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「巌本真理 生きる意味」を読んで 2008.06.09公開、 2009.08.19 追記


このほど、玲子さんの大先輩と言える、昭和時代に活躍したヴァイオリニスト、巌本真理 (いわもと まり)の伝記「巌本真理 生きる意味」(山口玲子著、新潮社)を古本で入手しました。巌本女史が1979年に53歳で物故されてから7回忌を迎える1984年に出た本で、既に四半世紀を経ておりますが、インターネット時代の恩恵で美本を適価で入手できました。ただ、本自体は恐らく「未使用品」なのですが、酸性紙の問題が明らかになる前の本ですので、紙の端の方からかなり変色しています。
日本の古本屋 というサイトでうまく探すと「本屋から返品されて古本屋に流れた未使用本」をかなりの確率で購入できます。インターネット時代ならではの嬉しいことです。

巌本女史が亡くなられたのは私が小学生の時で、クラシックなどとは全く無縁の頃でしたので、私は巌本女史をリアルタイムでは知りません。死去の際は新聞の社会面にそれなりの記事が出たと思われますが、全く記憶しておりません。巌本女史に関するほぼ全ての情報は、今回この本を読んで初めて知ったのですが、「巌本真理弦楽四重奏団」の名称だけは私も昔から知っておりました。以前は山野楽器から「巌本真理弦楽四重奏団の芸術」というCDやソロの名曲集が出ており、雑誌「レコード芸術」の後表紙に毎月広告が載っていたからです。山野楽器が出していた女史のCDは廃版になって久しいようですが「後悔先に立たず」とはこのことですね。
私は何故か「『イズモト』真理弦楽四重奏団」だとずっと思っていました。「巌本」という姓は簡単に表記すれば「岩本」であり、日露戦争の大山巌元帥の「巌」と同じ字で昔から知っていたのですが。お恥ずかしい限りです。


《クリックすると拡大します》 若き日の巌本真理女史 (「巌本真理 生きる意味」の裏カバーです。巌本女史の遺品のアルバムからの一葉とのことです。美しい方ですね)


巌本女史は、父が海外に留学した日本人、母がアメリカ人で、裕福な家庭に育ったものの「アイノコ」と蔑視されることが多く、終生コンプレックスに苦しんだようです。本を読むと、その苦悩が痛々しいほど伝わってきます。ヴァイオリンに打ち込むようになったのも、小学校(私立!)で酷いイジメに遭い、健康を害するに至ったのが契機だったとのことです。ただ、お母さんがアメリカ人ですので家庭の日常語は英語であり、子供の頃にMother Tongueとして英語を覚えたようです。女史がアメリカ滞在時に英語で不自由した形跡は全くないので、日本語・英語のバイリンガルだったものと思われます。

ちなみに、20歳前後の写真を見ますと、私と同年代の女優の鷲尾いさ子に似ています。美人ヴァイオリニストとして天下の人気を集めるのも当然ですね。

巌本女史は、日本が大東亜戦争に負けて占領されていた昭和24年に、アメリカへの入国ビザを取得して、飛行機でアメリカに渡り1年半ほどアメリカに滞在しました。恐らく、後述するアメリカにいた有力者の叔父さんから渡航費・滞在費(当時の日本では極めて貴重な米ドル)の提供を受け、叔父さんが「私の姪であり、日本の有名なヴァイオリニストである」ということでアメリカ入国ビザが取得できたものと思います。当時の日本円は海外では「紙くず」であり、日本人がアメリカに行くのは極めて困難なことでした。この点では、巌本女史を苦しめた「『アイノコ』であること」が幸いしたと言えます。

巌本女史のソリストとしての実力についてですが、

1. アメリカに行く前に女史のレコードがアメリカに送られ、ジュリアード音楽院のヴァイオリン首席教授ルイス・パーシンガー(ルッジェーロ・リッチ、ユーディ・メニューイン等の師)がこのレコードを聴いて
「巌本嬢の音色は非常に麗しく、豊かで、熱情的である。その演奏は崇高かつ精神的であって、尋常ならず精力的である。彼女は温かな音楽的な性格を有する。極めて叙情的な演奏家と言うべきであって優れた気性を持ち、鋭敏な知性を駆使して演奏するに違いない。もし巌本嬢がアメリカに来ることが出来れば、私は出来得る限り彼女のために尽くそう」
と、女史の叔父(ハーバード大学卒、伝記作家及び詩人として著名であった)に言った。

2. 渡米後、シカゴで高名なヴァイオリニストのエネスコ(当時69歳)のレッスンを受けた。エネスコから「カーネギーでもどこでも、立派にこのままでリサイタルは出来るよ」と太鼓判を捺された。

3. 次いでニューヨークに行き、ジュリアードでバーシンガー教授の指導を受ける。教授は巌本女史の叔父に言った通りに親身な援助を惜しまなかった。女史が自ら日本に書き送った文章によると

「その特徴であるうす青い目に、絶えずキラキラしたものをもち、ひくい優しい声で、実に簡単に説明し、わからぬところは、何度でもひいて見せて下さる。バッハの無伴奏第1番の場合なども、私の指のからまるところや、フーガでアコードの中にそのテーマがはまっていて、実に難しいところなど、弓の使い方、指の置き方等にまで、まるで御自分までがひけないみたいに、私といっしょになって苦労して下さるのであった。決してこうひけ、ああひけとお命じにならない。クライスラーはこうひいた、エネスコはこう、ハイフェッツはこうした、私はこうひきます、という風に話しながら、いろいろなひき方をしてみせて、私に合うような方法を探して、私に納得させる。また、ステージに出てみると、こういう風に弓が足りなくなったり、指がいうことをきかなくなるから、いろんな場合に間にあう演奏法を用意しといたらいい、と念に念を入れていっしょに研究して下さるのである。そのために、レッスンは1時間の筈なのに、いつでも2時間はかかってしまうのであった」
とのことです。
(巌本女史の文字遣いを忠実に転記しました。日本の小学校に満足に通えずに4年で退学したにも係わらず、見事な日本語の文章だと思います。女史が玲子さん同様に聡明な女性だったことが判ります)

4. 昭和25年6月14日、バーシンガー教授等の熱心な援助もあり、ニューヨーク・タウン・ホールでリサイタルを行った。サンフランシスコ平和条約(昭和26年9月調印)が結ばれて日本が国際社会に復帰する1年以上前、日本人が敗戦国民として忌み嫌われ、軽んじられていた時期のことですから大変なことです。
この演奏会の批評は、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンに下記のように載ったとのことです。

「ずば抜けた才能が、昨夜タウン・ホールに於けるアメリカでのデビューで、24歳の日本の提琴家(ヴァイオリニスト)巌本真理嬢によって示された。
先ず第一に巌本嬢は真の芸術家にとって欠くことのできぬ特質を示した。生まれながらの音楽的才能、白熱の気質、演奏スタイルに対する洗練されたセンス。
彼女のテクニックもまた高度に訓練されたものであるが、極度の指使いの早さを要求された時、たとえばメンデルスゾーンの終楽章の場合などに若干の欠点がなくもない。しかしこれは容易になおすことのできる欠点であり、その手法もすぐに獲得出来るであろう。
他方に於て正確にバッハのシャコンヌの複雑な重音をこなし、練達の妙を見せた。彼女の芸術で最も印象的な面の一つに、彼女のトーンがある。それは立派な才能のある稀に見る幅のひろい音色である。特にその音楽的感受性の偉大さはラプソディー風のルクーの奏鳴曲(ソナタ)にみちみちていた。この長たらしい曲をあのように人の心をとらえるように弾きこなした」
(「音楽之友」昭和25年8月号に掲載された訳文です。古めかしい表現もそのまま転記しました)

私が想像するに、24歳の巌本女史の演奏レベルは、1950年のアメリカの基準でも「評価に値するレベル」であったようです。昭和20年代、30年代の日本で「第一人者」の名をほしいままにしたのも当然でしょう。それに女優のような容姿が加わるのですから、人気が出なかったらおかしいですね。

巌本女史がどのようなビザでアメリカに入国していたのか分かりませんが、先述のように
(1) アメリカに有力者の叔父さんがおり(女史のお母さんは、先祖のうち二人が、メイフラワー号に乗っていたピルグリム・ファーザーズに遡れるというWASPの名門の出身でした)
(2) 英語をアメリカ人同様に使え
(3) ジュリアードの主任教授が注目するレベルの演奏力があった
のなら、少なくとも
「アメリカのオーケストラのオーディションを受けてオーケストラの一員となり、アメリカで音楽家として生活していくこと」
は十分可能だったのではと思いますが…空襲で多くの都市が焼野原になり、外地からの帰国者と復員兵で人口過剰に悩む昭和25年の日本と、世界最強・最富の国であった1950年のアメリカの生活水準の格差は凄まじいものだった筈です。巌本女史の目にアメリカが「おとぎの国」に映ったろうことは容易に想像できます。

1950年にアメリカに定住できる条件を備えた稀有な日本人であった巌本女史に「貧しい日本に帰りたくない」という意識は当然あったでしょう。ただし、その辺は本には何も書いてありません。巌本女史がアメリカに定住しようとした形跡は本からは全く伺えません。


巌本女史は大正16年=昭和元年(1926年)に生まれたので、満年齢は昭和の年数から1年引いた数になります。

小野アンナに師事し、戦前から戦後にかけて日本一のヴァイオリニストとして名を馳せ、昭和20年には僅か20歳で東京芸大(現)教授に就任し、昭和20年代半ばに当時としては異例の「1年半のアメリカ滞在」を経験するなど華々しく活躍しました。東京への度重なる空襲で巣鴨にあった家を焼かれ、敗戦間際の昭和20年に満洲国へ演奏旅行に行き、ハルビンで「ここに住みたい!一度日本に戻ってから家族と一緒に来ましょう」と思って満洲を離れた直後に8月9日のソ連参戦、満洲国崩壊となり、朝鮮南端の釜山まで鉄道で南下し、漁船のような小さな船で四国の新居浜に上陸したのは8月15日ごろだったそうです。

当時の日本近海にはB29が投下した精巧な機雷が大量に存在しました。帝国海軍の掃海技術では対応不能な最新型機雷で、多くの商船や軍鑑が機雷で沈み、海上交通が麻痺していました。「漁船のような小さな船」は恐らく木造船だったと思われますが、喫水が浅くて木造の船は機雷にやられる可能性が一番低かったのです。当時の機雷は、鉄の磁気を感知して炸裂するものが多かったはずです。

巌本女史の伴奏者として共に満洲へ行き、女史と別れて満洲に残っていた女性ピアニストは、ソ連軍の侵攻による社会崩壊に巻き込まれ「消息不明」になってしまったようです。巌本女史も、歴史から消えてしまう危機一髪の所を乗り越えて日本に帰還できたわけですから大変な強運ですよね。

なお、昭和20年代〜30年代の演奏旅行の記録を読むと、「九州を巡回し、福岡県田川市でリサイタル」などと、石炭産業が盛んであった当時の日本の経済構造も垣間見えます。巌本女史のソリストとしての録音はほんの僅かしか残っていないようですが、演奏評を見ると「骨太の演奏」が特徴だったようで、玲子さんの演奏に通じるものがあったのかもしれません。本の記述によると、昭和20年代・30年代には「クラシック界随一の人気を誇る独奏者」として引っ張りダコであったとのことです。昭和34年に松竹の映画「乙女の祈り」という作品に特別出演し、出演料代わりに自動車「スバル360」を貰ったと言うのですからその人気の高さが伺えます。

その後、40歳の時に周囲の反対を押し切り、収入の大幅減を承知の上でソリスト活動を大幅に減らして「巌本真理弦楽四重奏団」の活動に専念したとのことです。「どうしても弦楽四重奏をやりたい」という巌本女史の非常に強い意志があって実現したことです。私も行ったことのある東京文化会館の小ホールで会員を募って定期演奏会を開き、毎回ほぼ満席でも剰余金はほとんど出ないという厳しい状況が最初からわかっていたそうです。なお、文化会館小ホールでの定期演奏会は第94回まで行われ、第95回の当日が巌本女史の命日となりました。最後まで、「次の定期も予定通り行う」前提で練習していたそうです。

51歳で左乳癌を手術し、僅か1ヶ月の入院でリハビリを終えて演奏活動に復帰、没年となる2年後、昭和54年の1月に右乳癌を手術して前回同様に1ヶ月の入院で演奏活動に復帰し、同年の5月11日に亡くなるまでに、最後の演奏会となった4月12日の第94回定期公演の前に7回の地方での演奏会(名古屋、九州)を行っているのです。女史の音楽への情熱の深さがビンビンと伝わってきます。
最後の演奏会となった4月12日の演奏会のプログラムに挿入された、女史の書いた「曲目変更のこと」という文章を採録します。女史の絶筆と言えるものでしょう。

「昨年11月定期(公演)の2日後、私は病気再発のため入院いたしました。病室で天井をニラミひたすら3月定期を目標に病棟の模範患者を心ざしたつもりでした。なのに、3月は無理との主治医の警告にしたがい、やむなく4月から、と春を待ちわびておりました。幸い2月末に退院は出来たものの、退院後の体力を考え多くの練習を必要とする、以前発表のプログラムではとても荷が重すぎるという判断から、これまでのレパートリーから私達がもっとも好むプログラムに模様がえさせて頂きました。
又バイオリンが持てるよろこびをかみしめながら、皆様に少しでもいい音楽をさしあげられれば幸わせなのでございます」


巌本女史の死の直前の様子として「エレベーターのないビルの4階に四重奏団の練習場を借りていて、元気な頃はさっさと上がっていた階段が病の進行で遂に上れなくなった」くだりは涙を誘うものがありました。現在でしたら「5階建ての商業ビルでエレベーターがない」所など存在しないでしょうが、昭和50年頃の世相が偲ばれます。

現在、玲子さんはもちろんのこと、巌本女史より20年ほど若いチョン・キョンファ、それに続いて世界の第一人者となっている五嶋みどり、サラ・チャンなどの存在を考えますと「ヴァイオリンは東洋の女性のための楽器」という感が深くなっています。巌本女史はその先駆けであったと言えましょう。

ヴァイオリンに53年の生涯を捧げ尽くした巌本女史のことを今回詳しく知って非常に感じ入るものがありました。機会があればぜひお読み下さい。


(2008.08.19 追記)
インターネット上で
「昭和41年(1966)に、当時所属していたアマオケで40歳の巌本女史とブラームスの二重協奏曲を共演した」
という回想録を書いておられる方がおられました。42年前の記憶を辿るとは思えない鮮烈な描写、アマオケとの演奏会でも一切手抜きをしない巌本女史の芸術家魂、そして温かい人柄に心を洗われました。仮に現代の日本に私と同じくらいの年齢で巌本女史がおられたら、私は「巌本真理弦楽四重奏団ホームページ」を開設し、東京の某小ホールで行われる定期演奏会に仙台から通うかも?と思うくらいに感動いたしました。

非常に素晴らしい文章ですので、下記に転載させて頂きます。
元URLhttp://www7.plala.or.jp/samma/music.html#Anchor-65194
Web魚拓 http://www7.plala.or.jp/samma/music.html

 「奇跡の演奏会」
正機

 「巌本真理」といえば、今でも人々の心に残る名バイオリニストだ。まさしく憧れの的であった。たとえ偶然でも、実物に会うことなど奇跡と思われたのに、なんと、わがアマチュアオーケストラと競演したのである。1966年、第七回定期演奏会のことだ。曲目はブラームスのドッペルコンチェルト(バイオリンとチェロのための二重協奏曲)で、チェロは名手黒沼俊夫氏である。二回ほどリハーサルにこられた。エキゾチックな雰囲気の中の高貴の人はすぐそばにいたが、遠くの景色でも見るようにしか、雄姿を拝見する事ができなかった。

演奏会の前日のリハーサルでは、当オーケストラとは関係のない人が多く来て、サインを貰うやら、なんやかんやで大騒ぎだった。

巌本真理は有名だったが、初めてその演奏を生で聴いたとき、全てを超越する新しい境地を感じさせた。驚いた事の一つはそのバイオリンの音が異なっていたこと。耳を疑ったのは強烈な音量である。ホルンやトランペットに引けを取らない響きがあった。ピアニッシモにも心の鼓動は厳然と伝わり、この演奏家は世界という冠号を常につけられる意味も存在もなるほど当然と思われた。それだけではない、巌本真理は尊敬できる真の音楽家だった。下手なアマチュアオーケストラに不満そうなそぶりを一つも見せず、しっかり取り組む姿勢にも感動した。こんな名人と同じ曲を共有できる時があるなんて。誇らしく、心は有頂天だった。

ブラームスの曲はどれも、当時の学生オーケストラではテクニック的にとても難曲だった。ドイツ・ロマン派といわれるブラームスは、ベートーヴェンなど古典派の影響も強く受け、それを頑固に踏襲しており、一見古典派にも思えるが、自身の環境の変化など新規一転した後半の作風には、まさに後に開花するロマン派の息吹が見える。四つの交響曲は全て大作だが、そのメロディやハーモニーの奥深さや重厚さは聴くたびに神秘な世界に引き込まれる。一生独身を通した境遇から表れたのか、諦観と孤独の影のような響きは、内省的であり極めて瞑想的でもある。これがブラームスが哲学的といわれる所以であろうか。

ドッペルコンチェルトの第二楽章のテーマは「ソードー、レーソー」のわずか四つ音で始まる。一つの音がゆっくり2拍ずつ階段のように音が上がる。「最後のソ」は「最初のソ」より1オクターブ高くなり、ゆったりした伸びやかに到達した印象になる。このテーマ「ソードー、レーソー」が実は独奏バイオリンと第1ホルンのユニゾンである。リハーサルでは何気なくやっていたが、本番は画期的だった。あの本物のプロフェショナル巌本真理がただのアマチュアのホルン奏者である私の方をしっかり見据えて、目で合図を送り、おもむろに音を出した。硬直しながら無我夢中。憂いを秘めた伸びやかなバイオリンの音にあわせて、ホルンの音も実に朗々と、静まり返った会場に響き渡った。息が完全にあったこの出だしは完璧だった。あの世界の巌本真理とブラームスの音楽によって心が通じた瞬間となった。その後は独奏バイオリンと独奏チェロの独断場で、私のホルンの役割はほとんどなく、感動と興奮の余韻にふけったまま曲は終わった。

全てのプログラムが終わって、まだ呆然としている自分がふいに我に帰ったのは次の驚きのためであった。あの巌本真理が私の目の前に立っていたのだ。練習、本番と終始厳しい顔を崩さなかったあの人が、にこやかに手を差し出している。思わず両手でその黄金の手を包んだ。凛としたその手からほのかな温かみが伝わった。

(完)

巌本女史の素晴らしさを語り尽くしているこのエピソードに巡り合えたのもインターネットのおかげです。
残念ながら上記の文章が掲載されているサイトの管理人様と連絡がつかないので「無断転載」となってしまっております。
ですが、僭越ながら、このサイトの続く限り、一人でも多くの方にこのエピソードを読んで頂きたいと思い、転載させて頂きました。


(2009.08.18 追記)

このほど、
「巌本真理の芸術」 キングレコード(『セブンアンドワイ』へリンク)
詳しい紹介
として2枚組のCDが発売されました。

従来、LPやCDとして発売されて来た、巌本真理弦楽四重奏団他の東芝レコードへの録音とは別に、キングレコードに残した録音が初めてCD化されたものです。
今回のCDの音源は「教育用」に録音・販売されたようで、一般の音楽ファンは録音の存在を知らなかったそうです。
現在は、東芝レコードへの録音によるCDが現役盤として入手できませんので、私のように「21世紀になってから巌本女史の偉大さを知った」者にとっては貴重な現役CDとなります。

このCDは、2枚目の半分程度が、巌本女史のソロ演奏となっています。私が最初にそれらの曲を聴いたのはもちろんです。一聴して
「音が滑らかでふくよかであり、玲子さんの演奏に通じる」
「今のソリストと比べても遜色ない技量」
と感じました。


このような感想は素人である私だけではないようで、CDのライナーノーツで、音楽プロデューサーの中野雄氏が

「巌本真理が残した小品集 (某社=恐らく山野楽器のCD復刻版) を聴きながら原稿書きをしている最中、親しいヴァイオリニストの天満敦子から電話がかかってきた」
天満は、挨拶もそこそこに『電話の背後に流れているヴァイオリンは誰の演奏ですか』と尋ねた」
「中野氏が『巌本真理ですよ』と答えると、天満は
『そのCDを5枚買って送って下さい。生徒たちにぜひ聴かせたいので。ヴァイオリンの奏法が理想的で音楽的にも素晴らしい。こういうヴァイオリンを奏く人がいつの間にかいなくなってしまった。巌本真理さんがこんなに素敵なヴァイオリニストとは知りませんでした。若いときに巌本さんの生演奏を聴かれた中野さんが羨ましい』
と言った」


というエピソードを披露し、

「今回キングレコードから発売された『巌本真理の芸術』の中の何曲かの独奏曲、特にチャイコフスキーの"アンダンテ・カンタービレ"、近年こういう骨太で背筋の伸びた、堂々たるヴァイオリン演奏を披露してくれる人がいなくなった。日本だけでなく、世界中から消えて無くなってしまったように思えて仕方がない」

と書いています。中野氏は玲子さんのことをお忘れのようですが…(笑)。

今回発売されたCD、2枚組で2,800円とお手ごろな価格ですし、強くお勧めいたします。
東芝レコードへの録音が早く再発されるとなお良いのですが…