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渡辺玲子 インタビュー
雑誌「ストリング」 1998年7月号

Last Updated Jun 25, 1998

主に自分で弦楽器を弾く人を対象にした雑誌「ストリング」の1998年7月号に、渡辺玲子のインタビューが載りました。なお、彼女の経歴に関する部分は、渡辺玲子プロフィールにまとめてありますのでここでは省きました。


コンサートのペースとしては、今くらいがちょうどいいと思っています。相変わらずリサイタルよりコンチェルトの方が多いんですが、それも私にとってはちょうどいい割合かなと。


リサイタルとコンチェルトでは、臨む姿勢・気持ちが変わりますか?

臨む前に特に意識することはないですが、弾く曲の内容と時間の長さが違いますので、結果的に自然と違ったものになってきます。

リサイタルと言うのは、休憩を入れて2時間、正味1時間半くらいのプログラムを、起承転結、曲の調性、曲の背後にある精神的なものなどの関連を考えながら作り、それを実際に1-2時間の長い間演奏しなければならないと言うことです。その年によって弾きたい曲も変わってきますし、また相手のピアノの方も変わりますので、いろいろ自分でコントロールしながらやって行くという部分があります。

コンチェルトの場合は、たいていの場合曲目は主催者からの要望があります。ヴァイオリン・コンチェルトはだいたい30分くらいで3楽章形式ですね。ですから、リサイタルとは、精神的な部分でも体力的な部分でもちょっと違います。コンチェルトは、100人くらいのオーケストラが後ろにいて、その人たちと共演するわけですから、瞬発力とか集中力に関してはすごく凝縮したものが要求されると思います。私は以前からそういうものが好きですし、得意としていますので、そういう意味ではコンチェルトは本当に自然な形で臨むことができます。


私は、コンサート会場で実際に演奏するということに今までずっと自分の精神的な重きを置いてきました。録音というのは残るものですから、準備ができてから、もう少し歳が行ってからでもいいと思っていたんです。

最初のCDが出たのが去年になります。それはライブ録音だったものですから、純粋な録音とコンサートとの違いは、まだはっきり自分にも分かりませんでした。ですが、今回の2枚目の録音は完全にスタジオ録音でしたから、録音というものがどういうものか、実際のコンサートで演奏するのとどういう風に精神的に違うのかと言うのがずいぶんと実感できました。録音も、これから大切にして活動していきたいと思います。芸術家として進歩して行く上で、録音はとても大切な部分を占めるものだと、今回思いました。


録音とコンサートで、具体的に違った点というのは?

コンサート会場での演奏というものは、例えば7時半から8時までの間に、コンチェルト1曲を私は何があろうとも弾くわけです。それこそ、自分の精神を3日くらい前から高めていって、本番に集中して、その「本番の空間」の中で自分がいかに表現して人に伝えるか、ということが重要ですね。そして、その時来ているお客さまとの関わり方によって、伝わり方も違ったりして、いろんなことがあるわけです。

反対に、録音というのは「本番の空間」といったものを取り払ってしまうものです。そして、いろんな所で私の演奏が聴かれることになるわけです。車の中で聴かれる方もあるでしょう。私としては、完成されたものとして、いつの時空間においても聴くに耐えられるものを作らなければいけないと思うのです。

また、録音の特徴として、「本番空間が作り出すマジック」がありません。つまり、コンサートにおいてはお客さまと私の精神的なつながり、高揚感で何か不思議なものが出る瞬間というのがありますが、レコーディングの場合はこれがないわけです。ところが、今度は舞台の演奏にはない「曝される部分」というものがある。つまりは、音楽を突き詰めていくという行為をレコーディングによって持つことができるということを、今回ひしひしと感じました。


コンサートで聴衆を前にして弾くという雰囲気が非常に好きでいらっしゃる?

私は好きです、はい。これはフックス先生に言われたことなんですが、私が彼のレッスンを受けている最中に、他の生徒さんが時々入って来るんです。先生に話がしたくてね。すると、先生が後で言うんです。「君はね、人が入ってくると演奏が全く変わるね。何かとたんに張り切るじゃないか」ってね。そういう性格は演奏家にはとても向いていると言われたことがありました。人に聴いてもらうのが基本的にすごく好きです。自分一人でやっている時と、人がいる時では、演奏が何か変わるんです。そういう気持ちが自然に湧き出てくるようになったのは、15歳を過ぎてからだと思います。


ソリストとしての条件とは?

演奏家としての気質的なものもあると思います。室内楽を専門に、例えばカルテットをなさるような方は、本当に周りに敏感で、合わせて音楽を作っていくことを得意とされる方だと思います。

私は、自分の表現をしたいという気持ちの方が強いです。何と言うか、目立ちたい性格と言ったら変ですけれども、ステージに出た時に、そういう部分がある程度あった方がソリストに向いていると思います。

あとは、演奏の仕方の部分で、例えばオーケストラをバックに弾いて音量が負けないとか、メリハリがはっきりしているとか、集中力があるとか、そういうことがあった方がソリストとしてのインパクトは、聴いている方にとって強いと思います。音が大きいというより、音が通らないとダメですね。音が「大きい」というのと「通る」というのは違う、と私自身は思っているんです。通るということがすごく必要だと思います。

このことは、楽器が良い悪いと言う問題が大いに関わってきます。と言いますのも、2年くらい前から日本音楽財団からストラディヴァリウスをお借りしているんですが、その楽器を使うようになってから感じたことは、音量が大きい小さいという問題以前に、音色が他にブレンドされて消えてしまうということがないんです。音量の小さい音を弾いても、全体の音楽の中からその音だけを聴き分けることができる強い個性を持った音が出ると言うことなんですね。

それは、もちろん演奏家がそういう音を出そうとしなければいけないんですけれども、楽器自体がそういう音を持っていなければ、最終的には出るものではない。そういう意味では、うれしいか悲しいか楽器が重要な部分を占めると思います。


私のストラディヴァリウスは「エングルマン」です。持っていた人の名前です。

私が一枚目のCDのレコーディングをドレスデンでする時になった時に日本音楽財団を訪ねまして、こういうレコーディングをやるんですけど、やっぱり楽器が良くないと駄目なので貸して頂けないでしょうかと伺ったんです。その時には、財団の楽器が全部貸与されてなかったので、その時の録音(ベルクのヴァイオリン協奏曲)は自分の楽器で録音しました。

で、そのCDの2曲目に入っている室内協奏曲は翌年に録音したんですが、その時分には「エングルマン」が財団にあったので、貸してあげようとおっしゃってくださった。

最初はどんな印象でしたか?

この楽器は長い間演奏家には弾かれていなかったそうです。楽器を見た時に、本当に美しいニスと美しいフォームで、こんなきれいなストラディヴァリウスがあるのかと思ったほどです。音はもちろんストラディヴァリウスの音はしていたんですが、やはり楽器というものは振動して音を出すものですから、100年くらい弾かれずに大事に保管されていたので、これは音が出るまでに時間がかかるなという感じはしました。

ただ、ベルクのCDを注意深く聴いて頂くと分かると思うんですが、音色の面で、ベルクのヴァイオリン協奏曲とストラドで弾いた室内協奏曲では、やはり音の色、艶、温かさなどが、最初から全く違うと思います。

現在はだいぶなじんでいますか?

ええ、もう2年近くになりますので、私自身も楽器に合った奏法がだんだんできるようになってきましたし、楽器自身が次第に私の方に近づいてくれていますので、これからもっと良い音が出せると思います。


名器を持って移動していて怖いことはないですか?

私がいつも怖いと思っているのは、まだそういう事は起きた事がないですけど、飛行機に乗っていてもし不時着でもして「皆さん、避難してください!荷物は持っちゃいけません!」なんて言われたらどうしうようかと思っているんです(笑)。ある時、飛行機会社の方にちょっと聞いてみたんですね。すると、「そういう時は、"私の命と同じです"と言えば誰も止められないでしょう」って。そういうことが一度もないことを望んでいますけどね(笑)。


演奏旅行の最中に、体調を維持する秘訣はあるんですか?

演奏活動を始めた頃というのは、演奏することに本当に神経を集中していましたから、例えば演奏旅行で時差があって現地に午後3時頃に着くとしますね。そうすると、まずはホテルで練習して、晩にご飯を食べて寝るという感じだったのですが、最近は食事に行って帰ったらすぐに寝てしまうというように体調重視のやり方で旅行するようにしています。体調が良いと良い演奏ができますけど、良くないといくら精神集中してもどうしようもないことが出てきますもので...


ヴァイオリニストの方というのは、構え自体が不自然な形なので、よくそういうことで体調の不調を訴える方が多いですが、渡辺さんは?

あまりないですね。ただヴァイオリンを構えることというのは確かに不自然な点がありますので、自分に合った構え方というのを心がけています。ところが、この自分に合った構え方というのが、なかなか見つけられるようで見つけられないと言いますか、しょっちゅう変えたりする部分があるんです。私自身、肩当てをつけてみたり、つけなかったりとか。今はつけないでやっていますけど。

一番良いのは、特注をして、自分の肩の高さと形に合ったものを作ることでしょう。肩当てをして一番いけないのは、ヴァイオリンが斜めになってしまうことですね。ヴァイオリンは、自然に平らになるのが音にとっては理想的な状態です。平らでないと、弓の重みが乗りません。

それから、固定されてしまうとハイ・ポジションが遠くなります。だから、シフトする時にヴァイオリンが滑ってしまうという恐れがなければ、ないのが一番いいんですけれども。


今後の活動への抱負はいかがですか?

レコーディングは、定期的なペースで続けて行きたいですね。それから、演奏会の方も、レパートリーをこれからどんどん増やして行こうと思っています。だいぶ珍しいこともやりましたけれども、これからもどんどんやっていって、音楽的な幅を広げて行きたいなと思っています。ヴァイオリンだけでなく、オペラを聴いたりいろんなことをやりながら、この10年くらいでね。

テクニック的なことよりも、ここをどういう風に表現したらいいか、ということに悩む方が最近は多いですね。自分の意識が、「いかにヴァイオリンを弾くか」ということから「いかに音楽するか」にシフトしてきたわけで、それはとても良い方向だと思っているんです。

この方向でもっと突き詰めて行って、往年の巨匠のような素晴らしい演奏が、五十歳、六十歳になった時にできるような演奏家になりたい、というのが私の理想なんです。それはとても大変なことだとは思いますが、あくまでも理想として求めて行きたいと思います。


私は特に奏法・流派というものは意識していません。それに、いつの頃からか、何々奏法っておっしゃる方は少なくなって来たように思います。

結局は、奏法というものは自分の体に合ったもので良いと思うんです。要は、自分の思った表現ができて、体に無理がない方法というのが一番理想でしょう。私は、結構理論的に物事を考えるのが好きな方なので、十代の半ばくらいにいろいろ悩んだ時期に、いろんな本、例えばガラミアンの書いた本ですとか、カール・フレッシュが書いた本ですとか、ヴァイオリンの奏法を分析した本がいろいろありますけれども、それらを片っ端から、端から端までくまなく読みまして、基本的にヴァイオリンを弾くというのはどういう事なのか、体をどういう風にコーディネイトすることなのかということを自分なりに分析したんです。

その上で、その基本線に合っていれば、自分に一番向いたやり方をすれば良いと思ったんですね。芸高(東京芸術大学付属音楽高校)を辞めた後に、そういうことを自分で分析しながら、自分でテクニック的な深く考えた時期が三年ほどあったんです。それが、自分にとっては良かったと思っています。「こうした方がいい」と言われたのではなくて、根本の根本に自分が立ち戻り、その中から選択して自分なりにテクニックを考えた、ということです。

スケール・システムでも、例えば現存するスケール・システムを使うだけではなくて、自分だけのスケール練習のシステムを考え出したりもしましたので、それが自分のテクニックにとっては良かったかなと思っています。

凄いですね、言わば奏法から作って行ったということですよね。

悩んだという部分がまず先にあって、そこで考えることになったんですよね。でも、十代の頃にやっておいて良かったと思いました。ヴァイオリンの持ち方以外のことは(ヴァイオリンの持ち方だけは、今でも時々悩むんですけれども)、原点に戻って考えれば、どういうやり方が正しいか自然に分かってくるわけです。それは教わるのではなく、自分で見出せるという自信が私にはあります。

そうやって積み上げてきたものを、メソード化することをお考えになったことはないですか?

もうこれは、私の場合は私自身だけのものだと思っていますので、メソード化するほど普遍的なものではないと思うんですけれども。

いすれにしても、分析するという行為自体は誰にでも必要なこと?

だと思いますね。自分自身で分かって、自分自身で求めて行かなければ行けないものだと思うんです、そういうテクニックというものは。ちょっとしたアドヴァイス、ヒントというのは大事ですけれども、ある一定のレベルに行った方は、後の成長は自分自身でやるしかない。


フックス氏が、渡辺さんご自身に対して「余計なことを取り払って勉強するようにすればいい」と言ったという話がありましたが、それは具体的にはどういう意味ですか?

余計なことというのは、音楽的な面についての話です。

例えば、よくイマジネーションという言葉を使いますね。イマジネーションが豊富ということは、音楽的にやりたいこと、言いたいことがたくさんあるという意味です。そのイマジネーションが私にたくさんあるのはいいけど、一つのフレーズの中に、そのイマジネーションを盛りだくさんにし過ぎるという意味だったんです。

ですから、イマジネーションに従っていろんなものを入れすぎないで、取り払う部分を考えるべきだ、ということなんです。

そのお話に納得したのですか?

特に現代曲やロマンティックな曲は、イマジネーションがたくさんあってもいいのですが、クラシカルなレパートリーというのはスタイルが重要になって来ますから、余計なイマジネーションを取り払うということは即ちスタイルを学ぶということだったと思います。ロマンティックな曲や現代曲というのは、ある意味で、もうそれこそイマジネーションの赴くままに弾いて良いわけですので、はじめから問題はないのですけれど。

作曲家の意思を再現するのか、あるいは演奏家自身を表現するのか、という議論がありますが、ご自身はどう考えていらっしゃいますか?

作曲家といっても、バッハの時代以前から現代までいるわけですね。その共通点は音符を使っているということで、それが文法みたいなものです。その音がどういう意味を持っているかということは、音符の並び方で見出すことができるわけです。その意味をどういう風に表現するかということは、演奏家の表現にかかっていると思うんです。

その場合、一つしか表現がないということはないと思うんですよ。そして、どういう表現の選択をするかということは、あくまで演奏家に任されていることだと思うんです。ですから、私が弾いたのと他の方が弾いたのと、もちろん違うように聴こえるわけです。

ただ重要なのは、その音符の持つ意味を間違いなくつかんでいるかどうか、ということだと思うんです。この音符の持っている意味を全く180度誤解して表現してしまったら、何のためにその音を弾くのかということになってしまいますからね。その根本の持っている意味さえ正しければ、表現の仕方にはいろんなバラエティがあっていいと思います。

作曲家の意図とは、何ら矛盾しないということですか?

ええ。ただ、その意味を分かるということが大事なことだと思うんですね。その意味を分かるための手段として残されているのは譜面しかありませんから、譜面をいかに正確に読めるか、音の背後にどういうフレージングがあるのかということを理解することが、音楽家にとって一番大切なことだと思うんです。それが分からなければ、いくらテクニックがあってヴァイオリンが弾けても、最終的には音楽の表現はできないと思います。

巨匠の演奏がなぜ素晴らしいか、なぜ心にぐっと来るものがあるのかと言うと、例えば年齢と共に体力が衰え、若い時のような素晴らしい音や輝かしい技はできなくなっているとしても、むしろそのような表面的な美しさだけに囚われることなく、一つ一つの音に込められた意味と言うものが、より明確に、クリアーに伝わってくるからだと思います。


このインタビューが掲載された弦楽専門誌「ストリング」は、私のようにリスニング・オンリーの人でも興味深い情報が満載されています。楽器店などでないと買えないみたいですが、ぜひ定期購読されることをお勧めします。

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