「作品」で読む関東大震災
(2)千田是也=築地小劇場と芸名の由来
安藤 紀典
 築地小劇場の誕生

 震災の翌年、1924(大正13)年の東京について、劇作家の秋田雨雀(1883〜1962)は自伝の中で次のように描いている。
 「関東大震火災は、大きな傷あとを日本の社会に残したまま、一歩一歩記憶の世界へ過ぎ去って行った。しかし、いつでも耳を澄ますと、どこかで人々の泣き叫ぶような声がしていた。人々は、ちょっとした物音にも強い衝動を感じた。一旦京阪やその他の地方へ逃げのびた人々も、そろそろ東京へ帰ってきた。復興! 復興! という声は機械的に響いている。内包した矛盾をそのままにして、日本の社会は復興事業に急いでいる」
 そして、「大きな社会激動の直後に来る芸術が、詩および演劇であることは、ロシヤ革命の場合によっても証拠だてられているが、震災直後に起こった芸術は、日本では演劇の復興であった」。その中心に位置したのは「築地小劇場」であった。
 自由劇場以来の新劇運動のほか、歌舞伎や映画製作にも携わっていた小山内薫(1881〜1929)は、震災の前年にそれらの仕事を辞め、演劇界から遠ざかっていた。震災後は大阪に移って、さらに遠ざかった。だが、「芝居は僕の命です。芝居を離れている今日は堪らない寂しさを"泌々","ひつひつ"と味わっています」というのが本音。そこに土方与志がやって来た。
 土方与志(1898〜1959)は伯爵家に生まれ、祖父の死後まもなくこれを継承した。東京帝大を中退して、1920年より小山内薫に師事し、演出助手、舞台装置、照明等の実際に従事していた。22年11月、演出および俳優養成の研究を目的に10年間遊学する計画で欧州に出発した。ところが関東大震災の報に接して、急遽シベリア鉄道により12月に帰国、さっそく小山内を訪ねたのである。
 小山内の回想によると、「土方はこれから、どうしようと言いました。私は土方の留守の内に私の経て来た心の動きを話しました。そして先ず東京へ行って、今の東京を見て来いと言いました。暫くすると突然土方が又大阪の私の処へやってきました。そして吾々の劇場を建てようと思うがどうだと言うのです。今ならバラック劇場の建設が許される。そしてここ五年間はそれを吾々の舞台とする事が出来る。本建築で吾々の劇場を持つと言うことはいつ出来るか分からない。バラックなら吾々の劇場が持てる」
 土方はシベリア鉄道の中で、新しい劇場をつくる構想を練っていたそうだが、復興のため一時的に建築規制が緩められ、500人以下の劇場が建てられることを知り、幸い自分の家は災害をまぬがれたので、その私財を失ったものと仮定し、それに欧州遊学費用の残り8年分を加えて「小劇場」を建てようと考え、小山内に協力を求めたのだった。「吾々の劇場――自分達の研究劇場、それが持てるという事は、私にとって可なり強い誘惑でした。私は何も考えずに唯それだけの誘惑に引っ張られて行きました。『よし! やろう』私は直ぐに賛成しました。それが正月の三日でした」

 土方与志の全財産で「吾々の劇場」実現

 こうして劇場建築の相談がまとまり、2人はその準備にとりかかった。まず同志を募り、最終的に小山内、土方、和田精、汐見洋、友田恭助、浅利鶴雄の6人が同人になった。また同人以外の関係者として劇場員、研究生、雇員の三部が制定された。劇場員は同人から加勢を頼まれた相当経験のある人、研究生は自ら志願して参加した人、雇員は舞台の工匠、接客係、小使などであった。
 一方、劇場の敷地については方々探した結果、京橋区[現在の中央区]築地2丁目25番地に決定し、4月26日に建築が開始された。劇場建設とその後の劇団経営のために土方は全財産を注ぎ込んだ。その総額は30数万円(現在の貨幣価値で約7億円と推計)と言われる。
 築地小劇場(以下「築地」と略す)の歴史を整理した最初の著作は、水品春樹『築地小劇場史』(1931年)である。水品(1895〜1988)は「築地」で、今でいう演出家とはまた別な、舞台監督という職能を日本ではじめて確立した人である。以下、「築地」に関する記述のうち史実についてはこの著作を基にする。
 劇団は演出、演技、舞台装置、大道具、小道具、効果、照明、衣装、文芸、経営、宣伝の11の部から構成されていた。演出部―小山内薫、土方与志。演技部―友田恭助、河原侃二、東屋三郎、青山杉作、汐見洋。(研究生)千田是也、山本安英、田村秋子、丸山定夫、竹内良一、藤輪和正、小野宮吉。(客演)夏川静江、小堀誠など。その後、演劇・映画で戦後にまで及ぶ活躍をした名優の名がずらりと並んでいる。
 「当時の築地の、劇場経営及び劇団運行のプランはどんな風にたてられたかといえば、凡て研究的に、そして凡ての意味において非商業的に、客席の無差別、観劇料の低減、会員制興行、時間の短縮等を第一に実行し、劇場であると同時一つの演劇学校であることに心がけ、俳優は勿論、演出者、装置者、照明者等を養成かつ教育しながら、一ヶ月に二つずつの研究を発表するという方針であった」
 「築地」の舞台装置は独特のものであった。劇場が発行するパンフレット「築地小劇場」の創刊号に載った、和田精「築地小劇場の装置」によると、直径40尺、深さ24尺、高さ40尺の鉄筋コンクリートのクッペルホリゾント[舞台後方にある壁のこと]が先ず置かれる。それに取り囲まれた舞台は、四つのセクションによって、前後任意の位置において6尺までの深さに下げことができる。観客席の前部数列の座席を撤去すれば、平らな前舞台がつくられる。
 「これらの設備は、吾々が演出する多形式の演劇に対して充分のフレキシビリティを示すものであって、殊にクッペルホリゾントは最も精緻な写実の舞台に対して、適当な光線の使用によって、深味のある光のある、無限の大空という素晴らしい幻影を起さしめる。尚雲の動きや星の輝きなども任意に著わし得る」

 遂に開場の日迎えるドラと葡萄と労働帽

 1924(大正13)年6月13日、築地小劇場は遂に開場した。第一回公演の出し物は、ラインハルト・ゲーリンク『海戦』、アントン・チエェホフ『白鳥の歌』、エミイル・マゾオ『休みの日』、の各一幕物であった。「築地」の第三年度に文芸部に席を置き、のちに優れた劇作家・演出者となる久保栄は、この日の舞台の模様を次のように描写している。
 「とにかく実際の仕事を見てほしいという意味の、小山内の短い挨拶があって、さて(『海戦』の)幕が上がると、砲台一つを飾りつけた裸か舞台の後ろの、日本の観客が始めて見るホリゾントへ、汐見洋の扮する水兵が、“前兆だ! 前兆だ!”という最初のセリフを響かせ、以下、水兵たちの急テンポの動作と叫喚が、砲台の砕け飛ぶまで続いた」
 「やがて最期の演目(『休みの日』)に移ると、ホリゾントは照明の効果で透きとおるような青空をあらわし、水兵たちのわめき声とは似ても似つかない伸びやかな対話が、フランスの田舎町の気分を醸しだした」
 ところで、開幕を告げる<"銅鑼","どら">の音、葡萄(ぶどう)のマーク、労働帽、「築地小劇場を知る程の者は誰しも、この三つに云うべからざる親しみを感じるであろう」(水品)。
 初演の日、開幕の銅鑼を打ち鳴らしたのは、のちに原爆の犠牲となって広島の地で亡くなった名優・丸山定夫であった。
 マークに葡萄が選ばれた理由について、研究生だった山本安英が河竹登志夫に語ったところによると、「ギリシャのバッカスの神の葡萄祭――その年にとれた葡萄で葡萄酒をつくり、民衆が踊って楽しむ、その形から演劇的要素が生まれた、それで葡萄が大衆演劇に関係がふかいということ、もうひとつは、土方先生から直接うかがいましたのは、日本のお神楽、三番叟、そういうものはみんな鈴を使いますが、あれは葡萄を形づくってあるそうで、そういう日本的意味も入っているんだそうです」
 「帽子は、土方与志がドイツから持って帰ったバンドつきの労働者のかぶる帽子が、すこぶる事務的でありかつ軽快でシャレているというところから、劇場の皆が被り出すようになった。当時この帽子が巷間にも非常に流行して、葡萄のマークと共に青少年の憧憬の的になったものである」(水品)
 千駄ヶ谷で自警団に囲まれ「千田是也」
 俳優・演出家の千田是也(1904〜1994)は本名を伊藤<"圀","くに">夫といい、長兄の道郎は舞踏家、次兄の熹朔は舞台美術家であった。圀夫は東京府立一中[現在の都立日比谷高校]在学中から土方与志の舞台美術研究所に通っており、震災当時は19歳で早稲田大学独文科の聴講生であった。
 土方が欧州に遊学に発ったあと、圀夫は兄の熹朔とやっていた人形劇をもう少し本格的にやろうと、メーテルリンクの『アグラヴェーヌとセリセット』を選んで準備をしていた。二人で人形の製作を終え、仲間を集め、それを操る練習をしようと材木町に小さな家を借りた。さあ明日からと、人形の最後の仕上げをしていた時に、震災が襲ってきた。
 「熹朔はなにかの買物に出かけ、私と河村君とは鴨居にずらりとぶらさげた人形の糸の具合を調べていた。すると、急に家が上下、左右にものすごく揺れだした。<"廂","ひさし">から瓦がガラガラ落ちてくるので、うっかり外へも出られず、二人とも縁側の柱につかまって、いつ崩れるかと天井をにらんでいた」
 そのうちだいぶ揺れが納まってきたようなので、ともかく近所の様子を見てこようと、材木町の大通りに出た。そこで熹朔と出会い、「家のほうを頼む」と言われたので、「よしきたと私は勇みたち、余震のたびに墓石がゴロゴロ倒れてくる青山墓地を駆け抜け、白い雲だか煙だかがモクモクしている四谷から赤坂にかけての空をはすに見上げ、これはただごとではないぞとあわてながら、青山練兵場を千駄ヶ谷に抜け、やっと家[現在の都体育館の辺り]にたどりついた。さいわい、この辺は大した被害はなく、わが家も塀が倒れたり、瓦が落ちたりしただけで、みんな無事に裏の空地に避難していた」
 「そのころの僕はまだはたち前の体を動かすのがやたらに嬉しい年頃なもんで、親類のお見舞いに生かされたり、頼まれた米や野菜を買い集めてあちこちに運んだりしていた。隅田川にいっぱい黄色い死骸が浮かんでいたり、焼け焦げてサルぐらいに縮まった焼死体が道に転がっているのをやたらに見たり、風が川越しに運んでくる両国の陸軍被服<"廠","しょう">で焼け死んだ何万人もの臭い……いやもう世間知らずの弱虫の文学青年にはたいへんなショックでした」
 そして震災第二日目の晩、「千田是也」という芸名の由来である事件が起きる。街々の炎が夜空を真っ赤にそめ、ときどきガソリンや火薬の爆発する不気味な音がきこえて、余震がくりかえされ、通りには怪我人をのせた担架や荷車をかこむ疲れはてた人たちの行列が続くという状況の中で、朝鮮人が日頃のうらみで大挙して日本人を襲撃してくるとか、無政府主義者や共産主義者が井戸に劇薬を投げ込んでいるとかのデマが伝わってきた。「おまけに鉄衛がそのころ近衛の連隊長をしていた古荘[幹郎、姉の夫]のところに見舞いにいって姉からきいてきた情報によれば、軍は多摩川べりに散開して、神奈川方面より大挙北上中の〈<"不逞","ふてい">鮮人集団〉と目下交戦中だという。そこで私もじっとしていられなくなり、お向かいの勝ちゃんの従兄の大学生といっしょに、家のまえの夜警についた」
 「そんなわけで、ご苦労にも千駄ヶ谷の駅のすぐわきの土手に上がって、そのへんにいないかなあと探してみたが誰もいない。降りてくると、向こうから提灯が30くらいこっちに走ってくる。それきたと私も提灯のほうへ一生懸命駆けていくと、いきなりうしろから太い棍棒で背中をぶん殴られた。こんな雲をつくようなでっかい外国人でね。あのころは羅紗(ルビ・らしゃ)売りをやる白系ロシア人がたくさんこの辺にも住んでいましたからね。二人ぐらいだったかな、うしろから『こっちだ、こっちだ』と怒鳴るんですよ」
 「まさか自分とは思えないので、一生懸命駆け続けていると、提灯がみんな僕のまわりに集まってきて、たちまち薪割りだの棍棒だのの輪のまんなかに囲まれてしまった。一生懸命『ちがいます、ちがいます』と言っても、こっちは見るからに芸術青年で、頭の毛は長いし、早稲田の制服の下に青いルバシカを着ちゃったりしているもんでね。いくら学生証を見せても、命令どおり教育勅語や歴代天皇の名を暗誦してきかせても、勘弁してくれない。まあ幸いなことに、出入りの酒屋の小僧さんが、『いけねえ、これ伊藤さんの坊ちゃんだ』と言ってくれたもんでね。あとは青年団のひとりが千駄ヶ谷の教会に通っていたときの友達だったりもしたので、やっと釈放された」
 千駄ヶ谷で自警団に朝鮮人と間違えられたこの体験が、「千田是也」という芸名となった。「築地」の研究生として、「いよいよ役者として舞台に出なければならなくなったとき、やっぱり芸名をつけた方がいいということになって、みんなでワイワイいろんな名を出しているとき、土方先生が『震災記念に千駄ヶ谷のコレヤはどう?』と言われたので、圧縮して“千田是也”」
 「まあはじめは面白半分につけた芸名なんですが、私も自警団に出ていたわけですからね、下手すればこっちが加害者になったかもしれない。それを思うと震災のたんびにその話をさせられるのがつらくなってきてね。左翼の運動に加わってからは朝鮮人の仲間も多くなりましたしね。できるだけ被害者ではなく、加害者になったかもしれない点を強調して話すようにはしているけれど、どうも後味がよくない」
 なお、このエピソードから「千田是也」は一般には「せんだ・これや」と読まれているが、本人は「せんだ・これなり」だと強調していたそうである。

※編集部注:上記の「本人は『せんだ・これなり』だと強調していたそうである」という記述は、誤りである――と親族から訂正の要求がありました。したがって、「せんだ・これや」以外の読み方はありません、とします。


 第一回公演「海戦」観客に驚異の展開

 「築地」における千田是也の初舞台は、第一回公演『海戦』の第二の水兵役であった。劇評家の三宅周太郎によれば、「『海戦』は世界大戦後起ったドイツ表現派の、日本最初の本格的上演であるだけに最も一般の注目を惹き、そのテンポの速いせりふ回しと集団的演技は、新しい舞台設備を巧みに利用した装置、照明等と相俟って当時の驚異の的となった」
 千田自身は「兄弟がみんな踊りをやったり、歌をやったり、絵をやったりで、そういう雰囲気のなかにいた」ので、「バレーやダルクローゼなどに興味をもっていたから、からだをいろいろ動かすことには、なんとなく興味をもっていた」。だから『海戦』のなかでは、「やたらに、からだをひねくりながら、精いっぱい暴れまわり、叫びたてたわけです」。
そして、「そういう第一次世界大戦前後の前衛劇がどうやら自分ごととして演れたのも、関東大震災という〈人災〉体験のおかげでしょうね」とも語っている。
 なお、『海戦』の舞台装置は吉田謙吉(1897〜1982)がつくった。吉田は1922年に東京美術学校図案科を卒業。関東大震災の直後、焼け跡に建ったバラック建築にベンキで装飾をしたり、新たに設計して街頭に美をもたらそうと、「バラック装飾社」を今和次郎とともに設立(この話は改めて取り上げる予定)。「築地」では舞台装置を担当し、日本近代演劇における舞台装置の先駆者となった。
「築地」におけるその後の千田の活躍について、秋田雨雀が記している。「この年築地小劇場は、ロマン・ローランの『狼』、チャペック『人造人間』[今でいうロボット]、カイザーの『朝から夜中まで』等を演じた。『朝から夜中まで』[第17回公演、24年12月5日〜20日]で若き俳優の千田是也が主人公の出納係として立派な技術を示していた。千田はしだいに階級的意識にめざめて、後では、もう一人の俳優小野宮吉とともにプロレタリア演劇の領野に走ったが、二人とも長くたびたび検挙、監禁の苦悩をなめた」

 出典
・秋田雨雀『雨雀自伝』新評論社、1953年
・水品春樹『築地小劇場史』日日書房、1931年。(復刻版)
コレクション・モダン都市文化03、宮内淳子編『築地小劇場』ゆまに書房、2004年
・三宅周太郎『新版 演劇50年史』鱒書房、1947年
・河竹登志夫『近代演劇の展開』新NHK市民大学叢書、1982年
・千田是也『もう一つの新劇史 千田是也自伝』筑摩書房、1 975年
・同『千田是也演劇論集』未来社、全9巻(1980―1992年)のうち第8巻
・藤田富士男監修『劇白 千田是也』オリジン出版センター、1995年
・千田是也討論参加「大正期の演劇」、柳田泉・勝本清一郎・猪野謙二編『座談会 大正文学史』所収、岩波書店、1965年
(千田是也の関係文献については、菅孝行氏の教示を受けた)