笛吹城太郎:伊賀鍔隠れ谷出身の忍者。年齢、二十歳そこそこ。特徴、男前もしくはイケメン。伊賀の首領服部半蔵に用を命じられ堺へいったが、 そこで仕事もすっぽかして遊女の篝火と駆け落ちしてしまったとんでも野郎。篝火は一つか二つ年上の美人お姉さまである。 篝火に出逢うまでは童貞だった。お姉さまにお・ま・か・せというシチュエーションだったのだろうか、うらやましい限りである。
大和国信貴山城の城主松永弾正は、主君三好長慶の子義興の妻右京太夫を我がものとするために幻術師果心居士に相談を持ちかける。 果心居士はその望みを叶えるため、七人の忍法僧である弟子を貸すと進言。七人はそれぞれ特殊な忍法を身に付けていた。しかし、 右京太夫をさらうのにその七人を使わず、他の女をさらうのに使うという。さらった女を犯した際、愛液を流さしめ、その愛液を 由緒正しき釜、平蜘蛛の釜で煮詰めることにより淫石を作るという。淫石をかいて茶を煮、これを喫した女人は最初に眼にした男に対して 淫獣と化すというのだ。笛吹城太郎と篝火は伊賀へ向かって歩いていた。この果心居士の投じた一石から広がった波に巻き込まれる ことになろうとはつゆ知らず…
城太郎は仕事を捨て遊女の篝火と駆け落ちした。伊賀の掟に背いた自分の許しを請うため、篝火を嫁として受け入れてもらうため 伊賀へ向かっていたのだ。二人は七人の僧とすれ違う。七人は果心居士の弟子であった。不運にも篝火が七人に目を付けられる。 城太郎は僧たちの忍法に破れ、篝火はさらわれてしまう。倒れた城太郎のもとへ柳生新左衛門一団が通りかかる。新左衛門は弾正配下の 一部将である。城太郎が生きていると見るや、七人の僧たちにはかかわらぬようにと手紙を書き残すのであった。
七人の僧たちは毎日城を出て行っては、女をさらってきた。淫石作りのためである。ある日、弾正の前に篝火が引き出された。 弾正は篝火があまりにも右京太夫に似ている事に驚愕する。篝火は逃げられぬと悟り、城太郎の妻として操を守るためその場で 首を刎ね自決するのだった。しかし、僧の一人羅刹坊が弾正の傍にいた弾正の妾漁火の首を刎ね落とし、篝火の体と漁火の体をいれかえ つなぎ合わせてしまう。忍法壊れ甕である。
ここに二人の別人となった女が誕生した。「篝火の首をもった女」「漁火の首をもった女」である。篝火の首をもった女は弾正の側に 置かれ、漁火の首をもった女は七人の僧たちに犯される。翌朝、漁火の首をもった女は平蜘蛛の釜とともに姿を消す。今までかかって できた淫石も消えていた。僧たちは後を追う。
かろうじて息を吹き返した城太郎は篝火を探しに奈良へやってきた。そこで漁火の首の女と行き逢った。城太郎はその姿に篝火の姿を 見た。顔は別人だがしかし、他人の空似ではない。直感である。女は篝火の声で、操を守り自害したこと、体を入れかえられたこと、 釜と淫石のこと、入れかえられたあと七人の僧たちに犯されたことを告げ、敵を討ってと頼み倒れてしまう。そこへ七人の僧たちが 追ってきた。見つかったのだ。城太郎は釜を片手に立ち上がった。
逃げる城太郎、そこに騎馬の集団に出会う。伊賀の首領服部半蔵であった。城太郎はいきさつを話し、助けを請うが突っぱねられる。 城太郎は掟を破っているのである当然だ。しかし、その法師らことごとく一人の手で討ち果たせば伊賀へ帰るのを許してやろうという。 騎馬の集団は去る。城太郎は大地に平伏したままひとり丘に残された。城太郎は立ち上がり、七人の法師ことごとく一人で打ち捨てて やると決意を固める。
騎馬の集団の登場によって一時難を逃れた城太郎は密かに七人の僧をつけ狙う。まずやっとの事で、体を繋ぐことのできる羅刹坊の 始末に成功するが、形勢をわるくした六人の僧たちは右京太夫を直接さらうことを弾正に提案。三好夫婦、東大寺参詣のさいに大仏殿に 火を放ち混乱に紛れて右京太夫をさらおうというのだ。かくして、三好夫妻は東大寺へ訪れ火は放たれる。襲いかかる法師たち。 だが、右京太夫の姿は何処にも見当たらなかった。
城太郎は右京太夫を抱えて走っていた。城太郎は羅刹坊を始末した後、弾正を追って東大寺にいたのだ。すると右京太夫の姿を見た。 篝火が再び現れたかと思った。僧たちが炎の中狂奔しているとき、城太郎は失神している右京太夫を抱いて逃げた。しかし、またもや 僧たちに見つかってしまう。
城太郎は右京太夫を隠れさせ、謎の黒衣の一隊の助けもありまた一人水呪坊の始末に成功する。右京太夫のもとへ戻った城太郎は 三好のもとへ帰るように促す。しかし、右京太夫は帰りたくないという。混乱する城太郎だがともかく右京太夫を連れて三好勢の前へ 連れ出す。そこで城太郎は捕えられる。右京太夫は右京太夫ではなく漁火と入れ替わっていたのだ。三好勢と思われた一団は松永勢だった。 右京太夫は謎の黒衣の一隊に連れられ三好勢へ送り届けられ、城太郎は信貴山城へ連れて行かれる。
右京太夫は一度戻ったが、城太郎の事が気にかかり一人姿を消し信貴山城へ向かう。三好勢は混乱し、それを見た弾正は右京太夫の いなくなったことを知る。そこで漁火が右京太夫になりすまし三好家に潜入するという。潜入は成功した。
信貴山城に着いた右京太夫は難なく門を通り過ぎる。みな漁火と間違えているのだ。右京太夫は捕えられた城太郎のもとへたどり着いた。 僧たちは酔いつぶれていたのだ。二人は脱出に成功する。やがて松永兵は二人の探索に狂奔し始めることとなる。
城太郎はまたも黒衣の一隊の助けもあり、風天坊、金剛坊を討つことに成功。城太郎は再び右京太夫を三好勢へ送り、走り去った。 だが、このあと右京太夫は漁火に見つかる。漁火は右京太夫を香炉のお蔵に閉じ込めてしまう。
謎の黒衣の一隊を追っていた虚空坊は柳生へたどり着いた。伊賀ものと見ていた黒衣の一隊は柳生だったのだ。虚空坊はそこへ現れた 城太郎によって討たれる。そこで初めて黒衣の一隊が柳生新左衛門であることを知った城太郎は、三好家に漁火が潜入していると教えられ 右京太夫の事が気がかりとなった。城太郎は虚空坊に変装し、三好屋敷へ向かう。
香炉のお蔵で右京太夫に三日間食も水も与えなかった漁火が茶を進ずると言ってきた。あの平蜘蛛の釜で作った茶である。漁火は 法師二人を呼んで側に伏せさせていた。右京太夫はそれがただの茶でないことは感じ取っていた。淫石のことは知らないまでも、 毒茶ならばそれでもよいとそれほどに乾いていたのである。
右京太夫が茶碗に唇をあてがったそのとき、城太郎が現れた。空摩坊、破軍坊を刺し貫き右京太夫はその姿を見た。城太郎はそのまま 漁火を捕え殺すまいと茶を飲ませ空摩坊と破軍坊の前へつき付けた。漁火は仰向けに倒れ、いままでもがいていた二人の法師は跳ね上がり 仲間を呼びに逃げた、戒刀と薙刀を突き刺したまま。漁火はふらふらと二人の後を追う。唇から唾液をしたたらせながら。
弾正がいることを知った城太郎は弾正のもとへ向かおうとするが右京太夫も着いて来ようとする。右京太夫はあの茶を飲んだと言うのだ。 城太郎は愕然とした。
弾正は三好義興と謁見していた。そこに二人の法師が駆け込み城太郎が現れたと告げ、二人死んではじめて成る怨敵必殺の忍法 「火まんじ」を発動!城太郎たちもその場へ現れるがそこへひとすじの青い炎が向かってきた!右京太夫に離れるように言うが 離れようとしない。城太郎は彼女を抱いたまま風鳥のように屋根に舞い上がる。青い炎は柱を這い回り追ってくる。 そこに黒衣の一隊が助けに来た。密かに追ってきてくれていたのだ。しかし、城太郎との間には濠があり鳥でなければ飛び越えられぬ 距離。この間にも炎は迫ってくる。さらに義興が矢を放ってきた!できるか?おれにはできぬ。…いやできる!迷いと決断が交錯する ――やんぬるかな!
はたして城太郎は右京太夫を抱えたまま濠を飛び越える事ができるのか!?篝火の敵弾正を討つことができるのか!!? 二人の命運やいかに!!!
本屋に行って例えそこがどんなに小さな本屋でも池波正太郎や司馬遼太郎の本はたくさん並んでいるが、山田風太郎の本は絶対に 置いていない。中くらいの規模の本屋でかろうじて置いてある程度だ。最近は「魔界転生」の映画化などで山田風太郎の作品を 多少は目にする機会が増えたようだが…。そんなこともあってか、マイナー感が拭いきれずキワモノの感があるのが山田風太郎作品だ。
ところで、いわゆる忍者小説というものを好んで読む人は、池波正太郎や司馬遼太郎の小説は読むが山田風太郎のは読まない。なぜなら 池波正太郎や司馬遼太郎といった有名な作家は歴史上の史実に基づき、あくまでリアリティーでときとして超人的な技を見せつけ 理想と現実のあいまを漂うような臨場感が心地よい。いわゆる王道というやつだ。
しかし、山田風太郎の作品はどうだろう。確かにノリも軽いように感じるし、現実離れもはなはだしい。忍者を主人公としなくても 話が成り立つのではないか?という疑問さえも浮かんでくる。忍者小説としは邪道であると言わざるを得ない。
だが山田風太郎の作風としては独自の斬新な切り口にして話を展開し、リアリティーなどまったく無視! 我が道を行き現代のSFアクションものの様な忍者小説としての邪道街道を突っ走る!その心意気には賞賛すべきである。
この話には性と暴力が飛び交う中、美男美女の奇妙な愛のかたちが描かれている、意外とピュアなラブストーリーともなっているのだ。 忍者小説にラブストーリーって!と思われる方もいるかもしれないがこれがまたミスマッチで良い。所詮世の中男と女、 人は所詮顔なのか!
持ち前のイケメンで愛に生きる城太郎と権力で女を手に入れる醜男弾正の対照的な生き方は見ものである。別の例えを挙げると、 金があっても暇がない社会人と暇があっても金がない学生みたいなノリだ。この小説もともと昭和49年に刊行されたものらしいが 登場人物の設定などは現代の最先端を行っている。最近の少年誌漫画などで流行の「能力」が一人一人についていて、 それを忍法と定義して表現している。最近の漫画家はこれをパクったんじゃあないかってくらいに思えてくる。 でもなぜ僧兵が忍法使うのかっていうところにくると、忍法の定義がおかしくなってくる。やっぱりこの辺が邪道たる由縁なのか。
もともと忍法って単語を作ったのは山田風太郎だっていう話を聞いた事があるから、じゃあ文句言えないですよね。お好きなように してくださいってところか。最後のほうで上泉伊勢守が出て来てごちゃごちゃやっているが、一言で言えば必要ない。やっぱり 注目していくべきところは、七人の忍法僧となぜかあまり技を持っていない主人公城太郎との戦闘である。密かに後を追い、 一人ずつ確実に仕留めて行く様はまさに忍びの王道といえるだろう。邪道の中にも見える王道、この小説にはその価値があった。
| なんか手裏剣とか売ってたよ!伊賀流忍者店! |
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