追悼文 中村重敞君、千木良瑠宗君を偲ぶ

 小澤普照(S32年卒) 会報 42号 平成18年度 掲載


今年の駒場キャンパスのサクラもそろそろ終わりかなと思っていたところ、同期の岡本介三君から電話があった。「今、暇だろうか」というので、電話で話をする時間があるかどうかということと解釈して「今は暇だけど」と返したところ、中村君の追悼文を頼むということであった。既に千木良君の追悼文を引き受けていることもあり、どうかと思ったが、岡本君の言によれば、彼の勤務先であった、神戸製鋼所関係からの依頼の仕事があり、時間が捻出しにくいとのことであったので、結局引き受けることになった。

中村重敞君のこと

中村君にはじめて出会ったのは、駒場寮前のソメイヨシノが正に爛漫と咲き乱れる、昭和28年4月の始めであった。そのサクラも寮の撤去と共に今は無い。北寮7番及び8番がホッケー部の居住区域であったが、小生が新潟の田舎(現上越市)から出てきて、部屋に行ったところ先輩が数名おられ、新入生にいろいろ話をされているところであった。
新入生の中で、一人背筋を伸ばして端然とした姿勢で正座をしていたのが中村君であった。自己紹介では渥美半島は田原の成章高校出身という。さらに後で知ったのは元々は三河の出で藩主とともに田原に移ったとのことである。父君も工学士で国鉄技師であった。
寡黙でサムライの風格があったが、話をすることも別に嫌いでは無かった。しかし深夜、渋谷や円山町に出歩き、朝寝坊をして授業をサボる仲間には加わらなかった。
それかあらぬか、ホッケーについては、早くから頭角を現し、二年生でレギュラー選手となり、センターフォワードのポジションで活躍し、望月主将のもと一部昇格に貢献した。三年、四年時で、レフトインナーとして定着して活躍した。手許のアルバムを繰って見たところ、平塚合宿の写真などが懐かしい。中村君とのホッケー体験としては、三年生の時、創部三十周年の記念行事が行われ、現役対OB戦で小生がセンターフォワードでレフトインナーの中村君とコンビを組むことができ、小生運良くシュートチャンスに得点でき、1対0で現役チームが勝たせていただいた。中村君に誉めてもらったのも懐かしい。昨年(平成17年)暮れの創部80周年記念祝宴間近の11月14日、奥さんの言によれば、外出準備の直後、体調の異常を訴え、その後間もなく意識が薄れ、逝去されたとのことである。80周年を共に祝えなかったのが残念であった。パーティの際、神崎元監督から、入れ替え戦直前中村君の捻挫の故障があってねとのお話しがあった。当時主将の古賀君の言では、昭和31年秋、立教との入れ替え戦を行うに際し、早稲田と練習試合中に中村君は相手キーパーと激突により負傷、入れ替え戦は出場できず、0対1で惜敗、二部に降格ということになったが、この事故なかりせば、東大ホッケーの歴史も違ったものになっていたであろうとのことである。
ホッケー以外の中村君との付き合いでは、3年生の秋、故和泉君と共に田原の中村家を訪ねた。母君の歓迎を受け、弟さん及び二人の妹さんを紹介された。お通夜の時、日本政策投資銀行総裁の小村武(元大蔵省事務次官)さんご夫妻にお会いした。夫人は上の妹さんである。かつて、小村さんから夫人が大変な兄思いでかつ尊敬の念が強いと聞かされた。兄である中村君の友人ということで、妹さんが小生を林野庁長官室に訪ねてくださったこともある。なお、小生が理事長を勤めているシンクタンクの研究検討委員として平成11年から3年間協力していただき、一緒に研究を進めた。研究成果は「目指せ環境大国への道」として、平成15年博友社から出版された。
52年余にわたる変わらぬ友情に感謝し、心からご冥福をお祈りしたい。

千木良瑠宗君のこと

平成18年2月12日、千木良瑠宗君が逝去された。
訃報は三女の万岐さんからいただいた。中村君及び千木良君と、同期の友人二人を続けて失ったことは大変残念なことであった。
ただ、千木良君については、昨年11月の毎年恒例となっている同期会開催の通知を出した際、欠席の葉書が届き、筆跡が本人のものでは無かったことから、同期の功力君が確かめてくれたところ本人が7月から入院していることが分かった。
その後、小生からも電話をしたところ、長女の緑さんと話すことができ、嫁ぎ先のカナダから短期滞在の積もりで帰国したところ、病状が進み、秋口から意識がほとんど無くなり、カナダに戻れなくなったとのことであった。
密葬は全くの近親者だけで済ませたとの連絡であったため、岡本及び功力の両君と小生の三人でお悔やみに市川に出かけた。
25年前に脳腫瘍の手術をしたことがあるが、その後は問題なく過ごして来たということで、それは我々も承知しているところである。結局ヤコブ病との診断であったようだ。
中村君が静の人とすれば、千木良君は動の人といえる。
群馬県は富岡高校出身で父君が画家ということもあり、画才があり、寮室の壁に画かれた、千木良君の絵が目に浮かぶと言うものである。入寮時から茶目っ気横溢の千木良君は人気者といえた。ホッケーの練習はそこそこやっていたが、駒場時代の彼とグラウンドで撮った写真を見ると手にスティックは無く、野球のグラブが写っている。
卒業後は、商社勤務で、体調との関係があつたと思われるが、四十歳代でサラリーマン生活を終え、教養学科時代に知り合ったという出版社勤務の奥さんと生活を楽しんでいる風情であつた。
数年前に奥さんが他界されてからは、九十九里浜のセカンドハウスでの田園型の生活を楽しんでいることは、同期会での言辞からも察せられた。
近年は尺八に凝っており、和泉君の33回忌には、新潟で尺八演奏を披露してくれた。
最近は詩作も行っており、昨年9月詩集「磯の風景」が娘さん達の手で世に出された。
一部をご紹介して千木良君の在りし日を偲んでいただきたいと思う次第である。

(磯の風景)
子供たちがみんな成人し もうだれも海辺で一緒に
遊んでくれなくなってしまった古き友に
幼き日への想いと磯の香りをおとどけいたしたく

(さざえ)
おいらはいそのがきだいしょう いつもあたまはこぶだらけ
ゆうきあるやつついてこい けんかのしかたみせてやる
おいらはいそのがんばりや よせるあらなみなんのその
かたいいしにもまけないぞ さざえのいじをみせてやる
おいらはいそのがんこもの くやしなみだをふくときは
ふたをぴったりとじておく ないてるかおをみせないぞ