親者の命がこんなに粗末で軽い存在になっ
たのか。九州ではおにぎりを食べたいといって餓死した貧しい老人もいた
。見殺しにした役所の非情は、まさにああ無情!である。
私は戦争報道のことを調べてきたが、『世紀の遺書』(巣鴨遺書編纂会編)と
いう本に、戦犯として処刑された旧日本軍兵士たちの遺書が多数収録されて
いる。シンガポール、香港、中国、マレーシア、旧仏領インドシナ、インド
ネシア、フリッピン、オーストラリアなどで、戦勝国の英米仏中、オランダ
、オーストラリアの連合国軍に逮捕され、現地のいい加減な裁判によって処
刑されたBC級戦犯の遺書を集めたものだ。処刑された戦犯は実に1000
人近くにのぼる。ある軍医は幼い娘にこんな遺書を残した。「・・生き物は殺
さないようにお父さんがたのみます。トンボは捕まえてもすぐ離してやって
ください」。父は国のために命をささげたのであり、捕虜虐待を行った犯罪者
でも何でもないのだから、処刑された父親を恥じることなく、生き物の命を
大切に扱って、立派な人間になるように、と娘を諭しているのである。
膨大な遺書を読みすすめみても、同じような趣旨で家族に深い愛情を注ぐ文
章が多い。
無実を主張したり、無念の思いを訴えている遺書もあるが、多くは異郷の監
獄で世話になった看守に感謝しながら、迫り来る死を運命と捉えて従容とし
て死刑台の露と消えた。
これを読むと、当時の日本人の心の一面がわかる。日本には一木一草に神が
宿り、むやみな殺生を戒める思想があった。処刑された戦犯たちが、敵の殺
傷を旨とする軍人であっても、殺人を是とする思想を持っていなかったこと
、激しい戦闘の中でも武士道を重んじて、家族や近親者への愛情と感謝の気
持ちを、強く抱いていたことがわかる。
最近の青少年の殺人事件の多発を見ていると、戦時下の日本人のほうが命を
大切に思っていたのではないかと思えてくる。戦後の日本人は、戦争の過去
を否定して夢中で働きその忌まわしい記憶から逃がれようと懸命に生きてき
た。その結果、平和ボケになり度を過ぎた自分中心主義に陥り、他人はもと
より、自分や近親者の命すら慮らない精神が生まれたのである。戦争の時代
より平和な時代の日本人の心のほうが、よほどすさんでいるとは、どういう
ことか?
評論家の故江藤淳氏は、GHQの日本統治と検閲が、日本人の精神の改造を
目指すものだったと指摘し、戦後の日本人は“魂の改造”を迫られた、といっ
ている。さらには南太平洋や外地で死んだ膨大な戦死者の死の意味を、日本人
から忘却させることこそGHQの最大の狙いだったという。日本人から伝統的
な宗教の死生観や生命観を遠ざけて、物質至上主義、経済至上主義の思想を鼓
舞したのである。(『閉ざされた言語空間』(文春文庫)。
検閲官として英語に堪能な日本人一万人が雇用され、彼らは政界、大学、経済界
、法曹界、マスコミ界などで活躍し、戦後の世論形成に影響力を発揮したとい
われる。必要以上に米国の顔色をうかがう風潮が生まれたのは、そのせいかも
しれない。
私は、南太平洋の激戦地の戦跡を取材したことがある。南太平洋諸島に
は沈んだ軍艦、ゼロ戦、戦車残骸のほか、ジャングルの洞窟には、旧日
本軍兵士たちの遺品がいまだに打ち捨てられていた。軍艦の残骸が海面
に突き出ていているのを眺めていたら、ものすごいスコールになり、
椰子の下で雨宿りした。誰もいない海辺で、椰子の葉ずれがの音が物
悲しいざわめきを立てはじめ、人が呻吟する声のように聞えた。その
先の海底にはゼロ戦が沈んでおり、もぐってみると、翼の日の丸が
くっきりと見えた。たぶん遺体はまだ機内に残されているのだと思うと
、海中で私の身体は震えた。
残骸とともに海に沈んだ戦死者の遺骨と魂は、日本人が決して忘れては
ならないものだが、遠く離れた南太平洋の孤島の海底に打ち捨てられて
いる。米国では戦死者の遺骨はたとえ一人であっても草の根をわけても
捜し出し祖国の土に埋葬するという。
「わが心故郷(くに)に伝えよ椰子の風」という処刑された学徒の辞
世の句を思い出した。青少年の心に甚だしい歪みをもたらした原因を
道徳教育の不在に帰する考えがあるが、それだけだろうか。戦後の
平和と繁栄の基礎を作ってくれた数百万戦死者を粗末に扱い、その
存在すら忘却してきたことは戦後日本人の精神を蝕み続けてきたの
ではないか。
その結果がいま現れてきたのかもしれない。
 
 
以下は第87号(2008年1月17日号)からです。
 
今年初めてのコラムです。しばらく更新を休んでいました。日本という国が、歴史と文化の基盤も含め、まさに芯から解体しつつある現状を毎日のように見せ付けられて、書く気力も喪失していました。私は大学で教えて細々と稼いでいるのですが(稼ぐというより社会貢献のボランティアの要素のほうが強いです)、その空洞化は目を覆うばかり、教員、教授会なるものの知的劣化と退廃、悪質な無責任ぶりを見せつけられ、教育も根底から崩壊している現実を痛感しました。こんな大学で学ぶ学生が悪質化するのは当然です。釣った魚に餌をやらない安物のレジャーランド化、大学崩壊の現場ーーの具体的な事例は、いずれ本にして世に問いたいと思っています。文部科学省は三流官庁といわれますが、大学というところはその下の四流官庁のようなところです。私学といえども国民の税金が投入されていることにまったく無自覚で、胡坐をかいた事務職員の専横と学生無視、学位詐称、授業内容の虚偽申告、定員偽造などの虚偽申告などなど、文部科学省の大学行政の失政、間違い、ノーチェックの背景には文教族の跋扈と大学利権の構造が露呈しています。世の流れと逆行するパート教員の非人間的な低賃金を是正する意識もありません。こんな不祥事が世に知られないのは大学に対するメディアの関心が低いのと、急増したメディア出身の教員たちが不祥事の隠蔽に加担するガードマンの役割を負わされているからです。正直ものが馬鹿を見る、そんな大学でマトモに教えることは徒労だと痛感しましたから、今年は執筆に専念しようと思っています。外国からの意欲ある留学生たちは、日本に遊びに来たわけではない、高い学費をドブに捨てるわけにはいかないと、日本の大学から去っていきます。今後も辛辣なメディア批判をしていきますが、知性が麻痺した大学に比べるとメディアのほうにまだ多くの可能性が残されていると思うからです。
 
なに、ガソリン国会? 日本の二大政党も地に落ちたものだ
 
二大政党による政権交代への期待が高まっている、というより55年旧体制に甘んじる自公政権にはこれ以上、頼ることはできないと国民が思っています。福田政権の支持率はジリ貧で、発足時からの目的だったテロ特措法の修正延長を、衆院に差し戻して強引に通過させてから、精力を使い果たしました。
 盟友のブッシュ大統領は新たなイランとの戦争を仕掛けるために中東諸国を歴訪しましたが、同盟国サウジアラビアの要人にも冷たくあしらわれたようです。もうその手は食わない、ということです。ブッシュ離れは、盟友だったイギリス首相の交替、オーストラリア首相の交代などで、世界的に加速しています。反ブッシュの流れは膝元のアメリカで顕著であり、今秋の大統領選挙では、ヒラリー候補かオバマ候補のどちらかが米国大統領に選ばれるでしょう。
 馬鹿正直に最後までブッシュの尻についていった日本は、したたかな世界の外交戦略家たちに嘲笑され、ただでさえ最低ランクにある日本の国債のランクはさらに一段と下がってゆくでしょう。
 これまで日本には金があったから、食料自給率が40%しかなくても、外国から食料を買えばよかったのですが、日本が貧窮してくれば簡単に食料を買えなくなる。ということは約半数の日本人が餓死することになります。最近のスーパーを見てもかつてほどの食品の賑わいはなくなっています。
 新年になってから株価の下げ止まりが収まらず、日本経済は悪化の一途をたどっており、政治力と外交能力が試されているのに、内向きのガソリン国会なるものに与野党とも血道をあげている。しかし石油の高騰というグローバルな流れに対してまったくの無力を露呈している。いまの石油価格を独占する中東地域やロシアに対しては何の影響力もない。北方海域で漁船がロシア警備艇にむやみに拿捕されても打つ手がないのです。
 石油やガソリンの値段が上がって国民生活はますます苦しいし、物価も大幅に上がってきました。だからガソリンの暫定税率をなくしてガソリン価格を安くするという民主党と暫定税率を据え置かないと政府財政がもたないとする自民公明の与党が激突して、ガソリン国会となったのですが、そもそもガソリン価格の問題がそのまま与野党の重大な争点になるということはおかしいのではないか。
 ガソリン価格に上乗せした暫定税率が30年も続いていたのは、政治の怠慢にすぎません。即ち30年間にわたる与野党の馴れ合い政治が、道路族を支えていたという癒着の構造が露呈したに過ぎないのです。
 仮にガソリン価格がここまで高騰しなかったら、問題にもならずに暫定税率は続いていたのではないか。
 二大政党という以上、それぞれの政党には政治の理念があるはずで、お互いに政党の依って来るゆえんーーつまりアイデンティティですがーーも語ることなくガソリン価格で国民を操ろうとする与野党の安易な姿勢にあきれます。
 戦後日本を振り返ると、エコノミックアニマルになることでしか、国際社会に復帰することが許されなかった日本の政治の宿命、といえばそれまでですが、二大政党という以上、自らの理想とする政治文化や哲学を語る必要があるのではないか。二大政党がいいと国民は漫然と思っているかもしれませんが、もともとアングロサクソン系の国で採用された政治システムにすぎないのが、二大政党制なのです。
 私は、いま二大政党制は戦後の日本に根付くことができるのかという大問題を考え、執筆しています。次の総選挙で与党は敗退し、政権交代は起こるかもしれなせんが、かつての細川内閣の時や社会党の村山首相をかついだ自民党の時のような、連立型になる可能性のほうが高く、米国のような二大政党の政権交代とは性格は異なりますし、かりに政権交代しても官僚機構が無傷のまま引き継がれる点も、大きく違います。
 そう考えると、アメリカを真似た二大政党型の政権交代は、いまの日本では起こらない、というのが私の結論です。
 むしろ戦前の大政翼賛会に流れる以前の、立憲政友会と立憲民政党の時代に、日本政治の二大政党への萌芽があったことを指摘しておきます。政党の自立性、独立性があったからです。
 政党政治とは、政局や利害調整技術ではなく、根本に政策を支える哲学と思想が必要です。その意味で言うと、安部前首相は、GHQ占領下に作られた戦後体制の総決算を謳い、「美しい国日本」といいました。美しい国というフレーズの真意は私にはよくわかりませんでしたが、戦後の首相としては唯一、哲学と政治美学を表明した首相ではなかったかと思っています。
 
 
 
 
  職を賭した安部さんの功績か? 自民党総裁選挙という狂想曲
   この茶番劇を仕組んだのは捨て身の知恵だ
 
 自民党総裁選挙の狂騒が全メディアを覆っています。ついでに、支持率が旧降下している自民党にも国民の関心が集まっています。
 その分、民主党の存在は影が薄くなっています。民主党のミスター年金と俄か大臣・桝添さんのタグマッチを期待していた国民の期待は大きくはずれました。
 福田さんは確かに良識ある政治家ですが、もっと早い段階でその良識と知性を発揮してほしかったし、自民党員が一人もいないというオタクの町・秋葉原で気勢をあげた麻生さんは、国民の目線からもずれているとしか見えません。
 小泉チルドレンたちは、小泉さんに断られて、思想も信条も違う福田さんにすり寄っています。議員の職にしがみつくだけで、節操も信念もないんですね。
 こうした光景はどこから見ても自民党の末期現象で、音を立てて崩れてゆく政権政党の内部の腐敗が見えるだけです。
 民主主義とは名ばかりで、二大政党制が根付かず、政権交代も起こらなかった戦後日本では、政治を変えるには、権力の自壊を待つしかないということを示しているのでしょうか。
 
 江戸幕府の崩壊のときは、勝海舟や西郷隆盛らがいて、「江戸城明け渡し」という過激な政権交代を、平和的に見事に果たしました。
 江戸城明け渡しとは、いまでいえば、「霞ヶ関明け渡し」ということになります。
 思うに、安部首相が小沢代表との会談を強く求めた理由は、必ずしもテロ特措法の延長問題だけではなかったののではないかと、思います。
 参院選の大敗北で政権交代がありうると考えた安部さんは、自分を勝海舟に見立てていたのかもしれません。しかし小沢さんにはそれを受ける気はなかったようでした。
 安部さんは自民党政治の終焉を身をもって体験し、前任者の小泉さんが本当に自民党をぶっ壊したのだという実感を持ったと思います。
 そこで、安部さんは最後の賭けに出ました。職を賭す、つまり政権を投げ出すという過激な行為に出ることで、自民党への関心を集めるという捨て身の戦法です。
 これは戦ですから、辞任にあたって安部さんが病気の話をするはずもありません。与謝野官房長官は、安部さんが辞任の記者会見で病気のことをいわなかったことが、誤解を広げたというような話をしていますが、これは間違った認識です。
 メディアが大騒ぎすることで、一時的かもしれないが、国民の関心が自民党にむけられる。その間に崩壊寸前の自民党を立て直す。安部さんの狙いはそこにあります。
 政権がダッチロールを繰り返す中、高度を少しでもあげて、墜落までの時間を稼ぎ、ショックを柔らげるために安部さんが考えついた最後の方法が、総理の辞任、だったのではないか。
 安部さんと麻生さんとの確執論がメディアを騒がせていますが、それはあまりにも底の浅い分析ではないか。
 私が述べた以上の分析をメディアはまったくしていません。しかし仮にも一国の首相が、”犬死のような辞任”をするはずはないのです。この点を、私は安部さんに聞いてみたい。
 政治生命すら棒に振ったかに見える安部さんの深謀遠慮とは何だったのか。それを分析することこそ、ジャーナリストの最大の仕事ではないかと思います。
 官邸記者クラブにふんぞり返っている日本の政治記者たちは、こうした分析をすることもなく、肝心なときに、床屋談義に興ずるか、重箱の底をほじくることしかできないでいます。
 
 
以下は前号(2007年6月23日)からです。
 
北東アジアの平和構築・共同開発計画から日本は取り残される
 ヒル国務省次官補のピョンヤン電撃訪問で、米国と北朝鮮の和解ムードが 急速に進展しています。北朝鮮は、IAEA(国際原子力機構)の査察も 受け入れました。しかし日本では、朝鮮総連のビル差し押さえ問題で、元 公安調査庁長官のぺーパーカンパニー事件が表面化し、日朝関係は悪化の 一途をたどっています。拉致問題の解決はいっそう遠のいたのではないか。 今回は、メディアが分析しない一連の事件の背景を探ります。
 [お知らせ] シンクタンク「現代メディア・フォーラム」は、4月21日(土曜)に、東京・日大講堂で8時間耐久マラソン・シンポジウム「テレビを問う!」を開催しました。おりしも、「あるある捏造事件」などでテレビ界が混迷するなか、日本のメディア界をリードする方々を総動員する大規模企画の反響は大きく、ネット中継のオーマイニュースで、視聴者は約4000人を数えました。、シンポジウムの詳細は以下の公式サイトに掲載しています。
 なお、2005年秋、外国人ジャーナリストを招いて京都で開催した第一回国際シンポジウム「メディアのM&Aとジャーナリズムの公共性」の詳細も特集しています。公式サイトhttp://www.media-forum.jp/ をご覧ください。
 ブログも開設しました。いま、中国・天津の旅を書いていますhttp://d.hatena.ne.jp/Tshibayama/
 
 日本のメディアはヒル氏のピョンヤン訪問を電撃的と伝えましたが、米国の情報を詳細に分析していれば、予定されたスケジュールだったことがわかります。電撃的という表現は、日本のメディアの取材不足と不勉強のたまものにすぎません。メディアだけでなく、日本政府の外交戦略の失敗でもあります。
 米朝和解ムードに嫉妬していちゃもんをつけている場合ではない。
日本の国益は著しく損なわれています。朝鮮総連本部差し押さえ事件などで、北朝鮮への強硬姿勢を継続する日本にとって、拉致問題解決はさらに遠のいたからです。国内の違法行為の摘発ですが、国益に照らして、政治外交上の意味は大きいということを知る必要があります。
 朝鮮総連に対する元公安調査庁長官の違法な越権行為を放置したのは、日本政府の無策のなせるわざです。
 朝鮮総連と北朝鮮のルートを切る場合、別の外交ルートを用意しておく必要があります。それがないとすべてが断絶します。これは外交の構想力の問題です。これらの責任を誰が負うのか。
 イラクで打つ手がなくなった米国が、北朝鮮との和解に走ることは目に見えていました。米国はイランやパレスチナでも行き詰まり、中東戦略全体を見失っています。戦後のイラク投資に経済の活路を見いだそうとした米国の目論見は、失敗しました。
 そこへ6ヵ国協議で、中国、ロシア、韓国の協力が得られ、北朝鮮が懸案の核兵器放棄を約束したのだから、中東外交で行き詰まったブッシュ政権が、方向転換してこのレールに乗ることは、当然の理です。
 さらに、いまの米朝デタントの先には、米朝国交樹立と朝鮮戦争の終結という超歴史的なプログラムがあります。人気低迷するブッシュ政権は、朝鮮半島の冷戦終結に最後の政治生命をかけるでしょう。
  現在の北東アジアの最大のテーマは、朝鮮半島の冷戦の終結です。韓国と北朝鮮に分断された朝鮮半島の38度線とは、半世紀以上も前の朝鮮戦争の時に決められた休戦ラインにすぎません。休戦ラインというのは、いつ戦争が勃発してもおかしくない不安定なラインです。
 つまり、北朝鮮と韓国・国連軍はまだ朝鮮戦争を終結していないのです。
 従って、今回の米朝和解の行方には、朝鮮戦争の終結という大きな国際プロジェクトがあるのです。
 さらに、その先には、国際社会に門戸を開いた北朝鮮の経済開発をめぐる米、中、ロ、韓国の国益や利害が深くかかわっています。
 北東アジア共同開発プロジェクトです。中、ロ、北朝鮮、モンゴルにまたがる豆満江周辺を「経済特区」として、各国が共同開発するという一大プロジェクトです。周辺は天然ガスなどの埋蔵地下資源の宝庫です。
 このプロジェクトは、クリントン政権時の米朝接近のさいに練られたものです。しかしブッシュ政権になり、北朝鮮敵視政策で頓挫しました。
 米国の民主党の躍進で、いま、このプロジェクトが再浮上していると思われます。
 当時、私はハワイのシンクタンク・東西センターにいて、北東アジア開発プロジェクトに関与したことがあります。北東アジア開発銀行創立の計画もあり、その総裁候補まで決まっていました。
 日本政府は各国に資金拠出の力量がないと見て、この計画を軽視し、参加意欲は希薄だったようです。しかし中国、ロシアが急成長し日本に並ぶ経済力をつけてきた現状を見れば、あのとき頓挫した北東アジア開発プロジェクトが蘇る資金的な条件は十分に、満たされています。
 最も重要な課題は、北朝鮮の政治的な不安定要因を除去することです。そのプログラムが、北朝鮮の核廃棄受け入れによって動き出しました。
 6ヵ国の協調体制のなかで、日本が現状の北朝鮮強硬政策を続ければ、孤立し、取り残されるだけです。
 しかし視点を変えて、日本を北東アジア開発の莫大な経済利権から閉め出すことは、米、中、ロ、韓国の共通の利害にかなっているかもしれません。あえて日本はずしが進行している可能性を考慮すべき時です。日本の国益は損なわれており、みすみす鳶にあぶらげさらわれる図になりかねない。
 日本が北東アジアから孤立することが、周辺各国の国益にかなっているとするなら、日本外交はよほど思慮を深く対処する必要があります。いずれ、北朝鮮は日本に多額の戦争賠償金を要求してきます。
 米国議会の従軍慰安婦謝罪決議、硫黄島の呼称変更にまつわる米国退役軍人会からの異議など、中韓のアジア諸国だけでなく、歴史認識に関わる米国の反日の動きにも気を配る必要があります。
 四面楚歌になって、日本はどうなるのかという現実感が、日本人に欠如してるのは痛ましいことです。中、ロ、韓国、北朝鮮を軽視し、野郎事大になって、米国と最終衝突するーーあの最悪の事態が繰り返されないという保障はありません。
 
以下は第84号(5月29日号)からです。
 片言隻句捉えたメディアの”血祭り”の犠牲、松岡氏の自殺
 松岡氏の自殺の真の原因は、”なんとか還元水”という片言隻句をあげつらったメディアの集中豪雨報道にあります。
 かつての新井将敬代議士の自殺と比較する憶測報道もありますが、在日韓国人でもあった新井氏の自殺は、株の不正取引容疑で東京地検から逮捕状が出る前日のことでした。
 松岡氏は、緑資源の談合疑惑(独占禁止法違反)捜査に検察が動き始めたことを知り、疑惑が自分に向けられることを恐れての自殺ではないか、という憶測もあります。しかし、捜査が松岡氏の身辺に及んでいた証拠はまだないし、安部総理もこれを否定しています。
 その程度の疑惑が、現職大臣の自殺の引き金になるのだろうか。
 死人に口なし、ですから、いまや憶測でしかものはいえません。
 しかし松岡氏の事件の背後にさらなる”巨悪”が眠っていないか?
5000万件に及ぶ年金記録の紛失とはどういうことか。高級官僚の天下り禁止法はどうなってしまったのか。松岡氏の事件の陰に隠れた”巨悪”は、松岡氏の死による事務所費疑惑や緑資源問題よりも、はるかに巨大ではないのか。
 いま日本国民は、国家のなすことへの信頼が得られない、という最悪の事態に直面しているのです。松岡氏をスケープゴーツにして、”巨悪”に目をつむることは、許されません。
 松岡氏の疑惑報道は議員会館の光熱費報道から始まりました。民主党の追究に、松岡氏は、”なんとか還元水”をつけていたと口走りましたが、この片言隻句が命取りになったのだと思います。
 この”なんとか還元水”は、吉本的なノリを喜ぶマスコミ芸能ネタ、テレビワイドショーの格好の冷やかしとイジメのターゲットになりました。面白おかしい新聞の見出しにもなります。
 悪のりした若手の野党議員たちは、テレビワイドショーにつきあって、松岡氏の議員会館の部屋を訪れ、水道に”なんとか還元水”装置がついていないと、笑いのネタにしていました。
 ”なんとか還元水”というのは、口がすべっていったことで、申し訳ないとすぐに謝ればよかったのですが、閣僚の金の問題でこれ以上の追究を受けたくないと、官邸側も口封じしたのではないかと思います。
 以降、”なんとか還元水”はメディアの間で面白おかしく一人歩きし、増幅され、その報道洪水を野党は利用しました。松岡氏の首を取って、安部内閣を追いつめ、参院選を有利に展開しようとしたわけです。
 松岡氏の国会答弁の様子をNHKテレビの中継で見ていましたが、「法に照らして適切な処理を行っています」と決まり文句を答える松岡氏の表情が、どんどん無表情に変化していく様子に、なにか不吉なものを感じました。 
 精神的に追いつめられている。そういう信号が松岡氏の表情から出ていました。
 人間の類型として、冷やかし、もの笑いのネタにされることに耐えられない人物がいます。松岡氏もそういうタイプだったのではないか。
 松岡氏は、出るところに出て疑惑に答える、悪をなしたのであれば、謝罪するというサムライ精神は持っていたのだと思いますが、それすら許されない政局の流れがメディアによって作られて、人間としてのプライドが粉々にうち砕かれていたのではないか。
 一寸先は闇、の政界の方々には松岡氏が発するデリケートな危険信号を読みとれる能力をもつ人物はいなかったのでしょう。
 盟友だった鈴木宗男氏ですら、自殺の数日前に松岡氏と会食していますが、松岡氏がそこまで追いつめられていたことに思いが至らなかったと、悔やんでいます。
 一人の人間の死に至る苦悩とは、そういうものかもしれません。誰も気が付かない。自殺する子供に、死ぬな、とアドバイスする資格のある大人など、存在しないのです。
 断言しますが、松岡氏を自殺に追い込んだものは、”なんとか還元水”に端を発したメディアの報道洪水です。そうすることでメディア自身が、本来伝えるべき”巨悪”を隠蔽しています。
 メディアの関係者は自責の念をカケラでも持っべきです。
 緑資源機構への捜査に検察が動いたのは、松岡氏の疑惑の報道洪水に連動したからではないか。検察も裁判所も世論の動向を見ています。鈴木宗男氏やホリエモン逮捕のときにも、世論によるバッシングが作られていました。世論、すなわちメディア、新聞やテレビです。
 ”なんとか還元水”がなければ、緑資源機構の捜査に検察が動いたかどうかもわかりません。
 現代におけるメディアの影響力とは、それほどに巨大なのですが、関西テレビの「あるある捏造事件」でもわかったように、肝心なメディアには責任感がありません。不幸にして報道洪水の犠牲になった人は、まったく救われないのです。
 松岡氏の自殺は、現代日本のメディアの報道のあり方、「人間と名誉」に、大きな一石を投じました。
 いかなる事件の渦中にあっても、報道される人間の名誉は守られなければなりません。
 ”正義の請負人ズラ”して、人を死に追いやることは、最悪なのです。
 
 
 
  以下は第83号(2007年5月5日付)からです。
大学教師の月収15万円、格差社会の典型か?”知の府”の貧困ぶり
 格差社会の象徴ともいえるフリーターや派遣パートに混じって大学の非常勤講師がテレビ出演し、その窮状を訴えていました。40歳代の半ばで、月収が15万円くらいしかなく、家族を養っていけないという内容でした。話を聞くうちに愕然としました。仮にも”知と頭脳で稼ぐ商売”のはずの大学教員の一部が、食えない世の中とはいったい何なのか。 テレビ出演していた大学教師は、なんと非常勤講師の薄給だけで生活しているということでしたが、毎日働き詰めで月収は15万円ほどしかないということです。健康保険も年金制度もないので、この中から税金や保険などを支払うと残りはもっと少なくなります。確かに生活できないでしょう。
 こうした賃金格差については、パートの主婦やフリーター、タクシー運転手の話としてよく聞いていましたが、この範疇に大学教師も仲間入りしたようです。
 大学院卒という高学歴が災いして、普通の就職もできない、というのです。アメリカに留学したときには、聞いたことがない話です。
 だいたいこんな薄給だけで生活している人が、大学の教壇に立って学生を教えることは妥当なのか、という疑問も沸いてきました。
  しかしながら教育への情熱あふれる人が、給料など度外視して、ボランティアとして教壇に立つ、ということはありえます。
 あの大金持の黒川紀章氏が東京都知事に当選しても、給料は一円でいいと公約したのと同じ精神論でしょう。人生、意気に感じる、というやつです。
 かくいう私も長年、大学の非常勤講師をしていました。頼まれると引き受けてしまう癖があるのと、若者に何かためになる話をしたいし、後世に伝えておきたい大事な知識もたくさん持っています。
 作家、ジャーナリスト、弁護士などを経験した友人たちも非常勤講師をしています。そんな彼らと集まると、なんて安い給料なんだ、失礼を通り越すほど安い、などと口をそろえて愚痴りますが、社会貢献だからと、続けている人は多い。
 非常勤といえども、授業時間だけでなく、授業準備、学生の応対、試験の答案採点、レポートの採点など様々な雑務があります。授業のある日は一日つぶれます。その間、本業の仕事をすれば、講師給の10倍以上の金は優に稼げます。
 しかしいくら落ちぶれても、大学はまだ「知の府」だと、多くの友人たちは信じています。
 果たして日本の大学は、信じるに足る「知の府」なのか。知的集団といえるのか。そんな疑問がわきあがっていた矢先、非常勤講師で困窮している人が、格差社会のサンプルとしてテレビ出演していたというわけです。何か、プライドが粉砕された気分です。世の中は倒錯している。
 確かに、同じ授業をしている専任教員は月収50−60万円はもらっているでしょう。非常勤とは5倍ほどの給料格差があります。たとえ専任であっても、サラリーマン社会と比較すれば中の下くらいでしょう。ならば、非常勤講師とは、社会の底辺的存在、ということになります。
 「余人をもって代えがたいので、非常勤講師をお願いできませんか」というのが大学側のくどき文句なのですが、この言葉通りに実践しているのは、東大、京大クラスの一流国立大学くらいのものでしょう。
 私は京大の大学院と学部兼任の非常勤講師として「メディア情報産業論」という科目を、約10年教えました。学生はおおむね優秀で、授業は充実していましたし、試験のレポートを読むのが楽しみでした。給料も非常勤としては破格に良かったと思います。
 しかし私立大学となると話は違ってきます。大教室の学生には手がかかるし、私語はするし、休みには大量の答案を義務的に読んで点数をつけなければならない、という単純作業を繰り返すことになります。
 さらに驚くのは、私学の非常勤講師の数の多さです。大学によっては、全教員の3分の1から半数近くは非常勤講師、というところもあるようです。余人を持って代えがたいーーというのは真っ赤な嘘で、薄給の非常勤講師がいないと私立大学の経営は成り立たないという現実があります。
 この格差を前提とした私学の経営体質は、いま問題になっている企業の正規社員、臨時社員、派遣社員、下請け・孫受け社員などの格差構造とまったく同じです。
 問題は、最高学府の場でこういう事態がまかり通っていることではないでしょうか。
 非常勤講師を2年ほどやった知人のテレビプロデューサーは、「テレビに出ている大学教授たちは他の格差社会のことはしきりにいうが、自分たちの足元のことはいわない。そもそも大学とは知識産業の場のはずだが、自分たちの同僚がそんな安い知的単価で使われていることを、なんとも思わないのだろうか。自分の知的単価もその程度に安価なものと思っているのだろうか」と話していました。ならば、大学教授のテレビ出演料は、非常勤講師並みにしたら、などとジョークを飛ばしたものです。
 非常勤講師のこうした格差の社会問題化は、大学の知的基盤を腐食させます。学生も非常勤講師の話をマトモに聴かなくなるかもしれません。
 安部内閣の教育再生会議は、いま大学・大学院のあり方を論議するプロセスに入っていますが、大学内のこうした隠された格差が、大学の権威と知的レベルを落とし、大学のモラルを腐らせていることを深く認識すべきだと思います。
 非常勤講師は廃止し、必要な教員は専任化(社員化)し、相応の待遇を与えるべきです。教員の質を確保し、優れた学生を世の中に送り出すための質的な格差是正ができない大学は、この少子化社会をサバイバルできずに、消滅するしかないでしょう。
 アメリカの大学では、経営上の賃金格差を基盤にした非常勤講師などは存在しません。いかなる教員も大学教員である以上、それぞれのキャリア、業績などを厳格に審査されます。給与などの待遇は個人差がありますが、契約によって相互に納得した上で、教壇に立っています。それが知の府としての大学の最低の責任であり、社会的な義務です。
 日本の大学は教授との徒弟関係で、採用や待遇が決められ、情報も開示されていないので、専任教授が本当にふさわしい人物なのか、外部から判断しうる基準はありません。
 業績、キャリアともにいい加減な人物が、徒弟制度のもとで大学教授におさまり、終身雇用で居座っているというケースが、欧米先進国に比べ、あまりにも多すぎます。
 教育再生会議にとって、早急に改革を要するテーマです。
 
以下は第82号(2007年4月27日)からです。
従軍慰安婦問題の再燃の渦中、苦い安部首相の訪米
 アメリカのメディアで、小泉前首相ほど露出度の高かった日本の政治家はいませんでした。ブッシュ大統領の前で、サングラス姿で腰を揺するプレスリーの物まねが繰り返し放映されたりしていました。小泉さんは改革者イメージがあり、ユーモラスで人気があったということです。
しかし保守イメージが強い安部首相は米国メディアで人気がありません。残念ながら今回の安部訪米をマトモに伝えた新聞やテレビはありませんでした。
 CNNは従軍慰安婦の抗議デモが安部氏を迎えたことを報道し、従軍慰安婦問題の特集をしました。米国議会とメディアは、従軍慰安婦問題で日本の国家責任を追及し始めていることを、安部訪米に合わせて特集したというわけです。
この問題は米国だけでなく、世界の人権運動と連動する形で国際問題化しているので、相当に深刻です。従軍慰安婦問題がいまなぜアメリカの議会とメディアを舞台に再燃しているかといえば、国際的な人権運動と連動していると考えられます。
 ドイツではアウシュビッツ収容所のユダヤ系女性収容者がナチス軍所属の売春婦にさせられていたという事実が明らかになり、ドイツ政府は謝罪しました。
 同様に世界各地で軍と慰安婦の関係が、アムネスティや人権活動家の手で暴露されつつあります。またアフガニスタンなど、イスラム圏の国の女性への性的暴力の実態をアメリカのテレビが特集したりしています。
 さらに古くアフリカの奴隷貿易の歴史が、新資料の発見などで再構成され、欧米諸国に新たな謝罪を迫っています。
 歴史的な問題を掘り起こす人権運動の世界的な高揚が、日本の従軍慰安婦問題の再燃につながっているのです。
 従って、アメリカの一部の議員や韓国系の元慰安婦を名乗る人々の小さな運動にすぎない、という日本の主流の考え方は甘い、といわざるをえません。
 アメリカの議会はともかく、巨大メディアの論調の怖さをもっと知るべきです。ニューヨークタイムズ、ワシントンポストという2大新聞が、そろって同じ論調、つまり安部首相の「従軍慰安婦の強制連行に軍当局は関与していない」という発言を、”二枚舌”と書いた意味は重いのです。強制はないとしても、慰安所を軍が認知しコントロールしていた証拠はあります。 
 六カ国協議で、アメリカが北朝鮮の要求をいれ、拉致問題解決を最優先させた日本だけが唯一の北朝鮮強硬派になって残ってしまった、という事情が重なります。
 従軍慰安婦問題を持ち出すことで、拉致問題の軟化を図ろうとする勢力の陰謀ではないか。そういう解釈もあります。
 背景にあるのは拉致問題解決をめぐる北朝鮮外交の失敗です。
 火に油を注ぐ、のが外務省のメディアへの対応です。記事を書いたワシントンポストに抗議するのは自由ですが、新聞に圧力をかけるのは封じ手になります。圧力をかけたと思わすだけでもまずい。そこは、日本の新聞やテレビのように簡単にはいきません。ましてや米国記者をスシバーで接待したり、供応まがいの手を使うのは間違いです。
 後進国のジャーナリストを”買収”のような手段で懐柔するようなことが日常的に行われているようですが、これはメディア政策の邪道です。
 アメリカの誇り高いジャーナリストの扱いは、日本の記者より難しく、手ごわい。交通事故で亡くなった、D.ハルバースタムは、いかなる脅しにも屈することなく、ベトナム戦争の事実を戦場から米国民に伝え、米国がベトナムから手を引くよう、世論を作りました。
 外務省や政府広報の関係者は、もっとメディアとジャーナリズムを勉強しておく必要があります。
 日本政府は米国の原爆投下が非人道的な戦争犯罪だという主張をしたことはないし、米国の要人が広島や長崎を尋ねて原爆投下を謝罪したこともありません。たとえば、従軍慰安婦非難決議をする米国議会は広島、長崎への原爆投下を批判しないのか。国家間問題としては、原爆問題は東京裁判で決着済み、というなら、従軍慰安婦問題も決着済みということになります。同義的な問題ならば、従軍慰安婦と原爆投下のどっちが人道的な罪が重いのか。なぜ、米国の要人は広島、長崎に行かないのか。
 従軍慰安婦の人道の罪をいうなら、原爆も同時に国際世論に問いかけるべき人道の罪ではないか。
 そうでないと、日本の外交は相手国の政府によってではなく、外国メディアによって再び敗戦国の敗北へと追い込まれることになりかねません。
 エリツェン元大統領の葬儀に、アメリカからは父ブッシュ、クリントンという二人の大統領経験者が出席しました。しかし日本から政治家は誰もいきませんでした。こんなことをしていて、北方領土問題が解決するのでしょうか。
 かつて、第二次世界大戦時、欧米の反日報道に手を焼いた日本政府は、ロイター通信の幹部に大金を払い、情報操作を画策したことがあります。しかしロイターの報道内容はまったく変化せず、ロイター買収工作は失敗しました。
 資本主義の下では、メディア会社のM&Aはできますが、ニュースや報道内容を買収することはできません。そうしたいなら、北朝鮮のようにすべての報道を国家管理下におくことですが、アメリカやイギリスの報道を日本政府や外務省が自らの管理下におくことなど、不可能であることは自明です。それとも、日本の政府関係者にとって、メディアの統制が完璧な北朝鮮こそ理想国家、とでも腹の中で思っているのですかね。
 
 
 以下は第81号(2007年3月5日)からです。
捏造も言論の自由の範囲内か?
いまごろ「日本版FCCを」という無神経こそ問題ではないか
 
 関西テレビの「あるある」捏造番組の顛末は最悪の結果になりました。このコラムで指摘したとおり、関西テレビだけでなく、他の局にも飛び火し、日本のテレビ放送の捏造体質を浮き彫りにしています。
 嘘でも捏造でも売れればいい。テレビを見て育った青少年や子供たちへの悪影響は計り知れません。そのテレビが青少年の非行を糾弾し、道徳を説く図は、倒錯を通り越して不気味なものがあります。
 気になるのは、捏造も言論の自由の範囲内である、と考えているらしい関係者やメディア研究者、評論家たちの、政府の介入を恐れるスローガンです。
 放送法では、電波の許認可をつかさどる総務省が、電波の使用を許可した局の放送事業が社会的な目的に沿って実施されているかどうかを監査する責任があります。
 放送事業は憲法に規定された言論の自由を基盤にしているが、有限の資源である電波を使う権利は国の認可を受けているというわけです。私たちの誰かが、放送局を作って番組を放送したいと考えたとしても、電波を使う権利を国から許可されないと、放送はできないのです。
 関西テレビは、希少な電波資源の使用権を国から委嘱され、国民の教養、福祉や娯楽のために電波チャネルを使うという義務を負っています。
 電波の公共性、とはこのことをいいます。だから著しく公共性を逸脱し、自分の局の金儲けや既得権益保守のために捏造や虚偽などの反社会的な番組を放送する局は、国民の付託を裏切っているだから、放送免許の取り消しが行われて当然なのです。しかし、その取り消し処分を誰がするか。いまの日本では、処分をする法の主体は政府ということになります。
 憲法21条に照らし、国家が放送の番組内容に介入し、放送免許に関して圧力をかけることがいいとは、私も思いません。しかし、「あるある」捏造事件は、そうしたタテマエ論をいいつのる域をはるかに超えて悪質です。
「たかが納豆」と笑っている人は、事態の深刻さを理解していません。
 テレビの影響力の巨大さ、捏造の社会的な衝撃を考えれば、研究室のタテマエ論をいいつのる余裕はないのではないか。テレビ局のコメンテーターとして画面出演していた学者や評論家がいうスローガンには、どうにも説得力が乏しいのです。
 すでにそこで戦闘が始まっているのに、戦争反対といっても無力なのと同じです。対処が求められるわけです。
 現状では、総務省に公正な立場を要求し、既得権益を持ったテレビ関係者や新聞社と癒着することのない処分が行われるのを、国民は見守るほかはないのではないか。もっといえば、政府にこそ、言論の自由を完璧に守って欲しいということになる。
 米国の憲法学者ローレンス・レッシグは、「情報化社会にあって、政府は言論の自由の敵という考えはもう古い。真に市民社会の言論の自由を守るには、政府の協力が必要だ」といっています。
 政府の介入を受けず、放送行政の公正をはかるには、電波の許認可権を政府の手から独立した第三者機関に移す、という意見があります。私の著作でもずっとこの主張をしてきました。
 しかし主張は主張に過ぎず、少数派の私の意見にテレビ関係者をはじめ聞く耳をもっていませんでした。
 これは米国にあるFCC(連邦通信委員会)という組織で政府の外郭にある独立行政法人のことです。テレビの時代が始まった1940年代の米国で作られました。電波の管理が政府の手中に握られると、言論の自由が歪められる恐れがあると、電波の許認可権や放送局の監視は第三者機関のFCCにゆだねられてきたわけです。
 FCCが、すでに半世紀以上の歴史を持ちますが、メディアのM&Aの荒波の時代も経験したいま、大きな問題は起こっていません。
 そこで日本版FCCを、という声が「あるある」事件を機に出てきました。
 ところが、日本版FCCは占領下の放送行政の中で、GHQによって用意されていたのです。放送が国家権力と結びついた戦時の教訓から、GHQは政府の手から放送行政の中立を保つことを企図したのです。
 しかし、サンフランシスコ条約でGHQ占領が終わり、日本が独立すると、国は日本版FCCを解消し、電波の許認可権を政府の手に戻しました。
 これによっていまの日本の戦後の放送行政のシステムが出来上がり、現在に至ったのです。
 そうした経緯を知らない論者が多いのか、いまごろになって日本版FCCを、という問題提起は滑稽なものがあります。
 「あるある」以前から日本のテレビ局のシステムには大きな疑問と欠陥があったのだから、なぜもっと早く日本版FCCの提案をしてこなかったのだろうか。
 いまや時すでに遅し、の感があります。
もしも関西テレビの免許が取り消されたら、貴重な電波チャネルがひとつ空くわけですから、新規事業者が入り込む余地が出てきます。
 極論かもしれないが、政府は欠陥局の免許を取り消して、テレビ事業の新規参入を促進し、良質な番組競争を促したほうが、自浄能力をなくして停滞したテレビ界の革新につながる、と私は思います。
 いまや、放送に政府の介入を許すな、というスローガンはあの狼少年の遠吠えのように聞こえるだけです。
 
以下は第80号(2007年1月23日)からです。
公共の電波が泣いている
 ”お手盛り処分”、”お手盛り内部調査”で逃げ切るつもりか
フジ・関西テレビ系の「あるある大事典」捏造番組事件は、日本のテレビの末路を思わせます。本来のテレビはジャーナリズムの一翼を担うメディアなのですが、日本では電子紙芝居の域をついに出ることなく、衰亡の坂を転がりはじめている。
しかもテレビ関係者には、存亡の危機の認識が乏しいようです。幹部の総退陣による構造改革の断行か、潰れるかーー選択肢はそれほど多くはありません。
 
 捏造番組「あるある大事典」を制作・放映したフジTV系列の関西TVの社内処分が決まりました。下請けがやったこと、局は関係ない、他の局も似たようなことをしている、という言い訳が透けて見えます。
 おりしも、食品の消費期限を一日ごまかした不二家の社長が更迭され、会社は存亡の危機に立たされています。その不二家を連日、袋叩きにしているテレビですが、身内の処分にはなんと甘いのか。恥じることがないのだろうか。
 捏造事件とは無関係な、携帯サイトの料金を無料にする、という内容も不気味です。”安上がりの餌”を視聴者に振りまいて誤魔化そうとしているのでしょうか。
 それとも”吉本のギャク”と勘違いしているのかな。食品偽装より罪は軽いと思っているのかもしれません。いずれにせよ、公共の電波を預かっているという自覚がまったく感じられない。こんな無責任テレビの跋扈は、視聴者を馬鹿にしているというより、国民の精神を腐らせ、子供の心に深い傷を与えます。
 社長の三ヶ月減給処分を見ると、不二家とは大違いです。世界メディア史に”燦然と輝く”ほどの驚愕すべき番組捏造の重大さが、関係者にはまだわかっていないようです。国民から付託された公共の電波の許認可を預かる政府は、放送免許の取り消しも考慮する必要があるでしょう。
 関西TVの幹部は総退陣し、辞職も含めて責任を明確にして社内の刷新をはかるのが、筋ではないか。
 日ごろテレビ画面に登場させている”御用学者”たちを集めてお手盛りのインチキ報告書を作らせ、内部調査とやらのシャンシャン手打ち式を考えているのだろうか。これでは報道機関の不公正は極まることになります。 関テレ社長は電波の許認可を握る総務省に、いち早く処分内容のお伺いをたてたようだが、まずもって視聴者・国民の信を問うことはしていない。”大甘の処分”を麗々しく並べ立てて、こそこそ逃げようとしています。
 今回の捏造は、たまたまばれただけでしょう。手口から、捏造が日常化していたと見るほうが自然です。納豆ダイエットに疑問をもった週刊誌がたまたま注目したが、あまりにも捏造の手口がずさんで粗雑だったので、取材した「週刊朝日」記者もびっくりしたということです。
 捏造は常習化しているのか、いくら捏造してもバレない、大丈夫だと思い込み、捏造の手口すら手間暇かけずに省力化していたのかもしれない。
 電波を預かる政府は、関テレとは別に公正なメンバーによる調査チームを組織し、徹底調査に乗り出すべきである。
 90年代の平成不況のあたりから、テレビの広告収入が減り、番組制作費がどんどん削られるようになりました。安上がりで時間を埋められるバラエティやワイドショー、吉本ネタが幅をきかすようになりました。芸能人たちが、格落ちの出演者をイジめる姿が、子供たちのイジメを誘発助長したのですが、メディアのイジメ報道では、学校や教育委員会だけに責任を転嫁しています。メディアの自己反省は皆無です。
 金をかけず、出張費や取材費もない、人材もなし、余裕なしーーないないずくしの現場で、テレビ番組の質はどんどん低下し、見るも無残な垂れ流し番組が、公共の電波を占拠しているのが現状です。
 しかもテレビ局員の給料は日本一高い。就活する大学生の憧れなのです。
 世界中、どこを捜しても日本のテレビほど、知性のかけらもないオチャラカやバラエティをやっている国はありません。異常な犯罪や非合理主義やカルトを煽り、非知性主義を称揚する占い番組も全盛です。
 「あるある」に騙されて人気番組にしていた視聴者も悪いが、捏造番組を堂々と放映していたフジTVを初めとする地方の系列局の責任も免れないでしょう。いまやテレビ亡国の時代かもしれない。
 新聞も含め、この問題を報じる巨大メディアの歯切れはよくない。テレビ局は新聞社の子会社かお仲間企業だし、捏造ではお互い脛に傷もつ同士だから、かばいあっているように見えます。
 これが他の会社や官庁の事件なら、新聞、テレビが集中砲火を浴びせ、処分内容の甘さをぶっ叩くのでしょうが、同業者の関テレ処分問題では腰が引けているよです。
 テレビ各局も新聞社もメディアの現状をよくよく点検し、遅まきの構造改革に着手すべき時期です。
 量的にはメディア大国の日本ですが、いまやジャーナリズムは不在といえます。2007年、世界激動の中にあります。そうした重要ニュースのほとんどを国内に伝えることなく、ひたすら異常な犯罪報道とオチャラカと捏造番組にうつつを抜かすわれわれの国のメディアとは何なのか。
 ぐずぐずしていると、テレビが国を滅ぼすかもしれません。
 
以下は前号(第79号、2006年11月19日付からです
 
日米の敗北?
 ハノイで開催されたAPEC首脳会議で、北朝鮮非難決議が明文化されなかったことを、CNNなどのアメリカのメディアは、”日米の外交的敗北”と伝えています。
 逆に、日本のマスコミの報道では、各国首脳の間で北朝鮮制裁論が中心的な話題になったことを高く評価する内容が多数を占めています。北朝鮮制裁を求める日米の強い意志がアジア諸国を動かした、という論法です。
 しかし海外メディアの報道と比較すると、事実を客観的に報道しているのは外国メディアであり、日本のメディアは事実から離れた主観的かつ希望的なニュースを作為的に報道していることがわかります。
 いくら首脳の話題には登ってみても、会議の宣言の中でで明文化されなければ合意の意味はありません。
 しかし日本の読者、視聴者は、アメリカ、中国、ロシア、韓国も含むアジア・太平洋の諸国の首脳が、こぞって北朝鮮非難をしていると思いこみ、拉致問題の解決の日もそう遠くはない、という希望を持つかもしれません。
 実際は違うのです。民主党の圧勝で失速中のブッシュ政権に対して、各国首脳は距離を置き、逆に強い北朝鮮制裁に難色を示す中国、韓国、ロシアに、アジア各国首脳が理解を示した結果です。米国で共和党から民主党へと権力移動が起こっていることにも敏感に反応しています。
 米国メディアは、北朝鮮非難決議が明文化されなかったことに、疑念を抱きながらも、APECにおける”日米外交の敗北”と位置づけたのです。
 これにより、アジアの中でブッシュ政権に全面同調するのは日本だけ、ということが浮き彫りになりました。
 それにしても、都合の良いことだけ伝え、日本に不利なことは報道しないメディアの姿勢は、戦前の日本の新聞がやったことと同じです。口当たりのいいことだけを書き、負けている戦を勝った、勝ったと書きまくり国民を欺きました。
 戦時下の国民は事実を知らされることなく、敗戦の日を迎えるまで、負けているとは思っていませんでした。
 最近、クリント・イーストウッド監督の「父親たちの星条旗」を見ました。純粋な愛国心で戦争を戦い死んでいった日米の名もない若者たちの健気な姿に涙が流れ、平和な戦後を生きることができた者の責任の大きさを感じました。
 当時の新聞はなぜ戦場の事実、ニュースを早く正確に国民に伝えることをしなかったのだろうと、痛切に思いました。軍部の検閲があったからできなかった、という言い逃れはもう聞き飽きました。
 開戦を止めることはできなかったとしても、硫黄島玉砕のあと、沖縄戦、本土空襲、原爆投下にいたる悲劇の連鎖は、新聞によって防ぐことができたのではないか、と思うのです。日本の新聞はなぜ、負けている報道ができなかったのだろうか? 間違っていたと素直にいえなかったのだろうか。 だけど、”負け”や間違いを認めたがらない新聞(マスコミ)の体質は、現代にも続いていると思うと恐ろしさを感じます。
 
(English  英訳)
 Defeat of Japan-U.S.?
 Media of the United States such as CNN covered the North Korea condemnation was not made an express statement in APEC summit held in Hanoi, This was a "Diplomatic defeat of Japan-U.S.".
 Oppositely, the content that evaluates becoming of the North Korea punishment theory a center topic among heads of each country high commands a majority in the report of the mass communication in Japan. Logic that the will with strong Japan-U.S. where the North Korea punishment is requested moved Asian nations.
 However, the foreign media objectively reported the exact fact compared with the Japanese media reported subjective and hoped news away from the exact fact on APEC coverage.
 Mutual agreement is not meant if not made to express statement in the declaration of the conference no matter how it discussed only head's topics.
 However, the audeience and the reader in Japan are convinced that the head in nations of Asia and the Pacific Ocean where the United States, China, Russia, and South Korea are included criticized North Korea stlongly and might have hope of no long way so on the day of the solution of the abduction issue.
It differs actually. Now, Bush administration is decling because of the overwhelmingness of the Democratic Party. It is sensitively reactive in happening of the midterm election ,victory of the Democratic Party and the power shift in the United States .
The head of Asian each country intend to keep distannce away from Bush administration , and showing understanding in China, South Korea, and Russia being opposite to strong sanction to North Korea.
 The United States media located it , saying that "Defeat of the Japan-U.S. diplomacy" in APEC , harboring distrust why condemnation to North Koria not having been made an express statement.
 As a result, tuning all aspects to Bush administration in Asia became a relief only in Japan.
 However, it is told only that it is convenient, and a disadvantageous thing for Japan is the same as doing of the newspaper of Japan of prewar days the posture of media not reported. It was written only that it was good for mouth, and cheated the defeated war, as were won, and the dashing off people were cheated .
 The people under the war did not think that they had been defeated without telling the fact until the day of the defeat was faced.
 Recently, I saw the film "Flags of our Fathers". Under the Pacific war ,Battle of Ioujima killed 45000 yong persones.
 I keenly think why a newspaper at that time had not covered the exact news , the fact of the miserable battlefield. The excuse that the military inspected strongly imposed , it had already heard and got tired. Not so, after dying honorable death of Iojima, it occured the Okinawa war, the air raid in the mainland, and the chain of the tragedy to the atomic bombing .
I think many tragedies might have been able to prevent by the excact newspaper coverage . As for the old newspaper in Japan, could not report beinng defeated fact , why have'nt been done? 
 However, now,I feel fear , the system of the newspaper (mass communication) that doesn't want to admit "Defeat" and the "Mistake", continues strongly to the present age.
 
 以下は前号・第78号(2006年11月14日)からです。
 
いまごろ贅沢品の禁輸とは何事か
 北朝鮮への新たな禁輸措置として、マグロ、キャビア、和牛、女性用高級下着、化粧品、高級腕時計、万年筆、乗用車など24の贅沢品禁輸リストが政府から発表されました。
 今ごろなに? 首をかしげた人は多いでしょう。まだ禁輸品の残りがあったのか。しかしこんなことは制裁の真っ先にやるべきはずのことです。
 北朝鮮のミサイル発射から核実験にいたる一連の事件をめぐり、日本は国連で制裁決議をまとめる議長国の立場にありました。
 世界各国は日本が提案した国連制裁案に基づいて、それぞれの禁輸措置を行ってきたわけです。厳しい制裁に消極的だった中国でも、銀行口座の凍結や石油の部分的禁輸に踏み切り、韓国は米の禁輸、観光の自粛などの措置を行いました。
 日本は、北朝鮮への人、金、物の流れを全面禁止する厳しい制裁を課したことになっていました。しかしこれはタテマエです。
 ホンネは違っていたわけです。
 日米両国が求めた海上の臨検を含む厳しい経済制裁によって、北朝鮮国民の貧困、飢餓が進行し、大量の難民が出ることを中国や韓国は恐れているのですが、金正日政権を懲らしめることに関しては、国際社会のブレはなかったのです。
 スイスは金正日の銀行口座を凍結し、ドイツはベンツの輸出を禁止しました。
 国民が飢餓で窮乏の極みにいるのに、大金を使って核兵器を開発し世界を威嚇する金正日一派のための贅沢品の禁輸こそ、真っ先にやるべきことで、これは世界の常識です。
 当然、日本も贅沢品禁輸はとっくに実行していると思いきや、そうではなかった、というわけです。わけがわかりません。
 これもまた、タテマエとホンネの乖離、というやつですかね。あるいは世界の常識からはずれているということでしょうか。
 国民は窮乏餓死しても、金正日政権を支える贅沢品の輸出を許していた日本のモラルとは何か? 国民の困窮を省みないーー日本と北朝鮮にはどこかで通底する官僚独裁体質が存在するのか?
 勘ぐるに、贅沢品の禁輸で困る勢力が日本に存在していたのかもしれない。贅沢品の輸出こそ、北朝鮮利権の最後に残ったもの、というべきかもしれません。
 マスコミは、新たに禁輸リストが追加された、などの”間抜け”な報道しかしていません。今ごろになって、なに? という国民の素朴な疑問に答えるために、背景をもっと取材して、厳しく追求すべきではないか。
 こんなわけのわからない報道をしているから、世界のメディア・ランキングで第51位などという低い評価しか受けられないのです。
 
Luxury embargo, this time why ?
 The luxury embargo list of 24 such as a tuna, a caviare, Japanese cattle, women's high-level undergarment, cosmetics, high-level wristwatch, fountain pens, and passenger cars was announced as new embargo measures to North Korea by the government.
 Whyt this time? There might be a lot of people who looked doubtful. Was there still the remainder of articles under an embargo? However, these kind of things are whats are sure to have to be put to first of punishment.
 Japan was in the standpoint of the chairman country that brought the punishment resolution together in the United Nations concerning a series of event from the missile launch of North Korea to the nuclear test.
 Every country in the world has done each embargo measures based on the United Nations sanction idea that Japan proposed. It launched out into freezing the bank account and a partial embargo of oil, and embargoed trade of rice, and took measures the self-imposed control of sightseeing etc. 
 Japan was supposed to impose no personal exchange to North Korea, money, and foreclosed of the thing and to have imposed severe punishment that prohibited all aspects. However, this is" Tatemae" , official stand.
 But Honne, true intetion, was different.
 There was no blur of the international society for punishing the Kim Jong Il political power though China and South Korea feared the progress of North Korea people's poverties and hunger by severe economic sanction including the inspection of the sea that the Japan-U.S. two countries had requested, and occurring of the flood of refugees.
 Switzerland froze Kim Jong Il's bank account, and Germany prohibited the export of Benz.
 It spends large sums on the people are in the extremity of poverty in hunger and the nuclear weapon is developed, and only the embargo of the luxury for the Kim Jong Il sect who threatens the world is what should be put to first, and in the world, this is common sense.
 Naturally, the luxury embargo was not so in Japan though had already executed. 
 Is this a guy named the unbridgeable gulf of Tatemae and Honne, too ?
 Even if the people do poverty starvation, what is the morality of Japan that permitted the export of the luxury that supports the Kim Jong Il's political power? Does the expert bureaucrat despotism exist with Japan that doesn't reflect on the people's poverties anywhere in North Korea?
 Power embarrassed because of the embargo of intuition and the luxury to North Koria might have existed in Japan ? 
 The mass communication .."Stupidity" of the new addition of the embargo list etc... is only reporting it. Why does it become this time ? We should cover the background more to answer and severely pursue it?
 
 
 
以下は第77号(2006年10月30日号)からです。
 
世界51位、後進国並のメディアの質の構造改革が急務だ
 まさかと思うほど低いランクです。パリに本拠のある国際NGO組織「国境なき記者団」が発表したメディアの自由度ランキングで、世界の168ヵ国中、日本はなんと51位です。
 アジアでは韓国がトップで31位です。トップクラスはおおむね北欧諸国で、欧州の国も上位です。日本のランクはチリ、ドミニカ、ボツワナ、クロアチア、トンガなどの国と同等です。
 メディアの自由に関する限り、日本は言論後進国と同じ体質の国、ということになります。
 ところが、日本は米国と並ぶ世界一の新聞大国といわれています。日刊紙の一日の発行部数は、7000万部で米国の5500万部を大きく上回っています。全国紙の一社の部数もダントツで、読売の1000万部は、世界一としてギネスブックに記載されています。
 言論後進国はおおむね、権力に対してメディアのパワーが弱体なのですが、日本のメディアのパワーは、場合によっては政府権力をしのぐ強力なものがあります。
 日本のランクが低い最大の理由は、「記者クラブによる言論の寡占と統制にある」と国境なき記者団は指摘しています。
 記者クラブとは、大手新聞社とテレビ局が作る業界の連合体の傘下にあります。官邸をはじめ、政党、官庁、警察、県庁、市役所、教育委員会、大企業、経済団体、大学、研究機関などに記者クラブ網が張り巡らされており、記者クラブ会員でないと取材はできないシステムになっています。
 弱小メディア、週刊誌、外国人記者、フリーランスなどは日本の記者クラブに加入できません。だから本当の取材はできないのです。
 つまり、大手メディアの業界連合が、外国や国内の他のメディアやジャナリストを閉め出しているのです。言論の自由はオレたちが占有している、おまえらは黙ってオレたちの仕事を見ていろ、というように外国メディアには見えている。
 日本は自由な国なのに、日本のメディアは他者の言論の自由を奪って権力集団化している、と在日半世紀というベテランの米国記者は嘆いていました。英国の若手記者は、外人記者の取材を認めないなんて、日本は本当に民主主義の国なのか、と怒っていました。彼は新聞協会までデモして、改革を訴えたい気持ちというのです。
 小泉訪朝のとき、外国記者たちの不満が爆発したことがあります。ピョンヤンに同行取材を求めた外人記者に、官邸記者クラブはノーといい、急遽、外務省が調整したのですが、米国メディア重視の調整に世界の特派員たちの大きな不満が残りました。
 こうした不満がくすぶり続けて、今回のランキングの低下に結びついています。
 ある経済団体の招きで、日本のメディアに関する講演をしたことがありますが、関心の中心は「記者クラブはなぜ改革できないか」ということでした。
 一口でいえば、記者クラブは既得権益の宝庫です。小泉内閣が掲げた構造改革の中で、唯一、取り残された巨大な領域でもあります。というより不可侵な聖域といえるでしょう。
「人様の悪口を書きまくるメディア自身のガヴァナンスはどうなっているんだ」という経済界の不満もくすぶっていました。
 「小泉さんは自民党をぶち壊すといったが、記者クラブを壊すことは小泉さんにもできないことですか。そうか自民党より強力なのか、、」と経済団体幹部がつぶやいていました。
 折しも、NHKや大新聞の不祥事、誤報などの事件が噴き出しています。しかし、メディアは記者クラブ問題を絶対に報道しません。だから、国民はこれを知りません。マスコミ専攻の大学生ですら、記者クラブの知識はありません。
 世界51位というランクを見て、もはや聖域などとはいってられない、メディアの構造改革は急務です。
 そして、旧態依然の新聞、テレビに対抗できる新しいメディアが台頭する必要があります。
 そうでないと、情報が歪んで伝えられ、世界発信も出来ない日本の国家の危機を招きます。
 北朝鮮拉致問題が世界になかなか知られなかったのも、日本の記者クラブが外国メディアを閉め出していたからです。
 詳細は、拙著『日本型メディアシステムの興亡』(ミネルヴァ書房、2006)を参照してください。
 
The structural reform of the quality of the Japanese media is a pressing need.
 
51st place in the world, a rank no thinking low. In 168 countries of the world, the degree of freedom ranking of media that international NGO organization "Reporters Without Borders" in Paris with the base announced, and Japan is very 51th place.
 South Korea is 31th place in Asia. Top class is roughly Scandinavian countries, and the country of Europe is a high rank. The rank of Japan is equal to countries such as Chile, the Dominican Republic, Botswana, and Croatias and Tonga.
 As for the freedom of media, Japan becomes.
 However, it is said , Japan is the largest newspaper country in the world that queues up with the United States. As for the daily circulation of the newspaper.The number of copies of the national newspaper of one company is largest in the world. 10 million Yomiuri makes and has been described to Guinness Book as the good in the world.
 According to circumstances, the power of media of Japan roughly has the strong one to surpass the government power. 
 Reporters Without Borders is pointing out, "It is in the oligopoly and the management of speech by the press club" , this is prominent reason why rank of Japan low.
 It is in the subsidiary of the union body of the industry that the TV station establishes with a major newspaper with the press club. The press club net puts on the political party, the government office, the police including the official residence, the Prefectural government, the city office, the board of education, the big enterprise, the economic organization, the university, and research laboratories, etc. , it is made to come round, and the system that cannot cover if it is not a member of the press club.
 The small and weak media, the weekly magazine, the foreigner journalist, and free-lance, etc. cannot join the press club in Japan. Therefore, true coverage cannot be done.
 In a word, the industry union of major media shuts the foreign journalist and other domestic media and Journalist out. Free speech seems to it for you must become silent and must to be making there work look .
 A young journalist in Britain said, Japan was really angry whether the country of democracy. He had feelings of the demonstration to Newspaper Guild, and was eagerly wanting the appeal for the reform.
 Foreign journalists' dissatisfaction had exploded toward Koizumi when having visited North Korea. The official residence press club says no to the foreigner journalist who had requested the accompaniment coverage from Pyongyang ,because big dissatisfaction of correspondents , for EU correspondents, remained in the adjustment of valuing the United States media though the Ministry of Foreign Affairs in haste adjusted.
 It keeps fumigating such dissatisfaction, and it relates to the decrease in this ranking.
 The center of the concern was "Why cannot the press club reform?" though had lectured by inviting a certain economic organization concerning media of Japan.
 The press club is a treasure house of the vested interest if it says in short. The huge area only left in the structural reform out which Koizumi Cabinet hung. It will be able to be said the sanctuary of no nonaggression or more.
The dissatisfaction of the economic world "What is a governance of media world which reports other person's abuse" , being fumigated, too.
 「It is that whether Mr.Koizumi cannot also do though Mr. Koizumi mangles the Liberal-Democratic Party that the press club is broken. Is it so or stronger than the Liberal-Democratic Party?」The executive of the economic organization was muttering solving.
 Just then, NHK and the scandal of a large newspaper, and the event of the false report etc. have spouted. However, media never report the press club problem. Therefore, the Japanese people do not know this. Even the university student of the mass communication major doesn't have the knowledge of the press club.
 The rank ..the 51st place in the world.. is seen, and the structural reform of and media is pressing needs.
 And, new media that can oppose an old-fashioned newspaper and the television should gain power.
 Information is distorted if it is not so, and the crisis of the nation in Japan that cannot send the very important message to the world .
 The North Korea abduction issue was not known to the world easily because the press club in Japan was shutting foreign media out.
 Please refer to my book 'Rise and fall of the Japanese media system' (Minerva bookcompany, 2006) .
 
 
 
以下は、第76号(2006年10月24日付)からです。
 
北朝鮮誤報の原因は、ニュース源に無頓着なメディアにある
  唐・国務委員ら中国特使が北朝鮮の金正日と会談した内容を日本のメディアは混乱し、不確実に伝えました。理由はニュース源の吟味と評価が不足していたからです。プロのジャーナリズムの最大の役割は、ニュースを機械的に伝えるだけでなく、そのニュース源を明示して、ニュースの信頼度の評価と分析をすること。そこにプロの記者の腕の見せ所があります。ニュースが100%の真実を伝えることなどあり得ないからです。
 
 
 中朝会談で、金正日が語ったとされる内容の第一報を日本の新聞、テレビは完全に間違って伝えました。「もう核実験はしない」「金正日は謝罪した」という報道です。中国筋、韓国筋から出たこれらのニュースに飛びついたのですが、ライス国務長官がこれを否定すると、事実上の訂正を行いました。どうしてこんな安易な報道が行われるのか。 ニュースソースを明示して、記者がこのニュースを分析し評価を加えていれば、問題はない。この時点でニュースはニュースだからです。
 しかし処理を間違うと誤報になります。残念ながら、金正日の言葉を伝えたメディアの第一報は、誤報というべきものでした。
 今回に限らず、日本のメディアはニュース源に無頓着です。というのも、記者クラブ発のニュースが70−90%を占める新聞、テレビ報道は、ニュース源を詮索する必要がない。記者クラブは日本の官庁、大組織のエスタブリッシュメントを拠点にしていますから、ニュース源を疑う余地はない、とメディアは考えています。つまり、ニュースの信頼性は権威に依存しているのです。
 金正日発言は、中国の要人から出たものだから、ニュースとしての権威はある。だからメディアは報道したのですが、ニュース源の中国側の思惑、韓国側の思惑を十分に分析しなかったことが、誤報につながりました。
 日本のメディアがニュース源に無頓着である理由はほかにもあります。記者クラブ発でないニュースは特ダネですが、特ダネの多くはスキャンダルがらみの内部告発をネタにしたものが多い。官庁、警察、ゼネコン、大会社の内部不詳事件やスキャンダルが明るみに出るのは、だいたい内部告発によります。
 貴重な内部告発者をかばうために、メディアはニュース源の秘匿をします。でないと、内部告発者は組織によって仕返しを受けます。内部告発者を守ための取材源秘匿は必要なことはいうまでもありません。
 しかし、こうした特別なケースの取材源秘匿が取材源を明示することへの無頓着へとつながっているのが、日本のメディアの現実ではないか。何でも取材源を秘匿したほうがいいと、勘違いをしている。
 米国の主要メディアでは取材源は可能な限り明示するよう、記者のガイドラインがあります。取材源を明示すればするほど、記事の信頼度が高くなる、ということです。
 また内部告発者であっても、必ずしも守られないことがあります。CIA工作員の名前を明かした政府関係者の名前の証言を求められたニューヨークタイムズの女性記者は、証言を拒否し、法廷侮辱罪で収監されました。
 記者の証言拒否は、守秘義務を怠った政府関係者の重大な犯罪を隠蔽することになり、公共の利益に反する。記者を収監した裁判所の判決理由です。ニューヨークタイムズも証言拒否した記者を、新聞社として非難しました。読者の信頼を損なうことを恐れたからです。
 日本と米国は自由なメディア大国ですが、取材源明示に関して、天と地の相違があることがわかります。
 米国の食品会社が脱税事件の報道をめぐって、日本の大新聞とNHKなどを訴え、裁判で記者の証言を求める事件がありましたが、記者は証言を拒否しました。最高裁は、メディアの報道にとって取材源秘匿は必要だ、との判断を示し、メディア側が勝訴しました。
 日本のメディアの取材源秘匿は権利として認められたのですが、米国などの世界の先進国の現状はそうではありません。やみくもな取材源秘匿は、巨悪や犯罪を隠蔽することもあるし、リークによる情報操作や誤報、反対言論の抑圧に通じる危険性もあります。
 メディアは取材源を可能な限り明示するという方向性を示す必要がある。
それがメディアの透明度を高め、読者、視聴者の信頼度を高め、メディア離れを防ぐ最大の武器になります。取材源秘匿に安住する限り、プロの記者も育ちにくい。何か記事に過失があっても、取材源を秘匿して事実関係を隠蔽すれば、その場を切り抜けられるからです。
 オフレコだよ、といって話す要人の言葉は、おおむね無責任な発言ですが、メディアは嬉々としてこれを伝えることがある。取材源を秘匿するからといって、権力者周辺の情報リークに群がるのです。
 取材源秘匿が、言論の自由の錦の御旗という思想は、メディア側の自己陶酔にすぎません。
 
  
 
以下は第74号(2006年10月15日付)からです。
 
日本は最後のカードを切った?
 北朝鮮制裁決議が国連安保理で採択されました。非軍事的制裁を主張した中国、ロシアに譲歩する形になりましたが、船舶の立ち入り検査、つまり「臨検」は、それぞれの国の判断で行うという形で実施されるようです。「臨検」については、前号74号(10月13日付)で書いた通りです。
 
 ところで、米国など欧米のメディアは、「日本は最後のカードを切った」と報道しています。最後のカード、つまり世界にさきがけて独自の制裁を北朝鮮に課したことです。
 今回の日本の制裁案は、非軍事的な制裁として最も厳しいものです。しかし、ならず者国家・北朝鮮に対してさほどの効力は持たないだろう、という見方が有力です。
 急速に日本で台頭しつつあるナイーブな核武装論は、核と拉致問題という”二重の脅威”にさらされた無力感と苛立ちがそうさせている、と外国メディアの一定の理解もあります。
 それにしても最後のカードを切ったといわれる日本に残されたカードはあるのでしょうか。
 日本は米国の軍事力に依存する形でしか北朝鮮の脅威に対処できないので、選択肢は限られています。しかし米国に依存するだけでは、目的を達することは難しい。何らかの有効なカードを作り出す必要に迫られています。
 なぜなら、米国はいまイラクで行き詰まっているからです。イラクに10万の兵力を費やしていますが、この駐留はあと数年以上継続する必要があるということです。
 しかし米国ではブッシュ政権批判が噴出しており、もし戦争継続が困難になった場合、”イラク敗戦”という最悪のシナリオもあり得るのです。
 北朝鮮に兵力を投入する余裕はない、というのが米国の現状でしょう。北朝鮮はこうした米国の弱みを巧について核実験を強行しました。しかし同盟国の中国、ロシアを敵に回したという点では、誤算がありました。
 日本に残されたカードは、安部政権が展開する外交カードの構築です。中国は北朝鮮を六カ国協議へ戻そうと、米・ロへの働きかけを強めています。
 しかし核実験の最中に、訪中、訪韓し関係改善を図った安部首相にはアドヴァンテージが与えられている。ここは米、中、ロ、韓に対して、さらに果敢に”主張する外交”を仕掛け、実を取る戦略を巡らして欲しいものです。「臨検」への参加も外交カードの一環です。中国や韓国を刺激しないで、しかも米国に協力する。あくまで非軍事的なイメージの「臨検」の方法論を模索する必要があります。
 残された日本のカードは複雑な外交ゲームのパズル、連立方程式の解となります。パズルと方程式を解析して国際的な北朝鮮包囲網を作り上げ、核兵器を廃棄させ、拉致問題も同時解決するというウルトラCを期待したいのです。
 軍事力を行使できない日本にどのような能力があるか。これを考え抜くことです。サッカーのオシム監督のように頭脳を使うのです。一次方程式しか解けない縦割り官僚組織の外務省では到底無理でしょう。
 ナイーブな核武装論の盛り上がりは、当面は国際世論の同情を呼ぶかもしれないが、日本が北朝鮮と同じレベルに落ちてしまったことを意味します。もしも日本が本当に核実験をすれば、北朝鮮同様に、国連で制裁決議を求める国が出てくるでしょう。ナイーブな核武装論は大変にハイリスクな理論です。
「核武装はできるがしない」という独自の核戦略を理論化することが、日本の新しい外交カードになるのではないか。平和主義国家にふさわしい洗練された核武装論を展開すべきなのです。
 「しない」平和主義ではなく、「できるがしない」平和主義への転換ともいえます。国内でくすぶる核武装論のタブーをはずして、大いに議論はすればよい。非核三原則を唱える日本が、米国の核の傘に守られていることを忘れて安閑としているというイメージを払拭する必要があるからです。
 
 
 
以下は第74号(2006年10月13日付)からです。
 
「臨検」と集団的自衛権ーー朝鮮戦争時、日本は掃海艇を出していた
 北朝鮮への国連制裁決議で、国連憲章第7章第41条の非軍事的制裁案が決定しましたが、船舶の「臨検」が盛り込まれることになりました。
中国、ロシアもこれに同意した模様です。(中国は採決段階で表現を修正し、関係諸国の慎重な行動を望むというコメントを出しましたが=10月15日に付加)。
 米国は全会一致の制裁案合意に満足感を表明し、安保理事会議長国として制裁案をとりまとめた日本外交の成果、ということができます。
 ところが、安部内閣には新しい難問が出てきました。「臨検」とは、北朝鮮へ入港する船舶を、公海上で止めて積み荷の内容を監査することです。この権限を国連が関係諸国に与えるのです。
 しかし北朝鮮船舶が停止命令を聞いて、素直に臨検に応じるとは考えにくい。臨検を行う側は、銃撃戦に発展する覚悟が必要です。
 臨検の場は、日本海や東シナ海、オホーツク海など日本に近接した海域となります。
 しかし公海上での戦闘や集団的自衛権の行使は憲法違反になる可能性が高く、臨検から交戦に至ったときの法的根拠はいまのところありません。
 またアメリカなどの同盟国が日本海で臨検していて、もし銃撃戦になったとき、現状では日本はこれを支援することもできないのです。
 安保理議長国としてとりまとめた制裁案を、自国では実施できないという矛盾があります。この甚だしいジレンマに、安部内閣はどう対処するつもりなのか。
 アメリカ政府は、日本、韓国などの同盟国が攻撃を受けたら、即座に反撃するという声明を出しています。
 「失われた10年」といいますが、経済問題だけでなく、本来なら冷戦が終わった1990年代に解決しておくべき重大な国内政治課題でした。
 政治家もメディアも集団的自衛権を論じることをタブー視し、面倒なことだから、複雑な憲法改正問題に結びつけて、棚上げしていたといえます。しかし集団的自衛権は、必ずしも憲法改正と連動させる必要はありませんでした。いまその詳細な論拠は省きますが、国際情勢の変化に対応して、集団的自衛権の問題をシュミレーションしておくべきだったのです。
 1950年の朝鮮戦争時、日本はまだGHQの占領下にありました。。北朝鮮の韓国への軍事攻撃に対して、国連憲章第7章第42条による国連制裁決議が採択され、国際連合軍が組織されました。その中心はマッカーサー司令部の米軍です。
 そのとき、北朝鮮は日本海を機雷の海にしました。国連軍は機雷のために思うような軍事行動が取れないでいました。そこでGHQは日本の旧海軍が持っていた機雷除去、すなわち掃海艇の能力に目をつけました。
 しかしすでに帝国海軍は武装解除されており、すんなり動員とはいきません。GHQ命令によって参戦の法的根拠は一応、与えられたのですが、実働部隊は海上保安庁の掃海部隊ということになりました。その司令部は米国海軍第7艦隊でした。
 1950年10月から12月までの約2ヶ月間、46隻の掃海艇が出動し、仁川、元山、群山など、朝鮮半島の港湾付近まで出かけて、機雷除去を行いました。日本の旧海軍による機雷除去は成功し、連合国の高い評価を受けました。
 このとき、機雷に接した隊員の死傷者も出ています。
当時の吉田首相は極秘裏に掃海艇派遣を決めたのですが、のちに社会党や共産党に知れて、国会では大もめしました。
 いまから考えると、この軍事行動は明らかに集団的自衛権の範疇に入ります。
 当時は海上保安庁法を援用して、この措置が行われたのですが、こうした吉田首相のはぐらかしの知恵はなかかなのものだったと思います。しかも国際的評価を獲得しています。
 大上段に構えて、集団的自衛権の合法化だ、憲法改正だ、新法を作る、という正面作戦は勇ましいですが、急場をしのぎながら、ゆっくりと新たらしい戦略を練った吉田首相の叡智に学ぶことは大事です。麻生外相もこういう祖父の生き方を参考にしてください。
 
以下は第73号(2006年10月9日付)からです。
 
パンドラの箱が空いたーー北朝鮮の核に世界はどう反応する?
 国際世論を無視した北朝鮮がとうとう初の核実験を実施しました。米国CIAの海底探査装置網でも地下核実験の衝撃派を確認したということです。日本時間の9日午前10時すぎです。
 安部総理が訪中、訪韓の真っ最中のできごとでした。北朝鮮の核実験の緊迫感が世界を覆うなかで、安部総理の訪中、訪韓が外国メディアのトップニュースになっていた矢先でした。
 「悪夢が現実に起こった」とアメリカの各メディアはその衝撃を伝えています。CNNは全番組をこのニュースにさいています。まるでイラク戦争が始まったときのような騒ぎです。
 核実験を止められなかったホワイトハウスの能力を疑問視し、政策の再検討を迫る報道も出ています。チエイニー=ラムズフェルドが推進した強力な北朝鮮制裁政策が正しかったのかーーという分析があります。(ホワイトハウスの北朝鮮政策は外交による解決を主張したハト派のライス国務長官と、制裁による金正日体制の崩壊を企てたネオコン・タカ派のチエイニー副大統領派の間の確執があったが、タカ派が制していた)。
 同時に太陽政策を採用し続けた中国、韓国にも暴走を止める力量はなかったという無力感が広がっています。
 北朝鮮非難の包囲網の中で、唯一、近隣国ロシアだけは、北朝鮮への影響力が見えてこない。ミサイル発射のときも、ロシア海域に残骸が集中して落ちています。ロシアはこれを黙認したのだろうか?
 日本に対しては北方領土海域での漁船への発砲、船員射殺、拿捕事件があります。サハリンの天然ガス発掘プラントへの日本の巨額投資を、ロシアが凍結した事件がありました。
 冷戦は終わっていないと、反米、反日姿勢を強めるロシアは北朝鮮の行動に理解を示しているのではないかーー米国メディアにはロシアの行動を疑問視する報道があります。空前の石油景気にわく超大国ロシアが何を考えているかーー深い分析が必要です。
 北朝鮮が核実験を強行した背景には、以下の事情が考えられます。
 1:すでに十分な経済制裁を受けている北朝鮮には、もはや失うものがない。それほど米国に追いつめられている。
 2:イラク戦争で疲弊しているアメリカの軍事的な能力を低く見ているるので、すぐに攻撃を受けることはないと考えている。
 3:核兵器を持った国で米国の軍事攻撃を受けた国はない。
 4:ロシア、中国の後ろ盾がある。その証拠に両国には核実験の事前通告をしている。 
 5:核保有国のメンバーになることで、国際社会での発言力を強める。
 6:核技術の輸出によって経済利益を得る。
 などの理由が考えられます。
 北朝鮮が核兵器を持ち、ミサイル技術を高めることで、最も脅威を受けるのは日本と韓国です。テポドン2によってアメリカも脅威の輪のなかに組み込まれます。
 これと連動して、イランが同調して核兵器を開発し、中東地域に核が拡散する。同時に核の拡散は北東アジア全域にも拡大する可能性があります。日本や韓国が核武装に動き、台湾もそうなる。日本がその気になれば、数ヶ月で核兵器を持つことは出来ます。核保有国が倍増すれば、国際的緊張は一気に激化し、世界は不安定化します。だからこそ、日本人は安易な核武装論を自制する必要があるのです。
 今後、国連制裁決議などによって、国際的な圧力が北朝鮮に課せられてゆくのでしょうが、国連にどれだけの実効的な力量があるかは不明です。米国の外交は失敗し、軍事行動(海上の臨検も含む)は避けられないかもしれない。
 しかしこうした中で、安部首相の国際的リーダーシップが強く求められています。
 軍事オプションしかなくなったと考える米国メディアは、国連や外交を重視する平和主義国家・日本への期待感があります。米国メディアには珍しく、日本の安部政権の考えや外交戦略の中身を詳しく報道しています。
 現在引き起こっているこうした事態の重大さに比べれば、靖国問題などはとるにたらないものです。
 
余談ですが、いま世界の株価は大幅にダウンし、円も下げています。非常時を意味するのか、ドルだけは上げています。
 
  以下は第71号(2006年10月8日付)からです。
靖国問題も棚上げ?安部総理の訪中、訪韓ーーCNNもトップで報じる
 
 CNNは安部氏の訪中、訪韓をトップで伝えました。日本の総理の外訪がアメリカのメディアのトップになることはほとんどありません。しかし今回の安部氏の訪中は、米国と世界メディアの注視を浴びました。
 北朝鮮の核実験ニュースが世界をかけめぐっているからです。今日にもやるかもしれない、という緊迫した事態ですから、さすがのアメリカも手をこまねいているしかない。実験を止めさせるには、日本と中国の説得と圧力に頼るほかない。その中国と共同歩調をとるにあたり、安部氏は米中韓の間を調整する最も良い位置にいるからです。
 安部氏の説得外交に世界の期待が集まっているというわけです。
北朝鮮の核実験は最悪のシナリオですが、スタートしたばかりの安部総理にとっては、その外交能力を試す絶好の舞台チャンスとなりました。
 CNNの北京特派員は、日中外交を冷却させてきた靖国問題が今回は棚上げされた、と伝えました。靖国問題はいつでも挽回できるが、核実験が強行されれば取り返しがつかなくなる。日中には靖国を話している暇はない、というのです。
 たった一日の首脳会談でどこまで日中の話し合いが深まるかわからないが、今回、安部氏が訪中したこと自体が、重要な意味を持っている、とCNNが分析しています。
 北朝鮮の核実験が靖国を押しつぶしたということになります。ホワイトハウス高官は、「北朝鮮は未来を持つのか、核を持つのか? 両方は持てない」と厳しい警告を発しました。すでにグアムなどの空軍基地や太平洋艦隊はスタンバイし始めているようです。 
 CIAは世界に100カ所ほどある海底の核実験探知装置をフル稼働させ、情報収集にあたっているようです。
 靖国問題で苦慮してきた安部総理にとって、北朝鮮の核実験はまたとない”追い風”になりました。とはいえ、危険な追い風です。
 タカ派にして謎の人物、戦前の価値観を払拭していない保守政治家など、国際的にもネガティブイメージが強かった安部氏ですが、今回の訪中、訪韓は、これを修正しうる絶好のチャンスです。
 安部氏といえば、拉致問題に誠実に取り組んだ政治家という印象が私たちにはありました。その懸命な姿が国民的人気を作り上げたのですから、ここは持論の政治信条をひとまず置いて、国益だけでなく、中国、韓国、米国など世界の共通の利益になる果敢な外交を展開するように期待します。
 外交は妥協の産物であり、その妥協こそが価値ある国益を生み出すことを忘れないで欲しい。
 
以下は前号、71号(2006年8月15日発行)からです。 
終戦記念日の今日、小泉首相が靖国神社を参拝しました。ニュースを扱うメディアの喧噪はいつものことです。しかし、このニュース解説中、気になる言葉が多用されました。靖国参拝は「国益を損なう」という言葉です。今号はこれについて書きます。
 
 
 靖国参拝の「国益」ーー変人を偏愛した日本人
 小泉首相が公約どおり靖国神社を参拝しました。参拝は「個人の心の問題」といっています。参拝するも自由、しないも自由、だけど私はする、という意味らしい。例によって、小泉さんらしい理屈です。
 首相が戦没者に哀悼の意を表するのは当然です。しかし中国や韓国の反発を心配する人々は、「参拝は国益に反する」といって反対しています。
 靖国のA級戦犯の合祀に異論を唱える中国や韓国だけでなく、アメリカのアーミテージ前国務次官などは、靖国の「遊就館」に見られる歴史認識に不快感を露わにしました。つまり、日本が遂行した大東亜戦争は”聖戦”であったという認識がそこに垣間見られるからです。
 すなわち戦前の満州国建国、中国への侵略、真珠湾奇襲には理がある、という認識です。
 言論、思想の自由ですから、このような歴史観があることはいい。しかし、日本は無条件降伏して、東京裁判を受け入れることを前提に、サンフランシスコ講話条約に調印して、国際社会に復帰したではないか。
 天皇はマッカーサーの尽力によって、戦犯訴追を免れ、象徴としての地位は守られたではないかーー恐らく、戦勝国として東京裁判に関与した米国や中国はそう考えます。ところが、遊就館に見られる靖国的歴史認識は、敗戦を認めていないように見える。このような靖国的歴史観が国際的に正当化される可能性は、ないでしょう。
 従って、遊就館に代表される歴史認識が日本社会の主流になることは、国際社会に強い違和感を醸成することになります。外国だけでなく、国内にも異論があります。私が好きな西郷隆盛も靖国にはいません。戦死者の遺族で靖国に祀られたくない感情を持つ人もたくさんいます。
 国家のリーダーとしての政治家は、内外の異論をしっかり謙虚に考える必要があります。敵は幾千ありとても、我道をゆかん、の手はあるでしょう。しかしそれには国際社会から孤立する覚悟がいります。
 日本人の心情としては、小泉さんの靖国参拝を歓迎したい。しかし外国からは厳しく批判される。結局、小泉さんの「心の問題」は政治利用され、国際社会の反発を呼び、ひいては「国益」を損なうことになる。
 小泉さんはこれを承知の上で参拝しました。
なぜなら、参拝に反発する中国、韓国にしても、反発すること自体が「国益=現政権益」を反映しているからです。国内の反日感情を政権維持に利用しているのは確かです。
 外国はともあれ、参拝による「日本の国益」はどうなのか? ”政冷経熱”というように、日本経済に悪影響を与えると、財界は心配している。謎といえば謎です。さらに国内を賛否に分裂させた点でも、国益にはマイナスに作用しています。
「国益」というより「政権益」だというジャーナリストもいますが、政権から離れる首相にとって支持率アップを狙う必要はありません。
 靖国参拝は日本民族のプライドの復活、自虐史観の克服ーーという右派の論者もいます。しかし東京裁判史観を全面否定するほど、小泉さんは国粋主義者ではない、と私は思っています。幕末でいえば、彼はれっきとした開国派です。
 理屈をいえば、A級戦犯の靖国神社からの分祀、無宗教の戦没者墓地の造成、天皇が参拝できる神社への改革、などの選択肢はあります。
 しかし小泉さんはそうした複雑な論議を全く顧慮することなく、ひたすら8・15靖国参拝を目指しました。そして郵政民営化と同様、見事に公約を果たしました。
 今回、小泉参拝が国益を損なったとしたら、国民には財政赤字だけでなく、心の重いつけまでが回ってきます。最後まで世間を騒がせた首相は、確かに変人でした。
 ですが、日本人はこの5年間、この変人を偏愛してきました。
 
 
以下は、前号70号(2006年7月14日発行)からです。
 
北朝鮮より深刻、戦火拡大する中東ーー第三次世界大戦説も
 北朝鮮のミサイル発射事件で、日本は戦後初といわれるほど積極的な外交を展開し、国連安保理に強力な制裁決議案を出しました。しかし、国連憲章7章を緩和した中国、ロシアの”骨抜き案”が、関係諸国の承認を得る公算が大きくなっています。
 なぜこうなるか。国連安保理や超大国首脳の最大のテーマは中東危機の拡大であり、ロシアサミットの中心課題も同じです。。イスラエルとレバノンの戦火のエスカレーションにより、”第三次世界大戦説”まで浮上してきました。実弾を搭載したミサイルやロケット砲が中東の空を飛び交っています。多数の死傷者が出ています。
 イスラエルとイラン、シリアが衝突すれば、まさに第三次世界大戦の最悪のシナリオになります。
 7月13日には、ドイツのメルケル首相とブッシュ大統領が緊急首脳会談を行い、イランの核兵器開発を非難し、イスラエルの軍事行動の自制を訴えました。
 しかし国連安保理では、イスラエルのレバノン侵攻を非難する国連決議案に対してアメリカは拒否権を行使しました。
 世界は北朝鮮にかまけている余裕がない、というのが現実です。というより、北東アジアでこれ以上の無用な混乱は起こしたくないというのが、大国の本音であり、共通の利害です。
 CNNテレビでは、北朝鮮担当のヒル特使が何の成果も得ることなく北京から帰国したというニュースが流れましたが、以降、北朝鮮の制裁問題はまったく報道されておらず、ニュースのほとんどが中東危機にさかれています。
 日本が提起した北朝鮮制裁案はおろか、北朝鮮のミサイル発射にも関心がない、というのがアメリカ世論の現実です。しかし日本のメディアでは、中東危機の拡大の意味と背景はほとんど報道されることなく、連日、中ロの変節や米国の寝返り論などで盛り上がっている。ついでに中国、韓国の北朝鮮寄りの姿勢を非難するという、自己中心の優越感と自虐感が入り交じった奇妙な報道内容になっています。自意識過剰報道というべきです。
 わずかに小泉首相がイスラエルを訪問して、軍事行動の抑制を訴えましたが、これも”おつき合い”程度のもので、世界平和構築への意味あるアピールにはなっていません。
 このままでは日本外交の大失敗となり日本は孤立する。テポドン実験は失敗したにもかかわらず、外交的には北朝鮮の勝利という結果に終わってしまう。横田めぐみさんの生死の真実も不明なまま、拉致問題の解決はさらに遠のく一方です。
 失敗の原因は、国際社会の関心事と現実を見誤った日本外交と巨大メディアの視野狭窄、メンツ重視の自閉症によるものです。”日本はアジアの盟主”という戦前型の権威主義は、とっくに破綻していることを自覚すべきなのです。
 官僚が主導した日本外交の古色蒼然とした権威主義によって、いかに国益が損なわれ、日本国民の利益と安全が損なわれているか。
 中東ではいま、イスラエル、レバノン、パレスチナが三つどもえの戦闘を繰り広げています。イスラエルによる空爆の危険によって、レバノン在住のアメリカ人2万5000人は、国外脱出を試みています。米人脱出作戦には米軍の介入があるでしょう。
 イスラエルの軍事行動はイラン、シリアをも射程に入れているということです。しかも新政権が発足したイラクでは内戦状態が拡大しています。中東全域にただならない全面戦争への緊張感が漂っています。
 今度の戦火の拡大は、イスラエル兵がパレスチナ南部に拠点を持つイスラム過激派ヒズボラによって拉致されたことが、引き金になりました。イスラエルはただちに報復し、レバノンを攻撃しました。
 ヒズボラのスポンサーはイランです。そのイランには米国が核兵器製造をストップさせるために軍事的な圧力をかけています。
 しかしイランとロシア、中国は友好関係にあります。中国もロシアもイランの石油が欲しいという事情がある。イランの石油の利権をロシアが押さえたという報道もあります。
 あまり知られていないことですが、石油の高騰による利ざやのほとんどが、ロシアのプーチン政権に流れ込み、ロシアは空前の好況に沸いているという、ワシントンのシンクタンクの分析があります。
 プーチン大統領は、最近、米国との対決姿勢を強め、米ソ冷戦は終わっていないと宣言しています。ロシアのイラン接近にはこうした政治的背景があります。
 そのイランにミサイル装備技術を北朝鮮が輸出している、ということですから、世界の危機を生み出す政治地勢は複雑怪奇なネットワークでつながっているわけです。
 「日本は島国だから世界情勢にうといのは仕方ないね」と、ある外国人ジャーナリストがいいました。確かに、江戸時代の瓦版もどきが日本の大衆ジャーナリズムの現実かもしれません。しかしグローバルな情報化の現代は、「仕方がない」では済みません。現実から目をそむけて生きることはできません。冷徹な事実に基づいた情報の分析が必要です。
 子供のコンピューターゲームを思わす机上の「敵基地攻撃論」にうつつをぬかすことなく、世界の現実を科学的に分析した外交戦略を立案すべきです。外交もメディアもゲームセンターではないのですから。
 政治家や外務官僚には、ゲーセン並の能力しかないのなら、この分野の専門家をもっと起用して、謙虚に意見を求めればよい。日本に相応の人材がいないわけではありません。しかし民間を下に見るお上が使いたがらないだけです。
 連日、北朝鮮ミサイル問題を扱うメディアやテレビ報道は、”床屋談義”の域を出てはいません。政治家も含め、ぼけたご隠居老人の妄言が世の中を徘徊している。主観的な自説を声高にがなり、ただやかましいだけなのです。世界に通用しないのがわかっているのか、日本国内で大威張りしている図ーーのように見えます。
 肝心の北朝鮮には全く睨みがきかず、国内で同胞の日本人を恐怖させてどうなるのですか。いまや北朝鮮ミサイル事件は、日本において真夏の夜のホラー話に転化しつつあります。
 日本のメディアレベルでは、CNNのような現地取材に基づく冷静なニュース報道や分析はありません。というよりジャーナリストのレベルで取材した事実に基づくニュースは皆無ではないでしょうか。噂話や風説を大仰に流しているに過ぎない。せめて、ミサイルの着地点をロシア沿海州の海域まで取材にいって確かめることくらいできないのでしょうか。
 ミサイル7発発射は米国情報です。ロシア、韓国では10発といっています。
どっちが本当かわかりませんが、こうした情報を検証することで、意外な事実が判明するでしょう。
 まだ北朝鮮から本物の爆弾は飛んできてはいないのだから、もっと冷静にミサイル問題に対処し、拉致問題まで包括的に解決する柔軟なスタンスがどうして作れないのか。歯がゆい政府外交の失敗に、納税者である国民は責任を取らせないといけません。「国民の生命と安全を守る」国家の役割を放棄した政府を、われわれは看過できません。
 
 
以下は第69号(2006年6月12日発行)からです。
角をためて牛を殺す
 村上ファンドの村上世彰氏の逮捕は、海外のメディアでも大きな関心を呼びました。米国のニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・タイムズ、英国のフィナンシアル・タイムズなのどの一流紙に、事件の論評が出ました。
 この3新聞は世界の新聞格付け機関のランキングのベスト3ですから、国際世論に与える影響は極めて強い新聞です。
 3紙に共通する論調は、村上逮捕への懸念です。日本のマーケットに与える悪影響は日本の問題だが、世界的な株価低落傾向の折から、これが世界マーケットに与える悪影響への懸念があります。
 ランキング第一位のフィナンシャル・タイムズは、日本はもともとインサイダー取引の国であったと述べています。これを機に日本でインサイダー取引の取り締まりが本格化することは喜ばしいが、それならすべてのインサイダー取引を徹底摘発すべし、というのです。
 その気もないのに、なぜいま村上ファンドなのか、ということです。本当はもっと大規模で悪質なインサーダー取引や違法ビジネスが黙認されているのではないか。このままだと、日本のマーケットの公正が損なわれるのではないか、というのです。
 日本のインナーサークルの管理者たちが、部外のアウトサイダーを排除している、という図式に見えているようです。アウトサイダー排除となれば、外国人投資家も同様に排除される側になります。
 村上氏は、さきに逮捕されたホリエモンと同様、日本の閉鎖的な市場の革新を試み、株主をないがしろにしてきた日本の企業風土改革の若い騎手であったわけです。彼らは、資本主義と株式会社の意味と論理を鮮明にしました。
 村上氏やホリエモンは極悪非道な人物のようにいわれていますが、米国のエンロン事件を調べますと、その非道ぶりはかなり違います。エンロンの経営者たちは、会社の経営破綻を見越して、自己保有株を高値で売り抜け、自分だけの利益を確保して逃亡しているのです。これは会社と従業員に対する背任です。
 村上ファンドの資金の大半はアメリカの大学基金といわれており、それほど筋の悪いファンドではなかったと考えられます。村上氏を信用して米国の大学が資金運用を任したのでしょう。この事件で、海外の資金は日本から撤収するかもしれませんが、日本のファンドの信頼を著しく傷つけました。
 その市場パフォーマンスの過程で、違法性のあるビジネスが派生したかもしれないが、これを厳しく咎めて逮捕拘留し、そのすべてをたたきつぶすようなことをして果たして大丈夫なのか、という疑念が海外3紙の論調から浮かび上がります。
 タイガースの阪神株に手を出したのが、運のつきだったかもしれないと、私などは考えるのですが、そのような日本的な事情は、外国メディアには理解できません。
 チャレンジャーを潰す。角をためて牛を殺すような社会では、日本の活力は期待できない、ということです。
 ソ連、東欧が崩壊していらい、日本は最後に残った社会主義国家、といわれていますが、一連の事件はこれを象徴しているようです。官僚のお墨付きやインサイダー仲間(インフォーマルなクラブ、インナーサークルの公認された人脈)の了解を得られなかったアウトサイダーの部外者が、多額の金を勝手に儲けたり、巨大メディアを買収しようと企図したら、とんでもないペナルティを課せられて、破滅してしまう。
 世界では企業のM&Aは普通のことですが、鎖国日本にあっては、資本主義の仕組みがなじまないことは確かです。お上の号令で和を尊び、庶民はみんな平等、横並びがいい、という文化があります。
 国民から税金を徴収する国家が唯一無二の資本家ですから、庶民が小遣い稼ぎで株をやることは歓迎されるでしょうが、大量の株を買収してものいう株主になれば、「天罰が当たり」、新聞には、「ざまー見ろ」と書かれてしまいます。
 日本企業の株の大半は系列会社、系列銀行、幹部社員や仲間で保有して持ち合い、よそ者には口を出させないのです。企業に口出しするのは、総会屋かヤクザと決まっていました。
 ものいわぬ羊のような零細株主たちの群れは、国家が許容した配当だけを受け取る。日本では、資本主義経済とマーケットが正常に作動していないのではないかーーー海外の新聞論調が問題視するのは、長年、懸念を表明してきた日本システム内部の病根そのもののようです。改善されるどころか、時代に逆行しているのではないかということです。しかも社会の悪玉菌と善玉菌の区別さえつきにくくなっているとなると、われわれの国の病は重症、というべきです。
 まあ、巷にあふれる「日本消滅・崩壊論」の類の論調にいまさら与するつもりはありませんが、、。
 私がいいたいのは、日本は自由と資本主義の道を選ぶのか、地球最後の社会主義の国家としてとどまるつもりなのかーーマトモに考えると、ばかばかしいほどに結論が明らかになった時代遅れの選択なのですが、これがいま迫られているということです。
 開国か攘夷かの選択を迫られた幕末日本の活力をもう一度取り戻すべきです。角をためて、有為の人材を潰すことは、資源の浪費以外のなにものでもありません。
 しかしながらいまは、
 突出すると危険だ。横に並べ。目立つな。
 青年よ、とりあえず希望を捨てよ、と呼びかけるしかありません。
 残念なことです。  
 
 
  
以下は第68号(2006年4月26日号からです)
スキャンダルに勝った民社党
メディアも敗北した
 
 千葉7区の衆議院議員補欠選挙で、民主党の若い女性候補・太田和美さんが当選しました。偽メール事件で党解体の瀬戸際に立たされた民主党が、小沢新体制のもとで”復活した”というわけです。民主党にとっては、まさに”神風”が吹きました。
 しかし、理性的に考えれば、必ずしも”神風”ではない。このフォーラムでも書いたように、昨年の衆議院選挙で大勝しすぎた小泉自民党に対して国民は警戒心を抱き、多数を背景に好き放題やられてはかなわない、と考えるようになりました。5年間、辛抱強く小泉さんを支持してきた国民でしたが、心変わりしつつあります。
 小さな政府、どころか巨大官僚組織はぬくぬくと生き延び、行政官僚たちのリストラ逃れではないかと思わす時代錯誤の法案がどんどん国会に出されている。共謀罪とかが、どさくさに紛れて国会を通過すれば、国民の自由を縛る。祖国を北朝鮮のような”密告社会”にするつもりなのか?
 税負担は増大するが、税金は無駄に浪費されています。老人医療費の値上げ、年金からの介護保険の強制天引き、福祉予算のカットなど、弱者に冷酷な政治手法が目立ってきたし、格差社会拡大の歯止めもありません。
 小泉チルドレンの派手なパフォーマンスにはうんざりし、いい加減にしてくれ、と国民が音を上げていることも、”驕る平家”の与党政治家にはわからなくなっているようです。
 民主党には派手なパフォーマンスはなかったが、太田さん自身や小沢さんら幹部たちの地道な遊説姿、真面目さが有権者の心をつかんだのだと思います。
 自民党は偽メールなどの民主党のスキャンダルを追い風として、楽勝ムードに酔いしれていたのですが、思わぬ逆風となりました。
 風向きを完全に読み間違えたのは、与党だけではありません。新聞もテレビ報道も同じです。マスメディアの間違いはさらにひどいものがあったというべきです。
 民主党をスキャンダルまみれにし、太田候補のキャバクラ情報などを動員して暴露する「風説の流布」ぶりは、目に余るものであり、到底、永田議員の所業を嗤えないのです。
 今回の民主党の勝利は、メディアが流す風聞と数々のスキャンダル報道に打ち勝った民主党の快挙、というべきでしょう。
 小泉自民党のようなテレビをあてにしたイメージ選挙戦ではなく、一人一人の有権者に対して直にメッセージを送るという、本来あるべき選挙の姿に戻ったことは、日本の民主主義の進化でした。
 この選挙は、日本の巨大メディアのマンネリ報道と堕落に対して一石を投じたという意味で、「メディアの敗北」でもありました。
 続きを読む(http://d.hatena.ne.jp/Tshibayama/ )。
 
 
以下は67号 2006年3月20日発行分です。 
「風説の流布…異聞」
「風説の流布」はホリエモンや永田議員の”専売特許”ではなく、古来より、わが日本文化の特質でもあります。島崎藤村作詞の唱歌『椰子の実』は、名も知らぬ遠き島より流れ来る椰子の実を歌っていますが、この椰子の実が流れ着いたところは、東海の伊良子岬のあたりだと、柳田国男が『海上の道』で書いています。
 柳田から椰子の実の漂着の伝承を聞いた藤村が、早速、詩にうたったということです。
 遠き島から流れ着いた椰子の実伝説とは、風説をもとにした寓話ですが、柳田によれば、実証の装いを凝らした文献や考古学資料よりもはるかにリアリティがあるといいます。柳田は、「日本人はどこから来たか」という日本人のルーツを考え続けたあげく、東海の海辺にたどり着いたという椰子の実に注目したのです。
 海に囲まれた島国の日本に、一番先にたどり着いて居住したのは、椰子の実と同様なルートで海上の道を漂着した南の島の人々だったのではないかと、柳田は考えています。そこから、椰子の分布地図を作成して、原日本人のイメージを推理しているわけです。
 沖縄には「ニライカナイ」の信仰がありますが、これは海の向こうから幸せが来る、という考えです。流れ着いた椰子の実は、島人にとって、宝物でもあったのです。
 日本には、海辺に漂着した椰子の実を拾ったり、譲り受けて家宝にするという民間信仰があったと柳田は語っています。
 日本人のルーツ論には、中央アジア、中国の東南地域、東シベリア、バイカル湖畔、東南アジア、ヒマラヤ・チベット近郊、東中国から朝鮮半島経由、などの諸説があります。
 しかしながらつまるところ、まだわかっていません。日本人のルーツは実証できないのです。なぜかというと、柳田が考える椰子の実の故郷には、おおむね文字による記録が存在せず、出来事はすべて伝承で語り継がれていました。従って、海流に乗って日本列島に漂着した人は、その経験を書き残すことがなかったのです。すなわち、口承による風説の流布こそが、歴史の事実を伝える唯一の方法だったというわけです。
 やがて文明国の中国から漢字が流入し、日本人が文字を使うようになったのは、『古事記』によれば、4世紀半ばころです。これによって、『古事記』『日本書紀』など、漢字による歴史が日本の正史として書かれるようになりました。しかしこれは、中国の歴史書をモデルにしたものでした。
 それ以前の日本の歴史は、文字として書かれたものが残されていないのです。名も知れぬ遠き島より流れ着く椰子の実の伝承として、口承で存在しているだけです。柳田はそういうものを、民間伝承の形ですくい上げて記録していきました。
 風説には大きな意味があり、侮ることはできないというのが、柳田の学問的思想の核心です。明治維新に堅固に構築された天皇制によって、日本国家の起源は神武天皇と決められて、柳田のいう椰子の実伝承は影を潜めてゆきました。
 しかしながら、漢字文化になじめず、仮名や和歌や『源氏物語』を生んだ日本文化の基底には、古来からの伝承物語が生き続けました。
 私はハワイのシンクタンクに在籍していたことがありますが、アメリカに併合される前のハワイの文化が、やはり伝承によって成り立っていたことを知りました。
 ハワイ人は、18世紀のイギリスのクック船長の来航で初めて西欧文化と接触し、19世紀末にアメリカに併合されました。
 ハワイ人の起源は、タヒチのポリネシア人が、無人島だったハワイ諸島に漂着したことに始まり、4世紀ごろには大規模な移民がやってきたことが、博物館の資料に書いてあります。もともとのハワイ語には固有の文字はありませんが、現在ではローマ字で表記することで、ハワイ語の伝承を記録できるようになっています。
 太平洋を様々な海洋民族が航行し、海流に乗って島から島へと渡っていったことがわかります。
 こう考えると、太平洋の西端にある沖縄諸島や日本列島にも太平洋の島々の海洋民族が海流に乗ってやってきたと考えることは自然です。海路に慣れていない大陸人よりも、太平洋諸島の海洋民族のほうがはるかに海の万象を知り尽くし、航海術にもたけていたでしょう。
 柳田は日本原人のルーツを太平洋の海洋民族に求めていますが、戦前という思想統制の時代のため、明確に論及するのを避けています。
 日本が歴史に顔を出したのはもっと後のことで、中国大陸との交流が盛んになり、文物や律令制度が輸入されて国家の体裁が整い、文明国の一員になりました。中国の皇帝をモデルにした天皇制が導入されたのです。神武天皇に始まる万世一系の天皇制はこうして成立しました。
 このような中国を模倣したエリート階級による国家システムの外で、柳田が唱える民間伝承は、歴史を超越した民衆の口承によってしぶとく生き続けてきたのでした。
 ハワイでは英語が公用語ですが、文字を持たないハワイの現地語もそれなりの用途、目的で使われています。アロハ、というのもそのひとつです。ハワイ語はおおむね伝承や噂の流布に使われています。これによって欧米と接触する以前のハワイの歴史が語り継がれています。ハワイ諸島にある多くの神話も伝承されています。
 ハワイ人の主食のタロイモは、神の不倫によって生まれた子が死産となり、その亡骸を埋葬したところに生育したという神話があります。
 神の悲劇がハワイ人に主食を与えた、という話です。もの悲しく人間くさいこの話を英語の翻訳で読んで、思わず感動したことを覚えています。ハワイ神話には、すべての土地は神に属しており、人間は神の許しを得て、その土地を使用しているにすぎず、時期が来たら神に返還しなければならない、と語っています。ちなみに、ハワイの神の系譜も万世一系です。
 ハワイ語では、所有することを「オナ」といいます。オナ、つまり英語のオ−ナーが語源です。ハワイ語には所有を意味する言葉がなかったことがわかります。オナという概念は、欧米との接触によって生まれたのです。
 所有権を競い、富と覇権の争奪ゲームを基本とする欧米文化は、ハワイの伝統文化とはまったく異質なものだったことがわかります。
 風説の流布は、現代社会においては悪とみなされます。実際、国会を空転させた永田メール事件も風説の流布が原因でした。ホリエモンも風説の流布の罪で逮捕されました。
 しかし、われわれの周囲を見渡すと、真実と風説を区切る境界がどこにあるのかわからない事象が満ちあふれていることに気づきます。政府や権威ある大組織や官庁や巨大マスコミが流す情報やニュースが、本当に証明された事実なのか、風説なのか、深く考えればわからないことだらけです。
 しかしとりあえず、政府や官庁や大マスコミがいうことだから、信じておこう、というのが大多数の国民大衆の考え方でしょう。身の安全のため、処世のためにとりあえず信じておく、ということでしょうか。
 名も知らぬ遠き島から流れよる椰子の実、に限りない愛着を覚えてきた日本民族は、疑い深い精神構造を持っているといえるかもしれません。タテマエの言葉を処世の言葉としては信じても、心底から信じてはいない。二重の基準をもった精神文化です。
 そこで、もう一つの基準である風説が大いなる力をもって人々を動かすことがあり得るのです。
 いまの日本では、「風説の流布」は反社会的な行為のシンボルになっていますが、風説は日本文化の有史以前の古代から流通する伝統メディアの重要な一部であることを知っておく必要があると思われます。
 すなわち私たちの文化は、欧米流の事実や真実を実証することが極めて不得手であるという特性をもっているのです。
 我が国のジャーナリズムもまたしかりであります。他人の風説の流布を厳しく指弾するジャーナリズム自身が、自己の利害に基づく風説を堂々と流布させているという笑えない悲喜劇が起こるというわけです。
 ジャーナリズムの役割は、風説を検証しそれが真実であるかどうかを見極めることです。そして事実と確定できた真実のみを報道する。何よりも自身が風説を流していないかどうか、厳しくチエックすべきではないでしょうか。
 遠き島より流れよる椰子の実、とは何か。目の前にある椰子の実の実態と事実に即して検証報道して欲しいものです。
 
 
 
「風説の流布」
「風説の流布」といえば、ホリエモンだけでなく、近年のマスコミの得意技でもあります。事実を取材して真実を報道するのが公器たるマスコミの社会的役割ですが、最近はとみにその力量が衰えて、「風説の流布」に深く傾斜し、情報操作に余念がないように見えます。東京拘置所の独房のモデルルームまで作って、面白おかしく”ホリエモン犯罪物語”を演出するTVワイドショーや新聞記事に至っては、その観を深くします。
 ホリエモン逮捕はあまりに突然の事件でしたが、過剰報道のわりにマスコミは犯罪の構成要件を未だにわかりやすく伝えてはいません。ホリエモン=重大犯罪人というイメージは洪水のようにあふれていますが、なぜホリエモンが逮捕され、いかなる犯罪者なのか、いまだにわからない人々がたくさんいます。
 もしもホリエモンが、もともといかがわしい人物だということがわかっていたのなら、いくら目が節穴だったとしても、自民党幹部が選挙候補として応援したはずはありません。いまになってホリエモン悪人伝説が吹き出してきた理由はなぜでしょうか。いったい、”ホリエモンの犯罪”を、事前に誰も関知することができなかったのだろうか?
 時代の寵児、人も羨むヒルズ族、億万長者、プロ野球と巨大テレビ局買収計画の立案者、選挙の”刺客”候補、競走馬やジェット機所有者、などなどへの反感、恨みを買っていたことはわかります。
 M&Aはできても、メディアの社会的役割を理解していないホリエモンを私も批判してきました。それにしても、スポーツ紙の見出しに、「ザマーミロ」という字が躍っていたのには、驚きでした。
 いったいホリエモン逮捕の背景、裏面には何があるのでしょうか? 野口氏の沖縄での”自殺説”の深層は何か? 那覇空港で待ち受けていた4人の男とは何者なのか。闇で何かが動めいている?
ライブドア事件の真実が潜むこの問題にこそ、メディアは深くペンのメスを入れて欲しいものです。当局のリークに群がり、尻馬に乗って情報操作するだけが能ではないでしょう。
  ”ホリエモン国策捜査”を口にする評論家もいますが、政権中枢の小泉内閣はホリエモンを担いだ張本人ですから、現政権がホリエモン逮捕を促したとは考えられません。現政権に打撃を与える国策捜査などはあり得ないからです。国策捜査というなら、むしろ姉歯建築士やヒューザーや建築コンサルタントなどに対する強制捜査こそあるべきなのですが、こちらのほうは遅々としているだけでなく、次から次へと疑惑のマンションが輩出してきています。
 検察の捜査によって証券市場が混乱し、ライブドア株が急降下したのですが、捜査の着手の前に市場に警告を発し、顧客やマーケットの被害を最小に食い止める方策が必要だったのではないかと、海外のメディアなどは指摘しています。グローバル化した市場へ波及するので、日本国内にとどまらず世界に影響します。ライブドア株だけでなく、IT関連の日本の株式市場全体の信頼度が低下して、日本経済に打撃を与えることになります。
 日本の証券取引等監視委員会(SESC)がうまく機能していないのであれば、経済ジャーナリズムが率先して、”ライブドアとホリエモンの危険”を調査報道することもできたはずです。もしもメディアの調査報道によって、ライブドア株が下がったとしても、記事に正当性があれば、「風説の流布」にはなりません。
 米国のエンロン疑惑をいち早く報道し、市場の危機を救ったのは米国メディアの調査報道でした。
 日本のマスコミは検察の強制捜査の前には、いっさい問題を検証することなく、”後出しじゃんけん”のようにして、ホリエモンを糾弾しています。競って”勝ち馬”に乗ろうとする図は、浅ましい姿ではないか。ホリエモン推薦の責任を問われた小泉首相が、「あれだけ持ち上げていたメディアが逮捕と同時に手のひらを返したのもどうかと思う」と国会答弁で話していましたが、これは国民感情の一面を代弁してはいます。
 ホリエモンは現代のアメリカ型の富者のシンボルとして、金を稼ぐ天才を装いました。しかし金さえあれば何事も可能だと豪語し、Tシャツ姿で大人の分別もわきまえなかったという点で、時代の反逆者だっといえます。二宮金次郎伝説をタテマエの美徳とする旧社会の”許し難い敵”になったのです。
 ホリエモン事件とオウム事件をだぶらせて説明する評論家がいます。なるほど、麻原彰晃も反逆者でありオウム教団が多数の若者を捉えた集団という意味では、似ています。しかしオウムは宗教の仮面をかむって殺人やテロを繰り返しました。ホリエモンは「風説の流布」や「粉飾決済」によって、証券市場に迷惑をかけ、株主を騙したかもしれませんが、殺人は犯してはいません。
 麻原とホリエモンは犯罪の質は全く違います。ホリエモンの犯罪を糾弾するメディアのコメンテーターや評論家たちは、オウム事件をきっかけにデビューした人が多い。オウム事件から約10年になりますが、いまでもテレビ、新聞に出てくるコメンテーターたちは、オウム事件からの顔なじみが多いのです。
 オウム事件と似ている、と感じたのはそういうオウム・コメンテーターが出演しているせいだと私は気づきました。
 ホリエモンの違法行為を裁くのは当然ですが、彼が日本社会の旧体制に風穴を空けた功績は、認めるべきだと思います。恐らく、ホリエモンのような人物でなければできなかったことだと思います。
 後世の人は、ホリエモンをどう評価するでしょうか。既得権益に守られた特権階級の人物や官僚の認可を得なくとも、誰にでも自由にメディアは作れるということを示そうとしたホリエモンの行動は、閉塞感にあえぐ日本の若者に一抹の希望を与えたことは確かです。
 ホリエモンが犯罪を犯したのであれば、彼の思想や人格や生き方を裁くのではなく、犯罪の事実だけを摘出して裁くべきです。グレーゾーンと犯罪ゾーンの線引きはどこにあるのか。いったい「風説の流布」によってホリエモンはどれだけ不正な金を儲けたのか、粉飾決済を行うことで、市場や株主ににどの程度の損害を与えたのか、ことが経済犯罪である以上、具体的な数字で犯罪性を示す必要があります。
 正当なジャーナリズムの報道の正念場はここにあります。しかしいましばらくは、捜査当局の捜査結果を待ちたいと思います。
 法の適用は平等かつ厳正でなければならないのであり、いかなる容疑者でも「推定無罪」の原則は当てはまるのですから、裁判抜きで、ホリエモン=犯罪人、という刻印のみが目立つ報道は慎むべきだと思います。
 ライブドア事件の見えない点と線をつないで真実をあぶり出すーー「風説の流布」とは一線を画する日本の心あるジャーナリズムの調査報道にとって、いまや絶好のチャンスが到来していると思います。
 
 
追悼・日下 雄一氏
 テレビ朝日エクゼクティブ・プロデューサーの日下雄一氏が、1月5日に急逝されました。日本のテレビ界はもとより、ジャーナリズム界全体にとって、まことに惜しい逸材を亡くしました。痛恨の極みではありますが、心よりご冥福をお祈り致します。
 日下氏は、「朝まで生テレビ」の番組立ち上げから担当されるなど、今日の「報道のテレビ朝日」の看板を、身をもって築いてこられました。かといって、世間がテレビ人に抱いているイメージとはかけ離れた、もの静かな紳士で、シャイな人でした。またジャーナリズムの話題になりますと、時間を忘れて話しこむ情熱の人でもありました。
 日下氏には、約10年ほど前に小生が国際日本文化研究センター(京都)の客員教官として、日本のジャーナリズムに関する共同研究を主宰していたとき、研究会に関与していただきました。研究の方向が活字メディア中心になりがちなところを、日下氏は、テレビの特性と影響力について、現場からの誠実な問題意識を届けてくださり、研究チーム全体の目から鱗が落ちたという貴重な経験をしました。日下氏のおかげで、私どもはテレビジャーナリズム確立の認識を新たにいたしました。
 当時の日下氏のご発言などの要旨は、小生との対談形式で、『日本のジャーナリズムとは何か』(ミネルヴァ書房)に収録されております。
 日下氏は、テレビの影響力の大きさへの懼れを持ち続けておられ、新聞記者をしのぐ優れたジャーナリストでありました。「映像は暴走するので視聴者は気をつけてテレビを見てください」という名言を吐かれたこともあります。
 昨年10月23日、小生らが立ち上げましたシンクタンク「現代メディア・フォーラム」のシンポジウムに、出席していただきご講演をいただきましたのが、お目にかかった最後になりました。
 闘病中でありながら、東京から京都の嵐山の近くにある大学のホールまで、ボランティアとして足を運んでくださいました。「現代メディア・フォーラム」の設立に際しては、貴重なアドバイスをいただき、その立ち上げの記念イベントなので、是非、出席したいと、担当医師の許可を得ての出演でした。京都まで奥様もご一緒でした。
 講演内容は、メディアのM&Aと、テレビ界の現状に関することがらでした。背筋をピンと伸ばし、辛辣な業界批判のコメントもあります。しかし日下氏のご要望もありまして、これまで内容の細部の公表は差し控えておりました。内容には正論のリアリティと力があり、実に面白いものでした。何より報道現場の苦悩がひしひしと伝わり、聴衆に感銘を与えました。ジャーナリズムに対する日下氏の端正かつ真摯な姿勢は全く崩れていませんでした。
 残念ながら、日下氏のテレビ界に対する遺言状のようになってしまいましたが、いずれご親族の同意を得て、HPなどで公表したいと考えております。
 昨日、大学の新聞論の授業中に日下氏の訃報を話したところ、10月のシンポジウムを聴きに来ていた学生が、授業のあと、「あのときの日下さんのお話がとても印象に残っていました。あんなにお元気そうだったのに」と弔辞を述べに来ました。若者の心を捉えお話だったのだと思います。
 病気は快癒すると、日下氏は信じておられましたし、小生もまたそう信じておりました。しかし運命の神は残酷です。この世に残って、まだまだ仕事をして欲しい人が、あっけなく去ってゆくことが多いのです。いままた、こういう悲しみに立ち会うことになりました。
 59歳でなくなられた日下氏は、今年、テレビ朝日の定年を迎えられることになっていました。全日空ホテルのロビーにあるコーヒーハウスでよく歓談しましたが、定年後の残された人生の仕事についても話しました。
 私どもの「現代メディア・フォーラム」には積極的に貢献したいと話し、時期が来たら発起人に加わっていただくことになっていました。
 いまは亡き日下氏が私どもの背中を押してくれてるいるような気がします。勇を奮って、「現代メディア・フォーラム」を続けてゆく決意を新たにしております。
 ご冥福をお祈りします。
 
 
 
 
「NHK解体新書」
 
NHK民営化論が噴出してきています。特殊法人として、国の庇護を受けてきたNHKは、国民のための公器としての役割が期待されていたにもかかわらず、幹部の相次ぐ金銭スキャンダルや自民党政治派閥と癒着した元会長の独裁体質が、世論の糾弾を浴びました。最近は、第一線の記者による自作自演の放火事件まで発生しました。
 「公共放送NHK」の病は重い、というべきです。国民のNHK離れはNHKの受信料制度という資金源に大きな打撃を与えています。信頼もできず、見てもいないNHKのためになぜ料金を払わないといけないのかーーこの疑問にNHKは答えることができなくなったのです。
 折から、NHK民営化論が、ほかならぬ政府中枢の要人から噴き出してきました。政府与党の顔色に敏感に反応してきたNHKにとっては、皮肉な事態です。郵政民営化の理論的支柱の竹中総務大臣は、「日本になぜアメリカのタイムワーナーのような巨大メディア産業は存在しないのか」との疑問を投げかけました。
 竹中氏が発したこの疑問に日本のメディアは完全に沈黙しています。答えられないのか、答える知力と見識がないのか? 
 そこで沈黙する巨大メディアに代わって、私が答えるとこうなります。(註、拙著『戦争報道とアメリカ』PHP新書も参照してください)
 竹中氏の問題提起は、ひとりNHKだけでなく、NHK民営化によって、既得のCMと視聴率のマーケットを奪われるのを恐れる民放各社にとっても、痛いところを突いています。痛々しいほどに旧式な日本型メディアの仕組みが、浮き彫りになってきます。
 国民から視聴料を一律に徴収するNHKは、誰がみても独占企業体ですが、一見、独立した民営企業に見える民放でも、実は独占企業体なのです。民放テレビ局への電波割り当てが政府によって行われているというだけでなく、民放各社の親会社は大新聞社です。巨大発行部数を持つ寡占的な大新聞社と民放テレビ局が、資本と人の両面で緊密な系列関係を作っていることからも、日本のテレビ局のネットワークは世界に類例を見ない旧式の独占企業体であることがわかります。テレビ局が言論機関とするなら、大新聞ーテレビ局は一体となって、堂々と言論の自由の独占、寡占を行っているという図式になります。新聞社系列のテレビ局は民放キー局だけでなく、地方のテレビ局にも及んでいます。
 竹中氏が指摘するように、通信、放送の融合という新時代のメディアのあり方とは相反するのが、古式豊かな日本型メディア産業です。日本の新聞、テレビ、広告などのメディア業界は、部数・視聴率競争に狂奔しながらも、真のビジネスレベルの競争はありませんでした。かつての銀行のような護送船団方式がいまでも続いているということです。従って、いくら規制緩和をしても、新技術を導入しても、現状のシステム改革がなければ、メディア産業の発展も望めないわけです。
 米国のタイムワーナーなどのメディア会社は、コングロマリットと呼ばれる企業複合体で、日本のような閉鎖的な系列会社ではなく、互いに独立した会社が広範に連携しながらグループを形成しています。
 CNNのタイムワーナーやハリウッドのディズニー、GE(もとはエジソンが作った電気メーカー、日本では経営の神様とあがめられる元会長ジャック・ウェルチがいる)などは、90年代にメディアのM&Aを繰り返しながら、巨大化し、日本のメディアの10倍、20倍の規模のコングロマリットを形成しています。それによってマーケットのシエアを拡大しているのです。近年では、その収益の50%以上をアメリカ以外の世界市場に依存しています。
 企業の平等な競争によって新しいマーケットが拡大し、新規の事業が興り、経済上の富が蓄積されてゆきます。メディアの自由な競争のためには、規制はできるだけない方が良い、というのが民営化論の根拠です。自由な競争によってメディアの質も高まるという考えです。これはアダム・スミス以降の、レッセ・フェール経済(自由市場経済)の思想によります。
 「言論の自由」は憲法で保障されているにもかかわらず、日本のメディアの仕組みや運営の仕方は非自由主義的な規制だらけです。戦後60年、大きな変化は起こってはいません。まるで旧ソ連のメディアのように、新規参入などは事実上できない制度になっていて、国家に庇護されたNHKや大新聞、大民放テレビをはじめとする既成の巨大メディアだけが国中のマーケットを独占し、繁栄と権勢を謳歌してきました。
 明治維新の時のように、篤志家が同志を募り、新しく新聞社を立ち上げたとしても、日本新聞協会に入れてもらえないので、世間では新聞社としての認知をうけられず、「記者クラブ」にも所属できず、ニュースを取材したり書くための場と拠点がありません。
 そのうえ日本の大新聞は、再販価格維持という法の保護を受けながら宅配システムを維持し、独占企業としての位置を守ってきました。独占禁止法の枠組みが新聞事業には適用されなかったので、戦後の日本では、新規の影響力のある新聞社は誕生できなかったのです。
 むしろ言論の自由がなかった戦前のほうが、新聞社はたくさん存在していました。旧ソ連が行ったようなペレストロイカが、日本のメディアに必要なゆえんです。本当の競争原理を導入し、社会主義的な独占企業システムから日本のメディアを解放するということです。
 今年、ライブドアや楽天がニッポン放送ーフジテレビ、TBSに対するM&Aを仕掛けましたが、成功しませんでした。この業界への新規参入がいかなる資本力を駆使しても不可能、ということが判明しました。世間も、金にあかせた新参者には冷たく当たりました。
 だが、新規参入は不可能だからといって、いまのように既成メディアだけにニュースと報道、娯楽,CMを任せておいていいのか。国民にとって最も大事なニュースや報道が無視されてはいないか? 国民が本当に必要とするメディア・コンテンツが提供されているのか?
 実際、矛盾が噴出しているのに、国民はあきらめて、既成メディアの自壊を待つしかありませんでした。恐竜がその図体の大きさを維持できなくなって自滅したように・・。
 いま、巨大メディアの周辺で噴き出す様々な不祥事は、恐竜の末期を思わせるところがあります。
 こうした崩壊前夜の2005年末に、NHK民営化論が浮上してきたことは、好ましいことです。
改めていいますが、民営化がすべて良いわけではありません。しかしあえてNHK民営化論を契機にして、郵政民営化のように世論の争点を作る必要があります。日本の既成メディア全体がもっている仕組み(システム)と欠陥を、国民全体でとことん議論することが、いま必要なことだからです。いまや毒をもって毒を制するしかないのです。
 経済や文化のグローバルな基準に敏感になっている国民は、もっと高いレベルのメディアの質を望んでいます。コンテンツ、人材、経営の三位一体の改革が必要です。日本の既成メディアの質とレベルが低いのは、本当のメディアの競争が不在だったからです。競争が不在だと、質は「中の下」あたりで均衡しますが、やはり質の競争にさらされなかった日本の大学でも同様です。
 ちなみに、日本の大多数の私立大学が知的衰弱と些末主義、無責任体制のもとで荒廃しているかご存知でしょうか。学生を歩く札束としか考えず、少子化時代の学生集めのために、平然と行う新設カリキュラムの偽装ぶりは、まさにマンション構造計算偽装に匹敵する大問題ですが、このことは世間では全く知られていません。消費者である学生と父兄が著しく犠牲になっています。看板と実態がかけ離れているーー入学して騙されたと気づく学生は膨大な数に登るでしょう。しかしすでに多額の入学金、授業料を支払っているので、後の祭りです。
私立大学といえども、国の補助金(税金)が投入されていますから、その内実を納税者の国民が厳正にチエックする必要があります。 
 教育システムの頂点にある大学の堕落が小中高の教育に悪影響を与えないはずはないので、そのうちに具体的な事例をあげてチエックのためのルポルタージュを書きたいと思います。付け加えますと、新聞社と大学に影響力のある政府機関は、文部科学省(文化庁も関与)ですが、文部科学省と新聞社、大学と役所がどのような蜜月関係にあるかということも、世間では知られていませんから、そのうち例を挙げてご説明します。
 メディアと高等教育が衰退、荒廃している国に若者の未来はありません。先だって、メディアが大々的に報道しましたが、出生率の減少だけが、国家の存亡のような大問題なのでしょうか? これはより大きな国家の問題から争点をそらした報道です。
 話をメディアに戻しますと、日本のCMマーケットは、GDP比率で比較するとまだまだ弱体で、アメリカの20%ー25%程度であり、世界的に見てもブラジルなどと並ぶ低い水準にすぎません。日本は経済大国ですが、日本のCM業界は未だに経済大国のレベルに達してはいないのです。
 従って、「通信と放送の融合」だけでなく、戦後60年の長い間、メディア業界を縛ってきた古い規制や慣行、旧システムが崩壊すれば、さらに大きな外資を巻き込むCMのマーケットを日本のメディア産業の中に生み出すことができます。もっとはっきりいえば電通、博報堂(電博)が日本の広告業界を独占している時代は終わったのです。また、電博に影響力を奮ってきたのが、大新聞であったという事実があります。なぜ大新聞が広告をコントロールする必要があったかというと、テレビの影響力の拡大を恐れたからにほかなりません。
 日本のメディア産業はいまの4倍ほどのサイズを形成できる潜在的な能力と可能性があります。日本のテレビ産業が年間4兆円、新聞などの合計が4兆円、合計で8兆円規模のメディア産業市場といわれますが、この数字をトヨタ1社の10兆円と比較してみれば、あまりの低水準といえるでしょう。
 現在、メディア業界への就職を希望する大学生は、総数の2−3割はいますが、彼らの多くは既成メディアの入社試験に受かることなく、挫折してゆきます。そういう若者の将来の夢を満たすためにも、新規のメディア産業の大規模な雇用を創出する必要があります。
 上述のように、既成メディア業界は、政治・行政が癒着した既得 権益の構造の中にからめとられて自閉し、質とレベルを落としてきました。
 小泉内閣は様々な構造改革を実行し評価すべき実績は多々ありますが、メディアの構造改革と大学の構造改革にはまだ着手していません。
 NHK民営化とは、郵政民営化以上の争点、ではないかと私は思っています。しかし英国のBBCやフランスの国営放送の例を見ると、公共放送に国民や国が金を拠出するのは悪いことではありません。英仏の国民は公共放送に拠出することを支持しているし、そのほうが望ましいのです。公共性のある番組と視聴率の取れるビジネスとは相容れないからです。 NHKが民放化し、CMができるようになれば、いまよりもっと番組の質が悪くなるかもしれないと、誰しも思うでしょう。イギリス国民やフランス国民の公共放送への信頼感は、日本のように崩れてはいません。腐っても鯛、ということでしょうか。
 どうしてNHKに対する国民の信頼感が崩壊したのかーー歴史的な経緯をふまえて、受信料不払いの問題点を分析することが先決です。
 巨大コングロマリット化したアメリカのメディアの場合、ジャーナリズムの役割の衰退が甚だしく、メディアは金儲けに走って、公共性がどんどん失われているという報告書がたくさん出されています。メディアのM&Aだけを専門に研究する学者も多数います。
 当然ですが、NHK民営化論を性急に肯定したり、はやしたりすることは、危険です。
 かといって、民放の幹部たちが声高に主張する類のNHK民営化否定論は、もっと危険です。それは両者の既得権益をこのまま固定して維持、互いの食い扶持を棲み分けながら温存する目論見だからです。
 そこには改革への志の片鱗も見えてきません。放送局=公共性と漫然と思いこんでいるだけです。M&Aに際して、公共性の内容を吟味することなく、「公共のテレビ局を金の力で買収してもらっては困る」などという社長のコメントが出てきてしまうのです。それをいうなら、テレビ局が放送しているすべての番組が公共性にかなっているという説明をしなければならない。
 「公共性」という言葉には、垢のようにしみこんだ知的に堕落した怠惰な思いこみしかないのではないか。そんなものを守るだけのNHK民営化否定論ならば、私はNHK民営化論に与します。あえて、民営化という”毒”をもって、長年メディアに巣くってきた害毒を制するということになります。
 巨大企業体であるNHKを分割して、一部を民営化し、一部を国営の公共放送として残す、という案を私は提案します。良質な公共放送局を作り、そこには堂々と公金(税金も含め)を投入しても良いのではないか。この案の詳細は、シンクタンク「現代メディア・フォーラム」の特別プロジェクト報告『NHK解体新書』によって公表したいと考えます。
 いずれにせよ、巨大NHKを単独の企業体と見なして、そっくり民営化に移行させることは、全く不合理な話です。民営化しながら、「公共放送」の部分をいかにして残すかという課題を、受益者である国民は真摯に追究すべきです。
 
  以下は前号63号(2005年10月15日号)からです。
 
「メディアM&Aの嵐が来る」 
 楽天のTBS株大規模買収で、再び日本のメディアのM&Aが争点になって浮上してきました。村上ファンドによる阪神株買収も球団タイガースを射程に入れているので、メディアのM&Aの範疇で考えるべき事件だと思います。タイガースに限らず、プロスポーツの動向はたえずメディアの注視を浴びており、メディアとしての特性を備えているからです。ライブドアの広島買収の話もあり、M&Aの集中豪雨が起こりそうな気配です。 今春、ライブドアの堀江さんがニッポン放送株を買収してフジテレビと激しい闘争を繰り広げましたが、両者の和解が成立し、M&Aの話題はいったん沈静化しました。しかしメディアのM&Aそのものがなくなったわけではなかったのです。
 TBSは脆弱な株式保有体制のままにあり、経営システムの欠陥を楽天が突いたのですが、あのときフジテレビの危機の教訓を生かしていればこうした事態は招かなかったのではないかと思います。ニッポン放送の支配権を握れれば、フジテレビまで支配できるというねじれた系列会社構造の弱点を、堀江さんが突いたのです。
 TBSやフジテレビもそうですが、日本の巨大メディアは政治や社会、世論への影響力は絶大で、第四の権力としての権威とパワーを誇ってきました。しかしながら、株式会社でありながら、その経営形態は旧態依然としていて、透明性を欠いていました。
 テレビ局だけではなく、新聞社も同様です。新聞社は商法の特例法で株式を公開せず、社内で株を持ち合うことが許されていますが、新聞社の株を外部の資本家が買うことに制限はありません。すなわち資本金の少ない新聞社は秘密裏にどこかに買収される危険が高い、ということができます。 欧米では、メディアのM&Aは日常茶飯事です。(欧米におけるメディアのM&Aの歴史の詳細は、拙著『戦争報道とアメリカ』(PHP新書)で書きましたので、ご参照ください)。
 80年代にイギリスの名門『タイムズ』が、FOXテレビで有名なメディア王ルパート・マードックに買収されています。いまやイギリスの新聞社の4分の1がマードックのグループのコングロマリットに吸収されているといわれます。
 冷戦終結後の90年代、情報産業やインターネット産業が急成長したアメリカでは、大資本をバックにしたメディアのM&Aが猛威を振るってきました。いまや、アメリカの既成メディア(新聞、テレビ)の大部分は、「5つの巨人」といわれるコングロマリットの傘下にあります。CNNを所有するタイムワーナー、三大ネットワークのABCテレビを持つウォルト・ディズニー、同じくCBSテレビを持つバイアコム、同じくNBCテレビを持つGE(もともとはエジソンが作った電気メーカー)、FOXテレビを所有するマードックのグループの5つです。
 アメリカの巨大テレビ会社はすべて5つのコングロマリットの傘下に分割されているというわけです。ニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・タイムズなどの老舗を除き、多くの新聞社もグループ化されています。
 タイムワーナーの年間収益は2001年に378億ドルですから、このグループだけで日本のメディア産業の総売上に匹敵する金を稼いでいます。 
 ちなみに日本で最も大きいメディア産業はNHKです。そのNHKの10倍、20倍というサイズの巨大メディアグループが、次の獲物を求めて、アメリカや世界を駆けめぐっているというわけです。もちろん、日本はかれらにとってもっともおいしいメディア・マーケットを持っています。狙わないはずはありません。
 アメリカで最も話題になったメディアのM&Aといえば、ネットバブルがはじける寸前の2001年、プロバイダー企業のAOLがタイムワーナーにしかけたM&Aです。年間売り上げ額から見れば、AOLはワーナーの5分の1の会社にすぎませんでしたが、バブルで株価が急上昇しており、AOLの株式時価総額は2200億ドル(26兆円)に跳ね上がり、ワーナーは800億ドル(8兆円)でした。株式時価交換方式によって、AOLはタイムワーナーを吸収合併したのです。
 このとき、「小魚が大魚を飲み込んだ」と全米を驚愕させました。
国家予算規模の巨大な資金が動くーーこれがメディアのM&Aの実態です。
 ライブドア、村上ファンド、楽天が行っている日本のM&Aは、欧米のレベルから見れば、まだ子供だましいのようなものにすぎません。
 そういう小規模のM&Aですら、日本人は慣れておらず、ひどいショックとアレルギー反応を起こしています。そろそろ免疫力をつけないと大変なことになります。日本は巨大な外国メディア資本の草刈り場となり、日本のメディアが消えてなくなる日の悪夢が、国中を駆けめぐるかもしれません。
 堀江さん、村上さん、三木谷さんは、日本人のM&Aに対する免疫力をつけてくれているかもしれないのです。まあ、予防注射をうってくれているということでしょうか。
 1996年に世界のメディア王のマードックがテレビ朝日に触手を伸ばし、大量の株を買い占めたことがありました。このときは親会社の朝日新聞社がすかさず株を買い戻し、ことなきを得ています。
 マードックが撤退した理由は、時期尚早、でした。日本のメディア市場は護送船団で手厚く政府に守られているだけでなく、日本語障壁と外人を入れない日本文化の壁によって守られている。しかしやがてはこの壁が崩れる日が来るだろう、ベルリンの壁が崩壊したように。壁の崩壊まで待とう・・・。これが撤退したマードックの本音だったと見られています。
 今回の衆院選挙における小泉自民党の圧倒的な勝利には、日本人の心の中に存在していた目に見えない厚い壁が壊れた、という重い歴史的な意味があります。
 こうした日本社会の激変を背景にして、メディアのM&Aは本格的な外資の攻勢を交えて、今後とも、加速することでしょう。その意味で、今回のM&Aによって既成メディアが刺激を受け、構造改革に取り組まざるをえなくなるのは好ましいことです。いま構造改革をきちんと行えば、今後予想される草刈り場の大きなダメージを回避できます。
 しかし気になることがあります。堀江さんも三木谷さんも、放送とインターネットの融合で、インターネットショッピングとテレビショッピングが増えて経済効果があがるという趣旨のことを、記者会見で話していることです。
 鳴り物入りのメディアのM&Aの果てに、テレビショッピングしかすることがないのでしょうか?。いまメディアのコンテンツをどう豊かにするかを真摯に考えるならば、当然、世論形成機能を持つ「ジャーナリズムの公共性」をどう考えるかが最大の課題になるはずです。
 アメリカの事例ですが、豊富な資金力を背景にした新興のIT産業が既成のメディアを狙うのは、権威や信頼性の獲得という要素が大きいといわれています。メディアの権威や信頼度は一朝一夕では得られません。そうしたものを資金力にものをいわせて、一挙に獲得しようという野望なのです。
 堀江さん、三木谷さん、村上さんはこうした問題をどう考えているのか、是非、お聞きしてみたいものです。
 
以下は第63号(9月19日発行)からです。 
「宴のあと・・・」
 小泉自民党がこれほどの勝利を収めるとはだれも予想していませんでした。まさに世論の風はハリケーンほどに吹き荒れました。改革を止めるな!と叫ぶ小泉劇場の主人公と彼を支えた美女たちの迫真の演技をメディアで見せつけられた国民は、魅了されたのです。
 だが、貴重な一票を投じてみたものの、宴の後の空しさを感じている人々は多いのではないかと思います。
 空虚な虚脱感。そこへ民主党の前原新代表が登場してきました。ケネディやブレアが出てきた時を思わすこの若い政治家に、世間は好感度を示しています。期待が高まるかもしれません。
 イラク派遣の自衛隊はどうなるのか。北朝鮮拉致問題は?・・選挙の争点にもされずに、劇場の外に置き去りにされた問題があります。
 今度の選挙を堺に小泉自民党はピークを過ぎた・・。本当の改革者はどこにいるのだろうか。官僚政治との蜜月を断ち切れない自民党ではマトモな改革はできないだろう、小泉自民党には限界があることを承知で、国民は小泉劇場の主役に、改革の歯車をもう一回転させることを望んだのです。
 自民党並に既得権益がしみこんだ民主党が解党的な出直しをし、小泉自民党とマトモに張り合い、本当の改革競争を展開するならば、小泉劇場は解体してもっと大きな劇場が、国民の前に出現するはずです。
 それが小泉・前原劇場となるのか、前原劇場の単独劇場になるか、あるいは国民劇場になるのかはわかりません。その意味で、前原民主党には、「小泉劇場の解体」を期待したいと思います。
 改革、改革と口では叫びながら、実はほとんど改革などなされてはいないことは国民は生活実感の中で知っています。改革という言葉はいまや「オオカミ少年」になりかけています。
 税負担ばかりが増え、医療負担が増え、公共料金が上がっても、われわれの収入は増えていません。増えるどころか減っています。年金も含め、国民の将来不安は計り知れないほど大きい。
 金銭面だけでなく精神的にもそうです。日常生活のストレスが増え、学校や職場や地域や家庭で人々は寛容性をなくし、ギスギスして余裕をなくした生活に追われています。犯罪も増えています。人間相互の信頼性がなくなり、絆が失われ、国民は総孤独化しています。
 国はわれわれを守ってくれないのではないか。なんのために税金を払っているかわからない時代なのに、地方税や固定資産税などで、ずさんな督促状が届くときほど不愉快なことはありません。すでに払っているのに二重にくることがよくあります。
 役人は気軽に税金を徴収しているのではないかという疑心が広がるのです。税金に対する庶民の実感としては、権力が強制してくる年貢のようなものであり、役人を養うためのものという思いです。
 労せずして給料をもらえ身分保障があり、休暇も多いのが役人は、大学生の就職にも人気があります。全国300万公務員の平均年収はひとり1000万円というし、退職金や退職後の年金も多い。
 役人を安楽にするために国民は汗して税金を払っているのではないのですから、役人天国日本の改革競争を、小泉自民党、前原民主党は開始してほしい。
 役人への高すぎる報酬、不要な道路建設、公共投資など税の無駄を総点検すれば、その浮いた分を弱者救済のセーフネットに回すことができます。
 それと普通の人があまり知らないことですが、大学や研究機関に支給されている国の研究費にしても、点検すればずいぶん無駄があります。これは文部科学省の管轄下ですが、どのくらいの研究費が不正に流用されているか、リストアップして監査してもらいたいものです。これらの研究費の成果は、(社会・人文科学系の場合ですが)、学者の個人論文に使われるだけで、読む人はほとんどなく、社会的な還元は全く行われていません。無用なものに研究費の名目で税金が使われているのです。個別の研究費の額は道路建設などに比べれば安いですが、これも税金です。塵もつもれば山となります。
 こうした税の使い方の総点検を行い増税論議はその後にしてください。
 小泉政権の郵政民営化はその試金石です。法案に不備や良くない点があるなら、法案通過後もどしどし改良のメスを入れればいいのではないですか。
 
経済同友会への支援要請
6月24日、東京の経済同友会主催の「第16回マスコミ・ジャーナリズムのあり方」を考える懇談会」に出席してきました。小生と飯沼良祐氏が、講師に招かれ、日本のマスコミ・ジャーナリズムの問題点を話しました。経済同友会のマスコミ懇談会は、2003年秋に発足したものですが、日本のマスコミへの危機感が背景にあるようです。
この懇談会には経済界のトップリーダーの方々約20人が集まり、日本のマスコミに関する踏み込んだ論議が行われました。報道された記事や内容が不正確、外国との文化・経済摩擦が深まる、マスコミ自身のガヴァナンスはどうなっているのか、などマスコミへの不信感が経済界にも広がっていることは確かです。
本シンクタンク創立についても大いに賛同を得ることができ激励をいただきました。また具体的な支援の中身に関しては、経済同友会事務局に上げて検討していただくことになりました。
今後も各方面に対して精力的に賛同と支援を呼びかけたいと思っています。
  (以上はシンクタンク「現代メディア・フォーラム」からのお知らせ    です)。
 
郵便貯金と生命保険の薦め
お盆の中の喧噪、衆議院議員総選挙モードに突入しました。「郵政民営化の是非を問う」が小泉政権と自民党が提起した選挙争点ですが、民主党をはじめとする野党各党も自民党を離脱した民営化反対論者も、「郵政」を唯一の争点にしたくない、と考えているようです。なぜこういうことになっているのか。一般国民には甚だわかりにくい事態です。
ワイドショー政権を生んだ小泉さんは相変わらずのメディア戦略を駆使し、有名人女性や著名人を「刺客」に立てて反対候補者つぶしにかかっています。しかしそうした過剰とも見えるメディア戦略はおいて、小泉さんが提起した争点は極めてわかりやすいことは確かです。
「殺されてもいいんだ」と森元首相にいったという小泉さんの言葉も、理屈を超えた政治家の志や意気を伝えました。
普通の国民には細かいことはわかりません。ただ、国家の官僚システムが握る膨大な郵便貯金が民営化によって民間に流れ、停滞する日本経済にはずみがつき潤う契機になる、という説明は容易に理解できます。
60年の節目の8・15ということもあって、戦前の新聞を調べる機会がありました。大本営発表と戦果を誇るだけの軍部の宣伝が満載された新聞です。学徒出陣を送る校長が「国の為に死ね」と訓辞を述べる記事があります。
その記事のそばに「生命保険」の広告があり、「国のために郵便貯金を薦める」PRが出たりしているのに気がつきます。「死ね」という訓辞のそばに「生命保険」の広告が平然と載っている新聞はおかしなものです。また、国のために郵便貯金を薦めるのは、なぜかと考えました。
国民に耐乏生活を強い、貴金属類や財産の供出を要求した戦前の政府は、さらに郵便貯金を奨励して、膨大な戦費の捻出を行っていたのです。
郵便貯金はこのようにして国家政府の無尽蔵な財布として機能した歴史があったのです。郵政民営化を考えるにあたり、こうした郵便貯金が戦前に果たした特殊な役割を忘れるわけにはゆきません。
国家と官僚が、国民の関わりしらないところで、都市銀行の10倍以上もの膨大な郵便貯金を一手に握っている経済システムは、国際的に見ても正常ではありません。
余談ですが、戦中の国民が爪に火をともすようにして貯めた郵便貯金は、戦争が終わり、日本の敗戦で貨幣価値が切り下げられたとき、紙くず同然になったことも、悲劇の教訓として心に刻んでおく必要があります。
 
以下は前号(64号、2005年4月28日付)からです。
 
新緑と大列車事故と硬直した組織
 新緑の季節ですが、連休前の嬉しい気分が吹き飛びました。100人を超える大量の死者、マンションのビル壁に突っ込んでぐにゃぐにゃに折れ曲がった車体・・・。その日、悪夢でさえ見ることのないような凄惨な光景がTV画面に映し出されていました。
 これは、テロによる列車爆破だと、とっさに思った外国人はたくさんいます。通常の列車の脱線転覆事故では考えられないような壮絶な破壊だったからです。
 原因はいろいろ推測されています。直接、間接の複合的な要因の累積的な相乗効果によって、あのような悲惨な事故に結びついたことは確かです。
 しかし、全く制御不可能なレベルのスピードと線路のカーブの関係が放置されていたことは驚愕に値します。日本の鉄道の安全性とスピードの技術神話は、まさに大音響と共に崩壊しました。
それなのに、ことここに至ってなお、責任を他者になすりつけようと画策するJR西日本とは、いったいどういう会社なのか。いち早く置き石疑惑をマスコミに出すなどして、責任回避をねらった体質こそが、今度の事故を誘発した最大の原因ではないか。
記者会見で犠牲者へのお詫びを口にする幹部の言葉や態度からも、人間としての叫びが聞こえてはきません。淡々と文書を読み上げる紋切り型の役所の答弁のようです。100人もの人名を奪った会社の痛切な責任感が私たちに響いてはきません。運転士一人が悪い、とでも考えているのでしょうか。死者に口なし、死んだ運転士にすべての責任を負わせて、逃げきろうとしているのかもしれません。
ドル箱路線として私鉄との熾烈な競争のなかで経営効果を最大限に発揮する要請があったことはしかたありません。これは通常の企業競争のレベルであり、どこの会社もそのような企業パフォーマンスのなかで生き延びています。
しかし今回の事故で明らかになったJR西日本のありかたは、常軌を逸しています。少しのミスや時間の遅れを許さず、違反者には過酷な懲罰を課していたこと、睡眠時間を切りつめた運転士の勤務シフトは、安全運転を念頭に組み立てられているとは、絶対に思えないような過酷なものであることーーこうした断片情報を見ても、JR西日本が効率と利潤だけを念頭に置き、安全管理を度外視していたことをうかがわせます。
要は危機管理の不在です。それでいて運転士や乗客の命を犠牲にしても利益を追求するという暗黙の姿勢が、今度の事故の背景にあります。
利潤追求のその姿勢も経済学に裏打ちされた理性的、合理的なものではなく、硬直した社内ルールや規則や違反者への制裁や見せしめといった、閉鎖的で非人間的な仕業にみちたものでした。
古く閉鎖的な体質の大企業が、現代の変化する社会に適応しようとしても、うまく適応することができず、結局、自己破壊し自爆するのに似ています。
この事故は、JR西日本で起きた自爆のようなものではないか。大きな破壊があり突如、大量の人命が奪われたという点では、自爆テロと変わりません。
なぜもっと早い段階で、人間的な企業に脱皮し進歩する社会と共存してゆくことを考えなかったのか。というより安全性の危機管理のイロハすらできていなかったようです。慎ましい日常を生きていた犠牲者たちの命がこんな凄惨な形で奪われたことは、本当に悔やまれます。素晴らしい新緑を見ながら、目頭を押さえることしかできない無力感をかみしめています。 
しかしながら、考えてみるとこうした閉鎖的で硬直した大組織は、この日本に数かぎりなく存在しているのではないか。われわれの平穏な日常が、いつなんどきこのような形で引き裂かれてしまうのではないかと思うと、恐ろしいものがあります。
社会の敵は目に見えるテロや凶悪犯罪だけではありません。このような非人間的な仕組み持った会社や大組織は、私たちの潜在的な敵になりうるわけです。
最も人間性を重んじるはずの大学ですら、些末な校則に縛られて、ガリバーのように身動きできず、非人間的な体質を持ったところが稀にあります。教育の場で、主人公である学生の人間性や権利を認めないような隠蔽体質の教育機関は存在理由がないと思っていましたが、JR西日本のような企業体質を支える企業にとっては必要な人材であったことに思い至りました。しかしこうした間違った古い組織は、世のため、人のために、早く姿を消してほしいものです。
新しい時代の人材をいかに育てるかーーーこれが日本社会にとって最も重要な課題であることを、今度の列車大事故が教えています。
 
驕る平家・・日本型システムの終焉
 10年ほど前に、『日本型メディア・システムの終焉』という本を書きました。発刊当時は時期尚早の感じもあり、その本質は理解されず、メディア界や学会からも様々な批判を受けました。現実を指摘しただけですが、過激な書、という全く見当違いの批評までありました。
 いまライブドアとフジテレビの攻防を目のあたりにしていると、10年前に書いた日本型システム崩壊が、いよいよ現実化してきたことを実感します。(これについて、『潮』5月号に「メディア大買収時代の前哨戦」と題して書きましたので、参照してください)。
 インターネットのマルチメディア産業を目指すライブドアと旧来の日本型メディアを死守しようとするフジテレビの戦の行方-----もしもフジテレビが仮処分の裁判で勝ったとしも、それは一時的な延命装置のようなものであり、長期的に見れば日本型システムは解体の一途を辿り、やがては消滅する運命にあることに間違いはありません。流れに棹差してみても、好むと好まざるとにかかわらず、時代はそういう方向に流れています。
 現在、私は新たな視点から、『日本型メディア・システムの崩壊』本を書き直しています。フジテレビとライブドアの攻防には決着がついていても、メディア界にさらなる大混乱が予想される連休明けごろには、書店に出したいと思っています。
 
 メディア企業ではないが、西武の総帥の堤義明氏が逮捕されたのも、このような流れと無関係ではありません。驕る平家は久しからず、といいますが、一時は時代の先頭を走っていた堤氏の経営手法は、日本型そのものであり、家父長型の独裁政治でした。封建的な家系や血縁を重んじる自己中心的な独裁権力のありかたは、北朝鮮の金正日の政治手法と相通じるものがあります。
 堤氏の経営哲学は、民主主義と自由を標榜する日本の中にあって、極めて異質な存在のはずですが、本当は異質ではなく、その手法こそが実は日本型の特徴であり、シンボルでした。
 90年代に入り、欧米と経済摩擦を繰り返してきた日本のダブルスタンダードーー本音と建前の乖離、談合体質、閉鎖性、不透明で異質な日本、顔の見えない日本ーーーなどと様々に諸外国から非難されてきた日本型経営という名の日本システムのコアには、とてつもなく硬い堤型独裁のようなものが存在していたのです。
 しかし、外部の目からはその独裁の核は用心深く隠されてきたのです。堤型経営手法は、自由で民主的な偽装のもとに存在していたというわけです。
 そうした偽装のもとで、株式をめぐる違法行為が40年にも渡って続いていたのでした。これは驚くべきことです。
 しかも税金を払わないで会計の帳尻を合わせる経理手法によって、巨万の富を築いたのです。
 羊のようにおとなしく働くサラリーマンたちが、なけなしの給料から高い税金を天引きされている様子は、堤氏から見れば哀れで滑稽なものであったでしょう。
 その意味で堤氏は、税金にたかる政財官の癒着人種たちのお仲間だったのです。
 話をメディアに戻しましょう。
  フジテレビが堀江氏を番組から降ろすために、番組そのものを中止したことは、坊主憎ければ袈裟まで、のような子供じみた喧嘩に見えます。ラウンドテーブルで話し合うとか、意見を良く聞くとか、もっと大人の対応ができなかったのかと思います。逆にフジテレビのそうした対応の中に、自信のなさや狼狽が伺えます。
 日本型システムの特徴は、一口でいえば、隠し事が多すぎて透明性がない、何を考えているのかわからない、知らない人(人脈の外にいる人、アウトサイダー、外国人等)を排除して、身内意識で固める、というようなイメージで理解されています。経済でも、不公正やえこひいきの取引が横行する、となればグローバル・スタンダードから見れば、日本は厄介な存在になるわけです。
 敵対的買収というやり方をしなければ、硬い日本型システムの硬い殻を破ることができない、という考えがあります。日本社会には、”敵対的買収”が正当化される根拠があるわけです。
 NHK問題でもそうですが、組織や企業の透明化と説明責任は、もはや避けて通れないし、日本型の負の部分を清算しなければ、われわれは世界の中でサバイバルできません。情報産業のトップを走るメディア企業の責任は、一層大きいはずです。
 メディアだけでなく、会計基準の透明化、弁護士制度など、世界のグローバル・スタンダードを共同で設定しようとしているのは、アメリカと中国です。建築基準も同様だといわれています。
 こうした世界のグローバル化の動きに鈍感で、内向きの話題に終始する日本型システムが、重くわれわれの背中にのしかかってきています。欧米からだけでなくアジアの現代化からも取り残される恐れが出てきています。
 今回の堀江さんのやり方には、いろんな問題点と不透明性を感じます。しかし若い堀江さんが、きちんとしたメディア論、ジャーナリズム論を学んで深めることを期待し、今回のフジVSライブドアの戦いでは、ライブドアを支持しておきたいと思います。勝負の行方ということではなく、今後の堀江さんが何かをしてくれるのではないか、との期待をこめて、という意味です。
 
 なお、前号でお知らせしましたシンクタンク「現代メディア・フォーラム」創立に関しましては、様々な反響をいただき、有難うございました。
 現在、鋭意、準備中です。手始めに国際シンポジウムを開催する企画案も浮上しております。いずれ専用のHPを立ち上げて詳しい活動状況をお知らせしたいと考えておりますので、お待ちください。ご支援をよろしくお願いします。
 
 
以下は前号58号でお知らせしたシンクタンクに関する記事です。
 
メディアのシンクタンク創立
 これまで、私はこのフォーラムの形で日本のメディア批評を連載してきました。このHPでは、私の個人的な見解と分析を述べてきました。 しかし、NHKの問題の噴出、朝日新聞とNHKの喧嘩、ライブドアによるニッポン放送株の買占めなど、にわかにメディア界は喧騒の動きを見せています。AOLとCNNのタイムワーナー合併など、世界的にはメディアのM&Aは日常茶飯事ですが、日本語障壁と日本的ビジネス慣行によって手厚く守られてきた日本のメディア界に、激震が走るようになりました。
 第四の権力といわれるほど現代社会におけるメディアの影響力は強力です。しかし氾濫するメディアの権力をウオッチし、公正中立な立場でメディアを研究・分析する有力な機関は日本には存在しません。
 欧米では大学やシンクタンクがその役割を果たしていますが、日本の大学のメディア研究の基盤や人材は弱体で、シンクタンクもそのような機能を果たすことは出来ないでいます。
 これまでもメディア批評のレベルを超えた研究機関の必要性を痛感してきましたが、このたび、志を同じくする有志が集い、メディア専門のシンクタンクを立ち上げることにしました。現実のメディア界と社会に何らかの影響を与え、かつ大学の有り方やメディア研究・教育の現状にも一石を投じるのが狙いです。
 以下に趣意書を掲載し、この企画を公表いたします。なお、シンクタンクの名称は「現代メディア・フォーラム」(仮称)で、このHPと同じ名前になっています。しかし公正中立な研究機関としてのシンクタンクとこのHPは画然と区別したいと考えております。このHPは、あくまで私個人の(独断と偏見も含めた)メディア批評のコラムとしてこれからも続けてゆくつもりです。
 
 
 
 
以下は第57号(2005年2月9日発行)からです。
NHKはどこへゆく?
 NHKの海老沢体制の膿が噴出し、とうとう海老沢会長が辞任しました。遅きに失したことだと思います。エビ・ジョンイルと陰口をたたかれていた海老沢体制の問題点は、その独裁体制にあったことは明らかです。局員が海老沢批判をすると、数十分もすれば会長の耳に入るという恐るべき密告通報体制が敷かれていたのです。こういう恐怖政治はかの国の独裁者のやり方に似ているという意味で、エビ・ジョンイルという別名が冠せられていたのでしょう。まあ、NHKに限らず、日本の組織にはどこにもスモール・ジョンイルが跋扈していますがね・・・。
 国家社会の健康を保つためにも、そういう病魔は早く退治しないといけない。そういう話になりかけていたところでした。
 朝日新聞がNHKの内部告発に関するスクープを掲載しました。従軍慰安婦をめぐる国際法廷を記録した番組が、自民党政治家の圧力によって改変された、という内部告発の記事です。番組を改変されたというNHKプロデユーサーも記者会見しましたが、圧力をかけたと名指しされた政治家が、朝日の記事は事実無根と指弾し、NHKは政治家といっしょになって朝日を告発するニュース番組を展開しました。
 要するにメディア界ではよくありがちな、いった、いわない、という事件に過ぎないのですが、これによってNHK問題の本質のすり替えが行われ、朝日 VS NHKという巨大メディア同士の喧嘩という事態に発展したわけです。日本を代表する権威あるメディア同士の喧嘩ですから、当然世間の注目を集めます。
 だからこそ朝日新聞は、誤報を指摘した安部氏や中川氏の抗議やNHK理事者側の反論に対して、真摯な回答をするのが報道機関の義務であり、読者に対する責任です。
 しかし朝日とNHKの喧嘩に目を奪われてNHK問題の本質を見失ってはならないと思います。 
 国会で予算承認を受けるNHKの立場上、与党の政治家に予算の説明をするだけなく、番組の内容も説明するのは当然というNHK幹部の発言がありましたが、予算説明と番組の内容の説明を同レベルのものと混同していることに、驚きました。
 番組内容は、表現の自由に関することです。政治家に放映前の番組内容のおうかがいを立てることが、ジャーナリズムのやることでしょうか。
 こんなことは自由な先進国では前代未聞です。かの国のテレビ番組ならばそうするかもしれない。だからエビ・ジョンイルなどといわれていたわけです。
 イギリスの公共放送BBCがイラクの大量破壊兵器疑惑のニュースをめぐりブレア政権と熾烈な闘争を行い、会長を罷免されても闘ったことを、思い出してください。
 NHKだってBBCのような公共放送になるチャンスはあります。しかし、独裁体制の元で政治家に番組内容のおうかがいを立てているようでは、BBCのようになる見込みがありません。
 海老沢会長の後に続く人事や仕組みがまだ海老沢体制の残滓を引き継いでいるようだし、経営委員会の刷新といっても釈然とはしません。経営委員会にたくさん名を連ねている大学教授も多くは無名の人です。そういう人がどのような評価によって経営委員会のメンバーになっているのか、情報公開を求めたいと思います。
 NHKは国民から視聴料を集めることができなければ、経営的に立ち行きません。なぜ、国民はNHKに視聴料を払うのか、その根拠をはっきり提示する必要があります。テレビがあるならきっとNHKを見るだろう、だからNHKに料金を払いなさい、という論理に無理があります。
 NHKに料金を支払うための論理をNHK自身が整備し、国民が納得する根拠を示すことで、初めて支払い拒否の大津波を食い止められるのではないかと、思います。
 歴代のNHK会長は首相や自民党幹部と近い関係にあり、こうした政界のバックアップで会長に登りつめたわけです。NHKと言う組織が政界に密着している限り、BBCのような公共放送にはなれず、ジャーナリズムとしての機能も十分に発揮できないことは、確かです。
 
以下は第55号(1月7日発行)からです。
津波がイラクを越えた・・
 TSUNAMIという日本語が世界を駆け巡っています。スマトラ沖地震とインド洋の巨大津波は、イラク戦争とその後のイラクの混迷をかき消すような勢いです。犠牲者数は増えつづけています。
 まさに津波がイラクを越えた・・・、のです。正月明け、お屠蘇気分が抜けない日本のメディアは遅まきに特派員を現地に送り惨状を伝えました。
 しかし世界はすでに「救援システム構築」に動き出していました。日本のメディアはご多分に漏れず、日本人被災者にスポットを当て、その恐怖体験を語らせ、津波はこんなに怖く凄かったのだといった類の特集に終始していました。また、お宝映像よろしく、現場で撮影された被災写真やビデオテープのスクープが流されました。これは日本のマスコミの常套手段です。
 奈良の新聞配達員の幼女誘拐殺人事件やNHKの海老沢会長の辞任をめぐる情報、紅白歌合戦の視聴率が史上最低を記録したという話題に混じって、大津波ニュースは新年のTVワイドショーや新聞を賑わせました。ニュースの配列としても、無感覚で不謹慎なところがあります。
 日本のマスコミはニュースの視点、価値判断を考えることなく、読者、視聴者の不安や恐怖をあおるおどろおどろしいニュースを好みます。犬が人に噛み付いてもニュースではないが、人間が犬に噛み付けばニュースになる、というニュースの定義があります。
 日本のマスコミは馬鹿正直なほどにこの定義に忠実というべきでしょう。異常な事件、大災害、衝撃的でおどろおどろしいニュースに飛びつき、何でも呑み込みます。しかも取り上げられたニュースは社会的文脈や背景分析を欠いています。なぜそれがニュースなのか、その選択の視点を消し去る「客観報道」という名目のもとで、単なるホラー物語に変貌します。ニュースは社会性をなくしホラーと化してしまうのです。
 いま、何が重要か。ニュースを理性的に価値判断する能力がいまの日本のメディアから失われているのではないか。だから、NHKをはじめとする巨大マスコミの社内不祥事が洪水のように外部に噴出しているのではないか。ジャーナリズムの役割を放棄しているからそうなるのではないか。
 このたびの津波のニュースを海外メディアの報道と比較するとき、日本のメディアの劣化現象を痛感します。大津波と共に日本のメディアは崩壊している、との観を強くします。数年前に書いた拙著『日本型メディア・システムの崩壊』(柏書房)の現実化です。
 インド洋はわれわれの予想を上回るほどに、グローバル化しています。アンダマン島のように政治的な理由で近づけない閉鎖的な場所やスリランカのタミールの虎といわれる反体制派の拠点などが大被害を受けたと同時に、北欧のスゥエーデン、ヨーロッパ諸国、オーストラリア、アメリカ、カナダなど世界諸国からの観光客がリゾートにあふれていました。人間は国境に閉じ込められ、隔てられて生きているが、地震や津波には国境はなかったことを、改めて思い知らされました。さらには人間が築いた文明が自然の猛威の前にもろくも打ちのめされたのです。
 
津波和平の模索を
 海外メディアの報道の主流は救援のニュースです。15万を越える死者のほかに数百万の被災者の生命が危ぶまれています。水も食料も医薬品も圧倒的に不足しています。
 過ぎ去った惨禍にいたずらに浸り込むことなく、いかにして救援システムを構築するか、世界の協力と活力を伝えるのがメディアの大きな役割となります。世界中の政府・行政機関、国際組織、企業、NGO、ボランティア組織などが資金を集め、現地に入って救援活動を始めています。メディアはそうした動きをサポートし、詳細に伝えています。
 困難な世界に少しでも希望を与えるのが、メディアの役割です。日本のメディアのようにおどろおどろしい恐怖体験を伝えるだけでは、まっとうなメディアとはいえません。恐怖は人間に希望を与えないからです。
 国連中心の援助にするか、米国とその有志連合によるボランティア国家の援助を中心とするかで、国際世論の葛藤がおきています。このことも世界のメディアは伝えています。救援の主体はどこにあるのか?
 まるでイラク戦争開戦のときと同じ国際対立の構図が再現されているようです。しかしここは国連中心の援助が説得力があるし、世界も国連中心へと軸足を移しています。主導権争いをしている暇はありません。
 イラク戦争で権威を喪失した国連は復活のチャンスです。
 しかし、アメリカもパウエル国務長官とブッシュ・フロリダ州知事(ブッシュ大統領の弟)の軍用ヘリによる被災地訪問、クリントン前大統領、ブッシュ元大統領(ブッシュ父)の大統領経験者を動員して世界に義援金、救援を呼びかけました。
 大統領選挙では仇敵だった共和党と民主党は手を結び、あらゆる援助を惜しまない、アメリカは寛容な国である、というメッセージは米国の国際メディアを通じて世界にばら撒かれました。
 大津波は、国連の役割を高めると同時に、イラク戦争で孤立し苦境にあったアメリカの失地回復をもたらすかもしれません。アメリカが国連を重視して国際社会に復帰するチャンス、これがインド洋津波を契機に作られるかもしれません。
 一月末の総選挙が危ぶまれ、自爆テロも相次いでイラクの治安はますます悪化しているのですが、これらのニュースも津波にかき消されています。そこにアメリカの思惑があるかもしれない。
 しかしクリントンとブッシュ父のテレビ対話のなかに、「人為を越えた自然の力」を再認識するシーンがあります。人間が作った文明が全てではない、これを超えるものへの畏れが語られていました。大災害で人々が苦しんでいるなかで、人為の極にある戦争による破壊と殺戮がいかに馬鹿げたものであるかが、垣間見えてきました。
 アメリカの津波援助には顔が見えています。パウエル、ブッシュ弟、クリントン、ブッシュ父といった著名な政治家があえてリーダーシップを取って世界に呼びかけ、自ら基金を出し、救援を実践しています。インド洋各国の被災者たちは、いまアメリカが希望を与えていると感じています。
 こうした中で「津波和平」という言葉が語られています。世界が「津波救援と復興のプロジェクト」に参加し、イラク戦争をめぐって分裂した国際世論を修復し、敵対関係を改めようとする動きです。
 日本の援助金500億円はどのようにして現地に届けられ配分されるのでしょうか。援助金の額はアメリカを上回っているのですが、相変わらず日本の顔は見えていません。小泉首相は歴代のどの首相より外国人には知られています。しかしTSUNAMIの言葉ほどに小泉首相の顔は見えていない。また日本の消防、警察、自衛隊の人々が現地に入り救援作業を開始していますが、このことも海外メディアでは取り上げられていません。
 阪神・淡路大震災のとき、世界各国は日本を支援したのだから、今度は日本が支援してくれるだろう、との期待が高まっています。今度こそ、日本が何かをしてくれるのではないかと。
 ところがアジアで起こった大災害なのに、アジア全体のマンパワーの支援の輪は、欧米のような広がりを見せていないように見える。中国の医師団が被災者の医療にあたっているというニュースが知られている程度です。
 日本のメディアが内向きで、おどろおどろしい恐怖体験を伝えるだけで、外への発信力を失っているのも一因です。
 日本政府は巨額の援助金を出しながら、今回もまた「金は出すが顔が見えない」というおなじみの失敗を繰り返すのでしょうか。500億円の支援資金のもとは、われわれの税金です。国民はこの金の行方を監視する必要があります。
 日本からのマンパワーの活力やボランティア活動のために、政府や行政はNGOや民間の支援を呼びかけ、これをサポートするシステムを構築する必要がある。それが阪神・淡路大震災で受けた世界の恩に報いることではないでしょうか。
 すでにドイツは日本を上回る拠出金や支援を打ち出したから、そちらのほうが国際社会の注目を集めるかもしれません。ドイツをはじめ、ヨーロッパ諸国から集まった「国境なき医師団」やNGO、ボランティア組織が現地入りしています。このおかげで疫病の蔓延が食い止められているといわれます。
 津波がイラクを越えた・・。「津波和平」・・これからの国際政治は、「津波」をめぐって再編成されることになるでしょう。
 小泉政権はイラクの自衛隊駐留延長を決めたばかりですが、津波では、相変わらず顔の見えない日本が浮き彫りになっています。
 地震と津波の先進国日本の支援、協力を国際社会は渇望しています。我々には阪神大震災後10年の復興経験があります。神戸の町は見違える復興を遂げています。いま、インド洋の地震津波被災に対して日本がなしうることは山ほどあります。
 不得意分野である「自衛隊のイラク派遣」よりも、津波支援ははるかに日本の得意分野でもあるはずです。国際社会は自衛隊の派遣より津波支援を喜び、高く評価するでしょう。
 津波和平、津波支援は軍事を伴わないことだから、どのような拘束もなくできます。もって日本の平和主義を全世界にアピールし広めるチャンスにもなります。憲法を改正して軍事にいそしもうという日本の動向は、津波和平を目指す世界とは相容れないかもしれない。
 念願の国連安保常任理事国入りを果たしたいのであれば、日本は津波支援のリーダーシップを発揮し、「平和を構築するマンパワーの日本」を見せつける必要があるのではないですか。超軍事大国が動かしている国連安保理事会を、平和主義のパワーで変革する力量を見せるべきです。
 われわれはいまこそ考えなければなりません。顔をくっきり見せるとは、どういうことなのか? 超大国並みの軍事力を誇ることが顔を見せることなのか。軍事力が弱体だと外国から本当に侮られるのか? 
 アジアにおいて、「津波和平」のリーダーシップをどのように発揮しうるのか。今度の津波を契機にわれわれは、「自身の本当の顔作り」にとりかかるべきです。
 平和主義は、戦後日本のくっきりした顔の一部でありました。いま、「津波和平」に動く世界のなかで、この顔を再び生かすことを考えるべきです。
 
 
ヨン様と大学入試問題
 大学入試シーズンです。ところで、「ヨン様現象をフランクフルト学派の文化産業論をベースに批判的に論ぜよ」という問題が、韓国の私立大学入試問題に出たということです。
 もしこの問題を日本の大学の期末試験で出したらどうかと考えてしまいました。恐らく大学院レベルで社会学やメディア論を勉強している学生でなければ満足の行く解答は書けないのではないかと思います。
 韓国では高校レベルの教育でフランクフルト学派の哲学だけでなくメディア論にいたる系譜を教えていることに、驚愕しました。そうでないとこの問題は解答出来ません。
 ヨン様現象を論じることなら誰にでもできます。しかしフランクフルト学派の文化産業論を勉強した人でないと、何を書いても零点になるでしょう。ミーハー現象とは隔絶した理論武装が必要となります。
 フランクフルト学派とは60年代ドイツの社会科学・哲学者たちのグループのことです。マルクス主義の強い影響下にありながら、マルクスの経済決定論(下部構造と上部構造、生産関係論)に異議を唱えました。社会の土台となる下部構造の経済と生産関係が歴史発展の動因であり、文化や知識といた社会の上部構造は、経済によって規定される、というマルクス主義理論に対して、上部構造である文化や知識はメディアによって影響されるという考えを提起したのです。
 ブルジャワ革命によって誕生したメディア(新聞)は資本主義的退廃にまみれているもので、ブルジョワ階級の利益を代弁するもので、プロレタリア革命によって打倒される対象にすぎない、というのがマルクス主義の考えでした。従って、メディア分析に意を介することがないのが、正統マルクス主義者たちの考えでした。
 これに対してフランクフルト学派のユルゲン・ハーバーマスは、メディアの役割を「公共圏」のなかで位置付け、その影響力を認めました。メディアは私的な言論ではなく、公共の言論空間(公共圏)を形成して市民社会の世論を形成するということです。
 ブルジョワ革命(市民革命)は、経済の自由市場と言論の自由市場という両輪によって生まれたというわけです。
 しかしながらハーバーマスは、メディアの資本主義的退廃が進行することで、公共圏は侵食され消滅すると考えました。ハーバーマスよりさらに過激に「ブルジョワ公共圏に死の宣告を」と書いたのが、同じフランクフルト学派のアドルノです。アドルノも文化産業としてのメディア分析をしましたが、ブルジョワ・メディアには意味を認めませんでした。
 その後、米ソ冷戦が崩壊し、東欧やソ連邦が解体するなかで、ハーバーマスは東欧革命に西側メディア(特にテレビ)が果たした役割を再評価することになります。『公共性の構造転換』という本に、このことが書いてあります。
 また、ハーバーマスの「公共圏」論は、冷戦を勝利した側のアメリカでいま再評価が行われています。PUBLIC SPHERE という言葉で、メディア学者たちがしきりに使っています。
 アメリカの巨大なメディアのオーナー数は電話ボックスに入るくらいに減少してしまった、といわれます。5つくらいの巨大メディアがアメリカの世論を作っている、という危機感があります。
 こうした中で、インターネット新聞やBLOGが発達してきました。もう一度、市民社会のためになる「公共圏」を再発見し、市民に則した世論形成機能を担うメディアとジャーナリズムを構築する動きです。
 フランクフルト学派が提起した文化産業論は、「公共圏」の変動を伴いながら、現代によみがえっているのです。
 以上が、フランクフルト学派とメディア論、文化産業論のあらましです。もちろん、もっと深い分析を加える必要があります。
 こうした複雑な理論を大学入試にあえて出題し、しかも「ヨン様現象」というミーハー的話題にひっかけた問題に、驚愕したというわけです。
 これまで私が教えた経験からいうと、恐らく、日本の大学生でよほど優秀な人を除けば、ほとんどは解答できないと思います。歯が立たないか、問題の意味すら理解できないのではないかと思います。
 日本と比べ、韓国の高校生はレベルが高いのでしょうか?
 日本では数学や理科の学力が低下している、と報道されていますが、それ以上に、人文・社会科学分野の学力と思考力の遅れは甚だしいのかもしれません。よくいわれている歴史も同様です。古代や中世に比べると、大学生の現代史の知識は極めて貧弱です。
 早急な教育改革が必要です。このままでは、高度な知識社会に生き残る国際競争力のある人材は育たない。たまに優秀な人材がいても、出る杭は打たれて潰されてしまうか、海外へ頭脳流出します。
 一部の超一流大学は別?かもしれませんが、ほとんどの日本の大学では瑣末事務に教員が追われ、足を引っ張り合い、本当の教育と研究をおろそかにし、自閉症児のように知的な衰弱を深める日本の大学像が浮上します。ヨン様をあえて入試問題に出した韓国の私立大学の知的パワーを見ると、日韓の大学の著しい知的落差を感じます。
 日本の大学の抜本的な構造改革が必要です。知的な衰弱を覆い隠すために自閉的で旧式の道徳教育を口にし、従順なだけの学生を育てようとする試みが生まれます。スモール金正日的独裁がはびこります。
 文部科学省の役割も大きいのではないか。新設大学の認可条件はきちんと守られているのか、税金から拠出されている大学への補助金の運用、莫大な科学研究費の配分や使途は適切で妥当性があるか。これに関する隠蔽された各種データはあります。ここにも既得権益という権益の構造が見え隠れしています。こうした問題を監督官庁である文部科学省はどのようにチエックしているのか。
 そのうえ大学問題に対するメディアの関心も低いので、大学に対する世の中のチエック機能は極めて弱いのが現状です。
 何をどう勉強していいのかわからない、そういう学生がキャンパスにあふれています。指導が適切に行われていないので、学生が難民化してしまうわけです。学生が自由に学べる権利を保障する必要があります。そうでないと4年間で1000万円(下宿生)という巨額の学費をつぎ込む大部分の日本の大学生は、”歩く札束”に過ぎなくなります。彼らはバイトに精を出して払った学費の一部を取り返そうとします。
 ”衰弱する聖域”といわれる日本の大学に、かつての「知の府」としての知的パワーと活力を呼び戻す必要があります。でないと、人材育成と知的なパワーの源泉が涸渇空洞化し、日本は滅びるでしょう。
 私は小泉首相の構造改革路線は支持しますし、郵政民営化にも基本的には賛成です。このさい、大学の構造改革に思い切って挑戦してもらいたい、と思っています。
 
 
以下は第54号(2004年11月4日号)からです。
 ブッシュ再選の論理
 アメリカ大統領選挙でブッシュ氏の再選が決まりました。選挙戦で大きく二つに割れたアメリカでしたが、このフォーラムでも指摘したとおり、9.11のトラウマがいかにアメリカ社会にとって深刻であるかを、ブッシュ再選が証明しました。
 2004年の大統領選挙の最大の争点はイラク戦争開戦の是非ではなく、9.11トラウマとの戦いであったのです。日本人の多くの論者やマスコミはこれを軽視していました。世界の人々が外のイラクを見ている中で、アメリカの世論は内側を見ていたのです。
 ブッシュ政権を支えたネオコンが急速に台頭した背景には、9.11トラウマがありました。これについては、拙著『戦争報道とアメリカ』(PHP新書)で詳述し、同時に、9.11トラウマからアメリカを救出することが、最も重大なポイントだという主張もしました。
 イラク戦争開戦の理由になった大量破壊兵器は見つからなかったにもかかわらず、過半数のアメリカ人がブッシュ氏の開戦決断を支持したのは、9.11トラウマによります。トラウマは非合理的な感情です。しかし9.11の心理的な恐怖からアメリカを救済するものは、強い宗教的な信念と武力に頼るしかない、と多くのアメリカ人は考えた。自己救済の論理です。傷を負ったアメリカを救い、守ってくれる強力で頼りになる存在、そのシンボルがブッシュ氏だったというわけです。
 ブッシュ氏を支えたキリスト教原理主義者や同性愛結婚の禁止、妊娠中絶の禁止などを訴える保守層の倫理主義の拡大は、狂信的イスラム原理主義を掲げたテロリストの恐怖に対決する感情でしょう。
 そのアメリカ国民の決断が、理性的に正しかったのかどうか、4年後には再び結果が問われます。今回、アメリカのトラウマとの戦いから生まれたブッシュ政権のこれからの4年間で、外部世界がさらに悪化しないように、盟友の小泉首相はブレーキ役の自覚を強めるべきだと思います。
 小泉首相がブッシュ氏と親密であることは、いまや好ましいことです。マスコミや評論家の中には、”ブッシュのポチ”呼ばわりする人もいますが、親密であることが、すなわち”ポチ”であるとは限りません。
 日本社会でいう人脈とは、学閥や会社、先輩後輩や同期など利害にかかわる集団の枠組みの共有のことをいいますが、欧米社会でいう人脈とは、思想や政策、価値観、才能などを共有する個人的な関係のことを指しています。相互にレスペクトし合う関係が本当の意味での人脈です。だから、気に入った人をパーティに招待し、別荘に招いて食事を共にする。
 小泉さんは、ブッシュ氏の牧場にも招かれるなど、個人的な友情の絆が強く存在していると思います。
 この親密な関係をフルに利用して、今後はせいぜい説教役に回ってくれることを期待します。自衛隊の派遣をはじめ、これまでずっということ聞いてきた、今度はこちらのいうことも聞いてくれ、と。
 いまや世界のどの国の首脳より、小泉さんの助言のほうが説得力があるのではないかと、思っています。電撃的北朝鮮訪問でも見せた小泉さんの決断を評価すると、このフォーラムでも書きました。北朝鮮に関しては必ずしも、目先の利害や政権維持欲だけで動いたわけではなく、”思ったことをする”小泉さんは日本の政治家には珍しく、決断力や実行力のあるタイプだと思います。
 このさい、アメリカの大統領の補佐官のような役割を自認して、どしどしブッシュ政権にものをいい、ホワイトハウスに対する指導力も発揮してもらいたいと痛切に思います。アメリカは超大国ですから、内向きになって自分のことしか考えないようになると、世界にとって極めて危険な存在になります。ウオールストリートで蛾が羽ばたくと、ジャカルタでは激震が走る、という諺がありますから。
 
 
以下は前号53号からです。
読売新聞」研究
プロ野球の一リーグ制実現の動きに、待望の待ったがかかりました。
星野前阪神監督や阪神のオーナーから異議が出ました。この動きが拡大加速し、非民主的で専制的な一リーグ制への動きがストップすることを願います。
読売の渡辺オーナーの鶴の一声で球界再編とリストラの嵐が巻き起こるのかと、プロ野球ファンならずとも国民全体は暗い気分に沈んだと思います。
古田選手の呼びかけに、「たかが選手の分際でなにを言うか」とかライブドアの社長の近鉄買収の希望に対して「知らない人間に売却などできない」などという目に余る渡辺オーナー発言がトマホーク爆弾のようなパワーで続きました。その問答無用の態度は、民主主義や公正なビジネスに基づくM&Aといった自由社会の基本原理を踏みにじっています。戦前に育ったこの人は、言論の自由とか自由な市場経済といった自由社会の原則をまるで意に介していないように見えます。これは、近くて遠い国の独裁者のメンタリティに相通ずるものがある。
政治家や官僚、経済人たちが社会的な発言に気を遣い、記者会見では慎重に慎重を期した発言をしているのは、マスコミが怖いからです。マスコミに片言隻句の言葉尻をつかまえられて、袋だたきにあうことを恐れている。
ところが渡辺オーナーは、いわずと知れた大新聞「読売新聞」の最高実力者でもあります。彼はこういう”怖い大新聞”の威光を傘に着て傍若無人な態度をとっているように見られても仕方がない。
「たかが選手の分際のくせに」といった渡辺オーナーだって、もとは「たかが新聞記者の分際」だったのではないですか。
ジャーナリストが何様になりあがり、人様の身分がどうのといって話し合いもしないというのは、言語道断です。取材やインタビューする相手の身分が卑しいとか相手が気に入らないから取材はしない、なんてことは新聞記者のすることではありません。たとえ相手に気に入られなくても必要な取材やインタビューをするのが新聞記者の仕事であり、プロの努めです。
いま私が問いたいのは「読売新聞」の良識です。読売新聞は渡辺オーナーの老醜のような発言(いいたい放題)をいつまで許容しておくのでしょうか?
ギネスブックに掲載される世界一1000万部の発行部数を誇り、憲法改正論で国民に大きな影響力をもつ大新聞が、球界再編劇をめぐる国民読者の不信感を放置しておくべきではないと思います。
読売新聞は公正な立場で、渡辺オーナーの言動をチエックし、場合によっては批判すべきではないですか。言論機関としての読売新聞は自社の最高幹部をいかに批判できるのか、その勇気が試されていると思います。
読売新聞自身がこうした具体的な場で、開かれた民主主義と自由を守る気概を示すべきだと思います。
読売新聞への批判が少ないように見えるのは、人々が許容しているからではありません。大新聞ににらまれるのが怖いからです。特にメディアの前線で仕事をしている著名人たちは、仕事を干されることを恐れて、あえて沈黙しているのではないでしょうか。
私もメディア業界の一角で仕事をしている人間ですから、こんな発言をして、「読売」ににらまれ、声がかからなくなるだけでなく、子会社の月刊誌「中央公論」への執筆も出来なくなるかもしれません。しかしそこは「自己責任」で書いています。
世に「朝日新聞研究」の書は数ありますが、「読売新聞研究」の書はそれほどありません。これを機に「大新聞・読売研究」が盛んになり、日本のジャーナリズム界が多事争論で活性化すれば、禍転じて福となす、ことができるのではないでしょうか。
 
以下は前号(52号、6月1日)からです。
追悼・橋田信介、小川功太郎氏
日本のジャーナリズムはかけがえのないジャーナリストを失いました。襲撃したゲリラがどのような勢力の人物だったにせよ、二人のジャーナリストを殺害して得られたものは何もないことをゲリラ側に知らせなければなりません。国境や民族の壁を越えて真実を報道しようとするジャーナリストを殺害する行為は、非文明、野蛮そのものです。自由なジャーナリストのいない国が、いかに暗黒の世の中を作ってしまうか、よくよく教える必要があります。
近代の文明社会は、ジャーナリズムの役割に関する合意を、国境や民族、敵味方を越えて作り上げてきました。国境なき医師団、国境なきジャーナリストたち、という言葉があります。しかしイラクの戦場ではこの暗黙の合意が破壊されました。
橋田さんらが戦闘に巻き込まれ、流れ弾に当たって亡くなったのであれば、まだしもあきらめがつきます。しかしこれは狙い撃ちです。
イラク戦争は、ベトナム戦争に次いでジャーナリストの犠牲者が多いのが問題視され、急遽、「国際ジャーナリスト安全協会」(本部・ブリュッセル)が設立されました。米軍の誤射によるジャーナリストの死者がことのほか多かったからです。
しかし今回はゲリラの襲撃によるものであり、誤射ではありません。
橋田さんたちはどちらかといえば、米国に批判的でイラクや中東地域にシンパシーをもって取材活動を続けていたはずです。むしろゲリラ側の主張にも耳を傾ける人たちだったはずです。
いったいゲリラはジャーナリズムの役割も知らず、その活動の何たるかも顧慮することなく銃を乱射したのだろうか。
橋田さんは、ベトナム戦争取材体験をもつ数少ない日本人ジャーナリストでした。ベトナムからカンボジャ、アフガニスタン、コソボ、湾岸戦争、パレスチナ・・と20世紀後半の戦場を渡り歩きました。その戦争取材の軌跡は、文豪アーネスト・ヘミングウェイに匹敵するほどです。
戦場取材の最ベテランです。だから、優れた勘の持ち主だった橋田さんほどの人が殺されるなど想像できませんでした。
それが無残に殺されたことは、イラクがいかに混迷し、治安が悪化しているかを物語ります。
橋田さんといえば、思い出すスクープがあります。湾岸戦争のとき、バグダッドを目指さずにあえてイランに潜入し、イランの空港に集結していたイラクの戦闘機の写真を撮って世界に配信しました。このスクープはペンタゴンの「砂漠の嵐作戦」にも影響を与えたといわれます。
日本人記者が外国人記者に混じって世界的スクープをものにするなど、通常は考えられません。それをフリーの橋田さんがやってのけたのです。
橋田さんの甥の小川さんはNHKのディレクターを辞めて、フリーに転じたジャーナリストです。その志は尊いものだったし、こういう人こそ日本のジャーナリズムの発展に貢献するはずだと思っていました。志半ばで斃れました。ざぞかし悔しかっただろうと思います。
橋田さんは、著書『戦場特派員』(実業の日本社)の後書きで、妻の幸子さんが、本の最終チエックをしたことに触れ、「本の最終責任は私ではなく、妻にある」といったら、「自分勝手なんだから!」と叱られた。」と書いている。そして、「もう半生もいわれてきたので、著者としてただただうなだれて反省の日々を送るのみだ」としめくくっています。すべての覚悟はできていた、という人生ではあろう。
「自己責任」という、今はやりの言葉を橋田さんご夫婦は身を持って示しつつ生きてこられたのだと思います。これからは、この言葉をそう簡単に気軽に使わないでほしい、という思いでいっぱいです。
 
 
小泉訪朝をめぐるメディアの混迷
小泉訪朝によって拉致被害者の家族が日本に来ました。
これ以外にも、横田めぐみさん、有本恵子さんら死亡したとされる人の生存の可能性が指摘されています。それを願います。
ところが、今回の2度目の小泉訪朝の意義に疑問符をつきつけるメディア界・コメンテーターの風潮があります。異を唱えるのはいいが、井戸端会議の喧騒を地で行くようなものが多い。情報源も明かすことなく(というより情報鎖国の北朝鮮問題をいいことにして)思い込みや想像で話しているような言葉のオンパレードなのです。プロの技とは思えない。
事実を確認した上でのコメントではなく、ピョンヤン空港に出迎えた北朝鮮政府の役人の格が低かっただの、首相の顔色がどうとか、大同江の迎賓館が辺鄙な場所にあるーーなどの理由で小泉首相が軽んじられたーーというふうな論評にいたっては、軽率を通り越して噴飯ものではないでしょうか。
このような論評を「北朝鮮ウオッチャー」と称する専門家が行っている日本のメディア界の非知性主義を憂えます。それほどに日本のメディア界の人材の層は薄いのか。
私も北朝鮮を取材した経験があります。その苦い経験からいって小泉首相が拉致された人の一部を帰還させ、その家族も連れ帰ったという事実は極めて重いと考えます。いくら分析や批評を繰り返し、自説の正統性を誇示しようと、現実に拉致者された方々を取リ戻し、日本に連れ戻すことができなければ何の意味もありません。「夢想」で人間を取り返すことはできません。
外交、と金科玉条のようにいう人がいるけれど、拉致された人たちの命がかかっています。生存者を1人でも素早く取り戻す。そのためにはメンツにこだわることなく何度でも出かけてゆくーー小泉首相のそういう勇気と決断はもっと評価すべきだと思います。まだ解決していない拉致家族の怒りは理解できますが、世論調査では70%以上の国民が評価していますから、メディアや評論家よりも国民のほうが物事がわかっているように思います。
この国では、何もせずに批評し、行動して何かした人をこっぴどく叩くことで権力を維持している人間集団があります。何もしない人間が権力装置を動かし、何かした人間を排除するシステムです。無能な人間が有能な人間を潰すシステムといっていいでしょう。
そういう人種は、政治家、メディア関係者、学者をとわず、嫉妬に狂ったようにして行動する人間を叩くのです。このような風潮は90年代の平成不況の進行とともに深化しました。
夜郎自大というが、いまの日本が世界でどのような評価を受けているのか、もう少し自覚した方がいいでしょう。政治3流、経済2流、学問、教育(一部自然科学系を除く)番外・・です。そうした中で、トヨタと小泉首相とカンヌ映画祭で受賞した少年だけが海外評価の日本人としては突出しているのです。
歴代の首相も外交努力はしたかもしれないが、拉致された人たちを取り戻すことはできなかった。メディアも様々な北朝鮮報道を行ってきたが、被害者の帰還と救出には結びつかなかった。
外交、とは成果至上であり結果主義です。机上の外交など大学の国際関係論の空論にまかせておけばいい。
小泉首相の行動と方法論には様々な批判があります。時期尚早で詰めが甘かった。衆院選目当ての人気取り、権力基盤の維持、年金未納問題隠し・・何でもいえるでしょう。またそういう要素がなかったともいえない。だからといってどうか・・という問題です。
まずはその成果を素直に認め、次のステップと交渉につなげることが国民的な合意として重要です。生きて帰還した人のことを喜ぶべきです。
米国ではイラク捕虜虐待問題が次々と暴露され、ブッシュ政権は深刻な危機に陥っています。
それに比べれば、日本にはまだ少しの「希望」が作られたのではないでしょうか。さらに多くの生存者を探し出し、もっと多くの被害者を取り戻す努力を国家と国民は続けるべきです。その延長線上に拉致問題と核問題の全面解決の道があるのではないか。
小泉政権は、いつまでもブッシュ政権によりかかっているべきではないし、東アジアの平和と安全保障のリーダーシップをとる必要があります。小泉訪朝をその重要なステップにしなければなりません。
見返りの援助にまつわる瑣末なことで揚げ足をとり、人格を貶め、成果まで奪い去るようなメディアの振る舞いは、言論の自由の悪しき「履き違え」ではないか。一国の首相の面子をそうまで潰してしまっても、得るものはありません。その結果は国民にはねかえるだけでしょう。結局は、日本人であるわれわれが、理性亡き国民として、世界から蔑まれることになります。
 
一寸先は闇、未納問題のX=F(α)
一寸先は闇、といいますが年金未納問題が、予想外の展開を見せています。与野党の有力議員たちの名前がこれほど出るとは思いませんでした。しかし国民全体の4割が未納というデータからすれば、意外な数字というわけではありません。月額1万3千円が惜しい・・議員もそういう普通の人であることが証明されただけです。国民はますます猜疑心が強くなり、小泉首相は本当に大丈夫だったのかな、などと考えているわけです。さらに民主党がこれほどまでに追い込まれることなど、まったく予想できないことでした。スキャンダルによって日本の政治が揺さぶられています。
未納者リストを作って、ここ一発の政局の混乱を狙ってマスコミにリークした人がいたとすれば、思惑がまさに的中したことになります。
 ところで、年金問題は構造改革路線の一環として、道路公団改革や郵政民営化の政策と同じレベルで出てきた問題です。しかも国民が払いつづけてきた莫大な年金資金が、素人的な投資やグリーンピアとかどこかの膨大なリゾート施設とか官僚たちの棲家や退職金、交際費、お車代など、わけのわからない使途のなかで消滅していった悲しむべき事実は、いまだに明らかにされていなし、その責任も定かではありません。
将来、年金が戻ってくるかどうかよりも、いまが年金の危機であることは、明らかです。消えた金をきちんと戻しておけよ、というのが国民の大なる声です。まず消滅した公金をどのように補填するか。その公的な責任を誰が取るのか?
未納議員の中には、確信犯的な人もいるかもしれませんが、手続きミスやルーズさでそういうことになったケースが多いのではないかと推察できます。私も厚生年金、国民年金、共済年金などの制度間を行き来した1人です。手続きの過程で年金手帳を紛失しました。どこかに預けた手帳がなくなってしまったというわけです。そうこうしてる間に住所変更すると、前のところでしていた銀行引き落としが無効になり、気がつくと未納期間が発生していたこともあります。
ともかく、一生同じ役所や会社で過ごしたことのない人間にとって、いまの年金制度がいかに煩雑でユーザーを無視した制度であるのか、痛く実感できます。
従って未納議員の未納にいたった理由はある程度、私には理解できます。とはいえ新しい年金制度を作る人たちが、未納だったことが判明したいま、国民の広範な理解を得ることはできないでしょう。福田さんも菅さんも辞任はやむ得ない。
ところで、どうして年金の一元化ができないのでしょうか。一元化すれば手続きミスの未納はなくなります。恐らく、一元化することで暴露される問題が潜んでいるからではないか。
いま、メディアがやるべきことは、なぜ一元化できないか、この問題のはずです。テレビ朝日の「サンデープロジェクト」で、小泉首相が田原総一郎さんの質問を受けて、「年金一元化が望ましい」発言をしたことが、ものすごい政官界のリアクションを招きましたが、なぜそうだったのか。
「年金一元化」をいうことがタブー視されている本当の理由はどこにあるのか、マスコミはもっと解明してほしいと思います。特に「調査報道」ができる大新聞は腕の見せ所です。スキャンダルの渦に深深と巻き込まれているだけでいいのか。
未納問題のリストを掲げて、未納議員を攻め立てるだけが能ではない。それによって見失われるものがたくさんあります。”消えた年金”の本当の問題点が、闇に埋もれる危険があります。膨大な国民の金がどこに消えたかが、年金制度を一本化することで、明らかになります。
 
腐敗が表に出る。だから一本化したくないと考える一握りの人間がいる。政財官の癒着した集団で、そういう人間たちは遠の昔から、未納者リストを用意しており、ここぞという時期を狙って出してくる。スキャンダルを作る。
その陰謀にマスコミも政界もひっかかり、かき回されている。あげくの果てに、やっと誕生するかに見えた日本の二大政党制の行く末にも、暗雲がかかり始めた。自己利益のために、日本の民主主義すら踏みにじってはばからない。こんなことを許しておいていいのだろうか。それこそ、「国賊」である。
あまりのことに、わたくしは以上のような、推理小説を書きました。タイトルは『未納問題X=F(α)』です。
Fの関数をいれて、αなる登場人物を書き込めば小説は完成します。
 
 
以下は前号(49号)からです。
 ラスト・サムライ
 アメリカでは、イラクの混迷と大量破壊兵器情報の疑惑をめぐり、大統領選挙の行方が緊迫度を増してきました。フセインが捕まったとき、これでブッシュ再選は固い、大統領選はゲームオーバーだという観測がCNNなどでしきりに伝えられました。しかしブッシュ政権が大量破壊兵器疑惑で嘘をついていたという世論が盛り上がり、事態は予断を許さなくなりました。現在の世論調査では、民主党のケリー候補がブッシュ氏をリードしているようです。
 ケリー候補は「あの戦争を期にアメリカは2つの国に分裂してしまった。もう一度アメリカ人はひとつにまとまろう、偉大な国を取り戻そう」と訴えています。超軍事大国のアメリカ社会は、ますます亀裂を深めているように見えます。いまや、アメリカと世界の運命は今年の米大統領選挙の行方にかかってきたのではないか。
 前号で「救米」といいましたが、映画「ラスト・サムライ」を見てその観を強くしました。武力によって建国を果たしたアメリカ人は、その武力がもたらした罪の意識で心の分裂に悩み、魂の癒しを求めている。 ハリウッド映画の常套手段だった日本描写の特徴ーーふんだんな東洋趣味といくぶん見下した表現ーーが影をひそめました。
 この映画は日本人を同じ目線で見ています。アメリカ人から見た日本は異文化ですが、日本人から見たアメリカもまた異文化である、という認識が伝わります。その意味で、同じ目線なのです。
 戦闘の描写に荒々しいところがあり、日本の史実に関しては無茶な部分があるにもかかわらず、人間の描写には優れたところがあります。
 そこに存在する日本のスピリットの中に素直に身を置くことによって、魂の救済を感じ、心の癒しを発見するアメリカ軍人(トム・クルーズ)の物語です。戦争に疲れた米軍大尉が明治維新の日本軍の軍事訓練にやってきて、政府に雇われるが、維新に反逆する日本武士(渡辺謙)に出会って、サムライ精神(武士道)に惹かれ、武士道に帰依してゆくというストーリーです。人間はいかによく死ねるか、死に方の美学を求め、それを日々実践するのが武士道だということを知ります。あらゆる夾雑物を除き、華奢や贅肉を殺ぎ落とした簡素でつましい日常生活の中で、ひたすら剣の修行をする。それが武士道です。
 武士道の剣は武力で相手を倒すことを目的にした覇道ではない。人間の魂と名誉(価値)を守るものだ、と悟り、新兵器の砲弾の中を剣を抜いて駆け抜けます。戦争には敗北し、味方は全滅しますが、サムライは命と引き換えに名誉を守ります。守るべきもののある死は敗北ではないのです。
 私は若いころ、剣道をしていたことがありますが、竹刀を握る手の掌は、小鳥を抱いているように優しい気持ちで刀を使うようにと、教えられました。相手を打ったとき、掌の小鳥を殺してはならないと。激しい剣のぶつかり合いのなかで、そのことを不思議に感じていました。
 建国以来、アメリカ合衆国はいくたの戦乱を経て、おびただしい人間の血を流してきました。インディアンの掃討戦争の話が、大尉の原罪を思わすフラッシュバックのシーンで出てきます。
 そこからは9.11の傷のイメージがダブってがよみがえります。人殺しとは無縁の心の優しい人間でも、無差別テロに会えば死んでしまうし、ひとたび戦場に行けば敵を殺す殺人者になります。
 イラクへの自衛隊派遣を、国連のアナン事務総長は一定の評価をしました。確かに、聞く耳をなくして世界から孤立を続けるアメリカを国際社会や国連に復帰させる企ては重要です。開戦には反対でも、すでに戦争が起こり破壊と混乱と無秩序を作り出されたイラクを、国際社会は放置しておくことはできません。イラクの復興と復旧への助けを誰かがしなければならない。その意味で、日本の自衛隊が何らかの役割を果たしてほしいという、アナン氏の願いはよくわかります。
 そうであったとしても、武装して外国にでかけて武力を行使することには、日本の武士道はなじみなせん。いくら人道支援、復興支援といっても、自衛隊が軍であることに変わりはない。遠いイラクの地で何を守るのか。わざわざ自衛隊が出かけていってまで守らなければならない「日本の名誉(価値)」とは、何なのか。アナン事務総長が評価したとはいえ、日本人としては、やはり釈然としないものが残ります。
 「アメリカとの同盟」とか「国際貢献」とか「北朝鮮の脅威」をふりかざすだけでは、われわれの疑問を氷解させる説得にはなりません。
 武士道の本家の日本人としては、イラクの地で命と引き換えに守るべきものとは何か、をきちんと示してほしいものです。それを国民に明確に示すのは、この国のリーダーの義務です。
 人の命は「公務」にも「業務」にも還元できないものです。平和が続いた戦後日本で、そのことが忘れられているようで気になります。命には死が宿っているがゆえに命は尊い。そういう命の尊厳が実感できなくなりました。インフルエンザで死んだ鶏肉を黙って全国の市場へ供給した京都のブロイラー業者の所業は、まさにその象徴です。
 アカデミー賞を逸したとはいえ、「ラスト・サムライ」は、われわれ日本人に死を見つめさせ、生きることは良い死に方を探すことだ、という人間の道理を教えてくれました。これは戦後の日本人が長い間、忘れていたことです。
 現代の仏教は葬式仏教といわれていて、死者の葬式の仕方を教えてはくれますが、人間の生き方を教えてくれているとはいいがたい。宗教法人を隠蓑にして、欲や金儲けに余念のない”生臭坊主”や”エセ宗教者”がはびこっています。オウム真理教の犯罪もそのような世紀末日本を象徴した事件でした。
 このような現代人の心の闇と宗教の隙間を「武士道」が埋めてくれているのだと思います。「死が見えない文明社会」で人間はいつまでも生きているような錯覚にとらえられていますが、例外なく人は皆死にます。無に帰する死後はなるほど平等かもしれませんが、人の生き様は決して平等ではありません。
 
 
            
憲法って何だ
 拙著『戦争報道とアメリカ』(PHP新書)のなかで、「反米」「従米」に対して「救米」という考えを提起しました。聞く耳をなくしたアメリカを救うことなく、我々も世界も救われないと考えるからです。世界にとってアメリカの影響力はそれほど深刻なものです。さらに、自衛隊のイラク派遣に際して、「国民にその覚悟を示す道徳的な根拠の提示は、憲法論議の政治的、党派的な論議の前に霞んではならない」とも指摘しました。
 われわれはアメリカのいいなりで自衛隊を出し、それによって憲法を踏みにじっているのではないか、という被害妄想が国民の間に広がっています。こうした国民感情のもとでは、命をかけてイラクへ行く自衛隊員は報われないし、9.11ショックの後遺症からアメリカを救出することもできません。ましてや現在、日本はやっぱりアメリカの属国なんだ、という投げやりな国民感情が蔓延しているのです。
 フランスの文学者シャトーブリアンは、こういいました。「憲法が言論の自由を与えたのではなく、言論の自由が憲法を与えたのだ」。フランス革命後の、共和国憲法のことです。憲法は現実の社会的存在であり、それが社会で生きた呼吸をしているからシンボルとしての意味がある、ということです。憲法はイデオロギーではありません。逆にいえば、その社会で生かせない憲法には、もはや存在意義はないということになります。いまの日本をシャトーブリアンのようにいうとすれば、どうなるか。すなわち、「憲法が平和を与えているのではない」。また「平和を獲得しなければ平和憲法も獲得できない」ということになるのだと思います。
 従って文言として、「憲法を守るとか変える」という話は、神学教理問答にすぎないことになります。憲法解釈上問題はないというのも、同様の経典解釈学にすぎない。いったいいま「日本国憲法」の何が問題なのか。「憲法とはわれわれにとって何か」。それはイデオロギー的な教義となっている法典を指すのか?
 われわれは半世紀、この問題を深く問うたことはありません。現行憲法は、「占領下にGHQに押し付けられたものだ」という話にすりかえて、議論の主体性や責任を放棄するのです。このような「憲法無責任体制」のなかで行われる憲法論議には、「憲法を守る」「変える」「解釈する」という3つのパターンしか現れないのです。この3つのパターンの論議に共通するのは、そのときどきのご都合主義であり、論議する人間の利害得失がからんでいる点です。その軸足はご都合主義によって左右自在に揺れ動きます。さらには、「自分たちが主体的に作ったものではないが、法だから守らなければならない」という機械的な法律至上主義に陥ります。法の内実ではなく、機械的に守る姿勢は、どこかの独裁国家のような法体制へのニヒリズムを生みます。
 例えば「改憲論」を見ても、自主憲法制定論から現行憲法の手直し・修正論にいたるまでの大きな幅があります。核武装して米国の軍事的影響力から離脱、天皇中心主義の民族国家を作りたいというテロリストまがいの右翼団体から、PKOや国連平和維持活動の一環として自衛隊を海外に出せるようにするという主張にいたるまで、大きな差異があります。
 戦前の日本の国体は「天皇制」でしたが、戦後の国体は「憲法体制」でした。敗戦のポツダム宣言受諾時に日本側が一番こだわったのは、「国体護持」つまり「天皇制護持」でした。いまの与野党の論議と論壇を覆っているのは、いかにして「憲法体制」を護持するか、というアジェンダです。抗えない外圧によって日本が危機に瀕したとき、国体の中身は違うにせよ、いつも浮上する議論のポイントは、「国体護持」なのです。
 「憲法体制」の護持、といいながら、憲法の原点となる精神をどこに定めるかという軸足は定まっていない。貴族出身のシャトーブリアンは、たとえ共和国憲法は嫌いだったにせよ、「言論の自由」の価値を原点にすえてものをいっています。
 戦後、「平和憲法」を金科玉条としてきた日本に、どれだけの深さの「言論の自由」が根付いたかというと、大いに疑問です。朝日新聞阪神支局で記者が殺傷された恐るべき言論テロでも、犯人の陰すら見えないまま、時効になりました。最近は、「建国義勇軍」による言論の封殺とテロ事件が摘発されました。
 「言論の自由」もGHQが押し付けた「憲法21条」に書いてあるにすぎないからでしょうか。日本は外国のテロに反対しながら、内輪の言論テロには甘いところがあります。
「自衛隊イラク派遣で、戦後政治の枠組みが大きく変化する」、とマスメディアが伝えています。確かに「憲法第9条」には、小学生が読んでもわかるような、「戦争放棄」の文章が書いてあります。いろんな解釈の方法を駆使しても、イラクへの自衛隊派遣は限りなく「違憲である」と誰にもわかります。しかし、今回はいろんな条件をつけながらも「派遣やむなし」という方向にタカとハトの新聞論調も、おおむねそろってきています。アメリカを慮るという点では、日本のメディアのタカ、ハトはあまり違いがないことがわかります。のっぴきならなくなる憲法論議を避けている。
 なぜ、アメリカを慮るかというと、だれしも分かるように北朝鮮の脅威といった”お家の事情”があります。むしろ日米同盟を強化しておかなければならない。こうした日本人の利害得失の本音が、「国益」という大義にすりかわり、憲法の条文には反しても、アメリカの要求を受け入れるという方向を是認している。しかしながら、北朝鮮の脅威だけがイラク自衛隊派遣の最大要因なのかというと、そうとは断言できません。やはりここは戦後の日米関係のリアルな投影をみなければなりません。外交と防衛をアメリカに依存してきた現実を直視すべきなのです。さらにはペリー来航時から続くアメリカの東アジア戦略を検証しなおす必要があります。
 現在、北朝鮮脅威論と憲法論議の陰で、「派遣される自衛隊員」のことがおきざりにされています。当事者の身になる、ということがないのです。法のニヒリズムというか、規則の冷たさが露呈している。規則を細かく定めて、解釈可能な憲法違反にならないように心を砕く暇があるなら、もっと当事者の身になって物事を判断すべきではないか。憲法との関係をいいつのって、彼らが「軍人」であることを必要以上に否定的に扱って許されるのだろうか?
 自衛隊員は、「戦場における非戦闘地域」に赴任し、「武力」を行使せず、「イラク民衆のための人道支援と復旧作業」を任務とする、ことになっています。しかし地政学的に見れば、イラクはまぎれもなく戦場です。にもかかわらず、「戦闘」が起こればすみやかに戦地から逃走しなけらばならず、場合によっては「オランダ軍」に守ってもらうという。こんな馬鹿げた話はありません。いったい、自衛隊とは何で、何をしにイラクへ行くのか。まずますわからなくなるのです。
 あえていいます。もしも憲法がどうしてもいまの日本にとって”邪魔”になっているのなら、小泉首相は国家の最高責任者として、極論すれば、「一時的な憲法9条の停止」を宣言してでも国民に自衛隊イラク派遣の重要性を説明し、国民の理解を得るほうがよほどすっきりします。アメリカは9.11で傷を負い、国際世論の反対を押し切って戦争に走っていった。そのアメリカと固い同盟関係に日本があるのなら、国際貢献とか北朝鮮の脅威との取引で自衛隊をイラクへ出す、という釈明はご都合主義であり、稚拙ではないかと私は思います。身を挺してアメリカをいかに説得するか。国益というなら、その思想的な根拠と決断の背景をまず説明すべきなのです。
 戦後の平和主義の枠組みをいまの憲法下で改変することは、手続き上も極めて難しいことです。自らは一切傷をおうことなく、そのようなことができるとは思えません。しかしここは憲法、すなわち戦後の国体が一時的に傷を負うことを覚悟して、その覚悟を国民に説明し、もってアメリカとの同盟関係を語るほうがよほど、小泉さんの勇気と覚悟のありかを示すことができます。
イラクへ行く自衛隊員がまさかのときには十分な行動がとれるように、あらゆる制限を取り除くの責任があるのではないか。解釈論で逃げて法のニヒリズムを蔓延させるよりは、そのほうが国民へのダメージは少ない、と私は思います。日本では自衛隊というが、外国からみれば立派な軍隊です。しかし日本には平和主義の憲法があるというメッセージをいかにして世界に発信できるか。ここに21世紀日本の命運がかかっているのだと思います。
 日本国憲法は、戦争放棄や天皇規定を除けば、お手本になったアメリカの憲法とよく似ています。両国の憲法は「硬性憲法」といわれ、具体的な規則というより、理念や思想や理想が書かれています。従って変えにくい憲法です。アメリカでも憲法の修正は困難であることを、ウォルター・リップマンが述べています。日米の憲法の性質は、修正が容易なドイツなどの憲法とは違うのです。アメリカは、建国者たちが作った憲法の文言によっていまでも支配されていると、リップマンは憤懣を述べています。彼らが書いた理想論には逆らえないからです。しかし、現実の社会は建国者たちが描いた理想からどんどん逸脱し、複雑で解決困難な難問をいっぱい生み出しています。矛盾と非合理と暴力に満ちた現実社会を救済するには、憲法の理想だけ唱えていてもむなしいだけだ、というリップマンの気持ちはわかるような気がします。彼は、第一次世界大戦後の世界とアメリカの混乱と矛盾を前に、『世論』という本を書きました。
 憲法を国民の精神的な拠りどころにすることが最も重要であり、憲法に対する懐疑とニヒリズムをこれ以上、日本社会に蔓延させるべきではありません。少なくとも、いまの憲法は、国民の自由と民主主義と基本的人権を守ってくれています。
 日本はアメリカの属国ではないことは、憲法論を深めることで、自明にしてゆく必要があります。
 
 
以下は第47号(’03 10月25日)からです。
 
 中曽根、宮沢氏の”政治定年”は 民主主義の否定だ
アメリカのシンクタンクで仕事をした経験がある私は、日本の大学や会社や官庁に当たり前のようにある定年制に違和感をもっています。スポーツとか特別な肉体的条件が必要な職種を除けば、人間の能力を年齢で判定するのは、性や人種で人間を差別するのと同等の差別として、法的にも禁止されています。アメリカには終身雇用制度ではありませんから、能力に応じてレイオフなどはありますが、能力を評価された人物が職を辞する時期は、周囲の人の意見や勧告を参考にして自分で判断します。政治家、会社役員、大学教授などの 定年はあくまで本人が自己責任で決めるわけです。人間の能力は年齢では測れず、個人差があります。すべての人が平均寿命年齢で死ぬのではないのと同じです。
日本に定年制度ができたのは、戦中の国家総動員体制のころ、工場で若い労働力が必要とされていた時期です。戦時体制下でできた定年制は、民主的な制度ではありませんが、戦後の終身雇用や年功序列の企業システムを維持するために、そのまま使われた制度です。しかし終身雇用が崩れ自己責任時代の現代では、むしろ定年制度は自由社会の桎梏となりつつあります。能力が年齢で決定されるという社会は自由な民主主義社会ではありません。
政治家においては特にそうです。選挙という国民の付託を受けて政治家は存在しているのですから、政治家の進退の最終的な判断は国民にゆだねるべきことです。それが議会制民主主義の原点ではないですか。
私はこのフォーラムの前号で小泉改革は成功している、とややアイロニーをこめて書きました。特に自民党改革には成功していると。
しかしこれとそれとは別です。中曽根、宮沢氏が再度、総理になるとか大臣ポストや党の要職につきたいといっているわけではありません。彼らもそんなことは要求していない。もしも彼らが権力のある要職を要求すればそれは自民党の”老害”につながるかもしれません。しかしあくまで一議員、一政治家個人として自分の政治生命を賭けた仕事に取り組みたいといっている。一兵卒としてのライフワークに人生を賭けたい、といっている政治家(それもただの政治家ではありません、総理経験者のお二人は日本の戦後政治を代表する政治家で国際的にも高い評価を受けている)の志をなぜ、小泉さんは奪うのか。小泉さんをはじめとして、自民党若手と自認する人々が中曽根、宮沢の両政治家から学ぶべきことはたくさんあるのではないか。党の宝として大切にしなければならない貴重な人材なのに、年齢差別によって強引に解任を迫るなどの行為は国際社会の笑いものになります。なにか血迷っているように見えます。
もしも自民党の方針としてどうしても引退を求めたいのなら、もっとやりかたがあったのではないか。両氏の政治家としての功績をたたえる花道を用意することすらできないほど、選挙を前にした小泉自民党は焦っているのでしょうか。例えば今回は党公認で当選してもらい、そのあと引退の花道を用意して国会全体で二人を送り出す、というような儀式もできたはずです。中曽根、宮沢の両氏は互いに政治信条や思想は異なりますが、宰相としての見識や知性は、失礼ながら小泉さんよりはるかに優れた政治家ではないかと思っています。
政治家の定年制は、民主主義の否定であり、これが若さや世代交代を強調するための道具として使われるなら、社会的に見ても恐ろしいことです。ただでさえ若者優先社会で老人差別を助長するかもしれない。私はこの政治家定年劇を見ていて、ずっと昔読んだことのある深沢七郎『楢山節考』を思い出しました。貧しい日本の山村では老人を異界に捨てないと、若者がサバイバルできなかったのです。いまの日本は物質的には豊ではありますが、精神的にはまだ『楢山』にいる。そんな寂しい気分に襲われました。
 
 
以下は第46号(9月22日号)からです。
 タカの勝利? 小泉改革は成功している
国連施設への度重なるテロ攻撃などで、米英軍占領下のイラクの混迷は日増しに激しくなっています。イラク戦争の引き金を引いたアメリカのネオコングループとメディアの関係、自衛隊派遣で揺れる日本の立場を分析した拙著『戦争報道とアメリカ』(PHP新書)を是非ご一読ください。(この本はニューヨークの紀伊国屋書店で話題の書になっています。海外の日本人が関心をもって呼んでくださっていることは、筆者としてとても嬉しいことです。)
自民党総裁選がおわり、巷は一挙に総選挙モードに突入したようです。小泉改革は失敗だったという自民党内部、野党、マスコミ、評論家たちの厳しい批判にもかかわらず、小泉氏は総裁に再選されました。新幹事長には国民的人気の高い安部晋三氏を起用するなど、新たな戦略にうって出ました。これは自民党守旧派や野党への牽制人事でもあると思いますが、最も意識しているのは国内世論を味方につけるための小泉さん独特のメディア戦略ではないかと思います。小泉さんは自民党の守旧派や派閥政治が生み出した総裁ではありません。メディアが作った政治家です。小泉内閣は「ワイドショー内閣」といわれ、テレビが生み出した政権といわれました。世論の高支持率に支えられるのみ、という希薄な権力基盤を維持しながら、予想外の長期政権になってきました。だからこそ小泉さんはいま何が重要なのかをよく知っています。いささか陰りを見せ始めた小泉人気を安部さんの若さによって補おうという戦略です。しかし安部さんが若いといっても49歳という年齢は、クリントン氏が米国大統領になった年齢やブレア・イギリス首相、プーチン・ロシア大統領と比べても、誇るべき若さではありません。安部さんがいますぐ首相になってもおかしいという年ではない。まあそれほどわが国の自民党政治の老化現象が進んでいた証拠ではあります。
野党の管直人さんは、今度の小泉政権はタカ派の体質丸出しという評価をしましたが、考えてみると、何がタカで何がハトなのか。憲法問題や安全保障問題をとっても、与野党のどこに確固たる線引きの基準があるのか曖昧になっています。「改憲論」という視点から見ても、大きな相違はありません。冷戦崩壊によって、ハトとタカの基準は消滅しています。しいて言えば、テロとの戦いで強くアメリカを支持するか、そうでもない、という基準が考えられますが、これも濃淡、温度差のレベルです。あるいは北朝鮮に対する姿勢が強硬か少し柔軟かという点ではないでしょうか。しかしテロを黙認したり、北朝鮮の拉致を容認する政治家など有り得ないわけですし、米国に対する姿勢にしても、「是々非々」を決め込んで、観客席に座るにしては悩ましいものがあるわけです。
11月総選挙で、今度こそ本格的な二大政党の一騎打ちを期待したいのですが、小泉ー安部バッテリーがリードする自民党と管(小沢)ー岡田バッテリーがリードする民主党がどのような国民の采配と支持を得るのか? 楽しみにしています。しかし私はまたまた自民党(いまや自民党という名前のみかもしれないが)が、やっぱり延命してゆくのではないか。前号でも書いたように、自民党の延命によってまたしても「妖怪不死身の日本型官僚システム」がサバイバルするのではないかという、恐怖のシナリオがふつふつとわきあがってきてしまいます。
小泉さんの構造改革とは、しょせん橋本派潰しだったといわれていますが、いずれにせよ自民党の金権体質や派閥政治が機能不全を起こし、国対政治が陰をなくし、日本の政治風土が透明化してきたことは確かでしょう。野中さんの退陣は、日本の政治が「密室型」から「透明化」へと移行しつつあることを物語ります。
その意味で言うと、小泉さんの構造改革は、現段階では失敗どころか大いに成功していると思います。問題は、小泉さんを支える基盤がメディアがリードする世論(といってもテレビ的な大衆人気)にすぎない点にあります。大衆迎合とかポピュリズムといわれるように、そのような世論の動向がいつも健全であるとは限らないし、世論はしばしば過激になり間違いを犯すものです。その世論の間違いをチエックし是正するのも実はメディアの役割です。しかしわが国のメディアは、この世論チエック機能が、米国や欧州のジャーナリズムに比べてはるかに弱体です。
いまから80数年前、第一次世界大戦が終わったころのアメリカの政治は、新聞が作る「世論」によって大きく動くようになりました。新聞と世論の関係を論じた古典的名著がジャーナリスト、ウォルター・リップマンの『世論』です。これを読むと新聞の報道がいかに世論を右往左往させるかが描かれており、良い新聞(メディア)の存在こそが健全な民主主義国家の根幹となることを指摘しています。
わが国の政治文化は、メディアがリードするという意味で、このころのアメリカの状況に似てきたのかもしれません。
メディアと世論の関係を厳しく問い直すことは、わが国の政治や文化を考える上で極めて重大なテーマなのですが、自分自身の弱点についてメディアは触れることをためらいます。それゆえ影響力のある巨大メディアの正体は国民からは極めて見えにくいのです。政治や官僚機構がみえにくい以上に見えにくい。実は、言論の自由に守られた「メディアの聖域」には、手をつけなければならないメディアの構造改革が山積しています。現代社会におけるメディアの影響力の大きさを考えると、これは小泉政治改革と同等かそれ以上に重大なテーマなのです。
小泉政権の第二幕は、第一幕では手がつけられなかった官僚システムの構造改革に切り込むのでしょう。竹中さんが同じポストに止まったことはその意志を伝えてはいます。しかし小泉内閣が第二幕に失敗すれば、管(小沢)ー岡田バッテリーに政権委譲、という事態になるのではないかと思います。国民はどちらが政権をとっても構わないのです。本気でやってくれるかどうか、嘘をつかない政権であるかどうか、それだけが問題なのです。
構造改革の本格化と同時に、日本型メディアシステムの構造改革のほうも、着実に進行するはずです。そのとき既存メディアはこれまでのような「聖域」に安住していられるかどうか。少なくとも、メディアはその装いのなかに、嘘があってはならないのです。政治の嘘が改められようとしている時代だからこそ、メディアへの風当たりが強いのは当然です。(日本のメディア(新聞)のどこにどのような問題があるかを歴史的な背景から解明した拙著『日本型メディア・システムの崩壊』(柏書房)を参照してください。)
 
以下は前号45号(8月3日付)からです。
ニ大政党制の”日本的幻想”について
民主党と自由党が合併して自民党一党独裁に対決するということです。自由党党首小沢一郎さんの持論は「日本にも二大政党制を」ということでしたが、ずっと絵に描いた餅のようでした。かくあれかし、とは誰しも思うのですが、この国はそれほどレベルの高い民主主義国ではないし、政治も大衆も理念とかポリシーで動くのではなく、目先の利益で動くから仕方がない、とほとんど諦めていた矢先でした。
小泉内閣の構造改革も同様に絵に描いた餅であることがはっきりしてきたし、竹中金融改革も一向に実効をあげてはいない。銀行が見放した中小企業はいま塗炭の苦しみを味わっています。この国の政治家もどこやらの独裁国の政治家と同じように、力のない庶民を見殺しにして生き延びようとしているのではないか。そんな国民の被害妄想が8月のお盆のころには国中に蔓延するかもしれません。
そうした中での野党合併劇はひとつの朗報ではありました。しかし疑い深くなった私たちは、どこか覚めてこの合併劇を見ています。そう簡単にゆくだろうか。この二つの政党の体質も指導者の思想や体質も水と油ほどに違うのではないか。よしんば合併がうまく進行したとしても、海千山千老獪な自民党政治家集団に太刀打ちするだけの力量があるのだろうか。既得権益にしがみつく官僚集団とわたりあえるほどの知的情報能力があるのだろうか、などに疑念はふくらんでさらに絶望的な気持ちになることは確かです。
もしも本気であるのなら、民主党の管直人さんや自由党の小沢さんが主張する「法案はできたが自衛隊はイラクへは送らない」ことを、「本気の証明」として実現させて見たらどうかと思います。そうすれば国民はいくらかの信頼と期待を新党にもつようになるのではありませんか。
欧米の先進民主主義国のほとんどは二大政党制です。日本人が好むイギリスの議会政治システムにしても、しっかりと二大政党制民主主義が機能しています。
いまブレア政権のイラク戦争開戦の情報操作問題について、イギリス野党である保守党は、ブレア首相を激しく追及しています。穏健な紳士と見られていたイギリスのマスメディアも追及の手を緩めてはいません。なにせイラクの大量破壊兵器配備にかんする情報操作疑惑に火をつけたのが国営放送のBBCでしたから。腐っても鯛というか、さすが「言論の自由」と「近代ジャーナリズム」を生んだ国のメディアです。来日して小泉首相と共同記者会見の席上、ブレア首相の情報操作疑惑をイギリスの記者たちが激しく追及する風景を見て、びっくりした日本人ジャーナリストはたくさんいるのではないでしょうか。ことはブレア政権の命運に発展してきました。
アメリカでも同様のことが起こりつつあります。CNNなどのテレビではイラク戦争時と違い、ブッシュ政権の情報操作疑惑にまつわる開戦責任を追及する動きが顕著に出てきています。また戦闘終結宣言の後、大量の死傷者を出している米軍の犠牲の大きさに対しても米国世論は首をかしげ始めました。ベトナム戦争のような「ゲリラ戦争」に巻き込まれているのではないか。米軍司令官はゲリラ戦の状況を認めています。これから先、イラク戦争への疑義が米国社会を揺さぶるかもしれません。
野党の民主党からだけではなく、政権党である共和党内部からもブッシュ政権に対する疑惑が湧きあがっているのです。来年の大統領選挙にむけて、アメリカの政治は大きく変化してゆくでしょう。その変化と方向転換の舵取りを担うのは、二大政党政治です。行き過ぎがあるとすかさず、チエックが入り政権が交代する。官僚も入れ替わります。この交代によって前政権のすべてが情報公開され、政治的透明度が確保されます。これが議会制民主主義の原則ですが、残念ながらわが国にはこうした欧米の民主主義の原則はあてはまりません。チエック機能が働かず、官僚機構は不死身であり、透明性や情報は閉塞し、既得権益や癒着の支配構造は永久に守護されるーーこんな民主主義の国はどこにもありません。独裁主義国の場合は、政権を担う権力集団が一時はすべての権益に預かりますが、いずれ倒されることで、帳尻が合うようになるのですが、わが国の場合は自民党支配が倒れることはありませんから、政治的帳尻はたえず”決済不能”に陥っているわけです。
今回の野党合併は、日本の議会制民主主義の欧米並の進化、という点では期待が持てます。しかし日本の政治風土が基本的には税金にたかり、権益を導入し短期的な利害関心で金をばらまき、既得権益を死守することでしか成立できないのであれば、二大政党政治には何の意味もありません。理念や政策は二の次でいいからです。両党首が何を語り、どんな立派なマニフェストを訴えようとそれに賛同するのは、金も権力ももたない一部のインテリやマスコミ人でしかないというような政治文化があるかぎり、現実政治を大きく動かす要因にはなりにくいと思います。つまり、日本が欧米型の二大政党政治に行き着くには、まだ相当の時間と知的トレーニングが必要な気がしています。
 
以下は44号(5月27日)からです。
 
ネオコンと「真昼の決闘」
いまPHP新書から緊急出版する『メディア・ウォーズ』(仮題)の原稿を書いています。「イラク戦争とメディア」がテーマの本です。間もなく脱稿の予定ですが、おりしもポストイラク戦争の行方が混迷しているようです。イラクの暫定政権のありかたから復興支援、国連の関与の仕方などがカオスの霧の中にあります。これはアメリカが国連決議なしで単独武力行使したときから、予想された事態でした。同時テロ以降のアメリカの対外戦略(外交)が大きく変化したからです。すなわち話し合いから力への過信への転換です。10数年前の冷戦崩壊時からその兆しはありました。フランシス・フクヤマが、『歴史の終わり』という論文を書き、自由と民主主義が究極の勝利を遂げたいま、ヘーゲルが予想していた「歴史の進歩」は完成して歴史の終わりを迎えた、というものです。このような考え方の延長に、ネオコンといわれる新保守主義の世界戦略が見えてきます。今回のイラク戦争を支えたのは、自由と民主主義というアメリカの価値を世界に拡大させたいとする新保守主義の思想が背景にあります。ネオコンのリーダーとされるロバート・ケーガンは、「もはや欧米という概念は意味をもたなくなった。同時テロで冷戦時代の図式が逆転した。冷戦時代に直接の脅威にさらされるのは同盟国であったが、一転、アメリカ本土が攻撃にさらされた。いまやアメリカもヨーロッパも別々の道を模索している。普遍的な法と世界平和の到来を仮想する国連の影響力に期待するは幻想であり、スーパーパワーの軍事力を備えたアメリカがだけが世界に支配力を及ぼすことができる」といいます。彼は、ホブッスの『リヴァイアサン』を引用し、「悪魔を滅ぼすには軍事力によるしかない」といい切っています。ゲーリー・クーパー主演の西部劇映画『真昼の決闘』の保安官のように、住民を守るのは銃の力であり、それは住民が望むと否とにかかわらずそうするしかないという保安官の信念にもとづいています。(『ネオコンの論理』)。
 ネオコンの思想は映画の保安官の信念に似ていると思われます。すなわち、「米ソ冷戦構造から解き放たれた人類はいまジャングルの掟の中に投げ込まれている。人類は悪の枢軸の剥き出しのテロや暴力にさらされている。しかしアメリカは偉大な国であり、建国以来、偉大であるように運命づけられている。世界から悪魔を取り除き安定と秩序を回復することがアメリカの義務であり、それはジョージ・ワシントンがアメリカを独立させていらい、アメリカ人の意識を揺さぶりつづけてきた「明白な運命」(Manifest Destiny)なのだ」。
 アメリカの大儀は人類の大儀につながるという信仰のような信念が、ネオコンの人々を支えています。アメリカにはその大儀を実現できる力もある。しかしこのような自由と民主主義に対する信念は、特にネオコンの人々の専売特許ではありません。恐らく、自分はアメリカ人だと思っているアメリカ人の99%はアメリカ的な価値が正義だと考えていると思います。そしてその価値を現実のものにしなければいけないと。文豪ヘミングウェイの『誰が為に鐘は鳴る』は、戦場の人間を描いた名作ですが、彼の作品のモチーフそのものが、アメリカの価値への深く激しい希求なのです。ネオコンのテーマは古くからアメリカに存在していました。
今回のイラク戦争で国連決議を経ることなく、さらにフランスやドイツなどの友邦の国々と決裂してイラク戦争に踏み切ったことも、アメリカの正義と価値を損なうことはない、という自信があったからでしょう。 このような頭脳集団のネオコンを支える社会基盤としては、情報化社会とグローバリゼーションの展開によって甘い果実と配当に預かることができる世界金融資本、新情報資本や巨大メディア産業群の影響力があるはずです。巷間いわれるように必ずしも中東の石油の利権ではないでしょう。
ネオコンの動向についてこのフォーラムでは、フランスの外交専門誌『ルモンド・ディプロマッティク』が特集した、「台頭する米国ネオリベラリズム、第4次世界大戦が始まった」という記事から紹介したことがありますので、詳しくはそちらをご一読ください。日本でしきりに語られるネオコン陰謀説のように、たった数人のネオコンの人々がいまのアメリカを動かしているわけではありません。巨大メディア資本、情報産業と兵器産業の結合、知識層、シンクタンク、大学、政治組織、ホワイトハウスなどアメリカ社会に広範に張り巡らされた人脈ネットワークと資本力が、ネオコンの活躍を支えています。それは一見、アメリカのナショナリズムと結びついているように見えますが、反面では、インターナショナルな支配力に結びついています。従って、アメリカによる世界政府の樹立という隠された命題まで浮かび上がってくるような気がします。なぜなら、ヨーロッパはすでにアメリカの軍事的外交的な競争相手ではないとすると、残るのは中国ですが、中国はいまSARSで疲弊しています。もしもアメリカのバイオテクノロジーがSARSのワクチンや特効薬を短期間で開発することに成功すれば、アメリカはアジア全域を影響力の支配下に置くことが可能となるかもしれません。
 
 
以下は前号第43号(4月日付けからです)
 一転? バクダッドへの進撃、脅威の映像
不利を伝えられた戦況が一転、米軍はバグダッドへの進撃を開始しました。同時に情報戦の様相も深まっています。この戦争は武力と同等かそれ以上に情報戦がキーワードになってきました。戦争の物理的な帰趨とともに、情報作戦が国際社会の同意を得る形で行われる必要があるからです。だから何が何でも勝てばいい、という戦争ではない。「民主化と自由」という米国の主張を理解させ、アラブ社会を含む世界世論をどう味方につけるかという情報操作の巧拙が戦争の帰趨に決定的な影響をあたえます。イラクはしきりに米国のアラブ世界への侵略=不正義の戦争を宣伝しています。米国内の旧軍人の間からも、かつての友好国のフランス、ドイツを敵に回すような外交手法への懐疑が表明されています。国際社会に味方をたくさん作るべきときに、敵をたくさん作ってしまったというのです。
米軍は日本時間の4日の段階で、すでにバグダッドから20分のサダム・フセイン空港の一部を占領した模様です。CNNが脅威の映像として伝えたものは、第一空挺部隊・機甲部隊の先頭を走る戦車の映像でした。この戦車にはCNNの記者が同乗しています。戦車の先端で戦車砲を発射しながら進撃するヘルメットの指揮官の姿が映し出されたあと、その指揮官の家族の表情や声が同時に生中継されています。まるでドキュメンタリー映画かドラマを見ている気分ですが、まぎれもなくこれは戦争の、しかも敵地の最前線で陣を開く戦車部隊の先端の戦場の模様を映し出しているのです。CNNがいうとおり、なるほどこれは脅威の映像です。これまでの戦場のレポートには相当のタイムラグがあり、ある程度の時間差をおいて、レポートが届けられていました。茶の間でニュースとして人々が見たときには、すでに結果が出ている場合が多かったのです。しかし、この映像は違います。まさにいまの最前線なのです。戦場の最前線がリアルタイムで茶の間に届けられる。すさまじい映像です。これにはハイテク報道技術の先端を集めたビデオフォンの威力があります。またこの戦争を情報戦争と捉えている国防総省の情報戦略があります。記者は戦車隊のキャビンのどこかに同乗しており、戦闘部隊と同じ軍服姿でマイクを握って実況報告しています。ただし、戦車そのものは映しても、周囲の景色や軍事機密にかかわる映像は映してはならない、という指示があります。周辺の景色が映ると米軍部隊がどこまで到達しているかイラク側にわかるからです。そうした映像が映りそうになると、カメラは閉じられます。敵に与えてはならない軍事機密情報の意味が、このカメラの操作と記者の説明を聞いているとわかります。戦争報道の情報公開がどこまで許容できるのか、という難しい問題の原点を見た思いがします。もしも、戦車部隊の位置を敵に知られたら、記者だけでなく全部隊が危険にさらされます。
この進撃の映像が映し出される直前には、捕虜になって病院に幽閉されていた女性兵士を特殊部隊と空挺部隊の総合作戦で救出する映像が公開されました。暗視装置を使った深夜の救出劇で、このときの映像も驚異的なものでした。実戦の場で、特殊部隊の隠密作戦で若い女性の捕虜が救出される映像などは、007シリーズの映画のなかでしか見たことはありませんでした。この戦争を契機にして出現したリアルタイムの映像が意味することは、あらゆる戦場の局面に網羅されている報道技術と情報技術の進歩です。今回のイラク戦争のニュース報道は、ハイテク兵器の進化と並んで、戦争報道の新しい歴史的な意味と役割を再形成しています。報道と情報は戦争の形態の一局面として、現代の戦争システムのなかに、組み込まれました。カタールで毎日開かれる連合軍中央司令部
の記者会見では、かなり綿密な情報が公開されており、世界中の報道機関の記者たちが相当に突っ込んだ発言をする風景もおなじみとなっています。
進軍する米軍戦車隊の道路脇に古びたイラク軍の戦車が残骸になってうちすてられています。ここで戦闘があったとしても、米軍機甲部隊のハイテク戦車を見比べれば、同等の敵でないことはすぐに了解できます。しかしながら、抵抗らしい抵抗がみられません。それがかえって不気味です。何十万のイラク軍はどこへ消えたのか? おびき出されてきていないのです。米軍はすでにレッドゾーンといわれる領域へ到達しています。このゾーンは、フセインが細菌兵器や毒ガス兵器の使用を許可したところとして、米軍は神経を尖らせている場です。しかしいまのところそのような兵器も使われることなく、戦車部隊は快進撃を続けています。唯一、バグダッドへの道はときならぬ渋滞に見舞われていると、レポーターは報告しています。戦車や輸送トラックなど米軍の軍事車両が目白押しとなり、道路が渋滞しているというのです。
バグダッド快進撃で、勝利への道が見えてきた、と米国のメディアはいっせいに報道し始めました。戦争で米軍が勝つのは当たり前です。圧倒的なハイテク技術と物量と人海戦術に、イラクは足元に及ばない。これは当初からわかっていました。
「問題はイラク戦争だけではない、これはアラブ世界を当面の敵とする『第4次世界大戦』の始まりではないか」という懐疑が、米国内にも頭をもたげてきています。ここでいう「第4次世界大戦論」については、このフォーラムでもしばしば言及しましたが、90年代の半ばに、冷戦崩壊とアメリカ一極主義とグローバリゼーションの波動のなかで、フランスの外交専門誌「ル・モンド・ディプロマティク」が、精力的に特集した記事中にあります。また拙著『情報人のすすめ』(集英社新書)でもこの問題を、紹介しています。米国におけるネオコンサーバティブ、新保守主義の台頭と関連しており、石油の利権などといった物的な側面よりも、思想的な影響力が強いグループがブッシュ政権の権力中枢を握っているといわれます。ここを見誤るとこの戦争に賭けるアメリカの意図がわからなくなります。イラク政権の無条件降伏しかないというホワイトハウスの言い方にもこれがよく現れています。つまりアメリカ民主主義の世界化です。グローバリゼーション、世界基準、ハイウエー情報網の敷設、経済の世界化、情報資本の世界化、などなどの命題は世界をアメリカ化することでしか、達成されないからです。そこにこの戦争の理念と大儀が冠せられています。すなわち星条旗のもとに世界が結集するようになることが、超大国アメリカの新保守主義者たちの野望なのです。
ここ数週間のうちにも、バグダッドに新政権を発足させるというプログラムが動き出したようです。フセイン政権の残党が相当期間は生き残ることを想定して、米国の影響力の及ぶ新政権を発足させ、まずはイラクの民主化プログラムの第一歩が動き出すのでしょう。しかし、その場合、ベトナム戦争のような形態の内戦に発展してゆく公算は低くはありません。米国の専門家たちはベトナム戦争化については否定していますが、戦争の長期化が避けられそうにないゆえんなのです。ところでイラク民主化のプログラムは、敗戦日本に進駐したGHQマッカーサー司令部が作成した「日本の民主化」をモデルにして作成されたということです。
 
  「無謀な戦争へ」の突入、「ベトナム戦争化」の悪夢
ついに始まりました。国連機能も危機に瀕しています。超大国アメリカの正義だけがこれからの世界を支配し席捲するのか、当初はそういうやりきれない思いとアメリカへの絶望が交錯する日々でした。ところが開戦一週間で様子が違ってきました。中東諸国は温度差はあれ、米英の単独武力行使を非難し、世界的に大規模な反米デモや反戦運動が広がってきています。欧州をはじめ世界世論を見る限りアメリカは支持されていません。米国や英国内でも反戦運動が拡大しています。
開戦後、一週間の戦況をCNNテレビでウオッチしました。戦争のハイテク化、電子化と同時に、報道のハイテク化、電子化が極度の進化を見せていることに驚かされます。記者たちは部隊について戦場へゆきます。前線の兵士と同じ格好で記者たちは仕事をしています。衛星で中継されるビデオフォンや兵士の背中やヘルメットにつけた小型カメラ、戦車や兵器にに取り付けたカメラなどが自動的に映像を送る装置など、報道技術は実に多彩です。進軍する戦車、民家を蹴散らして臨検する兵士、発射されるミサイル、大砲、機関銃。ここで撮影された映像はリアルタイムで茶の間に入ってきます。まるで戦争映画を見るような感覚で、視聴者は実際の戦場の気分を味わいながら、家族団欒の夕食をしている。つかまった捕虜、撃たれた死体、爆撃で負傷した人々、食物をあさる難民・・。そういう映像も茶の間にリアルタイムで届けられます。湾岸戦争のときは、空爆のピンポイントの様子がテレビ報道され、テレビゲーム戦争といわれました。しかし今度の戦争は湾岸戦争報道よりはるかに深化しています。戦場そのものがリアルタイムで茶の間に入ってくるのです。今、撃たれて死んだ兵士や人のその瞬間を世界中の人々が見ている。
異様な戦場の世界のリアリズムが、ハイテクを駆使した戦争報道を通して世界の人々の平穏な日常を損なっています。
開戦当日は圧倒的なトマホークミサイル攻撃とハイテク兵器によるバクダッド空爆により、イラクの国家中枢は麻痺し、フセインも殺害されたのではないかと思うほどの激しい空爆でした。米国の圧倒的な軍事力の前に、イラクはなす術もなく敗走しているように見えました。しかしアメリカの軍事専門家は、あれは花火ショーのようなもので、戦況にはあまり影響がない、というコメントをしました。そして、日がたつにつれこの言葉は実証されてゆきました。当初、10日とか数週間で決着するという観測がありましたが、それはメディアが作り上げた希望的観測にすぎない、とホワイトハウスは不快感をあらわにし、戦争は長引くという別の予測を流し始めたのです。
実際、戦争は始まるやいなや、クウエートの前線本部テントで米兵による手榴弾爆発がおこり、米軍将校が死傷した事件は、満を持した米軍の士気に大きなダメージを与えたように思います。その後、イラク側に捕らえられた米軍兵士の映像をカタールのアルジャジーラ・テレビが流したことへの怒りを、CNNなどの米国メディアがあらわにしました。捕虜の人道的扱いを決めたジュネーブ条約に違反しているというのです。この問題をめぐるアルジャジーラとCNNの論争が、当のCNNテレビで流れていました。アルジャジーラ側は、事実を淡々と報道しただけで、イラク側の宣伝をしているのではない。そういう映像を流すなというCNNこそ、言論の自由を侵害しているのではないか、そもそも米国が国連決議のないままに、単独ともいえる軍事攻撃したことに国際的な正統性はあるのか、ジュネーブ条約を持ち出すなら、CNNだってイラク側の捕虜を捕らえて拘束する映像を流したではないかーーなどなどの反論をしていましたが、アルジャジーラの言い分のほうに報道機関としての権威と理性を感じました。ただ、こうした不利な論争を包み隠しすることなく、立場を異にする側の意見を自身のテレビ映像で堂々と紹介しているCNNの報道機関としての情報公開性や公平性は、まだ健在だと感じました。
開戦後すぐに起こった一連の事件のあと、砂漠のゲリラ戦という事態が引き起こってきました。空爆やハイテク兵器に重心を置きすぎていた米軍全体の盲点が現れてきたのです。花火ショーのような爆撃では戦況を決することができなかった。フセインに忠誠を誓う共和国防衛軍などのイラク最強部隊生き残っており、民間人に化けて都市や農村のいたるところにに潜伏している。
開戦一週間にして、「ベトナム戦争化」の悪夢がこの戦争を支持する米国の上層部にも広がりはじめました。早期決着こそがこの戦争の勝利の方程式なのです。砂漠のゲリラ戦の恐怖はジャングルを主戦場としたかつてのベトナム戦争の苦い教訓を呼び覚ましつつあります。ベトコンといわれたベトナム開放戦線兵士はジャングルの村に隠れて米軍を悩まし、軍民の区別がつかなくなった米軍はソンミ村大虐殺などの事件を起こしました。米国内にだんだん厭戦気分が広がり世論は反戦に傾斜し、米国は敗戦と言う形で、ベトナムを撤退したのです。たんに戦争に負けただけでなく、この戦争はアメリカ社会に大きな傷跡と禍根を残しました。
あのときの悪夢がよみがえっているのです。砂漠への兵力10万の投入を湾岸戦争の英雄パウエル国務長官が要求し、ハイテクに信を置くラムズフェルド国防長官が難色を示したなどのインサイドニュースも出ています。ホワイトハウス内部の軋みが、ベトナム化の悪夢とともに表面化してきている。ハイテク兵器を信頼しすぎた米国にとって大誤算というべき問題が、開戦10日にして起こったわけです。砂漠のゲリラ戦では、
ハイテク兵器はさほど機能しないでしょう。陸軍の戦車部隊や強力な戦闘部隊が必要のようです。敵が見えるところでの戦争が一番、恐ろしい。相手が発砲するのが見え、味方が発砲するのが見える。それがゲリラ戦だと、ベトナム戦争体験者が語っています。戦艦から巡航をミサイルを飛ばし、空からピンポイント攻撃する戦争に慣れた米軍にとって、これから始まる砂漠のゲリラ戦は想像を越えた苦難が待ち受けていると思います。
CNN報道を中心にウオッチし、アメリカの内部で起こりつつある問題を考えました。
日本はまだ平穏のようです。いち早くアメリカ支持を打ち出し、イラク側からは米英につぐ第三の敵国と名指しされていますが、そういう実感はありません。日本の報道もそれなりのファクトは伝え、従軍記者たちも特派されているようです。日本では「大ニュース」としてこの戦争は報道されています。CNNなど米国の報道ではこの戦争が、日常になっています。戦争そのものはニュースではなくなっている。そのぶん、いきり立つことや感情的になることは少なく、淡々とファクト(事実)だけが流れるようにして伝えられています。
しかし日本では、まだ戦争の実感からは遠い。そのぶん、日本の戦争報道はいきりたっています。新聞もテレビもこれがニュースだ、といきり立っているのです。現時点では、それは結構なことだと思います。不況が深刻化し経済は悪くなっても、まずは平和であってほしいからです。戦争が日常になり、今日は何人死に、何人が捕虜になったなどというような報道が毎日行われるような現実は、避けなければならない。しかし誰がなんといおうと、日本がアメリカを支持してこの戦争に巻き込まれていることは疑いありません。いまは平和を謳歌している日本国民はこのことを肝に銘じておく必要があります。
ルーズベルト大統領以来、歴代の大統領に仕えてきたというアメリカの長老の良識派の上院議員が、ラリーキングライブというインタビュー番組に出演してこう語っていました。「ブッシュ政権は歴代の政権にくらべて最悪だ。途方も無い夢を追いかけてアラブ世界を敵に回そうとしている。現実をみていない。この戦争はアメリカに大きな災禍と混乱をもたらすだろう」。その上院議員は続けてこういいました。「いまの現実的な世界の脅威はイラクではなく、北朝鮮だ。北朝鮮との戦争を避けてイラクを攻撃するブッシュ政権は選択を誤っている」と。もしもブッシュ政権が良識派だとしたら、北朝鮮を攻撃していたかもしれない、と思うと背筋が寒くなりました。もしそれが現実に起こっていたら、われわれの安泰の現実はもはや失われているはずです。極めてシビアな戦争ゲームのこれが現実です。戦争を起こさずに世界を救済する方法を、いまこそ構築する必要があります。
 
 
以下は前号第41号(2月20日号)からです。
果てしなく広がる「論議なき論議」の不毛
コロンビア大学の歴史学教授、キャロル・グラックさんが、『ニューズ・ウイーク』最近号(2003年2月19日付)に、日本の安全保障政策の論議の不毛性について書いています。いま世界は緊張しています。イラク攻撃と北朝鮮の核開発問題です。イラクは日本から遠いが、北朝鮮は近隣の国で、工作船もしょちゅう日本に出入りしている。これは日本にとって最大の脅威です。これまで日本は、安保問題に関しては、「見ざる聞かざる言わざる」を貫きながら、「アメリカの核の傘」の下に止まってきました。しかしそれがいつまで通用するかわからなくなったのが、いまなのです。グラックさんは、アメリカの歴史学者のなかではリベラル派で、日本人の歴史認識が保守化することに警鐘を鳴らし、日本史は世界史に属する以上、日本人が過去の歴史に関して自分勝手な歴史観を作ることを否定してきました。そのグラックさんが、日本の歴史認識論議や安保論議や憲法論議の不毛=化石化に対して警鐘を鳴らしているのです。安全保障について誰かが何かの問題提起をするとします。たとえば、イージス艦派遣はやむなし、とか、派遣すべきではないという問題提起が行われます。そうすると、賛否の二極に分かれた議論が日本の世論を分断します。大新聞も緊急世論調査をして、賛否二つの陣営に分かれます。遠いイラク問題だけならそれでも済むでしょう。しかし自衛権と憲法をめぐる論議のなかで、日本にとって最重要な北東アジアの安全保障問題は、「思考停止状態」に置かれて来た、とグラックさんはいうのです。いまイージス艦を派遣しておかないと、北朝鮮が動き出したときアメリカが日本を助けないかもしれない、というようなレベルのことは誰しも考えているのですが、これはまともな議論にはなりにくいのです。それというのも、日本人は近隣に日本人を拉致したり核武装をしたりミサイルを飛ばしてくる国があることにあまり注意を払ってこなかったからです。脱北した日本人妻を誘拐した犯人として中国に通報し、韓国人を逮捕させたという日本外務省の行為にも、こうした思考停止状態が如実に反映されています。何が国民の利益なのか、いま何をすべきときなのかが、まったく理解できていない。従って、安全保障の論議のなかで最初に必ず起こる反応は、お前は「愛国主義者」か「裏切り者」のどちらなんだという、感情レベルの反発です。踏絵を踏まされて議論は終わってしまう。つまり日本の「国防」にかかわる論議は、いつも「引き金」となり、「改憲」か「護憲」かという「条件反射的な感情論」を生むだけだった、とグラックさんはいうのです。「引き金」とは、「誰も考えることはせず、ただまくしたてるだけ」のきっかけを与える議題だと、グラックさんはいいます。そこには理性的、知的な論議のプロセスはなく、それぞれの論客が自分の主張を感情的にまくしたてているだけです。
事態は一向に進展しません。日本国民の利益=国益は損なわれるだけです。実質的、実りある話し合いが行われたためしもない。このことは何も憲法や安保論議に関することだけではありません。例の道路公団やダム建設、公共事業、健康保険の値上げ、そのほかの様々な分野でも見られることだと思います。すべての分野で思考停止している日本。「化石のような議論」が引き金となって、不毛な論争が繰り返される日本。景気の極端な悪化もそこに真の原因があるはずです。「引き金」の厄介なところは冷静な思考を簡単に吹き飛ばしてしまうところだと、グラックさんはいいます。
このような「賛成、反対」の「引き金」に対抗するには、「中間のどこかに答えを見出す・・考えに考え抜くことと、筋道の通った議論が必要だ」と彼女はいいますが、具体的にはどうすればいいのでしょうか。それには、論争を提起する言葉として、「核武装」「平和憲法」「集団的安全保障」「第9条」というような、「引き金」となる言葉を避けるしかない、ということのようです。「こうした感情を呼び覚ます言葉を避けて議論しなさい」とは、日本人としてはなんとも情けないアドバイスです。昔、マッカーサーが「日本人は12歳」といいましたが、グラックさんの警告のなかにもそのような思いが感じられてなりません。私はさきにこのフォーラムで「二項対立文化と思考停止」をやめよ、と指摘してきましたが、グラックさんの主張はこれとほぼ同じだと思います。中間の議論とそのプロセスこそが重要なのですが、外国人学者にそれを指摘されるとあらためて日本人の自己改革能力の欠如を思い知らされてしまいます。
 
以下は前号40号(1月9日号)からです。
’03、大学のビッグバンと構造改革の行方
新年おめでとうございます。イラク情勢が緊迫しているようですが、わが国では、出口なき大不況に加えて増税という名の”嵐”が吹き荒れる2003年になりそうです。くわえて北朝鮮の核開発とNPT離脱問題があります。年初のCNNテレビでは、イラクと北朝鮮核開発問題がニュースのヘッドラインを独占していました。日本人拉致問題は、核疑惑の陰に隠れてしまい、米国やヨーロッパ、アジア諸国の海外メディアではほとんど取り上げられていません。拉致問題解にあたっては、他国の支援は期待できず、日本政府が独自の力量で解決するほかありません。しかしながら、中国に逃げてきた脱北者の日本人妻を日本の外務省が見殺しにしているかのような映像(ニュースステーションなどで放映)は、日本国民として情けないというよりまことに悲しい。日本国民の生命と安全を守る意志も能力もないような政府が、国民に増税だけを押し付けるているのであれば、日本はもはや近代国家の名に値せず、どこかの国民動員国家の搾取権力と同じことになります。
人間としての温もりを無くした政府官僚を育てたのは、わが国の戦後教育でもありました。タテマエとしての平等の背後で熾烈な受験競争が行われ、受験偏差値優位の大学ピラミッドが構築されたのです。自分さえよければという小さな出世を望む点取り虫で事なかれ主義の”エリートたち”を量産してきました。プロとしての政治家、官僚、外交官、銀行員、ビジネスマンにはプロであるがゆえの仕事への責任があります。事なかれ主義は、責任を逃れる行為であり、プロ意識の放棄でもありますが、このような”エリートたち”に日本は支配されてきました。外国のエリートと日本の”エリート”の違いはこのプロ意識と責任感(ノーブレス・オブリッジ)の大きさの相違です。前号でも述べましたが、これの欠如が現代日本の最大の不幸を作っているのです。
「欠陥エリート」を育てた戦後教育システムの頂点にあった大学の構造改革が、大新聞の今年のテーマとして浮上しています。朝日新聞は元日付け一面で、「大学シリーズ」を始めました。時すでに遅し、の感もありますがようやく大新聞が大学問題に正面から取り組んだことは評価できます。メディアの対応が遅ればせになったのは、大学という存在のニュース価値が高くはないこと、銀行や官庁のような派手な記事にはなりにくいうえ、仕組みや構造がわかりにくいこと、記者に学問的な知識が不足していること、記者の出身大学がからんだりすると取材がしにくいーーなどがあげられると思います。
大学世界ランキングなどを見ますと、日本の大学の評価は世界的(アジアの中でも)に見ても、先進国としては異例に低いのは事実です。数年前、私がハワイ大学で客員をしていたとき、同大学の関係者から「日本の大学との学生の交換留学制度を廃止する」という話を聞きました。ハワイ大学側のいいぶんは、「受け入れた日本の留学生にはせめて恥ずかしくない英語力だけでも身につけて送り返している。しかし日本から戻ったこちらの留学生は日本語もほとんど出来ないまま、学力は低下し、遊ぶことだけ覚えて帰ってきている。日本留学組にはリハビリが必要だ」ということでした。これでは交換留学の目的である「ギブ・アンド・テイク」の精神にもとるだけでなく、大学の損失である、というわけです。今後は、ハワイ大学で受け入れた日本の留学生には相応の授業料を払ってもらう、ということでした。その話を聞かされた私は、絶句しました。日本に留学した米国の学生の質が悪いと日本側は主張したということですが、ハワイ大学の関係者が怒るように、ろくな教育もしなかった日本の大学の責任のほうがはるかに重い、と私も思います。以来、日本の大学は地に落ちた、という思いがしています。しかし大学システムが改革される気配もなく、90年代の不況進行とともに大学の荒廃と知的衰退がずるずると世紀末日本を支配してきました。日本の大学生の知力の低下は、大学の荒廃と衰退に連動するものであり、若者の知力の低下だけを責めても問題は解決しません。しかしながら、”聖域”といわれた銀行や外務省の不祥事が続発し、メディアの砲列にさらされたときにも、大学はいぜん”聖域”として取り残されました。帝京大学や一部の私立大学の不正入学や金銭スキャンダルが表面化した程度でした。それなのに、旧態依然の腐った中身を覆い隠すようにして、表看板だけを塗り替えた新設大学が次々と開設されました。
日本の大学関係者の念頭にあるのは、少子化問題であり、少子化で入学者が減少することしか念頭にありません。ところが入学者の減少傾向は少子化だけではありません。大学の国際的なレベルにかかわる本質的な問題があるのです。それが大学の国際大競争時代、つまり大学ビッグバンです。国際的な留学制度の基準によれば、「入ろうとする大学の表看板に学生がだまされないような第三者機関によるチエックシステムの構築」がうたわれています。消費者である学生(あるいは父兄)のための第三者による大学監査システムです。日本の場合、文科省の規制とチエックしかありませんから、それをうまくくぐりぬけた大学を監査する手段はありません。従って学生からクレームが出たとしても、「看板にだまされて中身をよく調べないで入学した学生のほうが悪い」ということになり、実際そうなってしまった新設大学もあります。つまり、学生に対する大学の無責任体制が野放しになっているわけです。ちなみに日本の私立大学の学費はだいたい米国の一流大学の学費と同じなのです。もしも大学のビッグバンが起こり、大学国際競争時代になれば、日本の多くの高校生は外国の大学に入学を希望するのではないでしょうか。日本にハーバード、MIT、コロンビア、エール、ケンブリッジなどの分校ができてくれば、日本のトップ30大学といえどもサバイバルが困難になるかもしれません。あるいは、国際競争の落ち武者だけを拾う3流大学の地位に甘んじることになる。外国の優秀な留学希望者があえて日本の大学を選択するようにならなければ、大学ビッグバン時代には生き残れないということなのです。
今年の構造改革の嵐は最後の聖域として残った「知の領域」に及ぼうとしています。知の領域を代表するのは、「大学」と「メディア」です。メディアについてはこのフォーラムでもしばしば論評してきました。残ったのが大学です。日本の大学の最大の欠陥は、外部による評価システムが存在しないことです。大学の外部評価といえるものは、予備校が決める入学難易度の偏差値しかありません。日本の大学が閉鎖的だということは、すでに言い古されたことですが、”江戸時代の鎖国文化”をひきづっているのは確かでしょう。教授の研究、教育レベルの評価は、客観的な基準によるものはなく、個人的な好き嫌いの感情が入り込む仲間内の”人物評価”しかないのが現実です。週刊誌的な噂話の世界で研究と教育の評価と質がなんとなく決まっているのです。論客としても活躍する少数の著名な学者の例を除けば、実社会や世界の現実とはかけ離れた空理空論をもて遊ぶことが、学問だと勘違いしている自称学者がうようよいるのです。それが学生に悪い影響を与えます。すなわち、実社会を理解することなく、甘く見る癖をつけてしまします。学生たちはいざ就職というときに、初めて実社会の厳しい現実を知ることになります。
昨年、大学改革の具体的な指標として、文部科学省の「トップ30大学」構想、いわゆる遠山プランが出されました。国費を投じて一流大学の研究・教育のインセンティブを高める試みです。選抜にもれた老舗の同志社大学から敏感な反応が出たことを、朝日新聞が伝えました。同志社は厳しく自己批判して全学に緊急事態を宣言したということです。同志社の反応はトップ30大学構想の引き締め効果ともいうべき現象でした。
トップ30大学構想や文科省の大学政策に安易に乗ることの危険や是非はいうまでもありません。大学独立法人化制度導入にも様々な問題点が指摘されていますし、私のところにもこれに反対する団体や個人からたくさんのメールが寄せられています。安易な産学協同の推進によって、短期的な成果や実務にせきたてられ、本来の知的探究心や学問精神が失われる危険が極めて高いことは確かです。それにもかかわらず、いま国がそれをしなければならないほど、日本の大学は自立性と自前の改革能力を失ってきました。ハワイ大学の私の体験もそれを裏付けます。ノーベル賞を輩出させる一部の自然科学分野を除けば、日本の大学の学問はまったく世界に認知されてはいません。特に、社会科学系のレベルの低さは目を覆うばかりなのです。日本の大学の社会学系の専門家で米国でその名が認知されている学者はほとんどというか、まったくいないというのが現状ではないでしょうか。学生の質が悪いというならば、教授の質も悪い、のが海外における日本の大学への評価です。従って、質のいい外国の学生がわざわざ日本へ留学にやってくるということは、少数の例外を除き、有り得ないことなのです。この傾向は、欧米に限るだけではありません。アジアでも同様です。シンガポール、台湾、韓国、香港、中国の大学のレベルアップは急ピッチです。これらのアジア諸国の大学のレベルと比較しても日本の大学の一般的なレベルは低い、といわざるをえません。学生の知力が劣化したことをあげつらうだけでなく、教授や研究者のレベルアップと世界基準を見据えた研究成果の向上を厳しく問わなければならないのです。身内や学閥や仲間内でしか通用しないような”論文ごっこ”を厳に戒める必要があります。
昨年末、香港から中国の大学、研究機関を駆け足で訪ねてきました。香港理工大学で開かれたAPEC主宰の「IT専門家会議」に参加したついでです。会議には中国、米国、スウエーデン、オーストラリア、メキシコ、韓国、インドネシアなどからITの専門家や実務家、政府関係者らが集まってきました。理工系も私のような社会系、文系の人間も同じラウンドテーブルで議論しました。進行は英語で行われ、学際を飛び越えたような、職業も専門も国籍も違う人々による議論でしたが、異文化を意識することもなく、不思議と共有の問題意識が形成されました。この会議では特に、中国のIT先端技術とその商品化のための投資、市場展開などの現況報告がテーマでした。先端技術を生み出す中国の大学の研究・教育とビジネスがしっかりと手を組んでいることがわかりました。また深?(しんせん)にある中国のトップ大学(北京大学など30大学)をネットワークで結んだ電子大学や中国の巨大情報通信企業を見学しましたが、ユーラシア、アフリカから北米、南米大陸にまたがる世界の携帯電話市場を射程に置いたソフト制作と生産とネットワーク化の野心的な試みとともに、従業員施設の絢爛豪華さに驚きました。大学と企業と巨大金融投資が効率的で無駄のないネットワークで結合し、産学協同を絵に描いたような風景でした。情報伝達と意思決定の迅速さ、これはモデルとなったアメリカの産学協同をもはるかにしのぐものだと思います。そこには、市場価値や商品価値を生まない「研究」は、存在理由がないという冷厳な現実もありました。
中国の大学は、社会主義制度というタテマエのもとで、学生からの授業料は徴収しないことになっています。もちろん、授業料が必要な大学もありますが、日本の私学ほど高額ではありません。経済発展を金科玉条にしている中央政府も大学の経費をまかなう資金の余裕がないので、大学は独立採算制度をとっています。つまり、自分の大学で人材を発掘しビジネスを行い、収益をあげて大学の運営をする必要に迫られるわけです。香港理工大学でも、大学キャンパスの中央にビジネスセンターがあり、大学の別働隊として様々なビジネスを行っていました。収益をあげられない大学は、サバイバルできずにM&A(吸収合併)の対象になります。香港の新聞の一面に、大学のM&Aのニュースが大きく取り上げられていました。
このような厳しい環境の中で、中国の大学はしのぎを削った競争をしています。深?(しんせん)の大企業の幹部が、「うちの会社の従業員2万5千人のうち7割以上がMBA(大学院修士)クラスの学歴をもっており、そのうちの6割は米国留学組です。かつては米国留学組が会社をリードしたが、最近になって中国の大学の出身者がリーダーの仲間入りできるようになった」と話していました。中国の大学のレベルが米国に追いつくところまできているという自負の表明、と私は受け止めました。ちなみに日本の大学の出身者がいるかどうかを尋ねたところ、首を横に振りました。続けて、「私どもは韓国の会社とは提携していますから」と言葉を濁しました。
今年は、大学改革元年になるでしょう。しかし少子化対策や看板の架け替えに類するような安易な改革ならしないほうがよく、するならばよほどの覚悟が必要だと思います。小泉さん流にいえば、「痛みを伴う改革の断行」ということになります。いまの新設大学や新設学部の多くが、国立大学を定年退職した、たいした業績もない教授たちのパラダイスになりさがっています。官僚の天下りと変わらないこの国立=私立の教員人事の構造は、大学の変革を阻む大きな社会問題なのです。なぜなら定年天下り教授たちの一番の関心事は、自分の保身と退職金しかないからです。カリキュラムを抜本的に改革して社会や学生のニーズにこたえる意欲も知力も喪失しています。このフォーラムでも、今後、大学改革の問題をより多く取り上げたいと思います。それにしても、「知の領域」で日本がアジア世界からも取り残されることなど、明治維新の指導者の誰が予想しえたことでしょうか?
 
 
以下は前号39号(2002年12月6日号)です。
 
恐るべき「プロの不在」
年末を迎え、景気はいよいよ失速状態に入ったようです。放置すればこうなることはわかりきったことでした。飛行中に機体が故障し着陸のチャンスをうかがって飛行を続けてきたが、いよいよ時間切れが近くなったので、いまやハードランディングでも何でも着陸できたらいい・・・・そうした切羽つまった状況で小泉政権の銀行改革がスタートした、と私は思っていたのですが、事情は違ったようです。なるほど、ベテランとはいえないにしても、竹中氏が緊急の機長パイロットに任命され、コックピットに入ったとたん、客席(おおむねファーストクラスを独占して居座っていた連中)から罵声が飛び交い、竹中には任せられないという大合唱が始まったのです。機はダッチロール状態を続け、燃料も底をついている。竹中氏は操縦桿を握ったまま操縦不能に陥っています。もう墜落しかないぞ・・。いま竹中降ろしをやっているような時間はない。その道のプロたち、政治、経済、メディアのプロなら問題のありかがどこにあるかがすぐにわかるはずなのに、客席の罵声を聞いていると、まるで素人オタク集団のトンチンカンな議論ばかりが横行している。プロの不在を絵に描いたような風景です。みんなで寄ってたかって操縦桿を奪い合っている。病気の診断にはプロの医者が必要です。ほかに医者がいなければ藪医者であろうとも、診てもらうしかない。難癖をつけている連中は、ことの拠って来るゆえんとその責任についてわからないふりをしているのかもしれない。そういう能天気な連中は、竹中降ろしの音頭をとりながら、ほかの藪医者を選ぶこともできないで騒いでいる。同じことは、猪瀬直樹氏らの道路建設計画見直し問題にもいえます。物書きに何がわかる、と豪語しながらこちらにも肝心のプロはいないようです。国民を蔑視し、国民などに何がわかるか、というようことをいう輩は本当のプロではない。ソーサやタイガーウッズ・・野球でもゴルフでもプロの技は誰が見ても、鮮やかでわかりやすく上手なのです。その技はいつも人目にさらされています。身内集団だけで通用するプロの技とは、インチキな似非プロの技といってさしつかえありません。
このフォーラムでもしばしば指摘しましたが、いまの日本の苦境を招いた「失われた10年」の重大さ、およびその結果責任をまるで感じていない政界、財界、官界、メディア界の指導者たちが、再び「昔の名前で出てきています」。これは驚くべきことです。長年にわたりいまの苦境を作った怠惰な責任者たちが一致団結して竹中降ろしをやっている。国家予算規模の不良債権を発生させた大銀行の頭取たちが首をそろえて集まってわけのわからぬ弁明と居直りの記者会見を開くのも、前代未聞です。私たちの銀行預金の帳尻は、利息の利益よりも振込みや引き出しの手数料のほうで、とっくに赤字預金になっています。先日の記者会見の言葉には、預金者にこのような辛酸を長年にわたって味わわせていることに対する贖罪と痛みをまったく感じないどころか、当然だと思っているふしすらうかがえました。なぜわれわれ国民までもが、銀行と痛みを分かち合わなければならないのか。それならいっそ、外資のハゲタカ資本の銀行であれ、何であれ、もう少し金利の高い銀行を待ち望むのが預金者の心理ではありませんか。純粋日本人の経営者と日の丸が立っている銀行でなければ金を預けたくないという日本人は確実に減っています。条件のいいほうへ金が流れる、という経済と金融のイロハの原則にもとづく自由市場が、閉鎖的といわれた日本にもようやく浸透してきています。外国の銀行に金を預ける人を「売国奴」とか「非国民」とはいわないでしょう。要は、世界一、1400兆円ともいわれる国民総預金が着実に増え、不当に侵食されることもなく、それぞれの国民の懐に残ればそれでいいのです。スイス銀行でも、シテイバンクでも、どこにでも金を預け、どこに投資しようと、新規雇用が生まれて、勤勉な日本国民が豊かに暮らすことができればそれでいいのです。
ところで、「失われた10年」の元凶ともなった、政財官とマスコミの癒着の構造-----この4つのファクターが作る「鉄の四角形」こそ、「日本型システムの癒着と権益の4角形」(ザ・システム)といわれたものであり、国民の犠牲のもとに、自らの旧体制の既得権益を擁護する恐るべき体質を生み出したものでありました。この「鉄の4角形」による国民抑圧のシステムは、北朝鮮の独裁システムと類似したところがあります。いま、竹中降ろしの大合唱のなかで、「旧ザ・システム」が不死鳥のようによみがえるとすれば、「失われた10年」は、ついに「失われた100年」へと転嫁するのではないかと恐れます。すなわちそれこそ亡国への道です。
もうすぐ、12月8日です。NHKドキュメント「真珠湾への道」を見て、考えました。近衛文麿首相の息子の近衛文隆が、二等兵として関東軍へ応召したあとソ連の捕虜となりシベリアに抑留されて死亡したことはあまり知られていません。文隆はアメリカのプリンストン大学に留学し、米国流の知識人に育ちました。彼は盛んに米国における反日感情の高まりを報告する手紙を父親に書き続け、米国人を本気で怒らせると大変だと警告しています。しかし、近衛は息子の手紙には目もくれず、対米戦争への道を用意した挙句、土壇場になって対米開戦を回避する道を模索して首相の座をおり、東条内閣へと道を譲りました。以降、日本は真珠湾を奇襲して太平洋戦争を始め、破滅の坂を転げ落ちます。土壇場の近衛の脳裏に息子文隆の「米国を甘く見るな」という警告がひらめいたのかもしれません。しかし、時すでに遅し、でした。
文隆のいうように「米国を甘く見た」だけではありません。満州国の建国に始まる中国大陸への侵略戦争を自衛戦争だと豪語して、アジアを侵略する日本を当時の世界世論はどのように見ていたか。米国のジャーナリストで上海特派員だったエドガー・スノーの『極東戦線』には、当時の対日国際世論の冷静な分析が見られます。しかし日本の新聞紙面はまったくそのことを伝えていないばかりか、「鬼畜米英」「匪賊支那人」などのプロパガンダの文字が躍り、ひたすら大日本帝国政府大本営発表を垂れ流し、聖戦を唱える虚偽のファクトを伝えているだけです。
満州国建国が国際世論の批判を浴び、日本が国際連盟を脱退したときの日本全権大使は松岡洋右でした。その松岡外相が日ソ不可侵条約の交渉の任でモスクワにゆき、スターリンと会見したときの記録があります。スターリンの側近で外相をつとめたモロトフの回想録です。スターリンは滅多に外国首脳を出迎えないことで有名だったが、わざわざモスクワ駅頭に出向いて松岡を迎えた。自分がスターリンに認められたと勘違いした松岡がいたく感激して舞い上がった様子を、そばで見ていたモロトフが冷徹に描写しています。スターリンにとって、松岡を騙すのはとても簡単だった、と。そのあと、松岡はスターリンの接待づけに会います。酒を飲まされて酔っ払い、スターリンを盟友か同士のように思い、心酔してしまう。スターリンは信用できる。ソ連は日本を攻めてこない。松岡はそう首相近衛に進言したのでしょう。大陸の関東軍の兵力を南方へと大挙、移動を開始したのはそれから後のことです。ソ連との不可侵条約を根拠に、日本陸軍は南太平洋に重点を移し、対米開戦を迎えました。米国のルーズベルトを甘く見て、ソ連のスターリンには手玉に取られた挙句、日本は破滅的な戦争の賭けに打って出たのです。そこには、外交はもちろん、時の国際関係や世界世論を分析するプロも不在でした。あるいは、プロはいたかもしれないが、「鬼畜米英」の恐怖のプロパガンダで黙らされていたのかもしれません。いずれにせよ、その無謀さを指摘する各方面のプロは不在なまま、聖戦遂行の大合唱のなかで、数百万の国民が死に、原爆まで落とされて日本は破滅しました。
ところで、いまの日本はどうかというと、いまだにその危うさはぬぐえません。真珠湾の時代と同じように、経済、外交、政治、ジャーナリストの本当のプロがうまく働けていないからです。戦前に比べればいまの日本は大国ですから、各方面のプロや有能な人材はたくさんいます。ノーベル賞の田中耕一さんのように、いたとしてもなかなか出番がないのが日本の実情でしょう。昔の名前のボス支配と旧体制応援団のシュプレヒコールに負けることなく、果敢にプロたちを登用して病根を摘出することが、小泉政権に与えられた任務であり、国民もそれを期待してきました。有名無名を問わず、本当のプロが出ないと日本はもう一度、破滅の道を歩むような気がしてなりません。
 
 
以下は、前号第37号(10月26日号からです)
国益とメディア益に蹂躙される犠牲者たち
DNA鑑定で横田めぐみさんの娘と認定されたキム・ヘギョンさんへの独占インタビューを朝日、毎日、フジテレビが行い、この3社はスクープを飾りました。しかし横田夫妻をはじめ、拉致被害家族はこの方法と内容について強く批判しています。問題は2つあります。第一は、15歳という少女が保護者の付き添いもなく、単独記者会見の形で日本のマスコミの前にさらされたこと。北朝鮮側の人権感覚の不在はおいて、日本のマスコミの人権感覚もその程度のものか、ということを世界に暴露しました。「不当な運命にもてあそばれた母親の秘密」を公開の席で暴露する権利をマスコミは所有してはいません。取材するのなら、もっと別の方法はいくらでもあった。たとえばこれまで姿をあらわさなかった父親と同席の記者会見をなぜセットできなかったのか、あるいはなぜそれを強く北朝鮮側に要求しなかったのか。父親と言われる人物は本当に父親なのか? それならばなぜ姿をあらわさないのか。日本人との結婚はありえないといわれる北朝鮮で、なぜ朝鮮人とされる父親の男性は拉致された日本人の横田さんと結婚していたのか? それには何か特別の事情でもあったのだろうか。父親もまた拉致された日本人男性ではないのか? 少女が横田めぐみさんの娘だとDNA鑑定で確認されたあとのわれわれの大きな疑問点は、以上のような父親に関することなのです。前号で外務省の担当者が御用聞きか子供の使いのようなことしかできていない、と批判しましたが、このさいメディアよお前もか、です。国民の知る権利には答えずに、北朝鮮当局が許可した記者会見の内容をオウム返しに伝えているだけです。
第二の問題点は、北朝鮮の宣伝と金正日政権擁護のために少女が使われたということです。あるいは北朝鮮との国交正常化交渉推進でポイントを稼ごうとする日本の外務省益にも資したかもしれません。北朝鮮が少女を使って拉致問題の幕引きを考えたとしても不思議はない。しかし、このように横田めぐみさんのことだけでも、疑問点が次から次へと浮上してくるようでは、幕引きなど到底考えられません。北朝鮮の宣伝に乗る危険性を多くの関係者が指摘しましたが、そのとおりでしょう。しかし私は、生存者とその家族のこと以上に、拉致されて死亡するに至った若者たちの運命のことをより強く考えざるを得ません。また国籍や育った環境は違うかもしれませんが、キム・ヘギョンさんも同じ立場にある犠牲者だと思います。酷薄な独裁国家の犠牲者となって日本のメディアにさらされている。場合によっては好奇の眼差しにもなる。そういう認識もなく独占インタビューの誘いにやすやすと応じた日本のマスコミ各社の見識を疑わざるをえない事態です。北朝鮮という国家が守ることのない一人の少女の人権をどう守るかは、自由と民主主義国日本のメディアの責任です。
今回、朝日、毎日、フジテレビという巨大メディアは、その責任を果たせなかったのです。しかしまた、この報道に対してクレームをつけているほかの新聞社、テレビ局にはスクープを逸した悔しさが、垣間見えます。もしも立場を入れ替えたとしたら、各社同じ事をするのではないかと私は思います。少女をインタビューするのは、スクープには違いありません。しかし今回の問題の背後には、単にこのスクープ競争だけが存在したわけではないと思われます。この背景にはさらに大きなマスコミ各社の思惑が渦巻いていると考えられます。すなわち平壤に報道拠点である自社の支局を開設することです。こうした思惑はメディアの報道の表面からはうかがい知ることはできません。しかし実は、平壤に支局を開設したいと言う野心は、拉致問題が発生したころからの日本のマスコミの深謀遠慮なのです。なぜなら平壤支局の開設は、北東アジアの中国東北部からロシア沿海州をカバーする情報拠点の構築であり、これは日本のマスコミ各社に大きな情報利益をもたらします。従来は、北京やモスクワやソウルやワシントン経由で間接的に得ていたこの地域の情報を、生情報として取ることができるからです。さらに今後、極東の国際情勢の震源地は恐らく平壤になるでしょうから、支局開設は焦眉の課題になっていると思われます。日本のマスコミの拉致問題の追及の手が鈍かった理由の一つにこの問題があげられると思います。つまり北朝鮮当局の覚えを良くして置きたい、できるだけトラブルを避けてにらまれないような記事を書くーーこれが”大人の新聞記者”の処世術というわけです。支局開設と言う餌をちらつかせながら日本のメディアを操作し、国交正常化というカードをちらつかせながら外務省や政府関係者を取り込んでゆく手法が北朝鮮の外交テクニックだといえます。つまり北朝鮮の金正日独裁政権益と日本の外務省益、政治家益と日本のマスコミの会社益が合致するとき、今回のような奇妙な報道スタイルが生まれるということを、肝に銘じる必要があるわけです。
このような北朝鮮側による日本のメディア支配(情報支配)を回避するためには、前号の36号でも指摘しましたが、平壤支局の開設と取材陣の投入にあたっては、日本側の報道機関各社(フリーランスも加える)の話し合いと合意によって行うことを、強く主張する必要があります。日本側のイニシアティヴが必要です。少なくとも拉致問題取材報道に関してはそうです。北朝鮮側が日本側の報道機関を選んで、一本釣りで認可するようなことを認めていては、いつまでたってもこうした不毛な状態が続きます。
鋭い質問を北朝鮮当局にではなく、いたいけな少女にしか向けることのできない日本のマスコミの衰弱とジャーナリズム精神の低下を覚えずにはいられません。
そもそも民主的な近代国家の政府とは、ひとりひとりの国民の安全と生命を守ることができなければ、なんら存在理由はありません。国民の安全や人権が脅かされたら、国家がこれを守る義務があります。そのために国民は税金を支払い議会や政府を信頼して国政を任せる。これはアダム・スミスの『国富論』いらいの近代国家の公理です。しかし拉致問題が発生して30年のこの間、日本政府はこの公理を果たすことができませんでした。特殊部隊を投入してでも、是が非でも、拉致された人を救出するという強い姿勢は見られませんでした。
私はこのフォーラムで、拉致された人が救出されないまま死亡した責任の一端は、政府だけではなく、日本のマスコミにもあると指摘しました。スクープ競争に埋没して誘拐拉致された人々の安全への配慮が不足していたということです。今度の少女の独占インタビューをめぐるスクープ競争もこれと同じです。日本政府や外務省が拉致問題への対処が冷淡だったと批判するマスコミも、実はそれと同じ体質をもっているのです。キム・ヘギョンさんのインタビューに関して、日本のマスコミは猛省する必要があると思います。なぜなら日本の戦後社会は、一介の国民の生命と安全が、国益とか巨大な組織権力の犠牲にならないこと、一人の国民が国家や組織の強制を受けずに自由な意志で生きることのできる社会を目指してきました。しかしここへきてそれが崩壊しつつあるのではないかという危惧を感じてなりません。この精神が忘却されつつあるのは、拉致問題への対応だけではありません。「失われた10年」の結果でもあります。日本の政治形態や官僚組織やメディアが北朝鮮の独裁官僚組織やメディアと同様のものであるはずはないのに、どこかに類似するものを感じてならない昨今です。それは、旧体制の政権益や既得権益にしがみつき、これを延命させるためにはあらゆる犠牲を省みないという思い上がりの体質です。
 
以下は前号(第36号、10月5日付からです)
 
拉致問題に選択肢はあるのか
のっぴきならないことですが、拉致問題には2つの選択肢があると思います。一つは、被害家族や拉致問題を考える議員連盟の人たちがいうように、このような非道な拉致というテロ行為を重ねながら平気で嘘をつく北朝鮮と国交正常化交渉など急ぐべきではない、という考え。もうひとつは、小泉首相がいうように、国交正常化交渉をするなかで、拉致被害者の真相を明らかにする、そしてその責任を追及してゆく、という考え。確かに、現状ではいくら調査団を送ってもこちらが要求するデータが出てくるとは思えませんし、北朝鮮がいまの説明を覆すこともないでしょう。従って、交渉を打ち切ることは現状を凍結すること、すなわち「生殺し状態」が続く、ということになります。解決への道は、いまの独裁軍事政権の崩壊を待って、ある程度自由化した新政権のもとで新たに拉致問題の調査をやり直すということになるでしょう。米国のホワイトハウス内部ではタカ派が勢力を増して、イラクと北朝鮮の2つを「悪の枢軸」と規定し、イラクに連続して軍事攻撃するというシナリオがあるといわれます。イラクの場合は、ポストフセインのプランがすでに進行しているようです。私の手元にある資料だと、ホワイトハウス内部に台頭しつつある若手理論家の考えは、「体制変革」です。「悪の枢軸=テロ支援国家」の独裁政権に対して、軍事力をもって「内部変革」を促し、民主化、自由化を強制するというシナリオです。「独裁者を追放せよ」(get rid of them)という強い姿勢なのです。タカ派は、「同時テロ」を契機に力を増し、ブッシュ政権内部の権力をほぼ掌握しているといわれます。軍事力を直接使わないまでも、経済封鎖などの諸圧力を従来以上に強化して早期の体制崩壊を促し、代替政権を作らせるのです。ブッシュ政権がタカ派の戦略を実行に移せば、北朝鮮の独裁体制は一挙に崩壊すると思われますが、この可能性は高まっています。しかしこれには極めて大きな犠牲が伴います。韓国の米軍基地は平壤の目と鼻の先にあります。もしも米国がその気になれば北朝鮮はひとたまりもないでしょう。しかしこのシナリオは「第二の朝鮮戦争」を意味します。
小泉首相の決断はこれを避けることにあっただろうし、韓国や中国、ロシアの利害も同様でしょう。北朝鮮の崩壊が現実化すれば数百万という大量の北朝鮮難民が発生します。第二のアフガンになるかもしれない。周辺諸国の経済にも大きなダメージを与える。しかしアメリカの保守派は小泉訪朝に冷淡で、独裁政権を延命させかねない日本の北朝鮮政策を苦々しい思いで見ているようです。とはいえこれまで米国に追従してきた戦後日本の外交上初めて、独自の視点で動いたことは確かです。この点で、今度の小泉訪朝は画期的であり、アジアの平和構築に対する日本の発言力が一気に増し、世界的な評価を受けているのだと思います。
したがって、正常化交渉をしながら並行して拉致問題を追及するというシナリオは、釈然としない選択肢には違いないが、日本にとっては現実的な選択肢でもあります。日朝首脳会談で小泉首相と同席した安部官房副長官にしても、拉致問題にかかわる家族との対応そのほかで、これまでの日本の政治家には見られない誠実さを示していると思います。党利党略や私心を捨てて本気で問題に向き合っていることがわかる。だとすれば、この問題を解決に近づけることができるのはやはり小泉政権しかないのではないか。そこで私は小泉政権の北朝鮮政策をある程度支持する立場で、以下のような条件を考えます。シビアな要求ですがこれが実現しなければ話になりません。つまり国交正常化交渉の窓口として日本国の機関を平壤に開設する。このなかに外務省、警察庁などから派遣した「拉致事件捜査本部」を置く。この事件に限って北朝鮮における法的な捜査権を認める。裁判権の問題はひとまず置いて、捜査権だけはフリーハンドで確保する。また、新聞社やテレビ局、放送局など報道機関の支局を開設させる。フリーランスも含め報道機関開設の選択、審査、認可は日本側の報道機関の合意によって行う。拉致問題に関する報道に関しては、日本国並の報道の自由を認める。現地で捜査、報道にあたる日本人、協力する北朝鮮関係者の身辺の安全を100%保障する。この措置に関しては日朝間だけの取り決めではなく、米国や中国、ロシア、韓国、国連諸国の監視協力体制をとりつける必要があります。現地における日本側の捜査と報道の自由ーーこれを北朝鮮側に認めさせることで、現状ではわからない拉致問題の真相がもっと明らかになるのではないでしょうか。少なくとも拉致問題の調査が、いまのような外務省だけの調査団では、単なる御用聞きの域を出ないので、何の役にも立たないことは、いうまでもありません。とりあえずは警察関係者の派遣、マスコミ関係者の特派取材と自由取材の保障が先決です。以上が、国交正常化交渉再開のための必要条件です。
 
横田めぐみさんの写真
訪朝団の調査に対して北朝鮮側は拉致死亡者のデータを示しましたが、
これで家族や世論の怒りはおさまるどころか、ますますエスカレートしています。横田めぐみさんの「精神病による自殺」についても、北朝鮮側の説明が本当なら、そこは精神病院というより思想改造施設、強制収容所と考えるべきです。日本の中学生の少女にすぎなかった横田さんが下校時に人さらいに誘拐され、北朝鮮で捕らわれの身となり、望郷の思いを語ることすら許されない過酷な環境のなかで、狂信的な思想改造教育になじめなかったのは当然です。自由社会で育った横田さんが、思想犯の強制収容所に入れられた可能性は極めて高いと思います。精神病=うつ病というのは拘禁性のノイローゼが原因で、もしも本当に「自殺」だとしたら、わずかに許された戸外の散歩のとき、発作的に行ったということは考えられます。奴隷の生活を続けるよりは死を選ぶ、という動機なら理解できます。だとすれば、これは明らかに「拉致=政治テロが原因の死亡」です。われわれは横田さんの死を、NYのツインタワーの犠牲者と同じだという認識をしなければなりません。「横田さんの自殺」と言う説明を「テロによって追い込まれた死=テロ死」と改めるべきです。どこか横田さん本人にも責任があるかのような「自殺の説明」によって、報告を受けたご家族はいま「生き地獄」を味わっておられるのではないでしょうか。今回の「死の説明」そのものが、極めて「残酷かつ非道なもの」であります。
ひるがえって、もしも横田さんの生存の可能性があるとすれば、あの写真の情報から推論できます。警察の専門家が様々な指摘をしていますが、20歳ごろとされる横田さんの写真には不可解な部分が多すぎます。ここでは服装についてあげておきます。93年に29歳で亡くなったのであれば、20歳ごろの写真の撮影年代は1984年ごろということになります。当時の北朝鮮は儒教の影響もあり女性の服装は厳格で、特に若い女性が人前で肌をあらわにすることはないと思います。腕が出るノースリーブとか胸元があいた服は普通の女性は着用しません。ワンピースの胸のボタンはきちんと閉じたものでなければならない。ところが、写真の横田さんの服はかなり胸元が開いており当時の北朝鮮の女性の服装としてはとても派手なもので、女優とか芸能人、踊子のような特殊な職業の女性の服装ではないかと思われます。工作員の仕事をさせられていたという横田めぐみさんの服装としてはなじみません。(もっとも、工作員つまりスパイという説明も理解できません。嘘ではないか。13歳の可憐な少女にそんなことができるはずはないと考えるべきです)。
最近は、中国の開放経済の影響もあって、厳格だった女性の服装の傾向はかなり緩んできているようです。こう考えると、この写真の撮影時期はもっと後のこと、つまり亡くなったとされる93年より後ではないか。警察の関係者も「写真の年齢は30代の後半と考えてもおかしくはない」と指摘していました。そうすると横田さんのいまの写真と考えることができます。つまり、横田さんは生きている、ということになる。服装や写真の年代が20歳よりかなり上、あるいは現在に近い時期の写真、と考えると「横田さん生存説」の信憑性はかなり高まるのではないかと思います。横田さんがなお生きているのであれば、いまだ「テロ死」にはいたっていないことになり、日本の世論の怒りはいくぶんでも和らぐはずです。横田さん以外の方々についても、自動車が極めて少ないところでの「交通事故死」とか、地雷や軍事施設だらけの海岸で「海水浴中の溺死」などは、死の説明としても極めて不自然でおかしいと思います。もし、これらの死が本当だとしたら、横田さんの死と同様の、「国家犯罪である拉致死=政治テロが原因の死=テロ死」という認識が必要になります。従って今回の拉致問題の追及は、小泉首相が唱える「テロとの戦い」の一つでもあります。
 
以下はだい35号(9月20日)からです。
 
もうひとつの「失われた10年」
 とりわけ重く悲しい事件です。困難な問題を切り開いた小泉首相の今回の決断と勇気は評価しますが、やはり処刑されていたのか、という思いがのしかかる。われわれは、黙して手をこまねいていた・・。とりわけ中学生の少女にすぎなかった横田めぐみさんの死の知らせは、言葉もなくす衝撃です。警察庁が認定した拉致被害者11人中の2,3人が亡くなっていたとしたら、まだ自然死ということもありえます。しかし常識を超えて、バタバタと若い人が相次いで死んでいる。80年代に有本恵子さんらの写真や手紙が表に出された段階で、拉致された人たちの生命が危険にさらされたことは、容易に想像できます。拉致発覚後すぐに行動を起こし、小泉訪朝がもう10年も早かったら、生存者の数は倍増していたはずだし、93年に死亡したとされる横田さんも生きていた。相手が拉致を認めない以上、ばれたら被害者が殺害される危険があると、外務省は考えなかったのだろうか? これは国内においても誘拐拉致犯罪捜査における常識です。お得意の「要人パーティ外交」で乾杯していれば何とかなるとでも思ったのだろうか。その恐るべき甘さ。問題の巨額の外交機密費をこうした非常時の邦人救出に使うことは考えなかったのだろうか。外交機密費とはこういう非常時にこそ使うべき資金ではなかたのか。このさい、外務省はこの問題でどれくらいの外交機密費を使ったのか、明らかにしたらどうだろう。機密費も相応に使って努力を重ねたがうまくいかなかった、というのならまだしも世論の怒りは和らぐのではないか。拉致を真剣に受け止めなかったからこそ、外交カードに利用したのではないかという世論の疑惑が生まれたのです。日本国民の生命が集団的に危険にさらされているという認識が欠如し、(外務官僚ほど偉くはない普通の国民の生命の軽視なのかもしれないが)、外務省はあまりに無造作に拉致被害者の生死情報を発表したものです。そのさい、死亡年月日を隠すという情報操作までしている。長い歳月をかけて生存を願ってきた両親、被害家族の切ない祈りは一瞬にして砕かれました。南方で戦死した父の死亡通知書がある日、突然、舞い込んできた、遺品も遺骨も無く、不確かな死亡年月日が無造作に書き込んであった、そのときの幼い記憶がよみがえったと、私の家族はいいました。
拉致は非合法の誘拐行為ですから、騒がれて人質を殺害する誘拐犯の心理と同じ論理が働く。有本さんに関する手紙が届いたとき、相談を受けた関係者、機関、政府組織、政党は決して口外せず、マスコミにも知らせず、極秘に救出作戦を練るべきでした。間違っても北朝鮮側にこの手紙の情報をいっさい漏らすべきではなかったが、無責任な交渉まがいの行動をとった政治家がいたということは、残念至極でした。いずれにしても拉致発覚後は、迅速に救出行動を起こす必要がありました。
といっても、いかなる行動がありえたか。これが米国国務省ならきちんとした救出作戦を練って実行に移したでしょうが、日本外務省にそんな難解な作業をこなす能力や知力、情報収集力がないことは、すでに自明の理です。外務省に力量があれば事件は無事に解決していますから。別に今回の死亡日時の公表にまつわる不手際だけの話ではない。いつもそうですが、交渉すべき相手方の忠実な御用聞きのようなことしかできていない。ああそうですかわかりました、と聞いて帰ってきて、やはりこうでした、と説明しているにすぎない。事実関係の調査能力もデータを解明する交渉能力もないではないか。恐らく、ジャーナリストのほうがもう少しプロフェッショナルでしっかりもしていると思います。重要事件にかかわるインタビューのさいには、カメラ、テープレコーダーの持参は必須です。しかし、北朝鮮で生存者に面会した外務省職員は証拠となる記録を何もとってきてはいない。のちの記者会見の言葉を聞いていても、子供の使いよりもひどい。このフォーラムでもしばしば指摘しましたが、そろそろ役に立たないくせに税金を浪費する外務省は解体して出直したほうがいい。どこかの大使館にプールなどと言う話はもう聞くにたえません。
外務省の話は別として、北朝鮮による集団的拉致が判明した段階で可能な行動にはどのような手段方法がありえただろうか。拉致は非合法の誘拐だから通常の外交交渉で片付かないのは、自明の理です。恐らく、欧米諸国(アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ)などは、米国CIAのような諜報機関が出てFBIも極秘捜査し、友好国の諜報機関、軍、警察と連携しながら情報収集し、人質の生命を保証する形で極秘交渉するでしょう。米国なら軍事力で圧力をかける。それでもうなくゆかない場合は、恐らく「特殊部隊」が出動します。フレデリック・フォーサイスの小説には、金で雇われた傭兵特殊部隊の話がよく出てきます。アフリカ、中東などはこうした傭兵部隊が国際犯罪に対して活動するようです。特殊部隊は隠密の非合法活動もしますから、痕跡を残さないように現地に潜入し、被害者救出活動をするのです。「スパイ大作戦」の映画のようにある日、拉致された人たちが友好国のどこかで発見される。あるいは何事もなかったかのように、自宅に戻っている・・・。キューバをめぐるCIAの工作の失敗に関して、故ケネディ大統領の有名な言葉は、「CIAの仕事が成功しても、認知も賞賛もされない。しかし失敗すると世間に大声で喧伝される」。当然ながら、軍事と密接に関連する特殊部隊の活動は堅固なコントロールシステムがなければ危険な存在ではあるが、国益や国民の生命を守る”必要悪”として機能することがあるのです。
いまの平和憲法下の日本では、こうした特殊部隊による救出作戦は考えられないことだし、法制度としてもありうることではなかった。しかし巨額の外交機密費を握る外務省なら金の力によって拉致被害者を奪還することは可能だったかもしれない。また日ごろ緊密な同盟関係をいうアメリカの軍事当局から何がしかの情報を得ることはできなかったのか。米軍は北朝鮮の諜報活動を監視し、衛星探査もしているのだから、拉致被害者の情報をもっていた可能性は十分にあります。いずれにせよ、ノーマルな外交交渉が及ばない民間人拉致被害などの救出に関して、同盟国、友好国の作戦協力を得て緊急に救出する特殊部隊の編成についても、今後の日本の新課題として考えてゆく必要があるかもしれません。まだ明らかではない拉致被害者も含め、日本の捜査当局が現地におもむき、全貌を調査すると同時に、生存者の救出を急ぐ必要があります。
ところで、不手際は目立つが、今回の拉致死は外務省の直接責任ではないでしょう。となると、北朝鮮によるこのような一方的な“戦争行為””、民間人誘拐拉致という非合法行為を放置してきた歴代の政治責任(与野党を問わず)が浮上します。テポドンの発射、不審船はそうした危険を告げるシグナルです。小泉首相以前にも、与野党を問わず多くの大物政治家が北朝鮮を訪問している。それなのに懸案問題はまったく解決できなかった。あれだけ証拠がそろっているのに「拉致」も認めなかった。北朝鮮側が拉致を認めなかったから、解決できなかったというのは、言い逃れにはなりません。いま厳然としてあるのは、「結果責任」です。問題をずるずると引き延ばし、その過程で拉致被害者の生命が一人、また一人と消えていった。あるいは消されていった。日本の政治が拉致被害者の生命を救うことができなかったという重い結果責任があります。
とはいえ、北朝鮮との国交正常化はいまの国際情勢の中で不可欠です。欧米、中国、韓国など世界のメディアが報道しているように、極東の緊張緩和に向けた小泉首相の包括的な視点は政治家としては間違っていない。今度の日朝首脳会談によって小泉首相は、日本の首相としては珍しく世界的な評価を受けると思います。ベルリンの壁の崩壊後、日本は東西冷戦の枠から脱して、自前のきちんとしたポスト冷戦戦略を練ると同時に、朝鮮半島に対する過去の植民地化、侵略行為への謝罪と償いの表明をきちんとしておくべきでした。すべてが遅きに失した。少なくとも、約10年前のベルリンの壁の崩壊、それに続くソ連邦の崩壊のあと、ただちに日本独自の冷戦処理と戦後処理プログラムを創り上げるべきだった。そのプログラムの中に、誘拐拉致された日本人の生命の保障と救出計画を盛り込むべきだったのです。しかしそれができなかった。放置されてきた。そういう日本政府の怠慢によって、多くの拉致被害者の生命が失われたのです。いまの深刻な経済不況もこれと同じ問題のレベルにあります。国民の命に酷薄な日本政府。拉致死は、もう一つの「失われた10年」の結果です。ドイツのように早期の戦後処置をきちんと行っていれば、そもそも北朝鮮によるこのような拉致事件はなかったのではないか。
民の生命や人権は「枯葉」のように軽い・・。阪神大震災で、国には頼れないと多くの被災者が感じたのと同じことが、今回の拉致死をめぐる一連の出来事からも見えてきました。一介の民に酷薄な政治の権力、政府、官僚システムとは何なのか。この問題を考えたとき、あの瀋陽の領事館事件が思い出されます。背筋がぞっとする光景、もう見たくはない光景、そういうものを今回もまた見せつけられました。
 
拉致死の責任はマスコミにもある
拉致死の外務省や政府の対応と責任について、日本のメディアは集中砲火を浴びせています。外務省の対応は本当に頼りない。任せては置けない。自力で北朝鮮に乗り込んで調査するしかない、とテレビで発言する有名人もいます。しかしここは、政府批判ばかりしていないで、日本の大手マスコミのジャーナリストも問題を共有して、取材に動いてほしいと思います。このさい、できるだけたくさんのジャーナリストが北朝鮮に入って、この問題のルポルタージュをしてほしい。拉致から死に至る若者たちの詳細なライフヒストリーを読んでみたいのです。なぜ、そういうことが起こったのか、これは現代史の闇の深い部分を照らすことになるでしょう。すべての事実は言葉で語られるべきことです。黙して語れなかった死者に代わって真実を語り世界に示すこと、これこそが死者の鎮魂になります。また犠牲になった家族へのせめてもの慰めでしょう。この問題は、日本のジャーナリストでないと書けません。しかし一介の民間人やフリーランスでは危険がある。日本新聞協会加盟の大手の新聞、テレビのジャーナリストならそれなりの取材はできますし、身の安全も保障されるはずです。かりに勇み足をして北朝鮮当局ににらまれても、国外退去ですみます。拉致被害者の生死に関するルポルタージュ、調査報道を、是非、真摯にやってほしい。あわせて北朝鮮社会の現実と歴史をわれわれも知る必要があります。同時に、戦後日本が歩んだ民主主義と自由の価値を北朝鮮社会に知らしめる必要があります。戦前の日本の侵略や植民地化にかかわる歴史認識の問題も含め、この仕事は今後の日本のジャーナリストの責務ではないでしょうか。
いうまでもなく、拉致被害者の情報が大々的に表面化したのはマスコミの報道によります。新聞、テレビ、雑誌の各メディアは拉致問題特別取材チームを編成して、拉致被害者の情報を集め、断片的な報道をしてきました。しかしそれは被害者救出よりは、ある種の”スクープ合戦”になってゆきました。新聞、テレビ、週刊誌、ワイドショーと拉致問題は多様に報道され、結果として北朝鮮への日本の世論の反発と敵愾心を醸成してゆきました。「交渉不能な国」「悪の枢軸」と見るのです。
日本のマスコミは、国内の誘拐報道には「報道協定」を結んで、被害者の生命の安全を最優先し報道を控える取り決めをします。解禁になるのは、被害者が救出されたか、殺害されたか、結果が判明した段階です。拉致事件は、場合によれば国家犯罪ですが、誘拐犯罪であることに違いない。だとすれば、拉致被害者の消息や安否をめぐる報道には、最大限に慎重である必要がありました。断片の情報をあげつらうことで、北朝鮮はこんな非道なことをする国だ、という報道はできますが、拉致被害者はその報道によって殺害、処刑される恐れがある、ということをもっと慎重に考えるべきだったのです。各メディアのバラバラのスクープ戦争ではなく、拉致報道にはきちんとした「報道協定」が必要だったのではなかったか。国内の誘拐報道と同様に、あるいはそれ以上に国際誘拐報道に対する配慮が必要ですが、拉致報道に関してそのような話し合いがなされたということは寡聞にして聞きません。せいぜい、北朝鮮に友好的なメディアと反北朝鮮のメディアとに2分されたところで、拉致問題のファクトの解釈がなされていたように思います。拉致はないという北朝鮮当局に対して遠慮気味に書くか、鬼畜のように遠慮なく書くかの違いだけです。要するに「二項対立の図式」のなかで、日本のメディアの拉致問題は処理されてしまった。最も重要な「生命の危険」と「救出」いう視点が、日本のメディアからは完全に脱落していたのです。横田めぐみさんの母親が「人の命の重さをどう考えていますか」と発言していますが、この言葉はじつに重い。命に無関心だったのは外務省だけではなく、メディアも同じだったんです。外務省や関係者がいくら極秘で調査していても、いったんメディアに情報が漏れて無責任に書かれたらひとたまりもありません。被害者は国交のない別世界に幽閉されているのです。処刑されたら終わりです。このことに配慮したメディアはどれほどあったのか?。スクープさえ取れれば被害者や家族の苦痛、悲嘆はどうでも良かったのだろうか。政府や外務省の責任を追及する一方で、日本のメディアも、北朝鮮問題では自己批判すべきことが多いのではないか。かくいう私も、ジャーナリズムの現場にいた一人として、忸怩たるものがあります。
 
メディアを議論する広場
ここはメディアと文化について考え、議論するフォーラム、メディア批評の広場です。寄稿者のご意見も紹介します。写真やグラッフィクスがなく、字ばかりで恐縮ですが、字でないと伝えられないことがたくさんあります。「ウォール・ストリート・ジャーナル」や「ル・モンド」などの高級紙は、極力、写真や画像を使いません。センセーショナリズムに陥るのを警戒しているのです。20世紀はテレビが先進国の大衆社会をリードし、政治の様々な局面を大きく変えてきました。東欧の崩壊を促したのは、西側のテレビでした。60年代からアメリカでは大統領はテレビが作るといい、テレビジャーナリズムが生まれました。
日本の小泉内閣の誕生は「ワイドショー内閣」といわれ、テレビが作った政権といわれています。遅まきながら日本でも、社会的影響力の強いテレビが、娯楽本意から脱皮してテレビジャーナリズム時代を迎えつつあるのだと思います。”視聴率のための低俗化”が宿命のように見なされていた日本のテレビ界は、これから激しい生存競争と淘汰にさらされるでしょう。
そういう映像の時代だからこそ、活字メディアの存在が重要な意味をもつことを忘れてはなりません。著名なテレビキャスターのクロンカイトは、「テレビだけから情報を得ている人は民主主義社会で参政権を行使するに足る十分な情報をもちえない。民主主義社会の市民としては、優れた新聞、雑誌、書物を読む必要がある」と自伝のなかで自戒をこめて語っています。60年代、クロンカイトがテレビ番組で米政府のベトナム介入政策を激しく非難したとき、ときのジョンソン大統領をして、「クロンカイトを失ったのはわれわれがアメリカの主流を失ったにひとしい」と嘆かせたほどの大物ジャーナリストでした。
しかし、映像は力があるのと裏腹に「暴走」もします。間違ったイメージを世界に広め、誤解によって感情的になった大衆が妄動することもあります。
文字によって人類は歴史を蓄積し、思考力と思索力を高めてきたのです。人間が近代文明と自由な民主主義社会を作ることができたのも、活字の力でした。映像の暴走をコントロールできるのは、理性による活字文化の力です。
通信を始めて気がついたことですが、外国人やさまざまなメディア関係者たちがこのHPを見に来て下さっているようです。新聞やテレビの関係者の方々が、ここから何かのヒント、手がかりを得ることができましたら、現場の仕事に是非、反映させてください。最近の日本のメディアは自己中心的で、スキャンダル報道以外の目的喪失現象が顕著です。人のスキャンダルに溜飲をさげ、スペースを埋めるために記事を書き、番組枠があるから番組を作る。それは多忙の「ニヒリズム」です。他者に対しては声高に「構造改革」を唱えていますが、本当は自らのシステム改革も緊急課題なのです。そうでないと、読者、視聴者はメディアからアナーキーでニヒリズムの基調音しか聞けなくなってしまいます。日本のメディア文化は政治文化と同じように、世界の現実から目をそむけた極度の自閉性が顕著で、この自閉と自己満足の精神構造は日本人のいまの袋小路の閉塞感に結びつき、その元気の喪失がどん底の経済不況に直結しています。世界のテロと報復の連鎖も恐ろしいが、いまの日本の「閉塞と不況の終わりなき連鎖」も恐ろしい。若者の将来不安にはすさまじいものがあるようです。失業の恐怖は社会的弱者である若者を直撃しています。高齢者だけではなく、大学生の就職戦線非常に厳しい。高校生の諸君から大人社会や学校への激しい批判、家族や外界を遮断して自分を守る告白メールをもらうことがあります。いつ壊れるかもしれない自分、何かしでかすかもしれない自分・・出口を失った若者の危険な感性を綴ったものですが、胸をうたれる文章に出会います。そういうとき、更新を怠っていたことを反省し、このフォーラムを続けてゆく元気が出ます。
 
以下は前号第34号(9月5日発行)からです。
田中康夫氏再登場の意味
長野県知事に田中康夫氏が再選されました。古い議会の政治体質にうんざりした県民の意思が田中氏の再登場を許したのです。それにしても長野県民の不幸はわれわれ日本国民の不幸に重なります。時代の変化を認めず頑迷固陋を絵に描いたような議員や指導者の失政、悪政によって苦境に追いやられた挙句の、少しはマシかもしれないとう思いにかられた半信半疑のチョイスです。期待というよりは、怒りの表明にすぎない。不信任に賛成した議員は即刻総辞職してしかるべきなのに、懲りない面々は、総辞職もせずいまだにごちゃごちゃいってるようです。グローバリゼーションと情報化のなかで、政治ゲームのルールが一新されたのです。田中知事が新しい指導者として万全か、といえばそうではないことも自明の理です。だけど「選択肢」が出現したことが日本の政治文化にとって大きかったというべきです。
日本人は「仕方がない」といってあきらめてきました。「仕方がない」を英訳すると、「NO CHOICE」です。戦時中、特攻で死んだ兵士たちも「仕方がない」といって自爆したことを、GHQの尋問記録が明らかにしています。ほかに選択肢がなかった。日本人はいかなる悪政であろうとも、政治がもたらす結果を「仕方がない」という運命観でとらえていました。しかしいまそういう諦めの政治文化に対する「文化革命」が長野県で起こっている。これは全国に波及するかもしれない。自分たちの今と末来を自分たちのものにしたい、そういう思い、つまりは「新しい選択」です。当たり前のことだが、田中氏の再登場には、日本人にも「仕方がある」、「チョイスがある」、という文化が芽生えてきた証と受け止めるべきではないでしょうか。チョイスには、希望の芽があるのです。
 
 
思考放棄、いつまで続く「二項対立」の文化
 長野県の田中知事の脱ダム宣言VS県議会の不信任、メディアVS政府与党のメディア規制3法、郵政民営化VS郵政族、構造改革派VS抵抗勢力、公共事業VS反公共事業、環境保護VS開発・・とこの国の政治文化は相変わらずの55年体制、すなわち「米ソ冷戦時代」の遺物である「二項対立図式」をひきずっています。本当は、「対立VS構造」の間に広がる広大な荒れ地の部分にある複雑な現実社会の中身を具体的に点検し、新しい日本のシステムを再構築する手がかりと情報を得ることが急務のはずだが・・・。要するに、思考を放棄し、半世紀も前の遺物である古い自分のイデオロギーや信念にしがみついている指導者たちによって、この国の現実と末来が担われてしまっているということです。双方の喧嘩、いさかいを伝えるメディアも、タテマエでは「不偏不党」を掲げながら、実は政治的立場とか既成のイデオロギーに縛られているし、それによって法的な庇護や国家の規制に守られていて、ほかの産業以上に隠れた既得権益を手にしている。記事や報道コンテンツに関しても、くっきりした対立があるファクトのほうが取材が楽で、事件を単純化しやすく、視聴者、読者にもわかりやすいという利点があるので、この手法が記事や番組作りの最大のノウハウになってしまっている。だれとだれが喧嘩している、どことどこの勢力や組織が不仲である、対立している、というスキャンダルがらみの話のほうが、この国ではニュースになりやすい。だから、必要以上に、事実のもつ「二項対立」の面だけがあおられて、事件の複雑な経過や背景は無視されることになるわけです。こうした「二項対立文化」は、冷戦型の55年体制の政治文化と思考を放棄したメディアの合作、というべきものにすぎません。
「失われた10年」は、ベルリンの壁の崩壊の意味を解読できなかった「日本型自閉症」のために発生しましたが、このような「二項対立文化」が今後も続けば、「日本の失われた21世紀」ということになるでしょう。この国の指導者たちは、「脳みそ」をきちんと使ってものを考えているのだろうか。料亭の美食と酒でぶよぶよになった海綿状の「脳みそ」の持ち合わせしかなくなっているのではないか?
 
「個人情報保護」という名のアナクロ政治ゲーム
「国民の個人情報保護」とは、究極、この国ではどうでもいい問題になったように見えます。一介の国民の集合体である世の中には、そういう疑心暗鬼が広がっています。地方の自治体や野党や一部のメディアなどから、8月に施行される「住民基本台帳法案反対」の声が出てきましたが、期間切れを待ったかのような直前というだけではなく、かぼそく迫力に乏しい。どう見ても、とってつけたようなアナクロ政治ゲームです。かりにも、民主主義を国是として宣言する日本国の国民としては、不幸なことだが、防衛庁の事件を見れば、日本の政府や役所が率先して個人情報を守ることなどありえないことがわかりました。国民を監視するか、なんらかの形で取り締まるために国民の個人情報はプールされているとしかいえない現実がある。政治家のどれほどがこの法案の中身をきちんと理解したかはわかりませんが、おそらく「個人情報保護」は選挙で役に立つ票にはならないのでしょう。政治家の出足が鈍いのはそのためだと思われる。しかしながらこのままだと、政府当局の国民情報利用と漏洩に対する何の法的な歯止めもない「国民総背番号制」が、ずるずると実施されてゆくことになります。一介の国民は、税金を支払う生きた道具として、養鶏場のブロイラーのように管理されるかもしれない。
日本では、このような信じられないことが、政府の手で進行していますが、ハーバード大学の憲法学者ローレンス・レッシグの近作『CODE』には、「個人情報の保護」と「自由」を守るための優れた方策が示されています。一読をすすめますが、脳みそを絞りつくしたかのような、ものすごい知的な能力とエネルギーが注がれた本です。電子化とインターネットの時代における「言論の自由」「個人情報」「プライバシー」および生活上の様々な「個人的な自由」をどう守るかーーが議論の核心です。ミルの『自由論』やトクヴィル『アメリカの民主主義』が、レッシグの思想の原点ですが、民主主義と自由と個人の人権を守るためには、政府とも手を結べ、という主張があります。「政府に反対する自由」という古典的な言論図式では、もうやってゆけない時代になった。古典的な言論の図式とは、「政府は悪、政府に反対する言論は善」ということです。しかし、21世紀電子情報化社会にあっては、政府をも味方につけなければ、ネットにおける個人の自由は保障されなくなる、というのが、レッシグの主張です。
ところで、この本を読んでゆくと、「政府VS言論の自由」という古典的な図式は、言論先進国のイギリスやアメリカではすでに19世紀に決着済み、ということがわかってきます。メディア(当時は新聞)による名誉毀損やプライバシーの侵害を規制するための法律は、清教徒革命から18世紀にかけてのイギリスや独立戦争以前のアメリカでしきりに作られましたが、市民革命後の近代になると、法的規制によって言論を取り締まるいかなる試みも不可能な時代になります。欧米の「言論の自由」は不可侵の憲法上の理念になるわけです。
「独裁的な政府が言論の自由を侵害する脅威」は、ソ連型社会主義の崩壊によって姿を消した、というのがレッシグの考えです。冷戦崩壊後の先進国では、言論の自由に対するあからさまな脅威の危機は、政府によるメディアの抑圧や統制ではなく、大資本や商業主義によるほうが大きいというわけです。大資本や商業主義がメディアや電子空間を買い占めて占有支配し、ソフトウエアに埋め込まれたコードによってユーザーを規制し、言論の市場を独占してゆく。巨大なメディア会社は個人情報を大量に蓄積しており、そうした巨大情報資本によるプライバシーの大規模な侵害が起こりうる。実際、情報グローバリゼーションの世界は、 「WE ARE THE WORLD」と豪語するわずか10くらいの巨大情報資本によって占有支配されつつあります。そういう巨大情報資本の企業グループには、タイムワーナーとかデイズニーとか、つい最近、M&Aの話題になったフランスのビベンディなどがあります。
このような巨大情報資本の脅威からネットの表現の自由と個人のプライバシーを守るため、ハイテクネット技術(ソフトウエア)を開発する必要があるのです。問題は匿名の落書き程度の誹謗中傷だけではありません。自由とプライバシーの価値を守るために、あらゆる叡智を傾注しなければならない。「言論の自由」のために、政府を敵視するのは、いまやアナクロニズムである。巨大資本が政府と手を組み政府の尻をたたいて、自分たちに有利な法律や規制を作ってしまう前に(知的所有権は大資本のご都合主義に陥る)、われわれの側が先に政府を味方につける必要がある、というのがアメリカ民主主義の申し子のリベラリスト、レッシグの主張です。
ひるがえって、わが国の「個人情報保護法案」は、レッシグのいう「自由」と「国民のプライバシー」を守る方向とは正反対の、メディア規制へと進路を急変させました。迷走する台風が、突然、反対方向へと向きを変えたようなものです。あわてたのはメディアで、いつになく呉越同舟の反対大合唱でした(のちに一部の大新聞が微修正で賛成へ回るという裏切りで、足並みの乱れも露呈したが)。いずれにせよ、一介の国民のプライバシーよりは政治家や高級官僚のプライバシーのほうが大事、というのがメディアを規制する側の本音でしょう。メディアが垂れ流すスキャンダルや不祥事暴露に歯止めをかける。力づくでメディアを黙らせる。もちろん、これまでのメディアの振る舞いには大いに問題はあり、世論の中には、無法な取材、記事、番組を糾弾する声も高い。メディア規制は、そうした世論の中にあるメディア不信を足場にしていることも間違いのないことです。
それにしても、「政府VS言論の自由」と言うアナクロニズムの対立図式が、21世紀の日本に再び現れてきた、というのは驚くべきニュースにほかなりません。外国のメディアは、この法案が成立すれば、日本のメディアは政治家のスキャンダルは書けなくなる、と驚きを伝えています。
戦後半世紀以上もの間、日本人が口にしてきた「言論の自由」とは、何だったのだろうか。日本に言論の自由があるというのは、錯覚にすぎない思い込みだったのだろうか。「表現の自由を規定した憲法21条は守る。しかし行過ぎたメディアは規制する」という法案執筆者のゆがんだ言論観、憲法観はどういう性格のものなのか。深い分析と解明が必要です。
1972年、沖縄返還の外務省機密文書漏洩にかかわる毎日新聞の西山記者事件の顛末が、最近のニュースで明らかになりました。アメリカの国立公文書館が、当時の機密文書記録を公表したからです。30年前、西山記者が執筆した「米国と日本の間に密約があった」という記事は真実だったことが、米国の公文書によって証明されました。その内容は、米軍施設関連費用は日本が肩代わりすることと、米軍沖縄基地の核兵器にかかわる密約です。このとき、「密約」を取材して書いた西山記者は、逮捕され有罪判決を受けました。外交機密の漏洩をそそのかしたという罪と罰です。取材の方法が正当ではなかった、外務省の女性職員と関係をもち、男女関係を使って情報を入手したことは、正しい取材方法ではなかった。これが西山記者の罪状に関する理屈です。当時の新聞も、正しくない取材で得た記事の内容は正しくないという論法で記事を書いていたが、「密約があった」ことは、紛れもない真実だったということが、米国の公文書によって明らかにされたわけです。
今回のメディア規制法案でも、「取材方法の適切性」が焦点になっています。適切かどうかの基準は政府が決めるようですが、30年前の西山記者の取材方法は、いまでも正しくないということになるでしょう。正しくない取材で得た記事の信憑性についても、事実かどうかを決めるのは政府、ということになります。今回の西山事件の件では、アメリカの公文書は日本の公文書ではないから、その記事には信憑性がないという趣旨のコメントを、日本政府高官は出しています。
ところで、ここからあとが肝心な点ですが、「メディア規制法」などなかった30年前の西山記者事件のとき、現行法の枠内(国家機密漏洩のそそのかし)で、記者の逮捕と処罰が行われました。ということは、新たなメディア規制法など作らなくとも、西山記者事件の教訓を生かせば、現行法の枠内で十分に、記者の違法行為に対処できるということです。その意味でいうと、メディア規制法案は、屋上屋を重ねて、メディアの元気を奪い、萎縮させるだけの効果しか期待できません。旧大蔵省の厳しい管理と規制によって弱体化した日本の銀行と同じ運命をたどります。その果てに日本上陸を狙う世界のグローバル・メディア資本がどっと流入してきます。日本のメディアを政府の手で弱体化させ、膨大な日本のメディアマーケットを強力な外国メディア資本に献上しようとする”M&A・売国メディア・プログラム”が、どこかで密かに進行しているのでしょうか? 銀行はその国の経済、金融を支配します。メディアはその国の文化を支配します。従ってメディアのM&Aは、銀行以上に深刻な問題となります。
話をもとに戻して、本当の「プライバシー保護」と「言論の自由の擁護」のために、レッシグのような、先端の脳みそを駆使した真摯な議論が必要な時期です。それなのに、3周遅れのランナーのような、とこや談義にもならない不毛な政治論議と知的退嬰につきあわされている。まことにわれわれの疲労感と退屈感は、危険水域をはるかに越えて、倍加しています。どうやら「知の助っ人」が必要になってきたようです。このさい、重要ポストにあった皆さんには長年の失敗の責任をとって退陣していただき、ここは有能な内外の「助っ人さん」にお願いするほかなさそうです。とりわけ、政治家の助っ人とインテリの助っ人、メディアの助っ人などがぜひとも必要な時代になりました。サッカーのトルシエさん、日産のゴーンさん、のような・・。
 
「冷戦の終わりを告げるか、 領事館亡命事件とメディア」
はじめに「映像」ありき
「情報革命」を象徴する新しい事件、すなわち「陽」領事館亡命事件のことです。もしもあの映像がなかったなら、5人の家族の運命はすでに終わっていたかもしれない。領事館の境界線上で繰り広げられた亡命劇の映像は、極東の3つの国家の主権と国策が衝突し、国家の陰にうち捨てられ、木の葉よりも軽い”民の人権”を浮き彫りにしました。もう慣れっことはいうものの、お粗末を絵に描いたような日本外務省の不手際と共に、テレビ映像は瞬時にして世界を駆けめぐりました。まさに情報革命、すべてはこの映像を起点として起こったわけです。日本、北朝鮮、中国の国家権力の側からみたら、はなはだ迷惑なカメラであったに違いない。記者の活動をもっと取り締まっておけばよかったと思っているかもしれない。問題を闇のなかに葬れなくなったからです。あるいはアジアの「冷戦の終わり」を告げるシンボルになるかもしれません。国家主権の名の下に人権を抑圧する国家は、世界世論の糾弾を浴びます。あの映像は、経済繁栄をめざしてひた走る極東のもうひとつの顔、民には酷薄な官僚統制国家(非人権国家)の姿を物語りました。歴史の時計の針が何周も逆戻りするかのような、背筋が凍る映像が世界の人々の茶の間に映し出されました。警官の帽子を拾って返す日本人外交官や捕らえられる母親の前に立ちすくむいたいけな幼女の顔が、アップで映し出されました。映像の衝撃とグローバル・メディアの威力を見せつけた事件でもありました。
この領事館亡命劇の映像を見ていてベルリンの壁崩壊の事件を思いだしました。
ベルリンの壁が崩壊した直後、私はベルリンに行きました。堅固で絶対に崩れることはないと堅く信じられていた壁がブルドーザーやハンマーで壊され、威嚇のシンボルだったブランデンブルグ門は空洞になっていました。私は東と西をいったりきたりしました。つい数ヶ月前には考えられなかったことを、一介の日本人がいとも簡単にやっているわけです。夜になると、西ベルリンの明るさと東ベルリンの暗さが実に対照的でした。東ベルリンの壁伝いに歩いていると、真っ暗な中に光るものが点々とありました。白い墓標でした。東から西へ壁を超えようとして殺された人々の墓標なのです。享年を刻んだ文字には、まだ間もない日月が見えました。わたしは思わず、絶句しました。なぜ、もう少し待てなかったんだ・・・・。しかしそれが歴史の冷酷さというものでしょう。誰もが明日をしれぬ人生を生きている。もっと希望ある人生、よりよい人生を願うあまり、命を落とした人を責めることはできない。
暗い東ベルリンの町で唯一、光を放っていたのは美術館のウインドウにあるナム・ジュン・パイクのインスタレーションでした。パイクのの作品の光の点滅のイメージをいまでも忘れることができません。
東欧の崩壊を促したのは、西側のテレビだったといわれます。東ベルリンの人々は、違法を承知でパラボナアンテナを建て、西ベルリンのテレビを見ていました。当局がいくら西側の悪宣伝を流そうとも、映像は嘘をつきませんでした。西ベルリンのデパートのショーウインドーには豊かな商品が並び、行き交う人々の服装もきらきらして見えたのです。人々は、テレビ番組のメッセージより、カメラがとらえるノイズ(雑音)のほうにより高い関心をもって眺めていた、と私のインタビューに対して東ドイツの代表的な指揮者のクルト・マズア氏が語ったことを思いだします。テレビとは意図的なメッセージだけを流すとは限らないメディアです。権力者や政治家にとってそこが厄介なところです。目つき、体の動き、仕草などでその人が嘘をついているか、本当のことを語っているかを、ノイズがかぎ分けます。西側のほうがいい、と東ベルリンの人々が確信したとき、壁は崩壊したのです。いかなる圧政も弾圧も蕩々たる自由化の流れを阻止することはできませんでした。
こうして難民の流出が始まったのです。冷戦の崩壊と難民。ヨーロッパから遅れること10余年、アジアの冷戦の崩壊は、すでに予想されていたことです。いつになってもおかしくはない。朝鮮半島の38度線は危うい休戦ラインにすぎず、いまだに平和条約は結ばれてはいないという現実があります。かりに冷戦の崩壊、つまり南北の壁が崩壊したとすると、難民が出る。貧しい北から豊かな韓国や中国へ人が流れる。日本にも来るかもしれない。いま東アジアにこういう状況が生まれているからこそ、領事館事件は、大きな国際的、歴史的な意味を持つのです。単なる国家主権、単なる人道上の問題ではありません。日本政府も外務省もこうした歴史的な大課題に備えたシュミレーションや政策を持たないから、大慌てしてぼろをだしたのでしょう。難民を入れないという日本政府の方針は、冷戦時の55年体制のもとでは、他国の理解もえられ、それなりの有効性もあったが、すでにそうした国際環境は大きく変化している。すでにアメリカもヨーロッパのたくさんの難民を入れてきた。次は日本の番ですよ、と世界のだれしもが考えている。「有事立法」で自前の防衛をするのが国際貢献、というなら、当然、自前の難民受け入れ政策も立派な国際貢献なのです。軍事には夢中になるのに、難民は排除するというのでは、世界に通用しない。それにしても、外務省はもはや体をなしていない。一度、解体して出直したらどうか。苦境にあえぐ国民をよそに、貴重な税金をこれ以上無駄使いさせておくべきではない。
 
                                        
以下は前号(4月21日、第31号)からです
「メディア規制3法」という悪法
「悪法といえども法なり」といって毒杯をあおいだソクラテスの話を前号で書きましたが、今国会で審議される「メディア規制3法」は、戦後まれに見る悪法ではないかと思います。「言論」に対する無知蒙昧をさらけ出しているばかりでなく、「表現の自由」を規定した憲法をも冒している。間違いなく、国民に毒を盛る法律です。この法案は、「下品なメディア」と「民主主義が大嫌いな政治家」と「既得権益に固執する官僚」の3者の合作なのですが、大正デモクラシーの遺産が「治安維持法」によって根絶やしにされた昭和の暗黒時代を思い出します。治安維持の名目で言論を取り締まり、結局は軍部独裁と総力戦争への道を開き、日本は戦争に負けて壊滅した・・・。今年の桜は早く咲きましたが、散るのも早かった。いまのスキャンダル政治文化を象徴しているようでしたが、季節はずれのスキャンダル風に後押しされて、悪法がすらすら通る世の中が恐ろしい。

「憲法に守られた”スーパーマン”」

CATV契約をしてCNNやアメリカの映画チャネルなどを楽しんでします。日本の地上波TVを見るチャンスがめっきり少なくなり、ニュース番組やスポーツ以外はCATVを見ています。B級娯楽映画かもしれませんが、わたしは「スーパーマン」が好きです。「デイリー・プラネット」というアメリカの地方都市の小さな新聞社が舞台です。特ダネしか頭にないがチャーミングな女性記者、ガミガミしかる編集長、田舎者の新米記者(実はスーパーマン)などが主役です。賄賂政治家、腐敗した権力者、悪徳実業家などに果敢に挑み、手練手管を駆使し、変装して人に近づき、ビルへ不法侵入するなどすれすれの取材を繰り返しながら特ダネを手に入れます。それでも取材の壁は厚い。相手はなかなか尻尾を出さないばかりか、権力や地位をかさにきて逆襲してくる。新聞社の株を買い占めて、オーナーになって記者に挑戦してくる悪徳実業家もいます。記者たちはしばしば危機に遭遇します。そういうとき、「私たちの仕事は憲法によって守られている」と叫びます。米国修正憲法第一条にある「言論、プレスの自由」のことです。しかし憲法で守られているからといって、取材がすらすらできるわけではないし、危険が避けられるわけでもない。そこへスーパーマンが登場するんです。不死身で空を飛び、壁を突破し、透視能力をもつ神出鬼没のスーパーマンの援助で、記者たちは身の危険から逃れ、特ダネを手にし、紙面を飾ります。アメリカの新聞の伝統の「マクレーキング」(腐敗追及、暴露)という調査報道のやりかたがよくわかるし、何よりアメリカの新聞社の現場が生き生きと描かれています。また新聞記者の仕事は、「言論の自由」のお題目だけではできないことがよくわかります。相手方には取材に答える義務はないし、取材妨害してはならない、という法律があるわけでもない。スーパーマンがいたら、と思うのは、新聞記者ならだれしも思うことでしょう。不死身で屈強で腕力があり、マフィアも恐れない。あの機密書類さえ入手できれば、あそこの料亭の密会の会話を聞くことができれば・・・。敵を追い詰めてみたものの、最後の止めをさす証拠がない。もしも自分がスーパーマンだったら・・。そうです。新聞記者のスーパーマン願望を満たすドラマ、それが映画「スーパーマン」なのです。
スーパーマンがいて、はじめて本当の腐敗追及ができ、税金を食い物にする悪徳政治家、悪徳実業家たちの悪事が暴露でき、読者に真実を伝えることができる。このストーリーを裏返すとこうなります。本当は、スーパーマンなどどこにもいな現実の新聞社は、不完全な形でしか取材も執筆もできないところです。腐敗追及がしりすぼみだったり、データが乏しくて記事に迫力がなく中途半端だったり、時には権力の圧力に屈するのもやむをえないところがあります。実は、映画「スーパーマン」は、いくら立派な新聞であろうと、現実の新聞社は不完全な形の報道しか出来ないということを、示唆しているのです。
憲法に守られ、そのうえスーパーマンの協力が得られてはじめてまっとうな新聞記者の仕事ができる、という話。これはB級娯楽映画といって侮れません。その意味で、新聞記者の理想像を伝える映画「スーパーマン」は、言論大国アメリカならではの娯楽映画なのです。4月から「新・スーパーマン」として装いを新たにスタートしました。いまでは私の唯一の楽しみになっています。
わが「メディア規制3法」に話を戻しましょう。かろうじて憲法に守られてきたが、スーパーマンなどどこにもいない新聞社を、このさい法律で取り締まるという。まるで話が転倒しているではないか。これがアメリカなら、独自の調査報道を旨とする新聞記者は取材ができなくなって、新聞社は間違いなくつぶれます。アメリカの新聞記者は日本のように記者クラブに依存していないし、横並びの記事も書きません。「スーパーマン」の新聞社の編集長のプライドは高いですが、日本のお上はこれを「新聞社」として認定するかどうかわかりません。腐敗追及ばかりしている新聞社などまっとうな新聞ではない、と言われかねない。まっとうな新聞、まっとうな言論は、官僚が判断して決めるのが、メディア3法の趣旨です。お上に従順なメディアしか生き残れないことになる。だから、冒頭にも書いたように、これはかつての「治安維持法」と同じ精神にたつ悪法ということになります。言論の自由やメディアについてろくに学問したことのない、無知蒙昧の官僚がこういう法案を作文するから、国民に平気で毒を盛る悪法になる。かりに立法者が根拠としているテレビワイドショーや週刊誌の侵害(メディア被害)に対抗するには、新たな規制としてのメディア3法などいらない。現行法を活用すれば十分です。名誉毀損、人権侵害、侮辱罪、プライバシー権、肖像権、などなどの立派な法律の趣旨を十分に生かして、司法の場で決着をつければいいんです。これについては、拙著『日本型メディア・システムの崩壊』(柏書房)で詳述しました。たぶん、こういう本の一冊も読んではいないのでしょう。プライバシー侵害や名誉毀損には、アメリカの裁判所のように、侵害したテレビ局やタブロイド紙のひとつやふたつがつぶれるほど高額の損害賠償を命じればいいんです。そういう既成の法律を使うこともなく、いきなりメデァイ規制3法に飛躍した真意は何か? 下品なメディアを野放しにしていた責任は、民間放送にだけではなく、批判しなかったNHKや全国紙やブロック紙、日本新聞協会加盟社の地方紙にもあります。まずは日本のメディア界は総懺悔するべきです。そしてもしもこの法案が通過したら、国民に謝罪しペンを折るほどの覚悟をしてほしいものです。国民は下品なメディアのやったことの犠牲になりかけているのです。
「グローバル情報資本の思う壺になる?」
外国人の記者に混じって取材をした経験のある記者ならだれしも経験があると思いますが、スクープに貪欲な外国人記者の迫力に、日本人記者はとうてい及びません。プロ野球でいえば、大リーグと国内リーグほどの違いがあります。外国人記者はプロ意識の固まりで、これに比べると日本人はマイナーリーグのようなところがあります。プロ意識の面では、国際スクープ競争に太刀打ちできません。湾岸戦争のとき、CNNのピーター・アーネット記者がたったひとり敵国のバクダットに残り、戦争開始の実況中継をしたことはまだ鮮明な記憶のなかにあります。今回のアフガンの戦争にしても、1000人規模の西側記者が、タリバン支配下に潜入しましたが、その中に日本人記者はほとんどいなかったし、たまたま入ったフリーの記者がスパイ容疑でつかまりましたが、すぐに解放されました。しかし「ウオール・ストリート・ジャーナル」の記者は不幸にも処刑されました。そうした危険がつきまとうのに、欧米では多数のジャーナリストが最前線を目指すのです。名声欲や野心もありますが、真実を報道したいという欲求のほうが強いと思います。パリのダイアナ元妃の自動車事故死のとき、スキャンダル記者のパパラッティの執拗な追跡が議論の的になりました。パパラッティのような激しい取材競争をする記者も、彼らを資金面で支えるような巨大メディア資本も、日本には存在しません。写真一枚で一億円という値段をつける欧米のスキャンダル専門誌は、とてつもなく巨大な国際情報資本をバックにしています。もしもメデァイ3法で弱体化させられた日本のメディア市場に、そうした欧米のメディア資本が押し寄せてきたら、たぶんひとたまりもないでしょう。彼らは外国で雑誌を発行したり、グローバルな活動しますから、一国の国内法の規制は簡単にすりぬけて最大の利潤を追求します。ダイアナ事故のとき、フランスではプライバシー法によって発行できない雑誌を、ドイツで印刷してフランスに逆輸入するなどの販売手法を使っていました。もちろん雑誌は飛ぶように売れました。
記者クラブ依存症の日本人記者は、安全圏にいて記者クラブにたむろして、発表ものやあてがいぶちの情報をとるしか能がない、と多くの外国人記者は思っています。自立した調査報道が目的である彼らにとって、プロとしての競争相手ではありません。そんな「大人しく何も出来ない日本人記者」を取り締まる法律ができる、と聞けば、外国人記者は唖然とするでしょう。いまでもいいなりなのに、なぜ?なぜ? の連発です。
記者クラブでもともと統制的な日本の新聞が、もっと統制的になれば、もはや独裁国家かファッシズムの国の新聞と同じことになります。独裁政権の機関紙か上意下達の官報です。
今回、メディア3法の法案を読んで思うのは、法を生かす哲学の貧困です。どういう社会で何を目指しているのか、まったくわからない。メディアの影響力を規制できる自分たちの権力を誇示しているようにしか読めない。つまり、志の低さが露呈しているのです。まあ、いままでメディアに対するいろいろな恨み、つらみがある連中が「江戸の敵を長崎で討とうとしている」といってしまえば、それまでですが・・。あるいは、ひょとすると、メディア規制3法を考えた人は、外国の巨大メディア資本の手先ではないでしょうか。法律の規制で網をかけて日本のメディア全体を弱体化し、大衆のなかに情報飢餓状態を作リ出しておけば、グローバリゼーションをめざす外国メディアは、容易に参入してきて、日本国民に目新しく面白い情報の雨を降らせる。そして日本のメディア・マーケットを制覇するのです。こういうシナリオは金融ビッグバンで日本の銀行が体験したことに似ている。
メディア規制3法は、これまで参入が難しかった日本のメディア・マーケットに大きな弱点を作り出し、国際メディア資本の草刈場になるかもしれません。数年前、世界のメディア王といわれるマードック氏が、テレビ朝日株を買収して日本進出を狙いましたが、時期尚早という判断で、撤退したことがあります。今回のメディア3法によって、あるいは彼の日本進出の悲願が再燃するかもしれません。彼もまた、この法案成立を待ち望んでいるのではないかと思います。
以下は、第30号(3月26日発行)からです。
「デモクラシーには金も時間もかかる」
小泉内閣第二幕の劇間に割り込んできた、アドリブ「ムネオハウス物語」を演出したのはテレビと新聞、演じたのは鈴木宗男議員とNGOの人と辻元清美議員などの若手政治家でした。最初は善玉役者が大いに押して”勧善懲悪劇”が成り立っていましたが、悪役とはいえ主役の底力は強く、記者会見で大粒の涙を流したあと、加藤議員とか辻元議員のスキャンダルを道連れにしたシナリオの改変が行われました。結局、老獪な男性議員たちの身分はそのまま残り、その道では素人の女性、辻元議員の細々とした悪事がスキャンダル週刊誌にばらされた挙句、辻元議員は議員辞職に追い込まれました。唖然とするような、主客の転倒劇が始まったのです。しかし辞職会見のときの辻本議員の表情はいがいに明るく、涙の一つも見せなかったのは、鈴木議員とは対照的でした。日本人は男が人前でおいおいと泣き、女性がじっとこらえて笑顔をつくるんですね、とある外国人がいいました。いまの日本は強い女性の文化になっているのかもしれない。しかし実際は、「男の涙」に弱いのです。日本の政治家たちは。
辻元議員の辞職会見の模様を見ていて、前号でも紹介したイギリスの週刊誌「エコノミスト」の表紙のイラストを思い出しました。女性の表情をかたどった能面の左眼から一滴の涙が流れている絵です。特集のタイトルは「悲しき日本」でした。つとめて明るく振舞おうとする辻元議員の仕草は痛々しく、むしろ能面の表情に重なり、「悲しき日本」を象徴するように見えました。能面の一適の涙には、これから始まる「恐ろしい物語」の不吉な予感を感じてなりません。小泉内閣の経済危機はいっそう深刻化しているし、日本の「アルゼンチン化」という最悪の第三幕の可能性は消えてはいません。
ところが日本のマスメディアは、政治家の金銭スキャンダル暴露合戦へと狂奔しはじめました。スキャンダルの特ダネ合戦です。書類上の金の操作ーーー政治家ならだれしも身に覚えがあることでしょうから、戦々恐々となりマトモな政治意識は消滅して、保身に汲々とする。テレビで声高に「金がかからない政治」を主張する自民党議員がいるが、これはマヤカシの議論です。こういう保守政治家はどこかで密かに大金を手にしながら、有権者を欺いているのではないか。
金のかからない政治を、とテレビで叫ぶ評論家や政治家がいます。視聴者に受けると思っていっているのかも知れないが、本心でいっているのなら、無学、無教養としかいいようがない。政治家に金が必要なのは当然です。野党の若手議員でも年間1億、与党のベテラン議員なら10億はかかるといわれる。政治に金がかかるのは、デモクラシーの公理です。金のない政治家には貧しい活動しかできない。これは子供でもわかる道理です。デモクラシーは、豊かで自由な先進国の国民のためにある贅沢な政治制度だから、時間も金もかかる。それがいやならデモクラシーなぞ止めて、軍事政権か独裁政権を作ってファッシズムの国になればいいのです。一人の独裁者のもとに国民が結集して、すべてを上位下達する政治システムにすれば、政治に金はかからなくなる。そのかわり国民の生命も財産も独裁者の生殺与奪の中に置かれる。ロジックを無視して金のかからない政治を声高にいう政治家は、ファシストではないかと誤解されます。
アメリカの有力下院議員だと、100人くらいの秘書がいるのは普通です。秘書件費を含め、維持費をどうするか。特定の企業献金は禁止されているが、個人献金は自由です。政治家は自分の政策への賛同者を集めて広く献金をつのることができる。投資家を募るベンチャービジネスの起業家に似ています。豊富な資金を集める政治家は有力政治家になる。ところが、集めた金を同僚議員や野党に配ることはありません。それは買収になり、違法行為です。あくまで自分の政策の立案と策定、支持者の利益のために使うのです。ワシントンには、「ホットポリシーショップ」という、政策立案のプロたちが集まる「シンクタンク」がたくさんあります。ランド、ヘリテージ、ケートなどの有名シンクタンクは、1000人規模のスタッフを抱えています。福祉、安全保障、税制などについて、政治家は自分の政策理念に沿ったポリシーメーキングをこれらのシンクタンクに発注して、対価を支払います。シンクタンクは競争しながら、よりよい政策を磨くのです。政治家はよりよい政策プランを手にして、自分に献金してくれるスポンサーのために働く。しかしその集金システムと金の使途には透明性と公開性が要求されます。献金者の監査がありますから、経理はすべてガラス張りにしておかなければならない。
ところが、いまの日本の政治文化の基調を作っている「国対政治」とは、究極、金のある派閥の領袖から傘下の議員に金を回すのが主目的の慣習です。与野党を問わない、いわば「和」の精神文化です。当然、法案の審議の流れを決するのにも金が介在する。あるアメリカの政治学者で日本政治の専門家が、日本の首相経験クラスの有力政治家に「国対政治」の意味説明を求めたら、それだけは話せない、と答えたといいます。彼によりますと、法案によっては、70億くらいの金が使われてきたといいます。これは、和の精神による「根回し政治」というよりは、「金回し政治」というわけです。スキャンダルの温床になり続けている。「親分」が集めた大量の金を派閥の「子分」に渡す仕組み、それが国対政治の本質だと、この政治学者はいうのです。金は派閥だけではなく野党にも流れるわけです。ある歴史学者は、こうした日本の「国対政治」のモデルは、「古事記」の記載にもあるといいますから、本当に根は深い。「古事記」のころの日本はデモクラシーではなく、豪族の権力闘争の時代です。国民が預かり知らない夜陰にまぎれた派閥の権力闘争が、いまの自民党政治であるなら、「古事記」の時代から政治の本質は何も変わってはおらず、やはり日本は近代的なデモクラシーの国ではない。
今回、議員辞職した辻本議員のところには、きっとそうした金が回らなかったのでしょう。野党のペイペイということと、うっかり金を回したら、暴露される。うるさい議員が細々とした自身の金銭スキャンダルで辞職したので、ほっとしている「古事記政治家」はいっぱいいるのだと思います。まあ、「巨悪は眠らない」のです。やはりこれは「古事記」の世界以来の、日本の政治文化の伝統です。で、「エコノミスト」はあのような能面の涙のイラストを描いて見せたのでしょう。
週刊誌や新聞でたまたまスキャンダルを暴露された人物だけがつめ腹を切らされるということでは、日本の政治は変革できない。スキャンダル・ジャーナリズムの手中に落ちている。しかもリークあり、中傷あり、情報操作ありで、犠牲者つくりの技を心得た闇権力は、いつも獲物を狙って暗躍する。政治の駆け引きの材料になりますから。週刊誌の記者はネタに飢えていますから、リークがあればよだれを流して飛びつきます。
肝心なことは、システムそのものの変革です。在日のオランダ人ジャーナリストのウオルフレン氏は、80年代の後半に書いた「日本権力構造の謎」で、「官僚システムと政財の癒着、つまり鉄の三角形のシステムのガス抜きとして、槍玉にあげられた人物のスキャンダルが利用されている」といっています。スキャンダルに飛びつく日本のマスコミは、「システムの従僕として座敷牢につながれており、スキャンダルの集中豪雨によってトカゲの尻尾切りの役割を果たしている」。ウオルフレン氏によれば、日本システム(ザ・システム)は変革されることはなく、無傷のままサバイバルするというわけです。ついでながらいいますと、ズバリものを言い過ぎているウオルフレン氏の存在は、日本の国家主義的知識人や政治家、官僚にとって、辻本議員以上に、目障りで危険な人物であるようです。瑣末な間違いで脚をすくわれ、引用しただけで「ものを考えないインテリの典型」という誹謗を浴びせられますから、注意してください。現代日本の「隠れた禁書」なのです。
しかし、グローバリゼーションのなかの日本は、システム変革しないと国が崩壊する。大国の経済と文化のなかに飲み込まれるでしょう。日本のいろいろなビルや会社に、星条旗やユニオンジャックが立つかもしれないし、げんにそうなりつつあります。いまのような地獄を生きるよりはそのほうがほうがいいと思う国民も確実に増えています。要は、どこに税金を払って自分生活を守ってもらうか、です。
もうひとつ、ガバナビリティ、つまり国の統治と支配を認める正統性の根拠の問題があります。法はその正統性によって支持されるのであり、法を守るために法があるのではありません。ソクラテスではないが、「悪法といえども法なり」といって、国民が毒杯を仰ぐような政治は、マトモな政治ではない。いまの日本は確実に崩壊しています。憲法の理念、言論、個人の自由、人権を守るデモクラシーへの信頼がガガタニ揺らいでいる。税金を払う国民のインセンティブはひどく衰弱している。
日本の大学生が勉強をしないのも、これと関連しています。勉強して何とかなるという未来が描けない。面白くない授業、退屈な授業でもきちんと勉強すれば何かの役にたつと言う信念が得られないのです。どうせたいした未来はない、と若者が思うような国家は崩壊する。9・11以降のアメリカでは、民主主義に対する国民の信念は揺らいではいないし、国家への信頼感は逆に強まっています。米国民は、自由とデモクラシーはいいものだと確信しています。バラバラに見えていたアメリカ国民は、いま星条旗のもとへと結集しています。いくら面白くない授業でも必死でついてゆき、勉強するアメリカの大学の若者と、私語と携帯電話と無気力な日本の若者の落差を、痛感しています。

「ハワイの海を見ながら・・・」

久しぶりにハワイへ行ってきました。私は数年前、ここのシンクタンクなどで客員研究員をしていましたので、古巣のようなものです。ハワイは観光リゾートのメッカですが、外面からは見えない奥深いカルチュアーがあり、知的探究心をそそられるところです。海辺のカフェで2,3ドルのコーヒーを注文し、椰子の木と紺碧の海とサーフィンとヨットを見ながら、海風と花の匂いをかんじながらハワイ神話を読んでいると、すさんだ心が芯から休まります。人々はみな静かに自分勝手な気ままさで自由な時間を楽しんでいる。他人の視線などまったく気にしませんが、人に迷惑もかけません。
見覚えのある店屋や人々もほとんどそのままありました。懐かしい風景に出会えたのです。自分の住む家の周りが開発の嵐で激変する日本は見知らぬ故郷になりましたが、ハワイには昔ながらの故郷があります。しかしあの9月11日から何か変わったところがあるかというと、アメリカ本土の観光客の数が激増し、日本からの客が激減していることです。それからハワイ旗よりも星条旗が目立つことです。ブッシュ政権は、日本人の減少で閑古鳥が鳴くハワイに観光客を呼び戻す政策をとり、これが成功しました。これまではどこのレストランでも英語と日本語の併用ができましたが、最近では、英語しか通用しないウエスタン・カフェやレストランができました。また団体ではない日本人は入国、出国の検査も厳しくなっているようです。群れて遊んでいない日本人は怪しいと見られるのでしょうか。私はIBMのノートパソコンを持っていましたが、日本人にパソコンがどうして必要なのかと、かなり誰何されました。いちおう日本もIT国家なのですが・・。
9月11日以降のハワイは完全にアメリカ人のハワイになったのです。日本人観光客に占領されてきたハワイをアメリカは取り戻しました。おりしも太平洋戦争勝利メモリアル行事が目白押しで、行き交うマイカーにも小さな星条旗がつけられ、トレードマークの海軍帽をかぶった旧軍人たちが歓声を浴びながらパレードをしていました。大衆雑誌は、9月11日のテロを「パールハーバー・テロリズム」と呼んでいます。書店にはパールハーバーを扱う歴史や軍事歴史の書物が目白押しに並んでいます。ハワイに来る本土の観光客は、真珠湾のアリゾナ記念館を訪ね、「リメンバー・パールハーバー」という合言葉で心を一つにしているようです。ハワイではNYとは違うアメリカ人の愛国心の発露があり、これが半世紀前の日本の奇襲攻撃の歴史記憶に結びついています。
といっても、別にとりたてた反日意識があるわけではありません。日本人に接するアメリカ人の態度は実に穏やかです。9月11日の経験はアメリカ人を変えたのかもしれませんが、それはアイデンティテイの回復ということのようです。経済も回復基調にあり、ハワイは以前にもまして豊かになりました。マノア山麓のカハラ地区の高級住宅街はビバリーヒルズ並みの地価がつき、ハリウッドスターや情報産業のニューリッチの豪華別荘、邸宅が立ち並んでいます。バブル時代の日本人の不動産成金が買いあさったところですが、もうそこに日本人の姿はありません。
例のえひめ丸に衝突した原子力潜水艦のワドル艦長が、新しい太平洋艦隊の司令官に栄転したというニュースを複雑な気持ちで聞きました。

「シリコン・バレーの再生と復活」

予想外のハワイの好景気を裏付ける現象があります。ドットコム企業の破綻、ITバブルの崩壊で、消滅したと見られていたシリコン・バレーの復活です。「NEWSWEEK」(3月25日号)に、「Welcome Back to SILIKON VALLEY」という特集があります。ITバブルで崩壊したシリコン・バレーは、「死の谷」と呼ばれて久しかったが、破綻したドットコム企業は、テクノロジーと人材を残していた。経営は破綻したが、人材と技術は残されていた。同じオフィスで同じ人物が、新たな経営技術革命と方向転換によって再生・復活を果たしてきたという内容です。巻き返しに成功したというわけです。復活戦略の中心はインターネットのメールビジネスです。大量のビジネスメールを処理すシステムとソフトの開発です。ワーナーとの合併で世界一の巨大企業になったAOLは、個人メールのビジネス展開を中心に世界的にシェアを拡大してきましたが、ビジネス主体の情報処理能力には問題があり、不具合が指摘されていました。シリコンバレーのベンチャー企業は、こうした大量送付の隘路を克服した新しいメールシステムを開発、ビジネス界に受け入れられました。「アフター・シリコンバレー」の目玉は、「ウッドサイド・ネットワーク」という無線通信技術が瞬時の高速大量通信を可能にするということです。 ところで、いまの日本のITの花形は、Iモード携帯電話です。日本の若者が街中、電車、高校や大学の教室でところかまわず、ボタンをおしまくってメル友と交信する風景はおなじみのものです。しかしハワイは、全米1の携帯電話普及率を誇るところなのに、日本の若者のような携帯電話中毒患者はほとんどいません。たまに携帯電話を道でいじっているのは、日本人です。「出会い系サイト」というのもありません。 インターネットやメールはパソコンを使うのが常識です。携帯電話はあくまでも緊急用の連絡ツールです。いまの日本のIT産業はIモードの携帯電話しかネタがありません。日本の大企業各社はこれを大規模に海外展開するという戦略を打ち出していますが、海外の若者は日本の若者のような甘ちゃんではありませんから、なかなかひかっからないと思います。男女の出会いの場は、別に出会い系サイトに頼らなくても、いろいろなパーティがあります。また指先で小さな画面とボタンを操るほど、手先が器用ではないような気もします。海外のものは、軽薄短小な日本とは違い、重厚長大です。ノートパソコンでも大きくて、重いものをかついで歩いています。日本からの携帯電話輸出は、取らぬタヌキの皮算用になりかねません。それよりも海外では日本の携帯電話は使えず、海外の携帯も日本ではつかえない問題を解決すべきです。原因は日本だけが電波の周波数が異なり、特殊な規制があるからです。この規制をなくすことが日本の携帯電話のグローバリゼーションと海外展開の第一歩です。メールやインターネット機能はその次のことで、肝心な電波が使えないのではどうしようもない。

以下は第29号(3月15日号)からです。
「国益を損なう・・とは何のことか」

鈴木宗男氏の衆院証人喚問の風景のテレビ視聴率はどこの局も20%を上回り、事件が国民的な関心事であることを物語りました。テレビ関係者たちはこの数字を驚異的だと表現しています。20数年前、アメリカでウオーターゲート事件が起こり、時の大統領だったニクソン氏が失脚しました。事件を明るみに出したのはワシントンポスト紙で、隠された大統領の犯罪の真相を暴いたアメリカ・ジャーナリズムの金字塔といわれています。このとき、ワシントンにあるRANDという名門のシンクタンクが、事件を報道するテレビの視聴率を調べていて面白いことに気が付きました。ふだん政治ニュースには無関心な西海岸の視聴率が、ウオーターゲート事件の報道のときだけ異常に上昇していることを発見したのです。政治ニュースにもマーケットが存在することが判明したのです。政治ニュースを視聴者はハリウッド映画でも見るような感覚で、面白がって見ている。視聴率を取れるテレビ番組はエンターテインメントかスポーツと、相場が決まっていました。有能なプロデューサーはニュース番組など、見向きもしませんでした。しかし、風向きが変わったのです。これに眼をつけたのがCNNの創始者テッド・ターナー氏だったといわれます。かれはニュース専用チャネルを立ち上げ、世界をニュースでネットワーク化しました。ウオーターゲート事件は、副産物としてのCNNを生んだというわけです。
ムネオハウス物語によって、日本はますますテレビ的劇場国家になりました。国会中継が高い視聴率をとるなんて、だれも予想しなかったことです。前号でも書きましたが、日本でもアメリカ並に、政治ニュースが大きな視聴者のマーケットを作りはじめたということです。なまじっかの娯楽番組より政治ニュースのほうが面白い。テレビ映りのいい議員タレントもたくさん出てきています。日本のテレビ界のCNN化はこれからも加速するでしょう。いまは鈴木宗男という”稀代の悪役”に、多数の与野党善玉議員役者たちがからんで、勧善懲悪劇を演じています。ところで、気になるのは当事者のひとりであるはずの外務省が脇役然として収まっていることです。外務省はお人よしの善玉顔、被害者顔にドーランを塗り替えて再登場してきたようです。外務省の役人は田中外相更迭前に外相にしていたことをそっくり、今度は鈴木氏にもしているように見える。要するに、鈴木氏にまつわる”機密情報”なるもののリークです。何年も前の北方領土返還にまつわる「いったいわない話」や「殴った、いや手が当たっただけ」の話しなどが、どうしていまになって集中豪雨のように出てくるのか。鈴木氏が暴力をふるったのが本当なら鈴木氏も悪いが、外務省の役人はなぜそのときにきちんと鈴木氏を告発しなかったのか。後になってぐずぐずと人の不祥事を小出しにしてくる外務省という役所はいったどんなところなのか?
機密費問題ひとつ見ても、いまの外務省スキャンダルは、鈴木氏だけをスケープゴーツにして収まるサイズの物語ではありません。もちろん、悪いのは鈴木氏でしょう。なにせ朝日新聞の人欄に出たNGOの大西氏の発言に過剰反応して邪まな文句をつけてさえいなければ、粛々と世はこともなし、だったはずですから。身から出た錆び、とはいえまことに大きな錆びではあります。悔やんでも悔やみきれないかもしれないが、これからの政治家や高級官僚の人々はもって銘すべしであります。新聞やテレビのジャーナリズムを侮っていると、思わぬところで墓穴を掘ることが証明されたからです。
ところで、北方領土の返還をめぐって、政府部内では四島一括返還論と二島先行返還論の両論がぶつかりあっていることがわかりました。鈴木氏が二島返還論を唱え、挙句の果てに、「領土は返ってこなくてもいい。経済交流を深めるべきだ」という趣旨のことを主張していたという外務省内部文書が、喚問のときに出てきました。前後の話の脈絡がよくわからないので、鈴木氏が「 領土が返らなくてもいい」といった真意はよくわかりません。世論の非難が集中しているように、政治家としては不用意な言葉であるには違いないけれど、もともと鈴木氏は不用意なことばかりしている人物です。あるいは鈴木氏の得意技である”反語的な表現”かもしれないので、本心からそういったのではないと思います。しかしこの言葉尻をつかまえて、領土を売る輩、売国奴、あるいは非国民、といった非難を浴びせる人物は出てくるでしょう。テレビや新聞でも「国益を損なう発言」という解説が踊っています。ムネオ批判に国益・・・という言葉がインフレ気味に乱発されはじめているが、どこか胡散臭くなってきます。
「国益」と叫べば泣く子も黙る。与党政府に批判的なニュースキャスターも国益を盾にすれば相手を切り捨てやすい。しかしそもそも国益とはいったい何をさすのか。国の利益というときの国とは誰が主体であるのか? 誰のためにどのような利益を実現することを国益というのか? 「益」にはいろいろあります。抵抗勢力益、改革派益、野党第一党益、局長クラス官僚益、課長クラス益、係長益、平益、会社でも社長益と労働組合員益があるし、ゼネコン益に流通業益、銀行益、サービス業益、IT産業益・・・と世の中には様々な「益」が入り乱れています。一方の「益」は別の人の「益」と衝突することもあるし、益同士が並存できないことが多い。それぞれの人間が個人的な自分の益を反映させたにすぎないことを、あたかも「国益」といいたてているのではないか。面倒な相手を屈服させるときに、国益を持ち出して黙らせてしまう。つまり自己利益=国益、といううな浅薄な主張がいまの日本には多すぎるのではないかと、日ごろから私は思っています。個別的でバラバラに見える益を一本に束ねる民主主義の方法論など、いまの日本の政治は到底持ってはいません。北方領土問題に関していえば、外務省のいう四島一括返還論をお題目のように唱えることでしか、日本の「国益」を守ることはできないのか。それは国益の硬直化であり形骸化です。まさに「国益」とは何かを論議する根拠の貧困です。国民の利益、納税者の利益、国民の生命を守るのが国益というふうに考えるとき、税金を湯水のように蕩尽する不透明な公共事業は国益に反するし、秘密主義で国民を支配することしか考えていない大きな官僚機構もまた国益に反することになります。
一度、失った領土を回復させることがどれほど難しいことか、古今東西の世界の歴史をひもといてみれば、一目瞭然です。第一には、新たな戦争をすることで軍事的に取り戻すという方法があります。四島返還論の原則を貫くというのであれば、ロシアとの戦争も辞さないということになってしまいます。いまの日本は領土回復戦争をすることはできませんし、新たな戦争は国民の命を危険にさらします。戦争をすることなく、外交や経済交流によって相手を説得し、こちらの土俵に近づけることしかありません。したがって鈴木氏の言う先行返還論や経済交流の深化もひとつの選択肢としてはありうることです。鈴木氏の失敗は自分の考えを世論に訴えることをせずに、外務省における権益と結びつけたことでしょう。鈴木氏は、領土問題を自分ひとりの思い込みや利権漁りに終わらせることなく、正々堂々と国民に向かって話をすればよかったのです。そのためにメディアを使うべきだったのに、メディアへの対し方を間違えたのです。鈴木氏が大学でジャーナリズムやメディアをもう少し学んでいれば、もっといい政治家になることができたかもしれません。勘と才能はある人物のようだが、惜しむらくはその面の知性と教養が欠如していた。鈴木氏のやり方次第では、外務省の独断と専売特許であった外交を、国民本意のものに改革することができたかもしれません。結局、鈴木氏は外務省初の族議員となり利権がらみの支配力でしか官僚組織に食い込むことができず、いま手ひどいしっぺ返しを受けることになりました。要は、政治家としての哲学がなかったということです。
今後、外務省はどのような四島返還論の戦略をもって、ロシアと返還交渉をするつもりなのか、鈴木路線の現実論とはどのように違うのか、国民の前に明らかにすべきです。原則論の四島一括返還を主張するにあたり、外交交渉の背景となるパワーについて、説明してほしい。でないと領土回復の手段として戦争というオプションまで念頭にあるのではないかと国民は勘ぐります。外務省は国連を舞台に、国際世論に訴えるという方法をとろうとしているのだろうが、鈴木氏のような邪まな政治家にいいようにされてきたいまの外務省に国際世論を動かすだけの力量があるとは、とても思えないのです。交渉相手のロシアにはとうに足元を見られているし、いまの日本の政治のゴタゴタは、世界中の人々の周知するところです。日本外交には背骨がない。アメリカの顔色をうかがっていると思っていたら、実は鈴木氏の顔色だったのです。空いた口がふさがらないのです。
外交は哲学が基本になります。つまりは理念です。理念が人を動かし、世論に訴える力になるのです。軍事力を背景とせず、戦争という手段によらずに領土を回復させるために、日本には国際世論を動かす強力な理念と哲学が必要なのです。NGOをはじめとする国民全体の国際貢献が必要です。
第二次世界大戦に敗れ、ポツダム宣言を受諾したとき、日本の領土は北海道、本州、四国、九州の四島だけに限定されていました。GHQ占領下で普通選挙が行われたとき、八丈島や奄美大島などに選挙標を届けるためにはGHQの特別な許可が必要でした。そうした戦後の苦境は、占領下の対日政策のGHQ文書を読むとわかります。北方領土だけではなく、沖縄もアメリカに占領されていました。戦後のわれわれはこうした厳しい国際環境からスタートしています。アメリカのアジア太平洋戦略のなかで、北方領土にかんする米ソヤルタ会談の密約説などがどう国際的に処理されてきたか、この問題はかなり複雑な戦後の冷戦構造と国際関係を反映したことがらでもあります。北方領土には戦後史の負の遺産が複雑にからみついています。 われわれは理性をもってそれらの諸難問を一つづつ剥離し、前に進む必要があります。原則論を確認しつづけてさえいればやがて領土が返ってくるなどという甘い考えは、外交を知らない”ぼんぼん”の考えというべきです。それとも外交とは念力だと思っているのでしょうか。
「さらに格付けはダウン、悲しき日本」
「格付け機関なんてたかが欧米の民間会社のやることが信用できるのか」と啖呵を切っていた政治家や経済人が、つい最近までいましたが、現在はそういう声も聞こえてこなくなりました。日本の格付けが先進国では最下位であることを、日本人の誰もが認めるようになってきたということです。欧米の高級ニュース雑誌は、日本の経済危機をさらに深刻な表現で伝えています。イギリスの「エコノミスト」(2月16―22日号)は、「悲しき日本」という大特集を組んでいます。表紙には能面のイラストがあり、面の左眼から一滴の涙が流れています。能面の顔は女性ですから、この雑誌の編集者は小泉首相の「女の涙」発言に触発されたのかもしれません。
「エコノミスト」の特集タイトルを見て、ふとレヴィ=ストロース氏の「悲しき熱帯」という本を思い出しました。20年くらい前、すでに亡くなった人類学者レヴィ=ストロース氏にインタビューしたことがあります。「悲しき熱帯」は未開社会の文明形態を明らかにした名著で世界的な評価を受けていました。彼は日本の「もの作りの伝統」に深い興味を示し、能登の漆職人の調査をしていました。職人の丹精なもの作り、手作りの世界に彼は日本文化の精髄を発見したと語っていました。
「エコノミスト」は、改革を唱えた小泉内閣が田中外相の更迭によって失速し、日本はもう自力更正できないのではないかという危機感を伝えています。アルゼンチン、トルコと共に世界の3大経済危機国として要監視国と位置付けられ、日本の格付けはさらに加速的に低下しています。もはや経済危機、政治危機というだけではなく日本文化そのものの歴史的な危機ととらえられています。銀行預金が凍結されたアルゼンチンでは、民衆が鍋や釜をたたいて大規模な街頭デモをしていますが、これはタンゴの国ならではの陽気な鬱憤晴らし、といえます。しかし日本はもっと陰気に暗くなるだろう。能面の一滴の涙には、どこかそら恐ろしい物語が隠されているような気がする。
「ムネオハウス物語を生んだ日本型デモク ラシー」
前号でも書きましたが、外務省と鈴木宗男氏の不思議な蜜月関係はまったく理解を超えています。想像はしていたが、これほどヒドイとは思わなかったと普通の人はだれしも思っているでしょう。自覚症状が少しあったので開いてみたらもう手の施しようがなかったガンと同じです。しかし残念ながら、これが日本の民主主義の実体であり、正体でもあったのです。議会、政府・行政、司法の3権の独立、分立が民主主義システムの基礎であると、中学の社会科では習いましたが、政治と政府・行政がここまで癒着していると、日本はもはや民主主義国家とはいえない。お上に意見をいう人間は容赦なく切り捨てられる。ではどういう国家かというと、社会主義でも共産主義でもないし、官僚独裁といっても一部の政治家にこれほど官僚が牛耳られているところを見れば、単なる官僚政治という図式も当てはまらない。特権官僚と一部政治家が癒着する政治システムの例として、旧ソ連にノーメンクラツーラという特権階級が存在し、ペレストロイカ(改革)に抵抗してソ連を崩壊させました。ノーメンクラツーラは高級官僚と守旧派政治家の連合体だったから、いまの日本の政治形態はこれに似ていると思います。長期にわたってノーメンクラツーラは国家の利権をむさぼり、民衆を搾取しましたが、ゴルバチョフの改革が始まると、今度は「抵抗勢力」になって与党のソ連共産党を死守し、ついには国家を滅亡させました。
一連のムネヲハウス物語のプロセスは旧ソ連の崩壊にいたる物語に酷似してきました。アフガン復興会議でNGOの出席を拒んだことから始まったこの挿入劇は、鮮やかに日本のデモクラシーの質を浮き彫りにしたと思います。もしもロシアにいた鈴木宗男氏が、「朝日新聞」の「お上は信用できない」というインタビュー記事に過剰反応していなかったらどうだったか? 腹の中では「けしからん」と思いつつも、表面上は大西氏のNGOの参加を認めていたとしたら、事態はいまのような展開にはなっていなかったはずです。その意味で、鈴木氏はまさに余計なことに腹を立てたあげく墓穴を掘った、というべきです。
ところで、鈴木氏の北方領土やアフリカへの利権関与がどの程度だったかという問題以上に、そうした邪まな存在を許していた日本のデモクラシー、政治文化との関連のほうがもっと重大です。NGO参加問題でもし鈴木氏が口を出していなかったら、さらには「朝日新聞」を読んでいなかったとしたらーー事態はいまも闇に深く潜っていたはずです。
国会質問で、外務省の重家中東アフリカ局長が、NGO参加への鈴木氏の関与を否定し、「朝日新聞のお上は信用できないという内容の記事が大西氏と外務省の間の信頼関係を損なったことが、出席拒否に理由だ」と発言していたことに、ジャーナリストの端くれの私は、唖然としました。のちに、川口外務大臣も同趣旨の発言をしていました。そうか、日本の政治かも役人たちも新聞の言論というものをその程度にしか考えてはいないのかーー。ここで民主主義に関する正論を述べるとしますと、言論の自由の観点からすれば、鈴木氏の関与があったというほうが、新聞記事を理由に拒否したというよりは、デモクラシーとしては救われるのです。邪まな政治家の圧力に屈したことを率直にわびるほうが、新聞の記事を理由にするよりは、はるかにデモクラシーなのです。この理屈はおわかりでしょうか。重家局長は日本の最高学府でデモクラシーを十分に勉強した人ではないかと思うが、「言論の自由」(プレスの自由)のことをどう考えているのか、一度、聞いてみたい。教養のない政治家は別として、外務省のエリート官僚であるならその程度の学問は身につけておいていただきたい。日本の最高学府の政治学のレベルはその程度のものなのだろうか? こんなことをでもたもたしているようでは、外交の舞台でも大恥をかきますよ。いやもうすでに大きな赤っ恥をかいていますけど。それでも外務省は外交をやっていると大きな顔していえる柄なのだろうか。そろそろ外交の相当部分は民間に任したらどうか。外務省の大幅リストラをすれば国家予算(例の機密費も含め)も大きく助かる。
政治家や外務省なんかに比べれば、「ムネヲハウス物語」以降日本のメディアはまだしもよくやっているとは思います。テレビ、新聞、週刊誌はそれぞれが役割を果たしています。理髪店で散髪していたとき、「政治がこんなにひどいとは思わなかった。税金納めるのは本当にいやだね。でもマスコミはよくやってる。マスコミがなければ世の中は闇ですね」と理容師がいっていました。ところが、「朝日新聞」の記事が妙なかたちで国会や政治家、霞ヶ関で”槍玉”にあがっていることについて、テレビも新聞も問題にしてはいない。新聞が都合の悪い記事を書いたから仕返しをしたのだ、ということを平然といわれているのに、当の「朝日新聞」もこの問題にはふれてはいない。これはもう「言論の自由」の根幹にかかわる事柄だけに、大いに気になります。
この通信の中でも、ときどき触れていますが、ウォルター・リップマンの「世論」という本があります。第一次世界大戦後のアメリカ政治と新聞、世論の関係を描いた本ですが、新聞と民主主義と世論の関係を実に見事に捉えた古典の名著です。日本の政治家、官僚、マスコミ関係者に一読を薦めたい本です。リップマンは、ハーバード大学を首席に近い優等で卒業し、官界、経済界、大学、大手新聞社から引く手あまたでしたが、なぜかフリーランスのジャーナリストになりました。彼は、第一次世界大戦後、米国大統領ウイルソンが提唱した国際連盟に、提唱者だった当のアメリカが加入せずにモンロー主義(孤立主義)の道を歩んだことに深く絶望してジャーナリストになり、アメリカ現代史として「世論」を書いたのです。デモクラシーを正しく機能させるための新聞と世論の関係、新聞と政治と政府の関係、機密情報と情報開示、憲法と言論の自由の関係などについて、豊富な歴史資料を踏査して論じました。リップマンの主張を簡単にいえば、新聞が正しく機能しないと世論が迷走する。それによって政治が過ちをおかし暴走し国民を不幸に陥れる、ということです。この本を読むと、20世紀のはじめからアメリカの新聞はデモクラシーの先導者であり、それなりの社会的尊敬と地位が与えられていたことがわかります。従ってアメリカの名門大学には、どこにも「ジャーナリズム学部」や「コミュニケーション学部」があります。学問としても認知されています。日本では私立のごくわずかな大学にしかないし、学問としての認知もない。メディアの影響力や量が猛威を振るっているにもかかわらず、日本はジャーナリズの後進国なのです。だから鈴木氏やその周辺の政治家に見られる時代錯誤の政治家を輩出してしまう。いまの日本で問題となっている新聞のありかたにしても、アメリカとは比べようもありません。鈴木氏をかばうために新聞記事がダミーとして使われているのですから。これではデモクラシーが泣きます。「エコノミスト」ではないが、まさに「悲しき日本」です。しかしながら、鈴木氏が朝日新聞に過剰反応して初めてわかったことは、日本のジャーナリズムの独自の世論喚起能力の存在について、でした。記者クラブの言論統制、官製リーク情報、情報操作などネガティブな評価を受けてきた日本の新聞、テレビのジャーナリズム機能が、ここへきて正当に認知されはじめたということです。まさに第4権力としてのジャーナリズムが、日本でも根付きだしたわけです。
これからは、「お上にたてつく新聞記事」をあげつらって鈴木氏のような行動に出る政治家はいなくなるでしょう。いたとしてもその行動は、「世論」に対して慎重になるはずです。それだけでも日本のデモクラシーは進歩したというべきです。
ところで、リップマンの本でもうひとつ重要な記述があります。政治(政治家)と行政機構(官僚)の関係です。初代大統領のワシントンの憲法では、大統領の交代によって官僚機構も交代させるという条文は書けませんでした。言論の自由も同様です。官僚の交代と言論の自由ーーこの2つの現実の制度論としての柱が抜けていては、いくら3権分立のデモクラシーといえども、現実には機能しにくい。これを実現したのが第3代ジェファーソンでした。これは政権交代を制度化したアメリカ革命の悲願だったのです。修正憲法第一条で「言論の自由」(新聞の自由)を掲げ、大統領の交代によって官僚機構まで入れ替わる法的システムが完成したのです。ジェファーソンは、「新聞の批判の前に立つことの出来ない政府は崩壊しても仕方がない」といいました。言論の自由と官僚の交代ーーこれによってアメリカのデモクラシーは、短期間の政権交代を可能とし、かなり完成度の高いものになりました。しかしながら、大統領が3代にして実現したのですから、一朝一夕で出来上がったシステムではありません。もうおわかりのことと思いますが、日本では政権交代もないし、官僚の交代もない。言論の自由にしても、憲法で保障されているほどの内実はありません。政権と官僚の交代がないことが、ムネオハウスに象徴される政官の「ずぶずぶの関係」を育んできたのです。ところで、「ずぶずぶの関係」を英語でいうとどういうんでしょうね。
同時多発テロ以来、アメリカの言論状況に対する懐疑が広がっていますが、少しアメリカの言論史を振り返ると、もう少し信頼感を取り戻すことはできます。アメリカには戻るべき原点はあります。ではいったい日本はどこに戻るのか? デモクラシーの国としての日本には戻るべき原点はどこにもない。敗戦時とか大正デモクラシー時代というわけにもいかないでしょう。結局、これから新しく作るしかありません。現在の未曾有の危機を乗り越えるにあたり、ジャーナリズムが果たすべき役割の大きさを、メディア自身も含め、国民全体がもっと深く自覚すべきではないか。必要なのは、デモクラシー日本文化というようなものです。しかしながらいまの日本には、言論の制約に組するような世論や法案がしきりと頭をもたげている。メディアがうるさい、もっと取り締まれ。こうした考えは、ムネオハウス禍の好ましからざる副産物といえるのではないかと思います。
以下は第27号(1月27日号)以前のものです。
「アフガン復興会議と外務省の錯誤」
東京のアフガン復興会議が終わりました。世界中のNGOやNPOの人々がたくさん集まってきたこの会議は、外国の要人だけが集まる国際会議と違って、会場の準備や警備のありかたが難しかったのではないかと思います。会議を支えた縁の下の関係者のご苦労は大変なものだったでしょう。ところが、この会議の模様を伝える外国のメディアはあまり熱心ではありません。
外務省とNGOの間の、民主主義国の出来事だとはとても信じられないトラブルが、欧米のメディアを白けさせたのかもしれない。ニューヨークタイムズ、ワシントンポスト、CNNなどでも、扱いは通常ニュース並みです。外国メディアの最大の関心事は援助金の額で、アメリカ、EU,日本、韓国、サウジアラビア、イラン、パキスタンなどの国々の金額が示され、多いとか少ないとかの若干のコメントがついています。日本の援助金5億ドル(2年半)は、米国の単年度3億ドル、EUの4.4億ドルと比較しても少ないとは思いません。しかし問題は援助金の使われかたです。日本の場合、「金は出すけど口も出す」という類の露骨な援助金ではないか、という疑心暗鬼も出ています。水道、道路、ビル、ガス、パイプライン、下水道といったインフラ整備には大型公共工事が必要ですが、医療、保険、教育、農業、地雷除去、メディアなどの分野は、国家援助よりは民間援助のほうが向いているし、アフガンの国民もそれを望んでいる。ソ連、アメリカという超大国の介入で疲弊したアフガン国民は、外国の介入はもうこりごりだと思っている。技術援助も含め、援助の主体は民間となるのはいうまでもない。ところが、会議のスタートで日本の外務省が政府批判をしたNGOの会議への参加を拒否したことから、集まってきた世界中のメディアの関心はいっせいにそちらに向きました。「お上を批判する人間は許さない」と言う外務省幹部の思想は、民主主義や女性の権利を抑圧していたタリバンの思想と同じです。アフガン国民をタリバンの抑圧から解放し、民主主義と教育を行き渡らせ、国民を豊かにするのを支援する会議の主催国の政府が、こともあろうに、新聞でお上を批判したNGOを締め出したというニュースは、またしても日本に対する疑念を世界中に広める結果になりました。日本は欧米型民主主義国家ではなく、旧ソ連のような官僚独裁国家だという、10年前に「日本異質論」で散々いわれた対日観が再び蒸し返されてきました。
「サンデープロジェクト」(1月27日、テレビ朝日)で田原総一郎さんが、参加を拒否されたNGOの大西健丞さんにインタビューして、真相をただしていました。大西さんの話は、証言としての信憑性があります。外務省の課長以上の幹部と鈴木宗男議員がこの問題に深く介在していることは明白です。インタビューで2つの問題が浮き彫りになりました。一つは外務省の力では手が出ないアフガンの要人を、NGOの大西さんなら動かすことができるということ。若手の国会議員を北部同盟の幹部に面会させることができたのは、NGOのほうが現地に食い込み、信用もされていたということです。外務省としては悔しくて仕方がないので、どこかで敵(かたき)をとりたかった。二つめは、もっと肝心な点ですが、ODAのように、アフガン支援が外務省の専管事項ならば、巨額の支援金にまつわる利権に預かることができる。政官癒着で税金の甘い汁をすえるが、わけのわからぬNGOが入り込むと資金の流れが透明にされてしまい、これまでのように利権をむさぼることができなくなる。大西さんによれば、鈴木議員はNGOの仕事の細部にまで口をはさんでいたことがうかがえます。驚くべき証言でした。見当はついていたものの、やっぱり間違いなかったのだ、裏が取れたと言う意味で、この日の「サンデープロジェクト」は、テレビジャーナリズムならっではの迫力をもたらしました。真相解明にあたる田原さんの仮借ないジャーナリスト魂に敬意を表します。雪印、外務省、抵抗勢力、不良債権、金融崩壊、大学の知的崩壊・・一寸先は闇の日本ですが、田原さんをはじめとする有為のジャーナリストが日本にはまだ相当います。私のかつての先輩、同僚、知人たちの中にも有為の人がいます。腐っても鯛である。この国をたたき直し、希望の扉をこじあけるには、いまやジャーナリストの力に期待するほかない。
ニュースは世界を駆け巡る。田中外相と鈴木議員の「いったいわない」の話にすりかえたり、「女の涙に男は弱いからね」という小泉首相の話を面白おかしく楽しんでいるのは、当の日本人くらいのものです。
この話は外国ではもっと深刻に受け止められている。同時に、「日本の金は目に見えるひも付きではないか。アフガンにいうことを聞かせようと金をだし、すぐ後に手も口も出してくるのではないか」と世界の人々は判断しているに違いありません。アフガン無償援助という問題の本質が、外務省や抵抗勢力にはわかっていない。実際、省益や出世欲しか頭にない官僚には不向きの国際プロジェクトなのです。
共同議長の緒方貞子さんや多くの関係者の努力を無にしかねない今回の外務省のNGO処分騒動でした。いったい外務省とは何をするところなのか。細かい身辺リークを繰り返して田中外相の足を引っ張ったかと思うと、気に入らない民間人NGOの足を引っ張り、ついでに重要な国際会議の成果の足まで引っ張る。こういう頑迷かつ御殿女中のようなメンタリティの官僚や政治家たちは、民主主義の何たるかも知らず、国民は税金(年貢)を収める道具としか思っていないのではないか。第一に教育をされるべきは、こういう人たちではないのか。かつてのソ連のノーメンクラツーラと同じで、国益を盾にして自分の保身に憂き身をやつし、国を滅ぼす輩です。すみやかに社会の表舞台から退いてほしい。私なども、海外の取材が多かった関係上、外務省との接点はいろいろありました。現地大使館でも領事とか書記官の方には苦境を助けてもらったり、世話になったことも多々あります。地道に仕事をしている人がたくさんいることはよく承知しています。ですから外務官僚のすべてが腐敗しているとは思いません。だが、ある社会主義国では大使クラスの幹部から取材妨害まがいの行為をされた疑惑があるし、(おかげで世紀の国際ニュースのスクープ?を逃しました・・)、発展途上国の文化財を集めて私欲を肥やしているという現地の噂を聞いたこともあります。外務省という役所はキャリア幹部の質が、下よりかなり悪い、という実感をもっていました。ところが、うっかり口をすべらせて悪口でもいうと、「江戸の敵(かたき)を長崎で討たれる」ことになりかねない。取材妨害などされたらかなわない。だから真実はいわず口をつぐんでいる人が多い。私と似たような経験をもつジャーナリストは結構たくさんいると思います。今回のNGOに対する外務省の処分は、まさに「江戸の敵を長崎で討つ」典型でありました。
ところで、くだんの朝日新聞を読んでみますと、このNGOの人は、「お上は信用できない」といっているだけです。しかも見出しに出ているだけで、重要な発言内容ではないし、具体的な事実やニュースをさしているわけでもない。いまどき、お上を信用できる、などという日本人がいますか? それならニュースです。「お上は信用できない」という言葉は当たり前すぎてニュースでも何でもない。「犬が人間に噛み付ついてもニュースではない、人間が犬に噛み付いたらニュースだ」といいます。このたとえでいえば、「お上は信用できる」といえば、「人間が犬に噛み付いた」と同じニュースになります。その意味でいうと、この記事を書いた記者はあまりニュース感覚があるとはいえない。ごく当たり前のことを書いているにすぎない。ところが外務省というところは世間の常識とかけ離れているようだ。犬が人間に噛み付いたことが、大ニュースになったんです。いったい、自分たちの姿を鏡に映してみたことがあるのでしょうか。外務省の鏡には、人間が犬に映って見えているんでしょうか。
外務省の外交機密費問題はどうなっているのか、その一点を考えただけでも、お上は信用できないというのは、いまや全国民の常識である。それを無視して改革もせずに居直り、批判した民間人に対してアフガン会議参加を拒否し会場に入れなかった。しかしマスコミや世論の反発にあって、たった一日で処分を撤回した。意地悪をしても性根がすわっていません。大西さんに名前を出された鈴木議員は、テレビカメラの前で、「お上を批判する人が国家の政府が主催する会議に参加するのはおかしい」とぬけぬけと語ったが、この人の論理は、抵抗勢力なのか何なのか知らないが、およそ民主主義国家の政治家の言動とは思えない。会議の本当のスポンサーは誰なのか、いったい税金はだれが払っているのか。スポンサーは納税者=国民だということを忘却しているのではないか。言論の自由の憲法のもとで、政府を批判している新聞やテレビも、政府のやり方を苦々しく思っている国民も、苦しい懐から重税を払っているのだ。国民あっての政府、議員です。その血税の運用を付託されているのが官僚であり政治家です。「下は黙っていろ、俺たちお上、官僚と政治家が好きなようにやる」、というのでは崩壊した独裁者タリバンの手法と変わることがない。政府や政権政党を自由に批判できるのが民主主義社会のイロハですが、どうも日本の政官の中枢の人たちは民主主義がきちんと理解できていないようだ。そういう教育を受けていないのかもしれない。このさい、政治家や高級官僚に民主主義のイロハを教える政治教育が必要なのかもしれません。再教育でもいい。本当のアフガン民主化支援はそれからにしたほうがよさそうです。まあ、ウォルター・リップマンの名著「世論」でも読んでください。岩波文庫の上下で、ランチ代くらいの値段で買えます。
「ダイエーとエンロンの破綻」
’02が明けて、日米経済を代表する巨大企業の破綻が表面化しました。ダイエーとエンロンです。ダイエーは、大阪の京阪線の沿線の千林という場末の町の薬屋からスタートして、まさに日本の高度成長のシンボルとなりました。日本の中小企業の物作りをリードし、低コストにこだわる規格品の大量生産と大量消費の消費社会の牽引車でした。
エンロンは次世代モデル、ニューエコノミーの旗手といわれたアメリカの新興エネルギーの巨大企業です。ガス、水道、電気といったライフライン産業の政府規制を取り払い、市場原理を持ち込んで成功を収めました。全米5百社のなかで第7位、従業員2万人、1000億ドルの売上を誇る超優良企業でした。ところがITバブルのドットコム企業の倒産と期を一にして、エンロンは倒産したのです。米国産業史上最大の破綻劇ともいわれています。会計操作、粉飾決算、バブル経営、政界への工作資金など数々の疑惑が浮上しています。捜査が進む中で、エンロン副社長が自殺するという事件が起こりました。
日米の経済を象徴するふたつの巨大企業の倒産は、いったい何を意味しているのか?
ダイエーは流通の革命を通じて日本の庶民の目線とともにありました。エンロンは規制緩和と市場原理の推進者でした。ダイエーは物作りの日本、エンロンはITと市場原理のアメリカを象徴する企業です。この日米経済のいまを象徴する会社の破綻劇は、お互いの得意手を封じられたことの苦悩が伝わってくるような気がします。あるいは得手の使い方が過ぎると、両刃の剣となって己を切ってしまう。日本の会社はシェアの拡大を至上命令とする成長指向型、アメリカの会社は株主の配当を最重要視する利益指向型といいます。ダイエーとエンロンの破綻劇は、20世紀型の日米の企業モデルの崩壊でもあるのです。
1957年に「主婦の店ダイエー」を立ち上げた中内功さんの脳裏には、戦争体験と戦後日本の貧しさが抜きがたく存在していたのでしょう。安い食料や品物を豊富に庶民のもとへ届ける。中内さんは流通革命のパイオニアであり、日本社会に残存していた半封建制的な流通の仕組みを経済合理主義によって変革しました。しかし時代は中内さんを追い抜いてしまったのです。豊かになりすぎた日本の庶民はダイエーの商品とは別のものを求めるようになりました。「大衆化」に対して、「分衆化」といわれますが、一人の人間の心のなかに様々なニーズやモチーフが生まれ、そのときどきの気分や要求に応じて商品の選択の仕方を変えてゆくのです。深夜の若者にはセブンイレブンなどのコンビニがダイエーの代わりをします。きめの細かい対面商法を取り入れたデパートの地下の食品売り場に主婦が群がります。一方にはブランドショップがあり、一方にはマツモトキヨシやコンビニやファーストフードの店があります。ダイエー的な大量生産ーー大量消費の図式から時代は大きく転換しました。「貧しい日本の庶民を豊かにしたい」という中内さんの念願はすでに達成され、その成功が皮肉なことにダイエーの息の根を止めたのです。役割を終えたものの退場、「冷酷な現実」、というほかはありません。中内さんは今後、退職金や私財を投げ出して会社再建にあたるようです。ハワイのアラモアナショッピングセンター買収などは放漫経営の兆しはあるものの、これが中内さんの失敗というほど大きな問題ではないはずです。時代の流れが変わったというより、歴史が変わったのです。コンピューターエイジの現代は10年、20年がドッグイヤーです。江戸末期の紀伊国屋文左衛門が現代に生きていて新しく事業をする、というような錯誤が起こりかねない。時の流れのスピード感覚をなくすことの怖さ、この点には十分な自省が必要です。
「ニューズウイーク」(1月23日号)に、「ゾンビ企業の悲劇」という特集が出ています。いかにも米国ジャーナリズムらしい冷めた文体で淡々とダイエーの破綻の姿をレポートしています。ダイエーに対する思い入れがないぶん、客観的にものごとを見ることができるのでしょう。ダイエーの負債額2兆5千6百億円と言う数字はあまりにも大きくて、これを市場原理によって破綻させると日本経済の破綻につながりかねない。マイカルや青木建設の倒産は放置した小泉内閣は、ダイエーに関しては救済策を打ち出したが、「ニューズウイーク」は、政府の関与は延命策にすぎないといっている。日本のあまりの頑固さにIMF(国際通貨基金)は手を焼いており、アメリカや周辺諸国は、日本の病気が伝染するのを恐れて、戦々恐々としているという。格付けが最下位ランクへと下落したいまの日本に対する投資意欲を支える外国資金は、せいぜい円の乱高下を狙うヘッジファンドにすぎないと同誌は指摘している。もしもヘッジすら見切りをつけたなら、日本はもう奈落の底へ落ちるというシナリオしかなくなる。2月危機が乗り越えられるのか、いまの日本の経済危機はアルゼンチン並みであり、80年代のメキシコと同じというのである。CNN放送などを見ていても、日本のニュースはほとんどマトモに取り上げられない。経済ニュースのとき、「それにしても日本はいったいどうするんでしょうね」と言うキャスターの枕詞がはいるくらいなものだ。それから、重要なことは、こうした危険水域にある経済問題に対して、肝心の日本の国民の関心が薄いことも、外国のメディアの話題になっている。なぜ日本人は? 虎の子の預金をドルに替えて外国の銀行に移し変えるつもりなのか? そんな憶測があります。いずれにせよ日本人がその苦い現実に気がつく日はできるだけ早いほうがいい、と「ニューズウイーク」はわざわざお説教までしてくれている。
エンロンは、ニューエコノミーの旗手として華やかに台頭したエネルギー産業の立役者です。しかしこれの倒産の影響は、2万人の従業員の生活問題、年金の損失、数百億ドルの債権者の損失などがあるものの、ダイエーのように国の経済を揺るがすほどのものではありません。「ニューズウイーク」(1月21日号)によれば、国家的な影響と言えば、エネルギーなどの公益産業の規制緩和の流れが滞るのではないか、といった観測があるくらいです。ところが、同誌によれば、この会社のCEO(最高経営者)は自社株購入権を使って2億500万ドルの利益を得ていたほか、一握りのエンロン幹部と投資家は経営破たんの要因となった簿外取引で大儲けしていたということです。世論とメディアの関心はブッシュ政権への政治資金疑惑「エンロンゲート」に向かいつつあるといいます。エンロン疑惑は、アフガン戦争の終結とともに、米国最大の政治問題になりつつあります。
ダイエーとエンロン。この日米の会社の破綻劇を比較して思うのは、日本の中内さんは私財をも投げ出すというほどで、まだしも会社を思う志は清潔であり、エンロンの経営者は自己利欲にかられて会社を貶めている点です。この1点において、日本人としては救われる思いがします。ダイエーは必ずしも公益から逸脱して破綻したわけではないのですから、戦後の高度成長を支え、会社人間といわれたたわれわれは心を少しは安らかにできるし、ダイエーの再起を期したいものです。しかしダイエーの再起を期すことが、日本をつぶすことになるのでは、何にもならない。大事なことは時代の流れを読み違えないこと、情に流されることなく必要な改革を断行することです。
「’02 戦争モードの拡散」
アフガニスタンの戦争はタリバンの敗北という形で、予想外に早い決着となりました。旧ソ連があれだけ手こずった相手だから、湾岸戦争のイラクのときのように簡単ではない。ベトナム戦争以上の泥沼になる。いろいろなマスコミ予想と分析がありましたが、現代兵器の先端を結集したスマートな米国と戦国時代を思わせる武骨なタリバンの戦闘方法がかみ合うはずはない、戦争自体はまもなく終わるだろう、というクラウゼビッツの古典的な戦争論を下敷きにした私の予想の方が確かだったようです。ただし、アフガン戦争の終わりがテロと報復の連鎖の終わりでないことはいうまでもありません。アフガンが主戦場ではなくなったというだけの話です。
アフガン戦争が終わるにつれ、逆に世界的な戦争モードや局地紛争の危機が高まっています。イスラム過激派によるインド議会銃撃事件のあと、昨年暮れには、インド、パキスタン国境のカシミールで臨戦態勢の危険が高まりました。カシミール危機は単なる武力衝突ではなく、核兵器暴発の危険が極めて高いという米国の専門家の信頼すべき警告が、私のもとにも届きました。核兵器が世界中にばらまかれ、広島、長崎以来の核兵器使用という最大の危機にあるというのです。原理主義者やテロリストが核を入手している可能性も低くはない。現在、両国政府レベルで危機回避の動きがありますが、問題はテロの動向です。行方不明のビンラディンがカシミールに逃亡したという報道もあります。テロリストは世界の紛争地帯に出没します。パレスチナの和平合意も過激な自爆テロとこれに対する報復の連鎖によって、かき消されようとしている。アフガンにおけるタリバンとの戦争には決着がついたとしても、世界的なテロと報復の図式がなくなったわけではない。その証拠に、最近、米軍はアルカイダの訓練基地といわれたフィリッピンに大量の軍隊を投入しました。戦争が終わるどころか、テロー報復の限りない連鎖の輪が、核兵器の脅威をともなって世界を覆いつつある。
日本の周辺海域にも、「不審船」が出没し、昨年暮れには海上保安庁の警備艇と銃撃戦が行われました。米軍の通報を受けた自衛隊の通告遅れのために、不審船を深追いした海保警備艇は日本の領海の外で銃撃を行い、中国の排他的経済水域で不審船は沈没しました。不審船の引き揚げにアメリカが協力するといっていますが、いまのところ中国からはこれに対する明確なメッセージはありません。だいたい不審船の正体も定かではない。かりに北朝鮮籍の船舶だとしても、なぜ日本へ来たのか、その目的がわからない。密輸船という説もある。ベトナム戦争以来、東シナ海は、亡命者や難民を乗せた密航船の往来が多いことでも知られています。このさい、「不審船の正体」を理性的につきとめることが最大の課題であるのですが、この問題を期に、日本のマスコミ報道は感情的になり、北朝鮮に対する軍事的制裁論が肥大化しつつあることが気になります。日本の領海外の他国の経済水域における武力行使については国際法上の諸問題があり、これを中国が問題視してきたら国際関係がもつれる可能性があります。そうでなくとも日本は尖閣諸島の領海問題で中国との紛争の火種をかかえてきました。
「ノーメンクラツーラの亡霊たち」
現在、内部に深刻な金融・経済危機をかかえる日本としては、このような形で近隣諸国との軍事的な紛争をかかえるのは、得策でないことはいうまでもありません。近年の中国経済は年間10%前後の成長を遂げており、かつて日本が得意としてきた「もの作り」のノウハウの多くは中国に移動しています。繊維、雑貨、電気、自動車、エレクトロニクスなどの工業製品の大量生産工場のほか、ネギ、椎茸、ニンニクなどの農産物分野にも大規模な農場があります。しかも人口10億人をバックにした巨大マーケットがある。人件費が日本の1割、製品のコストも格安だから、世界の消費者にとって価格破壊のシンボルとなっています。
だいたい、日本に中国産が大量に輸入され始めたのは、ごく最近のことで、むしろ遅いのです。90年代のはじめ、外国暮らしが多かった私は、フランスやアメリカで安い中国製品にずいぶん助けられ、出張費を節約した覚えがあります。当時の中国製品は安かろう、悪かろうの見本みたいですぐに壊れたりしましたが、最近の中国製品の品質は格段に良くなっています。いまの日本は低コストを売り物にする中国製品の輸出圧力に押されて経済不況に拍車がかかっています。構造的なデフレスパイラルから脱却できずに、多くの社会的、経済的、政治的フラストレーションが社会に蔓延しています。
小泉政権の構造改革もいっこうに進んではいない。小泉さんが総理になって一番上達したのは、英語の演説くらいのものではないか。東南アジアでは英語でジョークを飛ばすほどになっています。これにくらべ、権益を保守する日本の「抵抗勢力」は日ごとに力を増しつつある。利権をたらいまわしにする特殊法人の改革に反対し、税金を湯水のごとくに使う公共事業を無差別に行おうとする日本の抵抗勢力は、まるで旧ソ連のノーメンクラツーラ(官僚特権階級)を思わせる。ゴルバチョフのペレストロイカに反対してソ連を崩壊させた張本人が、ノーメンクラツーラたちでした。その消滅したはずの旧ソ連型共産主義の特権官僚と政治家の専横が、現代の日本に亡霊かゾンビのようにして生き返ってきている。ホラー映画を思わせる不気味さです。これに対して、特権階級とは無縁の庶民たち。人々は失業の恐怖にさらされ、出口のない不満と将来の不安を抱えて生きています。
「国破れて山河もなし・・初夢の風景」
結局、英語の演説しかうまくならなかった小泉さんへの庶民の期待もそろそろ終息に向かっているのではないか。「国敗れて山河あり」、ではない。「国破れて山河も自然も崩壊す」、です。これがわが土建国家のロマンなき帰結でしょう。別に諫早湾の干拓とかの大問題を持ち出さなくとも、私の住む大阪府吹田市のマンション近郊では、バブル期をも健気に生き抜いた緑の竹林が、こともあろうかこの不況のさなか(いや不況だからこそかもしれない)、ブルドーザーで小気味よく破壊されました。「竹林を守れ」という私たちの声はいつしか圧倒的な少数派となり、革新自治体を名乗る市の行政が住民を巻き込んでこの公共事業を仕切りました。「このような竹林を開発もせずに放置しておくのは行政の無策だ」という実に奇妙な世論が作られ、この事業の後押しをしていったのです。信じられないことでしたが、水面下で何がどう動いていったのか、私にはだいたいの見当はついています。跡地に何が出来るか公表もされていませんが、どうやら自動車道路やビルが出来て、テナントとかゲーセンとかファーストフードがそこへ入ってくるのではないかと思うと、もの悲しくなります。こういうところで私はもう住民税を払う気がしません。ちなみに住民税、固定資産税は都市計画税とセットになっています。自分の住環境を根底から破壊する都市計画のために自分の払った税金が使われるのだから、何をかいわんや、自分で自分の首をしめるのと同じではないか。小鳥の鳴き声がなくなったあと、電車の音が室内に響きわたるようになりました。これほどまでに国税や地方税を消費しなければならないーー公共事業という名の重圧と生活破壊産業のありかたに、ほとほとため息をつく日々です。それでもなお「欲しがりません勝つまでは」ーーーなんでしょうか。
山河や海が破れただけではなく、世界の経済競争や金融の競争にも敗れ、内外で失ったマーケットも大きい。こうした負の連鎖を一気に回復させるにはどうしたらいいか。トランプでスペードだけを集めると、プラスとマイナスが逆転するゲームがあるように、国家の負を一気に挽回させるために、戦争というゲームがあります。戦前の日本であれば、こういうときは「外部の敵のイメージ」を明確にして、自衛の名のもとの戦争=聖戦を始めたではないか。第二次世界大戦で中国戦線を取材したアメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーは、満州国の暴挙をあえてした日本軍の分析を冷静に行っています。日本という国家の全体の意思はうまくつかめない。なぜ国際的非難を承知で満州国を建国したのか理解できない。しかし日本の軍人や民間人を見ていると、それぞれが生真面目に自分の仕事をこなし、少しばかりの栄誉を得て出世することに、無上の喜びを見出しているように見える。大いなる野心ではなく、多少の手柄をたてて堅実な出世を求める日本人は、集団としてまとまるとかなり攻撃的になる、関東軍(旧日本陸軍)の特質はそうした集団的な攻撃性にある、という趣旨のことをいっています。ナチスドイツのようなファナチックな攻撃性ではなく、貧しさからの脱却とか日常生活の小さな欲望や生活向上の欲求から生まれる地味で地道な攻撃性ということでしょう。生真面目な攻撃性なのです。
これから先は私の悪夢で、しかも初夢の風景です。敵は中国かロシアか、韓国か北朝鮮か、それともアメリカか? ACKR包囲網(戦中にはABCD包囲網=アメリカ、イギリス、中国、オランダ=というのがあった)で日本は脅かされている。あの国々さえなければーー日本はさらなる繁栄と平和を謳歌できたはずだ。それなのに、円はすでに1ドル200円代半ばにまで下落し、どうやら終戦直後の350円水準になるのも時間の問題だ。いよいよ破局。銀行がつぶれ、企業も立ち行かなくなり、蓄えていた貯金も底をついて、外国から食料を買う金も乏しくなった。中国の安い農産物に高関税をかけていた時代が懐かしく思い出される。農業を切り捨ててきたつけがやってきたのだ。かつての経済大国日本の繁栄と安寧は外国によって崩壊させられてしまった。町には食物をあさる失業者があふれ、治安は悪化の一途をたどり、健康保険が崩壊して多くの病院が閉鎖され、衛生状態も極端に悪い。やがて貧窮した庶民のフラストレーションは外国を攻撃することにはけ口を見つける。ヒトラーのような独裁者が出てきて、大衆のフラストレーションをたくみに利用し、操る。いつのまにか憲法も改正されている。軍隊を閲兵するその人の顔はどこかライオンに似ている。情熱をもって敵を探索し、敵の集合的なイメージを見定め、局面を打開するのは軍事をおいてない、敵国集団のACKR包囲網を効果的に制圧するほかわが国、わが民族の生きる道はないというスピーチが、なぜか英語で聞こえてくる。いったい誰に向かって演説しているのだろうか。聖戦遂行が救国となるというのは、あのビンラディンの考えと同じではないかと、ぶつぶつつぶやく自分の声で、この悪夢初夢は覚めました。
小泉さんは、英語だけしか成長しなかったなどど悪口をいったので、どうやら悪い初夢を見てしまったようです。ここは、オペラのわかる優しいライオンハートで、妥協のない決然たる意志で構造改革を断行し、われわれの悪夢の根を断ち切ってほしい。来年はもっといい初夢を見たいものです。
「ポストアフガン戦争と平和プロジェクト」
今月末、日本でアフガン復興会議が開かれますが、ポストアフガンの戦争で、思い出したプロジェクトがあります。90年代、北東アジアの経済的安定を作り、地域の軍事的な緊張を緩和しようという試みが、ハワイのシンクタンク東西センターで検討されていました。私がここでVisting Fellow(客員)をしていたころです。このセンターは、APECのアイディアを作り出したことで有名で、日本の研究機関の空理空論とは違い、アメリカのシンクタンクが本気で提言することはだいたい実現します。
中国の吉林省を流れる図門江流域は、中国、モンゴル、北朝鮮、ロシアが国境を接しています。この河川の流域を経済開発して、経済特区つまり関税やビザなどのフリーゾーンを作ろうという試みです。アジアの発展途上国が経済的な繁栄を共有することで、国境の軍事的な緊張を和らげようというものです。中国や韓国にまじって、北朝鮮の代表も会議に参加していました。日本生まれの韓国系アメリカ人の経済学者C博士がこのプロジェクトの牽引車でしたが、博士は「この計画を進める動機は、朝鮮半島の統一という悲願です」と熱っぽく話したことが印象的でした。「軍事による安全保障でけでは危うい、経済的な利害関係のネットワークを張り巡らすことで、地域に共通の利害基盤を作り出すほうが北東アジアの平和創造に役立つ」というのが、博士の持論でした。従って、博士は軍事的なレベルの安全保障論議を嫌っていました。この経済特区には北朝鮮の港湾都市が入るので、もしもプロジェクトが完成すれば、北朝鮮全体の経済開発に大きく貢献するはずです。従ってプロジェクトの狙いの主要部分は北朝鮮の経済的自立を促し、周辺諸国の軍事的な緊張を抑制することにありました。
計画には経済大国のアメリカ、韓国、日本の協力が必要で、開発資金の拠出支援の役割を負っていました。アメリカ商務省の幹部だったK氏は、北東アジア開発銀行設立計画書を作成し、米国政府と交渉し、資金集めに奔走していました。5年以上も前の話ですが、タイ、韓国、台湾、米国などがこれの主要スポンサーで、日本だけがなぜか相応の貢献をしていませんでした。同時期に、日本政府機関が提唱するアジア開発銀行の構想が出されており、これは先行する東西センターの構想と競合することになります。もしも日本の提唱が実現したいたとしても、中国や韓国、北朝鮮などの北東アジア諸国が協力したかどうか。日本についてくるのはシンガポールやマレーシアといった東南アジア諸国くらいではなかったか。そうした事情もあり、日本発のアジア開発銀行プランは、米国の圧力によってという注釈が加えられて、消滅していったようです。
ところで、北東アジア開発にかかわる7ヶ国共同開発構想の一つに、新エネルギー開発プロジェクトがありました。アフガン戦争に関連して、メディアでもときどき報じられるようになりましたが、アフガニスタンを含む中央アジア、ロシア周辺や沿海州地域は天然ガスの宝庫です。いま未曾有の経済発展を遂げている中国は、石油資源が枯渇し、モンゴルや北朝鮮もエネルギー資源がありません。ロシアも同様です。高価な中東石油に依存することなく、安価なアジアの天然ガスの開発は北東アジア諸国の共通の利害です。問題は天然ガスの採掘とガスを輸送するパイプラインの敷設です。これには世界の巨大ゼネコンの出番となるのはもちろんですが、パイプラインをどのような経路で引くかという問題が残ります。いくつかの国境を越えてガスを目的地に供給するためには、関係各国の政治と外交の強力なリーダーシップが必要となります。
ある日本の商社マンから、天然ガスのパイプライン敷設計画の架空図面を見せてもらったことがあります。たくさんのパイプラインがアフガニスタンを通過して、中国やロシア、北朝鮮、韓国に達していました。一部は日本海の海底を通って日本へも届いていました。中央アジアを蜘蛛の巣状に縦断する天然ガスのパイプラインの図面のことが、今回のアフガン戦争の空爆のテレビ映像とともに、よみがえってきました。もしもアフガンの土地の地雷の海にかわって天然ガスのパイプラインができれば、この国の平和と繁栄の一助になります。しかし、そのことを手放しでは語ることはできません。天然ガスの開発と中東の石油産油国の利害が鋭く対立することが目に見えているからです。「同時テロVS報復」という図式でとらえていた今度のアフガン戦争の背景に、「中央アジアの天然ガスVS中東の石油産油国」という図式を新たに加える必要が出てきます。ところが最近、天然ガスパイプラインの会社からスタートした米国のニューエコノミーの旗手エンロンが破綻したことは、奇妙に皮肉な話ではあります。
石油の値段がいくら高騰したとしても、中東から購入できる経済大国の日本は、北東アジア開発プロジェクトに無関心です。また国際政治上の利益も見いだせないでいる。米国や韓国にはエネルギー問題だけではなく、軍事的な緊張緩和の視点からこのプロジェクトを見る戦略があります。しかし日本には経済、政治上のどちらの戦略もなく、ただの無関心があります。
いずれの問題にもだだの無関心を決め込む。これはすなわち危機管理能力の欠如です。で、不審船がくると、とっさの反射神経だけで、銃撃したり撃沈することしか考えられない。目に見える危機がなくなれば、不審船の背景を調べようともしない。
日本が北東アジア開発計画のような大規模な平和プロジェクトを創出し、影響力のある外交努力を傾注してもなお軍事的な脅威が減らないのであれば、自衛権の行使もやむを得ない。しかし危機管理にとって、軍事力行使は究極の手段であるべきです。有事法制という名目で、アメリカの軍事作戦の尻馬に乗るだけで、主体的な平和創造の努力をしないでいる日本は、本当にアジアの孤児となりかねません。日本発の「ポストアフガン戦争平和プロジェクト」をいまこそ世界に向けて発信すべきです。アフガン復興会議ではそのことが特に求められます。
「9月11日、誰が為に鐘は鳴る」
9月11日のNYのWTCビルの崩壊は、21世紀がテロという形態の新しい世界戦争の世紀であることを世界に明示しました。グローバリゼーションが喧伝された時代に、このような形態の戦争を誘発することを事前に予測することは困難だったため、WTCビルが炎上し崩壊した映像のインパクトはすさまじいものがありました。ハリウッド映画のトリックでもコンピューター映像でもなく、現実の風景であることを人々が受け入れるには相当の時間がかかりました。この事件のあと、世界のメディアには、「正義」「報復」「愛国心」「聖戦」という言葉が踊り、不穏な空気が全世界を覆い始めています。アフガニスタンでは地上戦が始まり、アメリカ国内では炭そ菌のテロが不安をかきたてています。この戦争が、核兵器、核施設攻撃、細菌兵器、などの超近代兵器を備えた新型戦争に発展すれば、間違いなく世界は破滅の淵を転がるでしょう。そのとき果たしてどれほどの人が生き残れるか。まさにノアの箱舟の時代のとば口というべきです。この新型テロ戦争を目前にしたわれわれは、人類の近代文明が築いてきたもののすべてが問われているという、大げさにして月並みな言葉しかはけないもどかしさを感じます。このままでは人類の叡智なるものは、役立たずになり、紐解かれることのない図書館の地下室の書庫の黴にまみれてゆくでしょう。
あの瞬間をリアルタイムの映像で見てしまった人々は、この地球上で大変な数になると推定しています。5年前のダイアナ元妃の葬儀のテレビ映像を見た人は5.6億人といわれ、地球人口の1割にも当たりましたが、今回はそれよりも多くの地球人がこの映像を見ているはずです。まさしくニュースが瞬時に世界をめぐる「地球情報村」なのです。
マンハッタンの摩天楼郡のなかでもひときわ高く聳え立つツインビルを始めて見たとき、まるで現代のピラミッドのようだと感じたものです。その上に上がってイーストリバー河口のハドソン湾に浮かぶ自由の女神像を見たとき、繁栄する自由の超大国への羨望の念を禁じえませんでした。
あのビルが崩壊する瞬間を見たとき、私の精神のなかにあった何かが壊れ、揺らぎました。テロなどというものの影響力を私はこれまでそれほど信じていませんでした。だがしかし今回のそれは「単なる卑劣」を超えた衝撃でした。NYにいる友人が、直後にメールをくれましたが、「悲しい事が起こった」とだけ書いてありました。どこにも希望が見出せないと感じたとき、人は悲しみだけを知覚します。
WTCビルとペンタゴンの惨劇を伝えたこの映像のインパクトは20世紀に起こった様々な戦争のそれをもはるかに超えていると私は思います。さらに500万以上ともいわれる飢餓状態のアフガニスタン難民の行く末はどうなるのか。戦争が続けば1000万くらいの犠牲者が出るのではないか。NYの悲劇とともに、この問題もまた人類全体の痛みを増大させています。
「メディアの戦場」
10月8日未明(日本時間)、カブールで大規模な空爆が行われ、戦争が始まりました。AP、ロイター、CNN、ABCなどが第一報をしました。日本のNHKはロイターの第一報を伝えましたが、そのあとのブッシュ大統領の開戦演説画面には同時通訳もなく、スーパーもありませんでした。連休のさなか、事態の急変に対する備えがなかったのでしょうか。
3大ネットワークやCNNに対して、ブッシュ政権がビンラディンやアルカイダの生の映像をそのまま流さないで欲しいと要請し、TV側は戦時下の特殊事情を考慮して編集することを了承したというニュースがあります。これに対してニューヨーク・タイムズが社説コラムなどで猛然と反論しています。憲法を無視した言論の自由への侵害だというわけです。国益を判断するのは政府だけの仕事ではない、われわれはジャーナリストの視点から国益を判断している。記事にするかしないかは、政府が判断するのではなく、われわれがすると言い切っています。テロの直後のニューヨーク・タイムズはほんとうに元気がありませんでしたが、ようやくアメリカを代表する言論機関の役割を回復してきました。心強い限りです。
10年前の湾岸戦争ではCNNのピーター・アーネット記者がバクダッドから夜空に巡行ミサイルが飛び交う砲撃の模様を伝え、戦争の開始をリアルタイムで全世界に報じました。その風景は、不謹慎ながら、まるで花火大会を思わせました。戦争の開始そのものが映像になり、ブッシュ父、フセインという敵国の指導者もテレビで開戦を見たのです。しかし、「テレビ戦争」といわれた湾岸戦争とは違い、今回の「見えない戦争」取材のために、アフガニスタン周辺には1000人を数える欧米のジャーナリストが入っているということです。これについて、ニューヨーク・タイムズは10月1日付けで、メディアの戦争報道準備の様子を詳しく伝えています。もちろんタリバン政権の正式なビザや入国許可が得られるはずもありませんから、違法な手段も行使して入り込むわけです。つかまればスパイ容疑で処刑されるかもしれない。しかも現地はすさまじい環境のようです。砂嵐でカメラは壊れ、南京虫やのみがうようよいる毛布で眠り、ホテルもなく食料も乏しい仮説ベッドで雑魚寝をするジャーナリストたち。寒さも厳しくなっている。さらには砂にやられないようにカメラを解体して持ち歩き、撮影時に組み立てる作業も大変だということです。またTWCテロの影響による不況でアメリカのTV局の多くは、CM料金が入らなくなり、取材資金も底をついているということです。それなのに1日の経費が1億円もかかり、10月1日の時点ですでに20億円を使ったTV局もあるといいいます。国境を超えて通信したり、難事を切り抜けるには金がかかります。こういう場合は、高額の賄賂もつきものです。これいごとで事は済みませんから。しかも芳しい取材結果が得られないので、報道するネタがない。いつどこで戦闘があるのかもわからない。ネタが入らないのは、ジャーナリストにとって一番つらいことです。フランス人記者が女性に扮して入り、拘留されています。イギリスの女性記者も一時、タリバン側に拘束され釈放されています。このように戦場のジャーナリストには多くの危険が待ち受けています。なぜそのような危険をおかしてまで、戦場を取材するのだろうか。スクープのため? 視聴率稼ぎ? 名声のため? それとも真実に迫る事実(ファクト)を知るため? いろいろと動機をいぶかる人々もたくさんいることでしょう。賢明にしてというべきか、大多数の大手メディアの日本人記者はそういう危険地帯にはいません。(日本人のフリーのレポーターが拘束されたという情報もありますが)、おおむね日本のメディアは金持ちですから、危険をおかすことなく、外国の通信社や新聞社やテレビ局の情報を買えばいいわけです。しかし外国の記者が取材した情報をそのまま買うことの危険があります。
湾岸戦争のときもそうでした。あのときは、主としてアメリカのメディアの情報がそのまま日本のメディアにも流れていました。いまと同様、自衛隊を出す,出さないという内向きの論議のほかの情報はおおむね米国発という有様でした。しかも日本の外務省や政府、メディアの中心は、開戦情報を正確にはつかんでおらず、いざ開戦となったとき、正月の屠蘇気分が抜けないままに、大慌てになったことを記憶しています。石油の利権だけで物事を判断し、欧米とイスラムの価値観がからんでいることを見抜けなかったのです。日本のメディアは準備がなかったために、現地の通信電話回線の確保もおぼつかない有様でした。仕方なく、アメリカの情報に依存したわけです。ところがあのとき米国のメディアは、多国籍軍(主として米軍)によってコントロールされ、プール制(代表取材)という形で戦場の取材を余儀なくされていました。1000人くらいのジャーナリストがサウジアラビア周辺に入っていましたが、代表取材チームに入れた記者はそのうちの一割くらいです。プール制というのは、日本の記者クラブに似たシステムですが、おかげで米国メディアは横並びの同じ情報のオンパレードになりました。戦争が終わるとジャーナリストたちの不満が噴出しました。軍が強要したプール制はプレスの自由を定めた米国修正憲法第一条に違反するという訴訟を連邦裁判所に起こしました。これを機に、軍とジャーナリズムの関係はかなりギグシャグしたものになったといわれます。(湾岸戦争時の報道問題に関しては、「世界」91年5,6月号、「潮」91年5月号に執筆しましたのでご参照ください)。
ところが、今回の「見えない戦場」にいるジャーナリストたちは、湾岸戦争を懐かしみ、軍が戦場取材をエスコートしてくれたことを思い出し、おかげでたくさんの情報を取ることができたと、嘆いているそうです。今回は、軍も冷たいようですし、だいたい特殊部隊に同行して取材できる能力をもつ記者などアメリカにもいません。いまアフガンの記者たちは、3大ネットワークとかCNNとか集まって、各社横断の取材チームを自主的に作り、たがいが集めた情報を提供しあい、共有しているということです。日本のジャーナリストはパキスタンのイスラマバードにいるか、せいぜいパキスタン側の国境地帯やアフガンの北部同盟周辺どまりでしょうか。欧米の記者のように、あえて危険を冒すことはないが、アメリカのジャーナリスト経由の情報だけで、日本人にとって必要な事実〔ファクト)は取材できるのでしょうか。テレビ朝日などはパキスタン人ジャーナリストを委嘱しているようですが、この場合もタリバン当局が認める取材エリアには限界がありますし、自由な取材など望むべくもないでしょう。
ところで、たとえばニューヨーク・タイムズは、「いまアフガニスタンに必要なのは爆弾を落とすことではなく、金を落とすことだ」と書いています。その理由として、「この地域にはイスラム原理主義がはびこり、ここ50年くらい戦乱と強権政治によって人民は辛酸をなめてきたがアメリカの介入で、民主主義が開花することになれば良いこともある」という趣旨の現地の人のインタビュー記事を載せています。いかにも米人ジャーナリストの視点です。これとは対照的に、黒柳徹子さんの国連難民高等弁務官視察の現地TVレポートは、戦争前のものでしたが、難民や女性の置かれた悲惨な状況を伝えました。あのとき、飢えていても笑顔をたやさないでカメラにポーズをとった子供たちはどうなったのか。
これから先、戦争のルポがいずれ様々な外国のメディアをかざることでしょう。それが日本にも入ってきます。そのなかに新時代の戦争を描く優れたジャーナリストや大作家のマルローやヘミングウエイがいるのかもしれません。そういう人たちがやがては今度の戦争の全貌を明らかにしてくれることを期待します。そして願わくば「希望」の語り手が現れてくれることをーー。
今回の同時多発テロが21世紀の新しい戦争の形態だと発表したブッシュ大統領は、瞬間的に問題の本質を理解していました。富める国と貧しい国が「大義」のために戦争をするなどということは、クラウゼビッツの大著「戦争論」には書いてありません。今回は石油の影もまったく見えません。しかも物量でいえば、アメリカとタリバンは相互に戦争の相手ではないのです。力量は横綱と草相撲の対戦です。しかし自爆テロという極限の手段を使って、近代文明が作り上げたすべての物質を兵器に変えました。瞬時に世界を駆け巡る衛星TVやハイテクを駆使したメディア情報がさらに巨大な武器となる。テロは世界人々の心に広汎な恐怖心を植え付け、反抗心を押さえつける。その道具としてメディア、特にリアルタイムのテレビ映像は大きな偉力です。湾岸戦争でもテレビは武器でした。あのときはCNN、今回はアルジャジーラというカタールのテレビが主役のようです。テレビ映像を操作しながら、航空機、燃料、超高層ビル、都市・・・インターネットに飛び交う情報、携帯電話、衛星通信、あらゆる情報通信機器・・そして究極の「人命」を兵器に変える。これはトマホークに匹敵する効果をもつことが、WTCビル爆破で証明されました。テロか戦争かの議論はおいて、ともかく5000人に近い人命が失われ、NYの不動産の8%が崩壊し、航空業界や観光業も含めた年間のダメージの見込みは40兆円といわれます。これは日本の国家予算の半分にも相当します。こんな大規模なテロがあるでしょうか。アメリカの戦争は人命の犠牲を極限まで減らすために、無人誘導の新兵器を開発してきました。しかし戦艦、戦闘機、戦車、ミサイル、核兵器だけが武器ではないことをこのテロが教えたのです。人命が兵器になる。西欧近代が作ってきたヒューマニズムの価値そのものが大きな挑戦を受けている。
「マルローとヘミングウェイ」
20世紀の前半に起こったスペイン市民戦争の記録映画として、フランスの作家で元文化相の故アンドレ・マルローが制作した「希望」を見たことがあります。これはのちに小説になったのでよく知られた作品です。その映画はタイトルにあるように、戦時下にありながら「人間の希望」を語ろうとするものです。私はスペインのバルセロナ周辺でこの映画の舞台を取材したことがあります。制作から数十年、行方不明になっていた映画のフィルムは、実に数奇な運命をへてフランスのあるところに保管されていました。フランコやナチスのファッシズム検閲体制から奇跡的に逃れていたのです。この顛末を書くだけでゆうに大きな物語ができるでしょう。(注 このフィルムにかんする物語は、「世界シネマの旅2」(朝日新聞社)に書きましたのでご一読ください)。
パイロットだったマルローはファッシズムと戦うスペイン市民戦争に義勇軍として参加しながら、自由と民主主義への「希望」を体現してこの作品を作りました。同様にスペイン市民戦争を描いたアメリカの作家アーネスト・ヘミングウエイの「誰が為に鐘は鳴る」は、自分が信じるヒューマニズムの価値を実現させるために戦場で死ぬアメリカの義勇兵のドラマです。彼はジャーナリストとしてこの戦争を取材しながら、のめり込んでゆくのです。彼が信じる価値とは、人がこれ以上無益な戦争で死なない世界を作ることです。そういう世界が来れば、一介の小さな自分の死にも意味があると感じて異国の戦場で倒れる義勇兵の物語です。「誰が為に鐘は鳴ると問うことなかれ、誰であろうと人が死ぬのは自分が死ぬのと同じだ。なぜなら私も人類の一部だから」というジョン・ダンの詩がヘミングウエイの作品のモチーフです。20世紀のこれらの牧歌的だった戦争は、一方でヒューマニズムを喚起するものだったので、文学の素材にもなりうるものでした。ニューヨークのテロに倒れた人の命も、アフガニスタンで飢えて死ぬ難民の命も、誤爆で死んだ人の命も等しく尊いということです。
この二つの小説は、作家たちの体験をもとにしたものですが、戦争小説でありながらロマンがあり、人間精神の正義を信じているのです。(注 ヘミングウエイについては拙著「ヘミングウエイはなぜ死んだか」集英社文庫、を読んでください)。
ちなみに、ヘミングウェイが師と仰いで尊敬していた作家は、アメリカの作家ではなく、フランスのスタンダールでした。「赤と黒」「パルムの僧院」を書いた人です。なぜヘミングウェイがスタンダールを尊敬していたかというと、彼はナポレオン戦争をじっと見ていて、そこからものの書き方を習った唯一の作家だから、という理由です。作家は戦場で鍛えられる。社会の不正によっても鍛えられる。弾がどこから飛んでくるかわからない戦場、人が生死を分ける戦場こそ、人間社会の縮図であり、ものの書き方を学ぶには最適の場であるといって、ヘミングウェイは、第一次世界大戦、スペイン市民戦争、第二次世界大戦、キューバ革命戦争などのいくつかの20世紀の戦場を歩き回りました。このためヘミングウェイは大いに誤解され、戦争好きの作家といわれます。しかし彼の本意は戦争好きではないことは、一連の作品群を読めば明白です。猟が好きだった彼は、猟銃までは認めるが、それ以上の銃器から兵器の類の所有と保持を一切禁止する国際条約を作れ、といっています。作品のタイトルに偽りはなく、「武器よさらば」です。
あの牧歌的な戦争の時代から人類は本当に遠いところへ来てしましました。第二次世界大戦やベトナム戦争、冷戦時代をへて戦争の相貌はいっそう凶悪化しました。にもかかわらず、ソ連邦と東欧の崩壊を促したペレストロイカを推進したゴルバチョフは、冷戦の終結を決めた米ソマルタ首脳会談のさい、ヘミングウエイの「誰が為に鐘は鳴る」を引用して記者会見にのぞみました。冷戦の終結は、人類の正義にかなっており、世界に新たな希望をもたらすことを語ったのです。このとき私は、ペンはやはり剣よりも強かったのだと密かに悟りました。ジャーナリストという職業人になったことをこのときほど誇りに思ったことはありません。
「ル・モンドの外交専門誌は5年間に警告していた」
実はこうした21世紀的な問題をいち早く指摘し、警告を発していたジャーナリズムがなかったわけではありません。これまで国と国が戦争をするのは石油や資源や市場の争いや領土の野心が背景にあると信じられてきました。国家主権が追求する利害が衝突して戦争になる。戦争は政治の延長である。そうでない場合は一方的な侵略や植民地化です。半世紀以上前のことですが、日本がハワイの真珠湾を奇襲したときの理由はアメリカによる経済封鎖打破と石油資源の確保にありました。
今回の同時多発テロの奇襲と自爆という戦闘モデルは、戦前の日本の軍国主義が発明したものなので、アメリカの新聞やテレビはしきりに「カミカゼ・アタック」や「パールハーバー」を引き合いにだしていました。しかしその戦争論的な意味はまったく違うのです。
ル・モンドの外交専門誌「ル・モンド・デイプロマッティック」は、ITと金融・情報のグローバリゼーションが、第4次世界大戦をもたらすという趣旨の大特集を組んだことがあります。メキシコから発した通貨危機がタイ、マレーシア、インドネシア、韓国などのアジア諸国へ及んだ5年前のころです。第4次世界大戦というのは奇妙ですが、この特集では、第3次世界大戦は「米ソ冷戦」を指しています。つまりベルリンの壁が崩壊し、ソ連邦は解体して唯一の超大国アメリカがの一極化が完成したとき、新たな戦争としての第4次世界大戦の萌芽が準備されたと、「ル・モンド」は指摘したわけです。こうした問題意識は、湾岸戦争が終わったときにもありました。同様の戦争が21世紀にも起こるだろうという予測でした。超大国と周辺の弱小国との間の紛争に国際テロリストが交錯して、いたるところに文化、宗教的な衝突がおこり、これがIT情報技術やグローバリゼーションによって増幅される。富と武力を独占してしまった超大国アメリカへの反感が世界的に高まり、テロの温床を作り、やがて大戦争へと発展するというシナリオです。
この「大特集」の中身をここで詳しく紹介はしません。あまりに複雑な内容だからです。これについては拙著「情報人のすすめ」(集英社新書)に紹介しましたので、興味あるかたは参照してください。
こうした警告がありながら、回避できなかったのはなぜかを、本来のジャーナリズムは問うべきです。なぜ、WTCビルやペンタゴンの爆破を起こさせたのか。ここでいう「第4次世界大戦」の本質は、これまでのような国家と国家の戦争ではないということです。富者と貧者の戦いのほかに、いまはやりの「デジタル・デバイド」や情報戦争、宗教紛争、文化衝突といった新旧の問題がごちゃまぜになっています。これはアメリカとタリバンのアフガニスタンという国家の間の戦争ではなく、人権、自由、民主主義、市場経済を掲げるアメリカ的な価値観を支持する国や組織の同盟(イギリス、EU、NATO)とそうではない宗教的原理主義、非中心的な文化的原理主義者に同調する組織や国、アメリカ的文化の世界化に反抗する辺境の国々や組織や集団(タリバン、アルカイダ)の戦いです。テロは目的ではなく、戦争の1手段になっているのです。この点がかつてのテロの目的であった要人暗殺というようなものとは異なるのです。広汎な戦争の一形態としてテロが採用されている。なぜなら、超大国の近代兵器群に対抗し得る戦争手段を持たない貧者にはテロしかないからです。従って倫理的な価値観のもとでテロを非難しても無意味なのです。だから報復も敵に対する道徳的な無意味さを担保する戦略ということになります。したがって報復は卑怯だという話をいくらしても無意味なのです。報復そのものは目的ではない。テロVS報復というベールをかぶった新しい戦争形態なのです。 しかもそういう形態の新しい戦争が地球規模で多発するかもしれない。局地的なテロや地域紛争の連鎖が地球レベルに拡大してゆくことで、第4次世界大戦の様相を帯びるということです。アメリカ発のIT、情報産業と経済、金融のグローバリゼーションの影の部分としてル・モンドが警告したこの事態は、今度の同時多発テロによって、どうやら現実化してしまったようです。だからこの戦争の集結は容易なことではない。国と国の戦争なら条約を結んで終結することができる。しかしテロ戦争では交渉すべき相手が定かではない。また交渉することがテロリストとの妥協となってします。だから敵を殲滅しなければならない。十字軍の千年戦争にITやグローバリゼーションという超現代のテクノロジーがかぶさっているからです。しかも兵器も牧歌的領域にはなく、核や細菌といった黙示録的地獄図をもたらすかもしれません。したがってビンラディンはイスラム圏全体に呼びかけ、これをキリスト教とイスラムの十字軍戦争にしようとしている。米国はあくまでテロとの戦争に限定している。もしこれを十字軍にしてしまったら、いくら物理的に勝利したとしてもも、価値戦争のレベルで米国は敗北することになります。従って、いまもっとも重要なテーマは、「テロVS報復」の悪魔の連鎖を断ち切る方法を模索することです。それこそが本当の貢献です。そうでないと、敵を殲滅するまで戦争は続きます。
「日本の貢献、日本原理主義について」
日本の貢献の証として、自衛隊を出すことが国論を二分しています。しかし上述したように、自衛隊を出すことだけが貢献とはいえない。湾岸戦争のときもそうでした。あのときは金をだすことで決着しました。しかしあの金は国連やアメリカ軍や多国籍軍のどこへ入ったのだ、日本の金を受け入れたという話を聞いたことがないーーなどという話をアメリカのあるシンクタンクに在籍していたとき、しばしば聞きました。「そうですか、日本のやることはいつもそういう秘密主義だから」と自分の無知をごまかしていましたが、外交機密費不正疑惑などが出てきますと、あの話を思いだして心配になります。本当に湾岸戦争の金の流れはどうなったんでしょうか? だからなのか、百何十億ドルという大金を出したのに、湾岸戦争時の日本はまったく国際的な評価を得られませんでした。ワシントン・ポストなどは、戦勝国、中立国、敗戦国という分類をして、日本をイラクやヨルダンとと並ぶ3つの敗戦国の範疇に入れていました。これには驚いたものです。
今回は、金だけではなく人も出す、「SHOW THE FLAG」といったとかいわなかったという話や、日の丸を見せてほしいということだーーなどの真偽不明の言説が飛び交い、いよいよ集団的自衛権をめぐる憲法論議が盛り上がっています。実力者のアーミテージ氏は、自衛隊を出せとはいっていないのではないかと、駐日アメリカ大使のコメントもありました。しかし「日本は武者震いをしている」などと外国のメディアにからかわれたりしています。アメリカはイージス艦を出して欲しいと思っている、しかし日本はそれより今度こそ自衛隊を送りたいと思っているーーそういう本音の解釈もありうるでしょう。しかし自衛隊を出すといっても、実際問題として、アメリカ、フランス、イギリスが世界に誇る「山岳地帯や砂漠作戦に熟達した特殊部隊」をもつわけでもない。特殊部隊というのは歴戦の兵部隊です。タリバンといっても、いまのところ特定の国が相手の戦争でもありませんから、自衛隊が出動したとしても出番はありそうにない。
湾岸戦争のときイギリスの戦略研究所の専門家に取材したことがありますが、「いまは自衛隊機を一機出す出さないで議論するような時期ではない。日本には憲法があるのだからできることだけすればいいし、無理に軍隊を出しても多国籍軍のお荷物になる」といわれたことがあります。要するに期待されてはいない。そういうところに命を張ってまで自衛隊の人を派遣するのは問題がある。湾岸戦争のときといまと比べても、日本の状況はそれほど変化はしていません。相変わらず同じレベルの論議を蒸し返し、憲法解釈に明け暮れている。政治が機能せず、法律解釈に生きる官僚のペースに引き回されている。法は何の為にあるかといえば、主権者である国民がよりよく生きるためです。法は官僚やシステムのためにあるわけではないし、法の為に法が存在するわけでもない。不良債権処理が遅れて経済が大打撃を受けているのと同様、これも間違いなく「失われた10年」のひとつです。結局、10年前の湾岸戦争から日本は何の教訓も得ることがなかった。
常連コメンテーターが横並びで出ているTV論議は、失礼ながら床屋談義の域をでていません。ファクトもなく何も現場をつかんでいない人たちがその場しのぎの話だけしている。メディアがは発達していますから、視聴者のほうがむしろ情報を持ってしまっています。そうなるともうお笑いになります。地図を使って図上作戦ばかりやっていますが、ファクトなどはどこかに吹っ飛んでいる。的外れの推測や我田引水の想像を語りあり、昨日いったことと今日話していることが逆の人もいる。自分の発言内容すら覚えていない、そういう人たちがアメリカの言論機関はものがいいにくい、戦争には反対しにくい雰囲気があると発言したりしています。確かに、アメリカの報道機関は苦しんでいます。膝元のニューヨークがやられたことで痛く傷ついてもいます。しかし、だからものがいいにくいということにはなりません。アメリカでは普段でも、キャスターや記者が自分の口や記事で主観や考えを述べることはほとんどありません。ジャーナリストの役割は、自分のオピニオンをいうことではなく、ファクト(事実)を探求して読者・視聴者に提示することです。この点は日本の記者に比べると、プロフェッショナリズムに徹しています。確信のあるファクトの集積によってものをいうのです。こういう視点でCNNを見ていると、実に多様な立場の人々の見解が画面上で紹介されていることがわかります。米国人だけではなく、パレスチナ、エジプト、インドネシア、インド、パキスタン、サウジアラビア、ロシア、中国、フランス、イギリス、ドイツ、スペイン、イタリア、・・・世界中の宗教や文化が異なる立場の人々の、テロと報復に関する見解が紹介されています。視聴者はそういうものを参考にしながら、自分の位置や見解を決めることができる。
しかし日本のメディアはそうではない。識者と称する人々が同じようなことを言い合い、自分の見解だけを視聴者,読者に押し付けている。出てくるのはだいたい日本人(たまに外人タレントがいる)で、多様な世界を代弁したつもりでいるかもしれないが、実情は、まるで「異端審問」か「踏絵」の世界を思わせます。お前はどこの味方をするのか、それこそ「SHOW THE FLAG」を地でいっています。
こうしたことが起こっている背景として、日本のメディアには戦争の形態がこれまでの戦争とは異なることの認識の欠如、があげられます。先にも書いたように、戦争の構造や目的が変わり、国家と国家の戦争のレベルを超えているのです。政府首脳がいうように、仮に「後方支援」をするとして、難民キャンプに自衛隊が出動したしましょう。そのときもしキャンプ周辺に暴動が起こり、自衛隊が発砲して無関係な難民の死傷者が出たらどうなるか。現にパキスタン国境にアフガン難民が流れ込み、騒乱が起こっています。もしもキャンプにテロリストが潜入し扇動していてもそれを見分ける訓練ができているだろか。敵と味方が画然と区別できる戦場の戦闘訓練では間に合わないのです。この戦争には情報戦の能力が要求されます。政治家や評論家が出ているTV討論などを聴いていると、戦争形態の変化に関する認識がない。相変わらず国と国の戦争を想定しているし、古い形のテロを語っている。少なくとも、「ル・モンド」が指摘したようなIT時代、グローバル時代における情報戦争という認識がない。だから日本の政治家もメディアも評論家も、そしてジャーナリストですら、ブッシュ大統領の考えが理解できないでいる。ブッシュ氏の考えを理解することと米国に追従することとは違います。そういう問題ではなく、日本の立場と国益(官僚益でも政治家益でも自民党益でもなく正真正銘の国民益のこと)にもとづく見解を作るうえで、ブッシュ氏が何を考えているかを正確に理解できないと、対応ができないからです。
「後方支援」という考えの間違いもこの点にあります。対テロ戦争には前方も後方も区別がありません。戦場はいたるところに作られます。要するに「デジタル・デバイド」が日本の政治とメディアを覆ってしまっています。情報の解読が不正確で自己中心的、時代の流れから取り残されている。自衛隊法改正とセットで出てきた「機密保護法」のこともよくわかりません。戦時下において、敵を利する機密軍事情報を流すメディアはスパイでしかない。そんなことは言論の自由の問題とは関係がありません。軍取材にかんしてアメリカで問題になるのは機密軍事情報のことではなく、軍事情報一般に対するメディアのアクセス権のことなのです。国家による言論統制の始まりだという議論に飛躍する前に、もっと情報へのアクセス権利のことを主張すべきであった。だいたい日本は情報公開後進国です。そんな法律を作らなくとも、外務省のようにリークでもない限り機密が外へ漏れることはない。日本での議論はこの点も混同している。だいたい日本で情報を取るより、米国の公文書館に出かけ、機密解除された日本関連文章を見るほうがよほどマシな情報が取れることを日本のジャーナリストもあまり知らないようです。問題はアメリカで入手した情報が日本で機密指定されている場合です。この文書はポルノと同様に国内持ち込み禁止ということになるのでしょうか?
ところで日本の国内テロ問題について一言。日本にもいわば「日本原理主義」(Japan Fundamentalism)が存在します。「反日分子」という罵声を浴びせ、「お前は何人だ」という脅迫状を送りつけ、場合によっては襲撃する勢力がないとはいえない。そういう脅迫状をもらったことがある私は、日本のなかにもイスラム原理主義のような「日本原理主義者」がいると思っています。いやがらせを超え、命を狙われるかもしれないという恐怖感とともにあるものです。戦前の天皇制にまつわる国体や神道イズムのようなものが一体となった宗教的雰囲気をかもす「日本国体中心主義」です。そうした不寛容な思想を背景に、戦前の日本の中国、朝鮮半島軍事侵略を正当化し、真珠湾奇襲をアメリカのルーズベルトの陰謀だとして反米を唱え、憲法を中心とした戦後の主権在民の法体系と民主化システムを否定する。こうした日本の原理主義的な思想については、イスラエルの著名な社会学者アイゼンシュタット教授も指摘してます。実はこのフォーラムに関連して、「あの世への招待状」などというメールをもらったこともあります。ドイツではナチズムは政治やメディアの表舞台からは完全に清算されています。日本にはこの種のテロ事件と連動した日本原理主義が払拭されていない。ポスト冷戦で左翼が崩壊したあとの日本にはオウムや日本原理主義者のテロが現れたのです。ときにれっきとした言論機関や出版社の刊行物がそういうものの思想を容認していることがあります。また己の権益のために前時代の日本型システムを守旧する人々が、そういう勢力を言論抑圧のために利用していることもあります。
上記の問題とは関係はありませんが、前述の「ル・モンド・デイプロマティク」の最新号に、日本の若者に人気のある漫画「戦争論」がなぜか大きくとりあげられています。「日本は過去の罪悪を忘却した」という見開きの大特集です。「南京虐殺は・・広島の原爆投下に釣り合うくらいの日本人の戦争犯罪が欲しかったので、・・東京裁判で捏造された・・」とか「白人どもに・・目に物見せてくれた日本軍には拍手」などの刺激的な言葉が、イラスト入りで紹介されています。米英とビンラディンのタリバンが戦争をしているこの時期に、日本人の多数の考え方とは異なる内容のものが欧州の国際社会を飛び交うことは憂慮すべきことです。現在、多くの日本人は戦後の平和憲法と民主化のシステムを受け入れています。しかし「ル・モンド」の記者は、こうした内容の漫画が日本の若者に人気があることを疑問視したのかもしれません。「ル・モンド」はヨーロッパで非常に影響力のある新聞ですから、このさい特集の意図や見解を聞いてみたい気がしています。それにしても、もし日本人の一部の人ではあっても、本心から東京裁判がおかしかったと思うなら、東京裁判のやり直しを求める特別国際法廷開催を国連に要請し、そこで「ル・モンド」などの見解の間違いを堂々とただし、言論の場で日本のいいぶんを述べたてることを考えるべきではないでしょうか。
自衛隊の「後方支援」についても、中国や韓国の警戒心をかきたててしまっている。日本と同じように第二次世界大戦の敗戦国のドイツがNATOに軍隊を送っても、ヨーロッパ諸国は警戒していない。しかしアジア諸国では、小泉首相の靖国参拝と歴史教科書問題が猜疑心を増幅している。アジア外交がもっとも必要なときに、日本はアジア諸国からそっぽを向かれている。アジアだけではなく、欧米にもこういう対日観がくすぶっている。戦後60年、日本とドイツはこれだけの差がついてしまったのです。これは憲法解釈の問題ではありません。憲法論は国内の議論ですが、近隣諸国が抱く警戒心は、国際政治の領域にある問題です。いつまでも警戒されていることを恥としなければなりません。民主主義、主権在民の政治を正しく機能させるためには、日本に潜在する原理主義を清算する必要があります。本当に出直した国だということを明確に国際社会に宣言する必要がある。そうでないといくら自由だ,民主主義だ、平和主義の国だと口でいっても説得力に欠ける。
もっと具体的な事例をあげましょう。時効が近づいてきている未解決の言論機関へのテロ、朝日新聞阪神支局の記者銃撃殺傷事件があります。これの意図も背景もわからないまま、日本のジャーナリストは身辺への危機を感じ、言論への抑制を促された事件です。これが未解決のままま放置されることは、日本のジャーナリズムのテロへの敗北です。またオウム事件に関連していた警察庁長官へのテロ事件も未解決です。言論機関と捜査機関トップへのテロ、このようなテロが未解決の日本は、果たしてテロに厳しい国といえるでしょうか。テロ撲滅のために自衛隊を出動させるのであれば、せめて日本国内で起こったテロ事件くらいは解決すべきである。ちなみにアメリカでは国内の重大なテロ事件の未解決事例はありません。言論の自由の国で、ジャーナリストが自分の国のオフィスの中で、テロの銃撃により殺害されるなどということは前代未聞のことなのです。いま、アメリカの新聞社やTV局では、炭そ菌によるテロが起こっていますが、言論機関へのテロは民主主義に対する最大の挑戦であり、許しがたい敵であります。

メール

以下は前号(2月掲載分です)
「パールハーバー物語」

パールハーバー近海で、「えひめ丸」と米原子力潜水艦グリーンビルが衝突し、漁業実習の高校生たちが多数犠牲になったことは、痛ましいことでした。
しかし米潜水艦に全面的に事故責任があり、「えひめ丸」は100%被害者であるとアメリカ側も認めているようです。米政府と国防総省、米軍当局がいちはやく責任を自覚し、被害者にとって満足のゆくものではないにしても、民間人の関与をはじめとする情報を公開を促進していることは、われわれにとって一片の救いでもあります。これは事件を重大視する日米双方のジャーナリズムや世論の力に負うところが大きい。
10年ほど前、私は太平洋戦争の激戦の戦跡を尋ねてハワイのパールハーバーから南太平洋諸島のマーシャル群島、クゥエゼリン、ポナペ、トラック、サイパン諸島を旅をしたことがあります。これらの島々の大半はかつての日本領でしたが、現在は米国のコモンウェルスないしは信託統治領になっており、米軍基地が島の主要部分を占めています。したがって、これらの島々の取材にとって、米軍基地の取材は不可欠です。しかし、軍事機密の壁は大きく厚く、取材はきわめて困難だったことを思い出します。エンジン音をとどろかす迷彩色の戦闘機群が居並ぶ軍事基地の前で、呆然とたたずんだものでした。
情報公開どころか、簡単な取材さえできないところがたくさんありました。そうした中に、旧日本軍のゼロ戦の残骸や戦車、大砲の残骸が打ち捨てられていました。ジャングルのなかの洞窟には、水筒や飯盒などの日本兵の遺品が散乱していました。トラック島の海にもぐると、海底に沈んだ戦闘機の日の丸がくっきりと見えました。それほど水が澄んでいたのです。
これらの島々に隣接する海域には、かつて米国の核実験が継続して行われたビキニ環礁があり、ここはいまでも、軍関係者いがい立ち入りが禁止されています。周辺では放射能の危険がまだ消えてはいません。年配の人は覚えていると思いますが、かつて日本のマグロ漁船が核実験に巻き込まれ、死の灰をかぶって帰国し、放射線障害で船員がなくなるという事故がありました。食料が乏しいなかで、大量の被曝マグロが廃棄されました。
米軍の軍事機密の壁は、10年前からそれほど変わっていないと思われます。外交や内政にかかわる機密情報ですと、原則25年で情報公開を義務づける「情報自由法」があります。アメリカの情報公開の進歩は世界一で、情報鎖国の日本とは天地の差があります。それでも唯一の例外が軍事機密であり、なかでも原子力兵器に関するものは最高機密です。最高の軍事機密は25年をへても公開されないことが多い。
いうまでもなく、パールハーバーの海域では、原子力潜水艦の演習はきわめて優先順位が高いオペレーションとして位置づけられています。
こうした米国の軍事の背景をわれわれは理解しておく必要があります。”悪者として米国海軍”を強調し、国内のスキャンダルや犯罪報道と同様の勧善善悪の図式のなかで問題を見ようとすると間違いが起こります。ハワイの地元紙、ホノルル・アドバタイザーは日本と米国の文化の違いを丁寧に説明した上で、日本文化にとって遺体の引き上げが何よりも優先順位が勝る問題であることを、米国世論に訴えて理解を求めています。
こうした報道はニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストといった中央の新聞にも出てきています。しかし、日本のメディアはやや冷静を逸しているように見える。感情に流されて、米国世論に対する配慮が欠けているように見える。たとえば、沖縄の諸事件との混同です。なるほど沖縄の諸事件とパールハーバーの事件は、米軍が起こした事件ではありますが、これを”反日的出来事”として両者を同じ次元で扱うのは、おおいに危険なことであり、国際政治をうんうんする論理的な筋道からも逸脱しています。沖縄は日本の国家主権のなかですが、パールハーバーはアメリカの領海です。
人命はすべてに勝るとわれわれの多くが考えているが、基地や原子力潜水艦にも明白な存在理由があり、この時期に米軍はイラクを空爆し、死傷者が出ました。このような世界の現実を日本のジャーナリズムはきちんと整理して、知らしめる必要があります。そうでないと読者、庶民は、可愛そうではないかという感情に溺れるあまり、危険な迷走のなかへいっせいに駆け出すかもしれない。「アメリカ憎けりゃ、袈裟まで」という風潮ができることは、日本にとって好ましいことではありません。
パールハーバー近海には、日本の高校生を載せた漁業実習船がたくさん出かけているということです。ハワイ諸島近海が豊富な魚場であること、インド洋やアフリカ近海などとくらべると、海賊などの不安もないことが、人気の原因だといわれます。確かにパールハーバーは米海軍の要衝ですから、治安は良いに決まっています。しかし空には演習機が飛び交い、海には軍艦や潜水艦銀座ともいわれる海域でもあり、間違うとあのような事故が起こる危険がある。高校生の実習であるからには、そのリスクを頭にいれておかなければなりません。海賊の危険とは次元が違うが、リスクはリスクである。
南太平洋の楽園といわれるハワイのもうひとつの顔、それがパールハーバーです。ハワイは日本人が大好きなリゾート地ですが、米国最大級の軍事基地でもあります。どうも、日本人はそのことを忘れているのではないか。楽園のハワイであのような事故が起こったことに日本人は怒り、戸惑っているのではないか。楽園の海にのこのこ原子力潜水艦が現れ、日本の若者を載せた漁船に衝突するなど、許せないことだと思っている。場違いである。あってはならない事故には違いない、しかしありうることだったのです。
日本ではあまり知られてはいませんが、ハワイには現地住民や学生の間に、根強い反基地運動があります。ハワイ大学にいたことがある私は、しばしば演説会やビラに遭遇しました。こうした運動によって実弾演習場が閉鎖されたことがあります。今度の原子力潜水艦の事故が、地元の反基地運動に拍車をかけることを、米軍当局はもっとも恐れているのではないかと思います。
日本の実習船がパールハーバーを航海する以上、米軍戦艦や空軍の基地や演習にかかわる情報をチエックする必要がありました。
なるほど許可された船舶が外国の領海を航行する権利はあるし、パスポートに記載されているように、アメリカ政府は旅行者保護の義務があります。しかし事故はそのような建前を破って発生します。事故の責任についてアメリカ政府や日本政府を追求することはできます。しかし失われた人命はもう戻らない。だからこそ、本当に大丈夫かどうか、情報入手による実質の危機管理は、自前で行うしかないのです。どのような場合にも、事故に遭わないようにすることが最重要の課題です。これが「自己責任」です。

「平和の海を自前で作れ」

原子力潜水艦や海賊が出没する危険な海へわざわざ行かなくとも、日本の近海にふささわしい「平和の海」はないのか、という疑問がわきます。私は漁業の専門家ではないので、「近海にそんなところはない」といわれればそれまでです。しかし、日本近海を公害汚染や乱獲で荒廃させ、魚場をより遠くへと求めざるをえなくなったわれわれの国のありかたを、このさい見直す必要がある。有明海の失敗のようなことを繰り返してきた結果、われわれは自前の海をなくし、遠くの危険な海に頼らざるを得なくなったのではないか。
われわれは、「平和の海」を自分の国の近くに作り出す努力をしてきただろうか?
近海での「平和の努力」を怠ってはいないか。そういう反省がいま必要です。
「えひめ丸」の事故にさいして、私が感じた究極の疑問はそのことでした。この問題は、潜水艦艦長の謝罪と刑事訴追、犠牲者への保障、えひめ丸の引き揚げなど、米国に対する日本の要求が100%満たされてもなお、残る疑問です。
ところで、パールハーバーというと、日本人にとって忘れられない過去があります。
60年ほど前、旧日本軍がここを急襲して、太平洋戦争が起こりました。約10年前に私がルポした南太平洋の戦争の残骸はこのときのものです。日本軍のパールハーバーの急襲は、アメリカ人にとっても忘れられない歴史です。アメリカの建国以来、国民がひとつの目標に結集して闘ったのは、リンカーンの奴隷解放戦争とパールハーバーだといわれます。
周知のとおり、日本は宣戦布告なく、パールハーバーを急襲しました。外務省や現地大使館の不手際で、宣戦布告の到達が遅れたのですが、これがアメリカ人を怒らせたのです。
パールハーバーにアリゾナ記念館というモニュメントがあります。観光地ですが、ここには不思議なくらい日本人の姿がない。海軍のボートで案内していますが、日本軍の急襲で沈没した戦艦アリゾナの軍人千数百人の慰霊が祀られています。海底の沈船から湧き出す油の渦が、いまも海面に縞模様を描いています。
記録映画の上映があり、早朝の日本軍の急襲によって、兵士たちはベッドから立ち上がる暇もなく、海底に沈んだ戦艦の実写が映し出されます。ナレーションには、「ジャップ!」という言葉が飛び交います。半世紀前の歴史がパールハーバーでは、まだ生きている。これが私の実感でした。映画が終わると、ブッシュ元大統領(現大統領の父)の声で、「これはもう歴史だ」という趣旨の説明が入り、人々はわれにかえります。わざわざこのようなナレーションが入るのは、現実の日米関係をおもんばかってのことだろうと思います。
ハワイに観光や遊びにゆく日本人は、このような歴史の局面を、一度は見てきてほしいと思います。
えひめ丸の事故が、パールハーバーという日米双方にとってきわめてデリケートな歴史的な場所で起こったことを、十分に頭に入れておく必要があります。

前号、第19号(2000年6月19日)から
「究極の他者(神の国)としての日本」

「日本は究極の他者」という表現をしたのは、フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールです。西欧の人々は、他者という存在に敏感です。自分に対する他者という対立的存在をいつも意識しています。他者性の認識を通じてたえず自分を観察して生きている。ヨーロッパ人には、他者がどうしても必要なのです。これは、歴史意識であると同時に、日常の言葉でもそうです。主語、述語、目的語をきちんとした配列で表現しなければ、文章の意味を伝えられません。
他者をいかにして発見し、自己の中心領域の周辺へ取り込むかが、西欧の近代化の最重要テーマでもありました。新大陸の発見や東洋などの異世界への関わりは、このような西欧の他者意識から生まれたのです。オリエンタリズムは、その一例です。
ところで、ボードリヤールは、最近の本のなかで、日本のことを、「究極の他者」といっています。究極の他者とは、つまりあの世を生きる者のことであり、神の国の住人である、ということです。もちろん彼の本は、例の人の発言より早い時期に書かれている。そうすると、神の国発言のあの人のほうが、もしかするとボードリヤールの本を読んでいたのかもしれない。まさか、ボードリヤールを読むようなインテリだとはとても思えないが、万が一ということもあります。そうだとしても、ずいぶんな誤読です。ボードリヤールは、神の国の日本のイメージを語っているだけで、特に持ち上げているわけではありません。
神の国発言は、ボードリヤールのレトリックのなかにすっぽりとはまっていることに、私は驚きます。
ところで、ボードリヤールは、なぜ日本を究極の他者、と呼んだのか。それは原爆の洗礼を浴びた唯一の国であるからです。ダリの絵画にも、原爆のあとの世界のイメージが描かれていますが、壊れた時計や砂漠があり、小さな蟻のような生物のほかは、生き物はいません。黙示録の世界のメタファー、それが「他者としての日本」です。「あのカタストロフはわれわれが太陽を地上に持ち帰ることに成功して、そこで爆発させたという事実そのものだ」と彼はいいます(「世紀末の他者たち」塚原史ほか訳)。被爆という極限の不幸は、当事者だけではなく、他人をも試練にかけている、と。
日本の核による黙示録(アポカリプス)は、地球全体の破壊を暗示し、世界が核によって終わる可能性を示した。この世界の終わりの認識こそ、「究極の他者」を暗示する存在なのです。世界の中の日本は、被爆国という歴史的事実においてしか存在理由がない、というふうにも読めます。
しかし日本は、核の脅威とともに「あの世」を生きる可能性を象徴し、また黙示録の世界から生還しようとする意志を示してもいる。事実、戦後の経済繁栄を達成した日本は、生き残っている。この事実を前にした世界は、日本がどのような振る舞い、行いをしようとも、寛大にならざるを得ない、とボードリヤールはいっています。
周知の通り、湾岸戦争のあと、「湾岸戦争は起こらなかった」などの挑発的な本を書いたボードリヤールのレトリックの戦略は、なかなか見事なものがあります。しかし、日本人の私としては、この彼の言説の裏付けをますます強化するような発言を、日常的に繰り返す政治家たちの軽さを、早くストップさせなければならないと思っています。
ボードリヤールの日本論、これは壮大なる誤解ではないでしょうか。政治家の失言だけではなく、日本の知識人は、もっと言葉を駆使して、日本を誤解から解く、自らのロジックで説明する責任があります。でないといつまでもわれわれは、甘くみられます。日本人は、黙示録の世界やあの世を生きているわけではありません。西欧人と同じく、厳しい日常を生きています。
「神の国」発言を、ル・モンドかなにかの新聞でその記事を読んだとき、自説の確信を深めると同時に、そのあまりのナイーブさに、ボードリヤールは内心、驚愕したことと思います。ド・ゴールはもちろん、ミッテランもシラクもなかなかのインテリでありますから、自国のリーダーを誇りに思ったことでしょう。
それにしても、私たちが周りの世界にたいして、これ以上の寛大さを求めて生きるのは、もはや屈辱ではないでしょうか。
核の廃絶、を堂々と世界に訴えること、臨界事故のようなことを二度と起こさないこと、は、日本人として最低限の自己責任だと思います。自他ともに認める、神の国、黙示録の日本にいつまでも安住してはいられません。ましてや「神の国」発言は日本が戦前の国体に戻るための布石、というような解釈が、アジアをはじめとする世界中のジャーナリズムをにぎわしたわけですから、日本人としては迷惑千万なことでした。
昔、カンヌ映画祭を取材したとき、日本映画「黒い雨」の評価をめぐって、フランスのジャーナリストと議論したことがあります。フランス人は、この映画に出てくる原爆は、まるで自然災害のようだといいました。日本がなぜ、原爆を落とされるに至ったかという経緯が、描かれていない。映画としては欠陥があり、評価できないというのです。
彼の言い分は私にも理解できました。しかしいくぶん腹が立ち、フランスがアルジェリア戦争をやって、植民地独立を妨害した話を持ち出した覚えがあります。
しかしいま、そのフランス人ジャーナリストの言葉を思い出しています。
「マイクロソフト分割命令」
アメリカ司法省がマイクロソフト社の分割命令を出しました。ウィンドウズとほかのソフトを切り離すことで、マイクロソフト社の市場独占を排除するのが目的、ということです。マイクロソフトといえば、いまのアメリカのI T産業の隆盛を支える最大の貢献者であり、牽引車です。その会社を弱体化させるいがいの何者でもない、こうした司法省の判決の真意はどこにあるのか。
マイクロソフトの独占、寡占体制が拡大することは、マイクロソフト社にとって大きな利益をもたらします。アメリカ経済再生の功労者なのだから、その程度の創業者利益を認めるのは当たり前、と考えるのは、しかしどうやら日本的な発想のようです。
新しいベンチャービジネスにとっては、マイクロソフトの市場寡占によって参入のチャンスは大幅に奪われます。この判決は、この問題点にメスを入れたものです。チャンスの平等という民主主義の大原則を崩さないために、あえて米国経済の救世主ともいうべきマイクロソフトの分割に踏み切るという大胆な判決なのです。
マイクロソフト社やビル・ゲーツさんにはまことにお気の毒ですが、建国いらいのアメリカという国のバックボーンの強さについて思いを新たにしました。アメリカ社会の民主主義追求のあくなき欲求については、前回にも書きましたが、この判決もその一例だと思います。
アメリカの外圧ーーこの言葉は日本人が何かを変えたいときによく使います。そして、日本の何かが根本的に変わるときは、本当にアメリカが日本に圧力をかけたときです。幕末のペリー来航や敗戦時のマッカーサーの支配は、日本システムを根本的に変えました。
アメリカの日本への圧力は、アメリカの国益を反映しています。しかし、その国益のありかたは、どうやら、私たちが考えるような、既得権益の擁護だとか、一部の特権階級の利害を反映したもの、というようなことではないということが、この判決をみればわかります。すなわち、アメリカ的な価値を守ることが、アメリカの国益なのです。ところが、アメリカ的価値とは何かというと、これが私たち日本人には、はなはだわかりにくい。
ニューヨークを訪れる人々の目に最初に入る風景は、マンハッタンの摩天楼とともに、自由の女神像です。
冷戦時代、ソ連の東側は物理的な領土に固執し、西側のアメリカは、領土以上に空間的な価値に固執するという分析がありました。アメリカは、民主主義とか自由といった抽象的な価値観を空間的に拡大するというのです。そのために軍事力を背景にします。これがアメリカの特色です。ペンと剣を巧みに使い分ける。
正義は剣で実現するが、その剣の使い方を決めるのは、自由の女神です。自由の女神のもとにある最大の天使は、いうまでもなく「言論の自由」です。
今回の司法省の決定は、マイクロソフトに対する剣の行使です。しかし、その剣の行使を自由の女神は、サポートしていると司法省は確信している。民主主義と自由、競争の平等・・つまり、アメリカンドリームの擁護のために、あえて巨人マイクロソフトの市場寡占にメス、というわけです。
いま、アメリカは、日本の電話料金問題に圧力をかけています。NTT通話料金が高いので、インターネットビジネスの競争の障害になっている、という理由です。マイクロソフトの市場独占問題と比べると、はるかにわかりやすい問題ですが、いまだに解決のメドはみえてきません。日本の市内電話通話回線はNTTの独占事業であり、競争はない。われわれが、インターネットをするにはこの回線を利用するしかないのが、現状です。こんな簡単な規制緩和が解決できないでいるのに、世の中は、I T産業熱に浮かされています。
アメリカでいまのようなI T 産業が発展した背景には、規制緩和を推進して新規参入の競争力を確保しようとする政府、司法当局と既成の大企業の間で、激しいバトルが繰り広げられたのでした。こうした問題は、かなりアカデミックなレベルで、全米の経済学者、法学者、情報通信学者たちが共同研究しています。水準の高い報告書も出ています。しかし残念ながら、日本では関心をもたれてはおらず、翻訳も出ていません。私は、数年前に、翻訳を試みて、いろいろな出版社と交渉しましたが、結局、どこからも理解を得られませんでした。
ITの理念、社会的背景、思想を勉強するための堅い本ですので、直接のリターンには結びつきにくいのです。第一に売れない、ということでしょう。IT 産業を喧伝する日本企業にしても、興味のない分野なのです。というより、もっとも避けて通りたい部分でしょう。面倒なことはうまく避けて、ITのおいしいところだけ欲しい、ということです。
仕方がないので、自費出版を考えて動きましたが、翻訳権や版権料問題で交渉が進まず、まだ宙に浮いた状態です。IT熱に浮かされているだけでは、本当の経済に結びつくという保証はどこにもありません。司法省のマイクロソフト分割命令は、はからずもアメリカのIT産業の光と影を照らし出しました。しかし、一面、アメリカの健全さを担保してもいるのです。
以下は、前号18号(1月20日)からです。
「日本のY2Kは民主主義の誤作動だった」
Y2Kは、世界的にみて、大きな問題にはなりませんでした。コンピューターはかなり信用できるものだということもわかりました。私の使っているマシーンも、ずいぶん古いものですが、メールの日付にはちゃんと2000年1月X日という数字をうってくれました。どうやらY2Kの真意は、コンピューターの問題ではなかったことが判明しました。
まあ、いずれこういうことが起こるだろうと予期はしていましたが、「民主主義の誤作動」という世にも珍しい表現が、建設大臣の口から飛び出したというわけです。
どうやら、「住民投票というのは民主主義の誤作動だ」ということのようですが、どこの書物にも誤作動のことは書いてありません。ひょっとするとこれは、日本型民主主義(似て非なるエセ民主主義)の新説となるかもしれません。
ちなみにアレクシス・ド・トクヴィルというフランスの貴族が、「アメリカの民主主義」というタイトルで民主主義のバイブルといわれている本を書いています。目を凝らしてその古典を読み返してみましたが、そういう記述はもちろんありません。18世紀フランスの貴族ですから、貴族政治が衰亡することへの寂寥感はあります。しかし誤作動などとはくらべものにならないほど品位と教養ある文学的表現を使って、民主主義へむかう蕩々たるアメリカの政治潮流に対する希望を語っています。その文章は極めて格調があり、フェアです。私は北フランスのシェルブール近郊に、トクヴィルがその本を執筆したという城を訪問したことがあります。京都の二条城よりはるかに大きな城と屋敷でした。そういうところで、民主主義のバイブルが生まれたことを知って、私は感慨を新たにしたものでした。
大統領は選挙民の直接選挙で選ばれます。しかし直接選挙を否定するこの大臣のように考えると、アメリカ、フランス、ロシアはもちろん、アジアでもフィリピン、韓国などのような大統領制の国は、すべて民主主義が誤作動していることになります。また、イギリスのような2大政党の国も限りなく大統領制に近い。だから、アメリカもEUも韓国も信用できないと民主主義が大嫌いな日本の政治家たちは思っているのかもしれない。
代議制と直接選挙(住民投票)の適正な組み合わせによって、民主主義のシステムは民意の反映と支配のバランスをとりながら維持されている。これが民主主義制度のイロハです。トクヴィルの本にもそう書いてある。住民投票は民主主義実現の一形態です。代議制がすべてというのは、代議士の特権意識の変形にすぎない。
住民投票の民意(民主主義のことか?)などくそ食らえ、という趣旨のホンネを漏らした保守政治家もいたと、ニュースステーションの清水キャスターが伝えていた。恐ろしい発言です。ヒトラーでもそういうことはいわなかったでしょう。やはり、まずは政治家の諸氏から民主主義のイロハを勉強してもらいましょう。住民投票の是非を語るのは、それからにしてもらったほうがいいい。
あるいは、民意にかかわらず、重大案件は国家投資によって中央官僚が決めたようにやる、ということであれば、これは国家資本主義の一形態です。実は、この手法は途上国アルジェリアがやろうとして、日本型を模倣した時期がありますが、完全に失敗し、アルジェリア経済は破綻した。昔、私はアルジェリアを取材したことがありますが、ものすごい官僚主義で、驚いたことがあります。人々は書類を書くことが仕事でした。このことは新刊書のR・S・ランデス「強国論」(竹中平蔵訳)に書いてあります。なかなか面白い本です。
日本は憲法で民主主義と主権在民をうたっていますから、それを無視して官僚が突っ走ると、現憲法を否定することになり、民主主義国家に対する官僚のクーデターということになる。つまりは民主主義の停止と官主主義政治の復活です。戦前の国体に戻るというよりは、経済を大規模公共事業で支えようとしたアルジェリア的危険(20世紀型国家資本主義)のほうに近い、と私は思っています。憲法調査会ができるようだが、まさかアルジェリア型官僚政治を基本理念として書き換えるわけではないでしょうね。9条のこと以上にこの点が心配になります。
吉野川可動堰の住民投票では、50%条項などという前代未聞の付帯文言がついたが、
いろいろな投票妨害があったと報道されています。となると、例の東チモール、カンボジアなどに国連の選挙監視団チームが派遣されたように、徳島にも選挙監視団を派遣する必要があったのではないですか。まさか、と思う人がいるかもしれないが、住民投票への投票妨害は民主主義への重大な干渉ですから、国際機関を含め、第三者の選挙監視を要請してもおかしくはなかった。公選法が適用されなければ、何をしてもいいというものではない。このさい日本の民主主義はまだそのレベルにあることを自覚したほうがいい。マッカーサーに「日本人は12歳」といわれた屈辱を、忘れないでいたい。
現在、国際機関が「日本の自然破壊」に対して、強い関心をもっているのは、東海村臨界事故や違法ゴミの海外輸出をはじめとする昨今の芳しからざる実績が、じわじわとボディブローをきかせてきているからです。急速に浮上した日本核武装論も国際世論に拍車をかけている。愛知万博へのネガティブな評価もそれを物語っている。大阪オリンピックはよほどの覚悟が必要です。論理性があるきちんとしたメッセージを発しない限り、ごまかしは見破られてしまいます。腹芸やムードは通用しない。演歌「孫」をいくら上手にうたっていても、世界の人々は日本人を理解してはくれません。いまの日本は、残念ながら、「頭脳なき国家の悲劇」を地でゆくような国になっています。つまり、「非知性国家」であります。そうした中で、絶望に陥ることなく、吉野川問題の投票に理性的に取り組んだ姫野さんと徳島市民の方々に、敬意を表します。

「10年問題とは何のことか?」

昨年後半あたりから、「10年問題」とか「20年問題」ということが、新聞やテレビで話題になっています。これは、バブル経済が崩壊した90年代に入って、日本はなすべき構造改革をさぼり、そのつけが今の不況に結びついているという考えです。最初に、政治家、エコノミスト、金融機関のトップあたりから、この声が聞こえてきたように思います。責任ある立場にある人々が、自分の怠慢責任を自覚したということでしょうか。
怠慢、というよりこれは既得権益を手放すのがいやだったというほうがわかりやすい。わかっていながら、手をこまねいていた。ガンにかかっていると知りながら、放置しておいたら、どうなりますか。
10年前には、日米構造協議があり、さかんに日本異質論がいわれました。米国の強力な市場開放圧力がありました。もしも当時の日本の指導者たちが、本気で米国と4つ相撲をとり、互いに理解し合える交渉を行っていたら、いまのような経済状況を招くこともなかったし、場合によっては、沖縄の基地問題についても、もっと良い解決法がありえたかもしれません。残念ながら、当時の日本の政財界の指導者たちは、米国の圧力に屈する形で、問題を処理し、日米交渉を自己保身(=既得権益の擁護)に利用したのです。
マスメディアや日本のジャーナリズムもまったくといっていいほど、この問題には無関心でした。それどころか、自らバブル経済をあおっていました。
東京都知事石原慎太郎さんが、最近、テレビなどでしばしば指摘していることは、かなりの部分であたっています。もっとも私は石原さんの米国や中国に対する国際感覚のなかに、偏狭な部分が多々あることは承知したうえの話ですが、それでも石原さんの指摘にはうなずかざるをえない。いま、私の住む大阪で、ポスト・ノック選挙戦が始まりましたが、石原さんのような知事が大阪からも出てくれば、日本は変わるかも知れないと本気で思っています。
私は、10年前(あるいはバブルに人々が踊っていたころ)、こうした問題をリアルタイムで書いてきました。徒労感のなかで、いろいろな妨害、誹謗中傷にもあいました。
しかしいま「10年問題」のなかに、当時の私が指摘していたことが日本社会の現実としてそのまま現れていますので、まことに感慨深いものがあります。これについては、拙著「日本型メディア・システムの崩壊」(柏書房)や共著「日本人の思想の重層性」(二重基準(ダブルスタンダード)としての日本ジャーナリズム、筑摩書房)で書きましたので、ご参照ください。
「阪神・淡路大震災5周年」
阪神淡路大震災から5年がたちました。当時、私は東京におり、テレビ画像で崩れ落ちた高速道路を見てものすごい衝撃を思えました。その後、知人のところへ水や食糧を届けるために、大阪近郊から歩いて神戸まで行きました。大勢の人々がリュックサックを背負って黙々と歩いていました。人々は整然としていました。話し声もなく、足音だけがザック、ザックと響き、それにまじって木枯らしのヒューという音がとても悲しい響きをたてていました。苦難を共にする人々の共感が、壊れた町を支えていました。上空を飛び回るマスコミのヘリだけが唯一の騒音でした。
5年後の神戸に行きました。もう震災の傷跡は見えません。電車を降りると、きらきらとしたビルとネオンが輝くきれいな町があります。行き交う若い女性は東京の銀座や青山のようにファッショナブルです。
しかし、この外見からは見ることができなくなったもう一つの神戸には何があるのか。
ところで、日本の選択肢として近ごろよく語られることですが、「少ない税金、勝者と敗者がわかれる」小さな政府がいいか、「税負担は重いが平等に面倒見のいい」大きな政府のどちらがいいか、という設問があります。テレビキャスターが、よく政治家たちに質問しています。これを見ていて思いました。
もう一つの課せられた選択肢がある。「重い税金」冷たい政府です。この政府のもとでの勝ち組は、”寄らば大樹”の既得権益の側にいる少数の人々だけで、それ以外の大多数は負け組である。少数が多数を圧迫する構造です。神戸では中高年の孤独死が後をたたない。せっせと働き、せっせとたくさんの税金を払ってきた人たちが、あげくの果て、片隅に追いやられて、淋しい人生を送っている。これは神戸だけの話ではありません。サラリーマンたちは天引きであれだけの税金(国税と地方税)を文句もいわずに払ったのに、震災の苦境に際して、国や行政は何もしてはくれなかった、そういうやるせない思いが底辺には渦巻いています。そしてリストラと自己責任時代の到来を宣告されています。
日本人が貯蓄を決して吐き出さないのは当たり前です。何かことがあったとき誰が面倒を見てくれるのか。阪神大震災の教訓として、これが身にしみたのです。内需が生まれないのは、たんに不況や年金制度の欠陥のせいだけはありません。この阪神淡路大震災の顛末=自己責任の押しつけを、国民はよーく見てきました。重税でありながら冷たい政府では、信頼せよといわれても無理というものです。
話は違いますが、いまインターネットの接続料金のコストの問題で、日米交渉が紛糾しています。アメリカはNTTの市内通話料金を45%下げよ、と要求している。というのは、アメリカでは市内通話は基本料だけで何時間つなごうと加算されないからです。要するに、いまのように電話料金が高いと日本は、世界の情報経済競争に負けるということなのですが、日本側は米国の要求を拒否している。考えてみれば、電話の通話料金が安くなることは、消費者にとって無条件で歓迎すべきことです。NTTの社員や関連会社の人は困るかもしれないが、それ以外の大多数の国民の利益になります。これもアメリカの圧力には違いない。しかしアメリカが圧力をかけてくれてはじめて電話料金が安くなり、消費者はもっと楽にインターネットができるようになる。そうなると庶民は、アメリカは自分たちの味方のように思います。いずれにせよ、電話料金のことを気にしながら、インターネットをやるのでは、本当に時代遅れになります。
この問題も、私はこのHPの最初のところで、もう二年くらい前に指摘ました。残念ながら、これに対しても何のレスポンスもなかったことをここでご報告しておきます。

以下は前号16号(1月1日発行)からです。
なお、文中「戦争の世紀」の文中にあるアインシュタインの数式が「E=mC」となっています。これはいうまでもなく{Cの二乗}が正しいのですが、HPに送信した時点で、二乗のロゴが消えてしまったようです。申し訳ありませんでした。

「21世紀ジャーナリズムの課題」

かなりものものしいタイトルでしたが、この問題を考える機会がありました。日本新聞協会発行の雑誌「新聞研究」2000年1月号の特集「20世紀の終焉ーージャーナリズムの何が課題か」に原稿を寄稿したのです。考えてみればわれわれは、家庭、学校、職場などの狭い地域の情報のやりとりを除けば、おおむねマスコミからの情報を得て生活しています。情報の社会的意味づけや価値の優先順位や事件の考え方の枠組みの多くはマスコミが作るものです。コンピューター2000年問題とか、臨界事故なども、マスコミの情報だけが頼りです。日本は、欧米の先進諸国にくらべると、情報公開が後進国なみに遅れていますから(くだらないゴミ情報や真偽不明のワイドショー個人情報などは世界一あふれているという不思議な国ですが)、マスコミが伝えてくれなければ、庶民はなにも知ることができない。隣にある原発関連工場で致命的な放射線漏れ事故が起こったとしても、事故が目に見えない場合、人々は無防備なまま、知らないうちに被曝してしまうわけです。そういうわけで、私たちは日ごろマスコミは信用できないとか、真実をつたえていないなど多くの不満、不信を持ちながらも、実はことのほか頼りにしてもいるわけです。
そんなわけで、マスコミ活動の中心、いわば頭脳部分を担うジャーナリズムの役割は極めて重要であり、おおげさにいえば、ジャーナリズムのありかたいかんで、わが21世紀の運命は左右されるといっても過言ではありません。このようなことは、特に日本だけではなく、マスメディアが発達した先進国では共通の問題です。アルビン・トフラーは、「今後の政治や世界の方向を決めるのは、政治家や実業家や官僚ではなく、責任の所在が明確ではないマスメディアの役割になってきた」といっています。責任の所在ははっきりしないが、大衆への影響力は極めて強力な存在であるわけです。アメリカで日本製のポケモンがブレークし、日本ではNY在住の宇多田ヒカルのCDが700万枚という驚異的な売り上げを記録し、米国経済や日本経済の心理に少なからぬ影響を与えた強力な娯楽メディアの誕生も、マスコミの宣伝力をぬきに語ることはできません。
ところが、’99年日本では、マスコミは相変わらずの喧噪でしたが、ジャーナリズムの機能が大変に脆弱になりました。私の目から見ると、’99年の日本の大衆ジャーナリズムの盛り上がりは、サッチー・ミッチーで終始したという印象をもっています。サッチーに対するマスコミの追及の迫力に比べれば、臨界事故など遠く足下にも及びませんでした。サッチーに手を出さなかった大新聞やNHKは、黙殺のポーズをとったようだが、検察を巻き込むあれだけのアジェンダが設定されたい以上、ジャーナリズムとして何らかのリーダーシップをとる必要があったのではないかと思います。あの報道の中身には、公人、有名人、私人の境界、人権とプライバシーなどなどに関する、極めてマージナルな法的、社会的問題点が多々含まれていたと思われるからです。しかしサッチー問題は、いかなるジャーナリズムの理性的コントロールを受けることなく、野放し状態でした。
閑話休題。年末に上祐さんが出所したときの騒ぎもそうです。あれはどういうことか。目的は何か。ただの追っかけなのか。刑務所から出てきた直後から車で後を追い、飛行機に同乗し、空港で待ち伏せし、ヘリを飛ばして行く先の先回りをする。報道各社がこういうことをするから、どこもかしこも腕章をつけた報道陣であふれる。阪神大震災のときも、マスコミの狂騒が問題になりましたが、今回の集団追跡劇はもっとヒドイ。自らパニックを演出・創造しています。もはや知る権利とか、伝える義務といったいいわけは通用しない。報道目的をこえた重大な社会問題=メディア公害をマスコミ自身が主役になって大量生産をし始めたのです。こうなるといずれ、マスコミの法的な規制が論議の的になるでしょう。フランスでは、ミッテラン政権のときに、厳重なプライバシー法案が成立し、政治家、有名人をとわず私生活やプライバシーを侵害する報道は厳重に禁止されました。もちろんスキャンダル報道も御法度になりました。いまフランスに持ち込まれるイエロージャーナリズムは、ドイツとかイギリスイタリアで出版されたものだけです。
’99年代の日本のジャーナリズムを考えるとき、私にはどうしても忘れることのできない事件があります。朝日新聞阪神支局において、若い記者が射殺されたあの襲撃事件です。犯人はまだつかまっていません。5月の憲法記念日のころ、新緑の季節でした。まぶしい日の光がさしこむ朝日新聞の編集局に飛び込んできたあのときの衝撃をどうしても忘れることができません。新婚間もない若い彼は、殺されるほどの恨みを買う記事を書いていたわけではありません。撃たれたとき、なぜ?という思いとともに、幼い子と妻を残して死ぬことの無念さでいっぱいだったはずです。この事件の動機としては朝日新聞記者ならだれでも良かった、という推測があります。これでは、犠牲者は救われない。
なにがしかの恐怖を記者たちに与えること、つまりためにならない取材をする者、記事を書こうとするとああいう目にあうのだぞ、という見せしめです。新聞記者というのは、それなりの仕事をしていると、ときどき脅迫状のたぐいをもらうものです。私も何度かそういう書面をもらいましたが、あの事件をきっかっけに不気味なヤバサを感じるようになりました。お前もあのとき阪神支局にいなくて良かったな、という類の脅迫状をもらったことがあります。いくじなしの私は気持が後ろ向きになりました。
戦前、2.26事件のとき、朝日新聞が右翼青年将校に襲撃されたことはありますが、記者は殺されてはいません。またそれより前、「白虹事件」という筆禍事件を大阪朝日が起こしたときも、社長が暴漢に襲われて怪我をしたことはありますが、命には別状ありませんでした。
ジャーナリストが戦場や革命取材のなかで殺されることはあります。しかし、平和な民主主義国にあって、社内に乱入してきたテロリストの無差別テロの凶弾で倒れたという例は、聞いたことはありません。その意味で、これは極めて特異な言論テロだと思いますが、日本のジャーリズム界にはそうした認識がない。恐怖感を再生産し、心理的抑圧効果を目的とするためのシンボルとしての日本型言論テロ、と命名しておきます。この悪質なテロのあと、脅迫の手口もかなり陰湿なものに変わってきました。一人一人の記者の心に正体不明の何者かに対する怯えの気持が生まれました。その意味で、襲撃犯グループの「ジャーナリズム破壊の意図」は成功したのではないでしょうか。
私がいいたいことは、この希有な言論テロ事件に対する関心が、社会的に希薄であるというだけでなく、ジャーナリズムの世界でも薄いということです。1900年代の未解決事件というときにも、3億円強奪事件やグリコ・森永などはどこでも話題になるが、阪神支局襲撃事件はまったく取り上げられない。ようするに、ジャーナリズムの世界が一丸となって言論テロを指弾するという姿勢がないから、いつまでたっても犯人がつかまらないのだと思います。もしも朝日の事件だから、ほかの社は手をださないということであれば、日本には本当のジャーナリズムなど存在せず、たんなる会社ジャーナリズム、つまり自社の利益追求を旨とするエセ・ジャーナリズムがあるだけということになります。阪神支局事件という言論テロに対して、日本のマスコミが共通の闘いができないのであれば、日本のジャーナリズム界には、言論の自由を守る共通の価値観が存在しないことになる。まずは、この事件が迷宮入りすることのないよう、年頭にあたって、祈ります。

「戦争の世紀は終わったのか」

20世紀は戦争の世紀だった、と多くの人が口をそろえていいます。しかし、同時に全存在をかけて平和を訴えた人々の迫力も、また20世紀には存在していました。それは戦争と表裏をなすものでした。激しい戦争遂行と激しい平和への希求が、20世紀を突き動かした。このところ「20世紀の100人」などの大特集を、欧米の高級週刊誌が組んでいます。アインシュタイン、フレミング、ヴィットゲンシュタイン、ケインズ、ヘミングウェイといった科学者、思想家、作家の名があります。またアジアでは、孫文、毛沢東、周恩来、ガンジー、マザーテレサ、ホーチミン、スカルノ、リー・カン・ユー、朴正 、金日成などがあります。日本人は三宅一生、盛田昭夫などの実業人の名はありますが、政治家、思想家、科学者はゼロ。これだけの経済大国でありながら、外国人から偉人としてノミネートされる政治家、文化人がいないというのはなぜでしょうか。
米国の週刊誌「タイム」(「TIME」)は、1900年代の一人の偉人を選ぶなら「アインシュタイン」という選択をしました。ところでアインシュタインを知っていますか?、とCNNテレビがニューヨークの街角で街頭インタビューをしていましたが、正しく答えられた人はありませんでした。写真を見せられて、この髪の毛は科学者のようだという人や、「相対性理論」と聞かれると、親戚のこと?とつぶやく人など。もし日本でインタビューしたらどうでしょう。むしろアインシュタインの知名度は、アメリカより日本のほうが高いと思います。彼の名は日本人の潜在意識に深く関係しているのではないでしょうか。
ところで、アインシュタインといえば、例のE=MC 2 で核融合エネルギーを発見したことで有名です。すなわち原爆の方程式の発見者です。ユダヤ人の彼はヒットラーからドイツを追われ、ナチス打倒のために原爆開発に協力しました。しかし彼ほど禁断のエネルギーである原爆の恐怖を知る人もなかったのです。後年、アインシュタインは核兵器廃絶を訴え、絶対的な平和主義者になりました。
「核」が第二次世界大戦以降の、20世紀の大戦争を抑止したことは確かです。60年代のキューバ危機のとき、米国大統領ケネディとソ連首相フルシチョフの頭には、広島、長崎の地獄図が再現され、核戦争の瀬戸際から引き返しました。恐らく、このとき世界は広島、長崎の犠牲の記憶によって救われたのです。アインシュタインは、世界に核兵器の脅威を示すことで、大戦争を回避しようとする人類意識を高めるという「絶対矛盾」によって、20世紀の実践的平和主義者だったーー「タイム」がアインシュタインを選んだゆえんです。
私の著作「ヘミングウェイはなぜ死んだか」(集英社文庫)は、20世紀の文豪アーネスト・ヘミングウェイが謎の自殺をとげた事件を扱ったノンフィクションです。このなかで、私はキューバをめぐって展開された米ソ冷戦がのっぴきならない深みにはまりこみ、これによってキューバのヘミングウェイが深い苦悩に陥ったことを描きました。ヘミングウェイは、第一次世界大戦、スペイン市民戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争などの戦場を次々とルポして大作を書いた戦争作家です。彼ほど戦争好きと言われた作家もありません。その彼が、「私は核兵器はもちろん、最小の火、銃器を含むすべての兵器の所有に反対します」という宣言を発表するにいたりました。20世紀の主要な戦争の現場を転々と歩いた作家の結論は、絶対平和主義に行き着いたわけです。
日本は、第二次世界大戦で近隣のアジア諸国を侵略し、太平洋戦争を始めた当事者ですが、原爆の被爆国です。加害者であり核兵器の被害者という矛盾を同時に背負い込んだ存在です。唯一の被爆国という希有な存在によって、いまでも世界平和の創造に貢献しているはずです。それなのに、東海村の臨界事故のお粗末さはどうか。とうとう死者まで出しました。被爆による死者は、アメリカの水爆実験のビキニ環礁で被爆した漁船員の事件いらい、はじめてです。戦後の苦しい時代を生きてきたはずの日本人のプライドはどうなるのか。そのようなものは、もはや溶解してしまったのか。東海村の事故は日本人の心の「臨界状況」を映す痛ましい光景でもありました。
これについては、本通信の前回14号で述べましたので、ご参照ください。

以下は、現代メディアフォーラム通信15号(’99年10月21日)からです。
「バケツにウランの臨界事故と核武装」

バケツでウランをこねて、面倒な工程の手続きを省いていたとは、ビックリ。また例の物騒な核武装発言も、面倒な議論の手続きを省き、言いたい放題という意味では、バケツにウランと同じようなものです。危険のある仕事にたずさわっている人々の責任感、危機管理能力がない。これは大変なことです。1900年代最後の日本の終末は、東海村原子力による被曝事故と、某次官政治家の核武装発言で暮れようとしています。コンピューター2000年問題もなんのその、そんなものをはるかに越えた物騒な世の中になったものです。しばらくは、日本から密かに脱出する外国人の動きに注意していましょう。大阪で開催されていた世界体操選手権で、欧州のチームは臨界事故のニュースを知って、ただちに帰国したそうです。彼らは、私たちの知らない日本の安全情報に敏感です。日本の治安はすこぶるいいが、危険な国という噂がひろがりつつあります。本当の世紀末です。そうはいっても、普通の日本の人々の間にはそれほどの驚きはありません。庶民は平然と日常の暮らしを続けています。権力も富もない木の葉のごとき庶民大衆は、だれかの言葉を真似するなら、終わりなき日常をひたすら淡々と生きるしか、生きるすべがない。東海村で放射線が爆発しようが、日本が核武装に走ろうが、巷には大規模なリストラの嵐が待ち受けています。しかし税金は負けてはくれない。コンピューター2000年問題に備えて、生活必需品のストックもしなければならない。何かに構ってはいられない。それが庶民の現実です。思えば、日本が真珠湾を急襲して、太平洋戦争を始めたときも、同じような日常があり、広島、長崎に原爆が落とされたその直前まで、町には人々の普通の日常生活がありました。その日常はいとも簡単に、一瞬にして吹き飛びました。
やはり事故は起こった。フランスのある新聞は、「原発関連工場で日曜大工」と、驚きをあらわにしています。バケツでウランをこねるとは、信じられない醜態なのです。このぞんざいな事故を起こした日本は科学技術の先進国といえるのか、という疑惑が世界中に広がっています。広島、長崎の被爆の体験はどこへ消えたのかと、原爆を落とした国の新聞、ニューヨークタイムズは、書き立てています。JCOの幹部が被災住民に土下座して誤る写真を掲載し、「これはどこでも繰り返される日本的謝罪の光景だが、不思議なことに、日本人は怒っていない」と書いています。これがアメリカだと、抗議デモやなにやらで大変なことになるということです。シアトルのWTO会議への過激な大衆デモがこれを示しています。
原発は安全と、ことさら安全をいいたてていたのは原発関係者だけです。事故の翌朝のテレビのワイドショーで、原子力安全委員会のメンバーをしているという女性のコメンテーターが、まだ臨界が継続中という報道があるにもかかわらず、「放射線は外へ出れば薄まるから危険はない。原発は安全だから安心してよい」という趣旨の発言をしていて、肝をつぶすほど驚きました。放射線は外へ出れば薄まるなどという話は、私は聞いたことがない。中性子がいったん人間の体内に入るとどんなに恐ろしいことになるか、この安全委員は知っているのだろうか。私でも知っていることを知らないで原子力安全委員をしているのだろうか。安全委員にも国から手当がでるのだろう。それはわれわれの税金ではないかと思うと、怒りに震えました。無知こそ安全の印、として起用されたのかもしれないが、国民や視聴者をバカにするのもほどほどにしてほしい、とテレビ局の関係者に、一言、いっておきたいと思います。要するに、国民を無知の状態に放置しておいて、関係者が安全をいいたてていたという構図が浮かんできます。「拠らしむべし、知らしむべからず」も、ここまで来ると完成の域に達していますなあ。
新聞記者をしてきた私の取材上の経験からいうと、小さな事故はあったけど、よくいままで大事故がなかったものだということにつきます。このことは新幹線にしても、同様です。最近、トンネルの剥離と落下が問題になっているが、もはや時間の問題だ。
やはり事故は起こるべくして起こったというべきです。いや、あれは下請けの質の良くない会社がしでかした失態なのだ、本体の原子炉関連のところでは、事故は絶対に起きないという技術者がいます。日本の原発一流企業の技術は世界一のレベルにある。安全管理もずば抜けている。しかし下請け、孫受けのレベルが落ちているからああいう事故が起こるのだ。ああいうレベルの低い会社のやったことと、日本の技術水準の問題を重ねて議論してもらっては困る、マスコミは事実をすり替えて報道しているというわけです。要するに、下請け、孫受け会社の質の向上と従業員のモラルアップをすることが、事故の教訓であり、今回の事故は原発の安全性の問題とは何の関係もない、というのです。
マスコミが騒ぎすぎる。ことさら原発の安全性に不安をかきたたている、という人もいます。海外のマスコミが日本の技術水準に疑問を投げかけているのに対し、日本のマスコミは抗議もしないで、同様の危機感を書き立てているのは、怪しからんというわけです。
そういえば、あの政治家も、「マスコミにやられた」という意味の捨てぜりふを残して去りました。だけど海外から見れば、日本のマスコミがどうであろうと、そんなことは問題ではない。日本のマスコミは平気で庶民の人権を侵害するが、強者には甘いと、ダイアナ元妃の事故死の時のパパラツッイ特集で、高級紙のル・モンドがそう書いていた。日本のマスコミはまだまだ手ぬるいのです。アメリカのマスコミだって、クリントン大統領のスキャンダルをあそこまでしつこく追いかけました。
本社であろうと、下請け、孫受けであろうと、日本の企業にかわりはないし、こうした日本株式会社方式のやりかたを示す「ケイレツ」という言葉は、そのまま外国語になっているほどです。ついでにいうと「ダンゴウ」も外国語になっています。あれは下請けのやったこと、という説明は通用しません。日本の技術の信頼性が問われるのです。
話は違いますが、真珠湾奇襲のさい、宣戦布告をしなかったことが、いまでも日本の汚さを象徴する出来事として、世界中で通用しています。日本人は忘れていますが、世界の人々は忘れてはいません。なにかことがあれば真珠湾が持ち出される。これに対する日本政府の見解は、あれは在米日本大使館の通訳の作業が遅く、タイプにも時間がかかったために、米側に手交する時間が間に合わなかったというのです。東京裁判で、日本政府は宣戦布告をするつもりではあったが、末端の従業員の能力不足でああいうことになった、という釈明をしました。奇襲にはなったが、日本政府に責任はなかったということです。大使館の通訳には学生のバイト、つまり臨時雇いもいたようですから、正規職員ではなく、末端従業員、下請け、孫受けがやったことというわけです。これは、本社の責任ではなく、下の責任であるといういいわけと同じなのです。もちろん、このいいわけは、国際社会ではまったく通用しません。
臨界事故に関する外国のメディア報道で、「トヨタにロボットがあるのに、原発施設にはロボットはないのか」という疑問がありました。トヨタの生産ラインのオートメ化は、経済大国日本の象徴でもあります。ところが、臨界をくい止めるために、水抜き作業などの「決死隊」が派遣され、事故の拡大はストップしました。しかし大量被曝の危険を承知しながら、あえて生身の人間が出向くという考えは、欧米の感覚からすると、大変な違和感があるようです。アメリカの原発施設には、ロボットが置かれ、もし事故が起こっても、ロボットが作業する手順がシステム化しているようです。少なくとも、人命に対するダメージをどう少なくするかという発想で、事故対策ができている。ところが、日本ではロボットはおろか、鉛の防護服すらないという有様でした。頻度の少ない事故のために、ロボットなど置けば、コスト計算に合わなくなるからでしょう。事故コストをゼロにして、効率、利潤を求めることが、日本の原発の推進理由だったと思われる。事故の想定は、コストの経済学の範疇の外にありますから、理論的には安全を絶対化するしかなかったのですね。これは、まるで、経済学が市場のいろんな夾雑物を排除して、純粋な理論を組み立てる机上の学問と同じやりかたです。しかし、原発理論がたんなる机上の学問ではなかった証拠に、被曝した作業員は肉体の危機にさらされている。周辺住民も被曝の恐怖におびえたのです。そういうことは、「安全の教科書」には書いてなかったのだろうか。
例の核武装発言でもそうだが、肝腎なことが忘れられています。問題のインタビューの記事で、くだんの政治家は「強姦」という言葉を好んで使っているが、女性蔑視論者なのだろうか。世界一強い軍事力をもつ米軍には、たくさんの女性兵士がいるし、人種のるつぼのような組織だということを知らないのでしょうか。「日本封じ込め」を書いた米国のジャーナリスト、ジェームズ・ファローズは、「いまのアメリカで最も民主主義のモラルの高い組織は軍隊だ」と書いています。かつて日本男子だけの軍隊がいかに弱かったかは、太平洋戦争の帰趨を見ればわかります。官僚的で人間を差別する発想をもつ軍隊は弱くなる。人権が守られ、民主主義の成熟度が高く、人間の多様な能力をうまく引き出して活用できる軍隊ほど強いのです。現代の軍隊というのはそういう組織であることを、このさいしるべきです。
アメリカの軍事力がなぜ強いかの背景には、人命を第一に考える発想にありました。人命へのダメージを最小限にするために、遠隔操作による戦闘方式を考え、戦略爆撃機を開発し、ミサイルを開発した。頭脳さえあれば、非力な女性といえども、立派なコマンダーになる。太平洋戦争でも、米軍の戦死者は日本にくらべれば、桁違いに少ない。日本が戦艦大和の鋳造に固執していたとき、米国は日本の軍事暗号の解読や情報収集とレーダーの開発に力を入れ、原爆の発明で戦争に終止符を打った。広島に向かったエノラゲイの一人の兵士が、戦争を終わらせたわけです。
湾岸戦争でイラクの戦車部隊は、米国の近代兵器の前に、歯が立たなかった。現代の戦争は、「強姦」ではなく、コンピューターのキーをたたくというイメージです。こう考えると、核武装政治家の勘違いにははなはだしいものがあることがわかります。ついでにいうと、「強姦」は英語で「レイプ」ですが、旧日本軍の「南京虐殺」は、英語で「南京レイプ事件」といわれています。軍事に関連するこういう言葉の使い方には、十分な注意が必要です。戦闘機のパイロットのコックピットには、ファルコンビューという特性のパソコンが配備され、彼はコンピューターの指示に従って戦闘を行う。兵士はコンピューター技術者でもあるのです。日本が核の大国になりたいという妄想があり、かつての八紘一宇と大東亜共栄圏の思想を世界に広げ、アメリカを敗って世界を支配する。その暁には核のボタンを自分が持ちたいと、この人はいいだすのであろうか。
ところで知りたいことがあります。核兵器を持つ以上、核実験をする必要があるが、どこでこれをするつもりでいるのか。これは日本の核武装をいうときの重要なポイントです。狭い日本国内の領土ではできないのですが、その候補地はどこなのか。マスコミは、更迭を喜ぶだけではなく、もっとじっくりとホンネを聞き出す必要があったのではないですか。その点、「プレイボーイ」という雑誌のゲリラ性は決してあなどれません。もう一度、インタビューをしてほしい。もう次官をやめたのだから、もっとホンネがいえるはずです。核武装成就の暁に、太平洋とか近海の公海上のどこかで、日本が国際世論の反対に背を向けて初の核実験を強行することになれば、再び、日米開戦ということがあるかもしれないし、日中戦争が起こるかもしれない。米・中・韓・ロ・オーストラリアの多国籍軍と日本軍の戦争になるかもしれない。つまりは、第二次世界大戦と太平洋戦争のやり直しです。もっともわずかながらの味方もでてくるかもしれない。世の中から疎外された人々です。多国籍軍の展開を快く思っていない、東チモールのインドネシア軍の一部やコソボのミロシェビッチ、イラクのフセイン、リビアのカダフィあたりは、日本を応援してくれるかもしれませんがね。これらの人々がなぜ世の中から疎外されたかというと、国際世論の声に耳を貸さなかったからです。日本はこの仲間入りをすることになるが、国民にとってこれほど不幸なことはありません。
いうまでもないことですが、日本が核武装するということになれば、憲法改正という国内問題だけではなく、日米安保やガイドラインの根本的な見直しが必要になる。近隣諸国との関係はまったく変化する。核兵器を持った国は、それぞれが仮想敵国になりますから、日本はアメリカの仮想敵国になるだけではなく、韓国や台湾、北朝鮮、シンガポール、フィリッピン、マレーシアなどの諸国が、競って核武装にはしることになる。日本が核武装の手本を見せれば、ヨーロッパ共同体の方向とは逆の、アジアの分裂と緊張は一挙に高まることになるでしょう。かりに共和党のブッシュ氏が大統領になれば、CTBTの批准をしないかわりに、世界の警察官であることをやめて、モンロー主義をとり、面倒なアジアから撤退するかもしれない。そうなると日本の軍事力はアジアで一人歩きするようになる。日米ガイドラインについては、異論反論はあるが、近隣諸国もそれなりの理解はしている。むしろ、日本が非核3原則を捨て、アメリカの傘からも出て核武装し、一人で動き出すことのほうを心配しています。
もし、この政治家のいうように核抑止力というものに効力があるとすれば、米国の核の傘の存在理由のほうです。日本が独立して核武装するというのは、いまの国際世論ではありえない考えです。日本には世界有数の経済力があるから、北朝鮮のように核のカードを国際政治の場で使う必然性もない。経済力に見合う大国として核兵器をもつべきだというのは暴論に近い議論なのです。日本は世界の核の拡散を押さえる立場の外交をしています。唯一の被爆国として、その部分のリーダーシップが世界から求められている。インド、パキスタン、北朝鮮の核開発にもその点では、ものをいうことができる。その日本が率先して核武装したらとんでもないことになります。狭いアジアは核兵器だらけになり、あのバケツにウランの事故のように、やがて核はどこかで暴発し、アジアの核汚染はさけがたくなる。極東から中東にかけてアジアの空を死の灰が覆い、アジアの国々が絶滅するかもしれないこのような悪夢のシナリオは、あまりにばかばかしいので、誰も深くは考えてみなかったことでした。しかし、アメリカに敗北した日本のナショナリズムの奥深いところで、この欲望は眠っていたというべきでしょうか。

「戦後のスタートと核のトラウマ」

今度の臨界事故や核武装発言の裏に何があるのか。本当のところ、日本人はそれほどアホではあるまい、と私は思っています。海外のマスコミがいぶかっているのも、この点です。日本人は表にあらわれたほどのアホなのだろうか、という疑問です。これには何か外国人にはわからない、日本人固有の秘密が隠されているのではないかということです。慎重な日本人のことだから、本当の危険が理解されていたら、バケツで手作業などするはずがない。この事故は、ズサンではありましたが、上手の手から水が漏れたというようなことでもあるのです。要するに、臨界事故といい、問題の政治家といい、どこか屈折した日本人の戦後の心理を背景にひきづっているのではないか。
これは日本人特有の精神のトラウマから引き起こっている一連の事態ではないか、と私は考えています。それは敗戦と原爆のトラウマです。日本は歴史上はじめて外国の占領下に置かれた。世界ではじめて原爆の経験をした。いまでも唯一の被爆国です。この半世紀前の屈辱感から、大人の日本人はいまだに逃れらないでいる。この屈辱の原点にあるのが、原爆体験です。原爆によって、日本は降伏し、外国の軍隊に占領されました。
戦後日本の民主主義の歩みは、アメリカに押しつけられたものではありますが、日本人は戦前にくらべれば、豊かになり、幸福にもなりました。しかし、核に対する特別の屈折した感情から、逃れることはできませんでした。これが今回の事態噴出の背景にあります。
裏マニュアルや軽薄な政治家の失言というだけではありません。この問題は、戦後の歴史から話を進めなければならないので、大変に複雑な展開になります。いずれきちんとした論考にまとめるつもりです。 核と平和に対する屈折した感性が戦後の日本人のなかに、トラウマのようにして巣くってきた、と私は考えています。それは私たちの戦後民主主義のスタートラインのなかに、インプットされたDNAであります。
敗戦を終戦と言い換え、軍国主義を捨てて、日本は平和国家を宣言しました。戦争は放棄すると憲法にうたった。専守防衛の自衛隊(警察予備隊)ができたとき、ときの吉田首相は「戦力なき軍隊」という苦しい答弁をしました。軍隊はあるが、戦争はしないという矛盾をあえて言葉にすると、こうなったのです。これはどう見ても、意味不明の説明です。説明でいないことがらを背負い込んだというべきです。
広島、長崎に原爆が落とされ、日本は無条件降伏した。原爆さえなければ、日本は負けなかったというあのときの日本人の思いが、地下にもぐったまま生きていたのです。日本では仁科博士が原爆を開発していた、しかしアメリカに先を越された、という伝説がありますが、ある長老の物理学者に聞きますと、仁科博士がやっていた研究は、原爆を作るところまで達していなかったということです。もっと初歩的なものだったようです。あれは日本人のプライドが作った伝説なのだそうです。
核兵器に敗れた日本は、戦後、核の平和利用を官民一体でうたうようになります。ここで核兵器は悪だが、核の平和利用は善、という二分法の図式が定着します。日本は核兵器は廃絶するが、原発の平和利用は推進する。原爆は悪だが、原発は善ということで、原発を推進することで、戦後日本の技術ナショナリズムは、かろうじてプライドを保つことができました。
あの平和の使徒「鉄腕アトム」も、原子力の平和利用のシンボルでありました。平和は善で戦争は悪という二分法の思考が戦後の日本を支配しました。軍隊はあるが、戦争のためではなく、平和のためにある。核はあるが、これは平和利用のためにある。したがって、日本の軍隊も核も危険のない安全なものである。外国とは違い、日本製の軍隊と核には、特別のブランドが仕込まれたというわけでした。「絶対安全ブランド」の誕生です。ここから平和の使徒が、事故をおこすはずはない、という安全神話が生まれた。
原発に危険はなく、安全というイデオロギーが、国民に浸透します。これは信仰のようなものになります。軍隊は平和を維持するときもあるし、戦争や人殺しもする。原子力は、危険な爆弾にもなれば、原発にもなる。しかしその根っこにある原子力は、核融合反応から取り出された危険なエネルギーなのです。軍隊も原子力も両刃の剣、なのです。
どちらも暴走すると、悪魔に変身します。これを十分に認識して、コントロールを加えて使う必要がある。こんな道理は子供にでもわかることなのですが、戦後の日本人は、この両刃の剣の部分にかかわる危機意識をそぎ落としてきたのではないか。
いわゆる平和ボケ、安全ボケです。核武装発言の政治家の本心のなかに、どうせそんなことを日本人が本気で考えるはずはないという思いこみがあり、ちょっと挑発して見せただけのことかもしれません。本気で核武装して、米国に対してかつての屈辱の復讐を考えているわけではないでしょう。
しかしこの核武装政治家の発言は、国内よりも外国でのインパクトがもっと強いはずです。3年ほど前、私はハワイのシンクタンク、イースト・ウエスト・センターの客員をしていましたが、アメリカの新聞(NYタイムズなど)には、大国主義をめざす日本はいずれ核武装に走るだろうという観測記事がしばしば登場していました。ハーバード大学教授ハンチントン氏の「文明の衝突」には、21世紀の世界最終戦争としての、日中米の核戦争が登場しますが、これは外国人にとってあながち荒唐無稽な話ではないのです。私は知人のアメリカ人から質問をよく受けましたが、そんなことはあり得ない、これはアメリカのマスコミの飛ばし、悪い冗談さ、と弁解したものです。だけど日本の防衛当局の中枢にいる人物がこういう発言をすると、これは冗談ではなく、日本のホンネと受け止められる。とうとう馬脚をあらわしたな、といったところでしょうか。
核武装論はさておき、原発の安全神話の形成に、日本のマスコミは大いに手を貸したと思いますが、アメリカのメディア研究家のモニカ・ブラウは、戦後の日本のマスメディアの自主規制の起源を、GHQによる原爆報道の密かな検閲、に端を発しているという本を書いています。ここで詳しく論じる暇はありませんが、「自主規制」という名の日本のマスメディアの慣習は、外国人には何とも理解しにくい言論の伝統のようであります。権力機関が検閲するという規制なら、わかりやすい。しかし自主規制というのは、そういう制度的な検閲システムではありません。モニカ・ブラウは、ワシントンのナショナル・アーカイブスにあるGHQ文書、国防総省の機密文書などを解読しながら、占領下の日本の原爆報道の極秘の検閲の資料を踏査して、この問題を指摘しています。日本のメディアを研究する者にとって、これは大変に興味深い研究書です。われわれの国の戦後メディア史がかかえている最も重要な問題のてがかりが、またしてもアメリカの研究者の手によって解明に緒にあるわけです。マスメディアだけではなく、日本の研究者ももっと性根を入れて自分の国のメディアを研究しなければならないと思います。この本の紹介は、拙著「日本型メディア・システムの崩壊」(柏書房)にありますので、興味のあるかたは参照してください。

以下は前号14号(9月9日 ’99)の改訂版です。
「江藤さんの自殺」

この夏、最も印象に残った事件は、江藤淳さんの自殺です。あのような絶望感のなかでしか、いまの日本人は死ねないのかと思うと、衝撃が走ります。一見、ごく個人の内面の出来事のように見えます。しかし「希望」はなかったのでしょうか? なぜ、江藤さんともあろう人が「希望」を見いだせなかったのか? なぜ、もっと闘わなかったのか。
江藤さんといえば、著書「西洋の影」を思いだします。私の青春時代は、60年代の全共闘運動にいたる左翼運動の激しい季節でした。サルトルやカミュなどのヨーロッパ思想が流行っていました。
そうしたなかで、友人には隠れるようにして読んだのが、江藤さんの本です。サルトルやカミュの文章は当時は諳んじるほど、よく読んでいました(といっても、翻訳)。しかし今では何も覚えてはいません。「なぜ母親を殺したのか」「太陽がまぶしかったからだ」というフレーズの断片だけを思い出します。「不条理」を説明するというこの意味は、いまだによくわかりません。
「西洋の影」は、日本人と西洋の関係を明晰に照らし、自分がいまいる場所を教えてくれた本だったと思います。私はその後の江藤さんの本に関しては、反発もあり決して良い読者ではありませんでしたが、初期作品が与えてくれたものには、大変感謝しています。
江藤さんの葬儀で、友人として弔辞を述べた石原慎太郎さんの本も、隠れて愛読したことがあります。「太陽の季節」ではなく、「亀裂」という本です。石原さんは、友人たちの間では「反動の書」ということになっていました。その「亀裂」を通じて、私はヘミングウエイの文学を読み直し、私の著作「ヘミングウェイはなぜ死んだか」(集英社文庫)のモチーフが生まれました。東京都知事の石原さんが、文学者でありながら、政治に深くコミットする行動の軌跡に、私はヘミングウェイと政治の抜き差しならない関係性をダブらせたのです。
青春の書とは、隠れて読んだものにこそ真実の一片があることは確かです。「亀裂」のなかで、「すべてを空しいルフランに変える青春の無知」というフレーズがありました。
このフレーズのように、若気の至り、無知、赤面など数々の失敗を繰り返して、私もありきたりの大人になったのです。しかしそこにはたくさんの「友情」があった。友情こそかけがえのないものでありました。石原さんの弔辞にそれを感じました。
大人になったいまは失敗も少ないですが、友情も少ない。青春の書の主の一人が自殺し、もう一人が弔辞を読むという不条理に、私は驚愕しました。友情をめぐる青春の蹉跌が、時間の壁を乗り越えて、よみがえってきたのです。悔恨なのか、ほろ苦い情念なのか、ある種のわきあがる痛切な感情です。
「もっと教えて欲しかったのになあ」という思いです。江藤さんのあの言葉、あの思想はどうなったのか。ここは歯をくしばって、後から行く者のために、希望を語ってほしかった。
また、映画を思い出しました。ワイダ監督のポーランド映画「灰とダイヤモンド」です。
マチエックという青年は、対ナチ戦線の戦士だったが、ポーランドがソ連の支配下にはいるや、反共のレジスタンスに身を投じます。彼の仕事は要人に対するテロです。その彼が、恋をします。引きちぎられマリア像のある廃墟の教会がデートの場所です。マチエックは夜の酒場でも、ベッドの上でも濃いサングラスをしています。「なぜ?」と恋人にきかれると、「祖国を愛して報われなかった印さ」といって、照れ笑いを浮かべます。恋をとるか、レジスタンスをつらぬくかで迷いますが、結局、仕事を選び、最後に射殺されます。ゴミの山で、マチエックが、白いシーツを血に染めて倒れるシーンは圧巻でした。
出撃前夜、マチエックが年輩の同士と酒場で語るシーンがあります。強いウオッカか何かを、バーに並べたたくさんのグラスに注いだあと、次々と火を放ちます。グラスのなかのウオッカが燃え上がる。そして、燃えるウオッカに戦闘で倒れた友人たちの魂をなぞらえながら、死者たちの名前を呼びます。
あの激烈な映画の時代から、なんと四半世紀をへて、ポーランドは解放されました。
マチエックの死には、未来の希望が存在していたのです。彼の死は犬死にではかったのです。
私の短い経験からいっても、本当に語りたい友人、先輩は、もうこの世にいないということが多い。あのときもっと語っておけば良かったと、あとで悔やんでももう手遅れです。そういう人ほど、なぜか若くして死にます。病死、自殺、事故死などなど死の形態はさまざまですが、その人がいかに闘ったかということだけが、後世に記憶されます。やはり江藤さんには、闘いを続けてほしかった。

本の紹介はここ

 

前号をみたいかたはここ

 
許可なく転載しないでください。著作権は現代メディアフォーラムと筆者に属します。