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2000年9月 ドイツでの批評記事
(バンベルク響定期公演)

Last updated Oct 15, 2000

玲子さんは、2000年9月に欧州でミッコ・フランク指揮のバンベルク響とシベリウス/ヴァイオリン協奏曲を共演しました。

9/21, /22 バンベルクでの定期公演
9/25, /26 オーストリア・グラーツ公演

10月には、同じ曲目で東京公演があり、私も聴きに行きました。

バンベルクでの演奏について、9月24日のFrankischer Tagに載った批評を梶本音楽事務所のスタッフの方が訳してくださり、ご好意で原稿を頂戴しましたのでここに掲載致します。筆者は、Erich Vogel氏です。当日のプログラムは、前半にシベリウス/ヴァイオリン協奏曲、後半にマーラー/交響曲第一番「巨人」ということですね。


感性に響く音色と迫力ある緊張−バンベルク交響楽団がミッコ・フランクと渡辺玲子を迎えて


シンフォニー=コンサートのプログラムの冒頭に1楽章ものの曲目を組み込むことを断念することは通例、プログラムの柱となる2作品に大変重要性があることを意味する。バンベルク交響楽団は定期演奏会シリーズCをヴァイオリンの大家のレパートリーとして誰もが認めて久しい、ジャン・シベリウスのヴァイオリン協奏曲ニ-短調作品番号47(op.47)で幕を開けた。渡辺玲子をソリストに迎えたこのスタートは従来の概念と評価を全て後々までも裏付けるものであった。

若いフィンランド人指揮者ミッコ・フランクが慎重に導く弦楽器の冒頭の柔らかなきらめくような伴奏の響きは迫力ある緊張感を引き起こし、そこに日本人の女流ヴァイオリニスト渡辺玲子が急速に動く第一モチーフの非常に深遠なピアニッシモの内容豊富な表現スケール(音階)から表情溢れる和音のクライマックスまでの最初のソロ・パッセージを組み入れることができた。渡辺玲子のヴァイオリニストとしての腕前が完璧であることはすぐに明白になった。オクターブのパッセージ、エネルギッシュな和音とヴィルトゥオーゾ的なパッセージは聴衆を魅了した。

驚くべきアクセント

さらに魅力を増幅したのは暖かく、しかも力強く良く通る彼女のヴァイオリンの響きである。響きの美しさと表現力が全ての演奏技術上の要素(基本)よりもはるかに際立っていた。電光石火のような楽曲においてさえはっきりとした形成意欲が意義と形式をもたらす驚くべきアクセントの中に明白に現われた。シベリウスによって第一楽章の展開部(訳注:3)の代わりに仕上げられたソロ・カデンツァは表情豊かな展開の全体的流れの中でハイライトのひとつとなった。

アクセントがより一層強烈な印象を与えたのはアダージョ・モルト(Adagio molto)における暗い音色の可聴度(ソノリティー)であるが、渡辺玲子が切迫感を持ってエネルギッシュに取り組んだフィナーレも主題的、演奏的魅力を豊富に放つことができたのではないか。女流ヴァイオリニストとミッコ・フランク率いる抜群のアンサンブルでは、すべてのソロ・パッセージでは繊細に、トゥッティ(全合奏)部分ではしかしエネルギッシュにオーケストラが導かれ、ジャン・シベリウスがこの協奏曲で作曲構成上素晴らしい成果を成し遂げたことが次第に明確に現われていた。このようにして聴衆の感動は心奪われ、緊張感溢れる始まりから途切れることなく持続した。アンコールに演奏されたパガニーニのカプリス(Caprice)の華々しくセンセーショナルな左手(握り手)でのピチカートは日本人女性の芸術家の登場を熱狂的なものに仕上げた。

ミッコ・フランクが自発性と輝くようなみずみずしさ、広範な拍動の多様性(訳注:5)そして音響的センスを持ち合わせている事はすでに昨年夏のコンサートシーズンにおけるベートーヴェンの演奏の際に証明されている。グスタフ・マーラーの交響曲第1番は今や新しい挑戦を意味するものである。期待通りにこの若い指揮者は第1楽章の牧歌的風景に明白な意義を示した。フランクは実に楽しげに、いつのもように椅子からの身振りをまじえてこの第1楽章の活気あるパッセージを生き生きと軽やかに運び、たびたび強調される感性的な響きを味わい尽くすため、全ての旋律的なアイディアを再三積極的に取り上げていた。しかしながら同様に全てのエキセントリックでしばしば感性を混乱させる色彩がはっきりと際立ってしまったのが、この牧歌的風景の完璧性にたいする最初の大きな疑念である。それに応じるようにスケルツォはむしろ力強く素朴で、再三にわたり鋭くアクセントがつけられ、クラリネットとホルンがぎこちなく鳴り響く有様には音響的のみならず、視覚的にも違和感を覚えた。しかしながら響きのクライマックスでは物悲しい雰囲気が突然おとずれた。

暗い雲の中からきた稲妻

同様にフランクの確かな手腕が見られたのは「葬送行進曲」-"Feierlich und gemessen"(荘厳に中庸の速度で)のマリオネットのようなグロテスクさから歌節の感動的なメロディー-"Auf der Strase steht ein Lindenbaum, da habe ich zum erstenmal im Schlaf geruht"(道にある菩提樹のところでわたしは初めてゆっくり眠ることができた)への転換部である。これまでの体験上から、ミッコ・フランクの荒々しく動きの激しい("sturmisch bewegte")最終章は「暗い雲の中からきた稲妻のように」突如として現われるではずであることは予知できた。常に前に駆り立てられるように切迫し、緊張が緩まることは一時もなかった。のろしのようなホルンの最後の素晴らしい響きのフィナーレでは、ホルン奏者も指揮者のように立ちながら文字通り最後の力をふりしぼった。

間近にせまった日本公演と期待される成功を顧慮してかアンコールには交響曲第5番のアダジェット(Adagietto)が用意された。想像を絶するさらなるクライマックスに至ることを期待したい。ここでわれわれは、マーラーの全作品にいまだに付随するなぞめいた神秘性についての答えに少しで近づく為にこの若い指揮者の経験が十分であるかという最後の疑念をついに払拭したのである。