×
Gradation
 久しぶりに帰った実家の、テーブルについている人物を見て、ルクレッツィーアはがくんと肩を落とした。
「ドナ兄ちゃーん……」
 ルクレッツィーアはジト目で傍らの兄――ドナーテルロを睨んだが、ドナーテルロは構わず、朗らかな笑顔でテーブルの青年に話しかける。
「やあ、セイルザートの若様。待たせたね。妹が帰ってきたよ」
 コーヒーを飲んでいた青年――ヨナは、呼びかけられるとカップを置き、左手の人差し指で眼鏡を押し上げてから、ルクレッツィーアのほうを向いた。
 久しぶりに見る彼の顔は、別れたときとそう変わっていなかった。確か今は十八歳、未だどことなく幼さを残した顔を、伊達眼鏡で隠そうとしている――隠し切れていない。
「久しぶりだし、積もる話もあるだろ。俺はまだ仕事が残ってるから」
 そう言って、鈍感な兄、ドナーテルロは去って行ってしまった。残されたのは、幼馴染の二人。
 ――ルクレッツィーアは、冒険者になろうと思い立った事情を、家族に詳しく話してはいない。とくに詳しく話さなくても、「しばらく旅に出る」の一言で話が済んだからだ。ナイトメアであるルクレッツィーアには、商人よりもそちらのほうが向いているのは明らかであったし。
 プライバシーに関わることでもあるし、説明せずに済んだのは有難くはあったのだが――当然の帰結として、家族はルクレッツィーアとヨナの間にある問題を把握していない。
「……気が変わったのか?」
 ルクレッツィーアが渋々椅子に腰掛けると、早速ヨナがそう言った。
「変わってないよ。そっちこそ」
「変わっていない」
「だと思ったけどさ……」
 ルクレッツィーアはため息をつく。まったく、この友人の頑固さといったら。
「あー、でも、なんだ……」
 妙に誤解されたくないので、言葉を選ぶ。面倒だ。
「元気そう……で、よかったな?」
 ヨナはコーヒーを一口啜ると、表情を変えずに答えた。
「お前こそ。……無事でよかった」
 この無愛想な友人の口から出たにしては、珍しく心の籠った言葉だったが、ルクレッツィーアは敢えて聞き流すことにした。
「……相変わらず忙しいの?」
「多少事業整理はしたが、それでも忙しい」
「お前の父ちゃん凄かったんだなあ……」
「はた迷惑なことにな」
 ヨナの父、セイルザート商会の先代商会長。彼が一代で築いた大商会の経営を、今はヨナが担っている。
「うん……悪いけど、頑張れとしか言えない」
「……とりあえずは、それでいい」
 とりあえずの先に何があるのか。ルクレッツィーアは思わず口の端を歪めたが、聞き流すことにした。今ここで喧嘩はしたくない。
 食器棚から自分のカップを取り出し、ポットに残ったコーヒーを注ぐ。久々の実家だというのに、話し相手のせいでまったく落ち着かない。兄たちも父もまだ仕事、母も夕食の準備で忙しいのだろう。小さな妹は遊びに行ってでもいるのだろうか――
 気詰まりな沈黙を破ったのは、ヨナの唐突な質問だった。
「……"天涯の騎士"を知っているか」
「え?」
 どこか聞き憶えのあるフレーズだ。冒険者の二つ名だろうか。
「あー、えーと……なんか聞き憶えが」
「名前はイシュマエル」
 ヨナの口から、思わぬ名前が飛び出した。
 ルクレッツィーアの冒険者仲間――といっても、一緒に仕事をしたことはほとんどないが、常宿でたまたま会って、一緒に飲んだことは何度かある。同じロシレッタの出身と知って、そこそこ仲良くもなった。
「あー、イシュか。そか、あいつ、そんな風に呼ばれてたっけ。何、そんな有名なの?」
 ある程度は名が知られていたとは思うし、ヨナが聞いていてもおかしくはないだろう。それにしても、『名の知れた冒険者の一人』以上のことはないと思うが……。
「会ってみたい」ヨナが言った。
「……なんで?」
 その質問には答えず、ヨナはさらに聞いてきた。「どういう奴だ」
「どうって……うーん。図太い?」
「そうか」
 特に関心もなさそうに――いや、こいつはあまり表情に出さないタチだからよくわからないが。
「……なんであいつのこと?」
 ルクレッツィーアが改めて聞くと、ヨナは少し間を置いて、答えた。
「事情は言えんが、会っておく必要がある。機会があったら連れてこい」
 ……必要?
「えー……悪い話じゃないよな?」
「必要な話だ」
 訳がわからない。……だが、ヨナのこれは、完全に、余計なことは一切口にしないモードだ。ルクレッツィーアは追及を諦めた。
「……あいつも暇じゃないだろし、行き違いになるかもしれないけど、一応憶えとくよ」
「頼む」
 ……喧嘩にならなかったのは幸いだったが、ルクレッツィーアにとっては、疑問の多い再会だった。
 
 
 
 それから数カ月。
 常宿で出会ったイシュマエルに事情を伝えると、彼もさすがに妙な顔をしたが、商人からの話というならおいしい話かもしれない。それくらいの軽いノリで、ヨナに会いに行くことを了承した。
 あとは放っておいてもよかったのだが、ルクレッツィーアとしても、一応仲介をした以上、訳がわからないまま放り出すのも気が引けた。
 結局、二人揃って帰郷することに。妙な話だ。
「――帰郷なんて柄でもねえな。何を残したわけじゃなし」
「まあいいじゃん、砂かけて出てきたとかでもないんだろ」
「似たようなもんだ」
 イシュマエルは生まれてから十六年をロシレッタで過ごし、機会を得てそこから飛び出した。捨てた、というほどのものではないが、それに似た感傷があるのだろうか。
「オレは結構そうなんだけどねー……一人限定で」
 悪いのはヨナであって自分は悪くない。そう思ってはいても、どことなく後ろめたさはある。
「何やったんだよ?」
 そう聞かれると、ルクレッツィーアは気まずそうに、帽子の上から頭をぽりぽりと掻いた。
「もー……なんかさー、こないだは普通に話したしさー、別にさー顔出しにくいわけでもないけどさ、だいたいオレ何にも悪くないし」
「わけわかんねえよ」
「それでいいよ、オレだって今もわけわかんないもん」
 ルクレッツィーアは、気だるく息を吐いた。
 
 
 
 セイルザートの屋敷は大きい。成金にしては趣味が悪くない――などと評するのは偏見が過ぎるだろうか。確かもともと別の商会の商館だったものを引き継いで改装したはずだが、新築の部分も違和感なく溶け込んでいる。
 ただ、ルクレッツィーアが以前訪れた時より、いくらか装飾が減って、地味な内装になったような気がする。ヨナの趣味なのか、単なる資金難なのか。
 先代の傾倒していたライフォスの神像は、今もあちこちに飾られていたが、どことなく存在感を失っている。ここでは形骸化したシンボルに過ぎないのだろう。
 少々お待ち下さい、と通された応接室で、イシュマエルはきょろきょろ、感心するように屋内を見回していた。
「ここは来たことなかったんだよな。先代には世話になったんだけどよ」
「え?」
 ヨナの父と面識があったのか。初耳だ。
「セイルザート商会の商会長として、じゃねえけどな。あのおっさん、結構手広くやってたんだよ」
「……ああ」
 先代セイルザート商会長がまともな商売だけをやっていた訳ではないのは、ルクレッツィーアも何となく察している。それも今、ヨナが苦労している一因だろう。だから詳しく知りたくない。
 執事が呼びにきたので、二人は応接室を出てヨナの執務室へ向かった。途中の階段で、踊り場の壁に飾られた絵を見て、イシュマエルは少し立ち止まった。
「ん、どうかした?」
「……いや、何でもねえ」
 黒髪の女性が描かれた絵だ。モデルになったのは、確か、先代商会長の奥方。といっても、ヨナの母親ではない。子を産むことなく、若くして亡くなったという、唯一の正妻だ。
 ――階段を上がって、青い絨毯の敷かれた廊下を進み、突き当たりに立派な木製の両開きの扉。商会長の執務室。ルクレッツィーアにとっては、あまりいい思い出のない場所だ。
 執事が扉を叩くと、中から返事が返ってくる。扉が開かれると、立派な机の向こうにヨナがいた。いつも通りの伊達眼鏡と、正装というほどではないが仕立てのいい服。
「ルッツィーと……"天涯の騎士"か」
「そのあだ名ピンと来ねえんだよ。イシュマエルだ。イシュでいい」
「ヨナ・セイルザート」
 平坦な声で、ヨナが名乗った。執事は一礼すると、退室して扉を閉めた。
「……で、そのー」
 ルクレッツィーアは気まずく二人を見比べた。イシュマエルはいつも通り平然としている。ヨナのほうもいつも通り、無愛想な顔だ。
「……ルッツィー」
 ヨナが言った。
「……はい?」
「いい加減、気付いたか?」
 …………。
 ここに来るまでに、何も考えていなかったわけではない。ヨナがイシュマエルを呼んだ理由。……それ以前から、なんとなく。
「……そういうことなの?」
「他言無用だ。いいな」
「言わないよ。でもお前……」
 ヨナは片手を掲げて、ルクレッツィーアの言葉を遮った。
「……二人で話がしたい」
「……わかった」
 ルクレッツィーアは、素直に部屋を出ていった。
 
 
 
 …………。
 机についたヨナは、なかなか話を切り出さず、客用ソファに座ったイシュマエルの顔を見つめている。
 値踏みされるのには慣れている。こちらも逆に顔を見つめ返してやった。
 (先代にゃ、あんまり似てねえな)
 母親似なのだろう。髪の色も目の色も違う。顔つきにはやや面影があるか。もっと年を重ねれば、少しは似てくるかもしれない。
 そんなことを考えていると、唐突に聞かれた。
「母親の名前は?」
「……あ? 俺の?」
「他に誰がいる」
「んなもん、憶えてねえよ」
 別に嘘ではない。頑張れば思い出せるかもしれないが。
 母親はイシュマエルが物心つくかつかないかのうちに亡くなっているし、他に身内もいない。面倒を見てくれていた近所の老婆も、そう間を置かずに亡くなってしまった。
「……歳は十八だな?」
「そんなもんだな」
「誕生日は?」
「あー、えーと真夏でも秋でもねえ……九月の始めだったかな」
 祝ってくれる者もいないが、なんとなく憶えてはいる。
「……思ったより近いな」
「あん?」
「俺は十月なんだが」
「だから何だよ」
「まあ、面倒だ。――結論から言うぞ」
 ヨナは、片手で眼鏡の位置を直すと、小さく息をついてから、言った。
 
「――お前は、俺の腹違いの兄だ」
 
「…………」
 
 ……案外、驚きはしなかった。
 踊り場に飾られていた絵、あの女には面影がある――名前すら曖昧な、母親の。
 だが、別人だ。良く似ているが、それはわかった。おそらく、あれは。
 (先代の正妻――そして多分、お袋の――)
 ――色々なことが、一気に思い起こされる。
 (あなたの名前は、お父さんがつけてくれた)
 憶えている、たった一つの母の言葉。
 なんでもない孤児に、仕事を回してくれた、気前のいいギルドマスター。
 形見に渡された騎獣証。他の誰でもない、自分だけに。
 ぐるぐると頭を回ったいくつかのピースは、一瞬のうちに繋がり、形を成した。
「……あー。やべえな」
 ――イシュマエルは肩をすくめた。
「納得しちまった」
「まあ、そういうことだ」
 二人は、同時に息をついた。
 
「……つーか、なんだ」
 イシュマエルは、困惑を顔に浮かべ、体を後ろに傾ける。上等なソファは軋みもしなかった。
「俺、よく知らねえけど、お前がここ継ぐ時、揉めたんだよな」
「揉めたのは親父の生前だがな」
 知られていない子供を除いても、ヨナは長子ではなかったはずだ。イシュマエルの記憶では、先代は後継者候補に派閥を作らせて、配下をコントロールしやすくしようとしていた節がある。
「んで、お前今、その歳でボスやってるのか」
「商会長と言って欲しいんだが」
 眼鏡の下で、ヨナは不快げに眉を寄せた。
「同じだろ。……で、あれだけど、先代のあれって暗殺だよな」
「多分な」
 病気だという話はなかった。不自然な突然死。誰もがそれを予測していたとしても。
「このギルドっつーか商会っつーか。敵、多いだろ」
「それはもう、内外問わず」
「そこに先代の息子が出てくんのかよ。それも今のボスより年上の……」
 一カ月でも、年長は年長。ヨナが最初に確認していたのは、そういうことだ。
「お前がそう名乗り出れば、そういうことになるな。ああ、ついでに言っとくが、お前の母親は正妻の妹で、俺は何でもない妾腹。ちなみに親父には結婚で老舗の商会を吸収して急成長した経緯がある」
 ヨナはさらっと言ってのけた。その話は、想像通りではあったが。
「……それってすげえ面倒なんじゃねえの?」
「実に面倒だ」
 大したことでもなさそうに言う。
「黙ってりゃよかったのに」
 当然の感想を口にするが、ヨナは表情も変えない。
「俺が知っていてお前が知らんのはフェアじゃない」
「なんだそりゃ」
「ずっと秘密にしておける保証もないんだ。後から変な形で担ぎ出されるよりは、ここではっきりさせておいた方が面倒がない」
「そりゃそうだけどよ」
 イシュマエルは、さすがに呆れた顔をした。
「そちらからの条件があるなら聞くぞ。手切れ金だろうが口止め料だろうが」
 そう持ち出されて、少し考える。
「金は……そりゃ欲しいけど、自分の出自を売るってのは、なんか乗り気になれねえな。そもそもピンときてねえし」
 今まで知りもしなかったものに執着はないが、それを売って対価を得るのも、何かが違うような気がする。
「ならそれでいい。売る気になったら買ってやる。とりあえずは黙っていてくれればいい」
「あー、まあそれでいいぜ」
 どう考えても面倒くさい話だ。敢えて首を突っ込む気もない。こいつに貸しができたとでも思っておけばいいだろう。
「ルッツィーのほうはいいのか? あんな適当な口止めで」
「彼女はあれで思慮深い。余計なことはしない」
 ヨナは、なぜか自慢げに言い切った。
「……あいつお前の何なの?」
「俺の嫁だ」
「あー、なんとなくわかった」
 完全に呆れかえって、イシュマエルは天井を仰いだ。
 三つの輪が連なった意匠のシャンデリアが、二人を見下ろしていた。
 
 
 
 ヨナとイシュマエルの『会見』は、たいして時間もかからずに終わったようだ。
 一人で帰るのも気が引けて、セイルザート邸の門前で待っていたルクレッツィーアは、微妙な顔で門を出てきたイシュマエルを出迎えた。
「あー、その……」
 出迎えたはいいが、何と言っていいのかわからない。
「話なら終わったぜ。お前、もう一度顔見せてやったら?」
 イシュマエルは、うんざりしたように言った。
「うーん……気にはなるけど、余計なことして勘違いされたくもない……」
「ほんっとめんどくせえなあの野郎……」
 顔を見合わせてため息をつく。ヨナに対する感想は共有できたようだ。よかったと思うべきだろうか。
 いや、しかし。イシュマエルに言っておかなければならないことがある。
「ごめん、オレ、余計なことしたよね」
 ルクレッツィーアが頭を下げると、イシュマエルは怪訝な顔をした。
「……お前はそれでいいんじゃねえの? 俺はよくわかんねえけど、あいつはなんかそれでよかったんだろ」
「うん、だからごめん」
 想像はついていたのだ。イシュマエルにとっては、面倒なだけの話になるだろうと。それでも、自分がヨナにできることがあるなら、聞いてやりたかった。
「……なんだ、その気あるんじゃねえか」
「ないよ! 友達だよ! ……の、つもりなんだけどさあ」
 ルクレッツィーアは、苦い顔をして、帽子の上からくしゃくしゃと頭を掻いた。
「いいんじゃねえの、何十年か付き合ってやれば」
 イシュマエルの言葉に、ルクレッツィーアは顔を引き攣らせる。
「おんなじこと言うなよ……」
「うわ。つうか言ったのかあいつ……ダメだな」
 似たような発想はしても、ヨナと違って、その理屈の無神経さは理解しているらしい。なら口に出さないでほしい。
「でも、なんだ。嫌いなわけじゃねえんだろ」
「そりゃ友達だし」
「そっから進まねえの?」
 ――ルクレッツィーアは、振り返ってセイルザートの屋敷を見た。
 ヨナの城。ヨナの監獄。
「……あいつは、オレじゃなきゃ駄目だって言うけどさ」
 自分があの城に入っても、ヨナを救うことはできない。
「……ホントは、オレじゃ、駄目なんだよ」
 共に歳を重ねることができない。子供を産むこともできない。
 もちろん、そんなことを障害とは思わない夫婦もいるだろう。だが、ヨナはともかく、ルクレッツィーアは彼に恋してはいない。友情と同情だけでは、彼の人生に寄り添えない。
 出来るとしたら、逃げ場になることだけ。そんなものにはなりたくない。
 大切な友達だからこそ、友達のままでいたい。
「めんどくせえ……」
 イシュマエルは、今日何回目かのセリフを繰り返した。
「まったくだよ!」
 ルクレッツィーアは吐き捨てるように叫ぶが、イシュマエルはなぜかジト目で彼女を見た。
「いや、お前も相当」
「えー」
 
 
 
 ――波の音。潮とドブの匂いのする風。夜でも止まない、埃っぽい喧騒。三日月の浮かぶ空。
 狂人の爪弾くリュートの音は、もう聞こえない。いつもこの辺りで耳障りな演奏をしていた楽師は、どこへ行ったのだろうか。
 ルクレッツィーアは家に泊まっていけばいいと言ったが、あの"弟"がへそを曲げそうなので断った。馬もギルドの方に預けた。ただ、食事だけは一緒に食わせてもらった。
 奥方自ら腕を振るったという食事はなかなか美味だった。リルドラケンの食卓と聞いて多少腰は引けたが、こういう街だからなのか、単に好みの問題なのか、出された品は人間の食事と変わりはなかった。いちいち食材の確認はしなかったが、多分。
 あれが家庭の味という奴か。同じ街で育ちながら、随分と違う境遇に育ったものだ。
 ――昔よく使っていた、河原のあばら家は、イシュマエルがいた頃よりさらに崩壊が進んでいたが、それでもまだ棲み処にしている孤児たちがいた。中にはイシュマエルの顔を知る者もいた。
 宿代がわりにと、バルカローレの食卓からもらってきた肉の切れ端を投げてやると、子供たちは犬のように飛びついてきた。
 最近の話を聞いてみた。この辺りの情勢も、イシュマエルがいた頃とは少し変わっている。セイルザートが裏社会から手を引こうとしている分、他の勢力がのさばってきて、ちょくちょく小競り合いが起きているらしい。危険もあるが、チャンスもある、そういう時期だ。
 ヨナが何を思ってどう動こうと、裏街は良くも悪くもならない。ただ波が起こるだけ。
 そして、ここにどれだけ大きな波が押し寄せようと、もうイシュマエルには何の関係もない。
 昔の知り合いの消息もいくらか聞いた。それなりに成功している者もいれば、そうでない者もいる。行方もわからない者が大半だ。
 (俺は、運が良かった)
 改めてそう思う。
 ここにいる子供たちにも、運が良い奴と悪い奴がいるだろう。幸運な奴だけが生き残って、大人になり、ここから出て行く。
 
 子供たちに自分の毛布を貸してやり、自分は砂避け用のマントに包まる。子供たちは肩を寄せ合って、一人分の毛布を分け合って眠る。
 ――昔は、あちら側だった。
 眠って、また目が覚めるかどうかもわからない。死と隣り合わせの生活。
 (今も、変わっちゃいねえ、か)
 冒険者の明日などわからない。
 (……みんな、そんなもんだ)
 商会を継いだヨナは、いつか先代のように暗殺されるかもしれない。長寿を約束されたルクレッツィーアにも、次の冒険から帰ってこられる保証はない。
 (何者だろうと、変わらねえ)
 …………。
 本当に、そうだろうか?
 あばら家の天井に開いた隙間から、星空が見える。
 (……中天にあの星が見えるってことは、北はあっちで東があっち……今の時間は……)
 無意識に星の連なりを追う。昔、船に乗っていた時、仕事の合間にエルフの航海士から教えてもらった、星の読み方。
 人間の船乗りができる仕事は、エルフに比べれば範囲が狭いが、給金が安い分需要はあった。子供のほうが都合のいいこともある。マストの上に登れる身の軽さ。ロープをしっかりと引っ張れる筋力もあった。
 航海士には妙に気に入られた。自分が『かわいそうな孤児』だったからだろうか。それは別に構わない。
 ――ロクなものを食えなかった割に、体格には恵まれていた。十を越えたころから、その日の糧にも困るほど困窮することはなくなった。稼ぎはともかく、仕事には困らなかった。命の危険を潜り抜けるような仕事をこなせば、たまには贅沢もできた。船に乗ることもできたし、槍術や馬術を習うこともできた。
 槍術を教えてくれたのは、荷運びの仕事を手伝った時、護衛についていた冒険者だ。『暇にあかせて』? 『素質を見出したから』? 何にせよ、特別な理由はなかっただろう。イシュマエルは彼の名前も憶えていない。
 (世の中には馬鹿がいて、お人好しがいて、だから――)
 自分は運が良かった。――それだけだろうか?
 父は自分を知っていた。だが、気紛れのように構うことはあっても、手を差し伸べはしなかった。
 身内の争いすら自分のために利用した男だ。息子への情など持っていなかったのだろう――とは、なぜか思えなかった。
 不遜な笑顔の裏に潜んでいたもの。今も屋敷に飾られた妻の肖像。ライフォス信仰への傾倒。矛盾した男の中にあったもの。
 ――理解できるのだ、なぜか。その混沌を繋ぐ何か。
 きっと、彼は信じていた。イシュマエル自身が思っているところの『幸運』――あるいは、運命を。
 (……運命?)
 下らねえ、と、頭に浮かんだその言葉をかき消す。
 目に見えない、あるかどうかもわからない、そんなものの存在は信じない。ただ、後から振り返って、運が良かったと思うだけだ。
 
 ――自分の力だけを頼りに生きてきた。
 ここまで来れたのは、体が丈夫で、運が良かったからだ。
 それだけだ。それ以外に、特別なものは持っていなかった。橋の下で死んでいった、他の孤児どもと同じだ。
 
 ――たまに一緒に飯を食った。
 金持ちの気紛れだと思っていた。嫌いではなかったが、それほどの情もなかった。
 仕事の紹介もしてもらった。
 その仕事の縁で、様々なことを学んだ。
 槍術と馬術を覚えた。冒険者として生きるための礎を。
 
 ――母親の名前は忘れた。父親の名前は元から知らない。
 今さら知ったからといって、何も変わらない。
 だからといって、売り飛ばす気にもなれない。それは元々、自分のものではないからだ。
 "天涯の騎士"と、そう呼ばれている。世界の果ての、たった一人の自分。
 ……ほんの少しの澱み。血の繋がった弟。
 
 ヨナがセイルザートの跡を継いだ理由は、なんとなくわかる。
 馬鹿で、真面目で、若くて、ひたすら危なっかしいが、あいつは多分、見てて面白い。
 そして多分、そう思う奴はそこそこいて、そういう奴らに助けられて、なんとかやっていくだろう。
 父親が自分を放っておいたのは、一つには多分、あいつの邪魔をさせないためだ。
 もう一つには、多分、セイルザートが築いたものと関係なく、別の道を歩く息子が欲しかったんだ。
 ――二人の跡継ぎ。
 
「……くっだらねえ」
 声に出して呟き、イシュマエルは目を閉じた。
「あー、くっだらねええ」
 ――馬鹿馬鹿しい。
 夜は静かに更けていく。昔のままの、息苦しい空気の中で。
 
 
 
「よう、通せ」
 翌日。今度はルクレッツィーアを伴わず、一人で屋敷を訪れた。使用人は戸惑っていたが、ヨナからは許可が出たようだ。
 商会長室を訪れると、ヨナはちらりとイシュマエルを見ただけで、目線を手元の羊皮紙に戻してしまった。
「出自を売る気にでもなったか」
 目を合わせないまま、そう言う。
「いや、売らねえよ。商売の話じゃねえ」
 イシュマエルは客用ソファではなく、ヨナの机に腰を下ろした。ヨナはさすがに顔をしかめて、イシュマエルを見た。
「なら何の用だ」
「お前、今夜は空いてるか?」
「……なに?」
「せっかく巡り合った実の兄弟だ。いっちょサシで酒でも飲もうかと思ってな」
 そう言って、イシュマエルはにやっと笑った。ヨナは眉を寄せる。
「……俺と飲んでもつまらんぞ」
「そんな気はしてるけどな。いいんだよ、てめー金だけは持ってんだろ、うまい酒出せよ」
「商談ならともかく、俺の個人的な交友費に高い金は出さん」
「出せよ。親父のほうはたまに高いもん奢ってくれたぜ?」
「先代のやり方は踏襲しない」
「ほんとつまんねえなてめーは」
 イシュマエルは机の上に寝転がった。
「……どけ」
「いいじゃねえか。ここ、俺の場所になるかもしれねえんだろ?」
「させるか」
 ヨナは懐に手を入れると、拳銃を取り出してイシュマエルのこめかみに突き付けた。
 イシュマエルは寝転がったまま、ヨナの顔を見上げる。
「そんなもん使えんの?」
「使えん。脅しだ」
「……それ、このお兄ちゃんに効果あると思う?」
「形式的な警告だと思え。それとお兄ちゃんはやめろ」
「おう、俺も大概寒気がした」
 イシュマエルが身を起こすと、ヨナは拳銃を懐に戻した。
 下らない茶番劇。
 それでいいのだ。お互い、本気で関わり合いになる気はない。
 
 邪魔なら、放っておけばよかった。
 いらなければ、売ってしまえばいい。
 でも、それができないのは。
 
「……じゃ、そうだな。金はいいから、一緒に来い」
 イシュマエルはやっと机から下りると、ヨナに手招きをした。
「何?」
「気前のいい兄貴が、けちくせえ弟に奢ってやるよ」
 
 
 
「眼鏡外したほうがモテんじゃねえのか、てめえ」
 平服のヨナは、"眼鏡の商会長"よりは多少幼く見えるが、その分、近寄り難い刺々しさも消えている。
「シンボルがあった方が顔を売りやすい。いざという時に変装も効く」
 無愛想な口調は変わらないが、威圧するような態度ではない。これが本来の、ルクレッツィーアの友人だったのだろう。
「単なるカッコつけじゃねえか。似合わねえんだよ、無理してんの見え見えなんだよ。わかりやすいのは悪い事じゃねえけどよ」
「……放っておけ」
 ヨナはあからさまに顔を逸らした。
 二人は連れ立って、夜の繁華街を歩いている。地元とはいえ、こういった場所には慣れていないのだろう。ヨナはイシュマエルの半歩後ろに隠れるようにして、ついてきている。
 やがて、一件の酒場に辿り着いた。扉の横に掲げられた色ガラスのランプは、どこか妖しげな光を放っている。
「……どういう店だ」
 ヨナは不安げに同行者を見たが、イシュマエルは構わず扉を開ける。
「よう、久しぶり」
「いらっしゃーい! ……あらっ」
 カウンターから身を乗り出したのは、濃い化粧をした女。年齢はよくわからない。
「イシュ! イシュでしょ、久しぶり!」
 女は飛び出してきてイシュマエルに抱きついた。ヨナは思わず後ずさったが、多少離れても化粧と酒の匂いが漂ってくる。
「おう。元気してるか?」
「もー色々大変だったけどね、なんとか……あ、お連れさま?」
 女は初めてヨナに気付き、イシュマエルを放した。
「ああ、二人。テーブル空いてるか?」
「あら、カウンター来ないの。相席じゃないほうがいい?」
「だな、こいつこういうの慣れてねえから」
 ヨナは黙っている。癪ではあるが、ここは全て任せてしまったほうがいいだろう。今回は自分が客なのだから。
「どういうお友達?」
 女は値踏みするようにヨナを見る。普段ヨナに向けられているものとは、少し質の違う目線だ。
「俺が冒険者で、こいつが依頼人。仕事は終わったから打ち上げってとこだ」
「あら、そうなのね」
 女は何度か頷くと、二人をテーブル席に案内した。
「とりあえずエール二つ、あと適当に持って来てくれ」
「はーい」
 女が腰をくねらせながら行ってしまうと、ヨナは恐る恐る、といった体で席についた。カラフルな安物の椅子は、どうにも座りが悪い。
「……知り合いか」
「昔の馴染みの一人。つっても、この店に来てからの付き合いのほうが長えけど」
 イシュマエルは、卓上の器に盛ってあった細長い堅パンを手に取り、齧りだした。ヨナは手を伸ばす気になれず、所在なく両手を膝の上に置いている。
「たまにはこういうとこに出歩いたりしねえの? お忍びってやつ」
「暇も興味もない」
「息抜きとかどうしてんだよ」
「……冒険者の店を覗いてみたりはしている。情報も集まるからな」
「息抜きじゃねえじゃねえか」
 ルクレッツィーアや、"天涯の騎士"の話が聞けるかもしれないから――とは、口に出さなかった。
 やがて、エールがなみなみと注がれたジョッキと、薄切りのハムとチーズの乗ったサラダが運ばれてきた。見た目は悪くない。給仕は先ほどとは違う女で、意味ありげなウィンクをして去っていった。
「ほれ、乾杯」
「乾杯」
 おざなりにジョッキを合わせて一口。ヨナは顔をしかめて、小声で呟いた。
「薄いエールだな……」
「こんなもんだぜ。育ちのいい奴はこれだから」
「ただの商家だ、良くもない」
「甘えたこと言ってんじゃねえよ。あんなでかい屋敷に住みやがって。俺は母親が死んで以来、家なんてもんに住んだことねえよ」
「……そうか」
 自分が幸福だなどと思ったことはないが、少なくとも衣食住に困ったことはない。
「俺は幸運なほうだけどな。今も五体満足で生きてるし」
「……それなら、俺と同じだな」
「同じじゃ……同じだな」
 イシュマエルは、一瞬きょとんと目を丸くし、ややあって破顔した。
「だよなあ、同じだよな」
 ――無防備な、笑顔。妙に安心させられてしまう。
「……それで、何を話したいんだ。こんなところまで連れ出して」
「別に何でもいいけどな。んー」
 イシュマエルは、口の周りについたエールの泡を腕で拭って、ジョッキをテーブルに置いた。給仕の女がやってきて、新しいジョッキを置いて行く。
「――ルッツィーの奴、あれな」
 唐突に始まったのは、そんな話だ。数少ない共通の話題ではある。
「どう見ても脈ねえぞ。諦めりゃいいのに」
「……諦められるものじゃない」
「粘着だな。少しは親父の節操のなさを見習えよ」
「見習ってやるつもりは微塵もないが、あれも相当な粘着質だったぞ」
「そうなの? あ、いいや聞きたくねえ」
「賢明だ」
 ……父の愛人は黒髪の女ばかりだった。早死にした正妻と同じ。例外はヨナの母親ぐらいだ。ヨナは母の顔を憶えていないが、金髪だったことぐらいは知っている。
「お前、金あんだから、女なんかいくらでも寄ってくんだろ」
「そういうのには辟易している」
「女に夢見すぎなんじゃねえのか」
「放っておけ」
 ヨナは、ジョッキに残ったエールを一気にぐいっと飲み干した。すぐに次のジョッキが運ばれてくる。
「お前、あいつの本性見たことあんの?」
「本性?」
「角が伸びたとこ」
「ああ……ないな」
 ルクレッツィーアは、基本的には人間のふりをして暮らしていた。異貌どころか、角そのものを見たことがない。
「そーなの? 結構すげえぜ、角伸びて肌白くなって骨みてえな痣が浮かび上がって、そんで大鎌振るってんだぜ」
 ――軽い嫉妬を覚えながら、ヨナはその姿を想像した。屍の上に立つ死の使い。
「……見てみたいな」
 そう呟くと、イシュマエルは呆れた声をあげた。
「てめーな、そういうな、女の化粧の下覗きたがるような真似するから」
「逆だな。女の着飾った姿を見たいと思うのは当然だろう」
「あー、そう取んのか。どっちにしろ脈ねえけどな」
「放っておけ」
 ……話が弾んでいるのか、弾んでいないのか。
 知り合ったばかりの兄弟の会話は、とりとめもなく続いていった。
 エールは不味い。料理も味が薄い。会話は特に楽しくもない。
 ……だが、ヨナは、なぜか帰る気にもならなかった。
 
 
 
 ――二人で飲んで、下らない話をして。
 といっても、ヨナは早々に潰れたので(酒が薄いだの言っておいてこの様だ)、二階の部屋に放り込んで、あとは酒場の連中と飲んでいた。
 聞ける話はどこも似たようなものだ――あいつは死んだ、あいつは相変わらず、あいつは行方がわからない――そういった話ができる程度には、皆、他人のことを気にしているらしい。
「でも、出世頭はあなたね、イシュ」
 そんなことも言われたが、特に実感も湧かない。
 ――自分は何も変わっていないから。世界にはまだ見ぬ先があるから。
 自分が何者だろうと、弟がどう生きていようと。父親の思惑がどうであろうと。知ったことじゃない。
 槍があればいい。盾があればいい。馬がいればいい。
 全部失くしてもいい。自分さえ残ればいい。どこまでも一人でいい。
 そうしていつか、行けるところまで行きついて、ぶっ倒れるなら、それでいい。
 
 ――だが。
 昔の仲間。昔の場所。今の仲間。弟とかいう変な奴。
 たまに会って、一緒に飲むくらいは、悪くない。
 
「……あー、そろそろやべえな。俺潰れたら、連れと同じ部屋に放り込んどいてくれ」
「はいはい」
 
 ――ゆっくりと、意識が遠ざかっていく。喧騒に飲まれるように。潮騒に飲まれるように。
 それでも、明日には、また、目が覚める。
 
 
 
__End.
アザレア@イシュマエル&ルクレッツィーア SW2.0