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サルトル No.1―本質と存在―
(サルトル No.1:sarutoru_no1)
【Profile】
フランスの作家・哲学者。高等師範学校で哲学を学ぶ。24歳のときに知り合ったシモーヌ・ド・ボーヴォワールを恋人そして思想上の同志として一章の伴侶とする。ベルリンでフッサールの現象学を学び、それを哲学的基盤として、現象学的存在論を『存在と無』のなかで展開た。そこで、『嘔吐』『壁』などの小説で知られていた作家サルトルは哲学者ともなった。第二次大戦後、メルロ=ポンティ、ボーヴォワールとともに「レ・タン・モデルヌ」を創刊、編集長としてアンガージュマン(社会参加)の立場を主張した。政治・社会に積極的な発言を行なった。68年の「五月革命」以降は物を書き、上から訴える知識人への異議申し立てを受けたことを認識し、極左グループである毛沢東派の支援を行なうも、失明、肉体的衰弱により晩年は活動できなくなった。前掲書のほかに、『弁証法的理性批判』『シチュアシオン』がよく知られている。(『近代性の構造』より引用)
前世紀の頂点に立つと言っても過言ではない知識人、サルトルは、非常に多くの書物を残していますし、彼の人生は終始右にいったり左に行ったり、且つ、彼の思想史もかなり複雑に絡み合って、批評家や解説者はそれぞれに独自の読み方をする以外に方法がありませんでしたし、今もそうだし、これからもそうなのでしょう。僕自身が彼の本を手に取ったきっかけは、彼の一生涯のパートナーであったシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』でした。この本は、女性の『性』というものがいつの時代でも『第二番目』であったということを主張していると言われていますが、僕は全然そんな風には思いませんでした。むしろ、哲学書や歴史書が全く正面から扱うことのない『性』というものについて俗に陥ることなくかなり真剣に扱った類い希な本だったという印象でした。その内容は全五巻に渡って詳細であり、また長〜く、途中で読むのを断念しそうになるような代物ですが、女性がどうしたこうしたという以前に『性』についての非常に興味深い考察で埋め尽くされています。彼女を知った後で僕は『サルトルの戦中日記』を読みました。これは第二次世界大戦中にフランスとドイツがジークフリート線という国境を挟んでにらみ合っていた時期で、大砲も撃たれない、戦死もしない、にもかかわらず緊張に満ちあふれた戦争としてまるで戦後の冷戦と同じように『静かな戦争』と呼ばれていました。その頃サルトルは徴兵されていたのですが、気象班に属していた為に、この頃の兵役時代に数多くの文章を書き残しています。僕が読んだ戦中日記には、彼のそれからの人生で書き残した『存在と無』やその他の批評のプロトタイプが沢山読めます。
しかし、彼が残した書物の中で最も理解しておかなくてはならないものはやはり 『実存主義』Existentialismだと思います。
サルトルはサルトルのちょうど先輩にあたるハイディガーを(非常に批判に、尊敬を込めて)よく読んでいまいた。その中で『存在』『実存』『存在論』というものをテーマにハイディガーが扱ったテーマをサルトルは譲り受け彼なりの独特の解釈と訂正をしているのです。
哲学というものの意味を理解する為には、どの書物を読んでもさっぱりわからないということがあると思います。僕も高校生の頃にキルケゴールの本を読んでみましたがさっぱりわかりませんでした。これは、僕がドイツというところに4年住んでみてわかったことですが、翻訳の難しさもさることながら、哲学は西洋の歴史そのものであるとも言えるのです。そして、こんな乱暴な言い方をゆるされるのなら「日本には哲学(Phylosophie)がない」のです。それもその筈、日本の歴史は西洋の歴史とは全く違うものだったし、逆に言うと西洋人は万葉集などというものを難しいものであると解釈するはずです。つまり、日本には十字軍もなければ、カノッサの屈辱もない。それ故にニーチェの「神は死んだ」というセリフもまさか天照大神が死んだわけはなく、キリスト教文化に根付いた神という概念が失われた…という意味から、なかなか我々には理解しにくいものになってしまっているのです。しかし、感覚的に読んだとしても我々にだって少しばかりの理解はできるもので、それだけでも充分価値のある書物がいわゆる”哲学”ということになると思います。
他人の話を長い間聞くということが難しいように、全く違った文化の書物を読むということ理解するということも同じように難しいことと思われます。殊に英語を越えてフランス語、ドイツ語と我々にはあまり耳に覚えのない言語を扱うとなるともっと難しく、最終的には『存在は本質に先行する』などというわけのわからない抽象言語を読まなくてはならない羽目になるわけです。
【存在は本質に先行する】Existence precedes essence.
サルトル自身の定義によれば、『実存主義はヒューマニズムである。』ということになっています。そして日本では『実存』と訳されているExistenceは、そもそもはドイツ語のExistenzから由来しており、ハイディガーはそのExistenzをドイツ語の文法に従って、その存在を語る根本的な概念をDasein(現存在)と言っています。彼等(哲学者)が語る言葉は、何やら隠語のような気がしないでもないぐらい専門的な用語が多くて、その都度その意味を調べていかなくてはならないという風なのですが、実のところ学問の世界ではそういうことがよく行われているわけです。一度作られた有用な複雑な概念に与える言葉は、適当に当てられた言葉なので、その言葉のイメージとはかけ離れている場合が多くて、我々が喋っている言葉とはほど遠い場合があるわけです。それを知性と呼び得るのなら、それは全くの間違いであって、その言葉の概念の組み立て方がおもしろいということが知性なのだと僕は思っております。つまり、西洋のシャレに近いものがあるんです。
さて、ハイディガーの本を読んでいると、存在・存在論・現存在と言う言葉があります。この3つは確実に違った意味を持っているのですが、我々には全く意味がわかりません。Existenz・Ontologie・Daseinという言語が当てられているのですが、これは、存在という現に知覚できるそれそのもののことをExistenzといい、ギリシャ以降西洋で語られてきた存在についての哲学をOntologie、Daseinというのはハイディガーなどが使った新しい造語なのです。しかし、数ある書物の中で彼が使っている『存在』という言葉は、知覚できる存在というよりも、『我々が知覚することによって我々自身の中に生じている世界がある』という意味に近くて、それを別の言葉で<世界=内=存在>と言うこともあります。これは我々の頭が無くなってしまったり、この地球に人間が一人もいなくなった時には、世界は存在しないという意味です。我々が知覚しその存在に気付いている世界が、我々の世界であり、例えば先日友達から聞いた話なのですが、太平洋の深海に巨大イカが存在するとしても我々はまだその存在を確実に把握していないことから、巨大イカは存在しないということになります。
Daseinという言葉は、ドイツ語の文法であり、Daは英語のthereに近い言葉です。seinは、英語のbe動詞であって時制や人称によって変化します。そういうわけですから、「それがある(存在する)」という時に、Das ist (sein動詞の変化形)da.といいます。daという言葉は、ドイツ語特有の表現で、単純に「誰かいますか?」という時は、Wer ist da?と質問することができます。これは電話口でもドアの前でも部屋の中でも場所と時間を含めた「位置」としてdaを使うことができます。そこで、Daという言葉に哲学的に我々の世界において(過去から未来、あるいは地球の裏側から自分の立っている場所まで)すべての時間と場所を含めた特殊な言葉としてDaを使っているのです。
しかし、文法的に例えば「明日、○○さんはここに来るの?」という時、ドイツ語では「明日、○○さんはここにいるの?」という言い方になります。それは、先の単純な文法と同じでただ未来形になるだけなのですが、未来形には定型後置という特殊な文法があるのです。つまり、動詞が元型に戻り一番後ろに置かれるのです。英語でいうところのbe going toという未来の助動詞はドイツ語ではwerden(三単現でwird)なので、Wird ○○ da sein?となります。元型に戻った動詞はDaと結合してしまって、Dasein(現存在)というところがこの文に至って丸裸になってようやく見えてきます。しかし、daseinはドイツ人が本当に日常的に使っている言葉で、日常的なだけにハイディガーという錬金術師にかかると不思議な哲学的な意味を帯びるに至ったわけです。
しかし、存在存在と言ったところで何がなんだかわからないのですが、我々にはとりあえず今ここで生きていて、こうしてPCのキーボードを叩いているという事実が飲み込めます。このことを存在了解といいます。とりあえず、誰もが存在了解しているわけであって、どうしてそこに○○が存在しているのかという猜疑心より以前に「真実はどうあれ、とにかく、ここに○○がある。」と了解することができる筈です。この存在了解があってはじめて我々は存在者として『存在に対する意味を問うことができる。』ということになります。この問われる存在の意味がExistenz(英語やフランス語ではExistence)というものです。まどろっこしい論法ですが、一応そんな風になっています。
ところで、我々がこの地球にこうして生きているということはもしかしたら類希な存在であるかもしれないわけでして、また、我々が脳の神経細胞の中で視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚を感じているということであれば、非常にバーチャルな世界の中に住んでいるのかもしれないわけです。そう考えると『存在』というものは、単なる神経細胞の微弱電流の流れという幻想かもしれません。が、しかし、存在の成立の在り方としてはそれでも構わないわけです。それが事実であるのならば、構わないのです。それを<世界=内=存在>という言葉で表現することができます。
さて、存在は本質に先行する、というセンテンスは実はサルトル以前までは「本質は存在に先行する」と信じられてきたのです。本質という言葉の定義は、1.物が「何」であるか?2.物の定義。3.物の観念。4.物の本性。5.物の機能。6.物の「プログラム」です。例えばPCという物の本質は、1.パーソナルコンピューターというものであり(名前であり)、2.我々の記憶や意識の延長であり、その装置であり、3.我々が記憶や理論計算の不便を感じて作り上げた観念体であり、4.生き物ではなく無機物であり機械であり、5.計算・記憶・メディア…最近では辞書にもなり…、6.それらを実行するための構造が作られている(プログラム)わけです。
我々はPCというものに対しては一昔前は『無』であり、我々は必要に応じてアイディア(観念)が創り出され、その観念に従って製造し、改良を重ね、発売し、そして今、我々の手元に『存在』しています。PCはあらかじめ我々の頭の中にあった観念体(必要性から生じたアイディア)が先行しているので、その本質(アイディア)はPCができあがって存在するよりも随分先に位置している筈です。これが本質は存在に先行するという意味です。しかし、我々が問う『存在』とは、<世界=内=存在>という人間が持つ特殊な存在なのです。つまり、人間という本質は、人間という存在に先行するということがあり得るだろうか?という話になります。
もし、人間がもっている本質=例えば、ホモ・サピエンス(考える動物)、ホモ・ファーバー(道具や火を使う動物)、ホモ・エステティクス(美的感覚をもつ動物)、またあるいは、神を信仰したり、同種を殺し合ったり…と色々とありますが、このような本質が存在というものに先行しているとしたら、我々にはこのような型があらかじめ用意されていて(いったい誰が用意したのかわかりませんが…)、その型に従って『型抜き』されているということになります。ギリシャ時代の哲学者はこのような意味で自分たちを『型抜き』の人間だと考えていました。ここで問題になるのは、その『型』を誰がいったい作るんだ?という問いです。この問いは西洋ではやはり神が作るものだ!と信じられてきましたが、サルトルより先輩にあたるニーチェは堂々と『神は死んだ。』と公言しています。神が死んでしまった理由はいろいろありますが、単純に我々は銃の前では祈りは効力を失ってしまった、あるいは政治の前で祈りの効力が失われてしまった、あるいは、テクノロジーの前で祈りの効力が失われてしまったということかもしれません。神はナンセンス(無)に帰してしまったということなのです。そうなるとあらかじめ用意された『型』というものが、何やら怪しげなものに思えてくるではありませんか?!
『型』などというものは無い!
という哲学的な難しい問題にぶち当たってしまったのがサルトルの時代です。
存在というものは、そもそもそこに「ある」ものですから、誰かが創造したものであるわけです。この世の中に無かったものが我々の目の前に『創造』されたものが存
在というものです。サルトルはここで『存在は本質に先行する。』と言いきります。なぜなら我々は一分一秒『型』などというものを持っておらず、一分一秒未来に向か
って自分の人生を『創造』しているのだ!というのです。我々人間こそ創造の主であるというわけです。
僕がサルトルを読んでひどく勇気づけられたのは、このような意味での創造の主だということでした。しかし、その『主』とうものはなかなか甘いものではありません。
創造の主は甘いものではない!
(ちなみに、この”型”と呼ばれるものは、心理学で言うところの”元型(archtype)”です。)
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