第3章春日庄次郎の少数意見
[解題]

共産党第6回全国協議会、ソ同盟共産党第20回大会を経て、共産党第7回大会が1958年に開かれた。この大会の中心問題は「51年綱領」にかわる新しい綱領を定めることであった。提案された文書は、事実上の綱領に当たる「党章(草案)」、その総綱部分の説明に当たる「綱領問題について」「規約」その他であった。
この大会に関しては、共産党の公式見解のほかに安東仁兵衛による詳細な記録が残されている(『戦後日本共産党私記』、現代の理論社、1976年)。大会に向けてさまざまな議論がたたかわされたが、中でも注目されたのは中央委員会内の少数意見、とりわけそのリーダー格であった春日庄次郎のそれである。代表的な論考として、「綱領上の問題点――私の少数意見」を取り上げる。
この春日意見が「日本の社会主義への道」、構造改革論の形成史においてどのように評価されたかは、山田宗睦『戦後思想史』、森田桐郎「統一戦線論の論理構造」からうかがい知ることができる。また、山田は春日意見の中に、清水幾太郎「日本の革命」との共通点を見出している。そのような意味で、山田、森田、清水の各論文のエッセンスも合わせて収録した。

1. 山田宗睦「日本の革命」



『戦後思想史』第6章から
三一書房、1959年5月

戦後思想史からみて、六全協後の党の問題は、ひとことでいうと、六全協以前の党の誤り・党経験を六全協後の党経験に重ね、正しい党の思考・組織路線をつかむかどうかにあった。戦後思想史において、国民的規模で日本の変革思想を生産する事業が、共産党の誤りで破産していただけに、この段階で、この誤りを克服するために、党思考の正常化が中心的課題であった。この観点からみれば、六全協後の党責任における中央の誤りは重大である。

57年9月、第7回大会に提出される『党章草案』が発表された。草案が全党的な討論にかけられ、そのための機関誌『団結と前進』が準備され、討論過程で中央の少数意見も公表されたこと、これらは党史上はじめての歓迎すべき改善であった。
だが、党章草案そのものは、「教科書のように、まんべんなくまとまっている」が、「どうもピンとこない」(水野進「統一戦線政府と平和移行の問題、『前衛』58年2月)ものであった。それは、党思考を反省して現実を鋭角につくことをせず、過去とおなじ「無謬」不毛の思考で、原則論的鈍角で構想したからである。

少数意見としてだされた春日庄次郎「綱領上の問題点」(『前衛』57年12月)は、「綱領を行動の指針としてかちとる」(水野)態度で問題を提起した。
まず、「当面する革命の性質が、人民民主主義革命か社会主義革命かを論ずるよりも、客観的には日本の社会の発展過程は社会主義的変革を不可避にしているということを明らかにしたうえで、統一戦線政府の樹立という綱領上の実践的課題に全力をあげてとりくむことの方がより有益で、この政府の樹立のための闘争と、この政府を成功的に樹立することができたならば、この政府の発展が、具体的にその後のわれわれの革命の展望をしめすであろう」



この正しい態度から、いくつもの注目すべき論点が提出された。
「従来、われわれの『革命』というものには、戦争か内乱が結びついており、さらに急激な政治的・経済的危機が結びついて」いる。「古い『革命』の考え方には、漸次的、合法的、民主的、したがって平和的な過程という」ものはなかった。現在、党内でふつうに「民族の完全独立は革命なしに達成されないという時、この『革命』というものはどんなものと考え」られているのか。春日は、清水[幾太郎]のいわゆる「革命の新しいイメージ」を実践的に提起しようとし、『党章草案』の「総綱」の革命観を検討する。

「総綱」とその説明(「綱領問題について」、のち7回大会の宮本顕冶「綱領問題についての報告」の前半となる中央委員会多数派意見)が、当面の革命の性質を、社会主義革命と規定せず、独立・民主主義・反独占の主として民主主義的任務をもった革命、と規定したのは、なぜか。民族解放民主革命あるいは人民民主主義革命を通じて社会主義革命へ、という二段階革命論が克服されていない。革命なしに民族独立はできない、民族独立は民主革命の課題である、民族独立は階級矛盾に優先する全人民的課題である、従属状態の打破は国内的矛盾の解決に論理的に先行する、――これら一連の諸命題が(現実の支配構造の分析・大衆闘争が具体的に提起している変革の内容といった)事実から革命の性質を規定するのをさまたげている。春日の批判を、宮本(に代表される多数意見)が思考方法の次元までほりさげてうけいれることを、わたしはのぞみたい。

「『綱領問題について』は、統一戦線政府の問題をついでにとりあげていて、綱領問題の中心にすえていない。これはいわゆる平和的移行の可能性の問題が、附随的に議論されているのと同様に、綱領上の今日の焦点をはずして」いる[と春日はいう]。
第1の問題。「統一戦線政府は、今日、憲法に保障された権利によって合法的に民主的に成立しうる可能な条件が、客観的に」も、また「広範な民主勢力の現存によって主体的にも」ある。統一戦線からの背離、平和―講和―中立―憲法といった問題意識の低さ、が戦後思想史的にみた日本共産党の思想的弱点であった。この点で、春日の提案には思想史的文脈がある。「成立した統一戦線政府それ自体が、革命への平和的移行の可能な条件をつよめ、国内と国際的な条件を現実化する主体的な保証となる」

第2の問題、平和的移行。「われわれはたんに、あれも可能、これも可能というのではなく、全運動を一定の方向に指導しなければな」らない。「ただ1つの現実的な可能な方法」として、全人民を結集した統一戦線政府が、「アメリカ帝国主義もこれを拒みえない政府的な適法闘争」でサンフランシスコ体制をうちやぶる。
この点をつかまずに、草案とその説明は、サンフランシスコ体制がアメリカの軍事支配によって保証されている点、日本が従属国である点を強調したため、この体制の打破には「革命」がどうしても必要だということになり、これと関連して、革命の手段については「相手の出方しだい」とされている。そこで「総綱」とその説明がえがく革命は、「51年綱領の民族解放民主革命の方式となおつながりがある」

ついで、春日は「党建設はなにから始めるべきか」(『前衛』58年1月)で「党の孤立「からぬけだす道をさぐる。
党外にいきいきした運動の高揚があるのに、党内には「真空管の故障」したようないきのわるさがある。集団指導・大衆路線・基本組織の自発性がたりない。個々の党員、細胞は、党が「大衆の創意・エネルギー・気分をくみとる感覚器・毛細管」であり、「頭脳は綜合的に判断する機能」をもつが、「頭脳だけでは生きてい」けない。党中央は、「古い命題や古いスタイルにとらわれていて、現実の動きのなかで変化しているものを新しく評価しなおし、いったんたてた方針もこれを現実のなかでたえず検証しなおす態度がかけてい」て、「動脈硬化症状」だ。
中央委員が党の動脈硬化をみとめたのははじめてであろう。
春日は、党中央が率直に誤りをみとめ、それに責任をもち、そのことで中央と細胞とのつながりを回復し、動脈硬化を解消しようとする。[中略]

第7回大会での宮本の50年問題への反省は、たとえば分裂を克服する努力に不十分だという性質のものであり、春日がこの論文「なにから始めるべきか」でのべた自己批判とは質がちがうとおもう。
宮本の見解には「無謬性」の色彩があると同時に、春日が批判したような、古い党の思考様式が残存している。
第7回大会が全体として、この思考様式を克服できなかったことの、戦後思想史的にはネガチブな意味を確認しておきたい。7回大会は50年問題については、代議員の反応度・意見の一致は高く、綱領問題では党章賛成が過半数であった。思考様式の変化は、ことがらのしまいにおこる。直接に体験した50年問題のばあいとことなり、綱領という抽象の次元では、春日がいう一連の古い「諸命題」、敗戦後から戦後十数年にわたって流布された命題が代議員の思考を制約した。いわば『党章草案』『綱領についての報告』の古い思考様式と同質の思考が働いているかぎり、これらの誤りをつくことはできなかったのである。

さて、戦後思想史をたどって、日本における国民的規模での思想生産、そのための労働者階級と知識人との思想的同盟、共産党と非共産系進歩派との協力、といった構想から、日本の革命の針路について1つの政治的結論をだすなら、日本の革命は、憲法の擁護と拡大のもとで統一戦線政府を実現し、この政府に結集した人民の力の適法の闘争によって、平和と独立を維持しつつ、社会主義革命へすすむものである。


2. 春日庄次郎「綱領上の問題点――私の少数意見



「前衛」57年12月号から


(一)

[前略]さて、今度の第7回大会で最も重要な問題は綱領上の問題、いわゆる政治総路線の問題であります。
昨年の2月、ソ同盟共産党第20回大会で大胆に提起された第2次世界大戦後の世界情勢の根本的な変化と社会主義、民主主義、平和運動の新しい発展の可能性の問題級さらにスターリン晩年の政治上、理論上、組織上のあやまりの検討は、その後におこったハンガリー事件などの教訓とともに、国際共産主義運動の内部で活発な討議をよびおこし、新しい情勢に適応した労働者階級の社会主義をめざす闘争の方法と形態、労働者階級と零落する広範な社会層との協働、統一の形態、また新しい情勢に適応した共産党の活動とスタイル、組織建設が真剣な創造的努力によって打出されて行きつつあります。
われわれは、今度の大会で、この新しい動向をしっかりとふまえて、日本の現実の情勢に適した社会主義への道をみきわめ、この道をきりひらいて行く労働者階級と全人民大衆の具体的な闘争方針をさだめ、これを指導する政治的、組織的力量をもった前衛党の建設の任務を、全党員の力を結集して創造的に打出さなければなりません。[中略]

そこで、大会の主要な問題は、この新しい課題、つまり綱領上の問題、当面の基本的闘争方向、この任務に適応した党作りの問題、――つまり「党章」の問題に集中されるでしょう。[中略]

さる9月24、25の両日にわたる第14回拡大中央委員会で「党章(草案)」とその「総綱」部分の説明にあたる「綱領問題について」が審議されましたが、その際、この草案を大会に提案する中央委員会案として全党討議にかけることについては全会一致しました。だが、その内容については「少数意見」が保留されました。この「少数意見」については大会ではもちろん、大会までの過程で機関紙誌上、また必要な党会議で発表し、討論の機会が与えられることは中央委員会で当然みとめられました。
私はこの、「少数意見」の一人であります。
中央委員の一人が中央委員会の大会提案に対して「少数意見」を保留し、そしてこれをわが機関紙上に発表することができ、しかも中央委員会内において差別されるということはなく、日々強く団結して中央委員会として一致して活動してゆけるということは、六全協以前とちがって、すばらしいことであります。
今日では意見の相違ということは中央委員会の団結を何らさまたげないほどに党は強くなって来ました。今日では中央委員会の内部でも、その他の党組織の内部でも意見の相違のあることは当然のことで、むしろこの意見の相違、相互批判こそが党をいきいきとさせるものであり、これを正しく処理する方法に習熟して行くことが集団指導の一つの重要な問題であるということが理解されてきています。[中略]
こういう意味で私も、重要な点において同意することが出来ない「党章(草案)」に自己の意見を保留したのであります。
全党員諸君とともに大会をめざすこの討論に参加し、大会の重要な課題の解決に役立てたいとおもいます。

(二)

私が提起していた異論の焦点は、結局においては当面する日本の革命の性質に帰着するのですが、その前提となり、関連する諸問題においても見方、考え方の相違のあることはいうまでもありません。
一番肝心なことは、「平和、独立、民主、生活の向上」ということで大きくまとめられている労働者階級を中心とする広範な社会層が、今日解決を迫っている諸要求をどうして一歩一歩かちとって行くかということです。草案とその説明ではこのために民族民主統一戦線の結集とこれを土台とした革命的政権、人民民主主義的政権の樹立が必要であるとしていますが、大事なことはこれらの要求は労働者階級と人民大衆のどのような闘争を通じて、どのように達成されてゆき、どのようなみちすじで革命となり、革命的政権にまで発展するのか、したがって、またこの革命はどのような性質をもつものとなるかを一貫して追求することであります。
私の考え方のあらましは次の通りです。

日本の独占資本は今日、日本の反動支配層の中で支配的な中心勢力であり、それは日本の国家権力をにぎっています。日本は第2次大戦で敗北し、アメリカ帝国主義の単独占領の時代を経て今日もなお、いわゆるサンフランシスコ体制のもとで国家主権は多くの制約をうけ、軍事、政治、経済の各方面にわたってアメリカに従属していますが、そういう状態のもとで、この従属を自らの利益と結びつけて支持し、アメリカの対日政策のささえとなっているものは日本の独占資本であります。日本の独占資本は直接占領の時代からアメリカ帝国主義の忠実な同盟者となることによって援護をうけ、労働者階級のみならず、ますます広範な社会階層を搾取し収奪し、零落させ、自己の政治、経済力をつよめ、アメリカの戦争政策を支持し、日本の人民大衆を戦争の不安においこみつつあります。こうして日本の社会発展と進歩とへの道、階級闘争の発展のみちは、その内容において社会主義的変革を意味する社会、政治、経済上の根本的な改革と同時にこれに不可分に結びついたアメリカへの従属から日本を解放し、民族の完全独立をたたかいとるという課題を日程にのぼして来ています。国内の社会的変革と民族の独立という課題がからみあって、統一しています。
このことは日本社会の最も先進的で、組織的実行力のある労働者階級に、一面ではその社会主義への闘争を困難にしていますが、他面では有利にしています。というのは日本の独占資本は強大なアメリカ帝国主義のあらゆる援護をうけているからであります。が、同時に、この独占資本がますます広範な大衆を収奪し零落させているのみならず、日本のアメリカ帝国主義への従属のささえの軸となっているからであります。こうして国内の社会変革の問題は民族の独立の課題と結合していることによって、労働者階級の社会主義へ向っての闘争は日本人民の大多数の支持を確保し、全人民的な課題となる有利な条件があります。

平和、独立、民主主義の徹底、人民全体の生活を向上させる全人民的課題は、日本の社会経済構造からして、アメリカ帝国主義が日本を支配している構造からして、論理的にも、実践的にも闘争の一定の発展段階において日本の独占資本の政治的、経済的支配に対する全人民的な闘争に集中せざるを得ないでしょう。今日、平和と独立、民主と生活向上をめざす日本の社会主義、民主主義、平和勢力の発展は、この闘争の中で労働者階級を中心とした広範な人民大衆を団結させ、この団結は独占資本の利益を代表する政府のかわりに人民の利益を代表する政府を樹立することをめざした政治的な統一戦線の結集となってくるでしょう。
われわれはこの統一戦線政府の樹立、あるいは革新連合政府の実現をめざして、この過程を意識的に発展させなければなりません。[中略]

(三)

 「綱領問題について」は統一戦線政府の問題をついでにとりあげていて、綱領問題の中心にすえていない。これはいわゆる平和移行の可能性の問題が附随的に議論されているのと同様に綱領上の今日の焦点をはずしてしまっています。
これは当面の革命の性格規定とも重要な関係があります。

統一戦線政府、もしくは革新連合政府、共産党、社会党、労働組合、農民団体、その他の民主的、平和団体に代表されるすべての社会主義と民主主義、平和勢力が団結した統一戦線政府は、今日、憲法に保障された権利によって合法的に民主的に成立しうる可能性が客観的にあるのみならず、次第に国会の議席を拡大してゆく広範な民主勢力の現存によって主体的にも備わって来ています。
私はこの合法的に、民主的に成立した統一戦線政府それ自体が、革命の平和的移行の可能な客観的条件をつよめ、国内と国際的条件を現実化する主体的保証となると考えます。

平和的移行の可能性の問題についてはいろいろ議論されていますが、そうして、この可能性を示す国際的ないろいろの有利な条件があげられていますが、しかし具体的にこれらの内外の有利な条件がどのようにして結実するのか、これがハッキリしていません。われわれは単にあれも可能、これも可能というのではなく、全運動を一定の方向に指導しなければなりません。
私はサンフランシスコ体制打破、民族の独立は、議会の多数をもとに合法的民主的に樹立される統一戦線政府の実現によって、全人民の力を結集した、アメリカ帝国主義もこれを拒み得ない政府的な、適法な闘争によって達成することができるし、このような方法、過程をへることなしには成功することはできないと考えます。
今日の情勢のもとにおいて、これが唯一つ現実的な可能な方法であります。[中略]
統一戦線政府の樹立がサンフランシスコ体制を打破していく唯一の可能な道であり、こうしてアメリカ帝国主義の力が排除されてゆけば、労働者階級は全人民とともに、大衆の生活が実際に必要とする諸改革を一つ一つ解決して行く、実際的に建設的な闘争を通じて全人民、全国民の幸福と繁栄、進歩のために各種の社会主義的変革を実践的課題にのぼしてゆくことができるでしょう。
こうして大なり小なり、ながい、漸次的な過程を経て、統一戦線政府は社会主義的政府に発展転化するであろうことが展望されます。[中略]

ここでどうしても考えてみなければならぬことは「革命」ということです。というのは、従来、われわれの「革命」というものには戦争か内乱が結びついており、さらに急激な政治的、経済的危機が結びついています。古い「革命」の考え方には漸次的、合法的、民主的、したがって平和的な過程というものはありません。では、サンフランシスコ体制の打破、民族の完全独立は革命なしには達成されない、という時、この「革命」というものをどんなものと考えているのでしょうか。
われわれはマルクス・レーニン主義の根本思想からはずれることなく、当面する日本の革命過程を創造的にとらえてみなければなりません。この問題のカギは、私は統一戦線政府の成立が、今日、客観的には社会主義的変革を不可避としている日本の社会発展の過程において、社会諸勢力の力関係に、また、社会主義的変革への闘争の発展する内外の諸条件にどんな変化をもたらすかということを追求してみることにあるとおもいます。
私は、実際は、当面する革命の性質は人民民主主義革命か社会主義革命かということを論じるよりも、客観的には日本の発展過程は社会主義的変革を不可避にしているということを明らかにしたうえで、統一戦線政府の樹立という綱領上の実践的課題に全力をあげてとりくむことの方がより有益であり、この政府の樹立のための闘争と、この政府の任務を追求し、この政府を成功的に樹立することが出来たならば、この政府の発展が具体的にその後のわれわれの革命の展望をしめすであろうとおもいます。[中略]

ついでながら、綱領上の問題討議にあたって、われわれはもっと大胆に新しい条件を検討してみる必要があるとおもいます。
私は平和革命必然論ではありません。しかし合法的、民主的、したがって平和的な移行の形態をもとめ、客観的に存在する可能性を全力をあげて現実化する努力、その道を選択する綱領上の態度、あらゆる点を枚挙した見取り図ではなく、変革の実践的課題を選択してゆくことが必要だとおもいます。そうでないと、綱領討議は果てしもなく概念や規定や命題論議におわらざるをえないでしょう。
(1957年10月24日)


3. 清水幾太郎「日本の革命」について




清水幾太郎「日本の革命」は、岩波講座『現代思想』第11巻、「現代日本の思想」(1957年)に発表され、のちに『現代思想入門』(岩波書店、1959年)に収録された。
山田宗睦『戦後思想史』はまず、これが戦後思想史の基本的土台、敗戦体験と戦後体験とをふまえた革命の構想であること、具体的には、「敗戦」と「日本国憲法」という経験を土台において日本の革命を構想していることを高く評価する。論文の冒頭で清水は言う。

革命という言葉を広く解釈するならば、即ち、権力の決定的移転の以前に、これを用意し、それが完了した後は、これを安定させるような、長期に亘る大きな変化の過程のことであるならば、それは既に始まっていると言わねばならないと思う。それは、広い且つ豊かな意味における民衆の成長の謂である。

広い意味の革命は、敗戦の日に、この日に至る重たい過去の諸問題を抱えた形で始まった。この日に始まった革命は、今日に及び、そして明日へと流れ流れ込んでいく。ひとりびとりの日本人は、この期間を通じて、本人が意識すると意識しないとは無関係に、革命の過程のうちで行動してきたのである。

私が敗戦の日に始まる広い意味での革命を重く考えるのは、敗戦及び憲法という2つの事柄に対して誠実な態度を執りたいと考えるからである。

敗戦がなかったら、この権力機構は容易に崩壊しなかったであろうということである。[略]ということは、敗戦という条件を抜きにして、権力機構を破壊するほどの力が民衆の間に蓄えられていたとは考えられぬということである。それゆえに、敗戦によって権力機構が崩壊しても、それが直ぐ完全な革命へ発展することは不可能であった。民衆の間には、革命より先に、直接の安堵感と結びついた深い困惑があったと言った方がよい。そこから出発して、われわれは、或る時はノロノロと、或る時は荒々しく、広い意味で革命と呼んでよいような過程に流れ込んで行ったのである。そして、この過程を革命と呼んでよい1つの理由は、この過程の中で新しい憲法が生まれたことにある。

敗戦によって生まれた日本国憲法について、清水は「今更強調する必要はないだろう」としながらも、「その徹底した平和主義において、また基本的人権の尊重において、単に旧憲法との間に著しい相違を示すのみでなく、世界の諸国の憲法の間にあって優れた地位を有している」と確認している。
そこで、問題は「日本の革命を云々する場合、この憲法の問題をどう取り扱ったらよいか」というところにある。この点で、清水の「革命の構想」は春日庄次郎の認識と深く繋がっている。

私の考えでは、この憲法を徹底的に守り抜くという態度を持つのでなければ、日本の革命について語るのは無責任であると思う。憲法の擁護は、日本の革命の絶対の前提であると思う。

憲法は社会主義の憲法ではないという性格を有している。だが、憲法そのものの精神に従って、これをギリギリの限界まで生かし抜くならば、当然、われわれは、社会主義に最も近い地点まで進み出ることが出来る。何事も具体的条件を無視して考えることは許されないが、しかし、憲法がわれわれを導いて行く最後の地点は、われわれが重大な障碍なしに社会主義へ進み得るような、そういう地点である。[略]
 日本の革命は、日本国憲法とは別の方向にあるのでもなく、それと離れてあるのでもない。革命は、憲法を通してある。それは、憲法の誠実な擁護と貫徹とのうちにのみ発展することが出来る。われわれが戦後の日本に広い意味の革命を認める1つの理由は、そこに憲法の成立があるからであり、これを守り抜こうとする日本人の大群があるからである。

この大群を抜きにして、革命を願い且つ支える民衆を何処に求めようというのであろうか。革命とは、この民衆が成長することであり、成長に伴って現実の意味が根本的に成長することである。日本の場合は、差当り、民衆の成長によって、既に存在する憲法が更めて安定した地盤の上に置かれ、それに違反する既成事実が排除され、憲法がその精神の方向へ生かされることである。

 このような日本の現状認識と革命の構想をもつ清水にとって、もうひとつ検討しなければならない課題があった。それは「革命」というものについての「古いイメージ」を打破して、「新しいイメージ」を創造する必要があるということである。この点でも、清水の構想は春日の提言と大きく重なり合う。

日本の革命を壮烈なものとして考えるのは極めて困難であるように思う。民衆の大部隊が武装して、権力を敵とする果敢な戦闘を行い、その結果、権力が音を立てて崩壊するという風に考えるのは大変に難しいように思う。どの一国の政治的変動も世界的規模の権力或いは勢力のネットワークの中の出来事であってみれば、とりわけ、日本のように微妙な位置にあれば、或る特別の条件がない限り、右のような革命は、最初の出発点に立つ瞬間から、東西二つの勢力による、思い思いの干渉を免れることは出来ないであろう。戦争から内乱へという有名な言葉とは逆に、或る限度を越えた内的紛争が大規模な国際戦争へと転化する可能性は著しく大きいと言わなければならない。

歴史の流れの中で、戦争の意味が変じ、同時に、平和の意味が変じている。われわれは、比較的気軽に戦争というものを考えることの出来た時代の習慣の中で革命ということを考えていないであろうか。われわれの革命のイメージの方はまだ美しい古いものであるように思われる。戦争の新しいイメージが要求する革命の新しいイメージが未だ生み出されていないのである。日本の革命は、戦争や敗戦と切り離された限りの、戦争を避けるために要求される限りの革命でなければならない。

戦争のイメージが新しくならねばならぬ時代は、革命のイメージが新しくならねばならぬ時代であり、そして、組織のイメージが新しくならねばならぬ時代である。

「この清水の展望は、問題を提出したものである。これをとくには、個人や思想集団や、政党の手にもあまる性質の問題である。だが問題が国民的規模で提出されているかぎり、それはとかれるであろう。敗戦と憲法という戦後体験をふまえた日本の革命コースの構想は、すでに国民的規模での問題提起となっている」(山田宗睦)


4. 森田桐郎「統一戦線論の論理構造」




革命の「形態」と統一戦線論

わが国の統一戦線論、とくにその民族統一戦線としての設定が模範としてきた、中国における統一戦線論の真に生命力ある真髄はどこにあるのであろうか。それは戦略的な統一戦線が、つねに運動の各段階における戦術的展開、戦術的焦点の設定、大衆闘争の展開に具体化され、いわばつねに運動形態、現象形態をもつたものとして存在したということである。毛沢東の創造的な偉大さは、普通いわれるように、反帝反封建の新民主主義革命という中国革命の性質をあきらかにしたという点にだけあるのではない。それはむしろ、このようなものとして革命の性質=本質規定をあきらかにしたばかりでなく、この革命の形態――中国における社会的矛盾が、したずって革命運動の力がそのもとで培われ発展してゆく形態を見出し定式化したところにある。

毛沢東は、初期の論文「中国の赤色政権はどうして存在することができるか」以来、中国の経済的・政治的・社会的条件及び人民大衆とくに農民の主観的条件の詳細な分析にもとづいて、このような条件のもとでプロレタリア独裁という普遍的原則が実現される「表現」(毛沢東「戦争と戦略の問題」、三一書房版選集第4巻)を明らかにした。それは、毛沢東その他の文献で「路線」あるいは「特徴」ともいわれたものであり、たとえば次のように定式化されている。――「革命の不均等性、及びそこからくる革命の長期性、闘争の複雑性、一定の時期における武装闘争と農村における革命の根拠地の重要性」(劉少奇「党について」、国民文庫版『整風文献』)

中国における戦略的な統一戦線の設定は、ただ単に帝国主義と買弁反動対人民大衆といった静的な図式化された矛盾の分析からみちびかれたものではなく、戦略が実現されていく形態、矛盾の運動形態、革命の形態をも含みこむようなものとしての戦略からみちびかれたものであった。戦略がみずからの形態をもつものとして明らかにされてはじめて、革命は過程となることができ、戦略は形態を媒介として戦術にみずからを具体化することができる。すなわち、戦略的な統一戦線は、運動過程のなかの戦術として、あるいは具体的大衆運動に対する指導政策としてみずからを展開することができるのである。ここにこそ中国の統一戦線論の生命力があったといわなければならない。

中国の共産主義者にとって「一分でもわすれてはならない」(劉少奇、前掲論文)とまでいわれた、この革命の形態ということについては、藤本進冶氏も指摘してきたように(『認識論』第8章、青木書店)、わが国ではかつて形態という問題が意識的に提起されたことはなかったし、むしろこのような問題を提起するに必要な思考方法が著しく欠けていたといわざるをえないのである。

わが国の前衛党は、戦後15年のあいだに、主要な3つの綱領的文書をもっている。すなわち、(1)野坂理論といわれている解放軍規定と平和革命論、(2)1951年のいわゆる「新綱領」、(3)1957年に発表されて現在論争中の「党章草案」である。

[以下、3つの綱領的文書についての検討が続く]

だが、このような理論と現実の乖離は、必ず実践の挫折として明白にならざるをえない。そのようにして事物の論理に強制されて自己批判をおこなうとき、その批判の仕方はどのようなものであったであろうか。
いわゆる野坂理論は単純に否定された。その解放軍規定と平和革命論は、帝国主義美化の理論ときめつけられて一蹴された。いうまでもなく、解放軍規定はあやまっており、その他に多くの欠点もあったであろう。しかし、アメリカ占領軍は帝国主義軍隊であるから解放者ではありえない、それは侵略的抑圧者であると批判したところで、認識は何ら豊かにはならない。そこから出てくる自己批判は、せいぜい「帝国主義は他民族の解放者ではありえない」というマルクス主義の初歩的原則さえ忘れていたという理論水準の低さのざんげでしかないであろう。

問題はなぜ解放軍という幻想が生まれたか、初歩的原則さえ忘れさせる程の現象はどこから生じたのか、というその条件と根拠を問うことである。現象あるいは仮象は、根拠のない虚構ではない。解放軍のごとき仮象を生み、解放軍規定という幻想を生んだ条件と根拠を充分に分析することが問題であった。あるいは誤りのうちにも現実のある側面、あるいは特徴を反映している契機を見抜くことであった。
もしかりに、そのような分析がおこなわれたならば、野坂理論の批判は、ただたんに占領軍は侵略者であるという公理の確認にとどまらずに、次のような日本の革命運動にとってきわめて重要な諸条件を明らかにすることができたであろう。

すなわち、たとえば、第二次大戦の性格、ポツダム宣言の革命運動にとっての意義、戦後の民主的諸改革の積極的意義、占領支配の形態の特殊性、占領の存在にもかかわらず重要な意義をもちうる憲法と議会を中心とする民主的獲得物の評価、等々。そして野坂理論が部分的に反映していた人民戦線戦術の経験と戦後の新しい情勢の特徴というモメントを生かすことができたであろうし、さらに、日本の大衆運動の民主主義的形態の確認と、いわゆる独立の課題についても政治的民主主義の体系を運用して統一戦線政府を樹立し公正講和によって独立を達成する路線の可能性の追求も問題となったであろう。

このような日本の革命運動の諸条件が明らかにされたならば、それは先に述べた「形態」という問題を解明してゆく重要な手がかりになったであろう。革命理論の真の有効性は、ただ単に権力規定と革命の性格規定を正しくおこなうということによってもっぱら保証されるものではない。それは、運動の諸条件を明らかにし、そのもとで運動=階級闘争が展開しみずからを実現していく形態あるいは路線を解明し、それを運動に自覚させることによってもたらされるのである。その意味で「革命の根本問題は権力の問題である」という命題を教条的にうけとり、もっぱら権力規定をめぐる論争に終始する革命論は生産的ではない。

以上のべてきたことは、主として革命の形態あるいは路線ということの重要性についてであった。だが、この形態あるいは路線についての関心がないところでは、統一戦線は何としても具体的な戦術展開をもつことができない。わが国において、民族解放民主統一戦線(51年綱領)といわれ、また民族民主統一戦線(党章草案)といわれるものは、米日反動対国民という静的な図式化された矛盾からひきだされた、力の静的な抽象的な配置図である。そしてこのようなものとしての「統一戦線」が生のまま直接に実践の課題として提起される。すなわち、具体的な大衆運動として展開しているものの中から、それが成長してゆく方向と形態を見出し、それぞれの段階で運動を集中する焦点=政治目標を設定してゆくという発想ではなくて、前衛の綱領で設定されている力の静的な配置図としての「統一戦線」をつくる、というふうに問題がたてられたのである。したがって、前衛党の統一戦線論は、現実の運動に対する政治的指導性として作用するよりは、むしろ運動にとって外的な観念的な図式にとどまらざるをえない。ここでは、民族民主統一戦線なり、民族解放統一戦線なりという設定そのものの正否については論じない。いずれにせよ、戦略的なものとして綱領において設定された統一戦線が、運動の各段階で、何らの媒介なしに、直接的に、もちだされ実践の課題とされる、そういう統一戦線論の構造が問題なのである。

こうした特徴は、いわば「最大限綱領主義的な発想」(比喩的な意味において)とでもよびうるものである。それは、革命論、戦略論みずからが革命の形態・路線、階級闘争の発展形態、現実の大衆運動の運動形態についての関心を含まないところから、革命論・戦略論が戦術に具体化されない結果であり、いいかえれば戦術の観念の希薄さとも一つのことである。

このような形態に対する無関心と戦術の観念の欠落――それはむしろ統一戦線以前の問題であるが、この思考様式のうえに統一戦線論が組みたてられるとき、まさに統一戦線論を不毛なものとせざるをえない――という特徴は、政治的党派の創立期、毛沢東の言葉を借りれば幼年期に、おそらく不可避なものである。前衛党の創立期、幼年期において中心的課題であったものは、まず少数の先駆者を中心として、労働者階級の最も先進的な前衛分子を党に獲得して党の骨格をつくりだすこと、綱領とマルクス主義のもとに前衛を結集することであり、そのために革命の基本スローガンを直接的に、生のまま、それ自体として前面におしだすことであった。そこではまさに旗色鮮明さそれ自体が至上の意義をもっていた。そして、とりわけ社会民主主義的潮流からの分離として共産主義的政党が結成されていった場合、社会民主主義とのイデオロギー的・綱領的訣別が立党の土台となったのは当然であった。

だが、このような幼年期から大衆的政党へ成長脱皮してゆくためには、イデオロギーや綱領の宣伝だけでは充分ではない。そこでは、大衆の直面する死活の課題をとりあげて大規模な大衆闘争を組織しその中でイニシャチブを発揮することに成功しなければならない。必要なことは「大衆自身の政治的経験」(レーニン『共産主義における左翼小児病』)である。そしてこの課題は、歴史的には、第二次大戦に向かう過程で戦争とファシズムに対する統一戦線の路線をいかに正しく設定し展開するか、ということにかかわったのである。わが国の場合、この反ファッシズム統一戦線の経験が欠落していることは、幾重にも不幸な結果をもたらしており、しかもこのような角度から戦前の前衛党の活動の総括が充分に行われているとはいいがたいのである。(原注)

(原注) 日本の共産党の幹部で、このような問題意識をもって発言しているのは、山田宗睦氏も『現代哲学の設計』で指摘しているように、春日庄次郎「3・15事件30周年」(『アカハタ』58・3・17)だけのようである。
なお、党章草案をめぐる論争で、日本の大衆運動の発展法則、発展形態について最も感度の高い意見を出している春日庄次郎氏が、文中でのべた統一戦線論について1950年の論争でも注目すべき意見を提起していることを指摘しておきたい。
すなわち、徳田球一氏の書いたテーゼ草案は「民主民族戦線」を提起しつつも、当面の環は「闘いは人民の信頼のもとに」であるとしたのに対して、宮本顕冶氏は「民族民主戦線」を当面の環として把握すべきだという反対意見を出し、春日庄次郎氏は、民族民主戦線の発展のためには具体的に労働戦線の統一をすすめること、労働者の大衆的基本組織としての労働組合に主要な力をむけなければならないことを指摘し、とくに政治闘争としては「民主民族戦線発展の当面の環をなしているものは平和擁護闘争である」という意見を提起している。この宮本顕冶氏と春日庄次郎氏のちがいは重要である。

    * 筆者が出典から引用した注のいくつかを省略した。


追記

1 春日庄次郎は1928年の3・15事件で逮捕され、37年に非転向のまま満期釈放されたあと、同年に「日本共産主義者団」を組織、「嵐をついて」「民衆の声」を発刊して反戦闘争を継続した。
1968〜69年の学園闘争の時代に、全都社会主義学生戦線(フロント)の各大学支部の学生たちは、この「嵐をついて」を自らの機関誌名とした。手元に残されている資料で確認できるのは、東大教養支部、東京教育大支部、それに全都社会主義学生戦線(1969年3月創刊号)である。

2 森田桐郎「統一戦線の論理構造」は、1966年に『構造改革』第24号に復刻され、統一社会主義同盟および社会主義学生戦線の学生たちの学習文献として活用された。同誌には森田のほか、佐藤昇「社会主義権力の矛盾」(第1次『現代の理論』創刊号、58年5月)、長洲一二「民主主義と社会主義」(講座『現代マルクス主義』第1巻、1958年)も合わせて収録されている。
なお、『構造改革』は統一社会主義同盟の機関誌で、1962年5月に創刊され、63年12月の第23号まで続いた。63年末に、他方で第2次『現代の理論』が復刊・創刊されるにともない、同盟は『構造改革』を廃刊にし、新しく機関紙『平和と社会主義』を発刊することにした。したがって、『構造改革』第24号は、学習文献として使いやすい体裁にするための一回かぎりの復活であった。

                             (この章終わり)