1995年ジャド・フェアーが来日した時もJADANDNAO名義で90年代のキャンプファイアーソングともいえるような素朴でありながらユニークな彼の音楽の魅力を披露したYximallooこと石丸尚文氏。ほかにジャン・ルイ・コステスなどとのコラボレイトでその名を知られている彼ではあるが、その海外での評価の高さに比べて日本での評価が低過ぎはしないだろうか?今回は彼の自宅を訪問して、彼のユニークな音楽の出自の謎や、彼の音楽に対する態度などについて彼の音楽的創造のかなり核心に迫るような質問をぶつけてみた。インタヴューは6時間にも及んだが、紙面 の都合上残念ながらかなりの部分を割愛することになってしまったのだが、これをきっかけに日本でも少しでも多くの人に彼の作品を実際に聴いてもらいたい。まもなくリリースされるジャド・フェアーとのコラボレイト第二作"Half Alien"はBeckの存在を何よりも意識していたという言葉からも分かるように、前回とは違ったかなりの意気込みと更なるリスナーとのコミュニケーションの慾望が感じられるのだが…

音楽について

-ここはかなり静かでいい環境ですね。石丸さんが伊豆に住むようになった経緯を教えてください。

石丸:ここにくる前は、横浜で8畳と6畳の2間の家に住んでいたのですが、そのころには家の中が機材で一杯になってしまって、寝る場所もないような状態になっていました。あとは、毎日テープを吹き込むために大きい音を出していたら近所から「気味悪い」と苦情が来まして、大家さんは励ましていてくれてはいたんですが…当時、僕は山下達郎やティン・パン・アレイとかのプロモーターをやっていてそのとき仲間でサーフィンなんかをやってた連中が「伊豆にただで借りられるいい家があるよ」って教えてくれたので自分でいってみて気に入ったのでそこの持ち主に掛け合って借りることになったんですよ。

-こちらに来て、音が変わったりしましたか?

石丸:それはないと思います。でも、プロモーターやマネージャーといった仕事をしていたときには当時の細野春臣さんとかキャラメルママといったミュージシャンの直接的な影響がもの凄くあって、ここにきてそういったものから段々とですが逃れることができたと言うことは出来るかもしれません。ただ、東京にいつづけたとしたら街のもつ色々な音に反応してしまっていたと思うし、音以外にもさまざまなインスピレーションを受けてまたほかのサウンドをつくっていたかもしれないですね。今年の初めにその過渡期の頃の作品をまとめていたのですが、曲名を付ける段になって"海底2万海里"ネモ船長のスペルが分からなくなってしまって人に聞き回ったりしてかなりパニックになっていたんですよ(笑)。このアルバムの中の曲は、子供のころの僕にとってのヒーローだったものたちをタイトルに据えようとしていたんですよ。

-曲名はどのように決まるのですか?

石丸:僕は歌詞が書けるほうではないのですが、単語はいろいろ頭の浮かぶのでそういったものをその都度メモするようにしています。それであるとき、なにかをまとめるときに一つのコンセプトが思い浮かぶと、それにあったものをメモに残したストックから選んでゆくといったやり方でやってます。

-そういったコンセプトというものは音より先にあるものなのですか?または、それより後にくりものなのですか?

石丸:音のほうが断然先にきます。僕にとって音楽というものは音そのものであって、そこにどんな形にしろ音にメッセージを乗せる必要性は全く感じません。僕の音楽にとってうたは必要なものですが、歌詞はどうでもいいものなんです。言葉のそういった面 に興味がある人は小説家にでもなったほうがいいと思っています。

-しかし、石丸さんがその影響からなかなか抜けられなかったという細野春臣さんがいた「はっぴいえんど」なんかの場合は、松本隆さんが作詞をしていてそれがバンドのサウンドと一体となってある時代の空気を濃厚に醸していて、それが高く評価されていたという面 もあったと思いますが、その点についてはどう思いますか?

石丸:当時騒がれていたにしても、僕は松本さんの歌詞になにかを感じたということは全くありませんね。「はっぴいえんど」の歌詞だったらまだ「イーストエンド・アンド・ユリ」の歌詞のほうが面 白いですね。ばかばかしくて…(これはシャレのつもりか?)「はっぴいえんど」にしても僕にとっては大滝詠一の歌詞のほうが数倍好きですね。駄 ジャレ連発で(笑い)。歌詞といった場合、単語のもつメッセージや詩情というものにはほとんど反応しませんね。

-仮に脈々と続く日本のミュージックシーンというものがあるとすれば、石丸さんの音楽はどこらへんに位 置付けることの出来るものだと思いますか?

石丸:そういったものから、全然別の世界からやってきたものの例がボアダムスのようなバンドだと思うんですが、僕の場合また彼らが形成しているシーンとは違うところにいるような気がします。最近はそういった回りの変遷を目まぐるしすぎるように感じていて、逆に日本よりも海外の方が反応がよくて、僕のやっていることをすんなり受け取ってくれるような地についた印象を受けるんですよ。

-では、音レヴェルで聞いた場合に自分に耳が反応するのは日本の音楽が多いですか?それとも、外国の音楽が多いですか?

石丸:英語をしゃべれない小学生の頃からビートルズに憧れていたことから考えてみても、断然外国の方が多いですね。

-自分の音楽をどのようにいうことが出来ますか?

石丸:大まかなところで一般には、ロックといってますね。ジャズでもないし…ノイズもやるけど、それは僕の音楽のほんの一部の要素であって、その中にすべてが収斂 してゆくとは思えないし。強いていえば、実験音楽ということになるのかな。なんていうにかな、普通 の型にはまった音楽では物足りないというのが常にるんだけれど、あまり奇を衒ったときのいやらしさというものからは自由でいたいというのも同時にあって…僕は普通 の人が何げなく使ってしまっているフォーマットに対してはものすごく反発があって、僕の音楽はそういった部分に意識的になってしまったことの自然な結果 なのだと思います。

-石丸さんの音楽を聞いているとアナログというものへのこだわりを感じるのですが?

石丸:僕も10年前はサンプラーやMIDIといったものを実際使っていたんですよ。でもその後、最新機材というものの移り変わりがものすごる早くて、どこかで新しい音楽というものが機材メーカー主導の形でやってくるような何か倒錯したものを音楽シーン全体に感じてしまって…何か別 なやり方でも新しい音楽が作れるんだというのを示したかったのはあると思います。

-そこにあるトイピアノや子供の玩具や自作の楽器を使うのもそういったことが背景にあるからなのでしょうか。

石丸:何よりもそういったものが奏でる音が好きなんであって、テクノロジーへの反発というかたちで使っているといわれてもなにかズレる部分はあるとおもいますけど…ただ、僕はMIDIを使った場合に隣のチャンネルに入ったミディ信号が邪魔した音色になって、変わったテイクができた場合、そちらを優先して使ったりすることは多々ありますね。誰がやっても同じになってしまうというエレクトロニックがもつ特性が嫌いなんです。そういった場合、ジャド・フェアーとのコラボレイトの時にも使ったのですがアナログシンセなんかは音の設定がツマミをつかってかなり手作業というものの効果 とハプニング性というものをもっているとは思います。デジタルの出す信号の1と2の間にアナログは1.2や1.5といった具合に調節をすることが可能なんですよ。

-音楽を作る人ならば、その人なりのフォーマットや手順というものがある程度出来ていると思うのですが、石丸さんはどのように曲を作っているのですか?

石丸:昔から、工場とかで働いているときも僕は常にカセットレコーダーをポケットに忍ばせていてメロディーやリズムのきっかけが浮かんでくるとすぐに吹き込むんですよ。工場で働いていると、機械の単調な音が背景にあって作業も単純労働で頭の中が真っ白になってナチュラルハイみたいな状態になって、そんなときにスコーンと抜けるように頭の中に音が浮かぶ瞬間が多くありましたね。

-工場なりほかの場所で頭の中に音が生まれるとき、それはそのときの廻りの状況から生まれたものだということがせきるでしょうか?

石丸:それがあるときもあります。当時はクラフトワークやYMOの時代であって、僕はそうした音に身近な生々しさを感じつつ、自分の工場の機械音を聴いてシンセの音よりもカッコいいなとか思ったこともありましたし。まぁ、僕の場合そういったこともあって、サンフランシスコのロボットアーチストのマーク・ポーリンの「ロボット戦争」といったようなショーになによりも完成された音楽を感じていました。

-では石丸さんにとって《音》と《音楽》の分岐点はどこにあるのでしょうか?

石丸:極端な話(机をコンと叩いて)これだって音楽になりうると思います。ほとんどの人は認めないだろうけど、何かを自分がそこに感じれば一音だろうと音楽だと思います。

-なにかしら音を出して、それを音楽だと感じたとき、そのときあるのは何か前以て自分の内に漠然としたイメージがあってそれに近づいたとかそこに触れたとかいう感覚なのでしょうか?

石丸:そういう時もありますし、逆に作っているときに思ってもいなかったようなイメージがあらわれてそこに吸い込まれてゆくようなこともあります。

-どんな音でも音楽になりうるというのであれば、町の音や川や虫の声といった自然の音を並べただけでもそれが音楽になってそれを石丸さんの作品として発表することもありうるのでしょうか?

石丸:前にそういったミュージック・コンクレート的な手法で録音したものをテープに編集したことがありました。それは単に自分のコレクションとしてもっているだけで、それを自分の作品として発表しようとは思いませんね。

-ということは石丸さんにとってはミュージシャンが音作りにおいて、ある音に感応する主体が自分の身体的な動作を介在させて初めて《音楽》ということでしょうか?

石丸:そういうことになるんですかね。

-かなり前からクラブミュージックというものが取り沙汰されているように音楽にはきく音楽と踊る音楽という図式が出来ているように思えるのですがそのことについてはどう思いますか?

石丸:そういうのもあるようですね。リズムの可能性の追求ということでは今のテクノミュージックに対する関心はありますが、音楽は単純に《体》のものだと言い切っちゃうのには抵抗がありますね。そういった見方からすれば僕の音楽はどちらかといえば《頭》に近いということになってしまいますね。でも、僕の音楽は出来るだけ大きなヴォリュームで聴いてほしいというのはあります。

-でも(バックに流れている"Yximalloo Live"をさして)この曲なんかは、ダンスミュージックというか、聴いていると体が動いてしまいますよ。ポップグループを連想させます。

石丸:これは1981年に録音したものでついこの間CDとしてリリースしたものです。ポップグループは当時少し意識はしていたけど僕は彼らの存在を何よりもカッコイイと思っていてサウンド自体はジャズの要素を強く感じてしまって全面 的には好きではありませんでした。でもこれは当時、テープの段階でアメリカのラフトレードがアメリカ国内のレコードショップへのディストリビュートをしてくれたんですよ。

-この音を聴いていると黒人音楽の要素を感じますが、特に好きなアーチストはいますか?

石丸:特にいないんですが、ドン・チェリーは好きですね。オーネット・コールマンは京劇の仮面 みたいなジャケットのやつを聴いていたのですがピンと来ませんでした。僕がアメリカに滞在している間、ドン・チェリー夫妻の家のパーティーに連れていってもらったことがあって、そのとき彼と話したのですがかなり凄いオーラを感じましたね。シミーディスクのコンピレーションのも参加していたりして彼のそういった交遊とか音に対する姿勢に自由さといったものも共感するものがあります。

-話は変わりますが、石丸さんは音楽は一日にうちのどの時間帯に聴くものだと思いますか?

石丸:時間帯という意識は余りないのですが、季節というものには僕は反応します。僕の音楽は絶対に夏のものだと思います。よく夏にレコードをプレスしても雑誌の反応はどうしても3ヶ月くらい遅れてきますので、いつも残念に思います。

ジャド・フェアーとの次回コラボレイト作"Half Alien"について

-今度リリースされるジャド・フェアーとのコラボレイションはどれくらいの日数をかけてレコーディングされたのですか?

石丸:ジャドが公演のために来日した去年の6月の終わりから8月の初めまで一ヶ月以上かかりました。彼とハーフジャパニーズのメンバーが僕の家に寝泊まりしてレコーディングをしました。前回のアルバム"Half Robot"のときは僕がアメリカにいって、メリーランドの彼の所で彼の家族にお世話になる形でレコーディングしたので、今回はその逆なんです。僕が渡米したとき、彼の奥さんはアメリカ人とは思えないようなおいしい手料理を作ってくれていたのですが、今回の彼は日本ではひたすらヤオハンの230円のピザを食べコカコーラばかり飲んでいました(笑)。

-レコーディングはどのように進んだのですか?

石丸:約半分の曲に関しては先程話した自分のアイディアが詰まったテープをジャドに聴かせて、2人でイメージを詰めていって仕上げました。後の半分は(ハーフジャパニーズの)フランス人ドラマーのジルが叩いたリズムにジャドが歌詞を乗せて僕が音を乗せてゆくといった感じで作りました。一日5曲ぐらい作って優に2枚分は越えるくらいの曲を作りました。使うかどうか分かりませんがヒップホップに挑戦した曲もあります。

-前回の"Half Robot"では、シミーディスクのクラックハウスのサウンドを念頭においてレコーディングしたそうですが、今回のレコーディングのときに意識したミュージシャンはいましたか?

石丸:あのころは僕もジャドもベックの存在をかなり意識していました。特にジャドはソニック・ユースの前座や(ダブ・ナーコティック・サウンド・システムの)カルヴィン・ジョンソンのKレーベルといった所での個人的な交流を通 して、彼の存在をかなり気にしていたようです。でも、意識するといってもサウンドを真似るとかいったことではなく、その人の音楽に対する姿勢やそこに漂うオーラのようなものに反応しているのだと思います。

-去年レコーディングが終わった次回作"Half Alien"のリリースが大幅に遅れていますよね。それはどうしてですか?

石丸:まず一番の原因は、録音したトラックに、注意しないと聞き取れないくらいのものですがノイズが入ってしまって、ジャドがそれをすごく気にしているんですよ。あと彼が絶対的な信用をおいているジェイソンというボルチモアに住んでるエンジニアがいて、彼と上手く連絡を取って詰めた話ができないことなどがあると思います。

-その作品は海外ではどこのレーベルからリリースされるのですか?

石丸:それに関してはジャドもかなり苦労しているようです。当のハーフジャパニーズのレコードをリリースしてくれるレーベルを探しているくらいですから。僕たちの場合、海外での権利はすべてジャドに任せているんですよ。彼のプライドが高い分、僕としてはそれこそデュオフォニックにでもプロモーションしてあげてもいいのですがノイズがはいった状態でデモテープをいろいろ送ったりすることは気が引けてしまいますね。あとどの曲をリリースするのかという話をまだジャドと詰めていませんし。僕としては、曲を厳選して一枚に収めたいのですが、ジャドは2枚組にしてリリースしたいと思っているようです。あと、日本の場合メジャーレーベルのメルダックからオファーがあったのですが予算が30万円しか降りないということでデメリットのほうが、多くなってしまうようだったので自分で運営している桜れコーずからリリースすることになると思います。

-ジャド・フェアーは石丸さんのサウンドのどういった所が好きだといっていますか?

石丸:直接そういった話をすることはありませんね。でも、2人で作っていると彼のミックスのときの力の入れ方でその曲を気に入っているかどうか、うすうす分かりますね。去年のツアーのときプレイする曲を一緒に選んだのですが、彼は単純なやつというか、子供でも歌えるようなメロディーをもつキャンプファイアーソングみたいな曲を気に入っているようでした。

今後の展望

-今後の活動を教えてください。

石丸:まず、去年録音したジャド・フェアーとのコラボレイト作"Half Alien"を少なくとも来年の春くらいまでに出したいと思っています。それから、僕自身の方はこの10数年間に40本あまりのテープを作って発表したのですが、それをミックスし直して曲を厳選してCDのまとめる作業をしています。これは、既に何枚かをCDとして桜れコーずからリリースしたのですが、残りの音源もこれから一年半を目安にまとめてゆきたいと思っているんです。そういうのもあって、いまは仕事との兼ね合いもあってライブ活動をする予定はありません。とりあえず、僕の場合ひとつの音源だけを取り出してカテゴライズされてしまうことがあまりにも多くて…そういった意味でも僕は単なる"ノイズの石丸"でも"ローファイの石丸"でも"テクノの石丸"でもないというのを知ってほしくて今までの自分の活動をまとめる作業をしています。

-そしてそのあとは?

石丸:とりあえず、そこで今までの活動に区切りをつけてまた一からやり始めるつもりです。そのときにならないとどうなるか分かりません。おそらく、日本で活動を続ける可能性は低いと思います。いまは(こちらで用意したdrum'n'bassのアーチストPHOTEKの"Hidden Camera"12inch盤を取り上げ)こういったような打ち込みでリズムの可能性を追求したものに興味があります。PHOTEKは(先程聴いた)アレックス・エンパイアーやマウス・オン・マースなんかよりは気に入りましたが、僕だったらもっとおもしろいことができる自信がありますね。まぁでも、自分の今までの活動をまとめる作業で手一杯でそれから先のことは想像もつきません。それこそミュージシャンのYximalloomo果 たしてそのときにいるかどうか分かりませんしね。-D'artie Yossey-

 

“自主制作盤”登場回数No.1! 遊び心を持った奔放不羈の人   
イシマルー。2、3年前まで、膨大な数のカセット作品を本誌“自主制作盤”欄宛に次々と送り続け、私を含めて歴代担当者を困惑させることもあった。それは、40本に及ぶ怒濤のリリース量 もさることながら、型にはまらぬユニークな音楽性のなせる業だったと思う。ジャド・フェアとの共作を含みCDは5枚発表し、いまだ精力的な活動を続けているイシマルーこと、静岡在住の40歳石丸尚文に話を聞いてみた。

 まず略歴を紹介すると、生まれは本人曰く“九州の片田舎”。上京して75年頃にシュガーベイブ、キャラメル・ママのマネージメント事務所に入ったことから、音楽シーンへの関わりがスタートする。しかし、ミュージシャンを目指していたゆえ、1年で退職。81年から六本木のディスコや青山のカフェバーで演奏開始。その頃のライブを編集したテープをアメリカのラフトレードに送ったことにより、83年に海外で配給される。その後、87年にセカンド・カセットをジャド・フェアに送ってから彼とのコンタクトが始まる。  

 実のところ、70年代にも音楽活動はやっていて、当時のテイクがいくつかのカセットに収められている。        
「あのときはフォークをやってて、山下達郎さんあたりの初めてのツアーなんかで、弾き語りをさせていただいたんですけど、シド・バレット風のものとか、キャプテン・ビーフハートの“ミラーマン”風のものをフォークでやったりとか、そのころからひねくれていたところがあったみたいです。活動当初、かなり民俗音楽に惹かれていたと思うんです。でも、バンドからの触発はそんなになかったですね。ビートルズも大好きですし、細野春臣さんを尊敬してますけど。パンクの方にいったきっかけは、やっぱりジャド・フェアでしたね」

 80年代に入りイシマルーとして活動を開始するが、そもそもイシマルーとは何か?                  
「イシマルーは私のソロ・プロジェクト名でもあり、バンドでやるときの名前にも使わせてもらっているんです。私、民俗音楽から入ったので、バンドに必ずエレキギター、ドラムが入ってなくてはいけないとかいう、束縛された形からは音楽はできないなと思っていたところがあったんです。ですから、あるときは私一人でやるし、あるときはドラムなしでやるしで、変則的なものがいちばん好ましいと思ったんで。みんなでスタジオ代払って、重い楽器を運んで、食うものも食わずにツアーを続けていくとかというものもバンドの一面 でしょうし、そういった人はちからみれば、家の中でコツコツと音楽をつくっているのは甘ったれたオタク族でしかないでしょうけれども、やはりそれもひとつの音楽の表れだと思っていただきたいところがあるのです」

 実に多彩な音が繰りだされるイシマルーの音楽は、どうやってつくられているのか。聴くたびに私は悩まされるのだが、彼の作品には使用楽器のクレジットがほとんど記されていないのがポイントだった。                     
「いまでこそロー・ファイって言葉が出てきたんですけど、当時私はミュージシャンと言えないのかなと疑うぐらい、本当にチープなもので。手作りのものとか。とにかく音に興味があったんですね。いつでもマイクロ・テープ・レコーダーを持ち歩きながら、録音していたんです。あと“この音いいよなあ”と一人でつぶやきながら、そこらのガラクタを拾ってきたりとかしていました」  

 音色の面白さもさることながら、リズムにしても単一のビートにはなっていないのである。               
「ビートにはすごく関心がありますけれど、今のテクノとかは“公式音楽”って感じがするんです。ヘヴィ・メタルじゃないですけど、ここらへんでキメが入るとか、ここらへんにフレーズが入るとかの“公式”でできあがっている感じがしますし。お金さえ出せばコンピューターの楽器とか手に入るようになって、どんな人でもボタンさえ押せばある程度音楽ができる今の時代に一番重要なのは、人間に残された工夫する遊びの心だと思います」   

 イシマルーの音楽はユーモラスな調子で響きわたり、しかもけっこうポップなので、耳にやさしい。まあ、奇想天外な展開もあるけれど、人と違うこよをやることが目的で、実は中身がカラッポ〜って人(←単なる目立ちたがり屋)とは次元が違うと思うのであう。           「82年前後につくったやつを、最近リリースしているところですけど。いま録音するとしたら、かなりノイズを気にしながらの録音をすると思います。ですから当時も、わざと面 白半分にノイズを入れたりとか、わざと“ロー・ファイ”を目指そうとかしてませんし。ハイ・ファイの努力をしてますけど」

 実のところここ数年リリースされている作品は、ほとんどが80年代前半の録音である。次々に創作意欲が湧いていたことなどから、とにかく録音しまくることに明け暮れ、発表の余裕がなかったようだ。また、パンクなどのバンドによる音楽がほとんどだった当時のインディ界で、ほぼ一人でやってきているイシマルーの居場所はなかったようである。イシマルーは87、88、90年に海外でツアーをしている。そのうちの90年には、イシマルーのほぼすべての作品のジャケットを描いているアメリカのジャド・フェアとCD『ハーフロボット』を制作し、92年に発表されている。ジャド・フェアはハーフ・ジャパニーズというグループを中心にキテレツなプレイでロー・ファイ云々で昨今とみに注目されている人だ。              
「ジャド・フェアとのCDを作ったときに、最初に思いついたのが“ハーフ・アメリカン”というタイトルだったんですけども。そうしなかったのは、環境破壊にしても地球規模になっていると思ったので、“ハーフ・ロボット”またいな生き方でゆこうという気持ちでいたからですけど。“私は日本人、あなたはアメリカ人”という捉え方はなるべくやめたいなと思っています」  

 イシマルーの作品を聴いていると、日本の世情を風刺する作風も私には感じられるのだが…。              
「日本が嫌いなだけじゃなくて、アメリカも嫌いですし、ヨーロッパも嫌いなのがありますし。私のなかに、反社会的なものがすごくあるんです。社会のなかにとけこめないから、いまだに定職ももたないんでしょうけども。すべての常識にすぐ歯向っちゃう、凝っちゃうところが私自信の核のなかにあるんですよ。私はロックのイシマルーではないですけども、すべての常識に歯向うスピリットそのものが60年代のロックだったんじゃないかなと、いまでも思ってますけど。」  

 ところで、静岡に居を構えたのはイシマルーとして本格的に動きだした頃のことである。                
「アパートだと隣のノイズが聞こえてくるし、隣に自分の歌声が聞こえていると思うと思い切ってできなかったんですよね。家賃も高いですし。おまけに音楽に限らず色々な分野のすぐれた人たちって、東京から離れて遠くにいてのんびり世界を見ているんだなあとみえてきたんで、生意気に物真似をしまして(笑)」-Music Magazine 1995 4月号 行川 和彦-

 

持ち曲900曲、転職60回                    
先月号のインディーレビュー欄で紹介したJAD AND NAOの『HALF ROBOT』というアルバム。アコースティック感覚をベースにしながらも、極めつけの変態サウンドソング集となっている(なんせ75曲入り)。カン高くて柔らかい、赤ちゃんかエイリアンと思わせるようなボーカル・ナンバーがあったかと思うと、骨の随からトロケそうなグニョグニョ・ギターやシンセ音が流れたり、日本の童謡が不思議な日本語でカヴァーされてたりと、このアルバムを何かの映画タイトルとするなら「SF精神病院でひっくり返ったオモチャ箱の中はリゾート地」といった感じ。                             
『HALF ROBOT』はアメリカでハーフ・ジャパニーズというユニットやソロとして活動している“USアンダーグラウンドの鬼才”と称されるジャド・フェアと日本でサクラレコードというレーベルを主宰し、“イシマルー”というプロジェクトで活動しているイシマル・ナオフミ=NAOとのコラボレーション作だ。このNAO氏、やはりジャドに負けず劣らずの音楽変人で、持ち曲900曲、発表作カセット30本以上という人。いったいどういう経歴を歩んでどういう頭の中をしているんだろうと、転職60回のキャリアもあるNAO氏を直撃してみた。

「もう37なんですけどね、17ぐらいからやってて…。僕は九州の佐賀県生まれなんですけれども、その頃は“コカコーラフォークジャンボリー”とかそういう時代でして(笑)、僕もマセてたんで、ウクレレとかギターから始めたんですけれども、17ぐらいからそういうのの長崎大会とかにどんどん参加してたりしてて、その頃知り合った方が東京で当時“風都市”というティンパンアレイ系統なんですけど(事務所を)やられてて、大滝詠一さんとかハッピーエンドを主にやってたところなんです。そこでシュガーベイブとか荒井由実とか、そういった方々のコンサートを手伝うことから始めて、で、ティンパンアレイで南佳孝のマネージャーをやって、この業界に足を突っ込んだんですけれど。」                        
「最初はフォークだったんですけど、やっぱりYMOで感化されましたね。当時は師匠と仰いでた細野春臣さんがああいう感じにいったりして、だから時代なんだなぁと思って。ユーミンが今みたいになるなんて、好き嫌いは別 としても…。(山下)達郎があんなにマーケットを取るとは当時、本人も願望とそては持ってても誰一人…。そんな日本になってしまいましたね。」  
「フォークからいきなりYMOへ、というとブッ飛んだ話になってしまうんですけれども、そもそもは小学校時代からテレビ番組とかでかかる民族音楽がとても好きだったんですよ。“NHKドキュメンタリー”とか“兼高かおる世界の旅”とか。ああいったのでかかる音楽が物凄く好きで。土人の歌とかリズムとか。9歳の頃から修学旅行で“ヘルプ”とか歌ってたような子だったんですけど、ビートルズとかローリング・ストーンズとかより前にそういった民族音楽から僕は入っちゃったんですよね。“ジリオラ・チンクエッティ”の曲をイタリア語で小学校4年生の時に暗記したりとか。」                   
「(YMOに衝撃を受ける前は)ティラノザラウルス・レックスとかタジ・マハールも好きでしたし、ちょっと変わったフォークみたいなものが好きでした。なんかひねくれてるんでしょうかね、心の底が。ヘンテコさを求めてた所がそもそもあったみたいですね。」                                   

 今回のコラボレーション作は、海外でもリリースされ、そのリリース元はアメリカのラルフといって、昔はレジデンツという鬼太郎のオヤジに酷似した目玉 仮面を全員がスッポリ被った正体不明だけれども現代音楽などというおカタくてアカデミックな世界にも衝撃を放ったグループのリリース元としても知られる老舗レーベルだ。                    
「ジャド・フェアと僕は87年からコンタクトを始めたんですけれども、ラルフって2人の人間がやってる小さい会社なんですけれど、ティモニーっていう男の人とシーナっていうフィリピーナでイタリアンのアメリカンの、ずいぶん混じってますが(笑)女の人との2人で彼らの間にはサイモンという男の子がいたんですけど、離婚して89年にジャドがシーナと結婚しちゃったんですよ。つまりジャドはサイモンのステップ・ファーザーとなったんですね。向こうはそれが多いんですよ。僕が気になったのは、離婚のことではなくて彼の手紙の住所が変わっていたんで………」

 NAO氏の話は非常に微に入り細にわたるのだが、その音楽のように詳しいまま話がどんどん変型していく。つまりは、ジャドがラルフの運営に関わる女性と結婚したことがNAO氏をラルフに結びつけたというわけだ。他にも『HALF ROBOT』は制作完了からリリースまでに2年のブランクがあったが、それは湾岸戦争見物のためにイスラエルに遊びに行ってて、その話からイスラエルの“美空ひばり”ともいえる大女性歌手の世話になった話へと移り、さらには日本の音楽シーンと海外のそれとの比較から自分が世界を目指す意気込みへと移り、しまいにはどうして自分の音楽が日本のヒットチャートに入らないのか不思議だと語り、そう言った途端にいや、やっぱり無理ですよね、だからそういうことを考えると眠れなくなるんです、などと言う。この文をそのまま受け取られるとまるでサイコにコワイ人のようだが、語り口は沈着冷静で、話の流れは別 にして、語られた内容そのものは理路整然として思えた。                                          
「いわゆるバンドというものに凄く疑問を持っていたんですよね。昔から。人間はホントに個人なんじゃないかな、死ぬ 時は別、みたいな感じが人よりも極端にあったみたいで。おまけに人と演奏するのは、僕は楽器はヘタなんでその必要性があるんですけれども、でも僕はバンドとしての結束とかそういうのは最初から諦めてたんで。同じことは絶対したくありませんし。」-Fool's Mate #137 石井 孝浩-

<review><back><home>