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NA-CHIN



1966年生まれ。
生まれて小学生前までは、ウルトラマンとかサスケとか色んな子供向け番組のソノシートやらEP盤がいっぱいあった。
小3ぐらいのとき、音楽の先生に授業終わりにひとり呼ばれて、「アナタは声が周りの子より低いけど、良い声しているから、自信もって大きい声で歌いなさい」と云われた。
そこで自信を持ったのか、その後はアリスとか沢田研二とか歌ってた。
中1でフォークギターを、Fが押さえられずに挫折した社長の息子から1万円で買って中2で友達にバンドに誘われ、キーボードでベースを弾いた。
中3で誰のか知らないエレキを持たされ、サイドギターを弾いた。
友達はみな才能があったのか、中学生がキンクスとかやってた。
合唱部も少しやった。男子部員が居なかったので駆り出されたらしい。
その頃、美術の時間にデザインの授業があって、その参考にするのに別の友人がビートルズのリボルバーのジャケットを持って来ていた。
その影響でビートルズに興味を持ち、冬休みに初めて自分の金でLPを買った。
ミート ザ ビートルズとリボルバー。そしてビートルズになりたいと思う。
伝記を読んでビートルズが聴いてきた音楽を聴いた。ビートルズになりたかったから。
50年代のロックンロールを聴きまくった。プレスリー、エディ コクラン、チャックベリーなどなど通販でよくある”懐かしのロックンロール”的なオムニバスに入っている曲はほぼ聞いている。
で、高1で入学祝いにYAMAHAのレスポールのコピーモデルを買ってもらう。3万円也。
最初はテレキャスターが欲しかったが、田舎ゆえ適当な値段のものはそれだけだった。
ということで、3大ギタリスト(当時)を聴く。クラプトン、ペイジ、ベックね。
コンポでレコードをかけながら、ギターアンプで音を出して、ラジカセで録音、とかしてました。
当然、その3人を遡ると大体のブルースは聴くことになる。同時にビートルズの影響を受けた人たちとか、ビートルズの時代の音楽も聴く。サイケとかグラムとかシンガーソングライター系とか。
時代は80年代。(田舎ゆえ)3、4週遅れのベストヒットUSAとか、同時代ものも並行して聴く。
日本人ミュージシャンはその頃は佐野元春とかサザンとかをバンドでやった。
高3の頃、ムーンライダーズを知る。そこからライダーズを遡ったり、下ったり。
日本のロックとかポップを聴く。
大学に入りたての頃、松尾清憲が大学でコンサートをした。しかもタダで野外。
白井良明のギターを観て、プロはスゴいと思う。ギターで飯は食えないと思う。
大学前半は宅録。パンク、ニューウェーブ、ネオアコ、日本のロック、ポップ、テクノ中心。
大学後半はバンド。時はバンドブーム前夜。ゼルダとかオリジナルをするようになる。
就職後はしばらく沈黙。せいぜい宅録。音楽的には奥田民生、椎名林檎ぐらいか。
simonからバンドに誘われ、久々のバンド活動。
その後、某弾き語りイベントに出て、その辺の人たちとライダーズ系の音楽をする。
で、今に至る。最近陽水が好き。歌詞は陽水か、面影ラッキーホールだな。

あまり聴いてない音楽はヒップホップとか今様のテクノ(電気グルーブは聴くよ)
今様のR&B(アーランビーっつうのか)、プログレ(クリムゾンは聴くよ)、
ファンク(ニューマスターサウンドは聴くよ)、メタル、90年代以降のヒットチャートもの。

やっぱ、"アーチスト"はどうかと思う。"ミュージシャン"だろ。
なんか若者の音楽の歌詞は前向き過ぎだな。安易だ。少年ジャンプみたいだ。
私が中高生の頃フュージョンを聴いてたような奴は年取ってもわかるな。
最近のアメリカのダンス系のヒットチャートのPVはAVみたいだな。
(でもビヨンセの真似をするあのコは好きだけどな)
将来は小言幸兵衛になって、小言念仏を唱えるのだ。

TOMO



TWITTER: http://twitter.com/coduemma

1973年生まれ。バンド内唯一の70年代。
他のメンバーと、いわゆる「バブル」との接し方が顕著に異なり、自分はポストバブルで良かった。

幼少期の自分の中でのヒットチャートは「泳げ!たいやきくん」「草原のマルコ」「銀河鉄道999」など。
3歳より習っていたバレエの発表会で、教室の上級生が踊っていたモーツァルトの「アイネクライネ・ナハトモジーク」。その構成の展開と、音の鮮やかさにカルチャーショックだった。
自覚のある中で、初めて親に頼んで買ってもらったLPが、この曲が入っていた代物だった。
…と、アニソンもクラシックも並列するのは、この頃から変わっていない。

母の友人が、ご主人の転勤で当時の西ドイツに移住されるに当たり、譲り受けたアップライトピアノ。
「オブジェにしておくのももったいない」とピアノを習うことになるが、音楽的関心と向上心のない母は近所のピアノを習っている中学生に小遣いを握らせ、私にバイエルを仕込むよう頼み込んでいた。
中学生講師は、4歳児相手に微妙なレッスンをするより、部活動の方が忙しく楽しく、私も独学で奏法を模索する日々が続き、約2年で中学生ピアノ講師による手ほどきを終える。
万事において『基本のキ』をおろそかになりがちなのは、この頃から既に始まっている?

ピアノはそこそこ進めるものの、ロマン派の情緒たっぷりな奏法が鼻につく。
バロックの、精緻を極めるアプローチを目指す方が性に合っていた。
12歳くらいでドビュッシーに出会う。これによりソナタを押し進めるモチベーションを急速に失う。
なんだかんだで高校を卒業するまでピアノの指導を受け続ける。

3歳上の兄に家庭のオーディオ権、チャンネル権は掌握されており音楽トレンドは常に「やや老け」路線。
ハワード・ジョーンズとスティングにイケメン性を見出す小学生だった。
当時のお気に入りは大瀧詠一の「A LONG VACATION」。
ツェッペリンを最後に実家を出た兄からの伝授は終了、以降The Beatles 、CREAM、Janis Joplin、DOORSを自ら開拓、聞き込む。
でも実は高校時代のアイドルはRED WARRIORS。そして楽曲として斎藤由貴も未だに欠かせない。
高校時代はレッズを軸に文化祭を目指したバンド活動をちょこちょこ始める。
ギターに憧れつつも、需要と供給の関係からやむなくキーボードを続ける。

大学時代は、学業等に終われ音楽活動不発時代。テンポラリーなサポートをちょいちょい。
この頃ムーンライダーズとカーネーションに出会い、現在も邦楽の根幹を成す。
同時に斉藤和義にも出会う。アイドル、恋人として現在も君臨中。

社会人になってから、いくつか前の会社のアルバイトS君と音楽の話で盛り上がり、バンド活動への思いが再燃、テレキャスターをほぼ衝動買いしてから、情報を駆使して活動の場所を見つける。
イベントきっかけに鍵盤奏者としてバンド活動復活、現在も需給の都合上、依然上達に乏しい鍵盤を弾き続ける。
でもテレキャスターを活躍させる夢は未だ諦めていない。

S君から薦められたMOTORPSYCHOが、ここ数年のマスターピース的存在。
特に選んでいる訳ではないが、北欧のバンドに掘り出し物が多い。
好きなアルバムもバンドもたくさんあって列挙しきれない。
T.A.N.S.をやるきっかけになった、バンマスの口説き文句は「SOULIVEっぽいのも云々…」だったっけ。

鍵盤を弾く立場の人間だけど、バンドは3ピースが一番カッコウいいとも思う。
あまり「シンセです!」が前面に出ているのは好きではない。
鍵盤も、オルガンとエレピの音があればいい。

1曲の中に、「どうしようもないシンプルさ」がどっかに貫かれているのが見えると、小躍りしたくなる。
こりに凝っているようで、ジョンスコなんかはお気に入り。
ニール・ヤングの泥臭さがわかるようになってきた。
Weezerの青臭さはいい。西田佐知子をじっくり聞きたい。

HAMA



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1969年生まれ。
小学生の頃は父親の影響で映画音楽のサントラばかりを聴いていた。特にマカロニ・ウェスタンを好んだ。(好きな曲はラオール「南から来た用心棒」とか)確か、一番最初に自分で買ったレコードも「マカロニ全曲集」とかだったと思う。しかし、楽器には縁がなく、中学までせいぜい音楽の時間の笛ぐらいのままの水泳少年だった。
そして、高校に入って、同じクラスでドラムをやっていたイワミ君に誘われ、何となくエレキベースを手にする。初めて買ったベースはアイバニーズ(当時はイバーニーズとか言ってたけど)の2ハムバッカーモデル。そして、リズムセクションの2人だけでなぜかひたすら練習する。どうして二人だけかはいまだにわからない。まあ、イワミ君としては先に基礎を固めたかったのかもしれない。そんなわけで流されて始めたベース。演奏する曲もイワミ君が決めており、初めてやった曲は当時流行っていた「蝋人形の館」。ひたすら二人だけで演奏していた。何で蝋人形なのかはわからないけど、あの有名なリフ(思い浮かべてごらん)は小指を多用するので基礎としてはすごく役に立った気がする。あとはベースマガジンとか読んでまあ人並みに練習はしていた。
そして高校の学園祭シーズンがくる・・・のだが、もちろん2人だけで学祭バンドが成り立つわけもなく、3年間、人前でステージに立つことはなかった。もちろん、イワミ君もいろいろ考えていて、「赤穂のイングウェイ」とか何人かのギタリストを発掘に行くのだが、その辺の詳細はまたどこかで機会があれば。
その後、東京の私大に進学。音楽サークルの「ハーモニカソサイアティ」に入る。何をするところか説明難しいのだが、ハーモニカのビッグバンドと言えば近いと思う。何でそういうとこに?たぶん、バンドを組むのはどうすればいいのかわからなかったのだと思う。そこでギターのO氏に声をかけられ、口と手でベースラインを教えられ、その場でJ・ベック「スター・サイクル」を弾く。その場にはドラムのW氏も居て、考えてみればそれがまともにメンバーがそろったバンド演奏の初体験だった。そして、そのまま「ハーモニカソサイアティ」で中山美穂からディジー・ガレスピーまで雑多な曲を伴奏するとともに、O氏W氏のいるバンドでジャズロック系のインストバンドで過ごす。この頃、フレットレスに興味を持ち、スタインバーガーのコピーモデルのフレットをペンチで抜き、跡を木工用パテで埋めたベースを弾いてみる。
社会人になって、仙台に転勤したり戻ったりしたが、その間もインストバンドは継続。並行して歌モノもやってみたく思い、アニソンのバンドも始める。なぜアニソンか?J-POPが嫌いで、アニソンの職人性と雑食性は嫌いでないから。あと、よくある「誰か特定のアーティストやジャンルのコピーバンド」が嫌いだから(あれは飽きないのだろうか?)。
その2つのバンドの活動でよく対バンしていたのがsimon氏。ある日、誘われT.A.N.S.の結成に参加。simon氏からはフレットレスやチャップマン・スティック(持っているだけで練習してない)を期待されているようだが、そういえば最近フレッテッドばかりだったので反省している。
好きなべーシストはミック・カーン、リチャード・シンクレア、ジミー・ジョンソン、諸田コウなど。

SIMON



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1968年生まれ。
父親はクラシック/ジャズファン。一般家庭にオーディオ再生機器があることが一般でなかった1960年代に給料数ヶ月分のステレオコンポーネントを購入していた。
乳幼児期はこのコンポでブラームスを聞かされていた(らしい)。
おもちゃとして子供用のドラム(でっかちゃんが使ってたようなシェル1つに小さいシンバルが1つ付いてるやつ)を買い与えられており、幼稚園に上がる前にスティックは握っていた。
ものごごろついてからも家ではFM局のジャズ番組が流れていることが多く、小学生時代は無意識に70年代マイルスを聞いていた(はず)。
小学校に上がる少し前からヤマハ音楽教室に通わせてもらい、小2からはピアノのレッスンに通い始める。が、好きにはなれず、やる気の無さを全面に出しつつ並の人が3年で到達するところを10年かけて進む。レッスンは中3で受験勉強が本格的になるまで続いた。
初めて買ったシングルは”およげたいやきくん”。ちなみにニックネームのシモンは子門真人が由来。
小学校4年生のときにYMOを知り、意識して音楽を聞き始める。
学芸会では演劇よりも合奏を選択し、大太鼓等を演奏していた。
中学校に入り、YMOの後はなぜかカシオペアなども聞く一方ガンダム、ヤマト等のアニメにどっぷりはまり、アニメのサントラを主に聞いていた。
中学校3年の頃に第二次ブリティッシュインベーション。アメリカのチャートのベスト10中8、9組がイギリスのミュージシャンという現象が起き、デュランデュラン、カルチャークラブ等が日本でも大人気。ベストヒットUSAなどビデオクリップを紹介する番組を見始めたこともあり、洋楽を聞くようになる。
中3の授業で初めてドラムセットの演奏を教わる。また、学園祭で初めてクラブ活動の発表として初めてバンドとしての演奏を行う。パートはベース。親に買ってもらったTOKAIの一番安いジャズベだった。曲は佐野元春の”ガラスのジェネレーション”であった。
高校に入ると一時的に音楽への興味はやや薄れ、部活のボクシングに打ち込むようになる。
ただ、学園祭ではバンドコンテストには毎年出演しており、一年目はRainbowの”I Surrender”を演奏。パートはベース。
2年目はボクシング部の同級生に誘われたバンドに入り、この時からドラムを演奏することになった。曲は甲斐バンドの”ポップコーンを頬張って”。なんと、このときはドラムボーカルをとったのだが、PAの問題か客席ではボーカルはほとんど聞こえていなかったらしい。
3年目は2年目のバンドにメンバーを増強し、ハウンドドッグの”フォルテシモ”を演奏。コンテストでは準優勝を獲得する。
この頃はカシオペア、スクエア等の日本のフュージョンバンドの人気が出始めた一方、LOUDNESS、VOWWOWが海外進出、海外でもハードロック、ヘビーメタルが人気であった。スクエアの”うち水にRainbow”、VOWWOWの4枚目あたり、アルカトラズの1stはなぜか聞いていた。
高校卒業後は浪人生として上京することになるが、勉強しながら聞いていたFM横浜やFM東京の番組(J-WAVEはまだ無かった)を聞くうちに、リスナーとして洗練されようという意識を持つようになる。
アナログ盤からCDへの移行が本格的になった時期で、入手困難だった過去の音源がCD化によって手に入りやすくなり、さらに円高で輸入盤の値段が下がり始めた時期でもあった。
何を聞いていいのかも分からないので、とにかく気になったものを聞いてみていた。記憶に残っている限りでこの時期に買っていたのはホール&オーツ、トッド・ラングレン、ピーター・ガブリエル、プリファブ・スプラウト、デビッド・シルビアン等。あまり一貫性が無い。
大学入学当初はバンドをやるつもりはなかったのだが、結局クラスメートでその後長期間音楽活動を共にする和木氏の誘いで音楽サークルに所属。が、軽音ではなく”アメリカ民謡研究会”というもの。
60年代ぐらいにフォークソングを軽い振り付けで踊りながら大人数で合唱する”シングアウト”というものが流行し、それを実践するサークルだったわけだが、フォークソングは廃れ、浜田省吾やらサザンやらを振り付きで大人数で歌うという意味不明な活動をするサークルとなっていた。
1つ上の学年の部員が0名という幸運に恵まれたおかげで3年生が引退した時点で好き勝手をやりはじめる。タイムリーなことに当時はソウルトレインダンスのリバイバルがあり、Zooの人気が出始めたりした時期であり、音楽とダンスの関係性を見直しつつ活動を行おうとしていたが...今考えると無理があったかと思う。
そんなわけで大学時代はドラムの他にダンスも少し齧り、独学でアルトサックスも演奏していた。
また、この頃は電子楽器の低価格化が始まっており、シーケンサーを使用してプログラムされた音と同期して演奏することも行っていた。
このサークルは部員が提案した曲を会議で選曲して演奏するという民主主義的な活動をしており、その関係で演奏する曲目は極めて雑多であった。
演奏したのは、ソフトバレエ、吉川晃司、ZABADAK、マリーン、パット・メセニー、アレサ・フランクリン、ディーライト、U2等。
大学1年〜3年はレンタルCDショップでバイトをしており、ロックに詳しい先輩に感化されてロックをよく聞いていた。この頃ロッキング・オンの購読も始める。
大学時代はライブにも行き始めるようになった。印象に残っているライブはレニー・クラビッツ(人気が出る前の2ndリリース直後で、クラブチッタのほぼ最前列で見れた)、ガンズ&ローゼス、アンビシャス・ラバーズ、プリンス、坂本龍一、デビッド・ボウイ、ホール&オーツ、ルー・リード等。
大学3年の頃、アシッドジャズ・ムーブメント起こる。たまたま見ていた深夜番組でブラン・ニュー・ヘビーズを知り、自分がやるべき音楽はこれではないかと思う。
大学卒業後はもはやバンドをやることも無いかと思っていたが、結局大学時代のサークル仲間を中心としたバンドを結成し、アシッドジャズベースのポップスをオリジナルで作曲し、演奏するようになる。このバンドは初ライブ前にL'onomtopeeと名付けられた。
L'onomatope'eはアシッドジャズ、ボサノバ、ラテン、R&B等の要素を取り込んだスタイルで8年間活動し、2001年に解散。
この時期はTalkingLoud等のアシッドジャズの他にクリムゾン、レッド・ツェッペリン等のロックも聞いていたが、会社の先輩にDJを教わったことをきっかけに、テクノ、ハウス等のクラブミュージックにも傾倒するようになる。
その過程でBoomBoomSatellites、Rovo等の電子音楽を生演奏するバンドも知り、影響を受ける。
L'onomatope'e解散後は活動時のストレスからしばらくバンドで演奏する気にはならず、パーマネントのバンド活動からは遠ざかる。
バンド解散のしばらく前からはジャムバンドというスタイルに興味を持ち始め、STS9、Lotus、Pnuma Trio、Strobo、Dachambo、Phat、Soulive、MMW、等を聞く。
バンドに所属していない間はもっぱら知り合いのライブを見に行ったり、声をかけられて企画バンドでドラムを叩いたりしていたが、知り合いのライブでは所謂ポップスのフォーマットに則った形で演奏するバンドが大半であることに違和感を感じ、既成のスタイルに対する異物となって演奏するという役割を果たせないかと考えるようになる。
かねてから対バン仲間として演奏し、機会があれば一緒に何かやろうと話していたhamaと、会社の先輩でL'onomatope'e後期にサポートとして参加してもらっていたなーちん、その奥さんのともでジャムバンドができないかと思い、2005年T.A.N.S.を結成。現在に至る。
最近はライブトロニカを中心としたジャムバンドを聞く一方、ポストロック、scholeレーベル等の音響系エレクトロニカをよく聞いている。