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   実存的心理療法 ―実存分析―No.2

(じつぞんてきしんりりょうほう No.2)

 ヨーロッパに始まった実存的アプローチがアメリカに紹介されたのは一九六〇年頃である。当時、アメリカではすでに精神分析が定着しつつりましたが、その一方では、行動変容を中心とした心理療法(行動療法)が急速に強まりつつありました。しかし、実存的アプローチをアメリカに紹介した一人であるロロ・メイ(Rollo May )は、行動療法は人々をますます体制順応主義者にしてしまい、新しい可能性としての個性を破壊してしまう危険性があると述べています。そして、この問題の根は近代以降の合理主義や観念論、主客二元論にあるといわれています。西洋でのこの固着した”理性”というものに関してのIdeaは益々人間社会を窮屈にしていったわけです。そこで、キルケゴールやニーチェの実存思想が重要になると、ロロ・メイは「フロイトもまた、非理性的傾向(無意識)を明るみに出し、分裂したパーソナリティを意識化によって克服しようとしたのだと言えなくはありません。ただしかし、実際の精神分析は行動療法と同じように、適応だけを目指してしまう危険性が高い。」というのでした。
 西洋における科学というものの考え方には、非常に不思議な力があります。外国で暮らしたことのある方なら少しばかり感じることができたと思うのですが、東洋のそれと比較してみると(相対的に)西洋は構造的、東洋は機能的といわれている側面があります。西洋科学の大前提は、演繹にありますが、東洋の科学には直感があるといわれています。その為に科学という非常に大きな体系の元に数々の法則が成立し、その構造を機能化するというのが西洋科学であるのに対し、我々はその構造がどういうものであるのかは知らないとしても実際に効果があるのかどうか?という機能優先するという考え方があります。ここら辺りの”感覚”が非常に不思議なものとして僕自身は感じています。その体系という構造状の繋がりの中(過去決定論的な考え方)で、行動心理学は生まれてきたと言っても過言ではありません。ロロ・メイが言うようにフロイトでさえ、その考え方に囚われた西洋人の一人であると言うこともできます。
 

実存分析とロロ・メイ

 実存分析の特色は人間を存在から理解する点であるとされています。人間は自分の存在を意識することができる、つまり現存在であり、自分で行為を選択する可能性はいつ何時とも大きく開かれています。それは本能や衝動、行動機制などで説明できるものではないと実存主義者は考えました。信頼できる他者に受容されることこそ、自己の存在への気づき(self-awareness)に繋がっているとされ、これが心理療法において特に重要なものであると、行動療法や精神分析学に対して主張しています。。精神分析においても自我は強調されるようになったが、自我を弱くて受動的なものだと考えている点で、その考え方自体が現代における存在感喪失の症候であり、不安を現しているとも考えられるわけです。。
 心理療法における不安について、ロロ・メイは次のように述べています。「不安は、ある可能性――自己の実存を充足させるある可能性――がその人に向かってあらわれてくる、その時点で起こるものなのです。しかし、まさにこの可能性そのものが、現在の安定感を破壊する可能性をも含んでいて、その安定感の方を得ようとすると、新しい可能性が否定されてしまうという傾向も生まれてくるわけです」(ロロ・メイ『存在の発見』)。人間は新しい可能性を現実化する自由を持っているからこそ、不安を体験するのであり、新しい可能性と現在の安定感のどちらを選ぶか、この葛藤が不安には含まれています。そして、この可能性を現実化することに失敗するとき、罪の意識が生じてくる。強迫神経症者の罪悪感は、安定感を維持するために強迫的な行為を選び、新たな可能性に向かわないことから生じているのだ、と考えられます。
 しかし、実存主義的な考え方にはその逆説も含まれています。つまり、我々が理由なく不安に駆られるということは、すでに選択の可能性が開示されているとも解釈できる筈です。その可能性から目を背けることによって不安は助長され、罪の意識をおび、さらに不安と罪という相反する意味が混同されてしまうわけです。

 また、実存分析では「まわりの世界」「共にある世界」「独自の世界」の三種類に世界の様態を区別しています。「まわりの世界」はいわゆる環境世界であり、そこには過去も含まれています。過去決定論的な精神分析では「まわりの世界」だけを扱っている、つまり過去からの学習・経験を通して現在が決定し、その現在が適応していないと考えるのですが、実際には過去も現在と未来から意味を与えられているわけです。これはどういうことかと言いますと、例えば、我々は古い車に乗っていた時代があります。東ドイツのトラバントはボディーが紙と合成樹脂で練られているし、フォルクスワーゲンは空冷でした。暖房もろくに効かず、夏は窓を全開にしなくては暑くて仕方がないものです。とある人物が恋人と一緒にかつて古い車でドライブをしていました。その車は、2時間おきにオーバーヒートし、川の水を汲んできてエンジンを冷やさなければならなかった…云々、そして彼女は怒り出すし、デートは台無しになってしまった。しかし、現在のように交通が整備され、車は壊れることなくスイスイ走り、エアコンも効いて非常にすがすがしいのですが、彼等はいつも時間通りに行動しなくてはならなくなりました。車は決して壊れないので、目的地にはいつも同じ時間に着き、レストランは毎日同じ時間に閉店します。彼等は、結婚しましたが、嘗ての不便で壊れやすい車を思い出します。彼と彼女は車の故障のせいで真夜中まで一緒にいることができ、話し、触れあい、喧嘩することができたわけです。人間は、過去・現在・未来という時間軸の中で未来が過去に新しい意味を付与することができるわけです。勿論その逆もしかりです。過去のよい思い出が未来のある出来事で無化しネガティブなものになる可能性も充分にあるわけです。これに対して行動心理学や精神分析学では、過去のある出来事が現在のある行動や症状の原因になっていることから、行動療法ではその経路の補正や方向転換をして現在に適応させる、精神分析学ではカタルシス法(告白すること)で精神を浄化したりするわけです。これらの技法においては過去の出来事に付着する情動の変化を否定的に(あるいは盲目的に)捉えている傾向があるわけです。ロロ・メイによれば、「あるクライエントが過去の大事なでき事を思い出すことができるかどうかということは、その人の未来に関する決意にかかっている」(同上)。
 「共にある世界」は他者との相互関係の世界であり、サリヴァンのような対人関係学派ではこれを非常に重視していました。これは自己というものが変容しないということはあり得ないと考える世界観です。
「独自の世界」は自己への気づきを前提とした世界であり、実存分析ではこれを最も重視しています。自己への気づきは、目前の状況を超越する能力を拡げることになります。このような言い方が大げさであるとしたら、例えば「自分はブスである」と思い悩む女性が「私はたいしてブスではない。もしかしたら比較的美人な方なのでは?」と考えると人生は全く違ったものになるという話です。
 ただ、「独自の世界」だけでなく、この三つの世界全てに目を向けることが重要なのであるとロロ・メイは主張しています。
 実存分析は方法や技術の体系ではなく、人間の実存を理解する一つのアプローチなのです。そういう意味では西洋の科学的・実証科学的な体系から少しばかりはみ出ているわけです。これは独自の技法(マニュアル)があるというのではなく、クライエントへの理解がセラピーに必ず大きく影響してくるのだという視座、立場であると理解した方が納得がいくと思います。
 ここでは転移の問題があります。転移の問題の歴史的な背景をおおざっぱに説明すると、フロイトとユングの初めての出会いのシーンは有名ですが、現代心理学の巨匠二人は「転移にはじまり、転移に終わる」と言っています。この現象はセラピーというものを考える時にオカルトだとして安易に扱うことは近年ますます難しくなってきています。それというのもクライアントがどうあれ、臨床医でさえ飲み込まれる危険性が出てくるからです。フロイトはこの転移という現象に対しては非常に警戒心を強めました。彼は転移が起こることを徹底的に防ぐことがセラピーの成功につながると考えましたが、後にユングは、この転移があってこそセラピーという対人関係が成立すると考え、飲み込まれそしてもう一度這い上がってくるという方法論を唱えました。
 実存分析では転移も現実の関係として捉えられます。これまで、セラピストは転移の投影された「影」のような存在と見なされることが多かったのですが、セラピストが現実的な一人の人間としてクライエントと出会うことが最も重要なことであって、セラピストは方法論を詰め込んだマシーンでも神様でもないということなのです。

 また、実存分析家は無意識の概念には否定的です。それは因果関係のどんな説明でもできるし、どんな決定論でも引き出すことができる概念とみなしたからです。つまり、無意識に責任転嫁することが多いに可能であり、それは非常に(人間的に)危険なことであると考えたからです。しかし、これは無意識を「暗室」のほうから見た場合に言えることで、深層心理(不合理なもの、受容されない衝動、忘れられた経験など)を人間のパーソナリティの領野に含めたこと自体は、フロイトの偉大な功績であります。ロロ・メイによれば、無意識は「個人が現実化することのできない、あるいはしたがらない可能性を知り、かつそれを体験する可能性である」と。こうした考え方はユングの無意識論に近いものがあります。つまり、無意識は個人の実現されていない可能性を含んでいる、という考え方です。実際、実存主義的なセラピストには、ユングを高く評価する人が多く、心理療法が自己実現に繋がっているという視点でも一致しています。
 その後、アメリカではロロ・メイらの実存的アプローチは、大きな進展を遂げることになりました。特にマスローらの生み出した人間性心理学は、精神分析と行動療法に対して心理学の第三勢力と呼ばれるまでになり現在も活躍中です。
ロジャーズ その以前に、心理学に人間性を回復させることを唱える人間性心理学(humanistic psychology)の内部で、かつて人間の善と悪をめぐってロジャーズ(Carl Rogers)とロロ・メイ(Rollo May)のあいだで論争がありました。ロジャーズによれば、何よりも大切なのは、一人一人の人間の中にもともとある成長する力への信頼であり、あらゆる悪はその不足、余計な介入から起こる。それに対して、メイは、ブーバーにならい、人間存在における善と悪の両極性を主張し、イギリスの哲学者、エドムンド・バーク(Edmund Burke)の次の言葉を引用しました。「悪とは、悪に対して何もしないことだ。」
 すでにクライエント中心療法という独自の展開を見せていたロジャーズは、後にロロ・メイやマスローらに共鳴し、晩年は自らも実存主義的な心理療法家だと主張するようになりました。そして、ロジャーズの理論は今日のカウンセリングに大きな影響を与えています。また、技法より態度や考え方が重視されがちな実存的心理療法だが、ヨーロッパではフランクルのように独自の精神療法を築き上げた人物も数多くいます。

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