[家族]
父Leopoldは元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家、ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルト(Leopold Mozart)、母はアンナ・マリーア・ペルトル(Anna Maria Pertl)、姉はマリーア・アンナ(Maria Anna Mozart、愛称ナンネル(Nannerl))である。
なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)。
mozartは妻・コンスタンツェ(Constanze, 1762年 - 1842年)との間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのはカール・トーマス(Karl Thomas)とフランツ・クサーヴァー(Franz Xaver)だけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している(当時は医学が発達した時代ではなかった)。
フランツは職業音楽家となり、「mozart2世」を名乗った(フランツは弟子のジュースマイヤーの名であり、このためFranz Xaver Wolfgang Mozartはmozartの実子ではなく、妻・コンスタンツェとジュースマイヤーとの婚外子という説がある)。
成人した2人の男子はどちらも子どもを残さなかったため、mozartの直系の子孫は居ない。
[生涯]
1756年、ザルツブルクに生まれる。父・Leopoldは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。
父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でmozart親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。
これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。
1781年、25歳のmozartはザルツブルクを出てウィーンに定住。フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。
ウィーンではピアニストとして人気を誇ったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。
mozart自身の品行が悪く,高給な仕事に恵まれなかった事が大きな原因であるが,mozartに怖れをなした宮廷楽長・Antonio Salieriらのイタリアの音楽貴族達が裏でmozartの演奏会を妨害した為、収入が激減したとする説もある。
1791年、ウィーンでレクイエムの作曲中に35歳の若さで没した。
[年譜]
- 1756年 - (0歳) 1月27日、ザルツブルクに生まれる。
- 1759年 - (3歳) クラヴィーア(ピアノの前身)を弾き始める。
- 1761年 - (5歳) 最初の作曲を行う(『アンダンテ ハ長調 K.1a』)。
- 1762年 - (6歳)
- 1月、ミュンヘン旅行。
- 9月、ウィーン旅行(10月13日、シェーンブルン宮殿にてマリア・テレジア御前演奏。7歳のマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)にプロポーズしたという逸話がある。
- 1763年~1766年 - (7~10歳) パリ・ロンドン旅行。
- 1767年~1769年 - (11~13歳) 第2回ウィーン旅行。オペラ『ラ・フィンタ・センプリーチェ』上演。
- 1769年~1771年 - (13~15歳) 第1回イタリア旅行。父と共にミラノ、ボローニャを経てローマへ。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したという逸話が残されている。
ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている。
このことを詳細に語る父親の手紙が残されている。
また、1770年には自身初のオペラ『ポントの王 ミトリダーテ』を作曲し、同年12月26日に初演される。
- 1771年 - (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『アルバのアスカニオ』をミラノで上演。
- 1772年~1773年 - (16~17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『ルチオ・シッラ』上演。
- 1773年 - (17歳) 第3回ウィーン旅行。
- 1774年~1775年 - (18~19歳) 第4回ウィーン旅行。オペラ『偽りの女庭師』上演。
- 1777年 - (21歳) ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ就職旅行したが成果無し。
マンハイムでは、マンハイム楽派の影響を受ける。
- 1778年 - (22歳)
- マンハイム→パリ旅行。アロイジア・ヴェーバーに恋愛。パリでの就職も不首尾に終わる。
- 7月3日、同行した母パリで死す。帰路ミュンヘンでアロイジアに失恋。
- 1779年 - (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。
- 1780年 - (24歳) オペラ『イドメネオ』の準備のためにミュンヘンに赴く。女帝マリア・テレジア崩御。
- 1781年 - (25歳)
- 3月、ザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命でミュンヘンからウィーンへ。
- 5月9日、コロレドとの衝突、解雇。そのままウィーンに定住を決意。
- 1782年 - (26歳)
- 7月、オペラ『後宮からの誘拐』をウィーンで初演。
- 8月3日、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバー(Constanze Weber)と結婚。
彼女はかつて片思いの恋をしたアロイジアの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉である。
- このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。
- 1783年 - (27歳)
- ザルツブルクに帰郷。『大ミサ曲ハ短調 K.427』(417a)を上演。
- 6月、長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
- 1784年 - (28歳)
- 第2子Karl Thomas Mozart誕生。
- freemasonに入会(書類上では12月5日)。以後その思想に影響を受けたとみられる。
- 1785年 - (29歳)
- 弦楽四重奏曲集をHaydnに献呈(「Haydn Set」)。
- 2月、父・Leopoldがウィーン訪問。息子の演奏会が盛況なことを喜ぶ。
LeopoldはHaydnから息子の才能について賛辞を受ける。
- 1786年 - (30歳)5月1日、オペラ『フィガロの結婚 K.492』をブルク劇場で初演。
- 1787年 - (31歳) 『フィガロの結婚』がプラハで大ヒットしたため同地訪問。
- 4月、Beethovenがmozartを訪れる?(記録無し)。
- 5月、父・Leopold死去。
- 10月、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ K.527』を作曲、プラハエステート劇場で初演。
mozart自らが指揮をとる。
- このころから借金依頼が頻繁に行われる。
- 1788年 - (32歳) “3大交響曲”(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲。
- 1789年 - (33歳) ベルリン旅行。
- 1790年 - (34歳)
- 1月、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ K.588』初演。
- 2月、皇帝・ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世即位。フランクフルトで行われた戴冠式に同行。
同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調「戴冠式」、同19番ヘ長調「第2戴冠式」などを演奏するも、観客は不入りだった。
- 1791年 - (35歳)
- 1月、最後のピアノ協奏曲第27番K.595作曲。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのmozart最後のステージとなる。
- 7月、第6子Franz Xaver Mozart(mozart2世)誕生。
- 9月
- プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ『皇帝ティートの慈悲』K.621初演。
- 30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール『魔笛』K.620を作曲、初演。
- 体調を崩し、11月から悪化。12月5日にウィーンにて永眠(死と死因を参照)。遺体が埋葬された位置は不明である(葬儀と墓を参照)。
死と死因
1791年、mozartは『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』、クラリネット協奏曲と作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、『皇帝ティートの慈悲』上演のためプラハに行った時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。
レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に死亡した。
死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。
症状としては全身の浮腫と高熱であったという。
ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。
実際の死因は「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている。
また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。
実際の死因が「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと述べたが、これに関しては幼少期の度重なる旅行が原因であったとする説も存在している。
実際に旅行先で病に伏すことが少なくなかったことが手紙や記録に残されている。
これは当時の医療技術が未熟であったがために幼児の死亡率が高かったことと、道路の舗装が不完全であったがために馬車の振動が健康を脅かしていったことが背景にある。
そして、このとき罹患したリューマチに終生悩まされることとなる。
このリューマチを持病としたために彼の体格は小柄になり、さらには直接の死因にまでなってしまったとも考えられた。
mozartは病に伏す前に、妻・コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。
実際妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。
2002年にイギリスのmozart研究家は、mozartはポークカツレツの豚肉の寄生虫によって死んだとさえ説いた。
これは現在証明は困難であるが、実際、当時の売れなかった二流の音楽家達は彼を非常に敵対視していたため、可能性が再浮上している。
また、死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。
1820年ごろになると、ウィーンではRossiniを担ぐイタリア派とWeberを担ぐドイツ派の論争・対立の中で「Salieriがmozartを毒殺した」という噂が流行した。
老いたSalieriは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。
この噂をアイデアとして、『mozartとSalieri』(プーシキン)や『Amadeus』などの作品が作られた。
葬儀と墓
葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある。
遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。
誰も霊柩車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である。
没後100年の1891年、中央墓地(Beethoven、Schubert、Brahmsら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「mozartの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。
現在サンクト・マルクス墓地にある「mozartの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである。
もちろん、「墓とされるもの」の下に骨があるわけではない。
なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。
Johann Strauss2世の弟Josef Straussも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。
現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはmozartのものとされる頭蓋骨が保管されている。
頭蓋骨に記された由来によれば埋葬後10年目にmozartを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸してしまったという。
この時、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。
遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年にウィーン医科大学の研究チームがmozartの父・Leopoldほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。
鑑定結果はmozart生誕250年目の2006年1月8日に、オーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。
これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯とmozart一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。
検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。
[作品]
作品総数は断片も含め700曲以上に及ぶ。
作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。
作品を識別するには、音楽家のLudwig Alois Ferdinand Ritter von Köchelが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。
ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。
mozart自身は1784年以降に自作の作品目録を付けている。
1784年より前の作品やmozart自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。
代表的な作品
- オペラ:後宮からの誘拐、フィガロの結婚、ドン・ジョヴァンニ、コジ・ファン・トゥッテ、魔笛
- 宗教音楽:大ミサ曲、レクイエム
- 交響曲:第25番、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』
- セレナード:アイネ・クライネ・ナハトムジーク
- ピアノ協奏曲:第20番、第21番、第23番、第24番、第26番、第27番
- 管楽器のための協奏曲:クラリネット協奏曲
- 弦楽四重奏曲:ハイドン・セット、弦楽五重奏曲:第3番、第4番
- その他室内楽曲:クラリネット五重奏曲
- ピアノソナタ:第11番『トルコ行進曲付き』
[作風]
古典派音楽の代表であり、Haydn、Beethovenと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。
最初は父経由でJohann Schubertなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、クラヴサン曲を中心に学んだ。
その後Bachの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。
後期に入るとHaydnとBachの影響が強い。
mozartの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。
これは当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。
彼が主に使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、非常に軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えた。
晩年に向かうにつれて長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。
また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。
mozartの時代にはポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていた。
しかし彼はBachやHandelの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕もあった。
「下書きをしない天才」と言われることがある。
mozartが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されているのが事実である。
人気の高いピアノ協奏曲23番については、その数年前に書かれた草稿が発見されている。
ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はmozartがリンツを訪れている間に作曲されたものであるが、父との手紙のやり取りから彼が3日でこれを書き上げたことが分かっている。
交響曲第39番から41番「ジュピター」までの3つの交響曲は6週間で完成させている。
また別の手紙からは彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。
mozartの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである。
このことは、当時の手紙や各種の資料で確認できる。
mozartの時代においては、作曲家が「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される」という形態には至っていなかったようである。
彼が子供の頃から各地を旅行して廻った理由のひとつが就職活動であり、Beethovenのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった。
従って、mozartの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かった(すなわち人気があった)ことの証でもある。
実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。
これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父親による規制が無くなったため、mozart自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。
交響曲などがそれに当たる。
mozartの作品はBeethovenの作品と比較され差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのは2人が置かれていた社会的状況とヨーロッパを旅行してその歴史を知り尽くしていたかどうかの差であると言える。
思想的には、freemasonに大きく触発されて、作品では「魔笛」「ピアノ協奏曲20番」に特にその影響が指摘されている。
[人物]
名前
彼 の洗礼名(は、ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)である。
「テオフィルス」はギリシア語で「神を愛する」または「神に愛された」の意のテオフィロス(Θεόφιλος, Theophilos)をラテン語形にしたもの。
当時はイタリアの音楽家がもてはやされており、mozartは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス(Amadeus)」を通称として使用していた。
また「ヨハンネス・クリュソストムス」は4世紀の教会博士で聖人のヨハネス・クリュソストモスにちなんでいる。
音楽評論家の石井宏は著書『反音楽史』の中で、mozartは Amadeusではなくイタリア語ふうのアマデーオ(Amadeo)を主に使っていたとしている。
フランス語ふうのアマデ、ドイツ語ふうのゴットリープも用いたことがある。
容姿
肖像画や銅像ではいずれも“神童”に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子供の姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。
有力なのは「21歳の時に罹った天然痘の痕がいくつもあり、丸鼻で近眼」というものである。
本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまった。
体躯に関しても「小男である」「肥満が著しかった」という説がある。
性格
mozartが書いたとされる手紙は多く残されているが、手紙は最大5ヶ国語を使い分けて書かれている。
また友人などに宛てた手紙の中においては何の脈絡もなく世界の大洋や大陸の名前を列挙し始めたり、文面に何の関係もない物語を詳細に書き出したりしていた。
mozartは従姉妹に排泄にまつわる駄洒落にあふれた手紙を送ったことがあり、『俺の尻をなめろ』(K.231、K.233)というカノンも作曲している。
このことは彼にスカトロジーの傾向があったとしばしば喧伝されるエピソードであるが、当時の南ドイツでは親しい者どうしでの尾籠な話は日常的なものでありタブーではなかった。
19世紀の伝記作者はスカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてmozartを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。
冗談好きな一面もあり、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。
精神医学界には、こうした珍奇な行動がサヴァン症候群によるものであるという説もある。
私生活
ボウリングやビリヤードを好み、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた。
ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。
賭博にもよく興じたという。
高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引越しをした。
mozartの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいるが、確かなことは不明である。
「神童」時代、オーストリアのマリア・テレジアの御前演奏に招かれた際に宮殿の床で滑って転んでしまい、その時手を取ったマリー・アントワネット(マリア・テレジアの娘)に求愛した話は有名。