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演奏と人格 1999.10.16


クラシック音楽に関する古典的な解説書として「名曲決定盤」(あらえびす著)があり、出版から60年を経た今でも読み継がれていますが、その冒頭、当時のヴァイオリン界の第一人者であるクライスラーの項は「いかなる芸術でも、その最後の値打を決定するためには、創作者、演奏者の人格にまで戻らなければならない」と書き出されています。

私は優れたヴァイオリニストは同時に優れた人格の持ち主であると考えておりまして、このHPでもチョン・キョンファや渡辺玲子の素晴らしい人間性を少しでも皆さんに知っていただきたいと、インタビューの掲載などいろいろやっています。彼女たちに接したことがある方でしたら、その演奏に負けない優れた人柄についてはきっと同意していただけることと思います。ヒラリー・ハーンも、接した人全てをファンに変えてしまうようなチャーミングな人柄のようですし、他のお勧めヴァイオリニストで紹介しているヴァイオリニストたちにしても、概ね立派な人が多いようです。

逆に、私が嫌いなヴァイオリニストの中には芳しからざるエピソードに彩られているような輩もいまして、顔つきを見てもそれが伺え、演奏はまるでサギ師のような軽佻浮薄な代物です。あらえびす氏が、「不良少年型のいわゆる天才は、一時ジャーナリズムの波に乗って、天下の人気を背負って立つことがあろうとも、それはまったく稲妻のようにはかない一閃光で、永遠に人の心を高め得るものではない」と指摘している通りです。

その一方におきまして、「演奏と人格などは何の関係もない。私はチョン・キョンファの演奏を高く評価しているが、彼女の人格とは無関係である。だいたい、名演奏家というのは一種の狂気を宿しているものである」などと、私と正反対のことを唱える方もおられます。さて、どちらが正しいのでしょう?

私は、

ヴァイオリニストを筆頭とする器楽奏者と、指揮者を一緒に考えるのは誤り。極論すると、名ヴァイオリニスト=人格者、名指揮者=悪党である

と考えています。


世間の人は、クラシックの名演奏家と言うと器楽奏者や歌手より指揮者を思い浮かべると思うのですが、名指揮者の系譜を考えると、だいたい金と女が何よりも好きと言うような、あまりお近づきになりたくない人が多いようですね。フォン・ビューローから始まって、ニキシュ、トスカニーニ、ワルター、クレンペラー、フルトヴェングラー、ストコフスキー、カラヤンなどなど。「巨匠伝説」(文芸春秋社)という本に詳しいので、ご一読をお勧めします。

現役でも、マゼールは恐ろしく金に細かいとか、デュトワはめぼしい女流演奏家(キョンファ様も含む)とこぞって懇ろになっているとか、バレンボイムは難病に倒れた愛妻のデュ・プレをあっさり捨てて他の女に走ったなどの薄汚い話は枚挙に暇がありません。バレンボイムについては、ユダヤ人であることを利して指揮界の有力ポストを総なめしているものの、実力が追いついていないという話もあります。

奥方が30歳年下の元モデルとか言う話も多いですね。ショルティが確かそうでした。演奏会を平気でキャンセルしてファンを失望させ、出すと言っていたCDはお蔵入りさせ、指揮の際は法外なギャラを要求するとされるカルロス・クライバーなどは、キョンファ様の風上に置けない selfish guy と言えるでしょう。

しかし、そうしたスキャンダルはあまり指揮者としての能力にも人気に悪影響を及ぼさないようで、武勇伝的に語られることが多いです。むしろ人格者とされるオーマンディ、サヴァリッシュ、コリン・ディヴィス、アバド、ハイティンク、秋山和慶などは、微温的とか小市民的などと言うレッテルを貼られて軽視されると言う風潮もあったりします。

どうやら、指揮者として成功するには善人ではダメなようですね。なぜでしょう?

考えてみますと、

1.指揮者は、毎日の練習が不要な珍しいクラシック職種である。作曲もそうですね。何しろ、毎日数時間ひたすら棒振りの練習に余念がない指揮者などと言うのはいるわけがありません。

2.人をまとめるのが重要な仕事。この場合、あまり人がいいとろくなことがないというのは、ビジネスマンであれば良く知っていることですね。適当に毒がないとうまく行かないものです。

3.成功すると大金が入る。だいたい、ギャラの半額を指揮者、半額をオケ全員が取るというくらいが相場のようで、更に名門オケの常任や音楽監督になると年収数億円となるようです。クラシックの世界で、これほど儲かる職種というのは他に例がないでしょう。金があれば当然遊びたくなるし、もっと欲しくなるのが人情ですね。

4.指揮の場合、他の名演を見て学ぶという要素が少ない。謙虚に自分を見て研鑚を積む必要は少ないわけです。夜郎自大なヤツでも、才能と運があれば名指揮者になり得ます。

私の理論では、「名指揮者=悪人」を立証するには至っていないのですが、「指揮の価値と人格が無関係」なのはどうやら分かりそうですね。で、名指揮者になる人は食えない人が多いというのも納得できるようです。まあ、次世代の大指揮者候補のラトル、ミュンフンなどはその演奏の素晴らしさに加えて優れた人格でも知られていますので、将来は事情が異なってくるかもしれません。私もその方が気持がいいですね。


一方、ヴァイオリニストの場合はどうかと考えますと、指揮者とは反対の点が多いです。

1.一日も休まずに練習に励まないとすぐに腕が落ちてしまう。実際には、人気絶大な奏者の中には、明らかに練習をサボっていると思われる人も散見されますが、耳の貧しい客はそれでも拍手喝采してくれますので何とかなっているようです。

そのような難行苦行を幼稚園の時から引退まで何十年も続けないといけないのですから、才能に加えて真面目で固い意思の持ち主でないと名ソリストになどなれるわけがありませんね

2.あまり儲からない。私も良くは知りませんが、ハイフェッツやスターンくらいのクラスでないと、豪邸に住んで贅沢三昧とは行かないようです。キョンファ様のような世界のトップに立つヴァイオリニストでも、金持ちという話は聞いたことがないですね。ナージャが前にインタビューに答えて「ヴァイオリンはお金にならないから」と笑っていたのが印象に残っています。たぶん本当でしょう。

より知名度が低いソリストの場合は、ソロ活動では持ち出しという例が多いものと思います。クラシックで金を儲けたければ、指揮者になるのが一番確率が高いようです。

3.自分の演奏を省みて足りない所を認識し、向上させて行かないといけない。他のヴァイオリニストの演奏会やCDを謙虚に聴き、ヒントを得ることも重要でしょう。謙虚な人でないとなかなか演奏が進歩しないのではないかと思われます。ユダヤ系であるが故に実力以上の評価を受け、「俺様は世界一!」と勘違いしているヴァイオリニストもいるようですが、そうして研鑚を怠ればいずれは報いが来ることでしょう。あらえびす氏が60年前に指摘している通りです。

というようなわけで、名ヴァイオリニストは人格者であるというのが普通のことになっているのでしょう。

そして何よりも、ヴァイオリンの音には演奏家の人格が不思議な程にそのまま現れるものです。これは、ヴァイオリン音楽に造詣の深い方であれば必ず同意して頂けると思います。心の汚い演奏家の音楽は聴くに耐えないので、自然に淘汰されてしまって人格の優れた演奏家が多く残るのではないでしょうか。なお、一般には気難しい人として知られるハイフェッツも、シャイではあるが親しい人には大変フレンドリーであったそうです。