《歴史の検証》新自由主義批判 《11》
                                      葛西 豊
7 日本の1980年代

 (3)臨調行政改革をどう評価するか

 臨調会長に土光敏夫

 鈴木内閣時代の1981年に「第二次臨時行政調査会」が発足した。正式名称は「臨時行政調査会」だが、60年代に同じ名称の組織があり、それと区別するために「第二」と付けるのが慣習である。
 第二臨調の最大の目標は「増税なき財政再建」だった。鈴木の前任の大平首相が79年10月の衆議院総選挙で「一般消費税(仮称)」の導入を掲げて惨敗したため、当面増税は禁じ手となり、財政再建の手段は歳出削減・行財政改革しか残されていなかった。内閣の行革担当は行政管理庁長官・中曽根康弘だった。そして鈴木の突然の辞任を受けて82年に首相に就任するや、中曽根は「戦後政治の総決算」を実現するために、臨調を最大限に利用することになる。
 臨調の会長には経団連会長を退任していた土光敏夫が就任した。会長を引き受ける際、土光は鈴木に対して4カ条の「申し入れ事項」を提出し、首相の決意を迫った(土光敏夫『私の履歴書』日本経済新聞社、83年)。
 一、行政改革の断行は、総理の決意あるのみである。臨調の会長を引き受けた以上、審議を十分に尽くして満足のいく答申をとりまとめるよう、最大の努力を払うが、総理がこの答申を必ず実行するとの決意を明らかにして戴きたい。
 二、行政改革に対する国民の期待は、きわめて大きなものがある。アメリカのレーガン政権を見習うまでもなく、この際徹底的に行政の合理化を図って「小さな政府」を目ざし、増税によることなく財政を再建することが、臨時行政調査会の重要な使命の一つである。
 三、行政改革は、単に中央政府だけを対象にするものではなく、各自治体の問題を含め、日本全体の行政の合理化、簡素化を抜本的に進めていくことが必要であると思う。
 四、またこの際、3K[国鉄、国民健康保険、コメ=食管会計]の赤字解消、特殊法人の整理、民営への移管を極力図り、官業の民業圧迫を排除するなど民間の活力を最大限に活かす方策を実現することが肝要である。[二、三、四について]総理の考えを明らかにして戴きたい。
 財界も「行革推進5人委員会」を設置して、土光臨調を全力でバックアップする体制を整えた。土光の後任の経団連会長・稲山嘉寛が、土光を臨調会長にすえるべく口説いた際に、「オール財界」で支えることを約束したからである(菊池信輝『財界とは何か』平凡社、05年)。「5人委員会」は稲山のほかに、水野重雄日商会頭、大槻文平日経連会長、佐々木直同友会代表幹事、日向方斉関経連会長、つまり中央の財界4団体と関西経済界のトップによって構成された。

 瀬島龍三の「裏臨調」

 内田健三『現代日本の保守政治』(岩波新書、89年)によって、臨調答申・行財政改革の流れを見ておこう。
 鈴木内閣の時代に、土光臨調は三次にわたる答申を出した。第一次答申は81年7月、老人医療無料制の廃止、三公社の民営化など、財政の合理化が主な内容であった。第二次答申は82年2月、許認可権の整理・合理化、そして同年7月の第三次答申では、国鉄・電電・専売の三公社の分割・民営化などを提言するとともに、「増税なき財政再建」を建議した。これを受けて鈴木内閣は同年8月、「行政改革の具体的方策」(行革大綱)を決定した。
 中曽根内閣はこれを継承した。内閣発足から4カ月後の83年3月、土光臨調は最終答申を提出してその任を終えたが、審議はそのまま「臨時行政改革推進審議会」(同年7月発足、会長は引き続き土光敏夫)に引き継がれた。この間、内閣は同年5月に「行政改革大綱」を決定し、またやがて最大の焦点となる国鉄問題をとり扱う「国鉄再建管理委員会設置法」を成立させ、亀井正夫委員長のもとで国鉄分割・民営化を推進し始めた。
 ところで、土光臨調にはもうひとり、重要な人物がいた。瀬島龍三である。瀬島は元大本営作戦参謀、11年間のソ連抑留を終えて帰還したのち伊藤忠商事に入社。この当時、伊藤忠商事副会長、東京商工会議所特別顧問であった。瀬島については、共同通信社社会部編『沈黙のファイル』(共同通信社、96年)という取材記録が残されている。以下の記述はそれによる。
 中曽根康弘は語る。「私が瀬島さんに、土光敏夫さんを臨調会長に担ぎ出す財界工作を頼んだ。土光さんは受諾する際も瀬島さんを同行してきた。そういう関係もあり、会長補佐役として瀬島さんに委員になってもらった」
 中曽根の要請を受けて、瀬島が行政改革に動き出した。当面の焦点は電電公社の民営化だ。「電電は田中派の牙城だった。田中派は民営化に絶対ノーで激しく対抗した。だから民営化実現のカギは田中派をどう説得するかにかかっていた」と臨調第4部会長だった加藤寛が回顧する。82年2月、瀬島と加藤は田中角栄に会って説得、続いて郵政族議員のボス金丸信も説得して民営化への同意を取り付けた。5カ月後、臨調は電電公社の民営化を答申した。NTTが誕生したのは85年4月である。
 このように瀬島は「裏臨調」と呼ばれる作戦本部を設け、政官財の間の利害調整を一手に引き受けた。その結果、電電公社、国鉄など三公社の民営化が実現したとさえ言えよう。だが中央官庁の改革は手付かずのまま残された。
 土光の秘書だった居林次雄はこう証言している。「行革の目的は利権と許認可権が集まる官庁本体にメスを入れることだった。だが瀬島さんは中曽根さんの意向を受け、『実行可能な案でなければ』と土光さんを説き伏せ、公社民営化だけで済ませてしまった。組織の動かし方や根回しが怖いほどうまい。瀬島さんこそ参謀の中の参謀だと思ったよ」

 柱は三公社民営化

 内田健三(前掲書)は中曽根内閣時代を「新保守主義の時代」と規定し、臨調行革の課題について次のように指摘する。「行政改革は単に『財政再建のための行政改革』にとどまらない時代的要請を背負い始めていた。より本質的な観点を指摘するならば、工業社会から脱工業社会への産業構造の転換の始まり、21世紀社会のキーワードとされる国際化・情報化・高齢化など社会構造の変革の潮流に、行財政システムがいかに対応すべきかという課題であった」
 「時代的な要請」を考慮して、臨調行革の課題をこのように整理することに私は反対ではないが、だからと言って、臨調行革がそれにすべて応えたというものでもないことも忘れてはならない。政府・財界にとって、最大の「成果」が三公社の民営化だったことには誰も異論はないだろうが、臨調行革の全体が彼らの期待どおりであったかどうかについては、立場によって評価に微妙な違いが出るようである。
 大嶽秀夫『自由主義的改革の時代―1980年代前期の日本政治』(中央公論社、1994年)は、臨調行革問題を包括的に論じた研究として著名であるが、彼は「臨調による改革とは何だろうか」という問いにこう答えている。
 「一つには、財政危機の克服を最大の狙いとし、そのために3K赤字の内二つを抜本的に解決したという面をもつ。さらに福祉国家の見直しという意味で、ケインズ型福祉国家への反動であったという解釈も可能である。また、民営化を通じた左翼労働運動の中核を解体し、労使協調体制を拡大したという面をもつ。それに加えて、ここでは、財政危機を梃子とした『鉄の三角形』の解体の試みであったという側面を指摘したい」
 「鉄の三角形」の解体の試みとは、第4部会が担当した三公社を含む公社、特殊法人の監督官庁と業者と政治家の癒着構造、既得権益化を解体することである。「この面からいえば、それは官僚の自律性の回復の試み」であり、とりわけ、「政府全体の行政を管理するテクノクラートとしての大蔵省の復権を意味することになった」
 財界の側から見た評価はどうだろうか。ごく限られ範囲の評価になるが、二つ紹介する。
 「内田公三経団連専務理事は、『三公社のうち、特に経団連が積極的な役割をはたしてきたのが、電電公社の民営化であった』と回想している。旧経団連は第二臨調が設置される以前から、電気通信の大口ユーザーの立場から、情報と通信の融合する高度情報通信社会における電気通信事業のあり方に強い関心を抱いていたからである」(川北隆雄『財界の正体』、講談社現代新書、11年)
 しかも、国鉄と電電公社の民営化過程を比較すると、国鉄民営化には国鉄当局および運輸省の内部に激しい抵抗勢力が存在していたのに対して(後述)、電電の場合は、81年1月に土光敏夫の強い推薦によって総裁に就任した真藤恒新総裁の下で、民営化を含む「電電改革」が始められており、臨調答申はそのステップの一つであったという点に違いがある。ただし「分割」には電電内部も反対で、「10年以内に見直しを行う」という玉虫色で決着した。

 規制緩和は部分的

 一方、「規制緩和」の側面については、臨調行革はあまり大きな「成果」を挙げることができなかった。度々指摘してきたように、当時の日本経済の状態は「絶頂期」にあって、市場原理主義とも呼ばれるような「新自由主義のすべて」は必要としていなかったからである。以下、木村佳弘「日本における経済的自由主義受容の一断面」(井出英策・菊地登志子・半田正樹編『交響する社会―「自律と調和」の政治経済学』ナカニシヤ出版、11年)から。
 第二次臨調の答申は、財政再建と並んで規制緩和を、「小さな政府」をめざすための二本柱と位置づけた。その端緒となったのが「許認可の整理合理化」であった。第二臨調が先鞭をつけた規制緩和の流れは、1983年、87年、90年の三次にわたって設置された臨時行政改革推進審議会(行革審)、ひいては94年の行政改革委員会の設置へとつながり、規制緩和を推進する機関を事実上常設化した。80年代初頭から展開された金融自由化に加えて、日米構造協議などの「外圧」も、規制緩和への動きを後押しすることになる。
 「とはいえ、当時の規制緩和政策は、1988年の『規制緩和に関する要望:とりまとめ』の諸項目に見られるように、もっぱら経済界に直接関連する領域における許認可行政の緩和・撤廃を企図する」に止まっていた。財界が期待した「前川リポート」にしても、自由化の対象は金融部門と農業部門の一部に限定されていた。「経済界から見れば、1980年代における経済的自由主義は、あくまで突出した貿易黒字の縮小という国際的な配慮の範囲に収まるものであり、ポストバブル期以降の認識とは大きく異なる」
 大嶽秀夫は臨調行革を中心とする中曽根内閣の政策を「日本における経済的自由主義の復権」ととらえ、さまざまな「日本的特徴」はあるものの、「巨視的に見れば、80年代において保守主義が再び優位を確立し、経済的自由主義がその中核的イデオロギーとしての地位を占めたという事情は、英米と変わりはない」と断定する。中曽根時代が本当に日本における新自由主義の本格的導入期であったかどうかに疑問をもって、5月号と6月号で検討してきた私から見れば、「巨視的に見れば」という言葉ひとつで、「英米と変わりがない」と結論されてはたまらない。

 中曽根「分割民営は国労つぶし」と語る

 では、中曽根自身はどう評価しているか。毎日新聞05年11月20日の「自民党結党50年特集」の中で、記者の質問に答えて、彼は次のように答えている。
 「私は戦後政治の総決算と称して、行財政改革を中心に、今までの整理をやったつもりです。土光臨調、前川委員会[前川リポート]でいろいろな政策を発表しました。国鉄も分割民営化した。それが日本の政局を大きく変えたんです。国鉄労働組合がつぶれ、それが総評の崩壊、社会党の没落につながった。55年体制を支えていた一方の政治勢力が解体され、総決算路線の一番大きな改革となった」
 つまり、国鉄分割民営化の表向きの動機・建前は、全国一元的体制の無理、独占領域への競争の導入による効率化であり、国鉄の累積赤字の解決、多発する事故の改善などと言われてきたが、中曽根の本音は国労つぶし、ひいては総評・社会党つぶしであったわけだ。
 それならば、中曽根は臨調発足の初めから国鉄の分割民営論者であったか。これについては、草野厚『国鉄改革――政策決定ゲームの主役たち』(中公新書、89年)分析が注目される。
 「筆者は、国鉄改革の過程において中曽根の果たした役割を認めないわけではない。臨調、再建管理委員会ともに、行管庁長官、首相としての中曽根が、彼らの答申に対し支持を与えてくれるという確信があったからこそ、安心して審議を重ねることができたとみている。しかし、その答申内容決定にいたる過程での役割は、一般に考えられているほどには国鉄に関しては大きくなかった。筆者がインタビューした臨調関係者の誰一人として、[行管庁長官時代に]中曽根が分割・民営化を強く押したという記憶を持っていないのである」
 臨調の答申は部会報告を事実上踏襲しており、したがって、「この政治過程でもっとも注目されるべきは、第4部会報告作成の過程である。国鉄改革は、中曽根首相、再建管理委員会の果たした役割はもちろん大きいが、その源は、民営化と分割(七分割程度)を明示した第4部会報告にさかのぼることができる。この点は繰り返し指摘される必要がある」
 たしかに、土光が臨調会長を引き受けるときに鈴木首相に申し入れた4カ条(前掲)の中には「3Kの赤字解消」が含まれている。鈴木は4カ条について全面的に賛意を示し、実行を約束したのだから、国鉄改革は約束されたようなものだ。しかし、「もし部会報告が分割・民営化に言及せず、単に経営形態の抜本的改革程度の表現に留めていたならば、分割・民営化の実現を見ることは決してなかったであろう」
 臨調第4部会長は加藤寛である。大嶽秀夫も草野の分析を受け入れた上で、「第二臨調全体で瀬島の果たした役割を、国鉄改革に関しては加藤が演じたといってよい」と評価している。
 草野は続ける。「第二に明らかとなった重要な点は、仁杉国鉄総裁の更迭で示した中曽根首相の国鉄改革に対する強い決意である。国鉄内部の問題処理をめぐる対立は、派閥抗争的様相を呈し、それぞれのグループが政治家の影響力に期待して行動したため、最後には中曽根の判断を求めざるを得なかったのである。中曽根の決断は、第4部会報告とはまた違った意味で、この政治過程で決定的な役割を果たし、分割・民営化を実現させる要因となった」

 国鉄内に抵抗勢力

 仁杉総裁更迭について、葛西敬之『国鉄改革の真実』(中央公論新社、07年)を基に少し補足しておこう。葛西は松田昌士、井出正敬とともに、国鉄の内部から分割民営化を推進した若手グループで、後にJR東海のトップを努めた。彼によれば、国鉄内から見た分割民営化の全過程は「起承転結」の四つの局面に分けて考えることができるという。
 「起」は81年3月の臨調の発足から、82年7月の第三次答申まで。当初、臨調は何を主題にするか未定であり、臨調発足後に「経営改善計画」が運輸大臣の許可を受けたことで、国鉄再建は臨調の検討対象から外れたというのが、運輸省・国鉄の見解であった。
 これに対して臨調は、「経営改善計画はこれまで繰り返されるたびに失敗してきた<RUBY CHAR="弥縫策","びほうさく">の集大成にすぎない」と葬り去り、「国鉄を87年までに分割民営化する」こと、「具体策作成のために国鉄再建管理委員会を設置すること」を基本答申に盛り込んだ。この答申後、国鉄総裁は高木文雄から仁杉巌に替わった。
 「承」はそれから85年まで、すなわち、国鉄再建管理委員会が分割民営化のための答申を中曽根首相に答申するまでである。「臨調が審議を終えると、いったんは改革推進に賛同したかに見えた国鉄首脳陣や運輸省鉄道管理局国鉄部は、たちまち現状維持に転じ、国鉄再建管理委員会に対する非協力姿勢を強めていった」
 答申の直前に仁杉総裁以下7名の国鉄首脳陣が更迭され、杉浦喬雄が総裁に就任した。「それでもまだ大多数の関係者は、分割民営化の実現可能性に懐疑的だった」
 「転」は杉浦総裁の就任から87年4月1日にJR各社が発足するまでの1年9カ月である。「この間法律の審議、労務・要員対策がいずれも予想を上回って順調に進行、奇跡的にスケジュール通り、しかも無修正で分割民営化が達成された」
 もちろんこれは分割民営化を推進した側の認識であって、国鉄労働者にとっては10万人におよぶ人員削減・首切りと国労つぶしの攻撃の始まりであり、とりわけJR移行にともなって解雇された1047名にとっては、2010年に「政治解決」されるまでの苦難の23年間の起点だったのであった。

プラスワン
マルクス経済学から新自由主義へ


 以下は、木村佳弘の前掲論文からの引用である。
 東大教養学部自治会副委員長、マルクス経済学に憧れて東大大学院経済学研究科に進学、鈴木鴻一郎の門下として理論経済学を専攻――後に経団連事務総長を務めた内田公三の青年時代の経歴である。その内田が『経団連と日本経済の50年――もうひとつの産業政策史』(日本経済新聞社、96年)の中で、フリードマンの『資本主義と自由』を読んだときの「新鮮」な驚きを記している。
 「このフリードマンのいわゆるシカゴ学派の自由経済体制論は、いってみれば経団連に最も相応しいイデオロギー、よりどころとなる思想であり、入局後30余年の勤務のなかで、担当する各種の問題への対応のあり方を考えるに当たって基本は彼の哲学で大体間に合ったといえる感がある。特に最近、規制緩和が日本の当面する最重要課題とされているが、その理念も結局フリードマンの哲学そのものといってよい」
 アービング・クリストルら、ニューヨーク市立大学を拠点とした「ニユーヨーク知識人」(反スターリン主義の左翼運動)から、後に新保守主義者に名を連ねる多数の思想家や政治家が輩出したことと、常勤200人を擁する「総資本の牙城」から、経済的自由主義の論理を実現に移そうと日々鋭い眼をひからせ続けた内田の経歴には「奇妙な類似がある」と、木村佳弘は指摘している。
 「ニューヨーク知識人」については、私も11年1月号の「プラスワン」で触れておいた。