大阪の陣が終わって五年、世は徳川幕府のもとで落ち着きをみせている。才蔵は生きていくために、よろずやの看板を掲げていた。
ある日、仕事中に突如、何者かに襲われる。佐助であった。佐助は才蔵の勘が鈍っていないか試したと言い、仕事の話を持ってきたの である。
佐助の導きによって六条柳町の遊郭へ向かう才蔵。遊びで佐助が遊郭へ繰り出すはずがない。魂胆は読めなかったが、 おとなしくあとに従った才蔵は、千手太夫を紹介される。千手太夫と二人で謎連歌に興じる才蔵。やがて佐助も姿を消し、二人は夜具の 上へ横たわった。
才蔵が太夫の蜜にまみれた湿洞におのが身体を深々と沈めたとき、異様な感覚を覚えた。嫌な感覚ではない。射精感が 突き上げる。だが枕行灯の火を見て我に返った才蔵は、だらしなく女に操られている自分に気付いた。千手太夫は根来くノ一だった のである。
女の湿洞に締めつけられ捕らえられた才蔵は、女の乳房を愛撫し、逆に快楽の淵へ沈めようと容赦なく責め立てた。相手の技におのれを 失ったほうが負けだった。女忍が絶頂に達した瞬間、一気に身を離す。女はうつろな笑い声を上げ、気がおかしくなっていた。
才蔵が部屋を出ようとしたとき、階下が騒がしくなり、佐助が現れた。佐助は才蔵が閨事に励んでいる間に、太夫が隠し持っていた幕府の 隠密目録抄を盗み出していた。妓楼は幕府の隠密組織の根城の一つだったのである。
目録抄には幕府の隠密御用をつとめている者の名が全てしたためてある。なぜそんなものが必要なのか、説明する暇もなく 逃げる二人に根来衆が追ってきた。才蔵たちは根来衆を返り討ちにし、振り切ると五条大橋を悠々と渡る。
大堰川を渡る屋形船のなかに才蔵はいた。他には猿飛佐助、筧十蔵、由利鎌之助、そして真田幸村の長男、真田大助がいた。 五人は豊臣家存続を、幕府に否応なく認めさせるために戦おうというのだ。秀頼は大阪の陣の後、薩摩へ落ち延び、そしてそのこと は幕府には知れ渡っていたのである。
大助は目録抄を開いた。多くの隠密の名の下には、本多のツルとある。これは幕府老中、本多正純の支配下におかれた隠密のことである。 正純の父正信は家康にみとめられ、家康の天下取りに君臣一体のはたらきをした。家康が死に、正信もあとを追うと、正信が家康と ともに築き上げた隠密組織の大半を、正純が掌握するようになった。
しかし、二代将軍秀忠が政をはじめたことで、本多家の基盤は揺らぎ、秀忠に幼少から付き従っていた、土井利勝らの発言権が増した。 今、幕府では内部抗争が起ころうとしていた。
幸村に仕事を頼んできたのは、将軍秀忠派の土井利勝らである。本多家には家康から正信に下されたお墨付きが伝わっているため 手が出せないのだ。つまりは本多正純に戦いを挑むということであった。才蔵たちはそれぞれ江戸へ向けて旅立つ。
才蔵は東海道を東へ向かう。途中、喧嘩騒ぎに遭遇した。当事者は牢人者と傾奇者のなりで鉄扇を持つ男である。一見すると鉄扇の男に 勝ち目はないと見えたのだが、恐るべき早業で牢人者を叩き伏せた。
鉄扇の男がその場を去ろうとしたとき、その姿を短筒で狙う男がいた が、才蔵が小石を投げつけ、男は短筒を外した。鉄扇の男は振り向き、短筒の主を睨んだ。男は逃げてゆく。
才蔵が富士の見える御油の宿に来たとき、鉄扇の男があらわれた。鉄扇の男は余語蝶四郎と名乗り、才蔵が石を投げたこと、忍びである ことを見抜いていた。そして決闘を申し込んできたのである。
蝶四郎が有無を言わさず斬り込んできたので、才蔵は逃げた。伊賀忍びの 早足に追いつける者はいない。京を出てから十二日目、江戸の入り口品川宿へ到着する。
佐助らと落ち合うため、平永町の赤沼源八の家を訪ねた。源八が言うに佐助たちは根城を移したという。才蔵はその根城こと鶉屋敷へ 向かう。鶉屋敷に近づいた才蔵は、道におびただしい足跡がしるされていることに気付いた。
(もしや・・・)才蔵は松の木にのぼり、屋敷の様子を うかがう。そこにいたのは根来衆であった。陽が暮れるのを待ち、屋根裏に侵入した才蔵は、拷問をうけ倒れている鎌之助の姿を見た。 佐助たちのねぐらに、根来衆どもが踏み込み、鎌之助だけ捕らえられたのである。
炮烙玉をぶちまけて鎌之助を助け出し、才蔵たちは南へと走った。隅田川に着き舟を探す二人に根来衆が迫る。だめかと思ったとき、 はるか南のほうに一隻の舟を見つけた。
屋形にめぐらされた幔幕には、丸の内に三本杉の紋所が染め抜かれている。上林家の家紋である。 舟には小糸が乗っていた。小糸と会うのは周防山口で助けられて以来である。小糸にかくまわれた才蔵たちは、根来衆から逃れることに 成功し、そのまま上林の家に泊まることとなった。
小糸は女でひとつで江戸の店を切り盛りしていた。忍びとして生きてきた才蔵には、平穏無事な暮らしというものがわからない。 小糸を見ていると、自分の人生は何もかも間違いではなかったかと思えてくる。才蔵は眠れなかった。砂浜で頭を冷やしていると、小糸が やってきた。二人は酒を飲み、そして才蔵は小糸を抱いた。
翌日、才蔵と鎌之助は上林家の店を出た。心に背負うものを抱えた者は、どこかに隙が生じるものだ。それゆえ、情を断ち切るように 素っ気ない別れをした。二人は佐助たちの行方を探し始める。
二人は源八の家に行ったが、誰もいなかった。昨日あった荷物もそっくり 消えていた。本所の根城を敵に知らせたのは源八であったのだろう。二人は源八は捨て置き、日本橋へ行き欄干にもたれかかって、佐助 からの連絡を待った。仲間を見失いたるときは、その町のもっとも繁華な辻へ出て、仲間からの知らせを待てという、伊賀忍びの教えで ある。
だが、そこへ現れたのは余語蝶四郎であった。蝶四郎は再び決闘を申し込んでくるが、才蔵が断ると自分が本多上野介の下屋敷にいること を伝え去っていった。本多ゆかりの者となると敵ということになる。(厄介なやつと、かかわり合いを持ったものだ・・・)
目の前を町飛脚が通り過ぎ、結び文を落としていった。佐助からの連絡である。そこへ書かれていたのは王子稲荷。二人はわざと寄り道を しながら、王子稲荷をめざした。
王子稲荷のキツネ穴の奥に大助、佐助、十蔵はいた。さらに土井利勝もいた。利勝が言うには、本多正純が将軍を亡き者にしよう と企んでいるという。すでに本多の密謀は嗅ぎ取ったが、神君家康のお墨付きがある限り手出しできないのである。
利勝は早急にお墨付きを奪うよう指示してきた。大助側も成功したあかつきの豊家再興の念押しをしたあと、利勝は邸宅へ戻っていった。
翌日から、才蔵たちは本多家の三つの屋敷、上屋敷、中屋敷、下屋敷のいずれかにお墨付きはあると見て探りを始める。才蔵と佐助は 上屋敷へ、鎌之助は中屋敷、十蔵は下屋敷へそれぞれもぐり込んだ。
才蔵は利勝の手回しで上屋敷の中間の職にありつき、佐助は上屋敷 出入りの青物屋に御用聞きとして雇われた。才蔵は夜が更けてから闇に溶け込み探索を続ける。
二月後、佐助からお墨付きのありかが知れたと告げられた才蔵は、王子稲荷の根城へ戻る。十蔵が情報をつかんだのである。お墨付きは 正純自身が身に着けているというのだ。正純自身から奪うとなると容易ならない。だが正純は三日後に鷹狩りに出かけるという情報が あった。またとない機会である。
ここで十蔵が才蔵に、余語蝶四郎のことを訊ねてきた。十蔵が言うには、下屋敷の蝶四郎が霧隠才蔵と手合わせしたことがあると洩らした というのだ。
蝶四郎には忍びであることを見破られたが、名まで名乗った覚えはない。蝶四郎はただの武芸者ではなかった。大助の情報によると 三河高橋衆という剣にこだわりを持った本多の隠密集団ということであった。
三日後、鷹狩りに出た正純に木ノ実の仕掛けたくノ一の術によって近づいた才蔵は、正純の首を絞め上げ、襟元をさぐり、守り袋を引き 千切った。中には紙片がはいっていたが、何も書かれていなかった。
正純は高笑いした。このようなことを想定して、お墨付きは別の場所に 隠したというのだ。才蔵が小刀を突きつけ、在りかを吐かせようとしたとき、背後に風の音が唸った。抜刀を引っさげた男が立っていた。 余語蝶四郎である。
正純は床を這って逃げる。蝶四郎の足が、スッと前に出た。眼前に刃が閃く。才蔵はかわしつつ、棒手裏剣を放つ。一気に間合いを詰めて きた蝶四郎に、才蔵も踏み込んだ。蝶四郎の腕を斬り上げる。手ごたえを感じた。才蔵も肩口を斬られた。
そのとき、十人あまりの 高橋衆が現れた。逃げ場を失った才蔵が顔をしかめると、頭上から声がかかった。木ノ実である。木ノ実の先導によって、囲みを突破した 才蔵たちを、佐助が馬を用意して待っていた。冷たい氷雨のなか、二頭の馬は、土を蹴り立て疾駆する。
年が明け、正月を迎えた。小糸のもとに鎌之助が訪ねてきた。才蔵がさるところに籠もったきり、誰とも会おうとしないという。そこで 小糸に様子を見て欲しいというのだ。
同じころ、才蔵は浅草寺の六角堂内で結跏趺坐していた。才蔵の頭には余語蝶四郎の姿があった。 あのとき、踏み込みが浅く必殺の一撃を加えることができなかった為に、蝶四郎の反撃を許した。才蔵は考えに考えた。(臆したのか、 おれは)答えは見出せなかった。
夜が明けて、六角堂に近づく者がいた。小糸である。小糸は弁当を作ってきて、これを勧めたが、才蔵は 断った。己が忍びであるからというのだ。だが才蔵は小糸との会話によって、おのれが忍びの掟に縛られていることに気付いた。
人は 変わらねばならぬ。忍びの生き方も変わっていくべきではないか。変幻自在、それこそ忍びの本質。(わかった・・・)頑なになっていた心 が本来の伸びやかさを取り戻していくのを感じた。「小糸どのの手料理、馳走になろう」
才蔵が王子稲荷へ戻ると、佐助が一人待っていた。お墨付きの在り処が知れたという。土井の蝶者によって本多の居城、宇都宮城にあると わかった。だが正純は城を忍び城に造り変えて、将軍秀忠一派との全面対決にそなえ、さまざまなカラクリを施しているという。
すでに、大助たちは宇都宮へ向かっていた。「宇都宮へ行こう、才蔵」佐助が長持を引きずり出すと、才蔵は中にあった黒鞘の忍刀 をつかみ取った。
日光街道を急ぐ才蔵と佐助。下野小山城下で大助たちと合流し、宇都宮入りした。先に宇都宮入りしていた木ノ実が出迎え、状況を報告 する。根来衆が大量に火縄銃を運びいれ、三河高橋衆もしきりに出入りしていたという。
深夜にはまだ時間がある。大助、鎌之助、十蔵は 眠り、才蔵と佐助は眠らずに語った。この仕事が最後になるかもしれない、これから先、幕府の天下支配は揺るぎそうにない。忍びに とっては退屈きわまりない世になるだろう、俺達は良い時を生きたな・・・と。
みなが目を覚まし、根来者に変装する。準備は整った。男たちは石段を駆け下り、城下へ出た。 大手門を突破した才蔵たちは、仕掛けられたカラクリをかわしつつ、富士見櫓を目指す。不開門の前で才蔵が鉤縄を投げ上げようとした とき、不開門が開いた。黒光りし、並んでいた銃口が火を噴く。轟音が耳を聾した。
左耳を吹っ飛ばされた鎌之助が、仁王の形相で根来衆に突っ込んでいき、四人を先に行かせる。 背後で銃声が響いた。一瞬、するどい哀しみが突き上げたが、すぐに忘れた。情に流されては、役目は果たせない。
富士見櫓が見えたとき、十蔵が背後から斬りつけられた。高橋衆だ。見れば塀の回転扉から次々と現れてくる。倒しても、倒しても きりがない。そのとき十蔵が帯に仕込んだ火薬に火をつけた。「みな逃げてくれ」十蔵までも・・・才蔵たちは心で男泣きに泣きながら、 全力で走った。爆音が夜空を引き裂いた。
富士見櫓の入り口に着いた才蔵たちを、本多家の城兵たちが取り囲んだ。大助と佐助がここを防ぎ、才蔵が奥に進む。槍ぶすま、仕掛け矢、 刃物車。襲い掛かるカラクリを突破しながら、廊下を突っ走った。櫓の入り口が見えた。
(あそこだ)櫓の一階に入ると、月光が板張りの 床を照らしていた。(伏蔵だな・・・)才蔵は床にかがみ込み、鉄の蓋を持ち上げると、経筒がおさめてあった。経筒のなかをあらためる。 まごうかたなき、徳川家康のお墨付きである。
才蔵が巻物をふところにおさめ、立ち上がったとき、入り口に鉄の格子戸が落ちてきた。格子戸はびくともしない。「もはや、いずこへも 逃げられまい」低い声とともに、階段から下りてきた者がいた。三河高橋衆の余語蝶四郎である。
蝶四郎は階下へ下り立つと、月明かりを 吸った刀身が、身も凍るような冷たい光を放った。才蔵も忍刀を抜き、身をかがめ、忍刀の先を地に低く這わせた。凄まじい殺気と闘気が 炎のように立ちのぼる!才蔵は蝶四郎を打ち破り、お墨付きを持ち帰ることができるのか!?
霧隠才蔵・第三弾。久しぶりに来た忍びの仕事で、いきなり千手太夫との大人のシーンから始まるという、才蔵のアキニっぷりは健在だ。
しかも訳も言わずに才蔵を試したり、ただの駒のように使ってしまう佐助もすごい。こいつ絶対Sだよ、と、まあそんなこと どうでもよいとして、今回はいよいよ完結であります。
誰がどうなるというのは、本を読んでもらえば解かるとして、歴史が終わるわけでもなく、今ある真実が変わるわけでもない。ただ、忍び としての才蔵の人生は幕を閉じる。実に寂しいことだ。
だが俺の中では忍者・霧隠才蔵は永遠に生き続けるだろう。そう思わせるほどのおもしろさである。絶対に読んだほうがいい。 損はさせない。
さて、内容についてだが、毎回出てくる才蔵のライバルとして、今回は三河高橋衆の余語蝶四郎が登場。血闘 根来忍び衆という題から して、根来衆がライバルとなるのかと思ったらとんでもない、今回は雑魚として登場。見事な引き立て役っぷりである。
前回強敵だっただけに、ひどい扱いだね。血闘 高橋衆の間違いでは?と言いたくなるが、ゴロが悪かったんだろう。全国の高橋さんは 目を引いただろうけど。
今回とくに印象にのこったのは、正純襲撃の際に、蝶四郎と激突したあとの才蔵お悩み解決シーンである。蝶四郎を撃ち破れず、何が原因 であったか悩む才蔵が、小糸の曾祖父・千利休の茶の極意を聞くことによって、忍びの本質を見出すというシーンだ。
説明するのも難しいので、また本文をちょっと拝借。今回は少々長いですが、本文の良さも少し実際に味わっていただこうという意味で どうぞ。
249〜256ページより抜粋
才蔵と小糸は差し向かいですわった。
「つたない手料理でございますが」
(中略)
「せっかくだが、これはいただけぬ。小糸どのがたべてくれ」
才蔵はかたい顔で言った。
「どうして」
と、小糸が才蔵の目をのぞき込む。
「おれが忍びだからだ」
「忍びだと、なにゆえ女の手料理に手がつけられぬのです」
「小糸どのの心づくしは有り難いと思う。しかし、人並みな暮らし、あたたかな人の情は、忍びの性根を腐らせるだけだ。戦いつづける
ためには、忍びはすべての俗世の情愛を断ち切らねばならぬ」
「哀れなこと・・・・・・」
「哀れか、おれが」
「ええ」
「忍びというものを知らぬそなたに、何と思われようが仕方のないことだ」
才蔵の頬に、翳のある笑いが浮かんだ。
「では、才蔵さまにおたずねいたしますが、そも忍びとは何でございます」
まっすぐな目で、小糸が才蔵を見つめる。
「忍びか」
「はい」
「忍びとは、実と虚のはざまに生きる者だ。実とは動であり、虚とは静である。実から虚へ移るとき、あるいは虚から実へ移るとき、そこ
に機が生まれる。その機を捕らえるのが忍びというものだ」
「むずかしゅうございますのね」
小糸はこころもち首をかしげた。
「忍びは、実と虚のはざまに生きる者・・・・・・。とすれば、実と虚のあいだは中庸にございましょう。中庸たるべき忍びが、そのような
思いつめた顔をなさっていてよろしいのですか。いまの才蔵さまなら、女のわたくしでも付け入る隙がありそうです」
「ばかな」
と、才蔵は吐き捨てた。
だが、まんざら小糸の言葉が真実から遠いとも思えないのは、この半月、才蔵の頭のなかは深い悩みがすべてを占め、万が一、不意の敵に
襲われたとしても、それに対する柔軟な対処が不可能であったろうと考えられるからである。
(心が弾力を失っているのだ・・・・・・)
出口のない暗い道で行き暮れていた才蔵のなかで、かすかに弾けたものがあった。
「才蔵さまの話をお聞きしていて、思い出したことがございます」
つと顔を上げ、小糸が障子に映る雪の照り返しをまぶしげに見た。
「ずっと昔、亡くなりました母から聞かされた千利休居士の話にございます」
「利休とは、あの堺の茶人の?」
「はい。わたくしの母は、利休の実の孫娘。利休居士は、わたくしにとって母方の曾祖父にあたります」
(そういえば・・・・・・)
と、才蔵は思い出した。
(中略)
「茶人たる者、中庸の心を失うべからず。中庸を失いたれば、一服の茶を点てるも難きこととなりぬべし。たとえ、道をきわめた者で
あろうとも、おのが技に慢心したれば、凡夫にすら劣る者に成り果てるであろうと」
「慢心した者は、凡夫にすら劣るか・・・・・・」
「利休居士は、ひとつの境地にとどまるのを恐れ、恥とし、おのれが得た境地をその都度捨ててきたと申します。壮年のころは大ぶりの
形のととのった井戸茶碗を好みましたが、晩年にはそれを捨て、地味な黒楽茶碗のみを愛したのもそのあらわれ。茶人はつねに、新しき
道を開かねばならぬ。新しき道に踏み込まねばならぬ。その恐怖のため、利休居士はいつも茶室に入るとき、身のうちに震えが
きたそうな」
「・・・・・・・・・・・・」
なるほど、と才蔵は思った。
一流の茶人であった千利休は、つねに一流たるために、たゆまぬ努力を怠らなかったのであろう。天下一との評判を得ても、それに慢心
することなく、日々、茶の湯との戦いをつづけていたのだ。
(それに引きかえ、おれはどうだ・・・・・・)
伊賀一の術者という名にうぬぼれ、術を磨くことを怠ってはいなかったか。死と背中合わせの、ぎりぎりの戦いをすることを忘れてはいな かったか。
そこに、隙が生じた。捨て身の余語蝶四郎に対し、臆する気持ちがうまれた。
(そうだったか)
小糸の話をきいていて、才蔵は豁然と目が開けた気がした。
「小糸どの」
「はい」
「もうひとつ、聞いてよいか」
「何なりと」
「利休居士は、茶の湯の極意を何と言うておられた」
「極意でございますか」
小糸は少し、考えるような顔をし、
「夏はいかにも涼しきように、冬はいかにも暖かなように、炭は湯の沸くように、茶は飲みよきように、それが秘伝だと聞いております」
「すべて当たり前のことだな」
「当たり前のことこそ、じつはもっとも難しきことではございませぬか」
「道理だ」
鎌倉時代の高山寺の高僧、明恵上人は、人生の哲理を人に問われ、
――あるべきやうわ
と、答えたという。
すなわち、人間はあるがままの自然体で生きるのが尊いと教えたのである。利休の茶の極意と通じる。
(おれもあるがまま、自然に生きる・・・・・・)
いままで才蔵は、忍びの掟に縛られて生きてきた。掟を守ることによって、おのれを高めてきた。
しかし、いまはその掟が逆に、才蔵の進歩をはばんでいる。
(人は変わる。いや、変われねばならぬ)
忍びの生き方もまた、変わっていくのが、《あるべきやうわ》ではないか。変幻自在、それこそ忍びの本質のはずだ。
(わかった・・・・・・)
頑なになっていた心が、花の蕾がほころびるように、本来の伸びやかさを取りもどしていくのを才蔵は感じた。
「小糸どのの手料理、馳走になろう」
「食べてくださいますか」
「ああ、急に腹が減った」
「でしたら、厨のほうへ行って、白湯をいただいてまいります」
はずむように立ち上がって、廊下へ出てゆく小糸の後ろ姿を、才蔵は目が洗われるような気持ちで見送った。
どうですか、大人の会話ですよ。この後、吹っ切れた才蔵は忍刀を手に取り宇都宮城へと乗り込んで行くわけだが、小糸はあれだね、現代 でいうあげまんな女性だね。駄目なところはビシッと指摘し、男を正しい方向へと導く。まわりにいないか。誰か紹介してくれ!
そして変幻自在、それこそが忍びの本質。一つのことに捕らわれてはいけない。柔軟な思考と態度が人を上へと 成長させていく。ある程度の決まり事は必要であるが、それに縛られすぎるのも良くない。
時には枠をぶち破って、大空へと羽ばたかねばならない。でないと、我らはいつまでも飛び立つことができずに、地べたを這いずること になる。人は地を這う生き物ではない。だからといって、羽を持っているわけでもないが、心の羽はどんな生き物よりも大きい。
だからこそ、これほど大きな文明を創り上げることができた。上へ上へと伸びようとする力。それこそが忍びのみならず、人の力では ないか。とある有名プロレスラーがこう言った。
人は挑戦することを止めた時に、年老いていくのだと。今まではあまり意味を考えずに、その言葉を聞いていた人は多いだろう。だが、 なかなかに核心をついたセリフである。
伸びようとする力を遮るものは、容赦なくぶった斬れ!たとえそれが大事な決まり事であったとしても、自分を信じて、その先にあるもの を見つめることが重要だ。自分を信じなくて誰を信じるというのだ!
それから最後のページのラストシーンも印象に残る。何とも言えない切なさと、その情景が美しい。本当は全部載せてしまいたいくらい だが、それはさすがにご法度なので、ここはぜひ買って読んでほしいものだ。
| なんか手裏剣とか売ってたよ! |
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